1.はじめに
日本では,小学校から高校までに「平塚らいてう」を 学ばない子どもたちがいないほどである.「平塚らいて うは,男性より低くおさえられていた地位の向上を目ざ す 運 動 を 始 め ま し た 」( 教 育 出 版『 小 学 社 会 6 上 』, 2019 年版)という記述が中学校・高校の教科書にも貫 かれている*1. 一方,韓国の場合は,初等学校(小学校にあたる)か ら高校に至るまでらいてうについて記述された教科書は ない.その韓国で,2018 年 1 月に昌 原 地方検察庁統 営市庁所属の徐志 賢 検事が 8 年前に法務部幹部から受 けたセクハラ事件を告発し,女性運動団体や人権団体も 各地方検察庁前で一斉に記者会見を行って真相糾明を求 めた.これを契機に #MeToo 運動が広がった.その後実践報告
韓国高麗大生は平塚らいてうの思想と行動をどう考えたか
三 橋 広 夫
元日本福祉大学 子ども発達学部教員
How did Korean University Students think about
Raicho Hiratsuka’s Thought and Action
Hiroo MITSUHASHI
Formerly Faculty of Child Development, Nihon Fukushi University
Keywords:平塚らいてう,青鞜,母性保護論争,思想の転換,平和主義,#MeToo 運動 要旨 「元始,女性は太陽であった」を書いた平塚らいてうは,日本のフェミニズム運動に邁進していった.当時の戸籍制度に 囚われることもなく,女性の権利拡張をめざした.また,母性主義をめぐって与謝野晶子や山川菊栄らと論争をくり広げた. 日中戦争,アジア太平洋戦争期には軍部に協力したらいてうだったが,戦後は平和運動に一身を捧げたと言っても過言で はない.そうしたらいてうが一貫して追及したものは何か,#MeToo 運動が盛んな韓国高麗大生とともに考えた. 『青鞜』創刊のころ,1911 年(らいてう研究会編『わたくしは 永遠に失望しない─写真集平塚らいてう人と生涯』ドメス出版, 2011 年,14 ページ).
らいてうは自らを「新しい女」と宣言し,良妻賢母主 義を批判していった.妻には財産権が認められず,女性 にだけ姦通罪が適用されるのは不公平だというのであ る*6.婦人問題を取り上げるようになった『青鞜』は, 福田英子の「婦人問題の解決」を掲載することで発禁処 分を受けた(1913 年).「安寧秩序を害した」というの である.英子は,すでに『世界婦人』という雑誌を創刊 し(1907 年),幸徳秋水らの寄稿をえていた.日本中を 震撼させた大逆事件からわずかしか経っていなかった時 節のことであった. こうしたとき,恋愛の末,奥村博史との共同生活に 入った(1913 年).画家志望の奥村は経済力が乏しかっ た た め 生 活 は 苦 し く,52 冊 を 発 行 し た『 青 鞜 』 は, 1916 年に無期停刊となった.延べ 160 人が作品を寄せ, そのうち 90 人ほどが女性だった. も,各界の著名人,文在寅政権の与党も含む政治家への 告発も続いた*2. こうした,韓国社会に生きている大学生が日本のフェ ミニズムの先駆者ともいうべきらいてうの思想と行動を どのようにとらえるか,知りたかった.韓国学生の意識 は私自身のらいてう像との格闘を促し,さらには,私た ちの韓国社会理解を豊かにするものとなると考えたから である. 女性が抱えていた多くの問題の解決に取り組んだらい てう(本名明,1886 ∼ 1971 年)は,伝統的女性像や 家庭像から自己を解放しようと『青鞜』で思いのたけを 述べた.恋愛の末,母となると母性主義に共感し,母子 保護実現のために女性参政権の獲得をめざすようにな る.その後,運動の第一線から離れるも,日中戦争,ア ジア太平洋戦争期には軍部に協力していった.さらに, 戦後のらいてうは世界平和を求める運動に邁進した. このように,大きく転換しながらも,らいてうが一貫 して追及したものは何か,高麗大生に考えてもらいたい と思い,この授業を構想した.
2.授業の実際
以下,授業*3に沿ってその内容を紹介し,学生の意見 を紹介してみたい.学生に配布したのは,資料 1 ∼ 8 と略年譜(本稿では省略)である. (1)『青鞜』時代の平塚らいてう(1910 年代) 1911 年 9 月 1 日,雑誌『青鞜』が創刊された*4.そ の創刊の辞を飾ったのが「元始,女性は太陽であった」 である*5. 『青鞜』創刊号,1911 年 9 月 〈資料 1〉 元始,女性は実に太陽であった.真正の人であつ た. 今,女性は月である.他に依つて生き,他の光に よつて輝く病人のような蒼白い顔の月である. 私どもは隠されてしまつた我が太陽を今や取戻さ ねばならぬ.…… 「女性の心情は表面なり,浅き水に浮かぶ軽佻浮藻 の泡沫なり.されど男性の心情は深し,その水は地 中の凹窩を疾走す」とツアラトゥストラは言った. 久しく家事に従事すべくきめ付けられていた女性は かくてその精神の集注力を全く鈍らしてしまった. 家事は注意の分配と不得要領によってできる. 注意の集注に,潜める天才を発現するに不適当の 境遇なるが故に私は,家事一切の煩瑣を厭う.(「元 始女性は太陽であった─『青鞜』発刊に際して─」, 小林登美枝・米田佐代子編『平塚らいてう評論集』 岩波文庫,1987 年,13 ∼ 14 ページ) 〈資料 2〉 新しい女はもはやしいたげられたる旧い女の歩ん だ道を黙々として,はた唯々として歩むに堪えない. /新しい女は男の利己心のために無智にされ,奴隸 にされ,肉塊にされた如き女の生活に満足しない. /新しい女は男の便宜のために造られた旧き道徳, 法律を破壊しようと願っている.(「新しい女」,同前, 41 ∼ 42 ページ)家父長制時代での賢母良妻主義に反対し,「女性を内 助と育児の道具としか考えていなかった」時代に,直接 抵抗したことに賛意を表している.中でもキム・ソジン は「行動する,真の知識人」と言い切っている.一方, 「女性として自分の権利をきっと主張できなかった」と 感じたピョン・チャノはらいてうの勇気と主張に感動 し,共感している. (2)母性保護論争と新婦人協会(1920 年代) 与謝野晶子が「紫影録」(『婦人公論』1918 年 3 月号) で,らいてうの母性保護の主張は男性に寄食するような ものだと女性の経済的自立を強く主張したことから,い わゆる「母性保護論争」が始まり,後に山川菊栄が加 わって論争がくり広げられた*7 .特に菊栄が「与謝野晶 子氏に与う」で「平等は絶対です,これに善悪の差別の 附し得られようはありません.平等を善とするか悪とす るかは別として,平等が絶対唯一のものである以上,こ れに善平等悪平等等の差別はありえません.もし貴方が 人間の個人性を無視した画一と器械化とを指して悪平等 とお呼びになるのであったなら,それは貴方の謳歌なさ る資本家制度のことで,私ども社会主義者の主張する平 ここで,〈資料 1〉と〈資料 2〉を読ませ,らいてう の思想(行動)についてどう思うか,書かせた.以下, 学生の名前はすべて仮名である. ○当時(1910 年代)としてはかなり破格的な主張を したと思う.女性は家父長制の下で長い間副次的な 存在とされてきた.たとえ,その論理的な基盤が自 然主義的な起源論に基づいているとしても,家事労 働の拒否,旧態依然たる「男性の便宜のために造ら れた旧き道徳,法律を破壊」,すなわち家父長制の破 壊と見られる主張をするのを見ると,かなり先駆的 だと思った.(イ・サン,1 年) ○平塚らいてうは日本のフェミニストとして革新的 な女性主義思想を持ちつつ,女性の権益保護と権利 実現のために積極的に行動した社会運動家だった. らいてうは,男性は陽の気運を持った人,女性は 陰の気運を持った人という既存の通念に反旗を翻し て,「女性も元始は太陽であ」り,女性も太陽のよう に積極的に自身の役割を遂行できる存在であるにも かかわらず,今は月のように萎縮した,他人の光を 通じてしか輝くことができない受動的な人生を過ご していると主張した. らいてうは,女性がこれ以上黙々と言われるがま ま道を歩いていく人生を生きてはいけないと主張し た.彼女は今まで女性が受動的な生活を送るほかな かった理由を「男性の利己心」に求め,法律もやは り男性の便宜によって制定されたものであるから「男 性」と「男性の既得権維持に寄与する社会制度(法)」 に抵抗しなければならないという積極的な立場を表 した. らいてうは,20 世紀初めの保守的な日本社会で生 きていく女性の抑圧的状況を直視し,このような抑 圧的状況を正当化させる法律や制度,社会的通念に 疑問を提起したのである.社会問題に疑問を提起す るだけでなく,直接抵抗したという点で「卑怯な, 口先だけの知識人」ではなく「行動する,真の知識 人」だったと思う.(キム・ソジン,3 年) ○平塚らいてうは 1900 年代初期の女性が自身の主体 性と自我を失い,受動的に男性に依存して家事を提 供することで生きていくほかない姿には批判的な立 場だ.女性は旧習によって社会的に学習された無気 力の中で徹底して受動的な存在としてとめ置かれて いるというのだ.そのため女性の解放のためには旧 習を打破することはもちろん,女性の主体性に対す る自覚が必要であることを力説した.(イ・ジョンワ ン,4 年) ○女性人権運動者として,大学で日本で伝統的な考 えだった「賢母良妻」に反対して『青鞜』という雑 誌を発刊して自身の意見を表明しようと努力した点 に驚いた.単純に「新女性」が女権伸張のために先 頭に立つ人間とだけ考えていた私にとって,当時の 日本で新女性が他の女性とは違うおかしな存在と見 なされた存在だったという話は新鮮でした.特に, 家父長的で男性中心の社会において女性が自身の権 利を要求するには当時の男性が経済圏をしっかりと 掌握していたので,現代のように女性が働くことが 認められた状況に生きる私は,女性として自分の権 利をきっと主張できなかったと思います.時代を越 えて女性を内助と育児の道具としか考えていなかっ た当代の風潮に反発して,堂々と自身の主張をした 彼女の勇気と主張にとても励まされました.(ピョン・ チャノ,4 年)
らいてうは家庭を守ることが自分の役割だとして運動 から離れた.しかし,1923 年の関東大震災後の不景気 を目の当たりにして発言している.職場での女性の疲弊 が家庭に悪影響を及ぼすため,女性と労働者(男性)の 利害は共通しているとして,婦選運動家は男子普選の実 現を機に無産政党と協力すべきだと訴えた*11. ここでは,〈資料 3〉と〈資料 4〉から,母性保護論 争と新婦人協会の設立についての考えを書かせた. 等とは別ものです」*8 と論じることで論争は終息に向か う.この論争における職業による女性の経済的自立と母 親であることの重要さ(母性)の強調は,この時代だけ でなくすぐれて現代的な問題でもある*9.ただし,二人 の主張を際だたせるために,授業ではらいてうと晶子の 主張のみを取り上げ,菊栄の主張は割愛した. 第一次世界大戦の総力戦の経験は,欧米諸国に民主主 義の高揚や女性の権利拡張をもたらした.さらに,悲惨 な戦争の再発を防ぐためには,過度の社会不安をもたら すような劣悪な労働環境の改善を国際的に進めるべきだ という考えが広まり,国際労働機関(ILO)が設立され, その第一回総会で「1919 年の母性保護条約」も締結さ れた. その後,らいてうは市川房枝らと新婦人協会*10 を設 立し,婦選運動を展開した.具体的には治安警察法第 5 条の改正である.いったんは実を結ぶかに見えた政治集 会への女性の参加禁止事項の改正も貴族院で否決され頓 挫した.さらに,社会主義者たちはこうした運動を議会 主義として批判を強めた. 〈資料 3〉 与謝野晶子 平塚らいてう 母子扶助 私は欧米の婦人運動に由つて唱へられる,妊娠分娩 等の時期にある婦人が国家に向つて経済上の特殊な保 護を要求しようと云ふ主張に賛成しかねます.既に生 殖的奉仕に由つて婦人が男子に寄食することを奴隷道 徳であるとする私達は,同一の理由から国家に寄食す ることをも辞さなければなりません.婦人は如何なる 場合にも依頼主義を採つてはならないと思ひます. (「女子の徹底した独立<紫影録(抄)>」,『婦人公論』 1918 年 3 月号) 母性を保護すると,しないとでは,直接保護される 母や,母を通じて保護される子供の幸福ばかりでなく 国家の利害に大関係のあることですから,国家の立場 としても行ふべき必要な政策なので,決して慈善救済 の事業ではありません.(「母性保護論争に就いて再び 与謝野晶子氏に寄す」,『婦人公論』1918 年 7 月号) 母性観 平塚さんは母性を絶対に尊重して居られることが解 ります.私は人間の生活の最上の価値を父たり母たる ことにへんい偏衣させて考へることを欲しません.私 が賢母良妻主義に反対するのも一つは同じ理由からで す.勿論父たり母たること,人生の重要な内容の一つ として相対的の価値を認めることは何人にも譲らない 積りで居ります.併し「婦人が母たることに由つて」 のみ最上の幸福を実現し得るものとは決して考へて居 りません.(「平塚さんと私の論争<粘土自像>」,『太 陽』1918 年 6 月号) 元来母は生命の源泉であつて,婦人は母たることに よって個人的存在の域を脱して社会的な,国家的な存 在者となるのでありますから,母を保護することは婦 人一個の幸福のために必要なばかりでなく,その子供 を通じて,全社会の幸福のため全人類の将来のために 必要なことなのであります.(「母性保護の主張は依頼 主義か<与謝野,嘉悦二氏へ(抄)>,『婦人公論』 1918 年 3 月号) 〈資料 4〉 この場で,「婦人の能力を自由に発達せしめるため, 男女の機会均等を主張すること」,「男女の価値同等 観の上に立ちて,その差別を認め協力を主張するこ と」,「家庭の社会的意義を闡明すること」,「婦人・ 母・子どもの権利を擁護し,利益の增進を計るとと もにこれに反する一切を排除すること」の四項から なる綱領や規約が原案どおり決定された.(差波亜紀 子『平塚らいてう』山川出版社,2019,53 ∼ 54 ペー ジ)
4 人ともらいてうと晶子の対立する側面に目を向け, らいてうの考えは「穏健的」フェミニズムだと規定す ○平塚らいてうの思想は与謝野晶子よりも(その当 時の基準で)穏健な思想だと思える.与謝野晶子は, 「母性」に対する批判を通じて女性の家事労働,世話 する労働からの解放と平等な社会生活を主張する, 現代的フェミニズム的談論に近い.一方,平塚らい てうは「母性」の価値を肯定し,さらに女性の社会 的位置を母性を通した共同体的寄与に拡張すること を主張し,女性を再生産の社会的道具と見る手段的 立場も堅持している.これは国家の女性に対する再 生産労働の補助,それを通して解放の端緒とすると いう論理ではあるが,それに留まって真の自由人と しての女性の解放を主張しなかったという点で物足 りなさを感じる.(イ・サン) ○平塚らいてうは女性の抑圧的状況を改善しなけれ ばならないという主張をくり広げた点ではフェミニ ストだが,女性解放を積極的に主張することはなかっ たという点で穏健なフェミニストだったといえる. まず,彼女は与謝野晶子との「母性保護」論争で 女性の母親としての役割を認めながら,国家次元で 女性の「母性」を保護しなければならないと主張し た.与謝野晶子が「女性はあえて母親の役割を義務 的に遂行する必要はない」と主張したのとは違って, 彼女は女性が個人的存在であり,国家的存在として 母親の役割を遂行するという前提で国家の母性保護 を当然視した.これは国家が女性に賦課する伝統的 義務である「子どもの養育」を認めるという点で, 彼女のフェミニズム思想は穏健だったという気がす る. 彼女の思想は穏健だったが,自身の思想を「行動」 で実現していく.1920 年に新婦人協会を創立し,綱 領を構成したことは彼女の積極性を見せる.具体的 に,女性の自己啓発のために「男女の機会均等」を 主張し,男女の違いを基に家庭の社会的意義を表し て未婚女性,既婚女性とその子どもの権利を尊重し ようとする内容を綱領に入れることで,女性の権利 実現の具体的目標を提示するなど積極的に女性運動 が進むべき目標を提示したことは,日本社会革新の 動力となっただろう.(キム・ソジン) ○与謝野晶子は現代フェミニズムにやや近い立場だ. 母性という概念に批判的で,母親ではない女性の人 生も肯定する姿を見せる.家庭から抜け出した人間 「解放」がいくらでも可能だという立場でもある.す なわち自由主義,個人主義的観点が際立つ. 反面,平塚らいてうは国家主義的傾向が強い戦前 期の日本の観点から見ると,相対的に穏健な立場を 見せる.女性に対する法的,機会的平等を主張はす るものの,(現代ラジカル・フェミニズムでは否定的 というよりも憎悪する)母性の保護を強調し,この 母性保護が国家にとっても役立つことを力説するか らだ.また,女性は母親になることが必然的であり, これは生命の当然な道理であり,国家・社会に対す る貢献という観点を見せる.これはもちろん集団主 義,国家主義的観点と解釈することもできるが,現 代日本の左翼が堅持する生命重視と共同体主義の観 点とも多くの部分相通じる.らいてうが後日日本共 産党とともに活動したのにはこのような彼女の思想 とも関連があると思われる.(イ・ジョンワン) ○与謝野晶子と平塚らいてうの母性保護論争を見る と,らいてうの場合は母性が女性にとって核心的な 要素であり,したがって可妊期の女性には出産の役 割に伴う国家の補助が必要だという主張でした.一 方,晶子は,女性が出産を理由に男性に「妓生」の ような行為を批判する私たちが国家にこれを理由に 補償を望むのは話にならない説だと考え,母性もま た女性にとって重要な人生の価値ですが,出産だけ が女性にとってもっとも重要な価値ではないと考え ていました. ただし,二人の活動家とも当時禁止されていた女 性の政治的参加を許容することを要請し,二人が中 心となってつくった新婦人協会もまた男女の機会均 等を骨子として女性の参政権を要求しました. ここで重要なことは,らいてうは晶子に比べて女 性という個体に不可分的な「出産」と「育児」を国 家が当然補助しなければならないという立場を表明 し,国家次元で母性を保護するべきだと見ていたと いうことです.女性が権利と幸福を得るためには出 産の責任を女性に一任するのは不当だという考えは 現代の母性保護政策が彼女の主張と類似の様態を見 せる点で,時代に先んじた先進的な発想だったと思 います.(ピョン・チャノ)
妻の権利を大幅に制限していた民法への反感から夫博 史との「内縁関係」を続けていたが,息子が陸軍技術候 補生を志願したいと言うので,不利を懼れて入籍してい る. そして,1942 年には茨城県北相馬郡に疎開し,それ までとは違ってあまり文章を残していない.そのことに ついて,戦後,らいてうは〈資料 6〉のように語ってい る*15. ここで,〈資料 5〉と〈資料 6〉を読ませ,大きく転 回*17したらいてうの思想(行動)について意見を書か せた.特に〈資料 6〉は戦後のらいてうによる回想であ ることを確認した. る.そして,キム・ソジンは,「行動」という面では, らいてうも晶子も積極的に新婦人協会をつくって「女性 の政治活動参加」を要求したとしつつ,「女性の権利実 現の具体的目標を提示するなど積極的に女性運動が進む べき目標を提示したことは,日本社会革新の動力となっ ただろう」と女性運動の持つ意味をとらえ直した.ここ には現在展開されている #MeToo 運動への共鳴を感じ ることができる.また,ピョン・チャノは「女性が権利 と幸福を得るためには出産の責任を女性に一任するのは 不当だという考えは……時代に先んじた先進的な発想 だった」と高く評価している. (3)戦争と軍部への協力(1930 年代∼ 1945 年) 1937 年に日中戦争が本格化すると,国民を戦争協力 に動員するために国民精神総動員運動が進められた.ら いてうは,女性向け月刊リーフレット『輝ク』*12 に文章 を載せている.このあたりかららいてうの考えが大きく 転回したことがわかる*13.国を挙げて「八紘一宇」ある いは「大東亜新秩序の建設」が声高に唱えられ,国民生 活を戦時統制へと組み込んでいった日本軍部は,1940 年 3 月には南京に汪精衛政権をつくり,国民政府を無 視した.〈資料 5〉の後半には余淑による中国語訳(「致 中国青年女性」)も掲載され,かなり重視されたもので あることを窺わせる. 〈資料 5〉 古い歴史をもち,長い文化の交通のあるこの二つ の国の関係は,神から命ぜられた本然の相に還りま した.それはわたくしたち女性の心の底の絶へざる 祈りでもあった日支永遠の堅い握手です.何という うれしい事でせう. わたしは,新政府の大礼堂で白布に蔽はれた大卓 に対座した汪(精衛)氏と阿部大使が,息をつめて サインしてゐられるあの厳粛な歴史的瞬間の写真に 見入りながら,事変三年の大きな試練を経て,到達 した限りなく高価な握手をおもひ,新支那の統一あ る独立国としての早き成長を心から祈ると共に,こ の尊い握手の上に築かれる東亜の新秩序,さらに全 アジアの独立解放の輝かしい生成を夢みて,目頭の 熱くなるほどの感激にひたりましたが,この感激は 日本の全女性の感激であるばかりでなく,中国の女 性の心にもぢかに通じているものに相違ないと信じ てゐます.(「中国の若き女性へ」,『輝ク』,1941 年 2 月 17 日)*14 〈資料 6〉 強まる一方の戦争協力体制のなかで,わたくしは ものを書く意欲を失い,自分がこの先あくまで権力 に対抗しぬいてゆける自信もあやしくなってきまし た.……こうして東京にとどまっていれば,何らか のかたちで戦争協力に引っぱりこまれることが十分 予想されるので,いち早く東京を脱出しようと心を 決めたのでした.(「戦火にさきだって疎開を決意」, 『続 元始,女性は太陽であった─平塚らいてう自伝 (戦後篇)』大月書店,1972 年,4 ∼ 5 ページ)*16 ○汪精衛は日本の侵略戦争においてその傀儡政府と してうち立てられた南京政府の首班だ.これを承認 することを祝福して中国,日本の女性の団結と語る のは事実上日本の帝国主義ファシズムに同調する形 態だと見ることができる.もちろん硬直した当時の 日本社会で多くの朝鮮知識人が親日行為をしたこと と違わないように,圧力が強かったという面はある. しかし,それまで平塚らいてうが見せてきた自然主 義的な立場と国家主義,全体主義的な立場の論理の 流れの端緒を考慮すると,一種の転向だったと考え る.したがって,それまでの「穏健派」としての平 塚らいてうの思想と行動についても失望を感じるの だ.(イ・サン) ○資料 5 は平塚らいてうの反戦平和思想をありのま まに見せる.中日戦争によって中国と日本が武力衝
突を醸したことについては「事変三年の大きな試練」 と表現して汪精衛と安倍大使が握手しながら対話局 面に入ったことを「どれくらい嬉しいことでしょう」 と言及しているからだ. 資料 5 によれば,彼女は日本の国益よりも「反戦 平和」を重視する世界平和主義者のように見える. 相手が蒋介石でも,汪精衛でも関係なく戦う局面に は反対し,再び妥協を成し遂げる過程については強 く賛成する点でそうだ.彼女は国際政治に対して前 後のことをよくわきまえず「平和守護」をもっとも 堅固に守ろうとする価値と認識し,このような自身 の信念を直接言葉で表す.彼女は世界平和からさら に他国の女性たちとの連帯までも模索する.「全アジ アの独立解放の輝かしい生成を夢みて,目頭の熱く なるほどの感激」を日本女性だけでなく,中国の女 性もともに感じたらいいとする点で,彼女が日本女 性の権益実現だけでなく他国の女性たちの権益実現 も考慮していることがわかる. また,このような部分を通じて,女性に向かう彼 女の視野が日本女性に狭められているのではなく, 世界女性に広く形成されているという気がする.(キ ム・ソジン) ○資料 5 は,日本帝国が漢奸である汪精衛を押し出 した傀儡国家の成立に対して平塚らいてうがこれを 肯定し,日本帝国の侵略行為に同調する文章だ.こ れは単に侵略行為に同調するだけではなく,ある面 ではリベラルや左派に対する変節と見ることもでき る.とりわけ,らいてう自身が反政府活動において 活動に制約を受けたことを戦後主張したことを考慮 すれば,戦前・戦後で異なる行動を取ったと見られ る余地がある. しかし,これを盲目的に批判するだけではだめだ と思う.1930 年代末から終戦に至るまで日本帝国は 極度に暴力的な全体主義的狂気が支配した社会で あった.このような社会にあれば穏健な人々は消極 的に心理的に同調するほかなく,強硬な人さえも堂々 と自身の立場を押し出すことは容易ではない.とり わけ相当な影響力を持って多くの部下がいる集団の リーダーはいっそう身動きの幅が制約されるほかな い. 同時期の朝鮮人である金性洙の例を挙げよう.金 性洙は 1942 年に朝鮮語学会事件で苦難に遭った以 後,親日(行為)をするほかなかった.彼は植民地 の経営者ながらも積極的な民族主義者として莫大な 運動資金を臨時政府などに提供し,国内的にも学会 支援など民族主義活動を支援しながら国内外的に民 族,独立運動を主導,支援した.そのような人でさ えも結局朝鮮語学会事件を基点に意志を曲げるほか なかった.日本帝国の暴圧があまりにも深刻で,自 身の立場だけ押し出せば数百,数千人の自分の部下 もいっしょに苦難を味わって生計が粉々に砕けるほ かなかったからだ.もちろん,彼は変節をした.こ れは批判を受けて当然だが,社会的状況を考慮すれ ばそれでも彼を一方的に罵倒することはできない. 平塚らいてうもこのような観点から見なければな らないだろう.1910 年代初期と違って 30 ∼ 40 年代 にらいてうは相当な影響力を持っていたし,これに 基づいて彼女自身の組織があり,多くのなかまがい た集団のリーダーであった.そのため彼女が自身の 立場だけ守るならば多くのなかまが苦難に遭っただ ろう.また,彼女がおし進めている女性運動も深刻 な弾圧の対象になっただろう.こう見ると,らいて うが帝国主義侵略活動にある程度同調したことは批 判の対象ではあるが,一方ではどうすることもでき ないことだった. ただし,彼女が明治,大正,昭和の時代を生きて その時代の文化的気風を持ち,本人もある程度国家 主義的な観点があったことを考慮すれば,自発的に このような文章を書いたと考えられる余地もあり, この場合には辛辣な批判を免れることは難しいだろ う.(イ・ジョンワン) ○中日戦争を政治的に支持し,「東亜の新秩序」を喜 ぶ姿は彼女が戦争に対する女性としての支持を送り ながらも,男性と同様に完全な人間として政治的な 立場を表明するという意味を持っていると資料5は 教えています. ただし,彼女が当時持っていた日本に蔓延してい た,歪曲された歴史観と彼女の考えははっきりと誤っ ていると思います.「支那の統一ある独立国」という 表現を満州国という傀儡政府に使ったのは,事実上 「大東亜連盟論」に立脚した,極めて帝国主義的発想 だからです.特に,「この感激は日本の全女性の感激
日』大会における表彰に答えて─解放された日本婦人の 力を,愛を,智恵を世界平和の探求に結集したい─」). 世界平和のためにも,非武装国の女性にふさわしい運 動が必要だと考えたらいてうは,女性の連帯に苦心し た. 「女が無権利で人の言うことに動かされていたのでは, 戦争に反対することはできない」と考えていたらいてう は,1950 年 6 月に「非武装国日本女性の講話問題につ いての希望要項」をガンドレッド恒子・平塚らいてう・ 上代たの・野上弥生子・植村環の五人の連名で公表し, 単独講和ではなく,全面講和を強く求めた*20.この案文 をもって歩きまわっていたときに朝鮮戦争が始まった (6 月 25 日).この年の 7 月にはマッカーサー指令に イ・サンとピョン・チャノは,この時代のらいてうは 「ファシズムに同調」し,したがってそれまでの「穏健 派」フェミニストとしての行動にも「失望を感じ」てい る.汪精衛政府は日本の傀儡であって「支那の統一ある 独立国」という表現は,「帝国主義的発想だ」と手厳し く批判する. イ・ジョンワンは,金性洙の例をあげて,変節をした としても「一方的に罵倒することはできない」と言う. 1930 ∼ 40 年代はそうした時代だったのだと主張する. 一方で,キム・ソジンは,その時代でもらいてうは 「日本の国益よりも『反戦平和』を重視する世界平和主 義者」だったと擁護する. (4)戦後のらいてう 1945 年 8 月 25 日には,市川房枝らが戦後対策婦人 委員会を結成して女性参政権実現に邁進したが,らいて うはすぐには具体的行動を起こさなかった.いわゆる五 大改革指令によって GHQ が女性参政権の実現や民法改 正など積極的な女性政策を展開していたが,それでもら いてうは動き出さなかった*18.そのらいてうを突き動か したのは,日本国憲法前文であり,第 9 条だった.帰 京してからのらいてうの「頭のなかをいっぱいにしてい るのは,平和の問題ばかり」であり,「世界に一つしか ない非武装国の女性として,世界平和への使命をどのよ うに達成していくべきか」を考える日々が続いた*19. そのらいてうに,全婦人団体が統一して開いた第二回 婦人の日大会で,婦人参政権功労者として感謝状が贈ら れた(1949 年 4 月 10 日).その挨拶文で,らいてうは 世界平和を実現しようと参加者に呼びかけた(「『婦人の であるばかりでなく,中国の女性の心にもまぢかに 通じているものに相違ないと信じています」という 部分は,南京大虐殺や満州事変によって荒れはてた 満州地域と無数に死んだ中国人の状況を知らないが ゆえの発言だと思います.プロパガンダの一環とし て捏造された言論によって彼女がバランスの取れた 事実認識は実質的に難しかったと思います,日本だ けでなく中国にまで女性の人権伸張のために努力す る活動家として,戦争過程で中国(特に中国の女性 たち)の民間人虐殺にもかかわらず盲目的に軍部へ の支持を送ったことは自身の信念と政治的立場が矛 盾していたと考えます.(ピョン・チャノ) 〈資料 7〉 今日,婦人はたしかに法律,制度の上で完全に男 子と平等になりました.この上は婦人の能力を信じ, 大きな希望と勇気をもって,解放の実を絶えざる努 力をもって,それぞれの面においてあげてゆけばよ いわけでありますが,わたくしは特に今後の婦人が, その人間性の深さ,広さにおいて,男子に劣るとこ ろがないよう常に反省し,社会的地位の向上ととも に,おのれの意識を高めることを忘れないようにし てゆきたいと思います. 解放された婦人の力を,愛を,智恵を,世界恒久 平和への,最も現実的な,具体的なそして合理的な 正しい道の探求へと集結しょうではありませんか. ( 小 林 登 美 枝・ 米 田 佐 代 子 編, 前 掲 書,278 ∼ 279 ページ) 世界平和アピール七人委員会「キューバ危機に際し、ウ・タン ト国連事務総長に激励電報」の記者会見、1962 年 10 月 27 日、 らいてう研究会編『わたくしは永遠に失望しない─写真集平塚 らいてう人と生涯』ドメス出版、2011、p.41
トナム戦争反対の行動」を訴え,1970 年には「ベトナ ム母と子保健センター」を設立した. ここで,学生には〈資料 1 ∼ 8〉を通して,らいてう の思想と行動をどう考えるか,書かせた. よって警察予備隊の創設と海上保安庁の増員が行われ た.翌年 1 月には講和特使ダレスが「日米共同防衛の 了解がなり,日本政府は米軍の駐留を歓迎する旨を表明 した」という声明を発表した.この声明を,らいてうは 「日本の国民大多数の希望や意志をよそに,……日本の 少数の指導者との話合いのうちに,単独講和,あるいは 再軍備の方向」に押し流す「独断」と受けとった*21. そして,婦人団体を結集させなければならないと考 え,全日本婦人団体連合会(のち日本婦人団体連合会) を結成した(1953 年).第五福竜丸事件のときには,原 水爆禁止のアピール*22を世界に向けて発表し,これが 子どもたちを核戦争から守るとした第一回世界母親大会 (1955 年)*23開催の原動力となった.らいてうは,「い のちを産む性」としての女性が核戦争の危険からいのち を守る運動の主体になることを「母性」の名において主 張したのである*24. 同年 11 月には知識人七人による平和問題に関する意 見表明のために「七人委員会」*25が結成され,らいてう も名を連ねた. 東西冷戦の激化に伴って,平和運動にもさまざま潮流 が生まれていたが,らいてうは一貫して「非武装中立」 を主張した*26.日韓条約締結時には強行採決に反対し た. さらに「日米安保条約こそ平和を脅かす諸悪の根元」 と言い続け,70 年安保全国統一行動日には,すでにガ ンを病む身で杖をつきながら東京・成城の町を婦人たち とともにデモ行進した*27.また,ベトナム戦争に対し て,1966 年に「ベトナム話し合いの会」を結成して 「働く人びととともに力づよい運動を─世界に高まるベ 〈資料 8〉 このたびの国会で行なわれた日韓案件の強行採決 が示したように,憲法無視の政治や憲法違反の軍備 が,国民の目の前でおくめんもなく行なわれ,わた くしたちの平和の意思と願いは,いまや根こそぎじゅ うりんされつつあります.このいまわしい反動の中 で,わたくしたちはどこまでも憲法を防波堤として 闘う必要があり,それゆえにこそ,憲法改悪を狙う 汚れた手から,あくまでも憲法を守りぬかなければ ならないと覚悟しております.(「憲法を守りぬく覚 悟」,小林登美枝・米田佐代子編,前掲書,322 ペー ジ) ○明確に当時非女性として扱われた「新女性」とし て女性の同等な地位と社会生活の経営,家父長制か らの解放を主張したことは先駆的であり,このため に積極的に組織活動や宣伝活動を続けたことには羨 望する価値がある.しかし,母性の肯定によって完 全な家父長制の破壊と家庭の脱皮を否定していたが, 結局ファシズムに傾倒して親軍部的な言動を見せた ことは批判を受けるに値する.同時に,戦争が終わっ てこれを反省し,反戦運動を続けたことは活動家と しての生を放さなかったという点で肯定的に見るべ きだ.(イ・サン) ○資料 1 ∼ 8 を通じてらいてうの思想は大きく二通 りに分けることができる.一つは「穏健な女性主義 思想」であり,もう一つは「反戦平和主義」だ.こ の二つの思想はらいてうの積極的な行動によって支 えられている. 資料 1 ∼ 4 と資料 7 は,らいてうの穏健主義フェ ミニズムの思想を赤裸々に見せる.家庭と家庭の構 成員としての女性の役割(出産や養育など)を認め, 国家次元の母性保護を主張しながらも,女性が男性 と同等な機会を保証されて生きていかなければなら ないという点は,女性の権利尊重が「男性との共存 と国家の保護」の中でなされなければならないこと を表す.また,資料 7 によれば,らいてうは法律や 制度上で女性が男性と同等になったので女性が自身 日米安保条約廃棄を訴えて成城の住宅街をデモ行進、1970 年 6 月 23 日、らいてう研究会編『わたくしは永遠に失望しない ─写真集平塚らいてう人と生涯』ドメス出版、2011、p.52
の実力向上のために努力しなければならないと主張 しているが,これはらいてうの「保守的」女性主義 思想を表すものだ.法律に女性の権利を保障する条 項が入ってこれを制度化させたとしても,現実にお いて直ちに女性の権利が決まった法律のとおりに実 現されはしないからだ. 資料 5 と資料 7 は,らいてうの「反戦平和」思想 をそのまま表す.相手と武力で対立するのではなく, 対話によって妥協する局面には賛辞を送り,平和を 阻害する行為には猛烈に反対するらいてうの姿から 「反戦平和主義」への彼女の固い決意が感じられる. 亡くなるまでらいてうは平和憲法を守護しながら憲 法に違反する軍備増強と韓日条約締結に反対する声 を上げた.これは「反戦平和主義」を頭の中だけで 追従したのではなく,直接の行動で実践した点でら いてうの平和運動家としての積極性を見せるものだ と考える.(キム・ソジン) ○平塚らいてうの思想と行動を総合してみよう.資 料を通じて見たらいてうの思想は大きく三つに整理 することができる.第一に,女性主義だ.その中で も旧習撤廃と実力養成において男性と同等な位置に 位置づけようとする自由主義的観点を見せ,女性の 母性を強調した.これは当代西欧国家に一般的だっ た自由主義的女性主義の立場と似ている.らいてう の女性主義思想は,資本主義体制が女性を抑圧,搾 取するのでこれを破壊し,女性を解放に導く社会主 義体制を構築しなければならないというマルキシズ ム的女性主義や,女性が男性から完全に独立して男 性を排除し,女性が男性を支配しなければならない という急進主義的女性主義の観点とはほど遠い. 第二は,共同体主義だ.戦前には国家主義的観点 ─ただし共同体主義と国家主義が明確に区分される 観点ではないことは勘案しなければならないだろう ─がある程度あったとすれば,戦後は今日の共同体 主義,中でも世界主義的な共同体主義の観点に近い 観点だ.単純な一国的単位を越えて世界市民の共栄 と平和を追求したことが見えるからだ. 第三に,平和主義と生命尊重だ.まず平和主義は 特に戦後の活動で際立つ.戦争の惨状を味わってか らは自衛的軍事力強化─戦後日本は吉田ドクトリン に基づいて軽武装してアメリカの安保支援によって 国防を維持したが,らいてうはこのような「防衛力 強化」にも否定的だった─にも否定的な強硬平和主 義の態度を堅持した.生命尊重もまたらいてうの一 貫した思想だ.彼女は母性および子どもの保護を強 調し,生命尊重を強調した.平塚らいてうの人生を 総合すれば,前半期は日本の女性が母親の生活を送 りながらも,客体ではなく独立した主体として生き るために,そして母性と子どもの生命権を保証され るために活動した.後半期は日本の女性と子どもを 越えて世界平和共存のために多様な方面で活動した と評価できる. らいてうは時代的限界が明確に存在する人物で誤 りがなかったとは言えないが,ある時代を生き手本 になりうる人生を生きた.たとえ彼女の思想と行動 に対して反対の立場にあり,過度に理想主義的だと か,反対に現実妥協的だと批判的もあるだろう.し かし,批判者の立場から見ても彼女の行動には見習 うべき部分が多い.批判は容易だが,そういう人生 を生きることは難しいからだ.(イ・ジョンワン) ○平塚らいてうは戦争中には軍国主義的な日本の歩 みを明確に支持しましたが,戦後の平和憲法が制定 された後はむしろ日本の再軍備問題に対して強力な 反対の立場を表明して「憲法改悪」を防がなければ ならないという主張をしました.このような点から 見て,らいてうは女性として男性と同等に政治的な 立場を表明しやすくするならば,当時絶対的に大勢 を占めていた「大東亜連盟論」に便乗して日本の帝 国主義的歩みと軌を一にすることが女性の人権伸張 にも肯定的だと考えたようです. ですが,戦後は平和憲法を通じて女性と男性が同 等な地位を確保したので,日本の軍国主義的歩みを 支持する理由がなく,むしろ戦争は日本が男性中心 の社会に逆行する危険があるので,女性の社会的地 位向上において平和運動が必要だと彼女は自身の政 治的基調を変えたと思います. したがって,平塚の女性人権のための歩みにおい て初期の主張と趣旨には共感するものの,政治的立 場の表現においてその方向を女性の人権だけから判 断したのは利己的な考えでした.女性の人権伸張に は大切な役割を果たしたかもしれませんが,政治運 動に対する歩み(特に戦後の平和運動)は徹底的に
国社会にも通底する「矛盾」を感じたがゆえに,「堂々 と自身の主張をした彼女の勇気と主張にとても励まされ ました」(ピョン・チャノ)という意見がまさにそれで ある. 韓国の学生と日本の教師の瞬間の出会いが歴史認識の 深まりをもたらすというわけにはいかない.討論もほと んどできない.それでも,この授業は少なくとも私に とってはかけがえのない授業の一つである.この授業で は,やはり 1930 ∼ 40 年代のらいてうの思想をどう捉 えるかが課題となるだろう.具体的には,らいてうの汪 精衛政権支持の論理が「帝国主義的発想」(ピョン・ チャノ)なのか,それとも「他国の女性たちの権益実現 も考慮している」(キム・ソジン)言辞なのかは学生た ちに聞いてみたい課題である. 注 *1 中学校歴史教科書では,それまで,雑誌『青鞜』の発刊に ついてふれていただけだったが,1993 年には「低い地位 におかれていた女性たちも,女性に対する差別をなくすこ とや,婦人参政権を求めて運動をおこしました.1911 年 に青鞜社をつくった平塚雷鳥らは,雑誌『青鞜』で「元始, 女性は太陽であった」とうったえ,女性の地位向上の運動 の先がけとなりました」(帝国書院,1993 年版)と記述す るようになった.2016 年版では,8 社すべてがらいてう を記述している.なかでも学び舎は,らいてうの生い立ち から『青鞜』の発刊に至る過程を取り上げ,中学生が当時 の女性の状況を把握できるよう叙述している. 高校では,日本史Bの教科書よりも日本史Aの教科書の ほうが詳しく紹介しているが,ほとんどが青鞜の発刊や新 婦人協会の設立,参政権の要求に留まっている.その中で, 実教出版『新日本史A』(2018 年版)は,「デモクラシー の広がり」で青鞜の活動を,「アジアのなかのモダニズム」 でらいてうと与謝野晶子の母性保護論争を取り上げつつ, 東アジアへの影響を記述している.さらに,「平和運動の 展開」で平和運動に邁進するらいてうを描いている.その ため,順を追って学んでいくと,らいてうがその時々の社 会問題に対してどのように考えていたかを読み取り,高校 生が自分の問題意識に即して歴史をとらえることができる よう配慮されている. *2 山下英愛「ドラマ『魔女の法廷』(KBS,2017 年)と韓 国 の #MeToo 運 動 」,『 ア ジ ェ ン ダ ─ 未 来 へ の 課 題 ─ 』 2018 年秋号.また,チョン・ヒジンほか『METoo の政治 学』(教養人,2019 年,韓国語)は,こうした #MeToo の 動きを具体的に分析し,韓国女性にとって #MeToo とは 何かや,韓国社会が模索すべき方向などについて考察して いる. ここで,韓国のフェミニズムが #MeToo 運動で始まっ たのではないことも確認したい.1990 年代の韓国フェミ ニズムについては,チャン・ピルファほか(西村裕美訳) イ・サンは,フェミニズムとファシズムの間で揺れ動 いたとしても,「活動家としての生を放さなかった」こ とを肯定した.キム・ソジンは,らいてうの本質は「直 接の行動で実践した点でらいてうの平和運動家としての 積極性を見せる」ことにあると考えている.それは, 1930 ∼ 40 年代にも変わらなかったことからもわかる という.また,「現実において直ちに女性の権利が決 まった法律のとおりに実現されはしない」とする考えの 背景には,民主化運動にかかわってきた詩人高銀までも がセクハラをしながらもそれを不問にしてきた韓国社会 に対する反発があるのではないかと思われる.一方,ら いてうが「日本の帝国主義的歩みと軌を一にすることが 女性の人権伸張にも肯定的だと考えた」とするピョン・ チャノは,「彼女の歩み……は徹底的に女性の人権に合 わせて進められたことを暗示する」と分析した. らいてうの思想を三つに整理したイ・ジョンワンは 「批判者の立場からも彼女の行動には見習うべき部分が 多」く,特に「生命尊重」を「一貫した思想だ」とす る.したがって,「前半期は日本の女性が母親の生活を 送りながらも,客体ではなく独立した主体として生きる ために,そして母性と子どもの生命権を保証されるため に活動した.後半期は日本の女性と子どもを越えて世界 平和共存のために多様な方面で活動した」ことこそが, らいてうの思想の底流だとするのである.
3.成果と課題
平塚らいてうは日本ではそれなりに知られている人物 であるが,日本でも韓国でも,1930 年代のらいてうの 行動や戦後の平和運動についてはほとんど知られていな いのではないだろうか.高麗大生も授業の最初に「平塚 らいてうを知っているか」と聞いたとき,ほとんど反応 がなかった. 平塚らいてうの思想と行動という非常に大きなテーマ を掲げているが,女性の権利の確立は民主主義の確立で もあることを少しは考えてもらうことができたのではな いかと思う.46 人の意見のうち 4 人しか紹介できない が,学生の意見を読んでそう思う.特に今回の授業で は,意見のそこかしこに,#MeToo 運動の影響とも思え る表現が見られた.らいてうの生き方を通して現実の韓 女性の人権に合わせて進められたことを暗示すると 思われます.(ピョン・チャノ)ようと,20 世紀初頭にエレン・ケイが,女性には独特の 使命,母としての使命があると提唱した.らいてうの主張 には,このエレン・ケイによる母性主義の影響が強く出て いる,という(今井小の実『社会福祉思想としての母性保 護論争─ 差違 をめぐる運動史』ドメス出版,2005 年, 56 ∼ 63 ページ).また,母性保護論争の中で論じ切られ ていなかった家族の役割という視点からこの論争を再照明 した論文に,林美帆「羽仁もと子と母性保護論争─与謝野 晶子と平塚らいてうの接点─」(『生活大学研究』3 号, 2017 年)がある. *8 『山川菊栄集 第一巻』岩波書店,1981 年,77 ページ. *9 与謝野晶子,平塚らいてう,山川菊栄の主張における母性 と国家の関係については,早川紀代「母性と国家の関係を 考える─ 1910 ∼ 20 年代の与謝野晶子,平塚らいてう, 山川菊栄の思想をとおして」(『現代史研究』32 号,1985 年)を参照. *10 新婦人協会は,1919 年に発足した「日本最初の市民的女 性運動団体」だった.その活動期間である約 3 年間に機関 誌『女性同盟』の発行,各地での支部結成,治安警察法第 5 条改正および婦人参政権要求の請願,花柳病男子結婚制 限法制定の運動を展開した.その綱領には,「婦人の能力 を自由に発達せしめるため男女の機会均等を主張するこ と.男女の価値同等観の上に立ちて其の差別を認め協力を 主張すること.家庭の社会的意義を闡明すること.婦人, 母,子供の権利を擁護し,彼等の利益の増進を計ると共に 之に反する一切を排除すること」の五つが謳われた(折井 美耶子・女性の歴史研究会編著『新婦人協会の研究』ドメ ス出版,2006 年,275 ページ) 1990 年代までは,新婦人協会の治安警察法改正を追求 した運動団体としての側面が強調されがちであったとし て,折井美耶子は,女性自らが「性の自己決定権を獲得す ることを目的としていた」花柳病男子結婚制限法制定運動 に目を向けるべきとした(折井美耶子「総論 新婦人協会 の歴史的意義」,同前).小林登美枝もエレン・ケイの「母 性の復興」の影響を受けたらいてうが特にこの方針を主張 していたことを強調している(小林登美枝「解説」,平塚 らいてう著作集編集委員会編『平塚らいてう著作集 第 3 巻』大月書店,1983 年).また,米田佐代子は,新婦人協 会のこの方針こそが「日本の女性の置かれた現実─自分の 意志で結婚する自由も持たず,夫の性的放縦にも抗議でき ない状況─に対する抵抗の意思表示だった」と高く評価す る(米田佐代子『平塚らいてう─近代日本のデモクラシー と ジ ェ ン ダ ー』 吉 川 弘 文 館,2003[2002] 年,137 ∼ 138 ページ). 当時の女性たちは新婦人協会に対して,「娘どもを引連 れて加盟せん」(三角錫子)という賛同の眼差しも向けた が,「畢竟狼と子羊の提携にすぎない」(山川菊栄)や「徹 頭徹尾中産階級婦人の利己的運動」(伊藤野枝)と手厳し い批判もしたという(松下早苗「新婦人協会に向けられた 同時代人の眼─師事と批判のはざま」,折井美耶子・女性 の歴史研究会編著,前掲書). *11 らいてうは関東大震災後「市民全体が社会連帯の理想に目 覚め……これまでの私有の上に多少の制限を加える」こと 『韓国フェミニズムの潮流』(明石書店,2006 年)が参考 になる. *3 本実践は教養科目「人物で見た日本の歴史」の中で実施し た.受講学生は 46 名で,授業はすべて韓国語で行った (2019 年 12 月 3 日).授業にあたってさまざまな支援をし てくれた高麗大趙 明 哲 教授と,資料を韓国語に翻訳して くれた李彦叔氏に感謝したい. *4 この年の 1 月 18 日には,大逆事件の被告のうち幸徳秋水 ら 24 人に死刑判決が下された.24 日には,幸徳ら 11 人 の死刑が執行された.そのおよそ半年後の 6 月に青鞜社の 発起人会が発足し,9 月 1 日に『青鞜』が創刊されたので ある. *5 巻頭には,「山の動く日来たる」で始まる,与謝野晶子 「そぞろごと」が載り,女性によってつくられた最初の文 芸雑誌『青鞜』が創刊された.この創刊とともに「らいて う」もまた誕生する.平塚明は,「元始女性は太陽であっ た」を書き上げたとき,署名をどうするか悩んだ.「アル プスの這松帯に住むという,雷鳥のイメージが浮か」び, ひらがなの「らいてう」こそれが自分にふさわしいと思っ たという(堀場清子『青鞜の時代─平塚らいてうと新しい 女たち─』岩波新書,1988 年,6 ページ). *6 この時代に,日本に留学した多くの朝鮮人女性たちが『青 鞜』に影響を受けた.後に朝鮮に帰った彼女たちは,雑誌 『新女子』を発刊した(1920 年 3 月).「我々は青鞜です. あの赫々たる男性作家に立ち向かう青鞜女子たちです」と 主張するこの雑誌には,金一葉・朴仁徳・羅蕙錫らが参加 した.三・一独立運動によって噴出したエネルギーが一挙 に文化的な花が開き,「女性の手になる女性雑誌として生 まれ,女性の解放と改造を熱情を込めて訴えた」雑誌だっ た(井上和枝『植民地朝鮮の新女性─「民族的賢母良妻」 と「自己」のはざまで』明石書店,2013 年,61 ページ). 金華栄「『母性』の挑戦─羅蕙錫と平塚らいてうの言説か ら─」(『比較文学』46 号,2004 年)は,らいてうと,彼 女を「理想的な婦人」ととらえていた羅蕙錫とを比較しな がら,女性論の観点から植民地朝鮮における「近代化」と 「性」の問題をとらえようとする.また,両者の比較から, 日本と朝鮮の「新女性」に対する比較を試みた論文に,ム ン・オクピョ「朝鮮と日本の新女性─羅蕙錫と平塚らいて うの生涯史比較」(同『新女性─韓国と日本の近代女性像』 青年社,2003 年,韓国語)があり,金 炅 一『新女性,概 念と歴史』(青い歴史,2016 年,韓国語)は,1920 ∼ 30 年代の,新女性概念の歴史を再構成するという問題意識か ら世代によって近代女性を三つのカテゴリーに区分し,こ れに理念の違いを考慮した類型化を提示している.一方, 宋連玉『脱帝国のフェミニズムを求めて─朝鮮女性と植民 地主義』(有志舎,2009 年)は,朝鮮「新女性」の経験を 植民地主義やジェンダーとのかかわりのなかで論じてい る. *7 彼女たちの主張には当時の世界的な女性運動の二つの立場 が反映されていた.晶子の主張には,女性も人間として男 性と同一の権利を持つべきだとする女権主義の立場が色濃 く出ている.他方,産業革命期の過酷な労働状況は女性や 子どもの心身に深刻な弊害を及ぼした.この状況を修正し
どこにあったかについては,「らいてうが『変節』して国 家にすり寄ったのではなく,天皇制国家がらいてうを か らめとった 」(米田佐代子「平塚らいてうの『戦争責任』 論序説」,『歴史評論』1996 年 4 月号,51 ページ)と考え るのが妥当ではないだろうか.国家による母性を通した女 性の包摂については,永原和子「女性統合と母性─国家が 期待する母親像」(宮下美智子ほか『母性を問う(下)─ 歴史的変遷』人文書院,1985 年)を参照. *15 1951 年の時点で,らいてう自身は「こうして戦争は,昭 和婦人解放史のうえに,太い空白の線をひいたのでした」 とするだけだった(平塚らいてう「昭和婦人解放運動史─ 太平洋戦争に突入するまで」,『平塚らいてう著作集 第 7 巻』大月書店,1984 年,181 ページ). *16 らいてうの「疎開」は,奥村直史「平塚らいてうと『15 年戦争』」(『平塚らいてうの会紀要』6 号,2013 年)が言 うように,「動揺,迷い,もがき」の末の選択であり,「も のを書くことで自己表現してきたらいてうが『筆を断ち』, これ以後ほとんど書かなくなったことを,経済的に収入途 絶を覚悟するという意味でも勇気ある決断」であり,「緊 急避難」だった(米田佐代子「『いのちの平和』─平塚ら いてうの平和思想をめぐって」,『季刊 21』22 号,2013 年,126 ページ). *17 らいてうの母性主義は,当時の天皇主義と共鳴するところ があったが,大森かほるは「母性を人間の権利とする理想 主義は,現実社会の巧みな戦争政策にからめとられて変質 する結果となっていった」と,この転回を母性主義に求め ている(大森かほる『平塚らいてうの光と蔭』第一書林, 1997 年,155 ページ).また,らいてうが魅了されたとい う高群逸枝は,文明社会を否定する原始的生命主義の立場 に立って,母性主義を主張していた.逸枝は,「国体とし ての天皇制家族国家の深層に働く女の力,母性の力につい て確信したことで,強力な天皇制家族国家イデオローグへ と変貌していった」(大越愛子「天皇制イデオロギーと大 東亜共栄圏─「帝国のフェミニズム」を問う」,岡野幸江 ほか編『女たちの戦争責任』東京堂出版,2004 年,56 ∼ 57 ページ).そうした逸枝の母性の能動性,戦闘性にらい てうが魅了されたともいえる.こうした母性主義に鈴木裕 子は批判的である.例えば,鈴木裕子『女性史を拓く 1 ─ 母 と 女 平 塚 ら い て う・ 市 川 房 枝 を 軸 に 』 未 来 社, 1994[1989]年. *18 らいてうは「政府案が男女の同権のみを認めて(むろん, これは当然のことですが),女性の特殊権利を全然忘れて いるのは見のがしえない点です.新憲法が男女の平等とと もに,母性と子供に関する権利を規定しないかぎり婦人の 生活の平和と安全は確保されない」と批判的に見ていた (平塚らいてう「婦人代議士に」,『平塚らいてう著作集 第 7 巻』,17 ページ).ここで言う「女性の特殊権利」は 母性の権利をさす.らいてうの考えでは,平和の問題と母 性の権利とが一体だったことがわかる. *19 平塚らいてう『続 元始,女性は太陽であった─平塚らい てう自伝(戦後篇)』大月書店,1972 年,51 ページ).ら いてうは「戦争を好まないのは,生命を生み,育てる種族 の母である女性の深い本能であり,日本の女性も心の底か が必要だと主張した.そうすることによって「相互扶助」, 「共存共栄」が生み出されるというのである(「新帝都のた めに」,『平塚らいてう著作集 第 3 巻』).その一方で,大 震災時の朝鮮人虐殺や伊藤野枝の虐殺については何も語ら ない.自警団による朝鮮人虐殺を見聞きし(「関東大震災 に遭う」,平塚らいてう『元始,女性は太陽であった─平 塚らいてう自伝(完結篇)』大月書店,1988[1973]年) ているにもかかわらず,野枝の死については「いかにも野 枝さんらしい最後だった」(「野枝さんの無残な最後」,同 前,223 ページ)とよそごとだった.この感覚は,戦争中 のらいてうの国体賛美につながるものがあると言わざるを えない. *12 「輝ク会」(長谷川時雨会長,1933 年発足)が発行した月 刊小型新聞.女性解放を謳っていた『女人芸術』の廃刊 (1932 年)後,そこに集っていた人々が多数執筆した. 1937 年に日中戦争が始まると,前線の兵士や遺族,留守 家族らの慰問など,戦争協力の方向に旋回し,「皇軍慰問 号」(1937 年)を発行したりした.同号で,岡本かの子が 「出征将士となりたまふ時,日本男子は既に神なるを感じ る.……今や君が祖国の,日本女性等こそ,……優しく 凛々しき光となり,銃後の国に充ち満つるを知り給へ」と 神がかり的な文章を掲げたとき(「わが将士を想ふ言葉」), らいてうはかの子の文章に全面的に共感を寄せた一文を寄 稿した(「皇軍慰問号を読む」,1937 年 11 月 17 日).ら いてうとは対照的に,同じ号で,宮本百合子は「ヒロイズ ムの自己陶酔は私たち女を愚劣にします」と冷静な反論を 書き,続けて兵士たちには「みんな家があり,故郷があり, 生業がある」のだから,「現実に根おろした」文章こそ慰 めになるとかの子を誡めている(宮本百合子「身ぶりなら ぬ慰めを」,同前). そもそも発刊当初の『輝ク』には不思議なほど時代の臭 いがなかったが,1937 年 7 月 7 日の「日中両軍の衝突以 降の『輝ク』の反応は,時局とぴったり一致する」ように なった(尾形明子『「輝ク」の時代─長谷川時雨とその周 辺』ドメス出版,1993 年,122 ページ). *13 1940 年 11 月には,『輝ク』に「紀元二千六百年頌」とい う短い文章を載せ,「わが神倭伊波礼毘古命 大和の鳥見 の山に霊畤をたて 皇祖大神に大孝をのべたまひてよりゝ に二千六百年今日このあひがたき祝典にあひみたみわれの よろこびにやいや高くかがげられたる一億のいのちはたゞ ひとすじに大君に帰一し大御心の顕現に翼賛しまつること のかしこさ ああ おのづから沸きあがる弥栄の声 一つ に和して六合をおほふ」と天皇主義を謳い上げている(『輝 ク』,1940 年 11 月 17 日). *14 このように,らいてうは汪精衛政権が日本の傀儡でしかな かったことを見抜けなかった.孫の奥村直史は「『昭和 16 年日記』に記された平塚らいてうの思い」(『平塚らいてう の会紀要』9 号,2016 年)で「戦後,この時の自らの認 識の誤りを自覚し反省し」ているとして,以下の文章を挙 げている.「しずかに日本の過誤を反省し,…世界恒久平 和の実現のためにわたくしたち日本の人民は生きましょ う」(「一つの世界の建設」,1951 年,『平塚らいてう著作 集 第 7 巻』,1984 年,185 ページ).らいてうの本質は
動からはっきり区別されなければならないものです」と, 共産党系の平和運動を厳しく批判した(『平塚らいてう著 作集 第 7 巻』,104 ページ). *27 小林登美枝「平塚らいてう自伝」,小林登美枝・米田佐代 子編『平塚らいてう評論集』岩波文庫,1987 年,332 ペー ジ. 参考文献 小林登美枝・米田佐代子編『平塚らいてう評論集』岩波文庫, 1987 年 平塚らいてう『元始,女性は太陽であった─平塚らいてう自伝 (完結篇)』大月書店,1988[1973]年 大森かほる『平塚らいてうの光と蔭』第一書林,1997 年 米田佐代子『平塚らいてう─近代日本のデモクラシーとジェン ダー』吉川弘文館,2003[2002]年 差波亜紀子『平塚らいてう─信じる道を歩み続けた婦人運動家』 山川出版社,2019 年 ら平和を望み,暴力を否定し,各国がその軍備を縮小でな く,撤廃する日の到来をつよくねがってきました」と自分 の考えを総括した(同前,46 ページ). *20 『平塚らいてう著作集 第 7 巻』,101 ∼ 102 ページ.この とき,市川房枝も尽力したが,彼女に対する追放指定がま だ解除されていなかったため,署名は頼めなかったという (『続 元始,女性は太陽であった─平塚らいてう自伝(戦 後篇)』,84 ページ). *21 同前,91 ページ. *22 1954 年 9 月 15 日に「全世界の婦人にあてた日本婦人の訴 え─原水爆の製造・実験・使用禁止のために─」が発表さ れた(同前,158 ∼ 162 ページ). *23 世界 68 カ国から 1060 人が参加し(日本からは 14 人), 1955 年 7 月 1 日には「私たちの子供を戦争からまもるた めに,軍備廃止と,すべての国民の間の友情のために団結 をくずさぬことを,ここに堅く誓いましょう」と結んだ 「第一回世界母親大会宣言」を採択した.「朝鮮人民共和国」 の代表朴伝愛は「戦争はもうたくさんです!」と訴えた (母親大会準備会編『手をつなぐ世界の母─第一回世界母 親大会の記録』,1956 年,パンフレット). 母親大会は,「生命を生み出す母親は生命を育て生命を 守ることをのぞみます」のスローガンを掲げるが,これは 第一回世界母親大会にギリシャの女性詩人ペリディス夫人 が寄せた詩の一節である(母親運動三十年史編集委員会編 『母親がかわれば社会がかわる─母親運動三十年史』日本 母親大会連絡会,1987 年,45 ページ).ここで言う「母 親」とは,母性を持つすべての女性を対象にした呼び名で ある.その意味については,次の文章を想起したい.「『軍 国の母』であったことの悔いは,心底に蓄えられていたの かも知れないが,それが浮上して見据えられるということ はまだなかった.世界的にもそうであったが,『母親』の 2 字は,女性が,ことに平和を主題として,運動を起こそ うとするとき,男性や国家から身を護りまた説得性をひろ げていくための,つまり 無私 の運動として正当性を確 保するための,ほとんど無二の旗印であった」(鹿野政直 『現代日本女性史─フェミニズムを軸として』有斐閣, 2004 年,18 ページ). また,初期の母親大会の性格については,伊藤康子『草 の根の婦人運動参政権運動史』(吉川弘文館,2008 年)を 参照. *24 米田佐代子「『いのちの平和』─平塚らいてうの平和思想 をめぐって」,『季刊 21』22 号,2013 年,131 ページ. *25 提唱者の下中弥三郎のほかに,植村環,茅誠次,上代たの, 前田多門,湯川秀樹,そしてらいてうが加わった.国際間 の紛争は絶対に武力による解決をとるべきではなく,平和 的な話し合いで解決すべきであるとした.世界平和アピー ル七人委員会編『世界に平和アピールを発し続けて─七人 委員会 46 年の歩み』平凡社,2002 年. *26 らいてうは,「一方の陣営にたって,平和を守ろうという 運動があります.これはいうまでもなく,……敵の侵略は 認めないが,味方の侵略はよしとする,敵の手からは武器 を奪うが,味方の手には与えるという? この不思議な平 和運動は,わたくしたち非武装者の,敵をもたない平和運