いつくしみ深い父
竹山 昭
構成から
ルカ15・11 ~ 32に語られているイエスの譬えは「放蕩息子」の譬えという呼び名で 知られてきた(新共同訳の小見出し参照)。フィツマイヤーによれば十六世紀の英訳聖 書の小見出しにはすでにこの呼称が見られるという。だが現代の多くの聖書学者が指 摘するように、この名称は内容を十分に要約していない。それは構成に注意して読め ば一目瞭然である。
この譬えは明らかに二つの部分からなっている。
前半は24節までで、後半は25 ~ 32節であろう。それぞれの終わり部分に、「この息 子は(後半は「お前のあの弟は」)死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つ かった」(24、32)という同じ句が置かれて結ばれている。言うなれば、歌の繰り返し 部分と似ていよう。
また、登場人物に注目すれば、前半では父親と下の息子(弟)だけが登場して物語が 展開する。譬えの導入句(11節後半)を別にすれば、兄の方はまったく出てこない。他方、
後半では父と上の息子だけが登場して、弟は僕や兄や父親の会話の中に触れられるだ けで、本人は登場していない。全体を通して登場しているのは父親だけなのである。
たしかに、登場人物からみても、それぞれの強調点の置き方からみても、前半と後 半はそれぞれに完結していると解することもできる。後半部を後からの付け足しと考 える解釈が過去にあったとしても、譬え全体は父親によって統一されているうえに、
導入部分の「ある人に二人の息子があった」が後半部を初めから想定している。これは 元来の譬え(前半)に後から付加された形ではなく、“二つの頂点をもつ”譬えの典型的 な例である(J・エレミアス、J・フィツマイヤー)。その中心は父親、より具体的には 父親の破天荒ないつくしみにある。
したがって、「いつくしみ深い父親」の譬えという小見出しがいっそうふさわしかろ う。
この譬えは前半部はむろんのこと後半部も含めた全体が“物語”としての一貫性を 保っており、ごくわずかな文体的修正を除けば、その全体が福音書伝承の最初期段階 に遡ると認められている(フィツマイヤー他)。その形ではどのような人々に語られた のか断定することはできない。
ただ、ルカ福音書では、これに先立つ短い二つの譬え(「見失った羊の譬え」と「無く
した銀貨の譬え」)ともども、ルカの手で一つの枠組みが与えられている(1~3節)。
このルカによって適応された状況においては、この譬えは「罪人たちを迎えて、食事 まで一緒にしている」とのファリサイ派の人々や律法学者たちの不平、非難に対する イエスの自己弁護という基本的な方向づけをもつことになる。
だが、この観点からの読み取りは、後半部の内容とともに、後で考察することにする。
まずは前半部の内容を中心にその意味を確認しておきたい。
「遠い国に旅立ち…」
譬えは、下の息子(弟)の堕落とその窮状を描くことから始まる(12 ~ 16)。彼が父 親の生前に財産分与を願ったことが悪い、身勝手だと考える必要はない。当時の法律 では、父親の財産相続には遺言と生前の贈与による二通りの形式があったという。た だ、生前贈与の場合、財産の所有権を得るが、その処分権も用益権も父の死までもて ない定めであった。この息子は「全部を金に換えて」(13節)からすると処分権も願って 得たことになる。父親から独立した生活を望んだのだ。
「遠い国に旅立ち」「放蕩の限りを尽くして」(13節)が物語るのは、当時数多く見られ た移民(離散のユダヤ人は当時四百万以上と推定)のように、本当に独立して一旗揚げ ようというより、「遠い国」との文言が暗示するように「父親の目の届かない所で」好き 勝手に生きたかったにすぎまい。
湯水のように使う金はすぐ尽きる。飢饉が見舞う。食うにさえ困る。生活はどん底 に落ちた。だがそれだけではない。「豚の世話をする」ことはユダヤ人としては律法に 背く行為である。豚を飼う地方は異邦人の社会環境であり、そこでは会堂もない。神 の民としての宗教上の規定も守れない。心身ともにどん底に落ちた生き方に陥ったこ とを暗示する。
「父から遠く離れて」死にそうになった彼が「我に返って」とは、「父の家」を思い出す ことであった。
息子を迎えた父の喜び
「まだ遠く離れているのに息子を見つけて」とはどうして可能だったのか?と詮索す るのは無意味であろう。遠く離れていたのに見つけ、走り寄って接吻する。それはす べて父親の発意を雄弁に物語っている表現である。息子は父のもとを遠く離れても、
父親の心からまで離れることはできなかったということでもある。
詫びを言い出す息子の言葉を最後まで言わせもせず、「いちばん良い服」「指輪」「履
物」を僕に命じる父親の言葉は、「息子が帰ってきた喜び」の溢れを意味する。「いちばん 良い服」は最高の客のもてなしを、「指輪」(印鑑付き)は跡取りの資格を、そして「履物」
は自由人のしるしだとすれば、出て行く前と同じく自分の真の息子として受け容れ歓 迎したことになる。その動機は「あわれに思って」つまり、「はらわたがちぎれそうなあ われみの思いで胸が一杯になって」なのだという。その上に「肥えた子牛」である。特 別の機会のために肥え太らせた子牛のことだという。生涯に何度もない喜びの宴を開 くのである。
こうした父親の喜びようは、私たちの言葉では「親馬鹿」と言われよう。長い間自堕 落で安易な生活を続け、その上で豚の餌まで欲しがって得られない悲惨な生活を送っ た息子である。根性も気力も「息子」に適しいありようかどうか分かるまい。人は境遇 に慣れるからだ。だがそれを確かめもしない。あまりの嬉しさに無条件に、まず、抱 き取って喜ぶのである。
愚かな親の愛?そうかもしれない。しかし真の愛は、いつもどこか常識や合理的な 振る舞いの枠を超えないだろうか。
イエスは、この父の喜びが、罪人を迎えた父の喜びだと語るのである。罪を犯した者、
人から見捨てられ、自分でも自分自身にダメを出した者(息子は、「雇い人―日雇い人 の一人」と言う)を、神は待ち続ける。神は何も条件をおかず、試しを課すこともなく、
ただちに赦して迎え入れる。あわれみと愛の愚かさをもって―(G・ローフィンク)。
何故に?という問いに、「父の愛とあわれみ」という以外に答はあるまい。強いてあ げれば、父は息子が「死んでいたのに生き返った」のを喜ばずにおれないからだ。 イ エスの譬えが語っているのは、単なるたとえではない。本当の意味での「生き死に」の 問題なのだ。この息子はたべるものにこと欠いて飢え死にしそうになった。父の家で は食べ物を得ることができるからこそ戻ろうとしているのである。門前払いは直ちに 死へとつながる。
兄の怒りは不当か?
後半(25 ~ 32)は、一日の仕事から帰ってきた兄の怒りから始まる。
兄は家の方から聞こえるざわめきを耳にし、僕から事の次第を聞き知ると、怒って 家に入ろうとしない。息子が家に入らないので父親が自ら外に出てきて兄をなだめよ うとする。この二人の間のやり取り(29 ~ 32)が後半の内容のすべてとなる。
兄は怒りのあまり父への呼びかけも忘れて、いきなり非難の言葉を浴びせている。
父親への礼を失したとはいえ、兄の非難は不当なものだろうか?
兄の方は「畑にいた」(25)。一日中畑仕事をしていたのだ。日中の暑さはかなりのも
のだったというし、春や秋の収穫期なら一層厳しい労働になるともいう。疲れて帰っ たのだ。そんな状態で、「弟さんが無事に帰ったというのでお父上が子牛を屠られたの です」と聞かされる。
財産を食いつぶし、好き勝手な暮らしをして落ちぶれ、今頃帰ってくるような身勝 手な奴を歓迎して子牛を?俺はずっと忠実に仕えてきた。逆らったことなど一度もな い。だが友達との息抜きにと子山羊の一匹ももらったことはない。これは不公平では ないか。正義にそぐわないのではないか。
父親に対する兄の抗議はこのようになるだろうか。
三好はその注解の中で「兄の怒りは人間の次元ではごく当たり前である。…ある人々 は父に対する兄の態度と言葉は自己正当性の主張と自己の業績を並べてみせる傲慢と 解釈するが、そこまで考える必要はない」と言う。ただ「父のような『愚かな愛』を理解 できない狭さであり、でたらめな生活をして帰ってくる人間を受け入れない普通の人 間の心の狭さである」(「新共同訳・新約聖書注解 I」)。
「人間の次元ではごく当たり前」の怒りではある。だが、たとえ「当たり前の怒り」で も、怒りは人の心を狂わせる。兄は「このあなたの息子」という言い方が示すように、
もはや弟を弟として認めない。弟が帰ってきた「家」に入ろうとしない。その家族に加 わることを拒むのである。
父親の「当たり前」
父親は息子を懸命に説得する。「わが子よ」(新共同訳は、「子よ」)という父の呼びかけ は、この説得が父から息子への愛情に満ちた説得であることを示す。
その要点は次の三点にある。(1)おまえはいつもわたしと一緒にいる。だからわたし のものは全部おまえのものだ。(2)この子は「わたしの息子」であり、したがって「おま えの弟」だ。無関係な他人ではない(「おまえのあの弟」32節)。(3)おまえはいつも一 緒にいるが、この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったの だ。
最初の要点は、非難しているのではない。ただ事実を確認しているだけといえよう。
父と一緒にいるということは、子山羊どころか、その財産全部は兄のものとなるとい うことを含んでいる。
だが「おまえの弟」と強調するのは、兄が陥った矛盾から兄を解放しようとする父の 呼びかけである。同じ父の子供たち同士は、たとえ好ましくなかろうと勝手な生活を しようと、それで兄弟でなくなるわけではない。それを認めない兄の方は内に矛盾を 抱えている。人は自分のうちに矛盾を抱え込んでいるかぎり平和であることはできな
い。救われないのだ。
自分の息子であれば、死んでいたようなものが生き返ったのなら、これほど嬉しい ことはない。いなくなっていた息子が帰ってきたのなら、手続きを踏んで帰ったのか、
ふさわしい状態で帰ったのかを問題にする以前に、帰ってきたことが嬉しいのだ。だ から、「喜び祝うのは当たり前」なのだ。
譬え話は、この「当たり前ではないか」との問いかけで終わっている。
譬え話の元来の意図
この譬え話は、もともと、前半と後半を持つ一つの譬えとして語られた。確かに前 半だけでもまとまった譬え話として読むことができるし、それだけでも強い印象を与 えてくれる。では後半をも語られたイエスの意図はどこにあるのだろうか。
エレミアスは、それは「実際の状況に則するため! と言うほかない」と言う。確か にイエスはいつもある具体的な状況の中で語ったに違いない。ではその状況ないし語 りかけた相手とはどんな人々だったのだろうか。エレミアスは「この譬えは兄息子の ような人々、つまり福音に立腹している人々に対して語られている」と考える。だと すれば、ルカが設定した枠組みもイエスの本来の意図からはずれていないことになる
(1 ~ 3)。
「二つの頂点を持つ」譬えではいずれもその強調点は第二の頂点にある(マタイ20・1
~ 15、22・1 ~ 14、ルカ16・14 ~ 33参照)。したがって、この譬えを語ったイエス の意図も後半部にあることになる。つまり、これは福音を告げるというより、むしろ「福 音の批判者たちに対して弁明することである」ということになる。
罪人との交わりを生きるイエスがファリサイ派の人々や律法学者たちからそのこと を非難された時、イエスはこの譬えを語ることで自分を弁明する。つまりは行動で語っ た福音を神のなさり方を語ることで正当化する。「神は帰ってきた罪人をこのような愛 と喜びで迎えられる。神とはこのような方だ。だからわたしもそうするのだ」それが 直接の意図ということになる。それはまた、「イエスは、ご自身の行動によって悔い改 める罪人に対する神の愛を実際に実行しているのだと主張される」ことでもある。隠 れた権威宣言と神学者たちが呼ぶものである。
だが、自己弁護だけではない。後半部の内容は、兄息子(とそれが暗示する人々)に 向かって、自分の愛の喜びに加わるようにと説得する父の姿も描かれている。「喜び祝 うのは当然ではないか」との語りかけで譬えは突然終わる。イエスは聴衆に呼びかけ ている。彼らの応答を希望をもって待ち続けているのである。
私の問題として
この譬え話の本来の意味と合致するのかどうかは疑問だが、いつの頃からか、強く 印象に残る言葉がある。そのひとつが「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしの ものは全部お前のものだ」という父の言いぐさである。弟は父の家から飛び出して「死 んでいた」、帰ってきたことで「生き返った」といわれる。だとすれば、「父と一緒にいる」
とは、救い(生きている)の本質を表しはしないだろうか。
私たちは、子山羊一匹を求めた兄のように、神様にさまざまなことを願い求める。
それは健康であったり、成功であったり、幸福であったり、様々であろう。だが本当 に父が与えたいもの、与えることのできるものは「お前はわたしと一緒にいる」という ことではなかろうか。それが「わたしのものはすべてお前のものだ」ということでもあ るのだろう。
参照文献(主なもののみ)
三好 迪、『ルカによる福音書』
(川島貞雄・橋本滋男・堀田雄康 編、『新共同訳 新約聖書注解 I」、
日本基督教団出版局、1991 所収)
J.A. Fitzmyer, The Gospel accordinng to Luke X - XXIV, Doubleday & Company, New York, 1985 J. エレミアス、「イエスの譬え」、新教出版社、1969 G.ローフィンク、「素顔の神」、光明社、1979
*本稿は、「鹿児島カトリック教区報」(1997年11月号 から2001年2月号)で一般読者を対象に「イエスの譬」を 考察した一つに、少し手を加えたもの。