著者 池 俊介
雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇
巻 56
ページ 27‑50
発行年 2006‑03
出版者 静岡大学教育学部
URL http://doi.org/10.14945/00008446
静岡大学教育学部研究報告 (人文 0社 会科学篇)第 56号 (2006.3)27〜 50 27
ポル トガル :マ デ イラ諸島の土地 と生活
hd and Life on Madeira lslands,Pottgal.
池 俊 介 Shunsuke IE
(平成17年9月 30日受理)
I はじめに
マデ イラ島は、ポル トガルの首都 リスボンの南西約1,000hの大西洋上に浮かぶ、日本の奄美大島ほど の面積 (737kぽ)の 島である (図 1)。 同島の北東約4嶽mに存在するポル ト・サ ン ト島 (42kぽ)と 2つ の 無人島 (デゼルタス島 」サルバージェンス島)と ともに、1976年以来、マディラ諸島は 1つ の自治地域 を 構成 してお り、人口は24万3,007人 (2003年)を数える。マデイラ島は国内で も有数の人口欄密地域であ り、
その人口密度 (323.7人/kぽ)は ポル トガル全体の人口密度 (114.3/kぽ)の 約2.5倍に相当する。
大西洋の航路上に位置するマデイラ諸島は、同 じく自治地域 を構成するアソーレス (アゾレス)諸 島と 同様、離島にもかかわ̲らず外部 との交流が きわめて活発であつた。。たとえば、大航海時代の初期にポル ト ガル人によつて「発見」されて以来、マデイラ島のフンシャル港
̀ま
大西洋航路 を往来する船舶の重要な寄 . 港地 として、船舶に対する食糧・水などの必要物資の補給 に貢献 してきた。また、早 くも15世紀 にはマデイ ラ島ではサ トウキビ栽培が本格化 し、16ヒ紀末以降のブラジルの「砂糖の時代」を支えることになるサ ト ウキビの栽培技術や製糖技術の基礎が培われた。さらに、島内で生産されるワイ ンの輸出を通 じてイギリ スとの経済的関係が強められ、それ力ヽ日イギリス植民地への島民の移住につながるなどtマ ディラ諸島の 歴史的歩みは大西洋の海上交通 を媒介 とした島外 との強い結びつ きを基盤 として営 まれてきた。
また、日本での知名度は低いが、マデ イラ諸島はヨーロッパ有数の高級 リゾー トとして、多 くの外国人 観光客 を集めている。ヨーロッパの大衆的なリゾー トとして一般 に知 られるポル トガルの観光地域の中 にあって、唯一マデイラ諸島が高級 リゾニ トとしての性格 を形成 してきたことも、イギリスをは じめ とす る島外の地域 との長い交流の歴史と深い関わ りを持つている。このように、マデイラ諸島の歴史や現在の 地域構造は、外部か らの強い影響力の もとで形成 されてきた点に大 きな特徴がある。
そこで本稿では、自然環境、農業的土地利用の展開、移民の流出、観光地域の形成などに見 られるマデイ ラ諸島の地域的特色 を整理する作業 を通 して、島外 との活発な交流の もとで´
ドラステイックな変化 を遂 げてきたマデイラ諸島の地域像の素描 を試みることにする。
ポンタ。ド│ソル サンタ・ クルス
カマラ・ デ 。ローボス
フンシャル都市圏 フンシャル
ポル トガル
図1 マディラ諸島の概略図
自然環境の特色 と南北のコン トラス ト 急峻な山地地形
マデイラ諸島の全ての島々は火山島であ り、およそ2,000万年前から170万年前 までの火山活動 により島 の原型が形成 された。アフリカプレー ト上 (モロッコの沖合約70蝕m)にあるマデ イラ諸島は、地質的に はアソーレス諸島に比べてかな り安定 した状態にあ り、火山活動 もすでに終息 したと考えられている。マ デ イラ島の中央部 を構成 しているのは巨大な火山性の山塊で、これ らの火山群の度重なる火山活動 によ・
り、西北西一東南東に約5■m、 南北約23hに広がる現在の島の輪郭が形成 された (Vleira,1985)。
マデイラ島の地形は、次の 3つ の地域 に区分 されるのが一般的である(Serv℃ os Geo16gicos de Portugal, 1979)。 第 1は 中央山塊で、島の中央部に位置する複合火山か らなる。この山塊の最高地点はピコ・ルイー ボ山 (標高1,862m)で 、付近には標高1,500〜1,800mの急峻な山々が連 なる (図 2)。 第 2は 西部地域で、北 岸のサ ン・ヴイセンテと南岸の リベイラ0ブラーバを結ぶ深い峡谷 によって中央山塊 と区分 される。西部 地域は、北西一南東方向に伸 びる火山群の活動 によつて形成 され、山頂部 (標高1,200〜1,500m)に はパ ウ ル・ダ・セーハ と呼ばれる東西1■m、 南北amの高原が広が り、山麓集落の牧草地 として利用 されている。
第 3は 東部地域で、東方に向けて標高はかな り低 くな り、玄武岩質の溶岩で被覆 された小規模 な高原が見 られるのが特色である。
これらの火山性の山地は、後述する北東か らの卓越風 と多量の降雨による影響で、現在 までにかな り侵 食が進んでお り、とくに中央山塊は深い峡谷が刻 まれる急峻な地形 となつている。また、西部地域には火 山性のやや緩やかな傾斜地が広がつているが、河川による侵食が進んだ結果、河川に挟 まれた小規模 な尾 根が連続する地形が形成 されている。これ らの尾根 を地元では「Achada」「Lombo」等の名称で呼んでお り、
尾根上の平坦地は集落・耕地 として利用 されている。しか し、これらの小規模な平坦地やわずかな沿岸部 の低地 を除けば、大部分の耕地は山地斜面の階段耕作 によつて確保 されてお り、それがマデ イラ島の農業 景観の大 きな特色 となつている。こうした島のほぼ全体におよぶ急峻な山地地形は、陸上交通 を長年にわ
I l
ポル トガル・マデ イラ諸島の土地 と生活
И 蛛
︱
︱
︱
マディラ島
サン・ ヴィセンテ
ポル ト・サント
リベイラブラーバ
ルイーボ(11862m)
図2 マディラ諸島の地形
たつて阻み続 け、1930年代 に自動車道路 の建設が進め られるまでは、海上交通が島内の物資輸送の主役 を 担 っていた。
波による強い侵食作用の結果、南岸のフンシャル近郊などの海岸線 を除いて、マデイラ島の海岸線のほ とん どが海食崖で占め られてお り、海岸線 の約30%が100m以 上 の海抜高度 をもつ急崖 となってい る
(Ribeiro,1985)。 とくに北東からの卓越風の影響で波による強い侵食を受ける北岸では、大部分の海岸線 が急崖で占め られ、南岸 に比べて海上交通の発達が阻害 されてきた。また、降水量の多いマデイラ島では 河川による侵食作用 も激 しい。河川は海岸近 くまで急勾配を維持 してお り、沖積平野の発達がほとんど見
られず、砂浜に至っては皆無 に近い状態 となっている。
一方、ポル ト・サ ン ト島では、北東 と南西にある玄武岩からなる火山性の低山群 (標高は最高地点で も 440m)がある以外、島のほとんどが平坦地で占め られている。ポル ト・サ ン ト島は、マディラ諸島の中で
は貴重な平坦地 を提供 してお り、1960年にマデイラ諸島で最初に建設 された空港 もポル ト・サ ン ト島に存 在 した。また、ヨーロッパの海岸 リゾー トでは重要性の高い観光資源である砂浜海岸 もよく発達 してお り、
観光面では砂浜に欠けるマデ イラ島の補完的な役割 を担 つている。
2.温暖な気候 と豊富な降雨
マデ ィラ諸島は、基本的には「冬季の降雨 と夏季の乾燥」という気候的特徴 をもち、ポル トガル本土 と 同様 に地中海性気候の地域 に含 まれる。しか し、大西洋上 に位置 し寒流 (カナリア海流)の 影響 を受ける ため、マデ イラ諸島では夏の気温上昇が抑 えられ、年間の気温の変化 も小 さい。図 3に 北緯33° に位置す るフンシャルと北緯39° に位置するリスボンの月別平均気温の変化を示 したが、最寒月 (2月)と最暖月 (8月)の平均気温の差が リスボンでは約13℃あるのに対 し、フンシャルはわずか約 7℃ に しか過 ぎない。
また、リスボンとフンシャルには約6度の緯度差があるにも拘わらず、両地域の 8月 の平均気温にはほと んど差が見 られない。さらに冬の気温の高 さも目立ち、2月 の平均気温はリスボ ンが約10℃であるのに対
29
6 9
フ ン シ ャル (mm)
240
∝ 2 mm
劉
180 に
28
̲/ ⌒ \
離 出
6
サ ン タ ナ
6 9
リスボ ン
図3 マディラ島の気温と降水量
し、フンシャルでは15℃ 以上に達する。このように、マデ イラ諸島の気候は海洋の影響を強 く受けるため、
気温の変化が少な く年間を通 して温暖である。
しか し、マデ イラ諸島の内部には、かな りの気候の地域差が見 られるも事実である。とくにマデ イラ島 では、南・北の明瞭な気候的 コン トラス トが見 られる。こうした島の南岸・北岸の気候の地域差は、山地 が卓越するマデイラ島の地形によつて生み出されている(図 2)。 マデ イラ島は、年間を通 してアゾレス高 気圧か ら吹 き出す赤道東風の影響下に置かれるが、北岸はこの北東風 を正面か ら受ける位置関係 にある。
そのため、北東か らの湿潤な卓越風は上昇気流 となつて山地斜面 を上 り、標高400〜500mから大気中の水 分の凝結により雲が発生 し、北側の山地斜面 に多量の降雨 をもたらす ことになる。一方、南岸の地域は乾 燥 した下降気流 に支配 されるため、降水量が少な く晴天率が高 くな り、北岸に比べて気温 も上昇 しやす く なる。図 3に はサ ンタナ (北岸)と フンシャル (南岸)の 降水量 を示 したが、フンシャルの年降水量はサ ンタナの約半分 にしか過 ぎず、とくに夏季 における南・北の降水量の差が顕著である。こうしたマデ イラ 島南岸の相対的に少雨で晴天率の高い気候 は、観光施設の南岸地域への集中をもた らす大 きな要因 と なつている。
また、マデ イラ島では標高による気候の地域差 もきわめて大 きい。標高400〜500mから発生する雲は、
標高1,200〜1,400mま での斜面 を覆 うため、これらの雲 に覆われる地域 においては降水量がき わめて多 く なる。たとえば、南岸の沿海集落マダレーナ 。ド・マールでは年降水量が 560mmに 過 ぎないのに対 し、雲 が発生 しやすい標高1,260m地 点にあるカラムージャでは、年降水量は3,000miに まで達する。一方、雲の 上限である1,400m以 上の標高の高い地域 においては逆 に降水量が少な くなる。とくに、夏季 には乾燥が
̲著しくなるため、標高1,400m付 近が樹木の生育限界 となつている。
マデ イラ島の北岸地域 を中心 にもたらされる多量の降雨は、火山噴出物か らなる浸透性の高い土壌 に 吸収 され、年間を通 して安定 した流量の水 を河川に供給 している。北側斜面の豊富 な水資源は、灌漑用水 に よつて降水量の少ない南岸地域に供給 され、生産性の高い集約的農業 を支えている。
一方、ポル ト・サ ント島は、平坦地が卓越するため上昇気流が起 きに くい条件にあ り、年降水量は560mm に過 ぎない。そのため、降水量が豊富 なマデ イラ島に比べて利用可能な水資源に乏 しく、それがこの島の 農業の発展 を大 きく制約 して きた。
ポル トガル・マデ イラ諸島の土地 と生活
Ⅲ 集約的な土地利用の展開
1.新しい作物の実験場
いわゆる大航海時代の幕開けとともに、大西洋に進出 したポル トガル船によつて多 くの島々や大陸が
「発見」されることになったが、その嗜矢 となったのがザルコらによる1418年のマデ イラ諸島の「発見」
であったガ。ポル トガルを出港 した帆船は、大西洋上のアゾレス高気圧から時計回 りに吹 き出す北東風に のって南進することになるが、リスボンの南西に位置するマデイラ諸島はその航路上に位置 してお り、マ デイラ諸島が大西洋の島々の中で も最初に発見 されたのは、いわば必然であつた。
マデ イラ諸島への入植が開始 されたのは1425年で、それまでは「マデイラ (樹木)」 という名のごとく、
森林 に覆われた無人の島であった。マデイラ諸島は3つのカピタニア (行政区)に 区分 され、本格的な入 植が進め られた1433年以降は、国王か ら土地の分配を任 されたエ ンリケ王子により、鍬下5年の契約で未 墾地が入植者に分与 された(Ⅵetta et al.,2001)。 ポル トガルにとってマデイラ諸島は海外における最初の 入植地であ り、マデイラで試行 された入植制度が、その後ブラジルなどの海外領土においても適用 される ことになった。
開墾はマデ イラ島東部のマチーコか ら南岸 を西に向けて進め られ、これ ら沿岸地域においては入植開 始か らわずか数年で開墾が進んだ。15世紀の末にはマデイラ島には 9つ のフレゲズ ィア (小教区)鋤 が存 在 したが、その うち 8つ は日照率が高 く海上交通の利用 も容易な南岸地域に集中 してお り、入植当初か ら 南部沿岸地域が居住・農業の中心であった。一方、絶壁が連な り海上か らのアクセスも難 しい北岸におい ては入植が遅れ、16世紀末においても島内の26のフレゲズ ィアの うち、北岸に存在するものは 7つ に過 ぎ なかった (Ribeiro,1985)。 また、ポル ト・サ ン ト島で も、野生 ッサギの大群 と乾燥 した気候に阻まれて入 植の進行が遅れた。
開墾 された農地では、小麦などの穀物のほか、サ トウキビ・ブ ドウなど多種類の作物の栽培が試み られ た。その うち短期間の うちに最 も栽培が発展 したのは、イタリアか ら持ち込 まれたといわれるサ トウキビ であつた。1452年には、マディラ諸島で最初の砂糖農園 (engenho)が 設立 され、ここではサ トウキビの栽 培か ら製糖 までが一貫 して行われた。すでに15世紀末には、マデイラ島南岸には80カ所の砂糖農園が存在 し、水車を動力 とする圧搾機 を使 って製糖作業が進められた。生産 された砂糖は、フランドル地方やベネ チア・コンスタンチノープル等の地中海沿岸地域へ と輸出され、高価格で取引された砂糖はマデイラ島に 大 きな収益 をもたらした。サ トウキビ生産 と砂糖貿易に伴 う税収は、当時のポル トガルの国家財政におい て も重要な位置 を占め、1527年には国全体の収益の うちマディラ諸島からの収益が6%を占めたの。
サ トウキビ栽培や砂糖生産は、カナリア諸島やアフリカ・ギニア湾岸地域から集められた奴隷労働力を 使用 したプランテーション経営の もとで行われたが、こうした農業経営方式や栽培・製糖に関する技術は、
マデ イラ島民によって1515年頃か らブラジルに移植 されるようにな り、1570年代 に始 まるブフジルの「砂 糖の時代」を支えることになった。さらに、マデ イラ島からのサ トウキビの移植は、カリブ海のアンティル 諸島や遠 くハ ワイ諸島にまで及び、砂糖生産を広 く熱帯・亜熱帯地域に普及 させるうえで、マデイラ島は
きわめて重要な役割 を果た した。
しか し、その後のブラジルやカリブ海地域でのサ トウキビ栽培の著しい発展に伴い、16世紀に入ると次 第にマデイラ産の砂糖は国際的な競争力を失っていった。そのため、以後はポル トガルの保護貿易政策の もとで主に蒸留酒の原料 として生産が維持 されるにとどまり、主要な輸出品の地位をヮインに譲ること になった。
ワイン加工用のブ ドウは、サ トウキビに代わる農作物 として16世紀後半からマディラ島の南岸地域で 急速に生産量が増加 しはじめ、17世紀にはヮインはマディラ島の主要輸出品としての地位を確立 した。17
世紀前半には、生産 されたワインは主にブラジルに向けて輸出されたが、その後 イギリスがワイン貿易 を 独 占 しは じめたのに伴い、輸出先はバルバ ドス・ジヤマイカ・ニューイングラン ド地方などの当時のイギ リス植民地や、イギ リス本国をは じめ とするヨーロッパ諸国に拡大 した (Melim,2000)。 この ように、マ デ イラ島は大西洋航路の重要な寄港地であつたため、その輸送面での有利性 を活か して、マデイラ産ワイ ンは大西洋沿岸の広い範囲に販路を広げることになつた。 に
一方、熱帯性の農作物であるバナナも、サ トウキビ栽培の衰退 とともに16世紀中ごろか らマデイラ島の フンシャル周辺で栽培が始 まったが、生産量が増加 しは じめたのは1925年頃か らであった。とくに、生産 量が順調 に伸 びは じめた1944年には、1911年の15倍に相当す る約8,000ト ンの生産量 を記録 し (Ribero, 1985)、 おもに国内市場向けに出荷 された。
入植以来、温暖多雨な気候条件の下 にあるマデイラ島では、サ トウキビやバナナをは じめ熱帯原産の多 様 な農作物が試作 されてきた。とくに、栽培が成功 して莫大な収益 をもたらしたサ トウキビは、その後ブ ラジルなどの植民地 に積極的に導入 されて栽培が発展 し、本国ポル トガルの国家収入を著 しく増大 させ た。‐一方、中米原産の トウモロコシは、マデイラ島での試作 を経てヨーロツパに導入 され、とくにポル トガ ル北西部では著 しい栽培の発展が見 られ、慢性的な食糧不足の解消に貢献することになった。そうした意 味で、マデ イラ島は「新大陸へ導入する作物の実験場」としての役割 を果たす と同時に、「新作物の ヨー ロッパヘの入口」としての機能 も担つてきたといえる (Gaspar,1993)。 大西洋航路上に位置 し大陸間を往 来する船舶の寄港地であつたマデイラ諸島は、まさに世界の農耕文化が交錯する場であった。
2.灌漑率の高い階段耕地
マデイラ諸島では、作物の生育する夏季に降雨が少な く灌漑の必要性が高いため、1999年の農業センサ スによれば、マデイラ諸島の灌漑耕地率は84%、 マデイラ島に限定すると90%と いう高率に達する。とく に、マデイラ島の農業 を支えてきたサ トウキビ・ブ ドウ0バナナ等の主要な商品作物の栽培 には灌漑が不 可欠であ り、これ らの農地に関 しては灌漑率はほぼ100%に 達 している。
一
河 川
図4 マデ ィラ諸島の主 な灌漑用水の分布 Ribeiro(1985)に よる。
ポル トガル・ マデ イラ諸島の土地 と生活
(m)
1500 △∫∫△
● △
■
● ●
富 ・
9°
皿 □ □ 鱚 □ 日 □
1.サトウキビ 2.ブドウ 3.バナナ 4.穀物 5,マ ツ林 6.森林および潅木 7.牧草地
図5 マデ ィラ島南岸の垂直的土地利用 RibeiЮ (1985)に よる。
地元で「■evada(レバーダ)」 と呼ばれる灌漑用水 は、主要なものだけで も島内で約200を数え、総延長は 約1,000kmに も達する (図 4)。 とくに、農地は日照率の高い南岸地域 に集中 しているため0、 降水量が多 く水量が豊富な北岸地域の河川の水が、長大な灌・Fy用水 によって南岸地域 にもた らされている。たとえば、
1835〜90年に建設 されたマデイラ島南西部 にあるラバサル用水 は、マデ イラ島では最長の2独mの流路延 長 をもつ。これ らの灌漑用水の水路 は、一般的には深 さ50cIIl、 幅70cIIlの石造 りであ り、幹線水路の流量は 毎秒60〜80ι 、支線水路で も毎秒12〜30ι に及んでいる (Ribeiro,1985)。
これ らの灌漑用水の多 くは、プランテーションの灌漑用、あるいは製糖工場の圧搾機の動力源 として大 土地所有者によって建設 された ものが多いが、国や農家共同の事業 として建設 されたもの も存在 し、水利 慣行 も多様である。しか し、一般的には受益者集団の中か ら選出された水配責任者の管理 もとで、厳密 な 用水配分がなされている場合が多 く、1耕地ごとの灌・ry時間は15分単位で決め られている。大部分の耕地 では、5〜 9月 の5カ 月間に多 くとも4〜 5回 程度の灌漑 しか許可 されないが、灌漑耕地においては穀物 栽培の場合2年間に 3〜 4回 の収穫が得 られるため、集約的な農業経営 には灌漑用水が不可欠の存在 と なっている。
灌漑率の高 さとならぶマデイラ農業の もう 1つ の特色は、山地斜面 に展開する階段耕地の多 さである。
マデ イラ島では灌漑用水の重要性が きわめて高いため、耕地は灌漑用水 による灌水が可能な標高700m以 下の地域 にほぼ限定 されるが、とくに南岸地域 においては700mよ りも標高の低い土地は一面の階段耕地 によって占められている。高い人口圧の結果 として生み出された階段耕地は、マディラ島の美 しい農村景 観の重要な構成要素 となっている。
こうした山地斜面における階段耕作は、垂直的な土地利用による集約的な農業経営を発達 させた。図5 は、南岸のフンシャル近郊の垂直的な土地利用 を模式的に示 したものである。最 も標高の低い地域で栽培 されているのはバナナであ り、南岸地域のバナナの栽培限界は標高300m以 下で、とくIF「Faia(フ ァジャ ン)」 と呼ばれる温暖な沿岸低地が栽培の最適地 とされている。また、サ トウキビの栽培限界は、南岸地域 では約400m、 北岸地域では約200mで あ り、サ トウキビ・バナナの栽培地域はほぼ重なつている。下方、晴 天率が低い北岸地域は、サ トウキビ・バナナの栽培には適 さず、沿岸低地でわずかにバナナが栽培 されて いる程度である。
ブ ドウの商業的栽培は、南岸地域では標高400m以 下、北岸地域では海岸に近接 した低地でのみ行われて いるが、南岸地域ではバナナ栽培 との競合の結果、実際には標高200〜400mに 栽培地域が広が つている。
このように、マデイラ島の主要な商品作物であるサ トウキビ.・ バナナ・ブ ドウは、温暖な気候条件が必要 とされるため、いずれ も南岸地域 を中心 とする標高400m以 下の地域で栽培 されてお り、これらの地域がマ デ イラ農業の中核 を形成 している。
これ らの商品作物の栽培地域 よりも標高の高い地域では、雲が発生 しやす く南岸地域 においても日照 率が低 くなるため、暖地性の作物に代わ リトウモロコシ・小麦・大麦等の穀物が栽培 される。また標高500
〜900mの 地域では、リンゴ等の果樹栽培 も行われている。
一方、標高700〜1,400mの地域は、厚い雲で覆われることが多いために、森林 として残 されている。また、
雲の上限を超える1,400m以上の地域は、夏に乾燥するため樹木の生育に適 さず、お もに牧草地 として利用 されている。これ らの森林や牧草地か ら供給 される草は、家畜の飼料や肥料 として利用 され、これらの草 肥の大量投下が火山性土壌 における生産性の高い商品作物の栽培 を支えてきた。
標高による気候条件の違いを活か した垂直的な土地利用は、結果 として多様 な作物の栽培 を可能 とし、
それがマデ イラ島を完全 なモノカルチ ャーに陥 らせ ることな く、比較的安定 した農業経営 を実現 させ る ことにつながった。
3。 経営規模の零細性
マデイラ島では、大土地所有制の もとでの商品作物の栽培が発展 したが、17〜18世紀には、地主 と小作 農 との間にマデ イラ島独特の土地貸借契約が誕生 し普及することとなった。これは慣習法 に基づ く土地 の貸借契約であ り、地主は小作農か ら生産物の一部 を受取る一方、小作農に対 して一定の土地 0財産の所 有権 を認めた ものである。具体的には、小作農は農地内に建設 した住宅の所有権 を有するほか、地主の事 前の許可を得れば家畜小屋等の建設や果樹の植栽が可能で、それらの所有権 も小作農に帰属 し、所有権は 地主が交代 しても継続的に認められた0。 また、自給作物 を栽培する農地や牧草地については、借地料 を徴 収する地主 もいたが、一般的には小作農が無償で土地 を利用することができた (Ribeiro,1985)。
実際には、土地貸借契約の内容はきわめて多様であるが、小作農は地主に対 して主要な生産物の半分を 提供する義務 を負い、種・肥料・灌漑用水 に関わる費用は地主0小作農の両者で分担するのが一般的であつ た といわれる。小作農は、こうした一定の土地・財産の所有権 を認め られた土地貸借契約の もとで、ほぼ 永続的に同 じ農地 を耕作することがで きた。
このような土地の貸借契約の端緒は、すでに1477年に南岸のポンタ・ ド・ソルで見 られたとされるが、
本格的に普及 したのは不在地主制の もとでのサ トウキ ビ栽培の衰退が顕著 となった16世紀後半か らで あった。すなわち、分益小作 に対 して一定の土地・財産の所有権 を認め、その地位 を保障す ることで、集
表1 経営農地規模別の経営体数の割合
1965年 単位:%
規 模 <lha 1‐2ha 2‐5ha 5‐10ha 10‑20ha 20‐50ha 50ha≦
9 1 94
7︲ 4.1
17.4
8 3 0 7
1 4 0 2
0 1
0 0
・ 6
マディラ政府統計局資料により作成
ポル トガル・マデ イラ諸島の土地 と生活
表2 経営農地面積の推移
単位:ha 1989年 199鉾 1995年 1997年 1999年 総農地面積
ブ ドウ栽培面積 バナナ栽培面積
7,012 1,805 1,178
07
︲2 59 0 9 1 8 1 1
7,360 2,282 876
71315 2,314 955
5,645 1,520
1・
マデ ィラ政府統計局資料により作成
約的な農業生産を維持するための責任ある農地管理者を確保 しようとする意図が地主側にあ り、それが こうした土地貸借契約の普及につながった。とくに、サ トウキビに代わる主要作物 としてのブ ドウの栽培 が、こうした制度のもとで順調に発展 したことや、1767年に奴隷貿易が禁止され奴隷労働力への依存が困 難 となったことが、こうした土地貸借契約の普及と定着を促進することになった (恥挽L et al.,2001)。
しか し、この土地貸借契約は、す定の土地・財産の所有権を小作農に認めたとはいえ、あ くまで地主側 に有利であることに変わりはなかった。そのため、18世紀後半から小作農による農地解放の要求が強まり はじめたが、地主側の強い抵抗により成果をあげられないまま20世紀を迎えた。しかし、ロンバーダ0ダ・ ポンタ「 ド・ソルで勃発した1927年の小作争議を機に、ようや.く 政府は大土地所有者の土地の買収を進め 小作農に売却 した。ただ実際には、その後もこの制度は残存 し、農地解放による自作農の創設が完全に実 現されたのは、マディラ自治政府が成立した翌年の1977年であった。 :
こうした小規模な自作農の増加の過程でヽマデイラ諸島の農業経営の零細性はより顕著となり、それが 現在のマデイラ農業の特徴の1つとなっている。表1に示したょうに、近年は経営規模がやや拡大する傾 向が見られるものの、全経営体のうち経営農地がl ha未満のものは93:6%にまでのぼっているも1999年の 農業センサスによれば、マデイラ自治地域の 1経営体当りの農地面積はわずか039haであり、ポルトガル
v″●匈 ヽ
︺ ・ 中
″
・′い一一︻いザ F 0一﹁
ハ︑︑
.4 鋼︲
.︲︲ oン
′ト
メ︑.′R﹃ メJ︲
一●
︑ t
.︒
︑
.
.
ピ
サ トウキビ
図6 主要作物の生産量の推移 マディラ政府統計局資料により作成。
本土の平均 (9.3ha)に比べて も経営規模の小 ささが目立つ。しか も、1経営体当 りの農地の分散度 も高 く、
農地が 4カ 所以上に分散 して存在する経営体が全体の37%にのぼっている。
マデイラ諸島では、きわめて集約的な農業経営によつて、農地の狭小 さという制約を克服 し結果 として 多 くの人口を支えてきた。しか し、農業経営の過度の零細性 と1筆ごとの農地の分散は、経営の合理化・
近代化により農業収入の増加を図るうえでの大 きな障害 となっている。実際に、マデイラ諸島における観 光地化の進展の中で、農業従事者の所得水準は相対的に低下 しつつあ り、それが近年の農地面積の減少に つながつている (表 2)。
近年の主要農作物の生産量の推移を見ると、農地面積の減少 を反映 して、全体 として生産量は減少傾向 にある (図 6)。 かつてマデイラ農業 を支えたサ トウキビ栽培は1980年代以降の衰退が著 しく、それに代 わって沿岸地域 における栽培作物の中心は完全にバチナヘ と移行 した。一方、重要な輸出品であるワイン の原料 となる発酵前のブ ドウ果汁の生産量は、毎年のブ ドウの作柄に強 く影響 されるため、年ごとの変動 が著 しい。現在で も年間4,000"以 上の生産量は維持 しているものの、1980年代以降の生産量は次第に減 少する傾向にあ り、マディラ経済全体に占める農業の地位低下 を如実 に反映 している。
Ⅳ 大西洋をめぐる人と物の移動
1.貿易の活発化 と経済発展
入植以来の商業的農業の発展 に伴い、マデ イラ諸島では生産物 を輸送する海運業や貿易業 をは じめ と する商業活動が活発化 した。まず、15世紀中頃か らのサ トウキビ栽培の発展が、砂糖貿易を目的 とする多 くの外国人の来島を促進 させた。Vleira(1987)に よれば11500〜 40年にマデイラ島の中心地フンシャルで 商業活動 を営む事業者は103人にのぼったが、その うち66人は外国人で占め られていたの。このように、マ デイラ諸島では開発初期か ら商業活動の多 くが外国人によつて担われてきた点に大 きな特徴があつた。
16世紀後半にサ トウキビ栽培が衰退すると、その後のワイン貿易の発展に伴 つて、マデ イラ諸島と南̀ 北米大陸 との交易が活発化 した。このワイン貿易において主導的な役割 を果た したのはイギ リス商人で あ り、彼 らは1633年か ら北米やカリブ海沿岸地域など自国の海外領土に向けて、ワインをは じめ とするマ デイラ諸島の生産物の輸出を開始 した。彼 らは、マデイラ諸島を本国 と南アフリカ・北米・カリブ海沿岸 地域などの海外領土 とを結ぶ中継地 として位置づけ、大西洋をめ ぐる貿易の拠点 として利用 した。そのた
。め、マデイラ諸島に居住するイギリス人の数 も次第に増加 し、1658年にはイギリスの領事館がフンシャル に開設 された。さらに、18世紀 に入ると、北米 0カ リブ海地域・イン ド・ブラジルなど、イギ リスの海外 領土を中心 にワイン需要が増大 したのに伴い、マデイラ産ワインの輸出量は飛躍的に増加 し0、 イギ リス 商人によるワイン貿易は順調 に推移 した。その結果、1793年にはマデ イラ島の貿易会社30社の うち、イギ リス系カラ6社を占めるに至 り、マデ イラ経 済 にお けるイギ リス商 人の優位性 は確実 な もの となつた
(MinchintOn,1989)。
Abreu de Sousa(1989)に よれば、1727〜1802年の75年間にフンシャル港に入港 した船舶数は2万6,669
隻 を数えたが、それらの船舶の国籍別の割合を見ると、イギリス (59%)・ ポル トガル (18%)・ アメリカ 合衆国 (14%)・ デンマーク (3%)・ スペイン (1%)と 、イギ リス船の入港が圧倒的に多いことが分か る。イギリスは、ポル トガルとの密接 な経済関係を背景 として、マデ イラ諸島か らのワイン貿易を支配す るとともに、海運業を通 じても莫大な利益 を獲得することに成功 したり。
このように、マデイラ諸島はワインの生産・貿易を通 じて著 しい経済的発展を遂げたが、それは主にイ ギリス人の商業活動に大きく依存 したものであつた。したがつて、ワイン貿易はイギリスにきわめて大き
ポル トガル・ マ デ イラ諸島の土地 と生活
な収益を、もたらしたが、マデイラ諸島の住民の大部分は、不利な耕作条件のもとでの貧しい生活を甘受せ
ねばな らなかった。
2.人口増加 と移民の流 出
マデ イラ諸 島では、1425年 に入 植が開始 されて以降、順調 に人口が増加 したが、これ らの来島者の多 く は、過剰 人口を擁す るポル トガル本土か ら移住 した人々であった。Carita(1989)に よれば、1539〜1600年 に フンシャルの教会で結婚式 を挙 げた人 々の出身地 は、ブラガ県 (26.3%)、 ヴ イアナ・ ド0カステロ県 (14.4%)、 ポル ト県 (9.30/0)な ど本土の北西部の県で 占め られてお り、マデ イラ諸 島へ の移住者の多 くは 人口密度 の高いポル トガル北西部の出身者であつた。こうした本土 の過剰人口のはけ口 と して、マデ イラ 諸 島 に向か つて続 々 と入植 者 が流入 し、す で に16世紀 の初 め には人 口 は約1万5,000人を数 えた(Carit
1989)。
ワイン輸出量の増加 に伴 ってブ ドウ栽培が安定化 したことにより、17世紀初めか ら18世紀中ごろにか けて、さらに本土か らの移住者が増加 し、18世紀末にはマデイラ諸島の人口は10万人を突破 した。1852年 および1872年には、病虫害の発生によリマデ イラ島のブ ドウ栽培は大打撃を被 り、一時的に移住者の流入 は減少 した。しか し、ブ ドウ栽培が復活すると再び流入人口は増加 し、1864〜1900年には20%を超える人 口増加率 を示 した (図 7)。
その後 も人口増加の勢いは止 まらず、1930〜 50年には人口増加率は25%を超え、1960年の人口は史上最 高の26万8,069人を記録 した。ただ し、1938〜1947年の人口の自然増加率が14.6%に 達することからも明ら かなように、この時期の人口増加は、マデイラ諸島への移住者の増加 と高い出生率によってもたらされも
図7 マデ ィラ諸島の人口の推移
のであった。とくに、この時期 には農 村地域における劣悪な衛生環境が改善 されたのに伴い、乳幼児死亡率の低下 が見 られたが、それが人口増加 を加速
させた。 .
ところが、図 7に 示 したように、1960 年代以降はマデ イラ諸島の人口は安定 状態 に入 り、微減傾向 さえ見 られるよ うになる。こうした人口減少の原因 と なったのが、島外への移民流出の増加 であった。
マデイラ諸島における島外への移民 の動 きは、すでに18世紀か ら見 られた。
た とえば、労働力不足 に悩 んでいたブ ラジル南部のサ ンタ・カタリーナ州に 向けて、国策 としてマデ イラ諸島0ア ソー レス諸島住民の移住が奨励 され、
(年)1748〜56年に両諸 島か ら6,000人以 上 が流出 した (Ⅵe■a et al.,2001)。 しか し、マデ イラ諸島か らの移民流出が本 格的に始 まったのは19世紀中頃か らで
37
国立統計院資料により作成。
(千人)
8
︱ ヽ
1
ヽA
1 1 71
Vゝ'
A‖ A
J
ν .ハ
‖ ゴ U
I I11
W Y
⁚
︐ I
薇メ
l l l
´ 「t∫ メI WV3 tヽ︑
ヽ
V̀Ẁ̲̲L
1890 1900
図8 マデ ィラ諸島の移民人口の推移
国立統計院資料により作成。
あ り、それは1834年にイギ リスで、1836年にポル トガルで奴隷制が廃止 されたことにより、中南米のサ ト ウキビ・コマヒ 等のプランテーシヨンが深刻な労働力不足に陥っていたことに起因するものであつた。
結果 として、表3に示 したように、1834〜71年の移住者の うち90%以上が アンテ イル諸 島・ガイアナ と いった当時のイギ リス植民地に移住 し、お もにイギ リス人が経営す るプランテーシヨンで過酷 な農業労 働 に従事 した。これらの移民は、まさに「白い奴隷」と呼ばれるに相応 しい性格の ものであつた。
一方、1872年のブ ドウの虫害を機 に、1870年代か らはハワイ諸島への移住 も始 まった。とくに、ポル トガ ル・ハ ワイ政府間の移民協定が締結 された年の翌年 (1883年)に は、マデ ィラ諸島住民2,293人がハワイ に向けて移住 した。彼 らの多 くは、サ トウキビのプランテーションにおいて農業労働者 として雇用 された
り、日本人を含む他の移民労働者たちの現場監督の業務に従事 した (Spranger,2001)。
その後 も、20世紀にかけて移民は継続的に流出 したが、とくに1950〜70年代初めにかけて移住者数が飛 躍的に増加することになつた (図 8)。 この時期 には、移住先に変化が見 られ、ベネズエラ・ブラジル・オ ランダ領アンテイル (キュラソー島)等 の中・南米地域が約85%を占める一方10、 南アフリカヘの移住者 も全体の11%にのぼった(表 3)。 この時期 には、ポル トガル全体ではフランスをは じめ とする西欧先進諸 国への移住が大部分 を占めていたが、その中にあつて、中・南米やアフリカヘの移住者の多いマデイラ島 は、きゎめて特異な存在であつた。アソニレス諸島でも、この時期にはアメリカ合衆国・カナダヘの移住 者がほとんどを占めてお り(拙稿,2000)、 大西洋をめぐる諸地域 との結びつきが強い両諸島の性格は、移 民の目的地にも明確に反映されることになつた。
こうした継続的な移民流出の結果、1886〜1988年までの約100年間に、現在のマデイラ諸島の人口の約 88%に相当する合計21万3,256人もの住民が島外へ移住 した。しか し、1973年のオイルシヨックを契機 と
して、マデイラ諸島からの移住者数は減少 しはじめ、近年ではイギリスのチヤネル諸島やスイスヘの季節
(年)
ポル トガル・マデ イラ諸島の土地 と生活
表3 マディラ諸島からの目的地別移住者数
1834‐71年1) 1945‐66年2) 1976‐82年3)
目的地 移住者数 (%) 目的地 移住者数 (%) 目的地 移住者数 (%)
ア ンテ ィル諸島 ガイアナ ブラジル ア メリカ合衆国 その他
35,151(64・.2%) 16,400(29.9%) 2,726(5.0%) 418(0.8%)
84( 0.1'イ)
ベ ネズエラ ブラジル 南 ア フ リカ オランダ領アンティル その他
34,084(40.3%) 31,546(37.3%) 9,270(11.0%) 5,911(7.0%) 3,799( 4.4%)
ベネズエラ イギ リス アメリカ合衆国 南アフリカ その他
3,184(54.3%) 950(17.19イ)
775(13。9%) 280(5.0%) 372( 6.7%)
計 54,779 (100%) 計 84,610(100%) 計 5,561(100%)
1)はVieira(1993)、2)はCardoso(1968)、 3)はマディラ政府統計局のデータによる。
的な出稼 ぎ者が、わずかに存在するに過 ぎない11)。 こぅした1970年代後半か らの島外への移住者の減少は、
マディラ諸島の観光地域 としての発展に伴い、島内の雇用力が著 しく増大 したことと密接な関係がある。
V「大西洋の真珠」
1.外国人観光客の流入 ・
マデイラ諸島における観光は、18世紀後半に肺結核患者の療養地としての優れた気候環境が着目され はじめ、19世紀初めから療養目的の観光客が多 く訪れるようになったことに始まる。こうした需要に応え るために、1840年イtか ら主にイギリス商人によって「キンタ(Quhta)」 と呼ばれる宿泊施設が建設され始 めた。キンタとは、ィギリスをはじめとするョーロッパ諸国の富裕層を対象とした観光用の貸家であり、
放棄された邸宅などを改装 して豪華な調度品で飾 り、庭園 。農園・チャペル等の施設を整備したものが多 かつた。19世紀中頃には、すでにキンタ22軒、ホテル3軒がフンシャルおよびその近郊で営業 していた
(suva,1989)。 1859年にはポル トガル初のサナ トリウムも建設されたほか、安価な料金の宿泊施設も営業 をはじめ、1850年代には年間300,400人 の療養目的の観光客が訪れた に加知吼2002)。
こうした観光客の増加に伴い、行政当局は1884年から街路灯や自動車道路等のインフラ整備、道路清掃
(万人)
39
65 70 75 80 図9 マデ ィラ諸島の宿泊者数の推移
2000 (年)
国立統計院およびマデ ィラ政府統計局資料による。
表4 宿泊者数 と収容人員の推移
年 ホテル オテル・アパルタメント ベ ンサ オン その他 合 計
施設数 収容人員 施設数 収容人員 施設数 収容人員 施設数 収容人員 施設数 収容人員 1965
1970 1975 1980 1985 1990 1996 2002 2004
11 11
17
1 5 3 2 2 2 2 3 5 5
1,386 2,110 4,807 5,938 6,309 7,753 9,114 13,232 13,909
一 一
︲2
¨
︲5 20 29 47 38
。1,954 4,013 3,398 3,726 5,233 11,026 9,382
29
58
¨ 38 38 47 5︲ 59
778 1,489 1,732 1,497 1,413 1,624 2,036 2,044 2,596
2 1 1 一 1 3 4︲
55 70
35 26 1,035 6 94 1,768 3,711 3,636
42 6︒
88 一 75 86
︲50 305 3︲9
2,199 3,625 9,528 11,454 11,120 13,197 18,151 30,013 29,523
国立統計院およびマデ ィラ政府統計局資料 による。
などのサービス事業を進めた。また、観光スポットであるモ ンテとフンシャル中心部の旅客輸送のために、
1887年にケーブルカーの建設計画が策定 され、1912年に開通 した。また、1891年にはマデイラ初の観光 ガ イ ドブ ックも発行 された。こうした観光客の受入体制の整備が進 んだ結果、1911年の年 間観光客数は 6,068人に達 し、1925年までにフンシャル市内のホテルは12軒を数えるに至つた (Silva et al.,1985)1の。し か し、当時の観光客は冬季に集中 していたため、宿泊施設は季節営業を余儀な くされた。オフシーズンの 夏季には、従業員の多 くはイギリス・チヤネル諸島のジヤージー島の宿泊施設で出稼 ぎ労働者 として働 き、
そこで接客に不可欠な英語能力を身につけたといわれる。
1930年代 に入ると、マデイラ観光協会が設立 され、観光協会の主導で積極的に国内・外のジヤーナリス
トの招致が進め られた。ジヤーナリス トの取材 を通 して、マデイラ諸島の美 しい景観や温暖な気候条件な どの地域情報が広 く宣伝 され、その後の通年観光地 としての歩みが始 まった19。 こうした国 。地方行政の 手 によらない民間主導 による組織的な宣伝活動が成功 した事例 として、マデ イラ諸島のケースは特筆 に 値 しよう。
第二次大戦中には、観光客の激減によリホテルの廃業が相次いだが、ヨーロツパ諸国の戦後復興が進む とともに、次第に観光客が増加 しは じめた。とくに、ポル トガル政府による外貨収入の増加 を目的 とした 観光振興政策が本格的に進め られた1960年代半ば以降、マデイラ諸島はリスボン0アルガルヴェ地方 とな らぶ重点 開発地域 の1つに指定 され10、 国際的 な リゾー トと して飛躍的 に発展す る基礎が築かれた (Cavaco,1999)。 1990年代前半にはイギリスの景気後退 による一時的な減少が見 られたものの、宿泊者数 は順調 に増加 を続け、2003年には年間宿泊 者 数 が 史 上最 高 の85万6,482人 に達 した
(図 9)。 こうした観光客の増加 を背景 と して、宿泊施設数の増加 とともに宿泊施設 の規模の拡大が図 られた。とくに、宿泊者 数が急増 した1990〜2002年には、宿泊施設
‐の収容人員は2倍以̲上にまで増加 した(表 4)。
マデ イラ諸 島の宿泊者の多 くは外 国人 であ り、1965年においては宿泊者全体 の 82%が外国人で占め られた(表 5)。 中で も、
マデ ィラ諸 島の観光地化 に先鞭 をつけた 表5 国籍別の宿泊者数
国 籍
1995年 2004年
宿泊者数(人) 割合(人) 宿泊者数(人) 割合(人)
ポル トガル イギ リス
ドイツ フランス フィンラン ド スベイン スウェーデン オランダ デ ンマーク ベルギー その他
7,652 11,753 3,234 6,029 155 2,690 500 665 1,081
319 8,704
︲7
.9 27
.5 7
.6
︲4
.︲ 0
. 4 6
.3
︲
・2
︲
・6 2
.5 0
・7 20
. 3
225,233 197,524 140,767 49,418 33,732 30,788 25,061 24,779 18,329 18,180 78,285
6
.7 3
.5 6
.7 5
.9 4
.0 3
.7 3
.0 2
.9 2
.2 2
.2 9
.3 2 2 1
合 計 42,782 100 842,096 100 国立統計院およびマデ ィラ政府統計局資料 による。