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ポルトガル・アソーレス(アゾレス)諸島 : ヨーロ ッパとアメリカの結節点

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ポルトガル・アソーレス(アゾレス)諸島 : ヨーロ ッパとアメリカの結節点

著者 池 俊介

雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇

50

ページ 95‑116

発行年 2000‑03‑23

出版者 静岡大学教育学部

URL http://doi.org/10.14945/00008444

(2)

静岡大学教育学部研究報告 (人文・ 社会科学篇)第50号 (2000.3)95〜116

ポル トガル・ アソーンス (ア ゾレス)諸

一 ヨー ロ ッパ とアメ リカの結節点―

The archipelago of Azores,Portugal… ―「rhe node between]Europe and America

Shunsuke IKE

(平成11年10月4日 受理)

は じめに

ポル トガルのアソーレス (英語ではアゾレス)諸島は、大西洋上 に浮かぶ九つの島々か ら構 成 され、東端のサ ンタ・マ リア島か ら西端のフローンス島 まで、東西 は約580kmに も及ぶ広が

りを持 っている。 日本では「アゾレス高気圧」な どとしてその名が知 られているものの、 ヨー ロッパの中では情報量が きわめて少ない地域のひ とつである。アソーレス諸島全体の面積 は沖 縄県の面積 (約2,265平 方km)よ りやや大 きく、最大の面積 を有するサ ン0ミ ゲル島で も約750 平方kmに過 ぎない(表 1)。 それ らの島々に、沖縄県の人 口の約5分1に相当する約24万人 が居住 している。

アソーレス諸島に関 しては、すでにポル トガル人地理学者 により、い くつかの地誌書が著わ されてきた。 しか し、多 くの地理学者の関心 を集めたのは、アソーレス諸島全体の地域像では な く、む しろ9島それぞれの地域的多様性であった。そのため、 これ までの大部分の研究にお いては、各島を単位 とした綿密な地誌 を描 くことに力が注がれてきた1ヽ しか し、Gaspar(1993) が指摘するように、 この事実 はもちろんアソーンス諸島全体 に共通する地域的性格の希薄 さを 意味するものではない。むしろ、アソーレス諸島を外部か らみた場合 には、大西洋のプレー ト 境界 を包含す る位置 にあって火山性の地形が卓越 している自然的特色、アメリカ合衆国 。カナ ダヘの大量の移民 を生んだ社会・ 経済的特色など、アソーレス諸島全体 に共通する地域的性格 の方が顕著である。 とくに、筆者のような外国人地理学者の目か ら見 ると、5世紀 におよぶ人

間活動の歴史が常にヨーロッパ (と くにポル トガル本土)と アメ リカ との関係 を軸 に展開 して きた というアソー レス諸島全体 に共通す る特質の方が、各島の多様性の問題 よりもはるかに重 要な地理学的テーマであるように思 える。そこで本稿では、「 ヨーロッパ とアメ リカの結節点」

という地域観 をもとに、 ヨーロッパ とアメ リカの間で特異な歴史 を歩んできたアソーンス諸島 の素描 を試みることにする。

1のように、南北 に走 る大西洋中央海嶺 を境 に、島々は東西 に区分 される。東側 には西北 西―東南東の方向にのびる複数の断層があ り、 この断層に沿 う形で島々が形成 され火山が多数 分布 している。 とくに、 ピコ島にはポル トガル最高峰のピコ山 (標2,351m)が存在す る。

(3)

各島の人口分布 と面積

地域区分 人 口 (1996年) 面積 (平h) 人 口密度 (人/平km)

中 部

西

サ ンタ・ マ リア島 サ ン・ ミゲル島

97.24 750.26

テルセイラ島 グラシオーザ島 サ ン・ ジョルジェ島 ピコ島

ファイアール島

56,780 4,960 10,300 14,930 14.750

401.96 61.60 246.20 446.36 173.42 フローンス島

コルボ島

4,430 300

143 17

242,620 2,337.28

アソー レス統計書およびGaspar(1981)に より作成

このような地質構造上の特色 を持 っているため、大西洋中央海嶺の東側では地震 も多発 し、

有感地震が1960年 代 に50回 、70年代 に19回、80年代 に32回 も発生 している。近年では、1980年 1月 1日 にテルセイラ島で発生 した地震によって4,727戸 が倒壊する大 きな被害 をうけ、島の中 心都市アングラ・ ド・ エロイズモでは倒壊家屋が全家屋の39%にまで達 した。一方、大西洋中 央海嶺西側のアメ リカプレー ト上 には、 コルボ島・ フローレス島が海嶺 に沿 って南北 に分布 し ている。 これ らの2島では入植以来、火山噴火 を経験 してお らず、地震 による大 きな被害 も皆 無 に近い。 しか し、アソーレス諸島全体 としては、火山地形の卓越 とい う面で共通 した性格 を 有 し、各島には多数のカルデラの分布が見 られ る。

1835年 、ポル トガル本土 と同時に県 (distrito)制が施行 され、アソーンス諸島には3つの県 が成立 した。ポンタ0デルガーダ県 (サン・ ミゲル島、サ ンタ・ マ リア島)、 アングラ・ ド・ エ ロイズモ県 (テルセイラ島、サ ン・ジ ョルジェ島、グラシオーザ島)、 オルタ県 (フ アイアール 島、 ピコ島、 フローレス島、 コルボ島)の 3県で、各県名 と同名の3つの都市が、現在で もア ソーンス諸島の中心都市 となっている(図 1)。 なかで も、アソーレス諸島の総面積の32%、 口の54%を占めるサ ン・ ミゲル島の中心都市ポンタ・ デルガーダ (人口約6万 3千)は、ア ソーレス諸島全体の中心地 としての機能 を果た している。1974年 革命直後の1976年 、アソーン ス諸島 とマディラ島は、それぞれ 自治区を構成することになった。その際、 自治区政府 と大部 分の官庁 はポンタ・ デルガーダに、共和国長官府 とい くつかの官庁 はアングラ・ ド・ エロイズ モに、 自治区議会 はオルタにそれぞれ分散 して設置 され、アングラ・ ド・ エロイズモ とオルタ も行政的な中心地 としての地位 を現在 も維持 している。なお、現在 は県 ごとの地域区分ではな く、表1に示 した東部・ 中部・ 西部 とい う実質的な地域 区分が一般的に使用 されてお り、本稿 で もこの地域 区分 を使用することにす る。

 大西洋上の補給基地

1.大航海時代 と島の発見

1415年のセウタ征月艮以降、ポル トガルはいわゆる大航海時代 を迎 えることになる。 こうした ポル トガル船の大西洋への積極的な進出に伴い、大西洋上の島々が続々 と発見 されていった。

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ポル トガル・ アソーンス (アゾレス)諸

アソーレス諸島の位置 と地質構造

まず1418年 にマディラ島が発見 され、11年後の1427 年 にはアソーレス諸島で初 めてサ ンタ・ マ リア島が 発見 されたの。その後、各島が相次いで発見 され、

1452年のフロー レス島 とコルボ島の発見 により、ア ソーレス諸島全島が その存在 を確認 され る ことに なった。各島 とも、1443年 か ら順次入植が開始 され るまでは、いずれ も無人島であった。

2は、大航海時代 のイン ド航路上 にある大西洋 の島々の位置 と、 7月 と1月 の卓越風の風向を示 し た ものである。当時の帆船の航路 は、図のような8 の字 を描 くものであったが、 これは卓越風の風向を 利用 した結果 として生 まれた ものであった。 まず、

リスボンを出港 した船 は、ゴヒ大西洋上の「アゾレス 高気圧」か ら時計周 りに吹 き出す風 に乗 って南下す ることになる。この航路 に位置するのがマディラ島、

カナ リア諸島、カーボ・ベルデ諸島であった。 また、

帰路 には南大西洋のセ ン ト・ ヘ レナ島 とアセンショ ン島を通過する。そして、赤道付近の難 しい航海の 末 にた どり着 くのがアソーンス諸島であ り、そこか らは偏西風 に乗 って リスボンまで容易に到達するこ とがで きた。 このように、アソーンス諸島をはじめ とす る大西洋の航路上 に位置する島々の発見 は、大

MachadOほ (1980)を もとに作成

航路上の島々の位置

Daveau(1995)によ る コル ボ 島

,

フ ロー レス島0

断層線 グラシオーザ島

=

テルセイラ島えラ0ド・エロイズモ

サン・ ミゲル島 ポ ンタ0デルガー ダ

lr?〕

サ ンタ・ マ リア島l

―――一一生」̀│ .

F二了果了男 万;影

200km

(5)

航海時代 における必然的な出来事であった といえよう。

1497年のヴァスコ・ ダ・ガマによるイン ド航路の発見、1500年 のブラジルヘの到達 によって、

ポル トガルは大西洋 を支配する海洋国家 としての道 を本格的に歩み始めた。 こうした大航海時 代の到来 は、長い航海の最終段階に入 った船 に対 して欠乏 した食糧や水 を供給す るという、大 西洋 に浮かぶ重要な寄港地・ 補給基地 としての機能 をアソーレス諸島に与 えることになった。

無人島であったアソーレス諸島への入植 は、入植前の家畜放牧などの準備段階 を経て、1443 年か ら始 まった。当初 の入植者の出身地 は島 ごとに多様で、サ ンタ・ マ リア島およびサ ン・ ミ ゲル島では、エス トンマ ドゥーラ地方・ アレンテージョ地方・ アルガルベ地方などポル トガル 南部が、テルセイラ島およびグラシオーザ島ではポル トガル北部が多 く、 またファイアール島 およびサ ン・ジョルジェ島ではポル トガル人以外 にフラン ドル地方出身者 も多かつた。 とくに、

フラン ドル地方出身の入植者の存在 は、その後のパステル栽培の導入 とそのフラン ドル地方へ の輸出を実現 させ るうえで重要な役割 を果たす ことになった。

2.船舶 および本土への食糧供給

中緯度 に位置 し各島 (沿岸部)の年間降雨量が650〜1,500Frmに及ぶアソーンス諸島では、

入植前 には森林・ 灌木が全島を覆 っていた といわれ る。入植 とともに森林 の開墾が進み、 まず 最初 に導入 された作物 は小麦であった。当時、ポル トガル本上では小麦の生産量が不足 してお り、栽培 は本土への供給 をも目的 として始められた。作付 け当初 は順調であつたが、16世紀後 半 には連作 による土壌の疲弊、葉枯れ病の蔓延等の問題が顕在化 し、小麦栽培 は次第に衰退 し ていった。17世紀半 ばには、小麦 に代わる穀物 として トウモロコシが導入 され、 とくに18世紀 中頃に起 こった食糧危機以降、主要栽培作物 としての地位 を確立す ることになった。

15〜 16世紀 には、小麦 を中心 とす る穀物栽培のほか、多様 な商品作物の栽培 も盛 んに試み ら れた。中で も、マディラ島か ら導入 されたサ トウキビ栽培 は、気候条件が生育 に適 さず間 もな く衰退 した ものの、その後のブラジルでのサ トウキビ栽培の繁栄の基礎 を築 くうえで重要な役 割 を果た した といわれる。当時のアソー レス諸島が、マディラ島 と同様 に新大陸へのさらなる 入植や新たな農業形態の導入のための「実験場」 として位置づけられていた ことが窺 える。 ま た この時期 には、寄港する船への食糧供給 と自給的農業の補完 を目的 として、後 に発展 をみる オレンジ栽培や牧畜 も導入 された。

これ らの事実か らも明 らかなように、15世紀後半〜16世紀のアソーレス経済 は、大西洋 を航 行す る帆船の補給基地 としての機能 と、ポル トガルの国策 によつて大 き く規定 されていた。 こ

の時期、天然の良港 に恵 まれ多 くの船舶が寄港 したテルセイラ島のアングラ・ ド・ エロイズモ は、アソーンス諸島全域か ら農産物 をはじめ とする物資が集積す る経済の中心地 として繁栄 し、

「他の島々はテルセイラ島の農園」 とまでいわれたの。 こうしたアングラ・ ド・エロイズモの繁 栄 は、アソーンス諸島が与 えられていた基本的な役割が寄港する船 自体 とポル トガル本土への 物資の供給 にあった ことを如実 に物語 つているといえよう。

3.商品作物の栽培 と輸出

多様 な商品作物の試作の結果、16世紀末か らポル トガル国外へ輸 出す るまでに成長す る農作 物が出現す るようになった。その塙矢 となったのが、繊維の染色材料であるパステル (ホ ソバ タイセイ)であつた。パステルはファイアール島に入植 したフラン ドル地方出身者 により栽培 が開始 され もので、その後 に他島へ普及 した と伝 えられている。島内で加工 されたパステルは、

織物業が盛 んだったフラン ドル地方向けに一時 は大量 に輸出されたの。しかし、インド産の藍の

(6)

ポル トガル・ アソーンス (アゾレス)諸

大量流入 により、17世紀末 には急速 に衰退す ることになった。

また、16世紀 に導入 された亜麻 も、17世紀末か ら生産量が増加 しはじめた。すでに17世紀か ら北アメ リカ との間に亜麻の取引が成立 し、18世紀末 には大規模 な輸出が開始 されたが、他産 地 との競合や綿花栽培の伸長等 により20世紀初 めに衰退 した。

一方、16世紀末 に栽培が一般化 したオレンジは、18世紀後半に入 ると、船 に積載する食糧 と してだけでな く、 ヨーロッパヘの輸出用 として も盛んに栽培 されるようになった。 とくに、イ ギ リス産業革命 に伴 う需要の増大 を契機 として、1775年 頃か ら輸出量が次第 に増加 しはじめた。

主な輸出先 はイギ リス・ フランスで、1794年 に遅れて栽培が始 まったファイアール島では、北 アメ リカにもオ レンジが輸出された。

2は、オ ンンジの中心的な産地であったサ ン・ ミゲル島のオレンジ輸出量の推移 を示 した ものである。 この表 によれば、 フランス革命等の影響 により輸出量 に変動がみられるものの、

18世紀末か ら恒常的に輸出されるようにな り、1840〜 69年 にかけて輸出量が急増 していること が分かる。 この時期が、後 に「オレンジの時代」 と称 されることになるオレンジ栽培の黄金期 であった。Pereira(1949)に よれば、1864年 にポンタ・デルガーダに入港 した523隻 の船舶のう ち、約半数の267隻 がオ レンジ輸出船で、そのほ とん ど全てが主要輸出先のイギ リス船で占めら れていた。当時のアソーンス経済におけるオレンジ輸出の重要性が理解で きよう。

しか し、イギ リスのオ レンジに対する関税の引き上げ、輸送費の高騰 などの困難な状況が続 くなか、スペインのバ レンシア地方におけるオレンジ栽培が急速 に拡大 し始め、その影響で1875 年頃か ら輸出量の減少が進むことになった。そして、19oO年 頃には輸出量 は大幅に減少 し、オ

レンジか らブ ドウや穀物類への転換が進んだ。

また、19世紀後半 にはタバ コ・パイナップル0茶、20世 紀 に入 る とビー ト・ チコリな ど、現在 もサン・ ミゲル島を中心に栽培が続 け られている多様 な商品作物の栽培がはじめられた。 しか し、'いずれ の作物 も全盛期のオ レンジほどの活況 を呈するまでには至 らず、後 述す るように現在ではかな り衰退 している。

主要消費地であるヨーロッパ諸国か ら遠 く離れたアソーレス諸島 においては、輸送費の面での不利 を克服するために、付加価値の高 い多様な商品作物の栽培が試みられてきた。大陸間の航路上 に位置 するアソーレス諸島の場合、た しかに離島 としては有利 な輸送条件 に恵 まれていた ことは事実である。しか し、その ことは逆にいえば、

ヨーロッパあるいは新大陸における農作物の生産競争に容赦な く組 込 まれ、 また ヨーロッパ諸国での需要の変化 に翻弄 されることをも 意味 していたのである。

 北アメ リカ との関係の深化

1.アメ リカ合衆国 0カ ナダヘの移住

1)移民流出の開始

ポル トガルにおける大航海時代の到来 は、海外植民地への大量の 移民流出をもた らし、1500〜 1760年 の260年 間には、ポル トガル全体 で130万人 もの移民が海外 に流出 した。16世紀前半の国勢調査による

サン・ミゲル島における オレンジ輸出量の推移

輸 出量 (箱)

・775

80 85 90 95

99

・805

・0

・5 20

25 30 35

40 45 50

55 60 65 69

3,902 806 4,871 14,043 9,501 39,738 15,547 27,200 28,921 34,364 71,826 33,807 38,664 73,000 108,104 80,271 128,586 211,592 207,104 232,494 Miranda(1989)に よ る

(7)

 

ポル トガルの総人 口が約140万人であった ことを考 えると、この時期 に猛烈な勢いで海外へ人 口 が流出 した ことが理解で きる。 とくに16世紀後半以降は、ポル トガルの植民地経営の中心的存 在であつたブラジルヘの移民が急速 に進み、入植地のひ とつであったアソーンス諸島か らも、

1579年の飢饉 を契機 にブラジルヘの再移住が進んだ。1855〜 1865年 の11年 間のアソーレス諸島 か らの行先別の移住人 口は、ブラジル1万1,545人 、アメ リカ合衆国3,008人 で、 こうしたブラ ジルヘの移民が多数 を占める状況 は19世紀末 まで続いた (Da Rosa and Trigo、 1990)。

アソーンス諸島では、慢性的な過剰人 口を抱 えて高い人 口圧が存在 していたほか、 とくにサ ン・ ミゲル島では大土地所有制の もとで貧困な小作農が多数存在 していた。 また、活発な火山 活動 による被害 を受 けて農地・ 家屋等の生活基盤 を失 う住民 も多 く、基本的にはこれ らの要因

により大量の移民が島外へ流出す ることなった。

なお後述するように、ポル トガル本土では、1960年 代初 めまで移民全体の約7割をブラジル ヘの移民が占めていた。その後、移民の目的地 はフランスを中心 とする西欧諸国へ移 り、アメ リカ合衆国 0カ ナダ等の北アメ リカヘの移住者が増加 しはじめたのは1974年 以降の ことであつ た。 ところが、すでにアソー ンス諸島では19世紀末か ら移民の主要な目的地が北アメ リカに移 り、ポル トガル全体の移民動向 とはかな り異なる特色がみ られた。 こうした早期の北アメ リカ ヘの大量の移民流出の契機 となったのが、アメリカ合衆国捕鯨船のアソーンス諸島への進出で あった。

2)北アメ リカヘの移民の増加

アメ リカ合衆国でのマ ッコウクジラ漁 (アメ リカ式捕鯨)は1712年 に開始 されたが、早 くも 1730年 頃にはアソーレス諸島近海での操業が始め られていた。そして1768年 には、鯨油や大腸 か ら得 られ る香料「 りゅうぜん香」等の採取 を目的 として、アメ リカ合衆国のニューイングラ

ン ド地方の捕鯨船200隻 が操業 していた。アメ リカ船 による捕鯨 は19世紀中頃にピークを迎 える ことになるが、オルタ市年報 によれば、1866年 にフアイアール島オルタに入港 した船の大部分 がニューイングラン ド地方のニューベ ッドフォー ド船籍の もので占 められ、その3分1程度が捕鯨船であつた といわれ る。

アメ リカ捕鯨船 は、乗組員の死亡・脱走等 による欠落 を補 うため、

アソー ンス諸島やカーボ・ ベルデ諸島で乗組員 を補充するのを常 と したつ。 とくにアソーンス諸島の住民 は、勤勉で従順 との評判が高 く、乗組員 として好んで採用 された。一方、慢性的な過剰人 口を抱 えていたアソーレス諸島では、兵役 を逃れる目的 もあって捕鯨船の 乗組員 としての就労 を希望す る10代の男性が多 く存在 していたが、

その ことも乗組員の増加 に拍車 をかけた。 とくに、捕鯨船の乗組員 の賃金受取 り場所が母港の存在す るニューイングランド地方だつた こともあ り、乗組員の中にはアメ リカ合衆国にそのまま定住する者 も多かつた。そうした乗組員の定着 を契機 として、次第 にアメ リカ 合衆国への移住者が増加 していつた。

3は、1821〜 1970年 のポル トガル全体のアメ リカ合衆国への移 民数の変化 を示 した ものであるが、その数 は19世紀中ごろか ら徐々 に増加 しはじめ、 とくに捕鯨の全盛期 に当る1870年 代か ら急増 して いる。前述 した ように、当時 はポル トガル本土か らアメリカ合衆国 アメリカ合衆国への

ポル トガル人移民数

1821‑‑30 31‑‑40 41‑‑50 51‑‑60 61‑‑70 71‑‑80 81‑‑90 91‑‑00 1901‑‑10 11‑‑20 21‑‑30 31‑‑40 41‑‑50 51‑‑60 61‑‑70

145 829 550 1,055 2,658 14,082 16,978 27,508 69,149 89,732 29,994 3,329 7,423 19,588 76,065 Serpa(1978)│こよ る

(8)

ポル トガル・ ア ソー レス

ヘの移民が一般的でなかった ことを考 えると、 こ れ らの移民の多 くをアソーレス諸島出身者が占め ていた と推定 される。

3)移民の定着

初期の定住者 は、捕鯨船の船長・ 乗組員やクジ ラ加工業者 として活躍するケースが多かった。 し か し、1880年 代 にクジラの捕獲量の減少が進んで 捕鯨産業 は衰退 しはじめ、 さらに20世 紀 に入 って 石油産業の成長 とともに鯨油の価値が低下 したた め、1921年 にアメ リカ合衆国の捕鯨 は終焉 を迎 え ることになった。 ところがその後 も、移民数 こそ 減少 した ものの継続的に多 くのポル トガル人移民 がアメ リカ合衆国に押 し寄せることになった (表

(アゾレス)諸

ニューベ ッ ドフォー ド市の 在住ポル トガル人 (―)数

ポル トガル人数 市人 口 占有率

1865 85 95 1905 15 20 30 40 50 70

516 1,445 3,861 7,352 15,145 17.229 12,202 9,850 5,067 119217

20,853 33,393 55,251 74,362 109,568 121,217 112,597 110,341 109,189 101,777

2.5%

4.3%

7.0%

9.9%

13.8%

14.2%

10.8%

8.9%

4.6%

11.0%

R/1arinho and COrnwell(1992)に よる 3)。 当初 はニューベ ッドフォー ド、1910年 代か らはロー ドアイランド州プロビデンスがポル ト ガル人移民 にとってのアメ リカヘの玄関口とな り、 これ らの移住者の大部分 は付近のニューイ ングラン ド地方南部 に定着 した。そして、彼等の多 くは捕鯨関連業種のほか、 この地方の主要 産業であった繊維工業や一般漁業などの職業 に従事 した。 このように、ニューイングランド地 方南部への初期移民の定着 を基盤 とする連鎖移住の結果、多 くのポル トガル人が継続的にこの 地域 に居住することになった。

4は、アメ リカ合衆国の中で最 もポル トガル人の人 口が多かったニューベ ッドフォー ドに ついて、1865〜 1970年 までのポル トガル人移民一世の人口と総人口に占める割合の推移を示 し た ものである。 これによれば、20世紀 に入ってか らポル トガル人の数は急増 し、1920年 のポル トガル人移民一世の人 口は全体の14.2%に まで達 していることが分かる。 これに移民二世 を加 えると、ポル トガル系住民の割合 は2割近 くにまで及んだ と推定 される。

一方、1840年 にはアソーンス出身者が捕鯨船の乗組員 として初めてサンフランシスコに到達 し、その後、カ リフォルニア州沿岸部やハ ワイ諸島への移住が進むことになった。 とくに、サ ンフランシスコのサン・ ジョアキン・ バ レーに入植 したアソーレス出身者が、後に酪農経営で 成功 をおさめた ことは有名である。

4)1920年代以降の移民の動向

アメ リカ合衆国へのポル トガル人移民の増加 は、20世紀に入ってから加速化 し、1910年代に ピークを迎 えた(表 3)。 しか し、1921年 の合衆国における移民制限法の成立や1920年代末か ら の経済危機 を原因 として、1920年 代以降は移住者が激減 した。1957年 のカペ リーニ ョ火山の噴 火 により大 きな被害 を受 けたファイアール島住民が、合衆国政府から移民を特別 に許可される な どの例外 はあったが、アメ リカ合衆国へのアソーレス諸島か らの合法的な移民流出は中断し、

移住者 は新たな目的地 を求めてバ ミューダ諸島や南アメ リカヘ と向かうこととなった。

3は、1960年 以降のアソーレス諸島か らの移住者数の推移 を示 した ものである。近年は移 住者数が減少 しているが、 とくに1966〜 69年 と1974年 には、アソーレス諸島か らの移民人口は 年間1万人 を超 え、こうした大量の移民流出は、アソーンス諸島の人口の激減 を招 くことになっ (表5)。 とくに、移住者の多 くは20〜35歳 の男性であ り、生産年齢層の流出がアソーンス経 済衰退の大 きな要因の1つとなった。

101

(9)

70      75      3U      OЭ       UU      UЭ   `トノ

ア ソー レス諸島か らの移住者数 の推移

アソーンス統計書 により作成

3からも明 らかなように、主要な行先 はアメ リカ合衆国 とカナ ダで、1964年 以降は両国への移住者がアソーンス諸島全体 の移住者 数の90%以上 を占め続 けている。1920年 代 に激減 したアメ リカ合衆 国への移住者数が再び増加 しはじめるのは1966年 か らであるが、 れは1965年 に移民制限法が見直 されて一部移民の受入れが認 められ た ことによるものである。 また、1953年 にカナダ・ ポル トガルの政 府間協定が締結 されて以降は、カナダ(と くにオ ンタ リオ州・ケベ ッ

ク州)への移民 も日立つようになった。ポル トガル全体の海外移住 者の行先別割合では、 フランス・ 旧西 ドイツをはじめ とす る西欧先 進諸国 とブラジルが大 きな割合 を占め、アメ リカ合衆国0カ ナダ と

いった北アメ リカヘの移住者が過半数 を占めるようになるのは1975 年以降である(表6)。 これ らのデータか ら見て も、アソーレス諸島 か らの海外移住が北アメ リカを強 く志向 し、移民流出が多いポル ト ガルの中で も特異な存在であることが理解で きよう。

なお、1968〜 77年 までのポル トガル人移民 に関す る調査(Nunes、

1983)によると、アメ リカ合衆国での移住後の居住地 は、ニユーイ ングランド地方が約54%(マサチューセ ッツ州が35%、 ロー ドアイ ラン ド州11%)、 カ リフォルニア州17%、 ニユージヤージー州16%と

(千)

アソー レス諸島に

おける人口の推移

 

︲960

1841 54 58 61 64 78 90 1900 11 20 30 40 50 60 70 81 91 96

223,985 237,910 240,113 240,548 249,135 263,305 255,487 256,673 242,941 231,513 255,464 287,080 318,449 327,446 289,096 243,410 237,795 242,620 1890年まではSerpa(1978)、 1900 年〜はアソーンス統計書による。

(10)

ポル トガル・ アソーンス (アゾレス)諸

ポル トガルの行先別移民数

旧西ドイツ (%) フランス (%) ブラジル (%)

勇 ザ多 含 衆 国

(%) その他  (%)

1960‑‑1964 1965‑‑1969 1970‑‑1974 1975‑‑1979 1980‑‑1984 1985‑‑1988

5,771(3) 41,606(9) 85,637(29) 1,816(2)

186(0.3) 107(0.3)

65,148(33)

263,902  ( 59) 81,045  ( 28) 9,860  ( 10) 5,352  (  9) 2,641 (  9)

58,289(30) 14,978(3) 5,646(2) 3,485(4)

963  (  2) 276  (0.9)

34,460(18) 82,619(18) 83,249(28) 55,972(58) 24,872(42) 21,060(68)

30,940(16) 49,309(11) 38,181(13) 25,743(26) 27,133(46) 6,966(22)

B亘to(1994)│こ よ る

なってお り、東部海岸 とカ リフォルニア州への定住者が相変わ らず多い。 また、産業別人口に ついてみると、1960〜 65年 では第一次産業36.8%・ 第二次産業31.2%・ 第二次産業32%と、第 一次産業従事者の割合が高かったが、1966〜 77年 ではそれぞれ21.5%・ 49。7%028.8%と、第 二次産業への従事者が増加 している(Nunes、 1983)。 ただ、移住先での職種 は地域 によりかな り特徴がみ られ、ニューイングラン ド地方等の東部海岸では各種の工業 (他に漁業・農業)、 リフォルニア州北部 は木材工業、サクラメン ト付近では工業・輸送業、サンフランシスコでは 工業・ 小売業、サンディアゴではマグロを中心 とする漁業 と、かな り多様化 している。

2.交通・ 通信の中継地 としての機能

1818年に外輪汽船が初めて大西洋 を横断、さらに1838年 にはスクリュー式の汽船 も登場 し、

19世紀末 には汽船の時代 を迎 えることになった。帆船の時代の終焉により、アソーンス諸島の 港 は往時の重要性 を失 うことになったが、補給・ 避難港 としての機能は依然 として維持 された ため、港の急速 な衰退 は免れた。

1919年 、水上飛行艇 による初の大西洋横断が成功するが、その時にアソーンス諸島が航空機 の中継基地 としての機能 を初めて発揮することになった。1939年 には民間旅客機(水上飛行艇)

による大西洋航路 (ワ シン トンー リスボン)が初 めて開設 されたが、その航路で もファイアー ル島のオルタが中継地 として選ばれた。 しか し、その後 まもな く、第二次世界大戦が勃発する ことになる。ポル トガルは中立 を維持 しつつ も連合国側 と密かに協定 を締結 し、1943年 にはテ ルセイラ島のラジェス、1944年 にはサンタマ リア島の飛行場について連合国軍の航空機による 使用 を認 めた。すでに第二次大戦中に、アメ リカ合衆国がアソーレス諸島をヨーロッパヘの前 進基地 として重視 していた ことは興味深い。

一方、1855年 にはポル トガル政府 と合衆国政府の間に、海底ケーブル設置のための契約が締 結 された。 さらに1893年 以降、イギ リス企業等 ともリスボン・ アソニレス諸島間の海底ケーブ ル設置の契約が結ばれ、 とくにファイアール島のオルタは、第二次大戦後 までケーブル敷設に 伴 う外国企業の進出で経済的恩恵 を受 けた。

しか し、1970年代 に入 ると、アメ リカ とヨーロッパ を結ぶ交通・ 通信の中継地 としての繁栄 に陰 りがみえ始める。第二次大戦後、サンタ・ マ リア空港は民間飛行場 としてアメリカ・ ヨー ロッパ間航路の補給・ 中継地 としての機能を担い、利用客数は1970年 までに24万人に達 したが (01市eira、 1996)、 1970年 代の飛行機の性能の向上 (ジェッ ト化等)に伴 って大陸間の直行便 が増加、1976年 にはパ ンアメ リカン航空が空港使用を中止 した。その後 も各航空会社の使用中 止が相次 ぎ、1980年代末 までに国際線の航空機の乗入れはほとんどな くなった。

(11)

104

このような過程で、長 く続いた 大陸間の中継地 としての機能 は次 第 に失われていったが、いまだに 戦略上の重要性 は維持 し続 け、テ ルセイラ島のラジェスには米軍基 地が、フローレス島にはフランス軍 の通信基地が存在 している。

牛乳生産量の推移

単位:百万 リッ トル

33.7 45.5 61.2 79.2 98.8 108.6 133.5 220.0 236.7 219.6 365.7

Machado(1985)お よび アソーンス統計書 による

アソー レス諸島における人口・ 生産額の産業別割合

人口割合 (%) 生産額割合 (%)

第一次 第二次 第二次

1960 70 81 95

60.0 49.7 31.4 20.4

16.7 17.3 25.3 22.6

23.3 33.0 43.3 57.0

1964 74 86

51.0 48.8 25.3

12.4

15。1

22.7

36.6 36.1 52.0

DREPA(1988)およびDREPA(1997)による

 近年の産業構造の変化

1.農業経営の変化 1)酪農経営の卓越

7は、アソーンス諸島における産業別の人 口・生産額の割合の推移 を示 した ものであるが、

第一次産業 は1970年 まで人 口・ 生産額 とも全体の約半数以上 を占め、経済の中心的存在であつ た ことが分かる。第二次産業の伸長のなかで、1995年 には第一次産業人 口は全体の約20%に で減少 しているが、それで もポル トガル全体の第一次産業人 口の割合 (12%)に比べるとかな

り高い。 この第一次産業の主体 は農業であ り、アソーンス諸島では農業が基幹産業の地位 を長 く維持 してきた。

しか し、その農業経営の内容 について見てみると、1960年 代末 ごろか ら1980年 代初 めにかけ て起 こった「家畜革命」によって、伝統的な自給用の穀物栽培 と多様 な商品作物栽培の組合わ せ による農業経営か ら酪農の単一経営へ と大 きく変化 している。表8は、1964年 以降の主要作 物の作付面積 と収穫量の推移 を示 した ものであるが、小麦 をはじめ とする穀物や各種の商品作 物の栽培が現在 までに軒並み衰退 していることが分かる。その一方で、 自治区政府が輸入 トウ モロコシヘの補助金 を廃止 して耕作 を奨励 した こともあって、飼料用 トウモロコシのみが増加 傾向にある。 これ らのデータか らも明 らかなように、現在のアソーレス農業 は酪農のみに著 し

く特化 している点に特色がある。

「家畜革命」 は、大土地所有者層が標高の高い斜面 を牧草地 として開墾 し、機械力 を駆使 し た酪農の大規模経営 を目指 した ことによつて生 じた もので、Daveau

(1995)は「家畜革命」 に伴 つて農業賃労働者の需要が減少 した こと が1960年 代後半〜70年代のアソーレス諸島か らの大量の移民流出の要 因になった と指摘 している。それだけ「家畜革命」がアソーンス諸島 の農業および社会 に与 えた影響 は大 きかつた。

こうした酪農経営の卓越 に伴い、牛飼育頭数 は約13万8千 (1955 )から約21万 5千 (1995年)と、40年 間に56%も増加 した。一方、

飼育農家数 は1万7624戸 (1955年)か1万800戸 (1995年)に減少 し、

1戸当飼育頭数 は、7.8頭 (1955年)か19。9頭 (1995年)へと大幅 に 増加す ることになった。同様 に、経営耕地総面積 に占める牧草地の割 合 も、50.6%(1965年)、 67.8%(1980年)、 87.0%(1995年 )と増加 の一途 をた どり、いまや経営耕地面積の約9割が牧草地で占められる に至 っている。 こうした多頭飼育化が進むなか、牛乳生産量 も

'贋

調 に 増加 し、1996年 の生産量 は1965年 の約3.5倍 にまで達 している(表9)。

40

45 50 55 60 65 70 80 85 90 96

(12)

ポル トガル・ アソーレス (アゾレス)諸

アソー レス諸島における主要農作物の作付面積・ 収穫量

アソーレス統計書ほかによる 生産 された牛乳 は、わずかな地元消費分 を除いて島内で各種の乳製品にカロエ される。表10は アソーレス諸島で生産 される乳製品の生産量 を品目別 に示 した ものであるが、全体的に生産量 が著 しく増加 してお り、 とくに近年のU.H.T。 (超高温加熱のロングライフ・ ミルク)の生産 量の伸長が 目立 っている。 これ ら乳製品の大部分 は、ポル トガル本土向けに出荷 されている。

上段 :面積 (ha) 下段 :収穫量 (ト )

ビー ト チ コ リ トウモロコシ 飼料用

トウモロコシ タバ コ イヽ 麦 ブ ドウ パイナップル

3,445 200 425 885 5,335 5,630 60

498 8,522 40,024 14,140 9,246 3,051

115,640 442

450 12,800

19,892

47,463 22,153

5,452

11,259 3,610

123,469 455

485 15,216

20,182

48,743 23,243

6,052

12,733 3,522

105,077 423

788 24,025

20,465

45,296 11,920

6,403

13,809 2,899

65,903 343

630 22,802

19,656

46,747 9,516

6,184

13,359 2,090

66,817 337

732 24,819

19,237

43,971 5,952

12,200 2,043

442 13,950

19,592

43,459 5,611

13,169 1,833

2,248

94,673 340

334 11,321

21,371

50,200 7,002

13,326 1,812

70,333 315

337 11,420

17,445

46,488 4,809

9,679 1,687

92,846 260

1,249 42,367

20,529 54,484

3,654

5,656 1,665

2,731

113,438 242

848 28,786

19,447

50,381 1,651

2,679

4,645 155,838 1,651 3,090

128,457 267

1,114 37,783

18,812

49,119 360

1,731

2,062 205,013 360 1,117

46,310 318

1,233 41,832

19,553

50,054 1,504

1,308

1,809 134,992 1,565 1,117

46,310 318

886 30,040

18:502

44,631 1,597

1,002

1,557 189,803 1,597 917

38,036 225

372 12,617

17,044

42,754 1,605 139,901 1,605

1,102

55,107 182

351

15,031 5,636 18,325

2,627

56,992 3,933 1,426

662

31,095 146

299 11,218

5,605 18,966

2,969

81,776 4,030 1̲357

4,948

16,625 97,531 265

12,692 2,09556

2,936 7,923

5,801

174,565 1,805

56,055 627

31,962

86 2,778

2,390 8,299

5,375

221,226 2,154

65,689 627

33,674 3,423100

1,887 6,331

5,155

208,600 0.40.4

2,034 81,965 818

34,856 2,36570

1,733 6,862

5,905

263,268 1,849

83,110 502

20,735 2,14361

1,568 5,322

5,335

220,350 1,866

64,574 354

17,041 2,66670

1,485 4,907

5,419 223,964

(13)

10 乳製品の品目別生産量の推移

2)農業経営の課題

アソーレス農業の最大の課題 は、経 営の零細性の克服であるといわれる。

11に経営耕地面積規模別の農家数の 割合 を示 したが、1965年 にはl ha未 満が総農家数 の52.1%、 5 ha未満 で 90.7%に まで達 していた。また、1985 年のアソーンス自治区政府 による調査 結果 をまとめたDREPA(1988)に よれ ば、全体の48.5%を 占めるl ha未満層が所有す る耕地面積の合計 は、総耕地面積の3。6%を めるに過 ぎず、 このような零細農家の卓越が永年 にわた リアソーレス農業発展の橿格 となって きた。一方、農家全体の0.8%を占める50ha以上層は耕地面積の32。8%を所有 し、零細農家 との 間に所有耕地面積の著 しいアンバ ランスが生 じ、経営規模の拡大 に伴 う大土地所有者への土地 集中が顕著 に見 られた。DREPA(1988)に よれば、1985年 において も全農家の14.2%が小作、

42.5%が自小作であ り、大量の移民流出の原因 ともなってきた大土地所有制の名残 りが根強 く み られた。

1995年 には、全体的な経営規模の拡大傾向 と零細農の離農 により、l ha未満の農家 は3.1%

にまで減少 している(表11)。 しか し、EU内での激 しい生産競争のなかで生残 るためには、 さ らなる規模拡大が必要 とされてお り、今後 はさらに零細農の離農が進む もの と予測 される。現 在のアソーレス諸島には、離農者 を吸収す るだけの十分な雇用力 をもつ産業 はほ とん どな く、

移民・ 出稼 ぎ者か らの送金 に依存する体質か ら脱却するには、かな りの時間 と困難が伴 うこと になるだろう。

また一方で、機械化の遅れ も指摘 されている。例 えば1985年 の農地100ha当 リトラクター数 は、ポル トガル全体 (1980年)では1.9台 であるのに対 し、アソーレス諸島では1.6台 に過 ぎず、

農業の機械化が遅れているポル トガルの中で も特 に遅れが 目立つ。 また搾乳 について見 ると、

移動式搾乳機 を所有す る農家が422戸 、搾乳室 を持つ農家 は57戸 のみで、一部の大規模 な農場 搾乳の機械化が進んでいるに過 ぎない。とくに、各農家の耕地 は平均6.3ケ 所 に分散 して存在 し てお り(コルボ島では平均31.4ケ 所)、 こうした耕地の分散 も農業機械の導入 を阻む要因のひ と つ となっている。 また、1995年 のアソーレス諸島の農民の非識字率 は17.8%、 初等教育修了者 率 は64.4%で、 このような教育水準の低 さも農民の高齢化 とともに機械化 にとつての大 きな障 害 となっているの。

2.マグ ロ漁業の発展

アソーンス諸島では、1800年 頃に漁業活動 が全島的に広がった といわれ、当時 は干物や 塩漬 けに加工 した魚が本土 にも輸出された。

また、1830年 代 にはアメ リカ捕鯨船の到来 と ともに捕鯨技術が伝わ り、アソーンス住民 に よる近海捕鯨 も行われ るようになったが、全 般 として漁業 はきわめて小規模 な沿岸漁業の

レベルに止 まった。魚類 の缶詰加工が1927年

11 経営耕地面積規模別の農家数の割合

単位:kg

1959生F 1968生F 1980生 1996生 バ タ ー

チ ー ズ 粉 ミル ク ガゼ イ ン

U.H.T.

2,544,075 933,366 124,550 574,764

3,017,941 3,259,075 4,683,174 215,284

2,326,714 5,614,694 10,034,672

9,145,331

5,722,000 15,067,000 13,525,000

26,094,356 Serpa(1978)、 R/1achado(1985)、 DREPA (1997)に よる

(%)

1965生 1977生F 19854F 19954「

‑l ha

l‑5 5‑20

20‑‑50 50ha一

52.1 38.6 8.4 0.7 0.2

46.1 34.0 16.7 2.5 0.7

48.5 29.8 17.7 3.2 0.8

3.1 10.2 37.4 30.2 19.1

DREPA(1988)およびア ソー ンス統計書 による

(14)

にサ ン・ ミゲル島で開始 され消費量 も増 加 していったが、大型船 による近代的漁 業が本格的に導入 されたのは、1950年 代 初 めか らのマグロ漁の発展以降の ことで

あった。

アソー レス諸島におけるマグロ類 の漁 獲量 は、1964年 には約9,000ト ンに達 し、

この時期 には日本のマグロ漁船 も北大西 洋海域 に進出することになる。1968年 に マグロの漁獲量が一時激減 したが、1977 年以降は復活傾向に°

ある。近年では1988 年の1万4,697ト ンを最高に、毎年変動が あるものの6,000〜 1万5,000ト ン程度の 漁獲量 をあげている。1995年 のマグロの 漁獲量 は1万1,844ト ンで、総漁獲量 の

57%を占めている。なお、島別 に見 ると、

ピコ島力ヽ,086トン、ファイア‐ル島力鴻,640 トンと、伝統的 に漁業が盛 んであった中 部の2島がマグロ漁の中心 となっている。

海外への輸出額か らみると、1996年 の ア ソーレス諸島の輸 出総額64億3,393万

ドルの うち、67%を魚介類が占めてお り、

ポル トガル・ ア ソー ンス (アゾレス)諸

(万 人)

イ ギ リ   ス ペ イ

イ タ リ ア ベ ル ギ ー ア メ リ カ スウェーデン デ ンマー ク

95(年)

マグロ類の漁獲 を主体 とする漁業 は重要な外貨獲得源のひ とつ となっている。なお国別の輸出 額では、 日本 は全体 の3.1%(1995年)を占めるに過 ぎないが、ナマ・冷凍のマグロ、エビ・ヵ 二類、魚油類 など、魚介類が主要輸出品 となっている。マグロをはじめとする高級魚介類の有 望な市場 として、 日本 は大 きな期待 をかけられている (Gaspar、 1993)。

3.観光産業への期待

4は、アソーレス諸島の宿泊施設 (ホテル)への宿泊者数の推移 を示 した ものである。宿 泊者数 は1980年 代 に入 ってか ら急速 に  12 ポル トガルおよびアソーレス諸島における外国人 増加 し、1997年 の宿泊者数 は16万622人     宿泊のべ日数の国籍別割合 (上10カ)

を数 える。 また、1970年 代 には全体の 宿泊者数 に占める外国人の割合が相対 的に高かったが、近年では宿泊者数の 大半 をポル トガル人が占めている。外 国人 の宿泊者数 も増加傾 向 にはあ る が、1997年 には宿泊者数全体の約26%

を占めるに過 ぎな くなっている。

12にポル トガル全体 とアソーレス 諸島の国籍別の外国人のべ宿泊 日数 を 示 したが、上位10位 の顔ぶれには、両

アソー レス諸島の宿泊者数の推移

アソーンス統計書により作成

ポル トガル (1997年) アソーンス諸島 (1997年)

30,314(24.0%) 16,882(13.4%) 16,778(13.3%) 12,168(9.7%) 8,963(7.1%) 8,557(6.8%) 8,546(6.8%)

5,145 ( 4.00/。)

4,829(3.8%) 2,148(1.7%)

0

6,113,256(29.3%) 5,008,234(24.0%) 1,572,678(7.5%) 1,539,461(7.4%) 881,924(4.2%) 696,410(3.3%) 549,717(2.6%)

548,201 ( 2.6°/。 )

507,968(2.4%) 412,645(2.0%)

   ア メ リカ イ ギ リス 北 欧 諸 国 フ ラ ン ス ス ペ イ ン イ タ リ ア    カ ナ ダ ベ ル ギ ー

ア ソー ンス統 計 書 に よ る

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