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ハムと卵と風景 : トウェインの食の風景をエコク リティカルに読む

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ハムと卵と風景 : トウェインの食の風景をエコク リティカルに読む

著者 結城 正美

雑誌名 マーク・トウェイン研究と批評 = Journal of

Mark Twain studies

号 10

ページ 79‑86

発行年 2011‑05‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/38452

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特 集 シ ン ポ ジ ウ ム

覆っている︒トウェインもこれらの植物について随所で書い

ており︑たとえば︑﹁セージブラッシュは並はずれて丈夫な

植物﹂であり︑荒野で得られる﹁良い薪﹂であるが︑﹁野菜

としては完全に落第﹂であると記している︵寒鳧琴言葛豈︶︒

トウェインとグレートベイスンとの関係で即座に思い起こ

される作品はき長き侭蜀であろう︒この作品では︑トウェイ

ンの兄がネヴァダ準州の秘書官に任命され︑名目上はその兄

の私設秘書としてトウェインがミズーリからネヴァダへ駅馬

車で向かう旅の様子をはじめ︑ネヴァダでの滞在︑銀の採鉱

で一擢千金をねらう人々の様子︑その後のカリフォルニアへ

の旅などが描かれている︒

全七九章の前半にグレートベイスンと周囲の山々の描写が

散見されるが︑それらは二つに大別できる︒ひとつは︑グレ

ートベィスンの東端と西端にそれぞれ連なる山々の風景︑す

なわちワサッチ山脈やシエラネヴァダ山脈の風景で︑これら

は概して﹁荘厳で﹂﹁気高く﹂﹁魂を奪われるほど美しい﹂も

のとして描かれている︒たとえば第十七章では︑グレートソ

ルトレィクシティを発った直後に山や峡谷の﹁荘厳なパノラ

マ﹂に目を奪われている様子が描かれ扇︒冨筈晶蜀室g︑第

二十二章ではシエラネヴァダ山脈の山中にあるタホ湖畔の風景が次のように絶賛されているl﹁海抜六三○○フィート

の高みに青い水をたたえた気高い湖︑それを取り囲む外輪は

さらに三千フィートも高くそびえる雪を冠した峰々だ!湖

は大きな楕円形で︑周囲をめぐったら優に八十から百マイル

はあるだろう︒静かな湖面にくっきりと山影を映しだしてい る姿を見たとき︑これは間違いなく世界中で最高に美しい一幅の絵だとわたしは思ったのだった﹂扇昌警員寄孟巴︒山は山でも︑州都カーソンシティを取り囲む山は﹁樹木は一本も﹂なく﹁不毛﹂であると形容されているところをみると命︒窪客員蜀屈J︑トウェインの目に映る荘厳な山とは樹々に覆われた緑ゆたかな山であったと考えられる︒

グレートベイスンに関するもうひとつの風景は乾いた荒野

に関するものである︒ユタからネヴァダに広がるアルカリ性

土壌の荒野やセージブラッシュに覆われた乾いた荒野は︑山

の場合とは対照的に︑﹁生気がなく﹂︑﹁単調で﹂︑﹁忌まわし

い﹂と形容されるのが常だ︒たとえば︑第十七章で山のパノ

ラマが絶賛された直後︑第十八章ではソルトレイクシティか

ら西に延びるアルカリ荒野が言及され︑それがいかに﹁かの

凄絶で知られたサハラ砂漠をもしのぐ種類の荒野﹂であるか

が語られる角○莞ミ亮蜀重唱︒また︑ネヴァダ北部に広がるフォーティマイルデザート︿四十マイル荒野﹀lカリフォルニアゴールドラッシュの

際に西へ向かった者たちが︑四十マイルにわたって水がない

この地をそう呼んだlは﹁巨大な墓場﹂角︒屋譽亮三ご

と称され︑セージブラッシュなどの植物に覆われている場合

であっても﹁灰をかぶったセージブラッシュが点在する陰気

な荒野﹂と描写され︑﹁生命の気配のない静寂﹂に支配され

ていると語られる扇︒置誓員蜀重巴︒荒野の風景に向けられ

た辛辣なまなざしは荒野に浮かぶ湖にも及んでおり︑たとえ

ば︑シエラネヴァダ山脈東斜面の麓の荒野に横たわるモノレ

イクの描写をみると︑先にみた山中のレイクタホをめぐる讃

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特 集 シ ン ポ ジ ウ ム

この一節をみる限り︑ミューァもトウェインと同様︑シエ

ラネヴァダの山々の岩と森が織りなす風景を賞賛する一方︑

グレートベイスンの乾いた荒野は死んだようであると毒突い

ており︑その点で当時の風景観を踏襲していたと考えられる︒

ただ︑ミューァは風景を絵のように眺めるだけではなく︑次 してアメリカ自然保護の父とよばれるジョン・ミューアのような書き手と比べると︑奇異に映る︒山をめぐるミューアの文章には︑風景の神々しさや美しさは微細に描かれているが︑食べ物への言及はほとんど見当たらない︒実際︑ミューアは山での食事に対する関心が薄く︑乾燥させてくだいたパンとチーズと少しのお茶があればこと足りたと言われる官吉邑○吻司︶○

トウェインとほぼ同時代に︑ミューアはシエラネヴァダと

その裾野に広がる荒野をどのように見ていたのか︒次の引用

は︑ご窪客員蜀第三八章で描かれるモノレイク周辺と地理的

に近いと思われる場所をめぐるミューアの記述である︒

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ぐ○庁go①の.目・号①烏鷺号昌︲さ○酉国喧西邑鳴の旦弓①Q①臼醇勗冒.︵冨皀冑

吻ゴー吻函︶ 牧畜が自然環境に及ぼす影響が風景へのダメージとして語られているが︑そこに︑後に国立公園運動で重要な役割を果たすことになる生態学的見地から自然環境をとらえる新たな視角の萌芽がうかがえる︒さらに︑ミューアは自然にはそれ自体に本来備わっている価値があると主張したことでも知られる︒山々に向けられたミューアのまなざしは︑風景の神々

しさに触れて脱人間中心主義を深め︑﹁自然固有の価値﹂

︵目目①︾の言言胃畠盲①︶へと向けられた︒生態学的見地と自

然固有の価値への感覚をあわせもったミューアの自然観は︑

ロマン主義か功利主義かに二分されていたアメリカ環境言説

に新たな見方をもたらしたという点で画期的であった︒

そのような新しい自然観なるものは︑風景をめぐるトウェ

インの文章にはみられない︒ハムとゆで卵を食べながら風景 の一節に明らかなように︑生態学的観点から山や森をみる視点も持ち合わせていた︒

国三房①ぐ品虫呂○ご呉冒①ロ扇の富扇ぎg冒函罵曽壱四寓号呂○浦ggQ

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乏堂9局閉.︵一冨巨胃興︾

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「ハムと卵と風景」−トウェインの食の風景をエコクリテイカルに読む

を見るトウェインのまなざしは︑ミューァの場合とは異なり︑

人と環境との新しい関係が幻視されるような深い思索に結び

つくものではなかったようである︒しかし︑食べながら風景

を見るということの身体性は注目すべきことのように思われ

る︒食べるというきわめて身体的な行為は︑ミューァが新た

な風景観︑環境観を熟成きせた観念的思索へとトウェィンを

促すのではなく︑あくまで身体的で感覚的な世界にこの書き

手をとどめる役割を持っていたと考えられるわけだが︑その

ことに積極的な意味が見出せるように思えるのである︒

身体的かつ感覚的ということで連想されるのは︑現代ほど

身体や感覚をとおした経験が衰退している時代はないという

昨今よくみられる主張である︒種の絶滅よりもまず私たちの経験の絶滅が危愼きれるlそのような見解が国のちがいや

專門分野を問わず随所で示されている︵たとえば︑塩野︑ソ

ウルゼンバーグ︶︒食べ物に関しても同様に︑食の問題の背

景には食をめぐる経験の衰退があると言われる︒食べ物は店

で購入するモノⅡ商品であり︑店頭に並ぶ前のプロセスは見

えないし知らないという状況が一般的であることは︑説明す

るまでもないだろう︒自分の口に入るものを自分の手で採集

したり捕ったり育てたりするという経験はもとより︑自分の

口に入るものがどこでどうやって作られたのかという知識も

欠如している○それに加えて︑世代間のつながりが稀薄にな

り経験の伝達が難しくなってもいる︒そういう状況が日本や

アメリカのような社会にはある︒フードジャーナリストのマ

イケル・ポーランが言うように︑食べてよいものと悪いもの を何を基準に判断してよいのかわからないからとりあえず專門家の言うことを聞くという近年の傾向は︑経験にもとづく判断が専門家による判断に取って代わられるという大転換の予兆であると言えるだろう弓二目とミ冨言ミニ︶︒

ポーランをはじめ︑食というテーマに取り組むジャーナリ

ストや教育者や研究者の主張をみると︑食べ物の生産︑収穫︑

流通︑消費という一連のプロセスを知り︑何を食べ何を食べ

ないかを頭だけ︵つまり知識詰め込み型︶ではなく身体でも

︵つまり経験的に︶判断できるようになることの重要性が強

調されている︒そのような食をめぐる昨今の議論を追いなが

ら︑ふと︑風景をたのしむトウェインの傍らに常においしい

食べ物があったことがどこか示唆的に思えてくるのである︒

2・トウエインの食の風景

食というテーマが環境問題のなかでも現在もっとも高い関

心を集めているものの一つであることは間違いない︒学校給

食改善運動︑遺伝子組み換え作物や種子産業の是非をめぐる

議論︑有機栽培作物への関心の高まり︑ファストフードをは

じめとする食産業が人や環境や文化にもたらす影響について

の議論︑そして食をめぐる第三世界と第一世界の関係や経済

格差と食卓の問題を﹁正義﹂という観点から検証しようとす

る動きを一例とするように︑食の問題はローカルな問題とし

て︑グローバルな問題として︑あるいはローカルな状況とグ

ローバルな文脈の複雑な交錯において生まれる問題として︑

多様なアプローチのもとで検討されている︒

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特 集 シ ン ポ ジ ウ ム

現在さまざまな分野で食の問題が論じられているが︑ポー

ランによれば︑食をめぐるテーマがこのように大きな社会的

関心を集めたのは意外にもかなり最近になってからだそう

だ︒人はいつの時代も食べ物をめぐって争ってきたわけだが︑

一九七三年を最後に︑最近になるまでアメリカ合衆国では食

は社会問題にはならなかったという弓巳冨P︽弓冨二s

三○ぐ①日①貝.殉邑長望︶︒その背景には︑ニクソン政権時代の農

務長官アール・バッッの改革により食料の大量生産と価格低

下が奨励され︑食物が豊富にしかも安く手に入るようになっ

たということがある︒﹁バッッが農務長官の職についたのは︑

アメリカの歴史のなかで食料価格の高騰が大きな政治批判を

起こした最後の時代だった︒食料価格が二度とつり上がらな

いようにしたこと︑それが彼の功績である﹂弓○匡四弓.

○冒言ミミ吻望︶︒ポーランの﹃雑食動物のジレンこや映画

﹃キング・コーン﹄で描かれているところによれば︑補助金

の対象となってとくに大量に生産されたトウモロコシは人よ

りも家畜のえさとして流通し︑砂糖に代わる安価な甘味料H

FCS︵果糖ブドウ糖液糖︶として出回り︑アメリカ合衆国

の食産業を根底から変えていった︒大量に生産されるトウモ

ロコシが食用ではなくあくまで加工用であることに象徴きれ

るように︑加工品の生産・消費にもとづく現在の食産業が農

業従事者︑消費者︑そして環境にとって問題の多いものだと

いうことに人々が気づき始め︑食をめぐる問題がふたたび社

会問題化したのであった︒

何でも食べることができる一方で︑何を食べ何を食べるべ きでないかを見極める能力を生得的に持たない人間という雑食動物のもつジレンマは︑かつては親から子へ︑世代から世代へと知恵という名の経験知が受け継がれてゆく過程で緩和されていた︒しかし個食/孤食化が進み︑食の世代間コミュニケーションが困難になっている現在︑経験知の直接的伝承に代わる手だてが求められている︒たとえばベストセラーとなったポーランの﹃雑食動物のジレンこが例証しているように︑文学にその役割を求めることは可能だろうか︒食をめぐるトウェインの言葉の世界にそのような世代間コミュニケーションに代わるはたらきが見出せるかもしれないlそう考えるのは安易にすぎるであろうか︒

食と文学とコミュニケーションの問題はシ邑号①乏雰画言の著

国ご負三堕専畠で扱われているので︑詳細はそれを参照しても

らえばよいが︑ざっと紹介するとこういうことだ︒トウェイ

ンの描く食べ物はモノ︵8日日○sgではない︒食べ物を評

価するトウェインの基準が﹁新鮮︑地元産︑心のこもった

料理場所の生命との深いつながり﹂︵卑①吾.旨呈.旨三長ご

官名胃a・宣言罠①毎房三○号1号○ご巨四8雪︾牙四言の邑にあ

ったことは明らかで︑それは生態学的および文化的な土地と

のつながりを重視したものであった︒そうビアーズは主張す

る︒これは現在﹁地産地消﹂という言葉で表されている価値

観と重なるが︑それが声高に主張されているのではなく食の

描写を根底で支えていることに留意したい︒トウェインの食

の世界に向き合うことで︑現代読者は︑この一世紀余の間に

いかに急速かつ大規模に食や環境との関係が変化したかとい

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うことを考えさせられるのであり︑その点がビアーズの議論

において静かに強調されているのである︒

地元産の新鮮な食べ物への関心というのは︑まだ本格的な

冷蔵技術も大陸横断鉄道もなかった十九世紀後半はそれが普

通だったと老えるのが妥当だろう︒淫国ご喜琴ご員第四九章

に︑ョIロッパでの食事に辞易したトウェインがアメリカに

帰って食べたいものの一例を記したリストがあるが︑それを

みると︑その土地その士地の新鮮な素材を使ったものが多い

ことがよくわかる︒リストの一部を抜き出すとI

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ここで強調しておかねばならないのは︑トウェインが言及

する﹁土地の食べ物﹂はある特定の士地に焦点を当てたもの

ではなく︑全米各地のさまざまなローカルな場所と関わって

いるという点である︒崖ごミ這崖ごo員第四九章の食の一覧

表を見ると︑南部の料理法への言及が多くあり︑またイリノ

イ︑ミズーリ︑ボストン︑ニューオーリンズ︑サンフランシ

スコ︑レイクタホなど具体的な州名や地名も記されているが︑

それらはいずれもトウェインが実際に訪れて舌で経験した場

所にほかならない︒土地の食べ物への魅了といっても︑ある

一つの土地に書き手自身が根を下ろしていたわけではないの

だ︒その意味で︑トウェインが紡ぐ食の世界は︑土着性を縦

糸に移動性を横糸に織られているとイメージすることができ

る︒

土着と移動の相互関係において立ち現われるトウェインの

食の風景は︑ローカルとグローバルの対立図式のなかで議論

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侍 集 シ ン ポ ジ ゥ ム

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武藤脩二︑入子文子編著﹃視覚のアメリカン・ルネサンス﹄世界思想社︑

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ソゥルゼンバIグ︑ウィリァム﹃捕食者なき世界﹄野中香方子訳︑文藝春

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参照

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