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(1)

ト リ ス タ ン 研 究 ( そ の 二 )

一 イ デ エ の 展 開 一

金 子 直 一

さきにトリスタン研究(その一)として'),筆者はシユトラースブルクのミトリスタン 物語ミのプロローク解釈(Interpretation)を試みた。今,この稿を起すにあたって,

その折に得た結論をもう一度要約してみる必要がある。その概要は,次の通りであった。

,,guotGGというイデェが,プロロークのいわば第一主題として提起され,このイデエの 内部から生まれた第二主題ともいうべき,,,lop・.(称讃)というイデエと共に,プロロー ク全般にわたって内的に様式的に働らく指導動機となっている。プロロークが形成してい る三つの高峯‑"edelezherze"(高貴な心)の世界, トリスタンとイゾルデの愛の合‑g61 トリスタン・イゾルデの死の象徴的意味 −は文体の上からも,意味の上からも超越性 (Transzendenz)への志向を示している。つまりプロロークにうかがわれるシュトラー スブルクの作家的意図は,,,guot.6の相の下に愛(Minne)のイデェを展開するにあっ

た。

さて,このイデェが実際この作品の中で,如何なる展開を見せているか,という問題が 本稿の主題となるわけである。

,,guote.が,G.Weberの指摘している2)ようにカタリー派(純粋派)の 純粋なも の (カタリー派は,自らを"boni"hominesと名のっていた)に関係があるのではな いかというような推論や,DenisdeRougemontがその野心的力作,,L'amouret L'occident''3)において展開したトリスタン物語とマニ教の二元論,カタリー派との関係

といった問題は,甚だ興味を唆る課題ではあるが,今はただこの作品の内に展開されてい る イデエ を追っていかなければならない。

× × ×

もともと イデェ というものが辿る本来の生成過程は, 内から外へ"と自己を実現し ていく意志によって導かれ,貫かれているものである。勿論,その発端においては, 外 から内へ の働きが, イデェ の胚を結ぶ動機をなしていることは言うまでもない。 自 然 が内に胚を結び,生長し,或る形象を実現していく過程−そこには時代を越えて普 遍的な自然の"イデェ"実現への意志が見られよう。植物のフォルムの背後に,Urpflanze (原植物)4)の"イデエ を見たゲーテは,本来の意味での偉大なるイデアリストであった。

また巻き貝5)のフォルムの中に,或るイデェ(日然の)の働きとその生成過程(formation)

を,感動的に詩的に迫っていったP,Valeryの意図も,つまるところは普遍概念に祭り

(2)

あげられることによってその本来の主体的生命を失ってしまったイデェの蘇生にあったの ではなかろうか。

シュトラースブルクの生きていたゴチック的中世は,イデェがまだ若々しい生命を保っ ていた。象徴主義も,まだ中世末期のそれの如く形式主義に堕してはいなかった。ホイジ ンガ博士の言われるごとく,象徴主義は, 生の息吹 6)を呼吸していたのであるc個々 の事物も,すべては何等かの意味を持っていた。信仰深いひとびとにとって,ものみな は,神の あかし と見えた。イデェも,思考の決算ではなく,むしろ思考の基盤であっ た。イデェと形象(フォルム)との間には,或る種の親密な関係があった。しかしその反 面,或るイデェが,絶対的な権威として社会的,政治的,あるいは精神的にひとびとの頭 上に君臨する時,イデェが或る秩序を維持するイデオロギーと化し,硬化現象を起こすも のであるということは,歴史がわれわれに教えてくれるところのものである。

シュトラースブルクの生きていた12世紀末から13世紀にわたって,ローマ.カトリック 教会は既にイデェの硬化現象を起こしていた。それは,ひとびとの生活や生活感情を外部 から規制する外なる権威と化しつつあった。

魂の救済を叫びながら,魂の持っている素朴な力を抑圧する傾向さえあった。特に新し い世俗文化の上昇エネルギーは,外からの権威に対して敏感であった。ドイツのトリスタ ン物語の作者が生まれたシュトラースブルクという新興都市の経済的エネルギーを考え合 わせる時,この作者の精神の胎内にイデェの胚が結ばれるに充分な条件があったと言わね ばならない。

内から外へ −それと共に 下から上へ という精神の働きが,この時代に胎動し ていたことも見逃すことは出来ない。かれらの生活を規制していたヒエラルヒィ的社会構 造は, 上から下へ 働きかける政治的権能を伴っていた。このヒエラルヒィを構成した 元来の高い宗教的イデェが,現実的には権力としてその形骸をひとびとの頭上に押しつけ ていたのである。上昇する経済的エネルギーと平行して, 下から上へ の精神的志向が 喚起されたのである。素朴なひとびとの心にも,天なる神への憧れにも似た 上へ の指 向があった。丁度ゴチックの塔が天空を指さしているように,やみがたい魂の慾求は空へ 向けられていた。

シュトラースブルクのイデェが胚を結んだ精神位相(Situation)を概観するとき,こ のような 内から外へ と, 下から上へ .という二つの精神的指向を見ることができる。

彼のイデェの形成に,この二つの精神的指向が働らいていたということは,プロローク解 釈において,既に推測され得たところのものである。

× × ×

さて,シュトラースブルクのイデェが,トリスタン物語という素材を掴んで,いかなる

生成の営みを展開し,いかなる内容を得たか,筆者は,いささかの廻り道をして,再びこ

の課題の前に立った。

(3)

既にプロロークの文体に関する考察によって明らかになったことであるが,シユトラー ブルクの文体とイデエは,極めて深い内的関連を持っている。トマと.、ツトフリートの 文体論的比較研究を試みたA.Dijksterhuisも指摘している7)ように,シュトラースブ ルクの文体で最も大きな特色とみられるのは,Wiederholung(反覆)である。この特徴 は,作品全般にわたって見られるのであるが,特に彼の語り口が昂揚した時にその特色は 著しい。Dijksterhuisは,トマが,Zustand(状態),dasFertige(既に成った事 柄)を客観的に叙述するに対して,ゴットフリートは,Wachsen(発生),Werden(生 成)を主体的に表現していることを指摘している。即ち,シュトラースブルクは,語の反 覆,或いは同じテーマの反覆によって,或る状態を動的にとらえ,その状態が発生し,そ れが次第にたかまっていくさまを描くのである。

● ● ● ● ● ● ●

またトマとゴットフリートの文体に共通のAntithese(対語,対句)についても,ト マの場合は,entwederoder(あれかこれか)であり,二つの概念はあくまで対立し,

一つを取ることは他を棄てることを意味するが,ゴットフリートの場合は,相互に排除し 合う対立概念ではなく,互いに惨透し合って,その背後にEinheit(統‑)を予想させ るものである。二つの概念が,相互に限定し合うのではなく,止揚する動きを孕んでいる ということは,シュトラースブルクの,イデェの展開と極めて密接な関係を持っていると 言わねばなるまい。

またトマの文体は,並列的であり,常に休らい,とどまる傾向を持っているのに対し,

シュトラースブルクの文体は,絶えず発展し展開する。トマの平静を求める気持は,語の 選択についても,好んで名詞を使用するのに対して,運動を求めるシュトラースブルク は,好んで動詞を使っている。彼は,名詞から自由に動詞を造ってさえいる。

シュトラースブルクの文体が典雅に装われていながら,その背後に熱っぽいものを感じ させるのは,これら文体上の諸特徴によるものである。 内から外へ と流露し, 下から 上へ と昂揚していくシュトラースブルクのイデェの生の営みが,彼の文体を内的に規制

して,このような文体上の特色を生んでいるのではなかろうか。

筆者は,このような問いと共に,シュトラースブルクの トリスタン 物語の叙事的内 容を検討していかねばならない。

1)リヴアリーソとブラソシェフルールの愛の物語

トリスタンの両親であるリヴアリーンとブランシェフルールの物語は,もともと伝記的 な導入部でしかなかった。ドイツのトリスタン作家であるアイルハルト・フォン・オベル クなども,彼らの愛について至極簡単に片づけている。マルケ王は,リヴアリーンの義に 酬いて,その美しい妹君を与えたのであり,二人は情熱的な愛によって結ばれたのではな

か っ た 。

それが,シュトラースブルクになると,二人の恋の芽生えに始まり,二人がいかに恋の

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悩みを悩み,いかにして結ばれ,いかに悲劇的な死へと導かれたかという美しくも悲しい 愛の物語が約1200行余りにわたって,しかも昂揚した文体で書きつづられている。

二人の恋の芽生えは,マルケ王の催した五月の祭典に始まる。その背景となる五月の自 然が喜ばしげに歌われる。(536〜586)

diusaelegenahtegal、580 dazliebesiiezevogelin, daziemersiiezemiiezesin.

dazkalleteuzderbliiete mitsolcheriibermiiete,

めでたき鳥よ めぐし小鳥よ とわに優しく

あ い

花の合間より こころ誇らに

小 夜 啼 烏 うまし烏 あ れ ぞ か し 顔を出し 噛 り ぬ

詩人は,自然と戯れるように,言葉と戯れている。五月の自然がかなでる快よいリズム は,そのまま詩を歌う心のリズムである。

ここにみられるneの反覆音が,他の個所ではuO,Ou或いはCeの反覆音に転調し ながら,生命の昂揚をかなでている。この地上の生の喜びの歌は,この物語の高峯 愛の 洞窟 の挿話で,更にたからかに歌われる。

このような自然を背景として,いよいよ紅白騎馬仕合が始まるや,生命の昂揚は絶頂に 達する。騎士たちの中でもひときわ光彩を放っていた騎士リヴアリーンと,たぐい稀なる 美しさに輝くブランシェフルールの間に恋が芽生える。ブランシェフルールの心を誘う ような謎めいた言葉に,リヴアリーンはその真意をはかりかねて,あれこれと想いまど う。生命感情の振幅の大きさノtrost(慰め)とzwivel(疑い),minne(愛)とhaz (憎しみ)の間に,二人の心は大きくゆれ動く。(このAntitheseは,文体の上からもプ

ロロークの第一の高峯に呼応する。)リヴアリーンにとって全く新しい生命(einniuwe leben)が始まる(937f.)。彼は別人(einanderman)のようになる。これは宮廷生 活からの逸脱に他ならない。

4週間続いた祝宴も終って,再び現実が戻ってくる。外敵の侵入に軍を進めたリヴアリ ーンは重傷を負う。二人がはじめてその想いを遂げたのは,この瀕死の床においてであっ た。そしてブランシェフルールは,一子をみごもる。

リヴアリーンの奇跡的な恢復。二人は正式な結婚をまたずに,束の間の幸福な生活を送 る。二人の愛の生活を語るくだり(1356f)は,文体の上からも内容においてもプロロー クの第二の高峯に呼応する。しかし彼の故国パルメニーエに仇敵モルガーン来襲の報に接 し,彼は愛人を伴って故国へ向う。リヴアリーンはモルガーンの刃に倒れる。ブランシエ フルールの嘆きは,口の中で死んで終う(1738)。4日の間,苦悶に身をさいなまれた末,

一子トリスタンを生み落して,彼女はこときれる。

この挿話にみられる愛の物語は,トリスタンとイゾルデの愛の物語で主題として展開さ

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るべきすべての動機を提起している。 愛の生命の昂揚", 日常性からの逸脱", 死に近 い愛", 死に至る愛",−そして新しい生命トリスタンの誕生cトリスタンが辿る運命 は,シュトラースブルクの筆によると,こうして一筋の糸によって導かれていくのであ

る。

トリスタンの少年時代から,イゾルデとの宿命的な愛(蝿薬)に至るこの物語の前半

(1751〜11366)は,シュトラースブルクのイデェが展開される前段階である。叙事詩的 構成は,トリスタンを中心に進められていく。リヴアリーンの忠実な主馬頭ルーアルとそ の妻フロレーテの愛情にはぐくまれて,少年トリスタンは騎士として必要なすべての教養 を身につける。ノルウェー船の商人によるトリスタンの誘拐,コーンウオールに漂着。マ ルケ王は,トリスタンをわが甥とは知らずに寵愛する。ルーアルとの再会,トリスタンの 刀礼−彼の帰国と父の仇モルガーンに対する復讐。アイルランドの大公モーロルトとの 果し合い。トリスタンは,モーロルトを見事に打ちとることが出来たが,同時に彼の毒刃

により致命的な傷を受ける。

その傷を治すことの出来る唯一の人,アイルランド王妃(モーロルトの妹)の許へ,楽 人タントリスと名乗って赴く。王妃の寵愛を受けて傷が治り,再びコーンウオールに帰 る。マルケ王の妃として,イゾルデ(王妃イゾルデの娘)を迎えるために再びアイルラン ドに向けて旅立つ。龍との仕合いに勝って,彼はイゾルデを連れて,コーンウォールに向

けて舟出する。

ここに展開されているのは,騎士トリスタンの武勇と,その典雅な教養や卓越した才智 を物語る数々の冒険(aventiure)である。シュトラースブルクはプロロークの第二主題 ,,lopcGをもってトリスタンを誉れ高き騎士の典型にたかめていく。マルケ王においても然 り。彼は徳高き王の典型である。トリスタンの育ての親ルーアルは楡らざる忠節の,その妻

フロレーテは母性愛の象徴とも言うべき人たちである,そしてイゾルデは,光卿桃陽

のように美しい。

更に注意深く読むと,この称讃の筆は,次第にたかまっていくのである。そしてトリス タンとイゾルデをほめたたえる筆は,媚薬の挿話に入る前のアイルランド宮廷における場 面で肢高頂に達する。イゾルデの容姿の美しさは,10895行から10985行にわたって,トリ

スタンの場合は,11080行から11145行にわたって,さながら絵を見るように感動的に描き

出されている。

さて,この二人を乗せた舟は,イゾルデの夫となるべきマルケの領国目指して,平│患な

航海を続けている。

(6)

2)媚 薬

媚薬の挿話は,この物語の最初の高峯をなしている。それはプロロークにおける第一の 高峯,導入部におけるリヴアリーンとブランシェフルールの愛の芽生えに照応する。シュ

トラースブルクのイデェが展開されるのも,この挿話を境とした後半においてである。

さ、てこの媚薬であるが,われわれの知っている トリスタン物語 と媚薬は切っても切 れぬ関係を持っているが,ヨーロッパにおけるトリスタン伝説の変遷の歴史を見ると,

F.Rankeが推定しているように,元来のケルト伝説には媚薬というモチーフは見られ なかったと考えられている。これが物語にとり入れられたのは,ベルールやアイルハルト の典拠となった所謂「エストワール」と呼ばれるトリスタン物語に始まると推定されてい る。その場合媚薬というモチーフは,トリスタン物語の前半と後半の叙事詩的構成を統一 するために導入されたものである。ベルールにおいても,アイルハルトにおいても,媚薬 は,二人の内面性とは少しも関係がなかった。媚薬は, 外から内へ 働らきかけたので あり,それに対して 内から外へ の働らきは認められない。ベルールの場合,媚薬は三 年の効力,アイルハルトの場合は四年の効力しか持っていなかった。モロアの森で,その 期限がきれた│時,トリスタンは罪の意識を感じ,イゾルデは宮廷の生活をなつかしむので ある。いずれにせよ彼らのとった行動はすべて媚薬故であり,そこに主体的な意志はみと められない。

モロアの森で,悔俊をすすめる隠者オグランに対してトリスタンは,こう言っている。

「オグランさま,悔い改めろとおっしゃいますか。ではいかなる罪を……。わたしども をお裁きになるあなたは,海上でわたくしどもが何を飲んだかご存じでしょうか。そうで すとも,味わった甘美な酒がわたしどもを酔わせているのです8)……。」

ルージユモンの所謂 媚薬は情熱の「アリバイ」(不在証明)"9)も,シュトラースブル ク以前のトリスタン物語においてはまことにうがつた表現である。しかし,シュトラース ブルクの場合果して,情熱の「アリバイ」であったろうか。

まずシュトラースブルクのこの挿話の二つの箇所に着目したいc

一つは,彼らが誤まって媚薬を飲んでしまったのを見て,驚きの余り色を失ったブラン ゲーネが,直ちにその瓶を海中へ投げ捨てる場面を,シュトラースブルクは次のような二 行で簡潔に表現している。

sitruocezdannenundwarfdaz/indentobendenwildense.(11695) 問題は,tobendenwildenseである。その日の海は凪いでいた筈である(11645f.)。

従って 波立ち騒ぐ は,warf(投げ込んだ)の結果と考えるべきである。媚薬の瓶が,

海に眠っていたElemente(自然力)を呼び醒ましたのである。海は,シュトラースブル

クにとって,単に涯しなく広い,限り無く深い魂の比愉以上にリアルな存在であった。魂

は海であり,海は魂であった。彼にとって,愛に悩む心は,荒海に漂う錨なき舟であった

(7)

し,寄るべなき港を失った舟は,不安な恋心であった。イゾルデがトリスタンに謎めいた 愛の告白をした時も,,,lameircG,それこそがわたくしの苦しみ(11986)と言っている。

lameirは,l'ameirすなわち恋であり苦渋であると共に,lameir(海)でもあった。

シュトラースブルクの媚薬の象徴的意味は,,,波立ち騒ぐ',という表現で,簡潔にして力強

く言いつくされている。

次に,ブランゲーネが, あの中に入っていた飲物は,お二人の死です (12487)と事 の真相をあかした時,トリスタンは決然として次のように言っている。「それが死であろ うと生であろうと,甘い毒を盛られたものだ。行くすえのことはわからぬが,この死はわ たしに快よい。あの素晴らしきイゾルデがもし永遠にわたしの死だとすれば,わたしは喜 んで永遠の死(eineWeclichezsterben)を求めようものぞ」(12495〜12502)

ここでトリスタンの言葉の晦渋で神話的な表現がまずわれわれを戸迷わせる。永遠の死 を意志するという言葉は,死に至る愛の情熱の激しさを意味しているのであろうか,それ とも宮廷的秩序からの逸脱(中世においては,秩序からの脱落は,それ自体"死"を意味し ていた)を意味するのであろうか。またごく表面的に解すれば,ブランゲーネの 死 に

かけたWortspielとも考えられよう。

しかし,これは現在のところ飽くまで筆者の推測の域を出るものではないが,永遠の

"死 を当時のローマ・カトリック教会の僧侶たちの粥套旬 永遠の生 に対するシュト ラースブルクの逆説的なアンティテーゼと考えられるのではなかろうか。生者必滅という 無常感や,死の恩念(mementomori)はひとびとの 生 を貧しいものにしていた。

"死 は,外から内へ働らきかける力としてひとびとの心を脅かしていた。それに対して,

シュトラースブルクの 内から外へ と働らくイデェは, 死 をも 生命 の内部にひ き込み,死を 生 の胎内に結ばれた胚と考えているのではなかろうか。リヴアリーンと ブランシェフルールの死が,トリスタンの生の内部に胚として結ばれ,はぐくまれ,今,

それは媚薬の力によって,突如として花開いた。トリスタンは,今その 死 を生き抜 こうとしているのである。彼の主体的意志は,媚薬の 死 を永遠に生きようとするの である。前の箇所では,媚薬が自然力にも似た魂の 内から外 へ働く力を喚起した。そ してトリスタンはこの力を主体的に生きようとしているのである。シュトラースブルク は,ここで, 生 と 死 という対立概念を止揚しようとしている。いわゆる"死"は,

"死 ならず,と共にいわゆる 生 は 生 ならず。そこにトリスタンの 永遠の死 に対する決意を見たいと思う。ここに,シュトラースブルクの媚薬が扱っている独自な意 味があるのではなかろうか。シュトラースブルクの場合,媚薬は,ルージュモンが指摘し ているような「情熱のアリバイ」では決してない。シュトラースブルクは,媚薬を彼のイ デェ展開の動機として使っている。媚薬は,むしろ彼のイデェの隠れ蓑とも言うべきもの

であろう。

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3)愛の教え−Exkurs‑

媚薬が象徴しているように,愛はその発端において 外から内へ いささか強引に (gewaltig)押し入ってくるものである。

シュトラースブルクは,リヴアリーンとブブランシェフルールの挿話においても,(diu gez"α〃記γ伽"eMinne/diuwasouchinirsinne/einteilzes〃γ"ze"c"e komen)(961f.)といった激しい表現を使っている。しかしミンネは内へ押し入ったと 同時に,われわれのものになる。それを生かすも殺すも,われわれの育て方による。

● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●

シュトラースブルクは,媚薬の挿話の直ぐあとで,彼のミンネの教えを,約170行(12186

〜12357)にわたって操り拡げる。シュトラースブルクの語り口は,俄かに,熱を帯びて くる。まるで叙事詩の語り手であることを忘れてしまったかのようである。その根本に流 れているものは,愛はわれわれの 外 なるものではなく,われわれの 内 なるものであ るという思想である。彼のイデェは,愛を 内 から 外 へ 下から上へ の働きと

● ●

して把えようとしている。

彼の心は愛と愛の嘆きを想う時,ひたすらに昇りゆき雲にまで達し(alserindiu wolkenwelle)(12208)誠の恋の喜びを想う時,彼の胸はゼトムントの山より大きく なるのである(Sowiletminherzesazestuntgr"zerdannoSetmUnt)(122 15f.)。それに続いて彼の時代の「愛の不在」を糾弾する嘆かいの声がたかまっていく。

われわれは愛の種子の蒔き方も,正しい耕し方も知らない。悪しき種子を蒔いて,百合や 薔薇を求めているようなものである。われわれにこそ 責任 があるのに,われわれはそ の責任を 無実な愛 に転嫁する。「愛の女神は,いや涯ての地に追いやられぬ」(:Minne istgetribenundegejaget/indenendelestenort.')(12280〜12281)という言葉 を引用して,シュトラースブルクは彼の時代のひとびとの心に 愛 が 不在 であるこ とを訴えているcわれわれと関係を失ってしまった愛が,ただ 外 なる言葉として身を ● ● ● ● 臆し,ひとびとにさげすまれながら,巷でその身をひさいでいるのである。愛は 上から 下へ と転落の一途を辿っている。それに対して,シュトラースブルクは,嘗て心の女王

であったものを,再びわれわれの心の 上 に君臨させようとするのである。

嘗ては 内 なるものが 外 に追いやられてしまっている。彼は,その 外 なるも のを再び 内 においてはぐくみ育て上げようと言うのである。彼の愛に対する イデェ は,ここにその素顔をあらわに見せている。

● ● ●

トリスタンは,マルケ王の宮廷で自らの愛を主体的に生きようとしている。トリスタン

は,今やシュトラースブルクのイデェの荷い手としてこの叙事詩を生きるのである。しか

し,秩序の面から見れば,トリスタンの愛は許すべからざる不倫の恋である。トリスタン

とイゾルデがマルケ王の宮廷から追放されるに至るまでの叙事詩的構成は,前半のそれと

全くその趣きを変えて終う。それは宮廷内部の秩序,そしてその秩序の上に立った諸々の

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(10)

ての心にやさし/正しきにも偽りにも(erstallenherzenbereit,/zedurnehteund

zetriigeheit.)(15735〜15742)

このシュトラースブルクの言葉の真意は,一体どこにあったのだろうか。それにしても キリストを挟(einermel)にたとえるとは,まことに大膳きわまる表現である。さらに 教会権力の存続を併せ考えれば, 神 をも 人 も恐れぬ発言と言わねばなるまい。

しかし,われわれがキリスト教にまつわる様々な偏見を去って,この言葉の真意を考え る時,快にも似たキリストが,その慈悲深い尊顔を顕し給うのである。ドグマの上に君臨 した王者の如きキリストではなく,すべての人の心に限り無い愛を注ぐキリストー"内

のり

なる心から 外 へ溢れ出ずる神性−それはすべての人の心に優しく,地上の法を越え るものではなかったか。筆者は,ここにドイツの偉大なる神秘神学者,マイスタア・エッ クハルトに至る内面への道を予想するものであるが,それは自ら別のテーマとして後の機

会にゆずり度い。

5 ) 愛 の 洞 窟

この挿話は, トリスタンとイゾルデの愛の合一 として,プロロークの第二の高峯に 照応する。しかし,この挿話の背景にある 森 は,もともと中世のひとたちにとって

"暗い そして"非合理的な ものしか意味していなかった。ダンテの神曲の地獄篇の冒頭,

N e l m e z z o d e l c a m m i n d i n o s t r a v i t a / m i r i t r o v a i p e r 〃 " a s 〃 〃 α O S C " γ α , ( わ れ 正路を失い,人生の瀧旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき)にも見られるように,

森は,秩序からの逸脱であり,魂の暗い迷い路を意味していた。

トリスタン物語においても,元来はトリスタンとイゾルデが宮廷の秩序から追放されて 辿りゆくさきは,暗いモロアの森であった。彼等は飢えにさいなまれながら,その森をさ

迷い歩くのであった。

ところが,シュトラースブルクの作品ではこの暗いモロアの森が,愛の楽園(Minne‑

paradies)となる。これは,この作家の全くの独創である。彼の内なるイデェは,ここ

で見事な象徴的手法によって形象化される。

この愛の楽園の中心に,トリスタンとイゾルデの二人が愛の至福を亭受する洞窟 (fossiure)がある。この洞窟の構造は,建築的であると共に象徴的に構成されている。

すべての部分が,全体と内的に緊密な関係を持ちながら,ゴチックの大伽藍を形成してい

る。然り,それは,まさに荒野に聟え,天空を指さす愛の女神の殿堂である。

洞窟の内部の白さは,好計や術策のない単純さ(einvalte)を,その広さは,限り無い 愛の力(craft)を,垂直に聟え立つその高さは,雲にまで達する高い心(hchemuot)を 表わしている。宝石が鎮められている円天井の要石には,愛の諸々の徳が凝集している。

その白く平らで滑らかな内壁は,完檗(durnehte)のしるしを,大理石の床の緑色は堅

(11)

牢という意味で愉らざる心(st"te)のしるしを表わしている。洞窟の中央に坐せる水晶の 愛の寝台は,誠の愛に捧げられている。それは,愛というものが,本来水晶のように透明 で清らかでなければならないからである……。その他洞窟の三つの窓や,閂など,すべて は象徴的な意味を持っている。更にこの洞窟が荒野にあるということさえ,誠の愛に至る 道の峡しさを意味している。この道の険しさはプロロークの(37〜40)において,既に

悲歌的に歌われている。

この殿堂の内部に照応するが如く,この洞窟を取り巻く自然は,荒地の中に地上の楽園 を造っていた。烏たちはl輔り合い,愛する二人に朝の挨拶を送り,清き泉は絶えず美しく 職きながら二人を迎える。四囲の自然のすべてが,彼ら二人にほほえみかけている。彼ら は,食物の心配すら持たない。彼らの愛が,鹸良の糧(lipnar)になるからである。

外部のすべてが,内部から放射される光によって変容する。それは,愛の光である。生 命は感性的であると共に霊性をlll;びる。リヴアリーンとブランシェフルールの愛における より一層生命感が昂揚する。文体においても然り°生命の喜びの歌は,四囲の自然のリズ ムを告げる。伝説におけるトリスタンの悔いもなければ,イゾルデの宮廷生活をなつかし む心もない。そればかりでなく,彼らに悔'陵をすすめる隠者オグランも現われない。シュ

トラースブルクは,ひたすらに二人の愛の合一の聖化に筆を注いでいる。

× × ×

一方マルケ王は,慎悩の日々を送っている。名誉と富さえ,王にとってうとましいもの に思われる。とある日,狩に出たマルケ王は,白い牡鹿(聖なるものの象徴)を追って,

愛の洞窟の近くまでやって来る。そして遂に二人の居所を発見する。洞窟の窓から内部を 覗き込んだマルケ王の目に映じたものは,抜き身の剣を中に互に背を向けて寝ている彼の 妻と甥の姿であった。勿論,これはその前日,角笛や犬のどよめきに,マルケ王近しと感付 いたトリスタンの機転によるものであった。マルケは再び迷いに陥ち込む。イゾルデの肉 体の余りにも輝かしい美しさに魅せられたマルケは,二人の宮廷復帰を宥す。しかし再び 始められた生活には,ただ外面的に装われた虚偽の愛と名誉のない名誉しかなかった。

"内 を伴わない 外 だけの秩序は永続きするものではない。トリスタンとイゾルデの

"内 は, 外 の見張り(huote)によって却って無分別な激情に駆り立てられていくの だった。ある五月の真昼間に,まずエヴァの末喬であるイゾルデがその禁を犯してしま

う 。

そしてトリスタンは,アダムがやったと同じように,その果実を食べて終う。こうして 相思の二人の永遠の別離が訪れる。

6)別 離

別離に際して,トリスタンとイゾルデが交わし合う愛の誓い,(18258〜18285,18288

18358)トリスタンが去ったあとでのイゾルデのモノローグ(18491〜18600)は,シュト

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ラースブルクのトリスタン物語で最も感動的な箇所の一つである。シュトラースブルク は,彼のイデエの展開のためにこれからあとの物語の叙事的構成を,いわば多声的(ポリ フオニー的)構成に組みかえて終っている。ミンネゼンガたちの歌う杼情詩は,二元的要 素を内に孕んでいるにせよ,本質的にメロディ的であり単声的(モノフオニー的)であっ

た。

ここでは叙事的内容が,背景に退いてしまい専らトリスタン・イゾルデ。白い手のイゾ ルデの三つの声部によって構成されている。勿論,主声部はトリスタンの魂である。その 魂から分離したイゾルデの生が対声部であり,その対声部から分離して,今一つの声部,

すなわち白い手のイゾルデが生まれる。各声部は,独立しながらも緊張した内的関係を保 って結ばれている。AntitheseがEinheitを志向しているシュトラースブルクの文体上 の特色が,ここではポリフオニー的にこの物語を第三の高峯へ向かってたかめていく推進 力となる。かくして 外 なる叙事詩的内容は, 内から外へ", 下から上へ という志 向を持ったシュトラースブルクのイデェによって, 内 なる魂のドラマに変容していく。

それは,むしろ魂の多声的構成と名付けた方がよいかも知れない。二つの魂が,一つにな ることを求めて,互いに呼び合いながら生の(死のではない〃施律を織りなしていくの である。そしてシュトラースブルクの筆は,トリスタンが金髪のイゾルデを想いながら白 い手のイゾルデに傾いていくところで,ふっつりと絶たれている。

その原因は,勿論永遠に謎である。それが作者の死によるものか,或いはそこに何か内 的な原因がひそんでいるのか,様々な推測がなされよう。若し作者の死がこの作品を未完 に終わらせたのでないとしたら………一体何が彼の筆をとどこおらせたのであろう。イデ ェの展開という面から見ても,まだ 第三の高峯 が残されている。シュトラースブルク は,トリスタンとイゾルデの死を象徴にまでたかめていかなければならないのである。そ のためにこそ,彼はポリフオニー的構成をえらんだのである。死による二人の愛の合一と いう終結部へと進行するクレシェンド(漸次強音)−しかしそれは,おのずから叙事詩 的構成という枠を越えてしまうものではなかったか。そして彼の死後約6世紀を経て,ワ ーグナアの楽劇 トリスタンとイゾルデ"'')をまって,始めて音楽という形式によって完 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●

成さるべき運命にあったのではないか。勿論これも,これまでなされた幾多の推測の上

● ● ● ● ●

に,今一つの憶測を重ねるに過ぎないものではあるが。(この稿終り)

附 記

1)本稿に使用したテクストは,F.Rankeによって編集された1962年度版のTristanundlsoldで ある。尚邦訳として石川敬三先生の御訳業,「トリスタンとイゾルデ」一養徳社一並びにドイツ 現代語訳として,KarlPannierの"Tristanundlsolde"(レクラム文庫)に負うところが多か

った。

1)金沢大学法文学部論集第10巻所載

2 ) G . W e b e r : G o t t f r i e d s v o n S t r a s s b u r g T r i s t a n u n d d i e K r i s e d e s h o c h m i t t e l a l t e r l i c h e n

(13)

Weltbildesuml200(1953)二巻に,シュトラースブルクのトリスタン物語とマニ教,カタリ派 のみならずアウグスチヌス,ベルナドッス,サンヴイクトールのフーゴー,アベラドウスとの 内的関係が詳細に論じられている。

3)Rougemontのこの著作の邦訳は,岩波書店から鈴木健郎,川村克己の共訳で「愛について』−

エロスとアガペーが出版されている。

4)ゲーテのこの考えは,彼の自然科学論文の一つ"EinleitungzneinerMorphologie"(Etwal7 95)のOrganischeEntzweiungに見られる。

5)P.ValeryのVariete(V)のL'hommeetlacoquille

6)ヨハン・ホイジンガ著兼岩・里見共訳の「中世の秋」一創文社一の第16章神秘主義における 比嚥的思考の限界と「実念論」の冒頭に,象徴主義は,いわば中世思想の生の息吹きであった。

という言葉がある。

7 ) A . D i j k s t e r h u i s : T h o m a s u n d G o t t f r i e d ‑ I h r e k o n s t r u k t i v e n S p r a c h f o r m e n ‑ P . N o o r d h o f f

n.v、,Groningen‑Batavial935

8)ベデイエ編佐藤輝夫訳「トリスタンとイズー物語」78頁以下を参照されたし。

9)「愛について」の第10章秘薬(58頁)

10)同上の書,"13章ブルターニュ物語からゴツトフリートを通ってワーグナーヘ(197頁)

11)ワーグナアのこのオペラの台本は,シュトラースブルクのトリスタン物語を典拠として彼自身

の筆になるものである。

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