金 子 直 一
おいて,次のように述べている。
「ところで,神がこうした場合以外の被造においてある仕方は如何なるものであるか,
● ● ● ● ● ●
と い う こ と に つ い て は , 人 間 的 な こ と が ら に つ い て の こ の 語 の 用 法 に 基 づ い て , 考 察 を 進 めることが適当であろう。すなわち,国王が,実際はその到るところに現在しているわけ で は な く と も , や は り 彼 の 全 国 土 に お い て あ る と い わ れ る の は , ま さ し く 彼 が そ の 上 に 持
● ● ● ● ● ●
つ力(potentia)による。また,何者かが 自己の眼の届くところのものの全範域にわた って,それらにおいてあるとやはりいわれるのであるが,これは自らの現在性(praesentia)
● ● ● ● ● ●
による。」
ここにおいて,トマスは,神のこの世においてあるあり方を,praesentiaという語で
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表現している。
中世ドイツ語のgegenwerticは,元来gegenという前置詞が持っている対立的な意 味をまだ残していた。グリムの辞典によると,その第三の用法に,例えば,裁判官,王,
主人,神のように権威ある者が,ただそこに居あわすという意味ばかりでなく,その人格 や権勢の具体的な効果の現在性をも意味していたjとある。大体,トマスpraesentiaの 意に近いが,より主観的,心理的なニュアンスを持っていると言えよう。
さて,エックハルトにおけるgegenwertic(‑heit)は,エックハルトの読者ならす ぐ気づくほどに,随所に使かわれている。慣用語として,さきのdeuspraesensにあた るdinesgegenwertigengotes,sinesgeminnetengegenwertigengotesなどは別とし て,エックハルトにとって,神は,何よりもまず現在の神‑eingotdergegenwericheit‑
であった。「いたるところに,とこしえに変らず居絵う」−allezitglichegegenwertic‑
神である。トマスの場合のように,神はすべてのものにおいて現在し,すべてのものは神
● ● ● ●
において現在するという相互関係において神の現在性‑gegenwerticheit‑が成立する。
AlsOsoldermenschemitgOtlichergege""eγ〃c〃〃durchgangensin undmitderformesinesgeminnetengotesdurchformetsinundinim gewesentsin,dazimsingege""eγ〃c"e"liuhteaneallearbeitmer:
(Quint,Diedeut・WerkeS.208,11f.)
「このように人間は,神の現在性に貫かれねばならない,そして神の形相によって完全
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にかたちづくられ,神の現在性がさして骨折ることもなく輝き渡るほどに,神においてあ
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らればならぬ。」
DemgotalsOggge""〃〃cistinallendingenundsinervernunftan demoberstengewaltistunddergebrnchendeist…(ibid.S.211,3)
「このように,神が,すべての事物において現在すると観じ,自らの智を最も高く行使
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する人は……」
マイスタア・エツクハルトの時間観一試論一 117
この二つの文例は,gegenwerticという語に託されたエックハルトの神の現在性という 思想を最もよくあらわしたものと言えよう。
さて,この現在性は,いわゆる時の概念というより,むしろ神と被造物との関係,神の 存在(esse)の被造物におけるありかたを意味している。少くとも,過去,未来に対する 時称的な意味での現在という時間概念は,これらの用法にはみられない。それは,文字通 り「現に在る」という意であり,神の本性(essentia)である「在る」(esse)に力点が置 か れ て い る こ と は 言 う ま で も な い 。
この概念とnn(今)という時間概念が結びついて始めて,明確に時間的相における現 在性が定義づけられる。
gegenwerticnOの用例及びこれに類した意味の神の時における現在性の主なるものは 次に示す通りである。Traktatでは,(Quint,S.40,3;S.44,5;S、60,8;S.203,1;
S.205,5;S.221,3;S、208,11;S.235,5;S.276,2)Predigtでは(Pf.nS.45, 1;S、57,21;S、98,18;S、105,20;S.190,35;S、207,11;S.223,29;S、234,18;S.
265,7;S.268,15;S.297,25;etc.) 今,その一つを例示しよう。
「その日々(神の日々,魂の日々)は,六,七日ほど前に流れ去った日々も,六千年前 にあった日々も,昨日と同じほど今日という日に近い。それは何故であろうか。そこにお いては, 時,が現在する今においてあるからである。……中略……,その日々においては,
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魂がとこしえの日にあって実在せる今にある。そして父なる神がひとり子を生み絵うたの
● ● ● ● ●
は,まさにこの現在する今においてであり,かくして,魂は神において再び生を受けるの
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である。」(Pf.HS.265,7f.)
聖書におけるかの「みちたる時」(diuvolliderzit)(ルカ1.26f.)に関連して,
エックハルトは,魂におけるみちたる時を次のように述べている。
「今一つの満ちたる時がある。六千年前に起こったことも,今後,世の終りにいたるま で起るであろうことも,すべての時を今この現在する時に(ineingegenwerticnn)再 来させることができる業と力を持っている人があれば,まさにそれこそ,時みちたりと言 わるべきであろう。これこそ永遠の今(daznnderewikeit)である。魂はこの時に,す べてのものを,神において見ることができよう。わたくしが,今,現に眼の前に(gegenwe‑
rtic)見ているように新しく,新鮮に,喜びを以て見ることができる」(Pf.HS.105,20) ラテン語の著作においても,これと同じく,神の現在性(praesentialitas)に関するエ ックハルトの思想は随所に見られる。その主なる用例箇所は下記の通りである。
ExpositioLibriGenesis:1n.33p.211,8;n.170,171, Exodi:n.22,n.80ExpositioLibriSapientiae:n.10, SermonesetLectionessuperEcclesiastici:n。23Tractatus
ExpositioLibri n、33,n.161 SuperOratione
Dominican、14etc.
その一つを引用すると「第四に,神はとこしえに現在性においてある。つまり神におい ては,その永遠性が同時に全きすがたで現在する。それは,過去が,現在と同じように,
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未来が現在と同じように現在するという意である。過去・現在・未来の全持続が,神にお いては,相互に排除し合うことなく,相互に包み合って現在する」(Exodin.80)
ここに展開されている思想は,時間に関するというより,むしろ永遠に関するものでは ないであろうかという疑問が,まず起ってくる。実際に,この文章の背後には,ポエチウ スの「哲学の慰め」第五部の六における永遠の概念についての思想が想い出される。「永 遠とは,限り無い生命を同時に全的且つ完全に所有することである。−(中略)−故に限
● ● ● ● ●
り無い生命の全充実性を同時的に把握し且つ所有し,如何なる未来的なものもそれに欠け ていず,また如何なる過去的なものもそれから洩れていないようなもの,かかるものこそ 当然の権利を以て永遠と名付けられる。そしてかかるものは,必然的に自己に関与し,常 に自己に現前し,且つ移動する無限の時間を現在的なるものとして所有する。」
確かに,アウグスチヌスが述べているように,時間の時間たる所以は,過ぎ去り行くと ころにありとすれば,現在する今という時間は,時間としてあり得ない。永遠に現在する 今は,それ自体矛盾概念である。この時間と永遠のアンチノミーに最も苦しんだアウグス チヌスが,客観的な運動量として時間をとらえたアリストテレスに対して,時間を魂の延 長として把らえ,外なる時に対して,内なる時として,過去の現在(記憶),現在の現在
(直視),未来の現在(期待)が存在する,としたこともわれわれのよく知るところのこ とである。かの告白第六章の十におけるアウグスチヌスの言葉「それで,すべての明日の こととこれよりも後のことを,そしてまたすべての昨日のこととこれよりも前のことを,
あなたはあなたの(永遠なる)今日のうちになしたもうであろう」は,エックハルトも引 用しているところであり,エックハルトの「現在する今」の系譜は,新プラトン派の系譜
をつぐものであることも明らかである。
しかして,この現在する今は,無時間的な永遠あるいはプラトン流のイデヤの影であろ うか,この問いを問い続けることが小論の主題となる。
現在する今の時間構造を分析する前に,あらかじめ,エックハルトが所謂時間(zit)を どのように考えていたか,更に彼の永遠の概念についても確かめておく必要があろう。
エックハルトが時間という時,アリストテレスがその自然学で定義し,トマスもそれに ならって定義づけた時間概念を頭に置いていたことは,その用例の上からも明らかである。
トマスの定義‑tempusnihilaliudestquamnumerusmotuspriusetposterius.‑
(S.th、1,10,1‑5)即ち時間とは,より先きとより後の運動の数にほかならない。この 定義は,ギリシヤ的な空間的思惟がとらえた時間解釈として甚だ明快であるが,意識と時 間との関係を考慮の外においている点,時間の真の定義とは言えないわけである。しかし
マイスタァ・エックハルトの時間観一試論一 119
中世のスコラ学においては,このアリストテレスの定義が時間概念の基礎となっていた。
エックハルトも,時間を運動の量をはかるカテゴリー−praedicamentumreale‑
(QuaestioneSParisienesno4)と考えていた。また,時間の持続を,すべての事物の存
在のあり方によって規定されるものと考えていた。
「従って,持続の様態はさまざまな存在のあり方によって相異なる。永遠(aeternitas) は,神的な存在に相応する。久遠(aevum)は,人間の恒常的な存在に,時間は,変転す
るものの存在に相応する」(Expos.1ibriExodin.85)
スコラ神学者として,まず神がunumesse(唯一なる存在者)であるという大前提に 立った時,当然このような定義がでてくるわけである。「在る」という最も普遍的な概念 が神の本性(essentia)であるならば,神の存在は時間的な持続の限定すら超えなければ ならない。従って神は,永遠という持続概念もこえて存在するわけである(priusaeter‑
nitate)。しかし,このような思弁的なスコラの体系の中で,変転する存在である人間の
時間は,神の永遠とますます遠くなるばかりである。
エックハルトは,このような時間概念としての時を断乎として捨てるようにと説く。し かし,もう一つ,当時の一般の時間感覚も考慮に入れなければいけない。中世の秋とも言 えるこの頽落の時代はペストと黒死病がいたるところで猛威を振っていた時代である。時 は,消滅へのモメントとしてしか働かなかった,と言えよう。人間が時と共に消滅してい く存在であるという不安から現世の時を否定して彼岸を求めるか, 時,に目を蔽うか,い ずれにせよ時間が下降の線を辿る時に,時間というものが痛く意識されるものである。時 が,抽象的な時間概念ではなく,生命の現実として問題性を帯びてくるのも,このような
時代においてである。
時を超えること,これがエックハルトの時間克服の指標である。彼は,これに様々な表 現を与える。「時間からの脱落」(derzitenpfallen)(Pf.nS、104,),「時間をこえて上 方に高められ」(iiberdieziterhoben)(Pf.ⅡS.191,),「天空は,時間や空間に触れら れない」(denhimelberiieretnochzitnochstat)(Pf.HS.222,),「時間のきずな を解く(diezitloesen)とは,智をもって絶えず神へとたかまることである」(Pf.n
S.49)
これらの用例に特徴的に見られることは,垂直的空間次元である。水平的空間表象とし ての過去・現在。未来の時間的継起を垂直に識る空間的時間表象としての 時,の意識,
それは勿論,現代の時間感覚をして言わしむれば,時間の否定であり永遠にほかならない とかたずけられよう。しかし,この交叉した時点に働いている時間感覚は,さきのgegen‑
werticnOに託されたエックハルトの現実感覚に他ならないと言えまいか。
この問いは,更にエックハルトの思想がかたちづくっている文章構造の分析において問
い続けられねばならない。
金 子 直 一
Ⅱ ) 完 了 態 と 未 完 了 熊
インド・ゲルマン系の諸語は,動詞の時称体系が成立する過程において,本来持ってい た動詞の態(Aktionsart)に対する強い意識が存続していた。中世ドイツ語においても,
完了態と未完了態の意識は強く残っていた。われわれは,勿論,文法用語としての態の知 識 は 持 っ て い る 。 し か し , そ も そ も 態 と は 何 ん で あ っ た の か 。 態 に お け る 動 詞 の と ら え 方 と,時称体系における動詞のとらえ方では,時に対する心理的背景が異なるのではないだ ろうか。トーレィフ・ポーマンの「へプライ人とギリシヤ人の思惟」は,この問いに対し て幾多の示唆を与えてくれる。彼は,ギリシヤ人の静的な空間的思惟形式に対して,へプ ライ人の動的な時間的思惟形式を反措定し,旧約のヘブライ語分析を通して実証的考証を 行っている。その中で,彼はヘブライ語の時称と近代のヨーロッパ語の時称の根本的差異 を指摘して,へプライ語は,動詞の態によって,即ち行動する主体,観察する主体の立場 によって時間を規制していると述べている。「セム語の時称観念は,多くは現象を動作の 完了,未完了の観点のもとにみるがゆえに,三つの時間領域(過去・現在・未来)をもつ インドゲルマン系の言語とはもともと異質的である」ボーマン自身も別の箇所でふれてい るように,この異質的という言葉は,インドゲルマン系の言語にも態の意識はあったとい う 上 で な お 言 わ れ て い る の で あ る 。 ア リ ス ト テ レ ス の 時 間 定 義 に も っ と も よ く あ ら わ れ て いるように,ギリシヤ人は,時間を空間的運動ととらえているのに対して,へプライ人は,
時間を文字通り働き(Aktion)の様態(Art),すなわち態によってとらえていた。行為 ないし出来事がいつ起ったかという関心より,それらが語り手にとって完了したものか,
● ●
未だ完了せずに続いているかという関心が強く働いているわけである。ポーマンは,ギリ シヤ人の寡観的時間に対して,ヘブライ人の主観的時間を,静的空間的に対して動的時間 的と定義づけている。
さて,スコラの神学体系は,トマスの著作において最もその特色がみられる通り,空間 的思惟体系である。いわば神の存在をその頂きに仰ぎ,明確に定義づけられたアリストテレ スの用語によって構築されたゴシックの大伽藍である。スコラ学者としてのエックハルト も,ラテン語の諸著作においてはスコラの概念によって思想を展開してる。しかし,彼の 母国語であるドイツ語による著作,特に説教集においては,スコラ的概念はしばしばその わくをはずれ,漂い始める。スコラの概念によって定義づけられた神あるいは永遠は,
彼の説教によって魂の不安を慰めたいと願う人々にとって,余りにも遠い存在である。神 の存在を心に感じたいと願う魂にとって,何よりもまず,神が身近な存在でなければなら ない。エックハルトは,神の語り手として,まず神を魂の内に働きつづける力として語ら ねばならなかった。このエックハルトの話者としての立場が,彼の文法構造を内的に規制 していないか,言語構造の中核を占める動詞の時称に,態の意識が強く働いているのでは ないかという推定が成り立つ。神は,人間の時をこえるものとして,過去・現在・未来と
マイスタア・エツクハルトの時間観一試論一 121
いう時称の文法範嶢も超えるわけである。
エックハルトの関心も,聖書における神の啓示の一回的事実にあるのではなく,もっぱ らその神が現在において,いかに存在するか,その力がいかに働いているかにしぼられて いる。換言すれば, 時 における働き(Aktion)の態(Art)が,専ら話者の関心となる。
その主体的関心が,時間の観念を内的に規制するのである。このような想定のもとにエッ クハルトの動詞の時称及び態の用法を調べたいと思う。
完了態は,一般に行為,出来事の生起,あるいは終末をあらわす瞬間態であるに比して 未完了態は,未だ終っていないという意味で継続態である。中世ドイツ語では,少数の動 詞をのぞいて合成動詞以外は,一般に未完了態であり,合成動詞は完了態である。神秘主 義の時代は,語史の上においても,造語の活発に行なわれた時代であるが,エックハルト の語彙においてもまず目立つのは,前置詞abe,ane,er,durch,ent,in,ge,verを前 綴とする合成動詞の多いことである。特にその中でも,abe,ent,ge,verが極めて多い。
Traktatからその例を下記すると,
7︐︐317︐︐︐︐
︑nne︐︐
︑nnnn夕︑neeeeeee韮卿伽曲mmw利q睡誕率・︾・州封州︽郵誕伽誕 dumD己■■ユe可︑・1e
可辛︐7
CS
n︑n
︐舵︑鋤・皿S︲︐︑伽肌阿唾hde岫狂伽一一mmn len脱印︑血伽伽刊曲伽・叩一配一︑飢韮・皿諏峠訓乳一江江︐︐︐|飢華伽却毛恥一毛岫呵伽︑皿肌ee n
岬識吋蝿伽蝿△︾韮 夕輌唖伽毛一鮒毛一etr︐ 肺蝉刷w 一毛︿肌皿皿咋岫血︐ 7雫鋤︾州一斗 ●勺ロロユタn
n︑g制11姪鯲畑咋ee四小曲︐1・訓年吟︲i︲畑・皿印則︲|︲峠Ⅲ比︑肌︑へ唱正︑︲n.1n
鋤︽割華・︾諏諦︿抽抽麺剛眺帥鉦諮画舳討千J諏畑肌飢一︲峠卿血︐n 夕
銅韮蝿・叫峠岬諦部一一 ︐
鏑鋤叩・恥︾袖・垂↓調 タ
ターリ
︾︾︾韮︾鋼栖︽畢軸︾・銅搾︾・華銅錘︾・︾ ︑n
夕
これらの合成動詞の多用についての考察は,後にゆずるとして,次に現在分詞の用法に ついても注目しなければならない。特に,エックハルトは,神の働き,あるいは魂の働き の恒常性を表わす継続態として,好んで現在分詞を使っている。その例を下記すると,
C
gotistmitimノ'de"deinsinemlidenne(QuintDW,54,1),doch
122
blibeterinimselbenノe6e"e,(ibid、113,8),dazichschepfei"z"ese"de, 2" 6〃6e"eindesvaterssch6zeundherzen.(ibid、46,8),wanezA enkumetandazherzeniemerdandurchgotessiiezicheit〃〃eze"",(ibid.
53,3),dervaterinmirj"〃況泌e"deundz"Oze""wiirketdiuwerk, (ibid.9,19),mersiistge6"""undgebirtdenguoten,(ibib.9,7),S6 istsie""ge60""‑ge6eγ"〃,(ibid.11,17)この他,Traktatの中だけでも bekennende,bliiejende,geniiegende,gotfindende,gotsuochende,minnende, wesende,wizzendeetc.きわめてその用例が多い。
完了的瞬間態と未完了的持続態が,一つのセンテンスにおいて,ある種の緊張感をもっ て対置している例も,エックハルトの文体の特色の一つである。
si〃〃"zetund〃γ γ""vonzweinalsein,(QuintDW.30,16),dar nach,d6diuerdewartfizge"o"",d6"sc〃〃〃diebrunnenノg6e"".(ibid. 113,12)Dervater…ge""#dichmitsimee伽ye助γ"gsune.(Pf・11207) er 〃ルetundichge"〃伽.(ibid、206)AIs6,""deich"""α〃e"inin, dezerz"〃舵#michsinwesenein…(ibid、205)etc.これも,極めて用例が 多い。
エックハルトにおける不定詞の名詞化も,ラテン語の動名詞の影響による抽象化(Abst‑
raktion)の傾向だけを見るべきでなく,その心理的根拠は,それぞれの動詞の働きの恒 常化にあったと考えらるべきであろう。特に,エックハルトにとって重要な意味を持つ動 詞の殆んどが,不定詞の名詞形として使われている。例えば,神が魂の中にひとり子を生 む(gebern)という思想は,エックハルトの中心的な思想であるが,次の文例は,彼の不 定詞の用法を最もよくあらわしている例である。
gotes幼γec"",dazitssinge6e""undesinge6g""istsin幼γ〃e".
(Pf.II100,27),dochdazge6e""dergUeteundge肋γ"‑eγ〃〃indem guotenistaleinwesen,einleben.(QuintDW、9,13)
その他,動詞からの派生名詞‑ungeが多いことも特徴的である。更に未完了態の持続 的性格を強調するためにallezit,zeallenziten,zeallerzit,aneunderlazという副 詞句は,エックハルトの慣用句となっている。その反対に瞬間的同時性としてはzemale
が,慣用的に使われている。
次に問題になるのは,過去時称と現在完了との関係である。現在完了は,態において完 了態であるのに対して,過去は,imperfectumというラテン名が示すように未完了態で
ある。
ヨハネ註解において,エックハルトは'冒頭の「初めに言があった」の解釈において,
(Inprincipioeratvervum.)の<erat>の意味を次のように解釈している。
マイスタァ。エツクハルトの時間観一試論一 123
「このeratは三つの意味を持っている。すなわち,eratは,存在をあらわす語である から,実体をあらわし,次に過去(praeteritum)の意をあらわし,更に未完了過去(im‑
perfectum)の意をあらわしている。eratは,そもそも実体の意であるから,言葉は始源 の実体であり,過去であるから,言葉はとこしえに生まれた(sempernatumest)のであ り,未完了過去であるから,とこしえに生まれるのである。(sempernascitur)」
エックハルトは,ラテン語の未完了過去を継続態としてとらえ,神のことばであるロゴ スが,初めにあり,現在にあり,未来にあり続けることを,言おうとしている。ここで,
神の文法という比愉を使えば,神の文法には,恰もヘブライ語の文法におけるごとく,完 了態と未完了態しかない。しかも,神自身においては,この二つの態は,元来一つの存在 (unumesse)の二つの働きかた(Aktionsart)にすぎない−すなわち瞬間的完了態 であると同時に持続的未完了態であるということ−それが神の文法の時称ではあるまい か。前記のボーマン氏は,ゲセニウスーカウチュの「文法書」によって,へプライ語の完 了態を次のように定義している。「話者が実際に現在あるものとして言い表わそうとする● 。 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
行為とか,出来事とか,状態などの表現に用いる。それらがすでに完了してしまっている 過去に属していようと,あるいは依然現在まで入りこんで存続していようとも,あるいは
まだ未来に属しているが,既に現存していると確信される場合などにも用いられる。」
更に未完了態については,「その完了態とは逆に,ある時点にたつ話者にとってなお持● ● ● ● ● ●
続している場合,あるいは行為中であると考えられる場合,あるいは新たに生ずる出来事 として注意を喚起させるような場合,これらの行為,出来事,状態を表現する用法である」
このような時称文法を持つヘブライ語こそ,まさに神を語るに最もふさわしい言語形式 ではなかろうか。勿論,エックハルトに,神の文法の意識があったわけではないし,へプ ライ語に通じていたとも考えられない。しかし神の語り手としてのエックハルトの言語構 造に,神の文法が無意識に働いていたということは考えられよう。
まず,エックハルトの完了時称の用法を調べてみると,最初に目につくのは,神の啓示
をあらわすときの用法である。
UndsantPaulussprichet:got〃伽ezunsggq舵"6〃efinsinemgeiste.
(QuintDW.S、42,19)dazgot〃伽geSb"oc"e"undnochsprichetinder hoechsten,indemgrundeminersele.(ibid.S、110,15)Ouche""αe/egot diewerltnieges℃"zWM,obgeschaffen‑wesennihte""""egesc〃αガセ".
(ibid.S.44,4)
これらの例でもわかるように,エックハルトは,神の啓示という救済史的な一回的事実 を,魂の現実として共体験的に語っている。過去の神の時に魂が同時的に参与するのであ
る。
この過去の神の時と現在の魂の時の同時性が,神の文法における現在である。神の天地
創造がいつ起ったか,というようなことは,ここでは全く問題にならない。旧約の世界が もっている歴史的構成,あるいはその世界史的展望もこの神の語り手の関心とはならない。
この語り手は,神の時における出来事のもっている深遠な暗示的な意味をひたすらに追っ て,その現実的な意味を開示しようとする。物語の語り手の使う過去時称が,われわれの 現実をしばしの間,忘却させるるのに対し,エックハルトの完了形は,現実を呼び醒ます のである。神の時の完了態が,魂の時の持続態となる所以もここにある。上に示した,第 二の文例「神はそれを語られた,そしてわたしの魂の高み,わたしの魂の深みにおいて,
なお語り続けられる」は,この語り手の意識の時間構造を最もよくあらわしていると言え よう。
神の時,魂の時の完了形に対して,現世の時の完了形においては,その一回性と過去性 が強調される。
「しかし,神が憎み給うのは,痛みの未来性(liden‑suln)というより痛みの過去性
● ●
(geliten‑han)である。何故なら,苦しんだ(geliten‑han)ということは,苦しんでい る(lidenne)とはおよそ異なるものである。つまりその場合,苦しみは忽ちのうちに過 ぎ去ってしまったということになるからである」(QuintDW.S40,3)
「人間は,頭で考えた神で(miteinemgedahtengote)事足れりとしてはならない。
何故なら,思考が去れば,神もまた去っていく」(ibid.S.205,5)
人間の時においては,神の文法は成立しない。完了態は,瞬間態でしかない。未完了態 は,未完了的持続態でしかない。これが,エックハルトの神の文法に対する人間の文法で ある。人間の文法には,真の意味での現在がないのではないかという問いが,彼の時間意
● ●
識の中心にあった。嘗てアウグスチヌスを悩ました現在という時の不在性の問題,すなわ ち,未来より来って一瞬のうちに過去へと過ぎ去っていく現在という時は果して存在する のであろうかという問題の克服は,エックハルトにとっても大きな課題であった。
神の時を永遠という無時間的概念に封じこめることは,人間の時の克服にはならない。
神の時を人間の時の軸において共体験しなければ,あるいは,神の時を人間の時の統合原 理としなければ,真の意味での時の克服はなされない。スコラ神学者としてのエックハル トは,この問題に関連して,アリストテレスの概念generatio(生成,生起)とalteratio
(変化)を使って,両者の時を関係づけようと試みている。
m)generatioとalteratio
アリストテレスによれば,γ§" 層−generatio‑は,非存在から存在への生成を,
伽Jofのo く−alteratio‑は性質上の変化を意味している。そして,その「動く」が生成す
● ● ●
るの意であれば,「動いてゆくところのそれ」(すなわち,そのゆくさき・目的)は,或
●
る実体的な「形相」であり,変化(性質上での転化)する意であれば,それは或る「様態」
● ●
である,と述べている。
アルケーと呼ばれる。……−さて,これらでみると,これらすべての意味のアルケーに
共通しているのは,それらがいずれも当の事物の「第一の御春昏」であること,すなわ
ちその事物の存在または生成または認識が「それから始まる第一のそれ」であることであ
る。」
エックハルトが,ラテン語による聖書解釈において最も力を注いでいる箇所は,ヨハネ 福音書の冒頭の「初めに言(ことば)があった」の意味,神の天地創造,黙示録(1.8)
の「わたしはアルパであり,オメガである」の意味である。彼にとって問題になるのは,
神の始源の時の働き,アリストテレスによれば,始動因である。ラテン語の(principium) がこれにあたるわけであるが,アルケーと同じようにこの言葉は極めて多義的である。ア
リストテレスの定義にあるように,内在的な始動因でもあり,外在的な始動因,更には目 的因の意味も兼ねている。しかも時間的にみれば,始源の時である。
唯一の存在者(unumesse)であり,不動の動者であり,時間の創造者である神の実体 概念として,これほどふさわしい言葉はないわけである。神は,始動因としてアルパであ
り,目的因としてオメガであるという説明もつく。
また,第二の定義である最善の出発点として,神の本性の善なることも,この概念によ って説明される。キリスト教における父と子の関係を世俗的関係に置きかえれば,第四の 定義により,父は子に対してアルケーであると言うことができる。神は,天地創造の神と して,外的始動因であり,しかも,ロゴスとしての神は,人間の魂における内在的構成要
素として考えられる。
エックハルトのgeneratio(生成)は,このアルケーにおける生起である。
「従って,それによって存在が与えられるgeneratioは,時間のなかになくて(in
● ●
nontempore),時間の先端(finistemporis)にある。というのは,それは,時間の尺度 である運動のなかで,従って時間のなかで起こらない。generatioに従属するalteratio においてはこれと異なる。すなわちalteratioは,運動のなかで(inmotu),従って時 間のなかで起こる」(Expos・libriExodi:n.159)
generatioは,いわば,非存在と存在の接点における神の創造行為と同じように,その 志向するところは存在(esse)である。神は,万物が存在するように創造し給うた(Cre‑
avitenim,utesse"omnia)。つまり創造の行為は,生成の行為と同じく存在を志向す る(Creatioenimsicutgeneratioesserespicit.)。この創造の時',と生成の時,の 現在性について,エックハルトは次のように述べている。
「従って,神は創り給うたのではない。むしろこう言うべきであろう。過去の創造が,
● ● ● ● ●
同時に現在の創造(crearepraesens),つまり目の前に成就されつつある創造でなければ,
神は創造の業をなさなかったであろう」(Expos.libriSapientiaen、33)
筬言8.25の「丘もまだなかった時,わたしはすでに聿熱宅」(Anteomnescolles ge〃γαメmedominus)について,オリゲネスがその註解において,多くの人はgeneravit
マイスタア・エツクハルトの時間観一試論一 127
(生み給うた)と誤って読んでいるが,ここはやはりgenerat(生み給う)でなければい
⑨ 、 ● ● ● ● ● ● ●
けないと指摘しているのに関連して,エックハルトは,ヴルガァタ訳のparturiebar(わ たしは生まれた)−未完了過去一となっている理由を,次のように述べている。「その理 由は,神や神自身に関することにおいては,過去(praeteritum)も未来(futurum)も,
事実においても,悟性に照らしてもあり得ない」(Ecclesi.n.23)
エツクハルトにとって,もしgenuisse(生んだ)がgenerare(生む)でなければ,
神において,父が息子を生んだ(genuisset)という表現はふさわしくないのである。(ibid.
n.23)ここで,再びアウグスチヌスの有名な言葉,「過去は既に存在せず,未来は未だ存 在しない」(PraeteritumenimiamnOnest,futurumnondumest)が想い出される。
存在(esse)という主軸が,不動のものであれば,時間はその軸を横ぎって掠め過ぎる実 体のない不安な影のようなものである。しかし,われわれの存在の軸は,絶えず時間と共 に動いてゆく。時間は,不安な影のように,人間存在の軸を脅かす。時間は,やがて存在 をむしばみ,死の斜影を落す。
エックハルトによれば,人間の生はalteratioの中にある時間的存在である。人間にと って,時間の可滅性と不可逆性は,どうにもならない現実である。しかし,人間は,その 魂(anima,sele)によって,神の存在の不動の主軸にあづかることができる。その時は,
過去でも未来でもない。>esSe<という言葉があらわしているように現在の時以外にない。
しかし,過去・現在・未来という明確な客観的時間概念における現在は先きに触れたよう
:.. ● ●
に実は不在であるという背理が存する6アウグスチヌスの言葉によれば,
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「しかし,現在がもしつねに現在であって,過去に移りゆかないとしたら,それはもは や時間ではなくて永遠である。それゆえ,もしも時間が時間であるためには,過去に移り ゆくから,時間になるとするならば,どのようにしてこの現在をも存在すると,われわれ は言えるだろうか。現在が存在するための理由は,それが存在しなくなるであろうからと いうのだからである。つまり,われわれが時間が存在すると本当に言えるためには,時間 が存在しなくなる傾向をもつからだという理由をあげる以外にないのではないか」
(告白14)
時間が,未来から過去へ流れ去っていくという意識は,有限の存在である人間にとって 宿命的な時間意識である。アリストテレスでさえ,「時は噛む」という言葉を残している。
しかし,ここでわれわれが考えねばならないことは,時間というものは,果して未来から 過去へ向って流れていくものであろうか。逆に過去から未来に向って進んでいるのではな いか。現代の時間感覚からすれば,時計の針と共に未来に向って進んでいるのではないか という素朴な時間意識も成立する。前向きの時間意識には,オプティミズがあり,後向き の時間意識には生に対するペシミズムがある。しかし,いずれにしても,これらの考えに は,空間的運動からのアナロジーが働いている。ベルグソンが批判した空間的時間把握で あることには間違いない。それでは,時間を時間的にとらえるとは,一体どういうことで
マイスタア・エツクハルトの時間観一試論一 129
エ ッ ク ハ ル ト の 神 観 に は , 新 プ ラ ト ン 派 の 思 想 の 底 流 に 流 れ て い る 実 念 論 的 思 考 が 働 いていることは明らかであるが,実念論におけるイデアと個の関係を,エックハルトは極 めてダイナミックにとらえている点に注目しなければならない。エックハルトにおいては,
forma(形相,イデア)の個に対する関係が,働くものと働きかけられるもの,生むもの と生まれるもの,更には父と子の関係においてとらえられている。実念論は,もともと空 間的観想の所産であるのに対して,エックハルトは,イデアのダイナミックな働きを内面 的な時間の相においてとらえている。始源の時に帰るということは,イデアの働きを体験 するということに他ならない。「神の慰めの書」の冒頭における普遍論においては,esse‑
ratio‑principium‑forma‑semenといった一連の始源的概念の働きが神の時の相の下 に力強く語られている。
魂の 時 は,端緒において神のロゴスを種子として宿すという点に根拠づけられてい る。ロゴスとしての種子は,芽生え生長する。そして開花し,やがて結実と共に死に至る。
種子は,その生の始めにあり,終りにある。端緒は,|司時に目標でもある。端緒における 種子の志向こそ, 時,の動性であらねばならぬ。ここに,エックハルトの奄時の中心ミが ある。すなわち,常に始源の時にかえることによって, 時,を獲得すること,始めにして 終りである 時,を主体的に生きることが,彼の生の課題になる。そして,この始めにし て,終りである時こそ,エックハルトにとって,神の存在があらわれる時である。「主な るわたしは,初めであって,また終りと共にあり,わたしがそれだ」(イザヤ書41,4)
「今いまし,昔いまし,やがてきたるべき者,全能者にして主なる神が仰せになる。『わ たしはアルパであり,オメガである』」(黙示録1,8)「初めであり,終りである者」(黙 示録2,8)これらの聖書の言葉に,神の存在の時間性が暗示されている。神の存在の主 軸は,空間をでなく,むしろ時間を貫いていると考えらるべきでなかろうか。エックハル トは,始源の時は,いわゆる 時間,の中にないとする。しかし,この時間は,アリスト テレス的,トマス的時間概念による時間であり,始源の時の時間性は,この時間のカテゴ
リーを越えたところにあるbそして,この 時 は,アリストテレス的な運動量ではなく 運動の質であるから計り得ないものである。この運動の質を決定するのは,神の存在の働
きである。エックハルトは,この神の働きを,運動よりはるかに可動的なものだと定義し て い る 。
もし客体化できないものを主体と定義するならば,この働きは主体的な働きである。主 体的に人間の意志を動かす強烈な意志である。神の存在の軸は,この意志を貫く内的な主 体的な時であると言ってもよかろう。この時は,客観的な時間の静的なるに対して,極め て動的である。客観的時間に能動的に働きかけるという意味で歴史的でさえある。勿論,
これは例えばベルジャーエフの歴史観,あるいはブルトマンの終末論的歴史思想における
「歴史的」という意味で言えることであるが,筆著は,ヘーゲルの歴史観の根抵に,エッ ク ハ ル ト の 思 考 に お け る 時 , の 勤 性 に 相 通 ず る 何 も の か を 感 じ て い る 。 た だ , エ ッ ク ハ
金 子 直 一
ルトにおいては,時の動性が,客観的な時点を離れていく傾向があることも否定できない。
また,正統カトリシズムの伝統によれば,教会こそ救済史的な現在の 時,の担い手でな ければならないのに対して,エックハルトにおいては,内なる魂が 時,の担い手となる
ところから,異端的な要素が指摘されることも当然であろう。
V ) メ タ フ ア と 時 の 動 性
エックハルト及び神秘思想におけるメタフアの研究は,ゲルマニストの好箇のテーマで ある。筆者は,本論のテーマに関連して, 時,の動性の面から,エックハルトの,メタフ アを分析していきたいと思う。
勿論,彼のメタフアの多くが,聖書に,あるいはプソイド・アレオパギダの所謂否定神 学の語彙に由来していることは,既に周知のことであるが,ここで問題になるのは,彼の
メタフアの採択に,どれほど 時,の動性が働いているかということである。
まず,神の存在及び魂の時の動性を暗示しているメタフアとして,動詞を取り上げてみ よう。エックハルトの動詞のメタフアの性格は,第一にその働きの様態が,語の撰択を決● ● ● ● ● 定しているということである。
燃える(brinnen),灼く(brennen)灼きつくす(verbrennen),融かす(smelzen), 融かし尽す(fizsmelzen)は,完了態的なあるいは継続態的な火の元素的働きを暗示して いる。注ぐ(giezen)注ぎ出す(ergiezen)流れる(vliezen),流れ出す(0zvliezen)流 れ入る(invliezen)は,水が持っている流動的,持続的表象が, 時,の動性をあらわす のに最もふさわしいメタフアとして使われている。ほとばしる(springen,urspringen) も,始源の時の動性をあらわすメタフアとして使われている。同じことが,溢れ出る (fizquellen,iiberquellen)においても言われ得る。漂いゆく(sweben)たかまりゆく (iibersweben)といった空間表象にも時性が働いている。飛びゆく(vliugen)もvliezenと 同じように,空間表象に,継続態としての時の動性が働いている。沈みゆく(versinken), 貫き破る(durchbrechen)は,時間的な過去を貫いて始源の時への回帰をあらわし,生む
(gebern)は,始源の時の天地創造と,魂に働く神の時の動性をあらわすエックハルトの 最も重要なメタフアの一つである。働く(wiirken)は,gebernと共に,エックハルトの 用語として最も瀕度数の多い動詞であり,能動的な働きの持続性をあらわす最も普通的な 意味をもった動詞として使われている。
一,二の文例によって,これらの動詞のメタフアとしての性格を明らかにしよう。
「もう一つの力がある。これも肉体的なものではない。その力は,精神から濯ぎ出る (giezen)。その力は精神の中にとどまって,同時に霊的なものに化す。この力の中に,神 がおられる。たゆることなく,限り無き豊かさと限りなきやさしさと,限り無き恩寵をも って炎と燃えつづける(glimmendeundebrinnende)神がおられる」(Pf.145,13)
「しかも,このけがれ無き処女は,限り無く貴い底の淵から,限り無く生み,実を結び
マイスタア・エツクハルトの時間観一試論一 131
続ける」(jochanezalistsigeberndeundfruhtberwerdendenzdemalleredelsten grunde;)(Pf.H44,13)
「こうして,魂は,ますます深く,神性の淵へと沈みゆく」(s6versinketsiiemerme indazabgriindedergotheit)(Pf.Ⅱ501,11)
以上の例にみられる如く,エックハルトは,空間表象を使いながら,その志向するとこ ろは,動詞の働きの様態にある。アルケーとしての神の働きと,その働きによって動かさ れつつ働く魂の働きが,エックハルトのダイナミックな動詞の用法に特徴的に見られる。
光(lieht):光は,ヨハネ福音書における「われは世の光である」(egosumluxmundi) (Joh.1,4;8,12)あるいは,旧約の天地創造の「光あれ」,また「テモテヘの第一の手 紙」(6.16)の「神はただひとり不死を保ち,近づきがたい光の中に住み……」などに由来 する神性の象徴として最も古いメタフアである。そして,中世神秘思想は,このメタフア を最も好んで使った。エックハルトにおいても,その用例は極めて多い。彼は,神の始源 の時を,(indemanevangedesazliuhtendenformlichen"e"es)−輝き出づる形相の 光の始めに−(Pf.1578,3)と表現している,それに相応する魂における始源の時を,
(ergiuzetsichgotindieselemit"e〃αノso,dazdaz"e"sogrozwirtindeme wesenneundindemegrundedersele….−神は魂の中へ光をふりそそぎ,その光は 魂の存在と魂の底にひろがり……一(Pf.111)と言っている。
自然の光の本体である太陽も,勿論,神性の象徴である。エックハルトにおいては,朝 の太陽と,中天の太陽がそれぞれ,始めの時と,神の 時,の現在性をあらわしている。
闇を破って輝き出る太陽は,天地創造の時,同時に魂の始源の時の動性を最もよくあらわ すものである。
(andemhohenmittentagedagotrastetinallencreaturenundallecreaturein gote)−神がすべての被造物の中に,すべての被造物が神の中に休らう真昼間の時に−
(Pf.n531,5)は,神の時の現在性を,si(diusele)getafvondemnfgangedersunnen .…−魂は昇りゆく太陽とともに昇り……−(Pf.Ⅱ211,39)は,始源の時の動性をあ
らわしている。エックハルトは,特に,朝の光に神性の輝きを見ている。(Pf.Ⅱ111,3 f.)
火(fiur):光に関連して,火も聖書に由来する古いメタフアである。「主の栄光は,山 の頂きで,燃える火のようにイスラエルの人々の目に見えたが。…..」(出エジプト記24, 16)「わたしたちの神は,実に,焼きつくす火である」−deusnosterignisconsumens‑
(へブル人への手紙12,29)etc・エックハルトは,神の働きの強烈で持続的な力を説明 するために火を形相,木材を質料として,しばしば比愉的に語っている。fiurが働きの持 続性をあらわしているとすれば,funke,vunkelin,ganster,gansterin(火花,閃光の意)
を,瞬間的にしてしかも継続的な働きの意に使っている。
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(diuselehatetwazinir,ein""舵ノ伽derredelicheit,dazniemererleschet)
−魂は,決して消えることのない智の火花のようなものを,内に持っている−(pf.n39, 7)(indemkleineng""s蛇γ,dazderselegeistheizet)−魂が,霊と称しているこの 小さな閃光の中で−(Pf.1255,19)
泉,井戸(brunne,gequelle):これも,生命の泉として聖書の語彙である。
創世記(26,15ff.)に,「またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に,父のしもべ たちが掘ったすべての井戸をふさぎ,土で埋めた」とある。この箇所についてのオリゲネ スの解釈を引用しながらエックハルトは,神のひとり子は,あたかも魂の中に,土によっ ておおわれた生ける泉(井戸)のように存在しており,その土を取り除けば,湧き出でる 生命の泉のように神の働きがあらわれると説いている(QuintDW.113,1,f.)。泉,井 戸の表象は,内から外へ働く神の時の持続的働きをあらわすのにもっともふさわしいもの であった。始動因としてのprincipiumの意味との関連も,当然考えられる。
Jesus…azquellendeundiiberquellendeundinfliezendemitiiberfliissiger vollerricheite(Pf.II145,37),dervatergebirtsinensunindeminnersten 9〃"e"e.(Pf.II67,1)
根,根源(wurzel):これも,brunne,grunt,abgruntと共に,principiumの空間表 象である。
die""γzeノallerwisheit(QuintDW、110,9),inder""γ倉g/"undin demgγ""〃dersaelicheit(ibid.117,27),indem9γ""此dersele(ibid.
110,15;113,5;219,8),vondem〃"""egotes(ibid.116,30),sOsintalle siindebelderverswundenindem"6〃加伽gotes(ibid、238,5)
荒野(wiieste,wiiestenunge,ein6de):荒野は,洗礼者ヨハネが,「荒野で呼ばわる声」
(ヨハネ福音書1,23)であるところから,前に触れたキリストとの関係において,神の 時の働く空間表象である。また,神に対するさまざまな空間的心象を排したメタフアとい う意味でも,エックハルトの最も好んで使うメタフアである。
si…nimtgotinsinereinungeundinsinere伽クede,sinimtgotin sinerz""eS#e"""geundinsinemeigengrunde(Pf,266,39),vondem innigestengrundeg6tlichernatfireunddesej"oede(QuintDW.119,5) こ の よ う に , 彼 の メ タ フ ア を 列 挙 し て い く と , エ ッ ク ハ ル ト の 志 向 が か な り は っ き り し てくる。彼は,たしかに対象的に空間表象としてとらえることができない神を,それにも 拘わらず空間表象をもって語らなければならないというアンチノミーをいかんともしがた かった。彼のメタフアは,空間内容から次第に純粋な空間形式あるいは空間次元(高さ,
深さ,広さ)へと進み,ついには空間そのものを否定する。
すなわち,無(niht)に到達する。エックハルト自身も言っているように,この純粋な
いとすれば,一体どこにあるのであろうか。「被造物の存在は,神の現在性にかかってゆ れ動いていているのです」という先の言葉に注目しなければならない。ここで第一節にお いて考察した神の現在性の問題に再び帰っていかなければならない。gegenwertikeitは,
時の概念としては,現在であるが,元来,心理的なニュアンスを持っていることは,先に 述べた通りである。
その場合,心理的にも現在する者と,それに対して向かい合っている者との関係は,働 きかけるものと働きかけられる者との関係にあった。神の現在性という場合,神は,現在 の 時,において働きかけるものである。それは,対象的に目の前にあるというには,余 りにも強く働く者の存在を暗示している。こちらから見るというのではなく,むしろこち
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らが見られるのである。眼の思考は,すべて見るという行為によって,ものを対象化す
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る。しかしここでは,立場が全く逆であって,こちらが主体ではなく,客体になる。偉大 な人格の前に,われわれは,まず見られていると感じ,次に自らを空しいものと感ずる。
神の現在性には,このような目に見えない力が働いている。人格というものも,事実は空 間的には把握できるものではなく,その人格の中で,かって働き,現在において働きつづ けている自己同一的にして動的な 時,の現前においてあらわれるものであるように,神の 存在も,自己同一的な 時'の現前においてあらわれると言えまいか。いや,むしろ,神に おける過去・現在・未来の自己同一的な働きの中に,人間の人格の働きの原型がみられる と言わなければならないであろう。エックハルトにとって,それは天地創造の時に働き,
キリスト生誕の時に働き,現在の時に働き,終末の日を越えて働きつづける神の力の現在 性である。人間の存在構造は,この神の 時,の現前,即ちその存在に基いて,しかも現世
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の時間の中に揺れ動いている。しかし,現世の時間と,神の 時,とは,時と永遠のように 離れたものではなく,現在という 時'において,常に存在しているのだ,とエックハルト は説く。この自覚においては,一輪の花も,神の 時'をあらわして存在している。空間的 思惟によって対象的に見た花は,同じ一輪の花であっても,無に等しい。創造の時以来咲 き続けているという事実ではなく,始源の 時,の働きによって,嘗て咲き,未来にわたっ て咲き続けるであろう花が今眼の前に咲いているという現実,そのことが貴いのである。
「 わ れ わ れ が , こ こ で は 変 転 に ゆ だ ね ら れ た も の と し て 見 ら れ る 諸 々 の 物 が , そ こ で は 変転せざるものと認識されるのです。そこでは,諸々の物が,分かちがたく相い寄り合っ ている,と見られます。つまり,ここで遠いものが,そこでは近いのです。何故なら,そ こではすべてが現在(gegenwertic)するのです。始源の日と,終末の日に起こることが,
そこでは現在するのです。」(Pf.n98,19f.)
もし,この文における「ここ」が現世で,「そこ」が彼岸的永遠であるなら,現代のわ れわれにとって,遠い国の遠い昔の説法として聞き流して終うであろう。しかし,エック ハルトの文脈において,明らかに読み取れるのは,この副詞が空間的な場所の規定ではな
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く,魂の場所の規定だということである。そして,魂とは,時間以外のいったいどこに存
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在し得るであろうか。
× × × ×
この試論は,問いに始まって問いに終ったうらみがある。筆者は,ただ冒頭のハイデッ ガァの言葉が,きわめて暗示的に示している現在における時の動性を指摘して一応の結び● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
としたい。(1968.10.13)
テ ク ス ト : ラ テ ン 語 著 作 集
MeisterEckhart,DielateinischeWerke,hersg.imAuftragederDeutschen Forschungsgemeinschaft;W・KohlhammerVerlag
I;IIExpositioLibriGenesis II;IExpositioLibriExodi
II;IISermonesetLectionessuperEcclesiastici II;IVExpositioLibriSapientiae
IIIExpositioSanctiEvangeliisecundumIohannem V;ICollatioinLibrosSententiarum
V;IIQuaestionesParisienses
V;IVTractatussuperOrationeDominica
以上が,小論において参照,或いは引用したラテン語関係のテキストである。
ドイツ語著作集
JosefQuint:MeisterEckhart,DiedeutschenWerke5Bd.TraktateW.Kohlham‑
merVerlag
F・Pfeiffer:DeutscheMystiker2Bd.MeisterEckhart,NeudruckderAusgabe
Leipzigl857
その他,参考文献及び註のわずらわしい列挙は,この試論が未だ覚書の域を出しないの で省略することにする。