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雅 美

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230

マックス・ウエーゞハーは﹁神々の闘争﹂尿四目耳号門⑦茸討局﹁絶対

的多神論﹂号の◎旨毎吋酉ご吾凰の日匡のを︑価値相互の関係を規定するの

に﹁ふさわしい唯一の形而上学﹂とみた︒彼によればある価値に組

することは︑﹁この神だけに仕え︑他の神を侮辱する﹂ことを意味す

る︒価値は互いに﹁不倶戴天﹂の間柄︑﹁永遠の﹂﹁決死の闘争﹂関

係にある︒﹁究極のところ価値の間では︑どこでもいつでも︑単に二

者択一の関係だけでなく︑神と悪魔の間にあるような︑仲裁不能な

︵1ナ決死の闘争が問題になるのである﹂

ところでウエー︑ハーの言う神々の闘争とは︑異質の価値相互の対

立のことであって︑同一価値の内容の可変性相対性に起因する価値

判断の対立を指すのではない︒方法論の面でゥエー︑ハーが多くのも

のを負うていると言われるリッヶルトは︑価値について形式︵容器︶

と内容を区別し︑前者は不変的であるのに対して後者は可変的であ

︵2︶るとするが︑ウエー︑ハーにはこのような主張は見当たらないようで

ある︒彼にとって価値の内容は国①豊昌目吾鼻を持ち︑人々にょっ

㈲神々の闘争

マックス・ウェ︑ハーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶

マックス・ウェバーにおける西欧の合理化と知的誠実

︵3︶て昼g房呂に理解され︑従って伝達可能なものであった︒ゥエー

・ハーと関連して時折り引き合いに出されるニーチェの場合には︑﹁価

値が諸個人の﹃・ハース︒ヘクティヴィズこのなかに溶解し去ることによって闘争が起こ&のだが︑ウエー︑Tの場合はそうではない.

もっとも彼はある所で︑社会政策的な実践的価値判断に関連して︑

﹁正義﹂の名の下に全く正反対の内容が要請されうるといった意味

のことを述べており︑これがこの種の問題に言及した唯一の箇所で

︵5︶ある︒しかし神々の闘争について触れている所では︑同一価値の内

容の取り方についての対立は全く問題になっていない︒価値判断の

対立は判断基準価値自体の違いに基づくとみるのが︑彼の基本姿勢

であろう︒彼はドイツ歴史学派の創始者の一人である乏罰oのo言﹃

について︑ロッシャーの認める価値判断の相対性には﹁限界﹂があ

り︑﹁価値判断に単に主観的意義しか認めない⁝⁝所まではいってい

︵6︶ない﹂と批判した︒だがそう言うウエー︑ハー自身にも大きな﹁限界﹂

があるのであって︑彼は価値判断の相対性が価値内容の主観性に起

因する面もあることを認める所までいっていないのである︒価値形

式の普遍性や絶対性に固執したリッヶルトさえ認めざるをえなかつ

雅美

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(3)

228

ウエー︑ハーはある所で︑価値の絶対的対立を主張する彼の立場を

﹁相対主義﹂と解釈することは︑﹁甚だしい誤解﹂であると言ってい

︵1︶る︒相対主義とはかなり暖昧な概念だが︑ウェーバーの立場は前述

のように︑価値内容の可変性や相対性を主張するという意味での相

対主義でないことは確かである︒だが価値について神々の闘争を言

う限り︑ある価値が絶対的な拘束力11妥当性lを持つかどうか

は︑人により時代により社会集団によって異なることを認めなけれ

ばならないであろう︒だから﹁われわれにとってはわれわれの理想

が尊いように︑他人にとっては別の理想が尊い﹂とか︑﹁究極目的は

歴史につれて変化し対立する﹂とか︑シナ人とヨーロッ・︿人とでは

﹁理想﹂や﹁そこから出て来る具体的評価﹂が異なるとかと言われ 口価値の相対主義

︵1︶三画×君のず閏︾の①3目白里蔚諺昌畠冒の圃匡﹃ご毒協の邑胃壷呉厨雨彦3℃己凰雰の

少具冨帰︾ご霊︵以下君Pと略記︶忌戸﹄望勒三雲窒獣.ひ二

︵2︶拙稿﹁リッヶルトの歴史哲学﹂︵﹃金沢大学教養部論集﹄十一巻所収︶

第八節参照

︵①︒︶くい一.呈毫F︾昌画い

︵4︶厚東洋輔氏﹁ヴェー・ハー社会学における﹃神々の闘争﹂の位置﹂︵﹃思

想﹄五八四号所収︶一二頁

︵貝J︶星ごF一切つ︒

︵侮り︶四・画︒○・画の

︵庁I︶画︒四︒○︒︾画つ︑

︵QU︶画︒四・○︒︾画c﹃

︵︑ソ︶四・画︒○︒﹄の︽

マックス・ウェ︒ハーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶ ︵2︶ているのは当然であろう︒一般に価値の絶対的妥当性を前提しなければ価値に関する神々の闘争はありえないにしても︑それが絶対的に妥当するのはそれに従う特定の人︑時代︑集団にとってだけである︒ある価値に従う人は〃自分だけでなく他のすべての人達も当然それに従うべきもの〃とみなすであろうが︑それは単なる主観的要請であって客観的事実ではない︒だから価値の妥当とは︑個人的歴史的社会的な可変性相対性を伴った﹁絶対的﹂妥当性にすぎず︑絶対的な普遍性や超歴史的不変性を伴う妥当性ではない︒もしそうでなければ神々の闘争はありえない︒妥当する価値が一人一人完全に異なるわけでなく︑ある時代や社会集団にある価値が広範に妥当するということはある︒だが別の時代や集団にはまた別の価値が広範に妥当することになるという意味で︑それらはやはり絶対的な普遍性や超歴史的不変性を欠くのである︒だからある価値の妥当に関して︑ある種の人々の間に広範な合致があるという事実によって︑価値妥当の可変性や相対性というもっと一般的な事実を否定することはできない︒人がどんな価値に従うかの決定は﹁各人を操る﹂﹁神またはデーモン﹂︑個人の﹁信仰﹂﹁良心﹂﹁主観的趣味﹂などの問題で

︵3︶あるとウェーバーが繰り返えし指摘していることからも知られるよ

うに︑彼には価値妥当のl可変性や相対性のみならずI更にそ

︵注I︶の主観性を殊更に強調する傾向がある︒このようにウェーバーが価

値妥当の主観性可変性相対性を現に主張し︑また神々の闘争を言う

立場上そう主張せざるをえないとみられる限り︑彼の立場が相対主

義であることは疑問の余地がない︒それにまた後に述べるように︑ウェーバーが﹁知的誠実﹂の名において忠実であることを要求した

﹁事実﹂に即して考えようとする限り︑価値妥当の相対性を否定す

一一一

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227

︵注Ⅱ一ることなど︑できるはずはないであろう︒

︵注Ⅱ︶相対主義とは暖昧な概念だが︑何が絶対的に妥当する価値であるかは

人により︑時代により︑集団によって異なること︑つまりそれ屯に相対的lないし相関的lであることを主張するのが︑ここで言う相対

主義である︒絶対的普遍性と超歴史的不変性とを伴う絶対的妥当を価

値に認めるのを絶対主義と呼ぶとすれば︑それを前述の意味で否定す ︵注I︶ゥエーゞハーは︑価値について立ち入って説明した殆ど唯一の箇所とも

言うべき所で次のように書いている︒﹁われわれが﹃価値﹄と呼ぶもの

は単なる﹃感情内容﹄とは区別されるものであって︑ある態度決定の内

容となりうるもの︑分節され一意識された肯定的否定的な﹃判断﹄の内

容となりうるもの︑﹃妥当性を要求しつつ﹄われわれのもとに立ち現わ

れ︑われわれに﹃対する﹄﹃価値﹄としてのその﹃妥当性﹄がわれわれ

に﹃よって﹄あるいは承認され︑あるいは否認され︑あるいはまた複雑

な絡象合いにおいて﹃評価的に判断される﹄ところのものであり︑それ

以外のものではない︒倫理的もしくは美的﹃価値﹄への﹃要求﹄は例外

なしにある﹃価値判断﹄を下すことを含んでいる.⁝・・価値判断がかかわ

る客体を︑単なる﹃感ぜられたもの﹄の領域と区別するものは︑その内容の雰異言日吾呉で血馳﹂︒

いかにもゥエー︑ハー流の$コタゴタした文章だが︑これから以下のこと

が分かる︒リッヶルトのように価値を形式と内容に区別する誤った立場

に立たず︑価値は内容を離れえないと考えていたこと・その内容は

雰里言日弓呉を持つこと︒価値は妥当ということを離れてはありえな

いこと︒ただし実際に妥当するか否かは﹁われわれ﹂︵主観︶の判断によ

ブ︵︾︾﹂︐シ﹂○

以上によっても︑ゥエー︑ハーの立場が価値妥当の相対主義であること

は明白である︒ マックス・ウェ︑ハーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶

もっともゥエーゞハーはある所で︑価値評価が個人により歴史に

よって変動するという﹁単なる事実﹂は︑価値評価の﹁主観的性格の証明﹂にならないと言っていが︒彼がこの箇所を含む前後の文章

全体で本当に言いたかったことは︑﹁規範としての妥当性﹂と﹁経験

的事実の確認﹂とは別物であって︑後者から前者は出て来ないとい

うこと︑例えばある価値判断がたまたまある所で事実として妥当し

ているからといって︑われわれもそれを妥当なものと承なければな

らぬわけではないのだということである︒そしてこのこと自体は当

然だろうが︑それにしても︑価値評価の変動という単なる事実は︑

その主観的性格I従ってまたその相対的性格lの証明にならな

いというゥエーバーの考え方は問題である︒ るのが相対主義である︒小倉志祥氏は﹃M・ウエー︑ハーにおける科学と倫理﹄の中で︑ウエー︑ハーの立場は相対主義でないと言い︑一般に﹁相対主義は主体の自律性と両立しえない倫理観である﹂と書いて比が︒氏は価値間の決定的対立や違いを暖昧にする立場を相対主義と呼んでいるので︑このように言えるのであろう︒だが相対主義と絶対主義を私のように解するなら︑主体の自律と両立するのは前者であって後者ではない︒一般に価値の相対主義を否定して絶対性を主張しようとする者は︑その絶対性の意味を明確にしなければならぬ︒つまり主体の自律的︑︑︑︑︑︑︑選択を通じての︑主体にとっての絶対的妥当︵ないしはこれと結びつく

︑︑

単なる主観的要請としての絶対的普遍妥当︶の主張と︑主体の選択とは無関係でァ・プリオーリな絶対的妥当︵ないしは主観的要請とは異な

︑︑

る事実としての絶対的普遍妥当︶の主張とを︑はっきり区別しなければならない︒後者を絶対主義と呼ぶならば︑前者は相対主義としか言いようがない︒ウエー︑ハーが相対主義だと私が言うのはこの意味である︒

(5)

226

この問題に立ち入るためには︑ウエーゞハーで問題になる価値妥当

というものの正確な意味を︑もつとはっきりさせておかなければならない︒それは例えば〃真なる判断︵真理価値︶は万人に妥当しなければならない〃というような意味でのl思弁的なし︒ヘルでの11妥当ではなく︑ある価値を自分の﹁生活の究極の拠匪一とす

べきか否か︑という意味での11実践的なしヘルでの11妥当であ

る︒神々の闘争を問題にする場合のウエーゞハーは︑価値とその妥当

を常にこのし︑ヘルで考えている︒この場合︑それが相対的主観的性

格を持つか︑絶対的超主観的性格を持つかということは︑経験の事

実によってしか決めようがない︒真理価値についての︑思弁的し︑ヘ

ルでの理論的妥当要求ならば︑経験的事実のいかんにかかわらず主

張できよう︒だが〃人は真理価値を生活の究極の拠所として生きる

べきである〃というような主張は︑真理価値自体から理論的に決し

て出て来はしないであろう︒ウエー︾ハーが挙げている例で言えば︑

知性的価値に従って世界を呪術から解放し︑それを因果のメカニズムへと合理化しつつ生きる道を選ぶべきか︑あるいは︑宗教的価値

に従って︑現世を神によって秩序と意味を与えられた世界と信じて

︵8︶生きる道を選ぶべきかを︑理論的に決定できる人はあるまい︒また

無差別的で普遍的な愛︵宗教倫理的価値︶に従って︑すべての者の

救済を求めて生きるべきか︑あるいは︑政治的価値に身を捧げ︑権力を用いなければ解決されないような任務に従う方を選ぶべきか

︵9︶を︑誰が理論的に決定できるか︒こうした意味での価値の妥当を科

学的に決定できないことは︑ウエー︒ハーが繰り返し主張するところ

︵皿︶である︒だから各自がそれをどう決定するか︑その決定に絶対的普

遍性が認められるか否かは︑経験の事実によって測るほかはないこ

マックス・ウェゞハーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶ とになる︒単なる主観的要請としての普遍妥当と︑客観的事実としての普遍妥当とを峻別する立場に立つ限り︑こう言わざるをえないであろう︒従って価値評価の歴史的変動という単なる事実は︑その主観的性格の証明にならないというウエー︾ハーの主張は不当であ

る︒

要するにわれわれはウエー︑ハーの立場を価値の相対主義とみるの

だが︑彼がそれを拒否するのはなぜであろうか︒彼はある所で﹁相

対化﹂詞堅翼言①昌長を﹁妥協﹂と並べて︑価値相互間の決死の闘争

︵︑︶関係を暖昧にする試みの意味に解している︒例えば浅薄な日常性における人間の態度がそれで︑彼らは価値の鋭い対立を表面的に相対

化させ︑さまざまな価値の混同の中で無反省に生きている︒もしこ

の意味での相対化を勧めるのが相対主義だとすれば︑ゥエー︒ハーの

立場はもちろんそれではない︒だが彼が意味しているのはこれだけ

ではなさそうである︒なぜなら彼は自分が拒否する相対主義につい

て︑それは﹁非常に特殊な有機体的形而上学の地盤﹂で初めて意味

︵胆︶を持つような人生観だと言っているからである︒これは恐らくロッ

シャーの見解を頭に置いたものだろう︒ウエー︑ハーはまた別の所で︑

﹁楽天的折衷主義﹂を生み出すような﹁発展史的相対主義﹂にも触

︵過︶れているが︑これもやはり同じものを指すのであろう︒

ロッシャーはドイツ歴史法学派に倣って︑形而上学的個体として

の﹁民族﹂﹁民族性格﹂﹁民族精神﹂ぐ○房膀用行を考え︑民族の個々

の文化はすべて﹁実在根拠﹂としての民族精神から流れ出るとする︒

国家や法や経済のそのつどのあり方は︑民族精神の特性とその発展段階に対応する︒だから実践的規範︑理想︑価値判断l例えば経

済政策的価値判断lは当の民族精神の発展段階に対応し︑それと

(6)
(7)

224

前述のようにウェーバーは︑価値を実践的主体のし︑ヘルで捉えて

いた︒彼にとって価値とは要するに︑各自の生を一つの纒まりのあ

る全体へと首尾一貫して形成するために必要な究極の基準であっ

た︒彼はある所で︑﹁特定の究極的な価値への内面的関係の恒常性

︵1︶宍○易冨目﹂を人格の本質と呼んでいるが︑これは彼が価値を人格の

形成原理と考えていたことを示している︒このような価値は主体性︑

︵2︶究極性︑唯一性︑一貫性︑排他性といった性格を帯びざるをえない︒

価値の間に選言関係しか認めず︑価値に関する神々の闘争を主張す

る時︑ウエー︑ハーの視野にあったのはこのような価値のみであった︒

彼の価値論の1−−クさもその限界も︑視野のこの特殊性にある︒

価値がこのようなものとみられた時︑価値相互の関係が神々の闘争

と規定されたとしても︑それは必ずしも不当でないと言えるかもし

れない︒︵このことの妥当性については後で立ち入って論ずる・︶

ともかく神々の闘争は︑実践的主体のし︑ヘルでみられた限りでの︑

ウェーバー的価値の永遠不変の実相である︒だがウェーバーはその

反面で︑神々の闘争を﹁現代文化の宿命﹂︑﹁認識の木の実を食べた

文化の時代の宿命﹂と呼び︑それが特定の時代のものであることを

︵3︶強調している︒そしてその理由は︑﹁キリスト教倫理﹂や﹁キリスト

教会のドグマによって一義的に規定された価値の序列﹂が支配して

いた問は︑価値の不変の実相を﹁みる目が眩まされていた﹂という

ことがあるからである︒昔まだ神々やデーモンから解放されていな

かった時︑人々はあるいはヴィナス︵美と愛︶に︑あるいはミネル

ヴァ︵知恵︶に︑あるいはキューピッド︵恋︶に供物を捧げた︒こ 日西欧の運命としての合理化過程と神々の闘争

マックス・ウェバーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶ れは神話的呪術的なものであったにしても︑神々の闘争という事態の正しい表現を含んではいたのである︒だが﹁唯一不可欠の神﹂を信ずるキリスト教の﹁偉大な合理主義﹂がギリシャ的多神教を退けて︑キリスト教の一義的価値観をもたらしたため︑一千年の間神々の闘争という事態をみる目が眩まされることになったのである︒しかしキリスト教が衰えて﹁神も予言者もない時代﹂の到来とともに︑﹁古い多くの神々﹂が﹁呪術的な姿ではなく︑非人格的な力の形を取ってその墓から立ち現われ︑われわれの生活を支配しようと︑再び永

︵4︶遠の争いを始める﹂ようになった︒こうしてウエーハー的価値の実

相は︑その永遠不変性にもかかわらず︑特に現代的刻印を帯びるに

至った︒

だがギリシャ的多神教を退けて唯一不可欠の神を王位につけた合

理主義は︑キリスト教に固有なものと言うよりは︑それを生み出し

た西欧文化に固有なものであり︑多神教から一神教への動きも︑﹁西

︵5︶欧の特色をなす合理化の軌道に沿って﹂生じたものである︒そして

実はこの合理主義や合理化過程が︑一面では前述のように神々の闘

争をゑる目を眩ませながら︑かえって反面では︑個々の文化領域

のl従ってまた個々の文化価値の11自律性や﹁内的自己法則性﹂

︵6︶を否応なしに突き詰めた形で意識させ︑価値の闘争を抜きさしなら

ぬものにするという︑・ハラドクシカルな作用を及ぼしたのである︒

キリスト教の神を王位につけて︑神々の闘争から一時目を転じさせ

たのが合理化過程であるとすれば︑神なき時代の到来は﹁特殊近代︑︑︑︑︵句J︶的な人間の運命﹂としての﹁合理化の加速度的進展﹂の結果なので

ある︒そして文化の各領域の緊張関係を突き詰めた形で意識させた

のも︑この合理化の加速度的進展であったとすれば︑神々の闘争は

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ウエー︑ハーの言うように︑正しく﹁合理化と主知化と呪術からの世

︵8︶界の解放を伴うわれわれの時代の宿命﹂である︒

時代のこうした宿命との関連においてみる時︑ウェーバーの価値

論は新しい光りの下に現れて来る︒というのは︑神々の闘争は実は

今迄みて来たように︑ウェーバーが価値を実践的主体の次元で捉え

たことによって︑初めて彼に現われて来たのではない︒西欧の合理

化過程の不可避的な所産として︑価値の考察に先立って︑まずそれ

があったのである︒合理化によるキリスト教の一義的な価値観の衰

退と︑文化︵価値︶領域の徹底的な自律化は︑危機的な状況であり︑

ニーチェの言うニヒリズムである︒なぜなら第一に︑人はここでは

安んじて身を任せられる普遍的な価値観を持たず︑第二に︑諸価値

︵9︶が分裂していることによって︑﹁ファウスト的人間の全面性﹂を放棄

せざるをえないからである︒そしてこれが各人に︑価値選択の自由

と責任を二つながら自覚することと︑完全で美しい人間性の断念と

を︑必然的に要求する︒頼るべき普遍的なものを持たぬ時︑人は選

択する自由な実践的主体であらざるをえない︒サルトル流に言えば︑

そうあるべく呪われているのである︒時代の宿命に男らしく耐える

ことのできない者は︑﹁背教者﹂ぶることをやめ︑﹁古い教会の大き

く温く広げられた腕の中に戻る﹂か︑﹁新しい予言者や救世主﹂をい

︵畑︶たずらに待ち焦がれるしかないとウェーバーは言うが︑﹁文化人﹂ら

しからぬこのような態度もまた︑実践的主体の選択の結果であらざ

るをえまい︒そして正にこうした事態の認識こそがウェーバーをし

て︑価値を実践的主体との関連において捉えることを余儀なくさせ

たと考えられる︒西欧の合理化が引き起こした﹁非合理的状況﹂に︑

服しつつ対決することの必要性が︑彼に価値のこうした考察を促し マックス・ウェバーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶

た︒彼の価値論の1−−クさも限界も︑すべてそこから生じたので

ある︒ともあれ神々の闘争にこうした背景があるとすれば︑理解を

︵注︶深めるために︑合理化による価値の対立の激化の過程として彼が具

体的に描いているものを︑必要な範囲で辿って承なければならない︒

︵注︶周知のようにウエー︑ハーは目的合理性と価値合理性︑形式合理性と実質

合理性を区別するが︑西欧の合理化と言う時︑彼がどの合理性を考えてい

たかが問題になると思われるので︑これをここで検討しておく︒

大雑把に言えば︑彼が考えていたのは目的合理性や形式合理性の進展

で︑それが価値的実質的に不合理を生むとみていたのだと言えよう︒だが

批判的に象れぱ問題はそう単純ではなさそうである︒

︵u︶目的合理性や価値合理性は理念型なので︑実際の行為が特定の型だ

けによって方向づけられることは﹁極めて稀れ﹂である︒行為は目的合理

的であると同時に価値合理的でもありうるだけでなく︑むしろこうした

場合が普通であろう︒価値合理性に徹する余り︑目的合理性を無視するこ

とはありうるが︑目的合理的でありながら︑前提された目的が価値合理的

に肯定されていない場合は考えにくい︒また予想される結果を顧慮して

目的の妥当性を検討するのは︑ウエー︑ハーでは目的合理性とされるのだ

が︑しかしこうした検討が︑そうすることの必要性の価値合理的判断に基

づくことなく︑目的合理的な顧慮だけで起こるかどうか疑問である︒両者

を峻別して先鋭な理念型を設定することの方法論的有効性がたとえどう

であるにせよ︑実際の行為においては︑両方が結合している方が︑むしろ

普通であることだけは確かである︒

︵皿︶形式合理性と実質合理性の区別については︑もっと問題が大きい・実質

なしに合理性を論ずることなどできるものではない︒合理性とは常に何

らかの実質的基準からゑてのものである︒経済行為の場合︑それが単に計

算合理性に従う時には形式合理的で︑倫理的政治的要求などに従う時は

(9)

222

ウェーバーは﹃世界宗教の経済倫理中間考察﹄で︑合理化によ

る価値の対立過程を︑宗教と他の価値領域の対立の激化を描く形で 実質合理的だなどとも言われるが︑倫理的要求などを排して単に計算合理性だけに従うとすれば︑それが行為の実質的基準になっているのである︒だから本当の区別は形式と実質の間にではなく︑種々の実質的基準の間にしか立てることができない︒そしてこの区別はもはや合理性の論理的区別でなく︑価値判断的区別となろう︒

このように批判的にみて来ると︑ウエー︒ハーがヨーロッ︒ハの合理化と

言う場合︑上記の四つの合理性のどれを考えていたかと問うことは︑実は

余り意味がなさそうである︒ウエー︑ハーはある所で︑合理化I呪術からの解放両貝圃四号①昌呂とし︑

後者を更に︑物事を計算国①﹃の︑言匡呂によって支配可能とみることと説

︵週︶明している︒これだと合理化I計算可能化となる︒この場合の国閏①︲

の宮口信を狭い数学的ないし技術的意味に取らず︑これをも含んだ広い意

味に︑つまり一定の基準による統一的な説明・予測可能性の意味に解するなら︑ここにウェーバーの言う合理性の核心があるとみて歩悩︒この意

味での合理化は価値領域の自律化と完全に.ハラレルである︒後者は各々

の領域が︑明確な規準によって統一的に組織されて説明可能になること

︵過︶だからである︒だから彼がある所で宗教の合理化を測る基準の一つとし

て︑﹁一定の価値基準によって現世における自己の生活を内的に統一しよ

うとすること﹂を挙げているのも︑十分に理解できる︒ゥエー?ハーの言う

西欧の合理化とは︑価値の自律化と広義の統︲一的説明・予測可能化であ

る︒

︵鴫︶合理化を単なる﹁技術的合理化﹂と解したり︑狭い意味での呪術からの解放とみるのでは︑次にみるような宗教や性愛の合理化ないし昇華

⑦号言ご胃ご国は説明できない︒

マックス・ウェ︑ハーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶ ︵Ⅳ︶示している︒宗教と経済合理化以前の宗教は特定の個人・家族・種族の利益のため︑呪術や秘法によって精霊や神々を動かそうとするものであるから︑それと経済の対立はまだ見られない︒だが宗教が唯一の神を戴く普遍的同胞倫理を目指す救いの宗教へと合理化され︑一方経済も︑市場での利害闘争の中から生まれる貨幣価値に目標を合わせた経営へと合理化されることによって︑両者の対立は表面化する︒貨幣という最も抽象的で非人間的なものを目指す闘争など︑宗教的同胞倫理からみれば許し難いものだからである︒合理化は︑一弓の領域がそれに内在する自己法則性に従って︑首尾一貫した形で展開することを余儀なくさせ︑その衝突を苛烈にする︒﹁真正の救いの宗教にとって︑この緊張関係そのものは︑どこまでも克服できないもの﹂である︒宗教と政治宗教が地域や種族や国家の神に関するものとして︑それらの利害にかかわりを持つにすぎないうちは︑宗教と政治の対立はみられない︒だが合理化された普遍主義的宗教によって︑地域や種族や国家の垣根が突破され︑また特にその神が﹁愛の神﹂とされる時︑宗教と政治の対立が表面化する︒この場合︑政治が合理化されるほど対立は厳しさを増す︒合理的官僚機構が﹁人間を顧慮することなく﹂︑ひたすら規則に従って事務を執行したり︑強制手段として赤裸々な暴力に訴えたりすることは︑宗教からすれば許し難いことであろうし︑逆に普遍的同胞愛の徹底は︑政治の側からすれば恐るべき無政府主義である︒また政治権力の最もラディカルな表現は戦争だが︑これは戦士の間に︑国家への無条件の献身という共同体感情を引き起こすし︑戦場での死に際して︑自分達は何事かの﹁た

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218

た宗教価値が基準である場合︑それと他の価値が意味上どんな関係

にあるかを明らかにし︑前者に従うことがどんな意味を持ち︑どん

な犠牲を払うことになるかを示すことlこれも哲学的科学の仕事

である︒

三ある実践的目的に要する不可避的手段と︑所与の条件下での

物理的遂行可能性の確定lこれはいわば﹁技術的批判﹂であって︑

経験科学の仕事である︒四一定の目的を一定の手段で追求することから不可避的に生ず

る11直接には望まれていないl随伴的結果を確定すること︒ま

た目的と随伴的結果を照合し︑前者がどんな犠牲を払うことになる

のかということや︑この犠牲のために目的の達成が事実上無意味に

なることがないかどうかを確定することIこれらも技術的批判で

あって︑経験科学の仕事である︒

従って以下のことは︑科学的手続きでは決定できないことになる︒

ア︑究極的価値基準の選択︑ィ︑目的がどの程度不可避的手段と不

可避的な随伴的結果を正当化しうるかの決定︒これらは意欲する個

人の信仰や良心の問題であり︑これを科学的討議から除外すること︑

科学がそれから坤凰であることが︑ウェーーハーの要求する﹁価値自

由﹂の怠味である︒だからこれは︑一般に価値判断は科学的討議の

主題から除かれねばならぬとか︑両者は全く無関係だということで

はない︒価値判断も上肥のような形では科学的討議の対象となりうるし︑またそうしなければならない︒ただアとィの問題だけが除外

されるというだけである︒だから価値自由の要求は︑価値における

神々の闘争と価値妥当の主観性相対性の主張を前提としており︑こ

の前提からみて︑主観的にしか決定できないような問題を︑客観的

マックス・ウェ§ハーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶ 盾しないと考え︑さまざまな価値判断の総合や妥協によって︑科学的妥当性を持った価値判断が可能になるとみるような﹁珍しくない

︵4︶意見﹂もあるが︑これなども科学の客観性を損なうものであろう︒

また価値判断は事実の真の認識を停止させる危険も持っている︒例

えば歴史家がある事実を評価して︑それを退廃であるなどと説明し

始めると︑当の事実の因果関係の究明がそこで中断されてしまうことになるだか課︒

だが価値自由の要求は︑科学の立場と同様に︑否それ以上に︑実践の立場を考慮したものであぶ︒ウエー︑ハーが﹁あらゆる機会に異

常と思われる程鋭く︑あるべきものとあるものとの混同に反対する

理由は︑当為の問題を軽視するからではなく⁝:.人間の心を動かす

ことのできるある意味で最高の問題が⁝⁝専門科学の討議の対象に

︵7︶されることに我慢がならぬ﹂からでもある︒普遍的価値基準が失わ

れた﹁主観主義的文化の時代﹂にあるわれわれは︑科学的に証明で

きるような理想など存在しないことを自覚し︑﹁理想を自己の胸裡か

ら取り出す﹂という困難な仕事に耐えなければならない︒これこそ に決定さるべき科学の問題と混同するなというだけのことである︒

この要求はまずもって科学のlそれも特に︑倫理的価値判断が

とりわけ混入しやすい社会科学の11客観性を守るためのものであ

る︒倫理と科学を混同して経済学を倫理的科学に仕立て上げようと

する︑シュモラーらの後期歴史学派ないし倫理的経済学派の見解が︑

﹁まだ消え去っていない﹂当時にあっては︑静旨に関する科学の客

観的真理認識と︑ぎぎロについての主観的価値判断を峻別するこ

とによって︑科学の客観性を守ることがとりわけ緊急なことと︑

︵3︶ウエー︑ハーには思われたのである︒それにまた科学と価値判断は矛

一一一一

(14)

217

︵8︶﹁人間の尊厳の印﹂なのである︒

もっともただこれだけのことならば︑価値自由が実践に関して持つ意義は︑実践と科学を区別し︑実践の問題を科学に任せないとい

うことだけになってしまう︒だがウエー︑ハーはもっと深く考えてい

る︒彼によれば︑実践には科学の支持が必要なのである︒意欲する

人間は前記のァとィについて決定しなければならないが︑それがで

きるためには一四についての科学の判断が不可欠の前提なのであ

る︒科学は実践的価値評価に関して科学的に決定できる仕事をし︑その成果を意欲する人間に示して決断を迫らなければならない︒こ

うして初めて人間は︑統御されない盲目的な実践︵価値判断︶か

ら坤凰でありうる︒科学にその分を守らせながら︑可能な職務を果

させることによって︑行為の究極の意味と結果についての明蜥な自

覚と責任感を持った実践の地平を開くのが︑価値自由の積極的な意

︵注︶味である︒前述のように神々の闘争は︑現実にはまだ必ずしも露に

なっていない価値の実相であったが︑それが実相でありながら理念

型でもあらざるをえない価値の混同の現状を明らかにし︑価値の実

相と個々の価値評価を突き合わせて批判し︑首尾一貫した実践の可

能性を用意するのは科学の仕事である︒理論が終る所から実践が始

まるのだが︑前者がなければ整合的な実践はない︒価値の多神論に

基づいて峻別された理論と実践は︑多神論がそこで初めて十分な意

味を持つところの実践的主体において︑有機的に結合されなければ

ならない︒

︵9︶︵注︶ゥエー︑ハーはある所で︑科学と価値判断を混同することを︑悪魔の所業

蟹g①号の弓①口重の堕罪淫且①具呈罪淫呂①という︑宗教的道徳的な マックス・ウェバーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶

ところでゥエー︑ハーの言う知的誠実とは︑何よりもまず事実への誠実さ︑つまり事実をありのままに理解し承認することである︒だ

からこれは明蜥性を本質とする︒そして事実の明蜥な理解が知性の

作用であるところから︑知的誠実と呼ばれる︒問題の事実が自己︑

特に実践的主体としての自己である場合︑それは自己への誠実とし

て︑首尾一貫性や責任性をも含むことになる︒

価値自由の問題に関連して取り上げられた場合︑知的誠実の具体

的な内容は︑上で言われたすべてを含むことになる︒つまり認識と

評価が異質であることを弁えて︑はっきりと区別すること︒評価をしている場合には﹁考える研究者が発言をやめ︑意欲する人間が発

言を始めているのだということ︑そしてそれがどこから始まったか

ということ︑換言すれば議論はどこでは理性に︑どこでは感情に訴

えているのかをはっきりさせること﹂︒またその際︑どんな基準で価

値判断をしているのかをはっきりさせることIこれらがその内容であぶ︒またそれぞれの実践的立場の究極の意味と結果を究明する

仕事を科学にさせて︑正しい実践の地盤を用意するのも知的誠実の

仕事なら︑科学的究明の結果を踏まえながら︑自己の﹁人生を操る

デーモビを責任を持って引き受け︑首尾一貫それに従うことによっ ニュアンスを帯びた激しい言葉で批判しているが︑これは彼が価値自由と実践のかかわりを重くみたことを示している︒彼にとって特に問題なのは︑価値判断に関する幾つかの党派的見解の総合妥協によって︑科学的妥当性を持った価値判断が可能になるとする見解だろう︒これは価値の多神論の象でなく︑とりわけ主体のI明蜥さと責任感を伴うべきI決断の必要性を︑似而非科学論議で糊塗することになるからである︒神なき時代の罪は︑神々の闘争とその帰結を自覚しないことなのであろう︒

(15)

216

て︑自己の究極の立場を決定するように促すのもまた︑知的誠実

︵u︶の仕事である︒だからこれは一方では理論と実践を区別しながら︑

他方実践的主体における両者の有機的結合を可能にするものだと言えよう︒そしてもしウェーバーの言うように︑人が自己の究極の立

場について責任を持つことが︑﹁人格的生活﹂にとって少なからぬ意

味を持ち︑また人格の本質が﹁特定の究極的な価値への内面的関係

の恒常性にある﹂とすれば︑ウエー︾ハー的人格形成の原動力こそ︑

この知的誠実なのである︒われわれは第三節でウェーバーの言う価

値を人格形成の原理と規定したが︑この原理の存在可能は︑知的誠

実の働きを前提する︒

だが価値自由が前述のように︑神々の闘争という事実から生ずる

要請だとすれば︑この事実の承認こそ知的誠実が第一義的にしなけ

ればならぬことであろう︒このように︑現代がキリスト教の神なき

時代であること︑神々の闘争がその宿命であることを︑価値の混同や

妥協の横行する中で露にするのが知的誠実であるとすれば︑われわ

れはこれを︑時代批判の意味を含んだ現代的な徳と呼ぶことができ

よう︒これは明蜥さを中核とする知的合理的な徳であるが︑西欧の

運命としての合理化過程は︑前述のように神なき時代を生み出す一

方で︑それへの誠実としてのこの特殊な徳を生み出したわけである︒

−−チェはキリスト教が育てた誠実性君四言富津侭言詳︾罰&胃壽異が︑キリスト教道徳そのものに向かうことによって︑その虚偽や欺

職を白日の下に晒し始めるようになったと言い︑これを﹁道徳性の

︵肥︶現代的形式﹂と呼んだ︒ウエー︑ハーがニーチェを強く意識していた

︵過︶ことは︑マリアンネの記述からも察せられるが︑ウェーバーとニーチェの間には深い親近性が感ぜら外浄︒ウェーバーの知的誠実は︑

マックス・ウェバーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶ 神と神によって支えられていた普遍的なキリスト教道徳との︑二つながらの死の後にも生きる︑最も若いヨーロッ・︿的な徳だからである︒もっとも彼とニーチェの親近性は︑単に知的誠実についてだけあるのではない︒ニーチェの思想はニヒリズムを巡って展開され︑そしてこれは彼にとって︑﹁至高の価値﹂としてのキリスト教的﹁道徳価値﹂が﹁価値を失い﹂︑従来の﹁価値序列の原理﹂が覆されて︑すべての人々に妥当する普遍的な人生の﹁目標﹂がなくなったことを意味士が︒だからキリスト教の衰退によって露になるとされる﹁神々の闘争﹂は︑ニーチェの言うニヒリズムにほかならず︑これを巡るウエー︾ハーのすべての議論は︑ニーチェの問題意識と同一平面

︵焔︶上にある︒その意味でウエー︑ハーが﹃職業としての学問﹂の中で︑

神々の闘争に関連して一一Iチェに言及しているのは偶然でない︒知

的誠実を巡る両者の親近性は︑その一つの現れにすぎない︒だが視

野をここまで拡げるなら︑われわれは彼と一一Iチェの関連を越え︑

むしろ彼の実存主義的傾向を指摘すべきであろう︒前述のように︑

価値を実践主体の個別的形成原理とみたこと自体が︑そのことを

はっきりと示している︒ヤスパースのようにウエー︑ハーを︑単に政

治家でも学者でも禁欲主義者でもキリスト教徒でもなく︑むしろ実存哲学者であると為がのが妥当であるかどうかは︑極めて疑問であ

るにしても︑少なくともわれわれが取り上げ疋勤る問題に関する限り︑彼は極めて実存主義的であるように思われる︒

︵注︶実存主義にもいろいろあるが︑サルトルはこれを︑﹁一貫した無神論か

らあらゆる帰結を引き出そうとする試ゑ﹂と規定する︒彼によれば︑従来

キリスト教の神が普遍的道徳や人生の普遍的意味や価値の支えであった

(16)

215

以上要するに︑各自が時代の宿命に耐えることと︑自己の究極の

価値基準に従って実践することを知的誠実の名において要求するの

が︑価値の相対性に関するウエーゞハーの最終的な立場である︒相対

主義に関する思想の広い流れの中に置いてみた場合︑このことは何

を意味するであろうか︒

哲学︑宗教︑芸術︑道徳などの領域には︑相対的可変的なものが

あるだけで絶対的なものはないとする︑歴史主義的相対主義を巡っ

て︑従来いろいろな議論がなされて来た︒相対性の事実を認めたう

えで︑そこから出て来るようにみえる懐疑主義を避けようとする場

合︑可能な考え方は︑私見によれば大きく分けて二つの.︿ターンし

︵釦︶かない︒一つは汎神論的形而上学に訴えるもの︑つまり︑歴史を貫

く絶対的な存在を想定し︑それがそれぞれの個人や時代や社会を通

じて︑個別的相対的なものを生み出すとみるものである︒ここでは︑

個別的なものは絶対的なもののそのつどの表現として︑相対的であると同時に絶対的な意味を持つことになる︒第二は︑相対的なもの ので︑神が死んだ現代には︑すべての人間を同じように拘束する道徳も人生の意味も価値も存在しない︒だから人間は自由であらざるをえず︑何物の助けも借りえないという意味で︑絶対の孤独であらざるをえない・だから人間は自分の責任において︑自分の道徳︑自分の人生の意味や価値を創造しなければなら眠脳o

このようなサルトルとゥエーバーの思想の間には︑深い親近性がある

ように思われる︒﹁厳密に一貫した態度こそ誠実な態度だ﹂とサルトルは

︵四︶言うが︑無神論の立場に立ち︑そこから出て来るはずの結論を徹底的に引

き出そうとするサルトルの態度は︑正にウェーバーの言う知的誠実その

ものであろう︒ マックス・ウェバーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶

も︑それを生み出す人間ないし時代︑社会にとっては︑絶対的なも

のを意味すると考える立場である︒つまり歴史における人間の営み

は︑特定の個性を持った人間が︑自己に固有な歴史的社会的状況I

﹁時代の宿命﹂もその一つであるlの下で行ったものとして︑こ

の人間に相対的でしかないのだが︑しかし同時にこの人間に固有な

もの︑ただ彼のみがなしうるものでもある︒だからそれは彼自身に

とっては︑単なる相対性を越えた絶対的なもの︑独自なものという

意味を持つとみるのである︒この立場に立つ者は︑自分の営みが普

遍妥当性を持つことを願いはしようが︑それが主観的要請にすぎな

いことを知っており︑主観的要請と客観的事実を混同することはな

い︒この冷たく覚めた立場は実存哲学的傾向が強いものと言えるだ

ろう︒合理化された神なき時代に生きるウエー︒ハーにとって︑第一

の立場に立つことは知的誠実が許さないとすれば︑残るのは第二の立場だけである︒ウェーバーが時代の宿命と各自のデーモンに従っ

て︑各自の究極の立場を決定せよと命じたことは︑懐疑主義克服の

第二の︒ハターンに属すことは明らかである︒これはもちろん相対主

義自体の克服ではない︒第二節で述べたように︑相対性が歴史の事

実である限り︑そのことを主張する相対主義自体を克服する必要は

ない︒必要なのは︑それが与えるようにみえるlいかなる意味で

も絶対的なものはないという11懐疑主義的印象の克服でしかな

い︒そして現代的な徳としての知的誠実が認めることのできると思

われる唯一の克服方法︑それがそのままウェーバーのものだったの

ではなかろうか︒

︵11︶二三円・︽ぬ﹄かつ﹈か屋一めいら四つ一宛切函のや 一一ハ

(17)

214

われわれは前節で︑西欧の合理化から生ずる神々の闘争と︑それ ︵2︶ごく旧︾﹄︽四球・画一四面鐸つ︷・ひつ﹁︷ふの④︾↑﹄勇.︵qJ︶一三F軍﹄︽の︷.

︵4︶PPO.︾勗黛・︾ちゃ ︵5︶PPO・︾認︽かs

︵〆O︶のの︾︽四つ︵7︶P四・○.﹀埠乞︵8︶PPO・︾︽四つ

︵9︶PPO.︾全勇︽畠挙乞 ︵川︶乏炉﹄誤威・準宕威・︾窒罵.︾g霞.

︵u︶四四○・・白露.安藤英治氏﹃ウエー︑ハーと近代﹄三八頁

︵岨︶司﹃荷骨片彦君一夛里目z蔚薗開彦の︾己閏君筐①圃匡﹃冨四o三︾﹄︾輿切函塞 ︵昭︶三四﹃旨ロロの君のず閏︾三四×君のすの7同旨胃あす①口の冨匡︾岳窒︾霊黒.

︵M︶大林信治氏﹁ウエー︑ハーとニヒリズムの問題lニーチェとの対比I﹂

︵﹃理想﹄四八○号所収︶参照

︵略︶z討冨留壷popo岸.︾い邑孟

︵略︶君F︾つ三

︵Ⅳ︶.K・ヤス・ハース︑樺俊雄氏訳軍ツクス・ゥエー︑ハー﹄一四一頁

︵岨︶宕画口淵函昌の四再吊︾固の※肘厨昌旨一涜日の①降巨ご彦匡ョ画昌の日①

︵岨︶四四○.︾忠

︵別︶拙稿﹁歴史的相対性の問題﹂︵東北大学哲学研究会機関誌﹃思索﹂三

号所収︶第三節︑﹁価値の絶対性と相対性﹂︵二︶︵﹃金沢大学教養部論

集﹄十巻所収︶九頁参照

㈲現世および合理的文化の無意味化と官僚制化現象と知的誠

マックス・ウェバーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶ に基づく価値自由の要請とに関係する限りで︑知的誠実を問題にした︒だがウェーバーの言う合理化にはもっと別なものも含まれているので︑最後にそれと知的誠実の関係をみることにする︒ここで問

︵1︶題になるのは︑一つは現世と合理的文化の無意味化であり︑もう一

つは官僚制化現象である︒

第三節で述べたように︑合理化された宗教は︑現世を神によって

秩序と意味を与えられた世界とみようとするので︑現世における幸

福の不公平な配分には︑正当な補償がなければならないと考える︒

だが合理的宗教思考がこの問題に熱心に取り組めば取り組む程︑現

世は価値を失っていく︒と言うのは︑あるがままのこの世の成り行

きは︑正当な補償の要請などを殆ど顧慮していないようにみえるので︑この問題を現世の内部だけで解決することはできず︑現世の外

での解決の方が確率の高い︑意味の大きいものにみえてくるからである︒こうして彼岸における救済の思想が生じ︑現世は不合理不完

全なものとして︑その価値を失うようになる︒ところがひとたび彼

岸︑来世の観念が導入されると︑人間は永遠の時間︑永遠の神︑永

遠の秩序といった観念を抱くようになるために︑現世は一層その価

値を失っていく︒現世の内部にあるものは︑最高の価値ある財でさ

え︑永遠なものではありえないからである︒また永遠の彼岸の世界

の観念が生ずると︑さまざまの文化価値がそれと結合されて理想化

され︑﹁無時間的に妥当する永遠の存在としての価値﹂の観念が生ず

るが︑これはまたこれで現世の価値を奪う役目をする︒経験的世界

における価値の実現︵文化財︶は︑たとえどんなに優れたものでも︑

理想化された価値そのものに比べると︑どこまでも不完全で暫定的

なものにすぎないからである︒だがこうした文化財の実現のために

(18)
(19)

212

は11現世の合理的知性からみればl一層非合理的になっていく

ので︑宗教に逃れるためには﹁知性の犠牲﹂を捧げなければならな

いが︑彼によれば︑それによって真の﹁新しい予言が生じたためし

はない﹂︒﹁知性の犠牲は予言者に対して帰依者が捧げる場合にのゑ

正当﹂だが︑今は﹁神も予言者もない時代﹂なのである︒真の予言

なしに新しい宗教を作り出そうとしたところで︑﹁代用品﹂が出て来

るだけだし︑そうかと言って︑新しい予言者や救世主をただ待ち焦

がれているだけでは︑何事もなされない︒またかつての仏陀やイエ

スや聖フランチエスの教えに従って︑無差別的愛の同胞関係を打ち

立てることに意味を見いだそうとしたところで︑機械化や組織化が

進んだ合理的文化社会においては︑そうした生き方は幻想に終るし

かないだろう︒こうして一一ヒリズムから逃避する道は塞がれる︒

西欧文化に固有な合理主義によって︑さまざまなものが生み出さ

れたが︑そのうち︑行政の領域で名誉職的名望家行政に代わるもの

として生み出された官僚制組織は︑現代社会と人間にとって︑宿命的な意味を持つものであった︒官僚制組織とぽ︑作業分割の原則に

のっとり︑計算可能な合理的規則に従って︑没主観的に仕事を処理

する専門家の組織である︒それは愛や憎しみやその他一切の個人的

非合理的な感情的要素を排除し︑公平に事務を行うという意味での

合理性を持つほか︑こうした性格を備えた専門家の組織として︑正

確性︑迅速性︑持続性などの長所も持っている︒こうした技術的卓

越性のため︑官僚制組織によって事を処理しようとする傾向11官

僚制化と専門化現象lは︑行政の分野を越えて社会全体へ広がっ

ていく︒しかもこの組織はひとたび成立すると︑それなしに済ます

マックス・ウェ︑ハーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶ ことも︑それを取り替えることもできない︒もしこの装置が活動を停止したり︑活動が阻害されると︑その結果生ずるのはただ混乱だけである・だからこれは社会主義社会においてもなくなりはしない︒社会主義がたとえこれとは逆のことを目指しているとしても︑結果的にはそれを強化することになるだろう︒なぜなら資本主義の下での私的経営が国家化されるか共同経営化されて︑官僚制的に指導されるからである︒私的資本主義の除去によって︑私的官僚制と国家官僚制の並存が打破されるにしても︑代わって現れるのは国家官僚制の単独支配にすぎない︒ここでは二つの官僚制相互の対抗︑規制がなくなるだけに︑事態はかえって悪化する虞があぶ︒こうして官僚制組織は体制の違いを越えて広がり︑﹁社会秩序にとって構成的意

︵宰戸﹃︾︒︶味を持つようになる﹂︒合理化の一途を辿る現代社会は︑工業化の要

請によって生じた﹁生命なぎ機械﹂を欠きえないのと同じように︑

官僚制組織という﹁生きた機械﹂を欠くことができない︒もし人間が技術的合理性を﹁唯一究極の価値﹂とゑるならば︑生きた機械は

生命なぎ機械と手を携えて﹁隷属の容器﹂を形成し︑人間はなすすべもなくそれに従属せざるをえないことになを鼎︒

官僚は高度の知識を持った専門家であるが︑彼らは自己の権力を維持するために︑この知識を職務上の秘密という口実で独占しよう

とする︒官僚制は傾向として公開禁止を旨とするものであり︑機密

保持はその発明品である︒だから官僚制に奉仕される者は︑君主で

あれ民主的に選ばれた議会であれ︑官僚という﹁専門家﹂に比べる

と﹁ディレッタント﹂にすぎず︑官僚の後見なしにやっていけない︒

だから官僚を適切に統制することが不可能になる︒こうして官僚自身が指導者に代わって実質的な支配を始め︑他の容啄を拒否するよ

(20)

211

うになる︒こうした傾向は官僚制化現象が広がるにつれて︑社会全

体へ拡大する︒しかも官僚的人間は後に述べるように︑既成の規則

慣例に従ってしか事を行えない人間なので︑こうした態度が社会のあらゆる秩序の基礎となっていい︒

︵8︶こうした事情を抽象的に言えば次のようになるだろう︒合理的な

手段として生永出された官僚制は︑合理化過程の中で不可避的なも

のとなって自立化し︑遂には手段の支配が始まり︑人間の自主性が

失われていく︒本当の合理性とは︑目的と合理的手段を自主的に選

定行使することであろうが︑手段の支配が始まることによって︑目

的と手段の間の透明な関係がなくなり︑真の合理性が失われる︒だ

から支配を始めた官僚制は︑外面的には徹底的に合理的なものであ

りながら︑その実人間にとって極めて不合理的なものとなる︒これ

はジンメル流に言えば﹁文化の悲劇﹂三①宮︲Fggに対する

︵9︶三9吋︲号︲席冨口の支配lであり︑マルクス流に言えば疎外現象

にほかならない︒

普遍的官僚制化現象昌一ぐ①扇①房昏﹃8口貢呂の冒匡口恥が人間に

及ぼした影響は致命的なものである︒まずこれによって︑専門的知

識と訓練を身に付けた専門人が要求されるようになり︑高等教育施

︵u︶設はこの要求の圧倒的影響の下に置かれる︒教育の目標はかつての

︵皿︶文化人︑全体的人間から専門人に変った︒教育制度の基本に関する

議論の背後にある古い﹁文化人型﹂対新しい﹁専門人型﹂の闘争は︑

後者の勝利に帰している︒こうして﹁完全で美しい人間性の時代か

︵昭︶らの諦念的な訣別﹂の時代となった︒

官僚組織は固有の非人格性を持っているので︑ひとたび成立すると︑それを支配する術を心得ている人ならどんな人のためにでも同 マックス・ウェバーにおける西欧の合理化と知的誠実︵関雅美︶

合理化によって生ずる現世と文化の無意味化︑普遍的官僚制化現

象に︑ウエーゞハーがどのように対処しようとしたかが次の問題であ

る︒まず後の問題から取り上げよう︒官僚制化を体制の違いを越え

た不可避的なものとみるウエー︑ハーにとって︑それへの対処とは︑

体制変革をいたずらに夢想することではなく︑官僚組織を純然たる

手段たらしめる現実的方策を探究することであった︒

行政の分野での官僚支配に対する制度上の対抗策として提唱されたのは︑議会改革とラィヒ大統領罰ggg&凰号皀制である︒議会 ︵M︶じように機能し続ける︒このことは︑普遍的官僚制化現象が生み出す専門人がどんなタイプの人間かをよく示しているだろう︒それは﹁規則づくめの人間﹂ggg甥目①易sgl規則がないと何の判断もできず︑それから引き離されると途方に暮れるん肝lであり︑規則のために藻抜けの殼となり︑決まり切った仕事に没頭するしかない精神の︒フロレタリ葹伊ある︒また自律性のない﹁精神なぎ専門

︵面︶人﹂であり︑機構の単なる歯車になって︑ただ小さい歯車から少し

︵昭︶でも大きい歯車になりたいとしか考えない人間なのである︒だからこれは日常の必要や既成の規則と秩序を越えるような要求に応じえ

︵四︶ない人間で︑歴史を創造し変革する力を持たない︒だがこうした圧

倒的影響を及ぼしつつある普遍的官僚制化現象は︑﹁いつでも脱ぐこ

とのできる薄い外套﹂ではなく︑西欧の合理化という﹁運命はこの

外套を鋼鉄のように硬い外枠にしてしまった﹂︒これは﹁圧倒的な力

で︑現在この歯車装置の中に入り込んで来るすべての人々の生活様

式を決定しており︑将来も恐らく︑石炭の最後の一片が燃え尽きる

︵釦︶まで︑それを決定するであろう﹂︒

参照

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