史料紹介 : 『ドイツ人についての良き教えの書』
著者 藤井 真生
雑誌名 人文論集
巻 65
号 2
ページ A79‑A102
発行年 2015‑01‑30
出版者 静岡大学人文社会科学部
URL http://doi.org/10.14945/00008088
史料紹介 :『 ドイ ッ人 についての良 き教 えの書』
藤 井 真 生
は じめに
1437年12月、ハ ンガ リーヘ向か う途上 にあったルクセンプルク家 の皇帝 ジギ
スムン トは、南モ ラヴィアの都市ズノイモで亡 くなった1。 彼 は神聖 ローマ皇帝 (1410‑37)で あっただけではな く、ハ ンガ リー王 (1387‑1437)であ り、そし て在位 は短かったもののチェコ王 (1436‑37)で もあった。その後継 者 の座 は、
王妃バルバ ラがポー ラン ド王 に提供 しよ うとした とい う報告2も あるが、最終的 には相続協定 によ リハ プス プル ク家 のアル ブレヒ ト (1437‑39)3の 手 にわたる ことになる。 しか しこの とき、チェコでは彼 の国王即位 に反対するパンフレッ トが出 まわ った。 ここに紹介 する史料 『 ドイ ツ人 についての良 き教 えの書J4は そのひ とつ に採録 された文章 である。
この小文 はタイ トルか らもうかがえるように、中世チェコにおける反 「ドイ ツ人J観を示 す史料 として分 析されて きた。わが国で もすでに、薩摩秀登氏 が
1ルク セ ン ア ル ク 家 の君 主 た ち に 関 して は、n smahcI L BObkOv̀ι 鍬 み″ あ π
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義 2012,」S¨■
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Prah● 1982%″υ′
7,1986日本語では、鈴本 達哉『ルクセンアルク家の皇帝たち
J近代文芸社 (1997)力∫ 、 まとまって読 む ことので きる唯一
2チの文献。 ェコ王国の官廷 に人脈 を築いていた人文主義者エネア
シルヴィオ
ピッコロー ミニ、のちの 教皇 ピシス
2世 (1458‑64)力'執筆 した『ボヘ ミア年代記』。
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Mau,ス
タ 鋤 ″″ふ妨 ″ ″笏 ″α(Fontes ren m rcglu Bohamac I),Prala,1998,k53ピ ウス
2世の
rボヘ ミア年代調 に関 しては、拙稿 「イタ リア司教の 日に映った
15世紀のチェコーー人 文主義者エネアのポヘ ミア・ レポー トとその背景
J長谷部史彦編
r地中海世界の旅人一―移動 と 記述の中近世劇 慶應 義塾大学 出版会
(2014)、 55‑81頁を参照。
3オ
ース トリア公アルプレヒ トはジイスムン トの一人娘エ リーザベ ト
(アルジュビェタ
)と結婚 し ていた。アル ブレヒトもわずか二年後 に舅の後 を追 うように して亡 くなったが、彼の死か ら四カ 月後 にエ リーザベ トが息子 ラディスラフ
(1453‑57)を出産 した。
4、
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53(1915),pp 193:238以下 に掲載 す るラテ ン語、 そして ドイツ語訳 を収録 している。
‑ 79 ‑
「中世 チェコにおける「 ドイツ人」観Jと題 した論考 において言及 されている5。
要 は、 ドイツ系王朝 に反対 し、 ドイ ツ人
6を
否定する内容 なのだが、その否定の 仕方 に非常 に興味深 い点があるため、以下 で取 り上 げて若干の考察 を述べ る とともに、訳出を試みた。
1、 中世チ ェコにお ける反 「 ドイツ人J観
中世 チェコにおける「 ドイツ人」観 については、先 にあげた薩摩論文 があ り、
また「 ドイツ人」 を他者 としつつ展開 した「チェコ人J意識 については、別F・
l
で詳述 してい る7た
め、 ここではグラウス以降の研究者8に
よって共有 されてい る見解 を簡単 にまとめてお こう。中世 のチェコにおける 我われ (チェコ人)と彼 ら(ドイツ人)"意識 の展開 については、一般 的には三つの段階が想定 されてンヽる。
1)10世紀〜12世紀後半:君主家系 に ドイツよ り妃が迎 え られ、彼女 に付 き 添 ってお伴の者 たちが官廷へや って きた。 また、10世紀後半 にプラハ司教座 が 設立 され るが、初期 の司教 はほ とん どが ドイツ出身であった9。 高位聖職渚 も同 様 である。彼 らが君主の官廷で寵 を受 けた場合 には、中世 チェコ史では有名 な
6薩
摩秀登 「中世 チェコにおける「 ドイツ人
J観J「歴史学研究
J703号 (1"7)、 2∞‑205頁。
̀本
稿 は、中世の「民劇 について、近代の国民国家の産物であるとする、いわゆる「近代論 的 な立場 をとらない。前近代社会 においてもナシ ョナルなアイデンティティは存在 し、かつ生成・
変容・ 消滅 した とす る
A・ス ミスの見解 に与す る。アン トニー・ ス ミス
(巣山靖司、高城 和義他 訳
)『ネイン ヨンとエスニシティー
=歴史社会学的考察
J名古屋大学 出版会
(1999)。7藤
井真生 「カ レル
4世時代 の年代記 にみ る「チェコ人
J意識―― チェコの「 ドイツ人
Jとの対比 か ら一―
J「西洋史学』第
227号 (2008)、 22‑43頁。
8代
表 的 な中世 ナシ ョナ リズ ム研 究 として、R Craus,Die Bndung ehs Natonal 朝
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"拓 ″ 13(1966),pp 5 49ほ かに、
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aり97(1999),m235272,R輌″笏 ″あ″ υん″聯
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メ●
Zα I′ ,Ptajら2006,pp 65 105 また、
日本語では藤摩前掲論文、藤井前掲論文 を参照。
'初
代 か ら第
4代までの
4人の プラハ司教の うち
3人が ドイツ、 しかもザクセンの出身であった。
チエコの プシエ ミスル朝 は ドイ ツのザクセン朝 と強い結 びつ きを有 していたためである。 その
篠 したいにチェコ人聖職者 も養成 されるようにな り、第
5代から第
8代まではチェコ出身の司
教 力続 く。 とはいえ
11世紀の段階では、まだチェコ聖職者 には ドイツの司教座付属学校や修道院
で学んだ者 が多 く、教会高位聖職者 にはあいかわ らず ドイツ出身者が 日立 っていた。
コヤタのエ ピソー ドのように、これをツト除 しようとする動 きが表面化す る10。 た だ し、 この時点では よそ者″であることが問題 なのであって、「チェコ人」 に 対す る「 ドイツ人」 といったレベルの意識ではない とされ る。
2)12世紀後半〜14世紀初頭 :12世紀後半以降、 チェコにおいて も ドイ ツ人 による植民運動 が活発化 し、「国内」、 とりわ け都市 に生活慣 習の異 なる よそ 者"を多 く抱 え込 む ことになる。 この段階では明確 に 「ドイツ人」が よそ者"
を代表す ることになる。また、この時期 の年代記叙述 は、外か らや って きた「ド イ ツ人」 に対 して 「国内」 に「チェコ人」 が存在 す る ことを前提 としている。
しか し、近年 の研究動向を考慮す るな らば、植民運動 の進展 とともに、 よそ者"
の 「ドイツ人」 に対置 され る形 で 「チェコ人」像 が創 り出され、 あるいは強化 されていったもの とみ るべ きであろ うn。
3)14世紀初頭 〜15世紀初頭 :14世紀 にはチェコ王家 〈ル クセ ンブルク家)
か ら ドイツ王 (神聖 ローマ皇帝)力S誕生す る。 そのため、首都 プラハ には ドイ ツ人 を筆頭 とす るさまざまな 「外国人J力=集い、 なおいっそ う官廷での比重 を 高めていった12。 また、都市部 では ドイ ツ人 が数 の うえだ けでな く、支配階層 としての存在感 も増 していた。 この時期 に、出身地 か ら言語へ と区別意識 の基 準が変わった こと、「よそか らきた ドイ ツ人」を問題視する階層 が宮廷以外へも 広 まった ことが指摘 されてい る13。
その後、15世紀初頭 にフス派戦争
14が
勃発 した ことによ り、フス派信仰 とチェЮ 自分の官廷付 き司祭 を新司教 に選 出させ ようとした大公 に対 して、コヤタは宮廷 の有力者 を代表 して、その司祭 が ドイツ人であることを理由に反対意見 を述べた。Kosmas I1 23,lnあ
"‐″膨
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Z(・0)II,Praha,187475薩摩秀登
rIEと貴に 中世チェコにみ る中欧の国家』
日本エディタースクール出版部
(1991)、 31‑認頁、藤井真生
r中世チェコ国家の誕生――君主・
貴族・共同体
J昭和堂
(2014)、 13、 242頁。
1l D Tleζ砒
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%̀cθε んら
PIallら2003
12ド
イツ人以外 には、貨幣の鋳造 など、金融関係 の業務 に強いイタ リア人 も多 く招聘 された。ルク センブルク朝期 の外国人間題 に関 しては、第
63回日本西洋史学会小シンポジウム報告 「中世後期 チェコにお ける貴族共同体 と「外国人」」 『西洋史学』
251号 (2013)、 40‑43頁を参照。
お この 「チェコ人
J意識 のメルクマールの問題 に関 しては、前掲拙稿 を参照。
比較的新 しい フス派運動研究 として は、
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Prahら199a曇膨 妨 ‐
A Fudge,レハイ名 ′続 R″ら
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1998:ルC磁″ 澪
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'ahttzコイズθi Z Ashgate,2002;″
"S、I B TauHヽ
2010また、異端史のなかにフス派 を位置づ けた 研究 としては、
M Lambetル磁お解 ′万グ ッ Blackwelt 3 cd 2002(l ed 1977),pp 306 414邦 語では、薩摩秀登
fプラハの異端者 たち』現代書館
(1998)。そのほか、浅野啓子 「
15世紀 フス 派革命 におけるプラハ四カ条
J『社会科学討究』
35号 (1990);「フス派 の改革運動 における共生 の理念」森原隆編 『ヨーロッパ・「共生」の政治文化史
J成文堂
(2013)、 315‑338頁、
59‑82頁、薩摩秀登 「フス派 の形成 と都市指導層――最近 のチェコにお ける研究 によせ て¬
『明治 大学教養論集
J278号 (1995)、 1‑16頁,「 教会改革者 と革命一― ヤン・ フスの教会改革論 とそ
‑81‑
コ語を核 とする選民思想が高揚 し、民族意識の展開は新たな局面 を迎える
15が
、 Fドイッ人 についての良 き教 えの書』 はこの時期 に広 く流布 したものである。2、 史料成立の時代背景
(1)フス派運動 と「チ ェコ人J意識
フス派運動 の意義 については、社会主義の時代 には階級闘争史観から、すな わち都市 ブルジ ョフに対す る都市中下層 の蜂起 として説明 され ることが多かっ たが、戦前 まで さかのぼれば、「チェコ人対 ドイ ツ人」 とい う民族的対立の構図 か ら理解 されることが基本路線 だった16。 なぜ なら、19世紀 に産声 を上 げたチェ コ歴史学は、チェコがハプスプルク帝国か らの自治 (のちに独立)を獲得す る ために、民族 の歴史的存在意義 を叙述す る使命 をは じめか ら負わ されていたか らである。現在では、フス派運動 を民族的要因か らのみ説明す ることはないが、
中世チェコの民族意識 をさ ぐるさいにこの前後 の時代が非常 に大 きな意味をもっ ていることは否 めない。
さて、冒頭 に名前を出 した皇帝 ジギスムン ト17は、戦争勃発時のチェコ王 ブァー ツラフ4世 (1378‑1419)の 弟であ り、兄が後継者 を残 さずに没 した後 は、正 当なる王位継承者であるはずだった。 しか し、1415年のコンスタンツ公会議 に 参加す るヤン・ フスに対 して道 中の安全 を保障 してお きなが ら、結果的 に彼 が 火刑 に処 されることを防がなかった (防げなかった)彼は、 チェコ王国内では フスの処刑 に関する責任者 とみなされていた。中世のチェコ王国では、有力貴 族 に国王選 出権
18が
認 め られてお り、 ジギスムン トも彼 らに よる即位承認 を経なければ玉座 に上 ることがで きなかったのである。
この当時のチェコの貴族 は、 フスの信奉者 もいれ ば、強力 にカ トリック信仰 を保護 しようとす る者 もお り、必ず しもフス派 と貴族共同体 が一致 していたわ
の位置‐ 」けをめ ぐって¬ 「 ―橋論叢
]122巻 4号 (1999)、 562‑577頁、藤井真生 「フス派運 動 における民衆 と民族■― 池上俊一著
rヨーロッパ中世 の宗教運動 』 によせ て一―」」ヽ澤実編 物 語 るコマネスク霊性
J(「ク リオ
J22号別m(21118)、
129‑1頁 な ど。
1'R Smahet〃
ι α
2夕″υ″蔭め ぃ なの Cあ たち
pp 2 89研究史 については、浅野前掲論文、薩摩 「教会改革者 と革鋼 を参照。
17ジ ギスムン トについては、
R KⅣ転
Pos″″ιπ″ ″″ 解 ′ る物π″ル4 Praba,2002
B中
世チェコの君主選 出権 は、
13世紀 にはいって王朝の長子相続制が確立す るにつれて形骸化 し
た。藤井前掲書、
241‑滋頁。 しか し、 プシェ ミスル朝が断絶 し
(1306年)、新 たにルクセンプ
ルク朝が迎 えられる
(1310年)と、貴族の選出権が再 び尊重され ることとなった。薩摩
r工権 と
貴族
J、第
3凱けではない。 しか し、彼 らはフスの処刑 をチェコの共同体 に対す る侮辱である とみな し、450人 の印章 の付 けられた抗議書簡 をコンスタンツヘ送付 した19。 そ の彼 らに とって、チ ェコを異端 とみな して十字軍 を宣言 したジギスムン トは、
到底国王 として承認す ることので きない人物 だったのである。 そのため、ジギ スムン トは1436年にイフラツァ協約 を締結 して フス派戦争 を終結 させ るまでは、
チェコ王 として即位 す ることがで きなかった (1420年に戴冠式 を挙行 している が、チェコ貴族 の承認 は受 けてお らず、実質 を ともな うものではなかった
)。
ジギスムン トの娘婿アルブレヒトは、直接 フス処刑の責任者 とみなされてい たわけではない。 しかし、フス派戦争中、対 フス派十字軍はハンガ リー、オー ス トリア、 ドイツで招集 された軍隊から構成されてお り、アルブレヒト自身も 舅 とともにモラヴィアヘ攻め込んで、 これを占領 していた。 こうした経緯 もあ り、オース トリアのハプスブルク家や、これに率いられてチェコの外部からやっ て来た集団に対する反感が強まっていたもの と考えられる20。
(2)史料について
先述のように、 このパンフレットは1436年から37年にかけて、ジギスムント からアルプレヒトヘ とチェコ王位が継承される時代状況のなかで生 まれた。現 存するテキス トは1442年ないし43年の写本 とみなされている。ただし、史料編 纂者のヴォス トリによれば、1430年代の国王選挙 にさいして執筆されたのでは な く、そのときにすでに知 られていた文章を編纂 した全体で以下の5編から構 成 されるパンフレットの一部であるa。
①誠実なるチェコ人に警告するためのチェコ年代記の抜粋
②スラヴ語によるアレクサンダー大王伝
③ ドイツ人についての良 き教えの書
1'薩 摩 『プラハの異端者 たち』、
109‑110頁。
20ジ ギスムン トが
1486年に即位 が認 められたさいには、外国人 を官職 につけない ことが確認 されて いる。薩摩秀登「中世後期 における中欧の政治 と文化―一二つの宗派 の国ボヘ ミアの国家運営―
―」
r明治大学人文科学研究所紀要
J第43号
(199つ、
‑80頂。 なお、ルクセンブルク朝期 に繰
,返し主張 される、外国人の官職就任禁止問題 については、先述 の第
63回日本西洋史学会小シン ポジツム報告お よ
^藤
井真生 「外国人 に官職 を与 えるな―一 中世後劇 チェコにおける貴族共 同 体 のアイデンティティ
J服部長久編 「
(仮)コミュニケーシ ョンから読 む中近世 ヨーロ ッパ 史――戦争 と秩序のタペス トリー¬ ミネル ブァ書房、2015年■
ll行予定。
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″ θ ″
,pp 202 225写本 は、 プラハ大学図書鋤 チ蔵の
III C25および
XIV G45、そし てモ ラツィア文書館 にあるCodex Ce‐
11108の3系統 が確認 されてお り、 この うちG25が
14世紀 中の作成 とみなされてい る。
‑83‑
④ボヘ ミアエが皇帝フリー ドリヒに招かれたことの報告
⑤いわゆるダリミル韻文年代記
このうち「いわゆるダリミル韻文年代記』は14世紀初頭 まで成立年代がさか のぼる
22が
、Fド
イッ人についての良 き教えの書』は14世紀の第二四半世紀 とみ ている。バル トシュも成立時期を、カレル4世 (1346‑78)力Sモ
ラブィア辺境 伯であった時期、 とくに1340年代においている23。 しかし、それ以降の研究者 は基本的に14世紀の後半、おそらくジギスムントの兄ヴァーツラフ4世 (1378‑1419)の治世に作成されたものとみている2。 帝国が舞台設定 として用意さ れていることから、チェコ王 と皇帝をはじめて兼ねたカンル4世以降のものと 考えられ、さらに都市の同職組合
25ゃ
兄弟団26に対する言及があることから14世 紀後半、それも1370年代以降と推定される。なかでもグラウスは1380年から93 年の間に成立 したものとみなしている″。筆者に関しては、この時代の都市の慣習や制度に通 じていること、その一方 で聖書からの引用があまりみ られないことから、ヴォス トリは作者をチェコ系 プラハ市民 と想定 した28。 これに対 してパル トシュは、同職組合を「セク ト」と 表現する史料はプルノの都市台帳だけであることから、筆者をブルノの書記官 ヤンと同定 した29。 しかし、先述のように近年の研究者 はみな成立年代を14世 紀の後半 とみなしてお り、彼の見解は継承されていない。ただし、パル トシュ 説を一致 して否定する研究者たちも、ではいったい誰なのかとい う問いには、
確固たる回答を提示できないでいる。グラウスはプラハではな く、小都市の参 事会員 と考えている30。 彼はプラハ旧市街の富裕層 にはドイツ系市民が多 く、こ
うしたパンフレットを書 く理由が見当たらない という。また、大学サークルの
22こ
の年代記 については、藤井前掲書、
301‑305頁。
28 R Bart,De Theumnicis bOnum dictamen,In dの ″ぉ■ィα″θ ι
zο″ 77S膨 40(1916),pp l16 119 2 R Craus,,″
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%Mヽ″″″ι らStmarlngen,1980,pp 221 223′
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1979,pp
7183,n Smahet″θ ´
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pp 72‐"
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ェコにおける同職組合
(ギ
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/ツンフ ト
)の普及 は
14世紀前半中 とい うことで見解 の一致を みてい る。初期 の例 としては
13世紀末 にまで さかの ぼるようである。
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"υ Cκれ″滋 α滋 』 イο κυtt Praha,2009,p246
2̀チ
ェコにおける兄弟団の成立 は、同職組合 とほ
lF並行する現象であ り、
14世紀前半 には確認でき る。
L Bobkov̀,M Bardov̀,シセ彬 ″夕妙
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IヽL,PraL LiomyもL2003,p9007 E craus,9ρ
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lt,pp 216 217"EB面oも
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,pp 222‐ 223
一員 であるとい う見解 に対 しては、大学関係者 が この史料 に言及 している痕跡 が見 当た らない ことか ら、 そ うした説明 は困難 である と指摘す る。 これ に対 し てシュマヘル は、 プラハ大学の関係者、 あるい はプラハ1日市街 の富裕 な市民で あった可能性 を改 めて指摘 している31。 なぜ な ら、1380年代 には旧市街 の参事 会 にもチェコ系市民 が増 えてお り、 ドイツ系の独 占は崩れているか らである。
以上の ように、 この論争 は新 たな史料 の発見 がないか ぎ り決着 はつかないで あろ う。 なお、ホフマンは このパ ンフレットの写本 がイフラヴアの ドイツ系都 市貴族 の家系で保管 されていた ことを明 らかに したが、彼 もそれ以上の結論 は 引 き出せ ないでい る32。 ともあれ、14世紀後半 にチェコ系市民 の手 によって執 筆 されたもの、 とい う点で合意 を見 出 してお きたい。
3、
『 ドイツ人 についての良 き教 えの書』 にみ る「 ドイツ人」観本章では、『 ドイ ッ人 についての良 き教 えの書』の特徴 を、先行研究を踏 まえ つつ、史料 に即 してみてゆ く。
このパ ンフレッ トは、 ドイツ人 に対 する嫌悪感 をあ らわに している点で『い わゆ るダ リミル韻文年代記』 との共通性 がみ られ る。 しか し、作者 が貴族層 ゆ か りの人物 と推定 されるこの年代記 とは異 な り、チェコとい う国をチェコ人 (の 貴族)こそが担 うのだ、 とい う主張 はそれほ どあ らわれて こない。
また、先 に触 れた 我われ と彼 ら"の区分基準でいえば、第一 に言語中心主 義の立場 を とる。 この ことは、パ ビロンの塔崩壊 以降、72の言語が各民族 に配 分された、 という内容から始められることに明示 されている(①
)34。
この段階 で、 ドイツ語 とよばれる言葉が「隷属的な民族Jに割 り当てられたことが述べ られている。 この言語中心主義の観点から、 ドイツ人の言語および言語能力が 貶められている (⑤)。
現代チェコ語でもドイツ人をニェメツNё
mecと 表現するが、 これは話す ことに関わる言葉に否定辞ncをつけた形 をとっている。
31■ SmalleL″
滅
,pp 72 73シュマヘルは、
1971年に発表 した自説 を
2000年に公刊 された著書の なかで再度主張 してい る。
32 F Hormalln,″ σ ″
,p78・
Dalunn,in F21B In,Praha,1882『いわゆ るダ リミル韻文年代記
]に関 しては、拙稿 「中世 チェコ における王国共同体概念―― 『ダ リミル年代記
Jの検討 を中心 に一―」 『史林』
85巻1号 (2002)、88‑106頁
を参照。
工 以下、
( )内の丸囲み数字 は、後掲史料 に付 した番号 を指す。 なお、番号 は内容や分量 を考慮 して、筆者 が便宜上振 つたものである。
‑85‑
しか し、作者は Fいわゆるダ リミル韻文年代記』のような単純なチェコ語中 心/ドイツ語否定主義の持ち主ではない。最後には、 ドイツ語話者であっても チェコ生 まれならばそれほど怒 りを覚えることはない、と述べてお り(①)、 属 地主義的な考え方もうかがえる。 よそからきたばか りの新参者の ドイツ人 と、
すでにチェコに定着 して久 しい ドイツ人を区別 し、前者 を差別する見方が都市 民の間にも広 まっていったことを示す証拠のひとつ ともみなされる。 このパン フレットの作者が非難 している ドイツ人 とは、よその国へ入 り込んで我が物顔 にふるまう者のことなのである(①
)。
このパンフレットの特徴はこうした言語中心主義と属地主義の併存にあるこ とを確認 し、 さらに内容 をおってゆ こう。
作者 は 「よその王国や地方へ狐 のように入 り込」んだ ドイ ツ人 の民族性 を徹 底 して批判す るが、 そのさいすでに触 れた ドイツ人の隷属性 に加 え、彼 らの貪 欲さと狡猾さを繰 り返 し強調する(③
)。
チェコの都市は、12世紀後半以降からドイツ人植民によって一気に数を増 してお り、都市法を持ち込んだ彼 らが都市 の上層 を占めることが多かった。 ここでは、 ドイツ人が祖国 との結びつきを保 ち、チェコから富を流出させているという疑念が表明されている(⑮
)。
おそら くドイツ人植民の盛んであった東中欧地域では、同様の ドイツ人観が生 まれて いたと思われる。また、 この史料が興味深いのは、 この ドイツ人市民の金銭への執着を同職組 合 という制度 と結びつけて説明している点にある(④〜②
)。
同職組合は営業を 独占し、不当な高値 を維持する制度 として認識されている。 さらには都市の教 区以外に、同職組合 を母体 としても結成されることの多かった信心会に対 して も、これ と結びつけて非難の矛先がおよぶ (④)。 都市における目新 しい慣習は なかなか受け入れられていないようだが、無論、同職組合 自体 はチェコにも浸 透 してゆ く。ドイツ人非難のポイン トは貪欲 さだけではない。狡猾 さもその対象 となる (⑭)。 ドイツ人がいかにして外国で立身 してゆ くのか、そのさいの偽 りに充ち た奉仕の仕方が描写されている。そして社会的上昇を果たしたあと、 ドイツ人 は裏切 りを働 くのである。 このときキリス ト教世界最大の裏切 り者ユダとピラ
トゥスの名を冠せ られている (⑩〉。
そのため、匿名作者 は支配階層 に ドイツ人の所業を訴えるのだが、自分の訴 えが ドイツ人の狡猾さに妨げられて領主たちへ伝わらないのではないかと心配 している(⑩、⑭
)。
もちろん、最後には ドイツ人の本性が知れわたることを期‑ 86 ‑
待 している (⑩)。
この ように『 ドイ ツ人 についての良 き教 えの書』 は、 ドイツ民族 に隷属性、
貪欲 さ、狡猾 さといった負 の属性 を押 し付 ける。 そのか ぎりでは『いわゅるダ リミル韻文年代記』 な どの、先行 する反 ドイツ人史料 と同一路線上 にある。 こ の年代記 も、先 に述べた ように、1430年代 に作成 された と思われ るパ ンフレッ ト中に採録 されてお り、パ ンフレット編者 が反 ドイツ人の立場 を広 く訴 えかけ るための文章 として利用 していた。
ただ し、繰 り返 しになるが、半世紀前 に作成 された「いわゆるダ リミル韻文 年代記Jと異 なるのは、作者 の出自と属地主義の言明にあった。このパ ンフレッ ト内容 は、官廷周辺の人物 か ら都市民へ と反 ドイツ人感情 が広 まっていた こと を示す。 そればか,でな く、パ ンフレットが著 され、 そしてそれが世 に流布 し た ことか ら、都市 にお ける反 目がいっそう激 しくなっていたことを うかがわせ る。 また、チェコにおいて も ドイツ語 を話 し続 け、 そして独 自の慣 習 を維持す る ドイツ人 に対す る嫌悪感 が強 まる一方で、彼 ら「よそか らやって きた者」 と 区別 される ドイ ツ系住民の存在 が示 され る点 において、 中世 チェコの都市 にお けるチェコ系 と ドイ ツ系の共存 が 日常 のものになっていた ことが読み取れるの である。
4、
ドイツ人 とユダヤ人のパ ラ レルな表象本章 で注 目したいのは、『 ドイ ッ人 についての良 き教 えの書』にみ られた ドイ ツ人 の 「ユダ、 ピラ トゥス」への例 えである。実 は、 この例 えは匿名市民であ る作者 のオ リジナルで はない。
トーマス によれ ば、 中世後期 か らチ ェコで も登場す る笑劇
(フ
ァルス)は、 通常、社会 的マイノ リティを軽蔑・椰楡 の対象 とす る35。 そして彼 は、 チェコ の笑劇 においては 「女性、ユ ダヤ人、 そ して ドイツ人」力Sそ
の対象 となってい た と述べ る。観客 はチェコ貴族、農民 が大部分 を占め、マジ ョリティである女 性 と都市で経済力 を発揮 していたユダヤ人お よび ドイッ人 を笑い飛 ぼす ことで 社会構造 の維持がなされていた。 そ して ドイ ツ人 が ときにユダヤ人 と同一視 さ れ るのがチェコの特徴 であった とい う。 と りわ け有名な作品は、1340年 頃に成36 A Thomas,Fraue■ Juden und Deutsche,in,οみι
711″37(1996),pp 310 318
‑ 87 ‑
立 した『香油売 りJである"。
同様 の傾 向は笑劇以外 にも広 く確認で きる37。 14世紀の プラハの学生 は、 ド イ ツ人 はピラ トウスの肛門か ら生 まれた と歌い、チェコ語 で書かれた外典 Fユ ダの福音書』では、 ドイツ人 はやは リイエスを裏切 ったユダに例 え られ、ユダ ヤ人 と同一視 された 。 こうした見方 はプラハ大学でチェコ系教師 と ドイツ系 教師の対立が深 ま り、後者 が ライプツィヒヘ退去 した時期 の言説 においてもみ
らオヽ 法学者 イェニセ ツのヤンは ドイツ人教師 をユダヤ人 にた とえてい る39。
た しかに、 こうした例 えを受 け入れる下地が中世のチェコにはあった。 とい うのも、伝説 の時代 も含 めて、 この頃 までにチェコでは3度の君主暗殺事件 が お こっているが、 そのいずれ もが ドイ ツ人 の仕業 と言い伝 え られてい るか らで ある°。 その後、年代記史料 で繰 り返 し語 られ る「 ドイツ人 によるチェコ君主 暗殺Jのモチーフがジャンルの垣根 を越 えて広 ま り、笑劇 にも取 り込 まれたの だろう。 とりわけ1306年 のブァーツラフ3世 (1305‑06)の 暗殺 は、土着 の王 朝 を断絶 させ、大 いなる混乱 と悲惨 の時代 をチェコにもた らしたため、当時の チェコ人 に強い印象 を植 え付 けたもの と思われる。
先述 の Fユダの福音書』の欄外 には、 この「呪われた民族J(=ドイツ人)を
ユダ と同一視 し、「この裏切 り者 の民族 め、お前 たちのせいで、多 くの国が荒廃 した !お まえたちが この まま見逃 され ることはない。いつの 日かお前たちも滅 びるのだ」との書 き込みがある41。「主 に対する裏切 り者」との非難 は、中世 ヨ ロ ッパでは一般 にユグヤ人に対 して向けられていた。 しか し、チェコでは以上=
のような歴史的背景 によ り、 ドイツ人 に対 してかぶせ られていたのである。
『 ドイツ人 についての良 き教 えの書Jにおいては、「我われ はこの金 で彼 らを 減ぽす (と彼 らはいっている)J、「彼 らはお金 をため込んでいる」 といった表現 が連続す る (⑪、②)力S、 これ らの文言 はすべてユダヤ人 に対 して投 げかけら
工VeLrus,И W″″ ル ア ル 協 れ ″ 診 ″ ′あ み第 2 nc Umvcsi,of M gan・ 1985中に 嘘 。
97そ
のほかの笑劇 ない し娯楽作品 については、
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Czech‐Cennan Relatlons as Rcflected lll Old Czぬ Llterature,h R Bardet A Madw(ed),Mttωぼ′″ ¨σ 表 現 だ 後 ヽ
Clxfo颯1992,pp
199216A Thomas,Frauen.Juden ulld Deuも
che,pp 311‐312作品 は それ ぞれ、
R Jakobson,M餡″
S″勁 ιθ ε ″
a Ncw Yo軋1943,pp l18‐119,IC●nar・ L■̀
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%みPra転 19∝p● 1511811に取鱗蔵
S'浅 野啓子「
14‑15世紀チェコにおけるフス派大学教師 と工権」森原隆編「ヨーロッパ・ エ リー ト 支配 と政治文化』成文堂
(2010)、2∞
‑279頁 (ここでの参照箇所 は263頁
)。匈 前掲拙稿 「カ ンル
4世時代 の年代記 にみ る「チェコ人」意識」。
41A… Czech Cerman Rclauons as Rcncctcd h old Czech Llteratllre,p202弓
1用 文は英語か
らの訳。
れた紋切 り型の非難・中傷 を想起 させ る。 もちろんチェコで も、「金銀 をため込 んだユダヤ人」 といわれてお り42、 ュダャ人 に対す る負 の表象 は伝わ っていた。
しか し、 このパ ンフレッ トは貪欲 に対する非難 を、ユダヤ人ではな くドイツ人 に投 げか けるのである。 ドイ ツ人 の貪欲 さの強調 はプラハ系市民 と思 しき匿名 作者 にか ぎられた ものではない。実 は Fダリミル韻文年代記』 には、 ドイツか らの十字軍 がチェコを通過す るさいにユダヤ人 を襲撃 した とい う記事 がある。
この とき ドイ ツ人 はユダヤ人 を襲撃す る権利 を 「大金 で買 つた」 と述べ られて い る°。ただ し、 ダ リミルは ドイツ人 をユダヤ人 に例 えていない。
「 ドイツ人 についての良 き教 えの書』 におけるお金 にまつわ る ドイ ツ人非難 は、 この当時のチェコの都市社会 の実情 をある程度反映 している。 とい うのも、
もともとチェコの都市 は ドイツ人植民者 によって建設 されたものが多 く、都市 を治 める参事会 の会員 (=都市の富裕階層)は ドイ ツ系市民 が多数派 を占めて いたか らである。近年 の研究で は ドイツ系の独 占状態 は従来考 え られていた よ りも早 く、14世紀 の半 ばか ら徐 々に崩れていった とされてい るが、 それでもフ ス派戦争 を迎 える以前 にチェコ系が多数 を占めていた都市 は13%にす ぎない 。
ドイ ツ人植民者 の手 による建設都市ではないプラハで も富裕 な ドイ ツ系市民 の 活動 が 日立 ってい るる
。 したがって、中世後期 チェコの都市民 の 日には、 ドイ ツ人 もユダヤ人 のような経済的強者 として映 り、 その意味 において嫉妬 を買い やすかったのである。
中世 ヨーロ ッパでュダヤ人が憎悪 された理 由 として、宗教的 な違 いにもとづ く偏見が大 き く影響 していた ことは間違いない。 しか し、 日常の生活 において は宗教的差異 よ りも、む しろ彼 らが経済的 に強者 であった事実 のほ うが差別 を 生みだす重要 なファクターだった と考 え られ る。 チェコにお ける外国人 として 同 じような規定 を与 え られているなかで、チェコの都市で は ドイ ツ人 こそが経 済的強者 であ り、 その点での存在感 はユダヤ人 を上回 っていた。ユダヤ人 にま とあわされた負 のイメージはむ しろ ドイツ人 に対 して利用 されたのである。「 ド イツ人 についての良 き教 えの書Jにおいて繰 り返 し表現 され る「ドイツ人 と金」
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"″ しり40,1971,pp 45 53
̀6ド イツ系市民 が強力なネ ットワークを築いていたことについては、前掲拙稿 「カ レル
4世時代 の 年代記 にみ る「チェコ人
J意識」第
4章を参照。
‑ 89 ‑
の結びつきや、裏切 り者 「ユダ、ピラ トゥスJといった例えは、そのことを明 白に物語っている。 r
むすび
本稿で紹介 した『 ドイッ人の良 き教えの書』は、中世チェコにおける民族意 識の、ひとつの、 しかし重要な意義をもつ側面を示す。 我われ"の立場を守 る ために、彼 ら"にマイナスのイメージを付加 し、貶める。こうした表象自体は、
もちろんチェコにかぎらず、ほかの地域でも確認できるだろう。今回は同一パ ンフレット中の、「いわゆるダ リミル韻文年代記』をのぞく3編に関 しては分析 しなかったが、傾向としてはそれほど大 きな違いはないものと思われる。ただ し、時代や作者のおかれた状況により、 ドイツ人の何をどのように非難するの か、作品ごとに差異が生 じて くるはずであ り、ほかの3編の分析 が不要なわけ ではない。また、 これらのパンフレットが どのように読 まれたのか、 フス派戦 争後の民族観にどのような影響を与えたのかも興味深い問題であるが、今後の 課題 としたい。
一方、 この史料は、 ドイツ人が都市における経済的 (場合によっては都市政 治的にも)強者であった中世のチェコにおいて、彼 らを非難するためにキリス ト教世界でユダヤ人に対 して用いられたのと類似のントリックカテリ用された点 に特徴がある。中世ヨーロッパにおけるキリス ト教の受容時期や深度は地域 に よつて異なっていたため、キリス ト教徒の敵 としてのユダヤ人像の浸透にも当 然地域差があったと考えられる。古川誠之氏は、「中世 ドイツにおいて、ユダヤ 人の迫害行為が当然のように存在 した、あるいは中世の最初から続いてきた、
と考えられがちな現在の理解は、歴史的に妥当なものだろうか」と述べたる。こ の問題提起 は非常に重要であると考えるが、14世紀チェコで作成された『 ドイ ツ人の良 き教えの書Jには、それに対する回答の可能性がみえているように思 われる。中世チェコにも反ユダヤ人感情 とそれに付随したントリックはたしか に存在 した。 しかし、ほかに敵視すべき「彼 ら」力S存在するとき、そしてその 存在 こそが「内なる敵」であるとき、反ユダヤ人感情は抑制されているのであ る。中世キリス ト教世界におけるユダヤ人観の受容・利用の仕方は、決 して均
古川誠之 「離散か靭 日か。中世後醐 ドイ ツにおけるユダヤ人迫害」 「史観
1163号 (2010)、 69‑85頁 。引用は
71頁。
質 なものではなかった といえる。機会 があれば、いずれ また この問題 に立 ちか えつてみたい。
*本稿 は科学研究費(着手研究スター トアップ→研究活動スター ト支援)「中世チェコのナシ ョナ ル アイデンティティの特質」(課題番号 :70531755)の 成果の一部である。
‑ 91 ‑
De Theutunicis bonum dictamen
ln nomme domi面 alnen
回:Cum etemo celorui scept‖gero operante miH■ ca Babylome cunctena idi‐
omata,que septuaginta duo umversO suo ponebantur nulnero.essent sParSa inter gentes heJles et Lberas,sobn idioma Thecau山,quod nunc idloma meuttcum
dicitut in gentern servilem speci■ce est disparsum□ :appellatur autem hoc Theucadls idioma,quia cum in disdbucione seu confusione liguarum Babilonie cuihbet lingutto rectOr aut mtOr esset propuetarie deputatus,utpote quod enu―
nencioribus imperatores et reges,mediocribus marchiones et duces,mino‖ bus conutes et barones,mhllnls auteln presides et capltanei donabantu,sic Theucades seMlis gends Theutunice cap■ aneus est erectus□□:cum iaque qubusdam na―
ciOnibus regna,ceteHs ducatu。
,re■
quis regiones sicque quibuslibet iuxta bene merenciШm mdta ditttateS Ofncia et benencia conve」 ssent Theutumd omagl‐ales et servlles remanserunt carereque debent Theutunici coronais principibus [fo1 25al h hmc dem□ :itaque Theucades assumpta servili cohorte sua Theu m血cOruln cunctas perlustrant reglo¨ ssσ宙kS utlusque sexus cunctt n赫」b澪 sunt sparsi pardcuttteL sic quod nec est re」Q que疇eutudCIS non sI Plena et sicut per dcersa loca sunt ttparsi siC h udversis panbus eOrllm idomatt ve■
balis prolacio ex interieccione et adiunccione a■ orum idiomatum variatu■ 固: cumque Theutunicitanquam girOvagi orbem perambularenl,a■ e naciones nOn intelligentes hoc idioma,cum tanquam canes latrarent,mutos fore Theutunicos esumabant et sicut Slawlヽ nemecz,id est rnutum,quemlibet appellabant Theu‐
dunicum,sic Boemi Nyemecz quemlibet nominant subsequente■ 固:etcum
Theucades partem illius servllis gentis in servltutem huc hde dsParsiSSet cum residuo quoque populiin solitudinem deserti Bava五 e pervenisset,sibi ibidem ducatum sListre et exmnee usurpa、 嘔t a quo plures ducatus Ahanie sunt absmde m posterum de■vati dicuntur autem hee omnes nove et signantur Theutunice reglones Almania.id est total■ er omagiales日:quia lcet Theucadce ducatus in deserto usurpaverant,talnen cogebantur sacro mpeJo Romano desemre,sic licet pmclpes de novo f¨ 」forent,quod tamen sew」es deberent perslstere h etemum;
erantque sed iam suntin parte maxima libertati per hunc modum
試訳:『 ドイ ツ人 についての良 き教えの書』
神 の名 において、 アーメ ン。
□:驚嘆すべ きバ ビロン1に対す る永遠 なる王 の支配 の所産 として、総数72も あった とみなされている諸言語 は ことごとく、主人 となるべ き自由な民族 に配 分 されたが、いま ドイ ツ語 とよばれ るテウカデス語」だけが唯一、隷属的な民族 に格別 に割 り当て られた。□:と ころで、 それはテウカデス語 と呼 ばれ るが、
それは以下の理 由による。バ ビロンの諸言語の分配 と混乱 において、各言語 に 支配者 ない し保護者が任命 された とき、卓越 した言語/民族 には皇帝 と国王が、
中位 の言語 には辺境伯 と大公 が、低位 の言語 には伯 と有力貴族 が、 しか しもっ とも最低位 の言語 には族長 と首長 が授 け られ、 それゆえ首長 テウカデス は隷属 的な ドイ ツ語 を割 りあて られた。□ :あ る民族 には王国が、別 の民族 には大公 領が、残 りの民族 には各領邦 が、それ ぞれの功績、威信、官職、特権 にしたがっ て割 り振 られたのに対 して、 ドイ ツ人 は託身 し、奉仕す る存在でお り、今 日ま で戴冠 した諸侯 は皆無である。□ :テ ウカデスは ドイ ツ人 の奴隷の群れ を引 き 連れてあ らゆる地域 を遍歴 し、男女 があ らゆる民族 にそれ ぞれ ば らまかれ た。
そのため、 ドイツ人 に充 ちていない地域 は存在 しないほ どだった。 なるほ ど彼 らはさまざまな地域 にば らまかれたが、すべての地域で彼 らの言葉 はほかの諸 言語 の干渉 と連結 よ り派 出 した もの と相異 なっていた。国 :あ たか も巡歴修道 士の ように ドイツ人 は世界中 をさまよっていた。犬 の ように吠 える彼 らの言葉 を理解 で きないほかの民族 は、 ドイ ツ人 は口をきけない もの とみな していた嗜
。 スラヴ人 が ドイツ人 をニェメ ツ、すなわ ち口をきけない者 とよぶ ように、チェ コ人 もニェメツとよぶ。国 :テ ウカデスがその奴隷民族の一部 を、あちこちと 奉仕 すべ く振 り分 けた後、民族 の残 りは、人気のない僻地バイエル ンヘや って
きた。 ここで悪辣 なよそ者 は大公領 を不当に占拠 した。 それ以降、 アレマニア のい くつかの大公領 はここか ら派生 した。人 は今 ではこの新 しい ドイツ人 の地 域すべてをアレマニア とよんでい る。つ ま りすべての奴隷"とい う意味である。
日:テウカデスの民族 は僻地 で大公領 を不 当に占拠 したが、神聖 ローマ帝国 に 奉仕す るよう強制 されたV。 そのため、新 たに諸侯 になった として も、それで も 彼 らは永遠 に奴隷の ままいなけれ ばな らない。 そ うあるはずが、 しか し以下 の
ようなや り方で、大部分 はす ぐに自由になった。
‑ 93 ‑
匡コ:nam tOta generacio Thcutunica ultra alias naciOnes ablacionc mercium de regiOne una et allaciOnc in aliam mundo famulatur cotidie catcnusque bonorum copia predotantur maxime sic Per auri habundanciam cOcmptive et per ictum blandiloquiumque famulamen ad Oculum回 :tandcm cum invaluerunt,pcr viO lenciam principatus,provincias,c市 itates,castra,fortalicia,municiones,thc010nia
et a■a multa libera,herilia et nObilissima bona cum inmensis utilitadbus a sacro Romano imperio abstraxcrunt et abstrahunt in hOc tempus[]:prO quibus liber―
tatlbus,emolumentis et honodbus,que auro solvi non poterant llnpcratores avari honOris immemorcs pcr auxilium vilis pccunie sustulerunt ct ob hOc dampna, cOnfus10nes,obprobHa ct alia dispendia irrccuperabilia cog■ mtur perhenniter sus―
tincrc[fo1 25b]回 :o impeHaus honor!ubi quOndam quinquaginta milia■ore‐
norum,ibi iam duO calcaria,o excclsa magnitudo l ubi quondam centum milia f10renorum,lbiiam unum stamen panni,O clementlssima malestas!ubi quondam nullo prccio solvenda omagia dc Theutunicalibus c市
itatibus feodis et vasa■
iOn―atibus prebcbantut ibi lam pro bcneveniatis cleri processu,campanarum pulsu, equitum tuma,rnuherum Obviaclonc et per dulciloquiuln Theutunicorum facmm
cum∞lorc pompe□ :sed uguo frucm pnncipes nЩ
ugantuら
bonumquё ∞nlmune comodum ct principes conccrncncia sic Theutunicorum emcacia prochd01or dis‐trahuntur□:Animadvcrte sapiens,considcra prudens,quOmOdO hec astuta et fraudifera gens in fcrtilissimas prebcndas,precipua bcncncia,uberrimas posses―
siones immo usque in principum cOnsilia se intrudit □:vide′ quomodo huius
gentis fllii alicnas terras intrantcs primo scriptorcs,caupones,parasiti,scwi dO―
mestici,pusilL vel alii sewitoFさ s cxistent,sic blandiuntut palponisant ct cuilibet icta ca●tate obviant,quod tandem posscsSiones,immo quandOqu9 11ias prop」
o―
rum dominorum tanquam hereditaJe consccuntun国 :postrcmuln in consulatum eliguntut rem publicam subtili exaccionc spoliant,aurum,argentum,gemmas, clenKldia et aLa bona prcclpua de terris,h quibus advenae sunt,ad propia funim transmittullti sic cunctas terras exaccionant et desertant,sicque ditati incipiunt 宙chos oppHmerc,pr■ncゃibus,aLis prOprlis domlllis rcbcuare国 :Judas et PJatus sic tecere pcritusque quis dubitat,Theutunicos lpsos fOre lupoS in grcge,muscas in cibaHis,anguis in grcmiQ meret五 ces in dOmO
‑ 94 ‑
E81:すべての ドイ ツ民族 はほかの民族 よりはるかに、ある地域か ら商品を略奪 して別 の地域へ運搬す ることに奉仕 してお り、財産 の貯蓄 とい うことに関 して は、過剰 な金 の買 い 占め と、 日を歎 き、媚 ぴ詔 う奉仕 のゆえに、 もつとも多 く 利 を得ているp回 :彼らは力 を手 にした とき、ついに暴力 によ り大公領、管区、
都市、館、城、砦、関税、 そのほか多 くの特権 的で高貴で気高い財産 を、莫大 な用益 権 とともに神聖 ローマ帝国か ら奪い取 り、 そして現在 まで奪 ったままで ある。回 :貪欲 で栄誉 を忘却 している皇帝 は、金 では支払 うことので きない特 権、利得、名誉 を、取 るに足 らない金銭援助 のために奪われ、損害、混乱、恥 辱、 そのほかの取 り返 しのつかない損失 に、永遠 に耐 えることを余儀 な くされ てい る。日:鳴呼、皇帝 の名誉 よ !か つて5万の金貨 のあった場所 に、今 では たった2つの拍車 しかない。鳴呼、崇高 な陛下 よ!かつて10万の金貨 があった 場所 に、今で はたった1つの布地 しかない。鳴呼、慈悲深 い陛下 よ!かつて ド イ ツ都市 に関す る奉仕 には封土や恩貸地が支払われていたが、 いかなる金銭 も 与 え られ ることはなかった。 それが今 では恵み深 き司教 の宗教行列、鐘 の音、
騎兵隊、女性 の会合 の代わ りに、 ドイ ツ人 の甘言 によ り、 これ見 よが しの華美 をともなってお こなわれ る。回 :し か し、わずかな利益 によ り諸候 はなだめら れ、公共の福利・ お よび利益 とみなされるものを、なん とい う音痛か、諸侯 は ドイツ人 の活動 によ り台無 しににされてい る。国 :賢明なる者 よ、気付 きたま え。分別 ある者 よ、考慮 した まえ。 この狡猾で欺l薄に満 ちた民族 が高収入の聖 職録、格別 な恩貸地、豊かな所領 を得 ているどころか、諸侯 の顧問会 にまで入 り込 んでいるさまを。回 :見たまえ、いかにして この民族 の息子たちが外国 に 入 り込み、 そ こで まずは書記、居酒屋 の主人、取 り巻 き、召使、下男、 あるい は何 らかの奉仕す る者 として登場 したのかを。いかに して彼 らが媚 び誰い、阿 り、偽 りの好意 によって抗い、 そのため、ついには所領 を、 それ どころか自身 の領主 の娘 を、 まるで世襲所領 を得 たのかを。国 :つ いに彼 らは顧問会 に選出 され、徹底的 な課税 によ り共同体 を奪 い、金銀や宝石、財宝、 そのほかの特男U
な財産 を、彼 らが よそ者 として滞在 している諸国か ら、密 かに祖国へ送 り出 し た。彼 らはすべての国 を略奪 し、荒廃 させ た。 こうした方法 で豊 かになった彼 らは隣人 を抑圧 し、諸候や そのほか 自身 の領主 に対 して逆 らいはじめた。国: ユダ、 ピラ トウスの ごとくなった。経験 のある者 はみな、 ドイ ツ人 が まさに、
群れたオオカ ミ、食 べ物 にたか るハエ、心中のヘ ビ、家 にいる娼婦 となること を疑 っていた。
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