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太 皇 太 后 宮 亮 平 経 盛 朝 臣 家 歌 合 に の ぞ む 清 輔 の 態 度

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(1)

太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合にのぞむ清輔の態度

 本歌合は︑仁安二年八月平経盛が主催した草花︑鹿︑月︑紅葉︑

恋の五題六十番︑参加歌人二十四名の歌合である︒左右の区別をせ

ず︑各階一番左に詩家︑各題の最後の十二番右に教長があてられて

いるほかは︑三番方法にきまりがなく︑乱番である︒作者も隠名で

あったことは︑恋十番判詞に﹁こは誰が詠みたるにか侍るらん﹂と

か︑鹿五番右を﹁いと思ひかけず驚き思ひたまふれば︑みつからの

歌に侍りけれ﹂という判詞の口吻は︑作者名を伏せての披講で︑清

輔はこの歌を批判の話題に載せる中で自作であることを明かしてい

るのだと思われる︒このように各歌人が左右に分属せず︑自由な結

滞で︑しかも作者隠名ということは︑晴儀歌合の堅苦しさを排した

私的な同人歌壇の自由な集まりの中で︑同人歌壇の長老たる清輔に

自由な批評を求めたためであろう︒というのは参加歌人を眺めてみ

ると︑まず主催者平経説は平家の全盛期を樹立した清盛の異母弟

で︑兄清盛の政治的軍事的な活躍と異なり︑金葉歌人としての父忠

盛の歌才を受けつぎ︑︑平家一門の公卿化の傾向の中で︑歌を中心と

する文化的方面を高めるのに貢献した︒管絃の道にもすぐれていた

であろうことは︑平家物語巻九敦盛の最後の段に﹁祖父忠盛笛の上

手にて︑鳥羽院より賜はられたりしが︑経盛相伝せられたりしを︑

敦盛器量たるによってもたれたりけるとかや﹂という小枝の笛の継

太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合にのぞむ清輔の態度︵稲田︶

承相伝よにってもうかがわれる︒経盛が主催した歌合は︑夫木抄︑︑ 月詣集︑千載集︑林葉集︑隆信集などに散見するものによると少な くとも五度以上を数えることができる︒そのほか経正集︑頼政集や 前記諸書によると忠度︑経正︑重盛︑資盛などの催した歌合を加え ると︑平家一門によって行なわれた歌合は十度にも及び︑経盛を中 心として平家歌壇ともいうものが︑永万から寿永二年頃までの約二 十年間成立していたといえるであろう︒それらの平家主催歌合の中 で︑完全な姿で見ることのできるのは︑この仁安二年八月太皇太后 宮亮平経盛朝臣家歌合だけである︒この時期に歌合の世界において 傑出した判者は六条藤家を代表する清輔と御子左家の俊成であっ た︒平家を中心とした歌合や︑諸所の歌合に清輔と並んで迎えられ ていた俊成も︑承安頃から平家主催歌合とともに一つの中心となっ た摂関家歌合の伝統をつぐ九条兼実家歌合には︑治承元年六月清輔 が没するまでは判者として迎えられることがなく︑本歌煮頃の清輔 は判者として歌合界最高の地位にあったということができるであろ う︒この年における清輔は玉葉に従えば六十四才で経盛は四十四才

であった︒

 本歌合の年︑判者清輔は大宮前大進であり︑経盛は大宮亮である が︑永暦元年七月太皇太后宮大進清輔朝臣家歌合における大宮大進 現役の年︑経盛は大宮権大進に任ぜられているから︑或る期間大宮 の同僚であったと考えられ︑また︑清輔の弟重家の室と経盛の甥重

(2)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一八号

盛の室とは姉妹という関係もあったので︑本歌合胃石に清輔は経盛

との交際を﹁蘭の契﹂①といっているほどに親交があったと思われ

る︒清輔を始め︑重言︑顕昭︑男心など六条藤家の人々が中心であ

るが︑通能︑都人︑有房などの村上源氏の人々︑頼政その妹の三

河︑俊恵︑心覚︑登蓮など歌林苑派の人々が加わっているし︑特に

定長︵寂蓮︶が現存歌合の中で最初に参加している︒この歌合の前

年︑すなわち永万二年︵仁安元年︶清輔の弟中宮亮布原朝臣家歌合

における参加歌合二十八老中︑十七名までが本歌合参加者で占めら

れ︑しかも判者は顕広︵俊成︶であることは両判者の判詞を比較し

てみるのに興味をひくことと思われるが︑今は直ちに本歌合におけ

る清輔の誉詞をみていくこととする︒

 清輔の判者となった現存歌合で完全な形のものは本歌合の他に

は︑嘉応二年五月二十九日の左衛門督実器量家歌合と安元元年十月

十日右大臣兼実家歌合で︑夫木鉢や月詣集などには承安元年八月の

全玄法印房歌合や承安二年置十二月の教長話東山歌合などが知られ

るが︑その判詞を十分置見ることができない︒そうすると︑本歌合

は平家主催歌合の唯一の完全な現存本であるとともに︑清輔の台詞

として最初のものといえるであろう︒

 清輔は本歌合に判者としてのぞむにあたってどのような態度であ

ったであろうか︒長明無名抄には︑ ﹁俊成︑清輔歌判ずるにみな偏

頗ある事﹂という題で︑顕正云として記していて︑

 逆比和歌の判は俊成卿清輔朝臣左右なき事相︒然るを共に偏頗あ

 る判者なるにとりて︑其様の変りたるなり︒俊成卿は我もひが事

 をすと思へるけしきにて︑いともあらがはず︑世の中の習ひなれ

 ば︑然なくとも如何はなどのやうに言はれき︒清輔朝臣は外相は

 いみじく清廉なるやうにて︑偏頗といふことつゆもけしきにあら

 はさず︒おのつから人のかたぶく事なんども︑あらはにけしきを

 あやまりてあらがひ論ぜられしかば︑人みなそのよしを心得て︑

 更に言ひ出つることもなかりき︒

とあり︑これは古礼昭の言として記してあるので︑清輔の歌合判に

おける態度を正しく観察したものとして信ずることができるであろ

う︒然し︑実際の歌合判詞を検討して﹁おのつから人の尊ぶく密な

んども︑あらはにけしきをあやまりてあらがひ撫ぜられ﹂たかどう

か︑歌合の記録は方人や作者の発言を忠実に記録するものでなく︑

その時の発言をふまえて判定を下し︑判詞は後日これらの発言の要

点を挿入したり︑或は挿入せず︑判者が自分の立場に立って簡明に

記して提出するのが普通であるから︑歌合の場における判者清輔が

﹁あらがひ論ずる﹂有様を見ることが出来ないが︑元永元年十月二

日内大臣忠通家歌合などには︑両腰という特殊な形態にもよるが︑

俊頼︑基俊の論戦が明らかに知られるし︑また承暦二年四月二十八

日の内裏歌合の顕猫舌などでは︑判詞の記録者は判者とは別人と思

われるせいもあるが︑左右方人の顕房判に対する不満が可なりあり

ありとうかがわれる︒

 まず︑本歌合の判者として迎えられるにあたり︑清輔は本歌合践 文に﹁たびたびの仰せをさのみやはいなふねにとて  御目より他

には散らさせ給はでを﹂と記しているようにきわめて謙虚であっ

た︒自詠の勝負にあたっても︑元永元年十月二日内大臣家歌合にお

ける基俊のように︑自詠の勝負にこだわるところは全くなかった︒

②五題のうち最初の草花十二番は諸本とも判を欠いて

    左       太皇太后宮大進藤原清輔朝臣

(3)

 我宿も残る花なく植ゑつれど野べのけしきは猶ぞゆかしき

    右      左京大夫入道教長

 秋萩の枝もとを〜に置く露の払はばあやな花や散りなん

に対し︑ ﹁右︑ 古今集に折りて見ば落ちそしぬべき秋萩の枝もと

を〜に置ける白露 といふ歌にや似て侍らん﹂といって︑左につい

ては判詞を記していない︒この点については袋草紙遺編に﹁判者為

作者愚答︑至我歌者︑不加判︑故実歎︒但人々心々也︒﹂と判者自

身の番には判を加えないのが歌合の慣例ではあるが︑基俊︑顕仲︑

俊頼︑心房︑経信などのそれぞれの場合の相違を挙げているので︑ 必ずしも判を加えなかったわけではないであろう︒殊に後の四番は

すべて自詠を負として判を記しているので︑この番も多分判があっ

たと思われる︒それでは勝負はどうであったかというと︑多分他の

四番と同じように負にしたものと思われる︒ ﹁古今の歌に似て侍ら ん﹂というのは歌の趣向が古今よみ青しらずの﹁折りて見ば﹂の歌

に似ているというのであって︑この評語は鹿四番左 定長の歌

 さ男鹿の鳴く音はよそに聞きつれど涙は袖のものにぞありける

に対し︑故俊頼朝臣の歌

 さ男鹿の鳴く音は野べにきこゆれど涙は床のものにぞありける

 という歌と全く構案が似ているので﹁いかが﹂と負けにしている

場合に使われているが︑恋一番 左勝③        重家朝臣

 今ははや昔がたりになりなましつらきに堪へぬ我身なりせば

 に対して︑ ﹁末は後拾遺に︑

 思ひいでてとふ言の葉をたれ見まし憂きに堪へせぬ命なりせば

といふ歌のおぼゆるにや︑おほむね似たれども︑詞はみな違ひたれ

ば︑いかなるべしとも覚え侍らず︒この歌に似ずば︑左変なん︒人

々定め給ふべし︒

太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合にのぞむ清輔の態度︵稲田︶

 とその趣向︑構案は後拾遺の歌に似ているが︑詞が違っていると して︑衆議にはかりながら結局勝にしているところなどからする と︑前記教長の歌を必ずしも非難して﹁古今の歌にや似て侍らん﹂ と記したのではないと思われる︒殊に左歌の自詠については全く誉 詞を記していないところがらも︑軍威の勝にしたとは思われない︒ この自詠は清輔集にも載せられていないから︑清輔としては家集に 残すほどのものと考えなかったであろう︒これに比べると署長は教

長集に︑

 置く露の重げに活ゆる小萩原払はば花の散りもこそすれ  秋萩の枝もたわわに置く露をいとふものから払はでぞ見る などが載せられていることからすると︑かなり心にかなった作と思 われる︒そうであるとすると︑五題すべてにわたって清輔は自詠を 負にしているのは︑六条藤家を中心とする同人的な本歌合におい て︑しかも作者隠名という自由な判定にもかかわらず︑自作の勝負 に固執しない態度︑いなむしろそれ以上重三の勝まで譲る謙虚さで あったということができるであろう︒このことは     鹿五番左勝       公重朝臣  聞く人の袖も濡れけり秋の野の露分けて鳴くさ男鹿の声     右      清輔朝臣  鹿の音の吹きくる方にきこゆるは嵐や己が立処なるらん の右に対し﹁右あらしや己がたちどなるらんと侍る︑いと思ひかけ ず驚き思ひたまふれば︑みつからの歌に侍りけり︒﹂と記している ところは︑本歌合が作者隠名で︑歌が詠吟されて始めて自作たるこ とに気づいたことがうかがわれる一方︑ ﹁いと思ひかけず驚き思ひ たまふれば﹂といことばは自詠を卑下していっているのにちがない い︒しかし︑ ﹁かかるやうもなきにはあらねど歌合歌は読み様あり

(4)

長崎大学教育学部入文科学研究報告 第一八号

とはかやうの事なりしといっているのは︑歌合の歌にはいろいろの

制約があるが︑こういう歌もなり立つのだという︑一つの新しい趣

向を見せたとも思われるが︑最後に﹁左︑もっとも勝ち侍りなん﹂

と自作をあっさり負けにしているのでも知ることができる︒

    月十番 左      清輔朝臣

 小倉山下ゆく水のさゴれ石も数かくれなく照らす月影     右 勝      心  覚

 天の河とわたる月の蒸すみて濁れるよとも見えぬ野壷

においても︑ ﹁左︑させることなし︒右さもありなん︑などか勝た

ざらん︒﹂と自作に一顧も与えない態度である︒左歌は夫木抄二二

にも採られているほどであるから︑もう少し押し出してもと思われ

るのである︒

    紅葉十一番 左       清  輔

 おぼつかないつれ末濃の山ならん導くれなみに見ゆる紅葉ば     右勝      三  河

 大井川岸の紅葉の散る折は浪に裁たする錦とそみる

に対しては︑ ﹁左︑いかなることのあるべきぞと聞くほどに︑末い

とこひざめなり︒右︑別の難も見えねば︑勝べし︒﹂と言って︑自

作は末句が﹁恋ざめ﹂つまり恋の気持ちがさめるように興ざめであ

ると卑下しているが︑これは元永元年十月二日内大臣家歌合の     時雨一番右

 おぼつかないかにしぐ〜る空なればうらこの山のかたみなせなる

という俊頼の歌を思い浮かべて詠んだものと思われる︒俊頼は基俊

との両判において︑ ﹁かたみなせなると添へたる詞おぼつかなし︒

﹂とか︑ ﹁うらこの山﹂というのは歌詞とも覚えぬと批評している

が︑ ﹁かたみなせなる﹂は平安朝歌合大成六に﹁片身捺染なる﹂

で︑うらご︵裏濃︶の縁で黒木に布地をあてて模様を染め出すよう

に︑うらご山が片方だけ紅葉している姿を︑俊頼自身も人々が非難

するであろうことを予想していたようでありながら︑敢えてこのよ

うな新奇な語を用いようとしたのである︒基俊はこういう俊頼の革

新的傾向からくる新奇な語の使用に同感できず︑ ﹁右のうらこの山

はいかにかたみなせとはあるにか︑心得がたく侍り︒﹂といってい

るが︑前述の鹿五番の自作と同様に︑清輔としてはある自負するも

のもあったと思われるが︑やはり相手に勝を与えている◎     恋五番左勝       俊  恵

 逢ふにこそ換へもえざらぬ我命などやたgさへ捨てもやられぬ     右      清輔朝臣

 我恋は蟹の焚く火の下燃えてまだほのめかす方もなき哉   左︑詞つづきそよからねども心は侍るめり と自作については一言も言及せず︑左歌が二︑三句の詞つ寓きがな

だらかでないにも拘らず勝にしている︒

 本歌合二十四名の作者中︑五番全部とも負になったのは判者清輔

だけで︑判者についで成績の振るわなかった小侍従でも︑持四世一 であるから︑せめて判者の番に﹁持﹂などの判定もあって良かった

のではないかと思うほどであるが︑敢えて自作を負で通しているの

である︒

 こういう態度は本歌合から三年後の嘉応二年五月二十九日の左衛 門督実国富歌合や︑七年後の安元元年十月十日の右大臣兼実家歌合

においても同様である︒里国棲家歌合は六題のうち判者清輔は勝

二︑持二︑負二の成績で︑立春五番を持にした理由は     論点       清  輔

 いつしかと春のしるしの見ゆる哉三輪の杉原打霞つ︑

(5)

    右       俊  恵

 春のくる所はわかじものゆへに朝のはらのまつ霞むらん

右歌は﹁あしたの原の先つかすむらん﹂というからには︑ ﹁他より

も疾く霞む所﹂であるのか︑また︑ ﹁わかじものゆへ﹂などの表現

は﹁やり句﹂といって﹁良からぬこと﹂だと清輔は意見を述べて見

たが︑結局︑自作の番の勝負に固執せず﹁我が歌にある番︑それは

とかく申さで︑持にて侍るや﹂と持にしている︒同じく持にした祝

五番の俊恵との番においても︑俊恵の歌にある欠点をいろいろ考え

ているが︑ ﹁かやうにとがむる人も侍らざりしかば︑われとはいか

がと思て︑申いださでやみにき﹂というように︑判者たる自分の番

においては︑特に気を使って自作を勝たせることはしなかったよう

である︒勝にした二番についてみると︑     歳暮左勝      前大進

 行年にことづけやらんいつしかとまつ人ありと人につげなん

    右       俊  恵

 行としにたちかはらんと春がすみいつくに今夜待あかすらん

前大進とは清輔である︒置歌に対し︑ ﹁と﹂字が多いと虐める人も

あったが︑多数は﹁心をかし﹂と支持してくれたので︑﹁人々の御

心なり﹂と多数決にまかせ︑その上︑右歌は﹁らん﹂が重なり︑い

わゆる同心病であるから︑左歌を勝にしたのである︒歌病について は︑御笠髄脳で﹁歌の病を去ること一今にも去るべしと見ゆる

は︑同心の病︑文字病なり﹂と言われて以来漸減の傾向にあり︑清

輔も奥義抄で﹁近所用は歌三十一字︑病は同心病許也云々﹂と述べ

ているので︑同心病つまり﹁らん﹂の重出した俊恵の歌は勝とする

わけにいかかっなたのである︒こういう自作の番の判に対する勝負

に執しない態度は後朝恋五番の判詞に最もよく現われている︒

太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合にのぞむ清輔の態度︵稲田︶

    左勝       清 輔  昔にも今朝の思はまさるかなつらくて人ははつべかりけり     右       俊  恵  明けぬ共帰らぬ物としらすべく我やためしに今朝はならまし に対し︑ ﹁右歌︑あしくも侍らぬを︑人々︑心すべてすこしおか し︒勝とあれば︑いなみ申べきにもあらず︒﹂といって︑凡ての人 々が清輔の歌を勝と認めるので︑ ﹁否み申すべくもあらず﹂と自作 を勝に決定したのである︒  安元元年十月十日の右大臣家歌合は三題で︑判者清輔は右大臣兼 実と番っているが︑     落葉十番左勝        右大臣  愼のやにたえず音なふ木のはこそ時雨ぬよはのしぐれ響けれ     右      清  輔  閨のうへにおりくそ︑ぐ村時雨かはける音や木のは成らん 左歌は﹁心おかしくことば清らか也︒時雨ぬよはのしぐれなりけれ の旬︑さはやか﹂であると判者清輔は賞讃している︒ ﹁ことば清ら か﹂という美意識は太皇太后宮亮平経盛家歌合紅葉二番左︑経盛の  秋霧の絶間に見ゆる紅葉ばやたち残したる錦なるらん に対して︑ ﹁左は実にあることときこゆ︒歌がらも清げなれば︑勝 とすべし︒﹂においても強調され︑平安朝以来の伝統的な美意識の

一つであって︑ただ単に清浄とか清純という清潔さだけではない︒

心敬まで時代が下っても﹁心の艶﹂は清純なる中に﹁艶﹂なる生命

力の息吹きが匂っているのであるから︑一層艶なるものが揺曳して

いる︒それはともかくとして︑清輔など六条藤家の判者は︑俊成な

ど御子病家と比べて︑ ﹁艶﹂なる美よりも﹁清げ﹂︑ ﹁やさし﹂の

美に着目する傾向があるようである︒

(6)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一八号

 清輔の自作に対しては︑彼自身﹁させる難はなし﹂と思っていた

が︑﹁かはける音﹂が合点がいかず︑時雨に濡れた木の葉の音がど

うして聞こえるかと言う人があって︑ ﹁わりなく﹂思った︒そうい

う非難に対してこれをしりぞけ得る証歌を︑故実に精しい清輔は資

通大弐歌合の良勢法師の歌などで挙げ得たのである︒しかし︑左歌

が六条藤家の庶幾する﹁清らか﹂なる歌であったので︑ ﹁演歌こよ

なくて︑右はまけ侍りぬるにこそ﹂と素直に証歌の勝に決定したの

で︑一部の清輔歌非難者と﹁あらがひ論ずる﹂ものではなかったと

思われるのである︒初雪八番と暁恋一番は清輔の勝で︑     初雪八番左        右大臣

 初雪のふれるあしたの旅人はみな白菅の小笠をぞきる     右 勝      清  輔

 おしねかる賎のすがきも白妙にはらひもあへず積る初雪

清輔は﹁左右同様﹂と多分﹁持﹂にと考えていたようであるが︑ ﹁

田は秋こそ刈る物にてあるを︑雪降らん時は如何﹂と言う人があっ

た︒ところが︑前述の平話盛土歌合六番鹿左の旧藩の歌

 草枯の臥処さびしく成ゆけばしかこそ妻も恋しがるらめ

を︑ ﹁左︑草枯に鹿は妻を恋ふるやうにきこゆ︒草枯とは九・十月

をや申すらん︒期たがひてや︒﹂と指摘する程︑ ﹁あるごとくきこ

ゆ﹂⑤ることは清輔判の重要な判定基準であったから︑右歌への非

難はあたらない︒ ﹁おしねといふは遅き稲なれば︑十月に刈る所多 し︒﹂と︑説明しているのであって︑﹁かけあひてこそと申し侍

れ﹂というのは︑非難者と談判するということではなく︑農家に実

際を問ひ正して欲しいと言ったのである︒この番は結局主催者右大

臣の﹁右勝にこそと御気色﹂があったから︑清輔の勝と決ったの

で︑清輔が自作の勝に固執して︑長明無名抄に述べたような﹁あら

はにけしきをあやまりて︑あらがひ論ずしるものではなかったと思

われる︒勝負の決着のつかない時︑主催者の意見が重要な鍵になる

ことは︑摂関家歌合など特にそうであって︑この右大臣家歌合も蹟

文に︑ ﹁大略伺御気色︑所付勝負也︒﹂とあるように︑右大臣兼実

の御気色が各番最後の結着をつけていったようである︒歌合の勝負

の決定は︑相撲︑賭射︑競馬などの武技などのようには︑たとえ員

刺などの勝点計算が行なわれても明瞭ではなく︑特に衆議判などの

場合︑勝負の行衛が明らかでないことも起こるであろう︒暁雲一番     左      右大臣

 うつ︑にも別し鐘のこゑなれば逢と見るよの夢も暴けり     右 勝      清輔朝臣

 独ねの恋のけぶりやほのみ\と明ゆく山の峯のよこ雲

を︑ ﹁右軸は︑まされるさまに︑人々申されしとおぼえはべるは︒

僻事にや︒﹂と記しているが︑例えこの番が他の各番と同様一応の

論議があったにしても清輔の歌が勝であることは一座の認めると

ころであったが︑ ﹁⑥翌日書判詞﹂と翌日言詞を記載する時︑判者

清輔の謙虚な態度が︑また主催者と清輔との番であることについて

の右大臣家への遠慮がこのような書き廻わしになったのであろう︒

 いずれにしても︑判者清輔が自作の番にのぞむ態度は︑自作を優

位におくために﹁あらがい論ずる﹂ようなものではなかったと云え

る︒それでもなお︑顕昭の云ったと伝える﹁人皆その由を心得て︑

更に言ひ出つることも無かりき︒﹂であったと言うことになれば︑

これは何とも答える術は無い︒然し以上清輔判の現存三歌合判詞に

は︑各方人の清輔自作歌に対する難陳が記されていて︑判詞本文は

実際の論議の要点だけの記録であるから︑ ﹁皆その由を心得て更に

言ひ出つることも無﹂いようなことは考えられない︒

(7)

 この清輔判の右大臣家歌合は前記の平経盛家歌合と同様﹁臨期隠

作者合肥﹂という形式は問題もあり︑無名秘抄で﹁大形歌を判ずる

には︑作者をかくすといひながら︑ひとへにしらぬもゆ︑しき大事

也︒又名あらはれたるもはばからはしく︑おもてにまくること多か

りき︒た雲しらぬやうにて︑うち一にいささか心得たるが︑めで

たきなり︒﹂といって判者はその番の判定の事前に﹁うちく︐にい

ささか﹂作者を心得ておく方が望ましいといっている︒この右大臣

家歌合における清輔は﹁翌日書判詞︑其後所動作者也﹂とか︑臨期

隠作者合之最密事也﹂といっているので厳重な作者隠名であり︑従

って自作の番ごとに︑特別に﹁あらがひ論ずる﹂ことはあり得ない

ことと思われる︒

 こういう清輔の行き方は︑平経盛家歌合や実国卿家歌合︑この右

大臣家歌合だけに見られるものではなかったであろう︒前述した右

大臣家歌合践文の最後に︑ ﹁努々不可披露︑若胎後代者︑必可招恥

辱也︒早可破却之︒以前両度会︑又以同前﹂とあるから︑九条家歌

合にあたって判者としての謙虚な態度が知られ︑従って判者の番に

対しても同様の態度で貫かれていたわけである︒右の践文の中で

﹁以前両度会︑又以同前﹂とあるので︑こういう態度は他家主催の

歌合同様︑九条家歌合においても︑この度だけでなく終始貫かれて

いたと言わなければならない︒九条兼実第における歌合は︑玉葉に

よると︑承安三年三月一日に既に始まり︑同年七月にも夫木抄によ

って清輔判で催されているし︑安元元年に入ってからは︑七月三

日︑同二十三日︑閏九月十七日と清輔の判になるものは度々行なわ

れているが︑これらのうち十月十日の右大臣家歌合に最も近い﹁両

度の会﹂をさしているのであろう︒

      ︵昭和43・8・20︶

太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合にのぞむ清輔の態度︵稲田︶

① 内閣文庫本による︒類従本では﹁雁のちぎり﹂︒これは﹁雁の使ひ﹂

 からきたもので︑蘭の契ほどの親交を表わす語ではない﹁たびくの仰

 せ﹂を手紙でうけ︑これを手紙の返事でしたのが﹁雁のちぎり﹂である

 が︑いずれにしてもそのような親しさであったことに変りはない︒

② 元永元年内大臣家歌合について︑昭和39年長大人文紀要第13号拙稿

③ 類従本による

④ ②参照

⑤ 平経道家歌合鹿三番左の判詞

⑥翌日は類従本では習日とあるが︑翌日の誤りと考えられる︒

参照

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