道徳教育における内容項目「家族愛」に関する基礎 的研究
著者 中村 美智太郎, 藤井 基貴
雑誌名 静岡大学教育実践総合センター紀要
巻 25
ページ 11‑20
発行年 2016‑03‑31
出版者 静岡大学教育学部附属教育実践総合センター
URL http://doi.org/10.14945/00009427
静岡大学教育学部附属教育実践総合 セ ンター紀要 No25 p ll〜
20(2016)
〈論文〉
道徳教育における内容項 目『家族愛」に関する基礎的研究
中村 美智太郎中.藤井 基貴料
A Basic Study on a Feeling of Love and Respect for domesticity and members
offamily in Moral EducationMichitaro NAKAMIJRA/Motoki FUЛ I
要 旨
The purposo of thls stu″ le tO examlne the problems of moral educatlon deaLng wlth a feehng of10ve and respect for domestlety and membere Of fan洒山′ in Japan̲ The present MInlstw's Currlcululll g■ ndeLne
shows that a Fe出鱈 oflove and rospect for domesidw and members Of Lュ 町
"has an iり
ortant phce as the prec¨ 直血m to ov"∞me the aloral cゅn]i■ or tO acq―e tho ego・
∞nsclousness and autOnomy in thejunlor‐
hlgh●chOol.However.五 the cases of」 apanooo moml educatlon, a feeLng of love and respect For domestlclty and members of famv'haS nOt been dlscussed actlvely wlth the phiOsOphlcal and●∝おloglcal
studles lt is therefore often o"rlooked that the idea is strongly related tO the tranefomatlon of the tradlthnal form of falll■y to modern one The paper discussed that schOOl teachers should have the
kn0771edge of∞ ncept based on these phllos"hal and hlstoncal ldeas so as to understand the teachlng matemls dOeply attd seek the new approaches toward」 apanese moral educatlonキー ワー ド: 道徳教育 家族 家族 愛 子供 サパル タン 議論 す る道徳
1.はじめに
道徳教育に関する理論 と実践双方には、道徳的諸価 値 をめぐる概念や理論の成果が多かれ少なかれ含まれ ている。その道徳的諸価値の多 くは、西洋か ら輸入 さ れたとい う出自を持ち、かつ近代イヒのプロセスにおい て変容を遂げてきた理論的背景を前提 としている。そ れ らの前提 か ら、今 日における道徳教育のあ り方や
「道徳」について、原理的に問 うことは、常に時代の 要請に応 え続 ける必要がある。教育諸機 関における教 育一般のなかに道徳 に関わる教育が どのように導入 さ れ得 るのかとい う問題 もこうした原理的な問いを問 う ことな しには、論 じることは困難であろ う。 こうした 立場か ら、私たちは道徳教育における道徳的価値の分 析・検討か ら、内容項 目をめぐる諸問題 について、す でに 「寛容」 「崇高」 「長敬の念
J「
自然愛」 とい う 観点か ら考察 してきた1。 本論文ではこれ らの議論 を 受 けなが ら、さらに 「家族愛」の観点か ら、この問題 に取 り組みたい。道徳教育において内容項 目「家族愛」をどのように 理解 し、意味付けることができるだろ うか。 これが本 論文の主要な問いである。本論文では、まず学習指導 要領 にお ける 「家族愛」の位置付けを確認す る
(第
2 節)。
その上で、 「家族」概念のあ りようを原理的に 考察す ること(第
3節)、
さらにそれ を道徳の教育曹静岡大学教育学部/教員養成 。研修高度化推進セ ン ター
・ 彙 静岡大学教育学部
実践で使用 され る資料か ら分析す ること
(第
4節)
を通 じて この問い に追 りなが ら、道徳教育において
「家族愛」を扱 う方法について検討 をカロえる
(第
5 節)。
最後に道徳教育において 「家族愛Jを
扱 う際に 求められ る視点について論 じたい(第
6節)。
2.学習指導要領における「家族魔
J
本節では、学習指導要領 における 「道徳」及び 「家 族愛
Jの
扱いについて概観 してお く。2015年 3月に一部改訂 された「小学校学習指導要 領」では第3章において 「特別の教科 道徹 と位置' 付け られ、その 目標 を 「よ りよく生きるための基盤 と なる道徳性 を養 うため、道徳的諸価値についての理解 を基に、自己を見つめ、物事を多面的・ 多角的に考え、
自己の生き方についての考えを深める学習を通 して、
道徳的な判断力、心情、実践意欲を育てるJと してい る。2015年 7月に出された 『学習指導要領解説 特 別の教科 道徳編」
(以
下、 「解説」)では 「発達の 段階に応 じ、答 えが一つではない道徳的な課題 を一人 一人の児童が 自分 自身の問題 と捉え、向き合 う『 考え る道割 、『 議論する道徳』へ と転換 を図る」 とい う 方針が示 されている通 り、読み物資料の読解に偏るこ とな く、授業を通 して児童生徒の思考力や判断力を育 てる道徳教育へ と重点が多行 していることがわかる。また、内容項 目のま とま りを示す四つの視点である
「主として自分 自身に関すること」 「主として他の人 とのかかわ りに関すること
J「
主 として集団や社会 と のかかわ りに関することJ「
主 として 自然や崇高なも中村美智太郎・藤井基貴
の とのかかわ りに関すること」については、二点の変 更が加 えられた。ひ とつは、1・ 2・ 3・ 4と 順序づ けられていたこれ ら4つが、A・ B・ C・
Dと
い うア ルファベ ッ ト表記に変更 されたこと、も うひ とつは、集団・社会に関す ることが自然・崇高に関す ることの 前に置かれ、順序が変更 されたことである。
本論文が取 りあげる「家族愛」については、「家族 愛、家庭生活の充実」 と小見出 しが付 され、第1学年 及び第2学年では「父母、祖父母 を敬愛 し、進んで家 の手伝いな どを して、家族の役に立つ こと」、第3学 年及び第4学年では「父母、社父母を敬愛 し、家族み んなで協力 し合つて楽 しい家庭 をつ くること
J、
第5 学年及び第6学年では 「父母、祖父母を敬愛 し、進ん で役に立つ ことをすること」 と学年ごとの発達が強調 されている。改訂前 との相違は、第1学年及び第2学 年にみ られ る。改訂前は 「父母、祖交母を敬愛 し、進 んで家の手伝いなどをして、家族の役に立つ喜びを知る」とされてお り、改訂後は「喜びを知る」箇所が削 除されている。中学校学習指導要領においては、「父 母、祖父母を敬愛し、家族の一員としての自覚をもつ て充実した家庭生活を築くこと」と、末尾に「こと」
が付されたこと以外には変更点はない。ただし「家族 愛、家庭生活の充実」という小見出しの変更が付され ている。 「解説」によれば、「父母、祖父母を敬愛 し」とは
,「尊敬」「愛情」を持って接することを意 味している
2。「解説」では 「家族」は 「親子及び兄 弟姉妹とい う関係により下般的に成 り立ち、その一人
一人 が、誰 か と取 り替 えることができないかけがえのない価値を有する存在でぁる」とされ、子供は「かけ がえのない子供として深い愛情をもって育てられてい ることに気付かせること Jが 重要であるとされている
S。
この気付きを通 じて、 「自分の成長を願い無私の 愛情をもつて育ててくれた父母や祖父母」に「敬愛」
を深めることで、家族のなかでの「役割」や 「責任 J
を果たすことを通 じて「家族の一員であることの自党 が高まっていく」という図式が描かれながらも、家庭 が「人間関係の緊密さなどを発端として生じるいさか いや トラブル」によつて「子供がゆがめられる危険性 が潜む場所
Jでもあることに注意が促されている。
中学校の段階においては、 「自我意識」が強まり、
「自律への意欲 Jが 高まるために、「自分を支えてく れる父母や祖父母の言動や しつけに反抗的になりが ち」である
4。ところが、「かつてのような大家族の 人間関係の中でしつけられ、喜怒哀楽を共にし、生活 の苦労を分かち合いながら、人間関係の機徴 を学んだ り、家族の連帯を自覚したりする機会」が減少してい るので、この教科としての道徳においては「敬愛 Jを 深めるように指導し、「家族のそれぞれの立場になっ て考えられるよう」に、「多面的・多角
nt」に捉えるこ とができる」ことを実現できるように指導すべきこと
が強調 されている。そ して、 『家族の一員 としての 自 単をもつて積極的に協力 してい くこと」を 「自分の課 題」であることに気付かせるよ うに留意すべきである とされる。 こ うした指導においては、 「多様な家族構 成や家庭状況があることを踏まえ、一人一人の生徒の 実態を把握 し十分な配慮
Jを
忘れないことが教員 には 求められ るとしている。以上のように、改訂された学習指導要領においては、
4ヽ 学校でも中学校でも、「家族愛」を道徳 という教科 において扱 う際に重要なのは「敬愛」であるとされて いるが、特に中学校においては自立心 。自律への意歓 からくる家族に対する反抗的な意識の芽生えを前提に する必要があることが強調されている。これらの指導 には教員の側に多様性への配慮が求められることも指 摘されている。
こうした、学習指導要領で示される「家族愛」が前 提とする「家族」とは原理的にどのように提えること ができるだろうか。また、「家族」 「家族愛」にはど のような概念史的背景があるのだろうか。次節では、
これらの問題に言及 しながら、その内容と特徴を示 し てみたい。
3.口洋における「抽 中 概念の歴史
3‑1.近代家族の形成
「家族」の近代以降の意味合いは、およそ 「同一世 帯に同居 し相互に血縁関係にある人々を中心に形成 さ れる親族集団」を意栄すると考 えられ るが、そ もそ も
rfallily」
の語源 と目されるラテ ン語 「fanilia」
は「ある一人の主人に帰属する使用人ない し奴隷」を強 く合意 している6。 これがフランス語 「
fa■ lille」
に受 け継 がれ、 さらに ドイツ語 「Fanilie」
へ と展開 して いったが、ドィッにおいて一般的な用語として浸透し たのは 18世紀になつてからのことであつたという説 が二般的である。
:
近代以前にラテ ン語
ffanilia」
で表現 されていた のは、 「主人に支配 され服従す る者」である。彼 らは 主人 とは異な り、完全な人格 を持たず、従 つて法的な 権利 を主体的に行使す ることはない。 「fanili3」
は 奴隷だけでな く、主人の妻や子 をも含む概念であつた。このよ うな 「
familia」
概念 は、近代 に至 って もな お 「家族」概念 を射 程の範囲内にお さめてい る。E.ショーターは、 こ うした家族がいかに して形成 された かについ て考察 した。シ ョー ター によれ ば
(16。
17 世紀までの伝統的農村共同体においては、共同体の監 視が配偶者の選択に関与 していたために、一般的には それが個人の選択の結果ではなかつたとい う。 か りに 相対的に自由に配偶者 を選択す ることが可能であった としても、それは働 き者である力ゞどうか とい う観点(
いわば 「生活の有用性」を基準 として決定 され、 ここ に「ロマンス」が介在する余地はな く、従つて結婚生
道徳教育における内容項 目「家族愛」に関する基礎的研究
活 もまた、夫に対す る妻 の服従 とい う特徴 を持 ち、
「愛」の要素は少なくとも前面には出てこない。この 場合 の 「ロマ ンス
Jと
は、 「具性への愛」 「愛情」「ロマ ンティック・ ラヴ」のことを指 し、これ らは後 になつて
r家
族への配慮や実利的な考え」にとつて代 わるにせ よ、伝統的な共同体の範囲内では、いまだ大 きな影響力 を持つ に至 つてはいない°。 シ ョー ターは、実利 中心のものか ら感情中心のものへの移行、すなわ ち男女関係の 「ロマ ンス」への移行にういて、ふたつ の特徴があると分析 している。ひ とつは 「若者が、幾 世代 も受け継がれてきたものへの忠誠 と共同体への責 任 を重視す る価値体系を捨て、個人の幸福 と自己成長 を重視する価値体系をもつに至ったこと」であ り、も うひ とつは「男女の求愛行為をあやつっていた伝統社 会の糸が切れ、互いに求めあ う男女に対す る社会的規 制がな くなつたこと」である。そ して、この男女関係 における変化は 「家族史 とい う長大な物語の一つの要 素であると同時に一つの画期点」であるとシ ヨー ター は主張する。すなわち、男女の関係が 「ロマンス」の 価値体系に基づいて営まれ ることによって、 「家族の 領域に愛が侵入す ることによつて、家族内部にも変化 が起 こる」 ことになるのである7。
宮坂靖子は、ア リエス・ ス トーン・ シ ョーター・ フ ラン ドランの4人による感情に着 目した家族論におけ る議論 を包括的に整理 しなが ら、こうしたシヨーター の近代家族論 について 「近代家族化の要因 としての夫 婦関係 の強調」が顕著であると指摘 し、恋愛結婚の誕 生 と夫婦の性愛 に着 日している
8。
宮坂の見立てによ れば、シ ョーターが描写 している「家族の近代化のプ ロセスで重要なのは『 性革命』J、
すなわち前近代に おける 「手段的セ クシュア リティ」か ら 18世紀にお ける 「情緒的セクシュア リティJへ
の変化である。 こ の見立てに従い、宮坂はシ ョー ターの近代家族論 を'セ
クシュア リテ ィ論」 と読み替えている。
た しかに富坂のこの見立てはシ ョーターの描 く新 し い家族像 を的確 に分析す るものである。だが他方で、
シ ョー ターの議論 において、 この家族像 に起 こった
「変化」は「実利」にも基づいていた とみな している ことも見逃 してはな らない。 「実利Jとは、家族の外 部のある種の共同体である。シ ョーターは、そ もそも 伝統的な共同体において家族が 「一つの情緒単位 とし て確立す るのはきわめて困難だつたJと し、「家族の 構成員はたえず多様な仲間集団のもとに出は らってい た」 と指摘 してい る。。 この 「仲間集団
Jは
、そのメ ンパーに「多大な時間 と忠誠を要求 し」、この要求は「伝統社会の家族がプライヴァシーと団結意識をもと うとしても、その努力 を封 して しま うほど強大なもの だつたJとシ ョーターは考えている。シ ョーターの分 析 の根拠 は主にフランスにおける事例だが、例 えば
「コンフレリ」や 「ゲェ」 といつた集団組織が挙げ ら
れ てい る。 いずれ も中世末期 に発達 した ものだが、
「コンフレリ」は 「村の守護聖人を祭 る礼拝堂の維持 や、その他公共のための宗教的活動 を務 めとす る青年 の宗教団体
Jで
あ り、 「ゲェ」は「軍隊組織にな らつ て、隊長、縦列行進、団旗、一斉射撃 といつた要素を そなえJた
『自警団」である。これ らは後に融合 して ひ とつの組織 になってい くが、 これ らの若者組織 は「夫婦家族にとつて、息子たちを家族か ら引き離す強 力なライ ヴァル」だった と考 えることができるЮ。 こ うした集団は、例 えば男女の関係や結婚の成立を適当 と認 めることができるほど、家族 よりも優勢で影響カ を持 っていた とい う。そ して結婚後も、例 えば居酒屋 などで引き続きこの集団は維持 され、 「豊かな文化的 世界」 を展開す ることになったが
u、
このことは、出 生 。結婚・ 死 といった人生の大きな出来事について、家族 よりも伝統的な共同体の持つ影響力の強 さをよく 示 している。
シ ョー ターは、 「ロマンス」 と「仲問集団」の双方 を重要な要素 として扱いつつ、伝統的な共同体におけ る夫婦のあ りよ うを、 「表情豊かに振 る舞い、抱擁 し あい、見つめ合 つて互いの心を確かめる」 といつた現 代のあ りようと比較 して 「人び とは通常愛情ではな く 財産や リネージのために結婚 したこと、夫婦が互いを 思いや つた り顔 をつきあわす機会を最小限に抑 え、ま ず生活を支えてい くためにこの冷淡な家族関係 をむ し ろ大事に した こと、そ して、仕事の分担や性役割 を厳 格 に して、感情 をで きるだ けもたない よ うに した こ と」 と特徴付 けてい る
2。
すでに指摘 した よ うに、 こ のことは「夫婦」だけではなく「家族Jの形態につい ても同様に当てはまる。では、伝統的な夫婦・ 家族 と、近代的な夫婦・ 家族 を分別するものは何か。シ ョー タ ー は こ の 分 別 す る も の こ そ を 「 家 族 愛 」
(domesticlty)と みな している
1ち
シ ョー ターは、 「家族愛
Jを
「家族は外部か らの侵 入 に対 して、プライ ヴァシー と自立によって守 られ る べ き貴重な情緒単位であるとい う意識Jと規定 してい るM。
この 「意識Jは、 「ロマ ンテ ィ ック・ ラヴ」「母性愛」 と並んで、近代における3つ日の「感情革 命」を構成するものであるとシ ョーターは位置付 けた。
「ロマンティック・ ラヴ」によって、男女は性関係 に 対す る共同体の監視から解放 され、 「母性愛」によっ て、女性 は共同体の関わ りか ら解放 され、 「近代家族 に くつ ろぎを与える安息所」を与えられた。そ して、
「家族愛」は家族を伝統的共同体の相互関係か ら切 り 離 し、家族の外部に位置づけられ る仲問集団より強い
「一体感
Jを
家族の構成員の間で持つ ことを可能に し た。 この 「一体感Jに
よって近代家族は「核家族」 と しての性質を強めていき、このことと平行的に、家族 において 「規族集団」の持つ重要性が高まつた11
以上のように、シ ョーターによる家族像の分析 にお
13
中村美智太郎
藤井基貴
いては、 「
falnilia」
概念が示す よ うな 「従属J「
服 従」 といつた原理が含意 され、残 されていることが分 かる。 とりわけ伝統的な共同体時代における家族は、その伝統的な共同体それ 自体 とその外部に位置付けら れる 「仲間集団
Jに
「従属」「服従」 しながら、 「ロ マンテ ィ ック・ ラヴ」 と「家族愛」といつた「感情革 命Jによつてそこか ら解放 されることで、近代家族ヘ と変貌 を遂げることになる。近代家族の誕生は実利 に 根 ざした'社会圏」か ら「感情」に根 ざした内向きの
「親密圏」への変容 とともにあったのである。
3…
2.「子供」の誕生 と家族愛シ ョーターが描き出 したように、近代家族は伝統的 な共同体か らの解放によつて形成 された。そのことは 同時に 「子供」人のまなざしの変化 をもた らす もので あつた。 ア リエスによると、中世までの芸術作品にお いて子供は「小 さな大人」 として描かれているが、近 代、 とりわけ 17世紀になると大人 とは区別 した描写 が出現 して くる16。 この時代 より「子供だけが単独 に 描かれ る肖像画の数が増大 しあ りふれたもの」 とな り、
r子
供 の肖像画 よりもずつと古い歴史を持つ家族の肖 像画が子供 を中心に した構 図をとる傾向を見せ る」時 代でもあつたV。
また、 「服装の うえで大人か ら子供 を区別す るものはなにもなかつたJが
、17世紀 には「貴族であれブルジョフであれ、少な くとも上流階級 の子供は、大人 と同 じ服装はさせ られていない」よ う にな り、 「子供の時期に特有の服装があ らわれ」た と い うЮ。 これ らの分析か ら、子供 と大人の区別が生 じ る分水嶺 となるのは
17世
紀であつた とみな される。また、 「遊び」についての意識 にも変化がみ られる ようになる。伝統的な共同体では、「厳格 な規律を重 視するJ一部の人び とは「遊び」を不道徳なもの とみ な したが、「遊びは社会の大部分の人び とか らなんの 留保 も蔑視 も受 けることな く、完全 に認 め られてい た」19。 つ ま り「圧倒的多数派の道徳的無関心 と、教 育による教化を推進 しよ うとす るエ リー トの不寛容」
とが共存 していたわけである。 この共存のなかにおい て、近代以前の共同体では 「遊び」は大人 と子供に共 有 されていたが、近代においては性質を変える。すな わち、 「人文主義の教育者、啓蒙期の医師、初期の国 民主義者たちの影響」を受けなが ら「道徳的に問題の み られた遊び」は 「軍事訓練」 「体育クラブ
J等
へ と「進化」 していつた電 この 「進化」 と並行 して 「社 会全体に共通であつた諾々の遊びJは「年齢や身分ご
とに分イヒ
Jし
ていくことになる21。さらに、書物について も同様の事態が起 こつた。17 世紀になるにつれて、 「大人の書物 とは区別 され る、
子供向けの教育的な文献が出現」 した。 この背景には、
子供についての新 しい、 しかも二重の道徳的な風土の 成立があるとされる。つま り、「生活の機れか ら、こ
とに大人においては黙認 され るか、さもなければ許容 された性的なことか ら子供の無垢を保護することJと
「性格と理性を発達 させながらそれを強化すること」
である。一見すると、この二重の道徳性は、一方では 子供期 を維持す る方向性、他方ではその子供期を衰退 させようとする方向性というふたつの異なる方向を向 いているようにみえるが、17世 紀においては無垢と 理性 とは互いに対立するものではなかった22。 このよ うに書物においても、大人 と子供の分化が表象 された と理解できる。
子供期の成立はまた、学校制度の成立にも大きく影 響を受けた。ア リエスによれば、近代までは大人にな るための訓
1練
を施 し知識を与えるのは家族や学校にあ るとはみなされなかった。そのため民衆階級の子供は 乳幼児期を終えると修行や奉公に出た。 もちろんこの 時代においても学校は存在 したが、ア リエスはこの学 校の特徴 を「段階化 されたプログラムの欠如」 「難易 性の異なる学問の同時教育」 「年齢の無視 と学生の放 任」 と分析 している亀 これ らの特徴が示 しているの は、「学校に入 つたその時か ら、子供は直ちに大人の 世界に入 る」 とい う事態である電 しか し、14世紀頃 の学寮のシステムにおいて年齢別の区分が導入 され る ようになった こと等を通 じて、個別の教師を有する学 級が徐々に成立 していき、個別化 された教室を有する よ うになっていった。 こうした学校の制度化の進展に よって、シ ョ‐ ターの指摘 していたよ うな家族の外部 に属す る集団 と非常によく似た形態をとつた学生団体 も成立 していったが、この学生団体への反発を主な要 因 として、学校の 「規律化」 もまた進展 した"。
この規律化においては、学校においてはいかなる身 分・ 年齢 においても共通の規律が適用 され ることで、
幼年期が引き延 ぼされて青年期 と同 じカテゴリーに入 ることとなる電 学校制度 に基づ く子供への新 しい意 識の成立は、家族による意識 と深い関係がある。例え ば近藤弘は、ア リエスの 「子供」の 「誕生」の議論の テーマは、 「可愛が り」「甘やか し」等が 「幼児期
J
と深 く結びつ く点か らも一つの家族論 となつていると 指摘する27。 た しかにア リエスは、中世的家族・17世 紀的家族 。近代的家族のよ うに家族が変容 しているこ
とと深 く結びつけながら、子供 を提えた
2%
ただ し、シ ョーターが指摘 していたの と同様 に、
17
世紀的家族においては、社交が重要な比重を占めてお り、 「家族が存在 している所Jは「社交関係の中枢」「家長が命令を下す複雑で階層的な小社会の首都」で あつた。近代家族になると、これ とは対照的に、世間 から切 り離 され、「孤立 した親子か らなる集団」 とい う性質を獲得 し、む しろ社会 と対峙することになる。
この近代家族は「集合的な野心」ではな く、 「子供た ちそれぞれの向上」を中心に営まれ る。そ して、これ らの変容は、貴族・ ブル ジ ョフ・ 富裕な職人・ 富裕 な
道徳教育における内容項 目「家族愛」に関する基礎的研究
勤労者に限定 されてお り、人 日の大部分 を占めた貧 し い層においては中世的家族が維持 され、子供が親元に 留 まることはほ とん どなか つた。民衆においては、
「自宅」意識や 「家庭」意識は存在 しなかつたが、近 代的家族の範囲は社会の発展 とともに徐々に拡大 して い くこととなった。ア リエスは、こうした図式を提示 することを通 じて、家族愛 を含む家族の感情は 「多様 性 にたいす る同一の不寛容 さの表明」お よび 「画一性 への同一の配慮の表明Jと して出現す るもの と結論付 けている亀
以上のよ うなア リエスの指摘 は、 「家族」 「家族 愛」 とい う現象の本質的な様相 について示唆す るもの である。近代以前において乳幼児期を脱すると大人に なるとみな された 「小 さな大人」は、17世紀以後に
「学校」 と「家族」のふたつの生成・誕生を主な契機 として「子供Jとみなされ、 さらに家族意識 の変容 と ともに、「家族」 「家族愛」の 「不寛容」 「画一性」
の範囲の うちで成立 しているとい うことが明 らか とな つた。道徳教育における 「家族」 「家族愛」 とい う内 容項 目も、こ うした合意を前提 としていることが示唆
され る。
次節ではここまでの議論を踏まえて、わが国におけ る道徳教育の文脈のなかで 「家族」 「家族愛」の問題 について考察をすすめる。
4.道徳教育における「家族愛」 の機われ方
前節までにおいて、 「家族」 「家族愛」の根本的な 理解 を得 よ うと試み、これ らに基づいて西洋における
「家族」 「家族愛」概念の外延 と内包を概略的に明 ら かに しつつ
"、
とりわけ家族及び家族愛につきま とう「従属性」の問題 を取 り扱つてきた。
本節では、 ここまでに明らかになったことをもとに、
道徳教育における内容項 目「家族愛」について道徳教 育の数材を利用 して、具体的に分析することを試みる。
前節までの「家族愛」概念の理解 をぶまえ、静岡県の 中学校道徳副読本『 心ゆたかに』
(発
行 :静 岡教育出 版会)を
検討す ることで、 「家族愛」の内容項 目のあ り方について考察す る。 こうした目1読
本には、 どの学 年において も内容項 目「家族愛Jに関連す る「読み物 資料」が一篇 ない し=篇
が収録 されている。 中学校1
年生向けにま とめられた本教材では「ビデオテープ」とい う読み物資料のみが 「家族愛」を取 り扱 つている。
中学校2年生向けには「頑張るぞ俺たち家族
!」
「母 の指」の二篇が、中学校3年
生向けには 「宮崎の空に 向かつて」の一篇が収録 されているが、本節では中学 生に とつての 「家族愛」概念の導入 となるべき本教材「ビデオテープ」に焦点をあてて、特に本教材を道徳 の時間に実践す る際の可能性 と今 日的な問題点を浮か び上がらせ ることを念頭に、考察する。
4‑■.薔み働資料 『ビデオテープJ極観
同資料は、 「わた しの主張
'98」
と題 された当時の ある中学生の作文を出典 とする読み物資料である。以 下、内容を概観 しておく3t
「ビデオテープ」 と題 された本資料は、 「うるさい なあ」 とい う「親」 に向け られ る言葉 か ら始 ま り、
「中学生」とい う時期が 「反抗期」に当たるのだとい う自党が語 り手か ら語 られ る。 ところが、 「親
Jに
対 す る「反発」を普段感 じている語 り手は、最近 「衝撃 的な出来事」 を経験する。すなわち、 「家庭科の保育 についての授業」で出された 「自分の6歳までの成長 を記録 したレポー トを作成する」 とい う課題 に取 り組 んだ際に、 「たんすの奥で眠つている母子手帳やアル バム」を利用 し、「前までは母子手帳やアルバムを見 て もただ懐か しむだけだった」が、 『戸棚の奥のその また奥に」眠つていた 「1番
古い ビデオテープ」を再 生 した今回は 「私の思つていた以上に温かかった父や 母の愛情で私の胸の中は、今にもあふれそ うな くらい いつぱいにな」 つたのである。 この 「30分
程度のタイムス リップ
Jに
よって、語 り手は 「小 さかった頃、父や母は どんな思いで私を抱いた り、あや した りした んだろ う」 とい う疑間を解決するだけでな く、 「親」
の「意見 して くる」 とい う態度 を 「わが子を幸せな方 向に導いてあげたい とい う親の願いの表れ」 として捉 え直す ようになる。そして、 「反抗期の時期」に 「親 ばか りが苦心 して子供の心を理解 しよ うとす る」だけ でなく、「子供の方 も何 らかの形で親の心を理解 しよ うと努力 しなければならないとい うこと」に気づ くよ うにな り、語 り手が 「親」になつた ら、「子供にもこ んな温かい思いをさせてあげよう、いや絶対 させてあ げるんだ」 と決意する。
お よそ以上の よ うな内容 が示 され る 「ビデオテー プ」 とい う読み物資料は、中学
1年
生の持つ反抗期 を 軸 としながら、それ をいかにして生徒 自身が乗 り越 え てい くか とい う問題 を主題化 していると言える。4‑2.静み物資料 『ビデオテープ」の可鮨性 と課題 さて、′次に「ビデオテープ」 とぃ う教材を、道徳教 育 として道徳の時間に実践す る場合の可能性及び課題 について考察す る。その際に特に 「道徳の教科化」を 控 えて、本教材 を実際に授業のなかで 「家族愛」 とい う価値項 目を取 り扱 う意味や留意すべき点等について 検討 を加 えたい。
本論第?節において確認 したよ うに、改訂 された学 習指導要領において、小学校 と同様に中学校の場合で も 「家族愛」 を道徳 とい う教科 において重要なのは
「敬愛」であるとされていた。 とりわけ中学校におい ては 「自立心」・ 「自律への意欲」か らくる、家族に 対す る「反抗的」な意識の芽生えを前提にす る必要が あることが強調 されていた。 「うるさいなあ」 とい う
15
中村美智太郎・藤井基貴
家族 に向けられた言葉か ら始 ま り、 ビデオテープ とい う古いメデ ィアに触れることを通 じて、家族 の愛情に 改めて気付 くとい う、この「ビデオテープ」 とい う教 材の持つ構造 もまた、当然 この学習指導要領の要点か ら外れることはない。ただ し、 「家族」像の描写は限 定的であ り、現代における多様な家族愛のあ り方 と対 立する要素が残 されてい る。本節冒頭において指摘 し たよ うに、中学
1年
生が 「家族愛」について道徳教育 の文脈で考える機会は、読み物資料 としては本教材に 限定 されているために、家族及び家族愛の多様性 をど のよ うに取 り扱 うかについては、授業実施者である教 員に完全に任 されている。 この点においては、教員の 力量に依存す る構造になつているために、家族及び家 族愛のもつ多様性 に朴 して教員は自党的になる必要が ある。 この点にこの教材の持つ難易度の高 さがあると 言える。教員にとつては、生徒各 自の家庭乗痛に対する適切 な把握 とそれに基づ く道徳教育を推進す るとい う明確 な自党が求め られていると言える。教員養成・研修の 機会においては
(前
節までに考察 してきた近代家族の 成立の歴史に 目を向けるな ど、家族及び家族愛のもつ`多様性や変遷可能性 についての知の構築が求め られて いるとも言える。
例 えば、教員養成段階における学生は、本教材につ いて どのように考 えてい るの力、 筆者 らが 2015年に 教員養成課程 に在籍す る学生を対象にした開き取 り爾 査の結果では、次のような回答がみ られた。
・ あつか うのが難 しい資料だ。
・ いろんな人に支えられてきた ことに感謝できる。
・ 親が 自分の ことを思つていつて言つて くれているこ ともわかつているのが反抗期だ。
・反抗期は親だけではなく、親戚やあらゆる大人に対 してあるのではないか。
・親の気持ちを理解す るだけだ と、愛をむけていると はいえない。
これ らの回答は、教員養成課程の学生にとうて、 「家 族愛」の授業を道徳教育に位置付けて実施することに 対 してある種の困難 さを感 じていることを示 している
:
本論で考察 してきた家族像の変遷か らも示 されるよ う に、よ り中学生に近い世代に属する学生にとつては、家族像や家族愛像が一様 ではないことは自明であ りな が ら、だか らこそ教員の立場で価値項 目としてそれ を
「指導する」場合 には、そ うした多様性 を乗 り越えた 形での授業を実践す ることに戸惑い と難 しさを感 じて いることが示唆 され る。
そ うした多様性についての認識は、例えば次のよう な回答か らも示 されてい る。
。こんな風にアルバムが しっか りある家ばか りではな い。
・ 家族愛だけにすると,家族愛を受けていない人 もい るのでないか。
・ 親がいない子や何か家族に問題ある子 どもはクラス に少なか らずいるので傷つ くのではないか。かな り配 慮が必要だ。
・ 自分の家は自分を大事にしてくれていたか ら当時の 自分だ とそ うではない家のことが想像できない。
・ 親 も心配だけではなく、親の不安定 さも要因の場合 があるか ら、そ うい う場合はこのように受け取れ ない。
殴 られた りしていた ら好意に思えない。
多様性 を認 めることそれ 自体は、ポジティヴなことで もあ り得 ると思われ るが、これ らの回答か らは、家族 や家族愛の多様性が必ず しもポジテ ィヴとはいえない 観点か ら捉 えられていることが分かる。 さら
,に
、同様 に教員養成課程の学生に対 して、「授業で使用す る際 にどのよ うな点に気を付 けるか」 と問 うた ところ、次 のよ うな視点への気付きがみ られた。【片親家庭などへの配慮】
・本教材の両親は、アルバムや ビデオな ど子育てに積 極的であるが、誰 しもがこのよ うな両親 を持つわけで はないので、アルバムな どにとらわれず、育てて くれ た人 との思い出など広い範囲から振 り返 る。
【ビデオについての認識】
・ 今の生徒たちは(もしか した らビデオを知 らないか もしれ ないので、一言説明を入れ る、
【自己体験か ら振 り返る】
。本教材のように、うるさいなぁと親に言つてしま う ことは多 くの生徒が体験 していると思 うので、自分の 行動 を振 り返つて考 えさせ るようにす る。
ここで指摘 されたことは、本教材で提示 されている家 族愛のイメージが価値の項 目として提示 されてい ると い う性質に由来 している可能性がある。言い換 えれば、
ひ とつの定まつたス トー リ‐を持つ とい う読み物教 材 自体の抱えやすい課題 ともいえる。学習指導要領 にお いて強調 されつつあるように 「道徳的な判断力」 を涵 養するのであれば、読み物毅材とい う資料 とは別 の教 材 あるいは 「展開後段」を活用 して話 し合い活動に主 眼を置いた授業展開を準備することも模索 されて よい。
これ らの指摘はまた、「家族」 「家族愛」を道徳教 育で扱 う際に、「愛」に対置 され る 「従属性
Jの
問題、さらには「従属」する者の「声」をどのよ うに扱 うか とい う問題が存在することを示唆 してい る。そこで次 項では、この問題について検討を加 えたい。
4‑3.サパルタン的主体 と「家族曖」の問題
道徳教育における内容項 目「家族愛」に関する基礎的研究
前節までの考察か ら、シ ョーターが描 き出 した伝統 的家族か ら近代家族への転換 とい う図式 にしても、ア リエスが描 き出 した子供の誕生の図式に しても、語源 としての 「
fatlilia」
概念 に含 まれ る 「従属性Jを
基 盤 としていることが明 らかになった。 シ ョー ターの図 式においては近代家族の形成は、家族愛 を契機のひ と つに して伝統的な共同体への「従属」か ら脱 してい く プロセス とともに成 り立っていた。 また、ア リエスの 図式において も、子供は学校における教育を契機のひ とつに して労働する大人集団への 「従属」か ら脱 して 自律性 を獲得 していつた。 こうした「従属」か らの解 放の物語 として描かれる 「愛」の世界において 「従属 性」 もまた対概念 となつて現れ るj
「従属性」については、ポス トコロニアルの批評家 として知 られ る
C C
ス ピヴァクが 「サバル タン」概念 を提起 して原理的に検討 してい る。 「サバル タ ン」 とは、英語の 「
subaltern」
に由来す る概念であ る。 この単語は、形容詞では 「下位の」を意味 し、名 詞では 「従属的状況に置かれた者たち」を意味す るも のだが、 もともとイギ リスでは軍隊の用語 として大尉 より下の士官 を指す表現だつた覧 これが後 にヘゲモ ニーを握る権力構造から疎外 された人々のことを指 し 示す術語 として、サパル タン・ スタディーズ・ グルー プの研究な どによつて広 く用い られ るよ うになった と い う経緯がある。 この「サバル タン研究」から20年 の経過 を経た時点で崎山政級は、サパル タン概念 につ いて、それが 「あくまで関係 のなかで生きるものだ と い うことをお さえておかなければならない」 と指摘 し た上で、 「l●
民地主義が不可避的に組み込まれた支配 がつ くりあげ再生産す る社会的諸関係 において、『 従 属的・副次的』であり『 下層』であることを刻印され た人び とJのことを指す と述べている33。さて、サパルタン問題 について、スピヴァクは次の よ うに問いかけている。
「そ こでわた したちとしては以下の問いに立ち向か わなければな らない。社会化 された資本か ら遠 く離 れた ところにある労働の国際的分業のもう一方の側 では、はた して、初期の経済的テ クス トを代補す る 帝国主義的な法律 と教育が発動す る認識の暴力の圏 域の内側お よび外側 にあって、サバル タンは語 るこ とができるのか、という問いがそれである。」
34
この問いの背景には、フー コー と ドゥルーズに対す る 批判がある 。ス ピヴァクによれば、フー コー と ドゥ ルーズは、 「認識の暴力 によつて隠 された圏域 の縁
(…
)に位置す る者たち」、例 えば読み書 きのできな い農民たちや部族民、都市のサブプロレタリアー トの 最下層に属す る男女 といつた者たちは、被抑圧者たちであ り、機会 さえ与えられれば、 自らの置かれた状態 を語 り、そ して知ることができると主張 している。 し か し、スピヴァクにとっては、そ もそもサパルタンは 語 ることが可能 なのか とい うことが問題である。つま り、 ここでス ピヴァクが問 うているのは、知識人は抑 圧 された人々が 自らを語ることを称揚するが、実はそ れは暴力的な振 る舞いであるばか りか、知識人が抑圧 された人々に成 り代わって語っていることにな りは し ないか とい う問題 である≒ ス ピヴアクに とつて、サ バル タンは、単に読み書 きができれば 「知 ること」
「語ること」ができるわけではないとい うことである。
知識人の課題はサパル タンの 「意識の発展過程 を書 き直す こと」 にあることである。 この知識人の課題は いわば 「目に見えないことを 目に見えるよ うにす るこ と」であるが、この課題の厄介な点は、この課題はす ぐに 「個人を声をもつた存在 にす ること」へ とたやす くスライ ドして しま う点にあるとスピヴァクは指摘す る
37。
知識人が、 こ うした 「異種混交的なあ りよ うを している他者」 としてのサバル タンを、 自己の場所の みへ と引き合 わせ ることで 「同質的な他者Jを
「構築」 しようとして も、そ うしたサパルタンの意識 を捉 えることはできない と言 う。サパルタンと向き合 う者
は、彼
/彼女らを「代表する」ことではなく、「わた
したち自身を表象する方法を学ぶ」必要がある乳 道徳教育を「家族」「家族愛」を扱 う際に難 しいの は、こうした 「サバ 71/タ ン
Jである「子供」の可能性 をどのように考慮すればよいのかとい う点でもある。
フーコー
/ドゥルーズの立場のように、教師が「家 族 J「 家族愛」の価値を伝達 し、子供をそれらの価値 を知る者 とみなすことによって、「サバルタン」 とし ての子供の声はむしろ陰に隠れてしまう。多様化の進 む社会において 「家族」や「家族愛」を道徳教育で扱 う場合には、 「サパルタン」としての子供に目を向け る必要がある。
このように、 「家族愛」 とい う問題を考察する際に 前提 とされるべき 「従属性」は、スピヴァクの考察を 導入すると、 「サパルタン」の文脈が強 く関与す る。
そ して 「サバル タン
Jの
視点に立つ と、家族の語源 と しての 「fanilla」
が示唆す るよ うに、家族愛 を共有 する構成員が重層的に 「従属」の状態に置かれていることが浮かび上がって くる。
スピヴァクが論 じるこの従属の多重性は、ショータ ーやア リエスが描 くように、近代における家族 と家族 愛の諸相が、伝統的な家族か ら転換するとい う図式の なかである種の 自律性を獲得 してい くとい う分析を背 後か ら補完 している。すなわち、伝統的家族か ら近代 家族への転換の背後において、重層的に隠薇 され続 け る従属性が存在 してぃるとい うことが示唆 されるので ある。ス ピヴァクの議論においてとりわけ注 目すべき は、シ ョーターやア リエスが優れて描出す る近代家族
″
中村美智太郎
藤井基貴
のイメージの後景には
t示
唆 されはす るものあ言及 さ れ ることのない者、そもそも自ら語 ることのできない 者 が数多 く隠薇 され得 るとい う点である。家族 を提え る際に、また家族愛を捉える際に、この点は看過すべ きではない と言 えるだろう。5.家族愛を 鴨 綸す る道徊 とい う方向性
「家族愛」を価値 として伝達す る方法 に対 して、
「家族愛」を扱 う方法 としては
:例
えば谷和樹の提案す るモラルジ レンマに基づ く方法がある。 この授業で は、 「お年玉が貯まつたので前か ら欲 しかつたゲーム
ソフ トを買お うとしたら親から『貯金しなさい』と言 われた」といつたテーマを立てて、 rQ l 自分がも らつたお金だから買 う」 「
Q2親の言 うことは聞か なくてはいけないから貯金する」という二つの選択肢 を用意 して、子供の議論を喚起することで討論授業を
実施することを提案していぅ"。
このメソッドは、道 徳のジレンマに関わる作文を子供が書きながら、討論 を深め、それ を通 じて道徳的な判断力を養 つてい くと い う構造を持 つている。作文の書きにくい子供のため にある程度の模範解答を教員が準備す ることも想定 さ れてお り、子供の道徳的段階に応 じて、道徳的な判断 力 を養成することが可能な仕組みになつている。谷のメソッ ドにおいては、必ず しも「家族愛」のよ うな道徳教育の価値項 目が前面に登場す るわけではな いが、討論のプロセスにおいて子供 から「家族を敬愛 す る気持 ち」が導出され得るよ うに構成 されている。
また、構造上、子供一人一人が考 えを書 くことができ るために、教員に対 して、子供の微細な家族愛イメー ジを取 り上げることを容易にしている。
こうした討論授業においては、教員側の環境整備が 重要な役割を果たす。具体的には、誤つた回答 と正 し い回答があるとい う想定をクラス全体の環境か ら取 り 除 くことや、あらゆる意見は受け止め られ るとい う安 心感を子供が持てることなどである。 こうしたメ ソッ
ドを利用 した道徳授業の多 くは授業終了時にも正答 を 示すことがない 「オニプン■ ン ド方式」が採用 される。
オープンエン ド方式による授業は扱 う価値項 目の意味 を理解 させ、行動へ と反映 させ る習得型 の授業 とは異 なつて、すでに学習 した価値 を活用す るための授業 と しても意義を持つ。また、討論や意見交換 を通 じて、
個人の体験や心情に基づ く価値判断を集団や社会にお ける価値基準や規範 に接続 させる機会の一つ ともなる。
「家族愛」を扱 う授業に関していえば、それが本論 文の指摘す るよ うに、従属性 を内包 した 「親密圏」に おける特殊な意志や感情の在 り方 と密接不可分である ことを鑑みれば、なお さら学校 とい う小 さな社会のな かで、他者 との接続 を通 して内化 された心性 を見つめ 直す機会 として重要性を担 うこととなる。学級内の レ デ ィネスに慎重な配慮を払いつつ、道徳教育のなかで
「愛」や 「信念」 といつた個人の内面に関わる内容を 扱 う場合 こそ、「話 し合 うこと」の役割や価値はある のであ り、そこに 『議論す る道徳」の真価があると考 える。
6.おわ りに
ここまでに考察 してきたよ うに、道徳教育における 価値項 目としての 「家族愛」に含まれる 「家族」 とは、
そもそも一義的に規定 されるものではなく、とりわけ
「愛」の要素がそこに入 り込んでくるといつた中世か ら近代に至るまでに確認 され る大きな転換を経なが ら、
必然的にその形態 と内容を変えてきたものであつた。
そ してこの構造は、現代における「家族愛」の形態に 対 して看過することのできない刻印を与えている。 こ の ことか ら明 らかになるのは、 「家族」 「家族愛」
「愛」といつたそれぞれの概念が決 して普遍 的なもの ではなく、少なくとも社会の変化に応 じて同 じよ うに 変化 してい くものであるとい うことである。
今 日多様化す る「家族」像は、そのまま 「家族愛」
像の多様化 として捉 える必要があるもだ とすれば、 と りわけ価値項 目として道徳の時
FH5に
取 り扱 うとすれば、「家族愛Jとい う価値それ 自体を否定す ることのない ように留意 ししなが らも、やは り同 じだけ留意すべき 点 として、今 日の 「家族」が決 して一義的に規定 され るものではな く、道徳教育を受 ける子供 自身の 「家 族」及び 「家族愛」 もまた、多様であるとい うことで ある。例 えば、母子家庭の子供や施設で育て られた子 供、あるいは家族 による虐待を経験 した子供の存在が 前提 とされ る社会においては、 「父母や祖父母によつ て家族であれば誰 にで も与えられる無償の愛 としての 家族愛」 とい うイメージにのみ基づいた 『家族」及び
「家族愛」を取 り扱 う道徳の時間の運営は困難であろ う。
学校での 日常生活 を送 りなが らも、家族に関わる間 題を抱えた子供が 自ら声を上げることができない場合 も少なか らずある。 こうした子供は、ス ピヴァタが主 張す るような 「サバルタン」的な主体であると言える。
子供 自身が 自らの家族 について 「語 ることができな い」環境に置かれ、 「サバルタン」的な主体である場 合、 「家族愛」を受けることが全ての人間に とって前 提であるような道徳の授業は、 「サバル タン」的な主 体 としての子供 を追いつめる危険す らあることに、教 員が自党的になる必要がある。家族 とは社会的な生活 を営む基盤であるとすれば、子供にとっては、その原 義 「familぬ」が暗示 しているよ うに、「従属」 しな ければならない基盤でもある。道徳教育において 「家 族愛」を取 り扱 う場合 には、 「大人」ではない存在 と
しての 「子 ども」が多様な家族像を背景に持つ存在 と して再び 「発見」 されることとなる。
この