19 世紀末のバタヴィアにおける生薬の流通―いの ちのネットワーク―
著者 大木 昌, OKI Akira
雑誌名 明治学院大学国際学研究 = Meiji Gakuin review
International & regional studies
号 35
ページ 69‑79
発行年 2009‑03
その他のタイトル Trade of Herbal Medicines in Batavia at the End of the 19th Century : The Network of Life Line
URL http://hdl.handle.net/10723/1390
【研究メモ】
19 世紀末のバタヴィアにおける生薬の流通
――いのちのネットワーク――
大 木 昌
はじめに
筆者はすでに別の個所で,インドネシアに焦点 を当てた,東南アジアにおける病と癒しの歴史に ついて素描した(大木 2002)。そこで,「病と癒し」
というテーマはこれまでの歴史研究においてほと んど検討されてこなかったことを指摘した。さら に,病と癒しをとおして歴史を理解することの意 味と重要性を説明し,あわせて住民の行っていた 呪術や,生薬を用いた伝統医療にも若干触れた。
しかしその際,住民がどのような生薬をどのよう に手に入れ,どのように利用していたのか,とい う点に関してはほとんど説明しなかった。その理 由のひとつは,生薬に関して説明すべきことがら は,インドネシアのジャワに限ったとしてもあま りに膨大で,それだけでも何冊もの書物を必要と するからである。ふたつは,生薬に用いられる生 薬原料やそれらの組み合わせなどの具体的な記述 は,薬学の専門家以外の人にとって,あまり興味 がもてないからである。なお,本稿において「生 薬」という場合,必ずしも植物や動物などの生物 だけを指すのではなく,鉱物や化学製剤などの無 機質の物質も含まれる。
最後に,生薬に関する資料は,現地資料であれ ヨーロッパ人によって書かれた資料であれ,薬学 的には貴重な情報源であるが歴史的資料としては 利用しにくいという問題がある。たしかに,古い 時代にインドやアラブ世界からもたらされたテキ ストは東南アジアやインドネシアで現地語に翻訳 され,後の時代まで残っている。しかし,そこに
書かれている生薬が,実際に使われていたかどう かは分からない。ジャワの場合,これらのテキス トを翻訳して保有していたのは主として宮廷であ り,王侯貴族にとっては,そのテキストそのもの が神聖なる宝物,権威の象徴だったのである。も ちろん,宮廷外でも,バリ島には治療家たちが保 持していた生薬関係の文書(医療に関するテキス
ト
usada=ウサダをヤシの葉に刻んだ,いわゆる
ロンタール文書)はあるが,これらも,実際に使 用されていたのか,治療家たちの権威付けのもの なのかは分からない。これに対して本稿で使用さ れる資料は,のちに詳しく紹介するように,19世 紀末のバタヴィア(現在のジャカルタ)で実際に どのような生薬が売られており,それらをどこか ら入手していたかという流通の側面をも示してく れる貴重な資料である。なお,植民地期のインド ネシアは,正確には「オランダ領東インド」と表 記すべきであり,それは現在の「インドネシア共 和国」とは領土的な境界(国境)は異なっている が,本稿では
19
世紀末の「オランダ領東インド」も便宜的に「インドネシア」と表記することにす る。
生薬の研究は一般に,どんな薬草や動物,ある いは鉱物が,どんな病に対してどのように用いら れたのかといった薬学的・医療的側面を主なテー マとしている。これは,治療を目的として用いら れてきた生薬研究としては正統な方向であるが,
インドネシアに伝えられてきた生薬の適応症・処 方については,その数が膨大なだけでなく,後に 紹介するように,すでにそれらに関するマニュア ル化されたテキストが何種類も出版されている。
一方,生薬といえども米,野菜,衣服などと同様,
商品という性格ももっており,それらの取引はイ ンドネシアの商業活動の一部をなしていたはずで ある。しかし,これまでの植民地期インドネシア の生薬研究において,住民が生薬原料をどこから どのようにして入手していたか,という点はほと んど注目されてこなかった。これは,生薬の取引 については,量も金額もほとんど分からないうえ,
全体としてそれほど大きくはなかったと考えられ てきたからであろう。植民地期の貿易統計にも,
本稿であつかわれる生薬は登場しない。いずれに しても,生薬の流通という問題はインドネシアの 歴史研究においてほとんど無視されてきたといっ てもよい。
上に述べたように,生薬の流通は,インドネシ アの経済活動全体から見れば無視し得るほどの重 要性しかなかったし,たしかに,生薬の問題は経 済あるいはもっと広く歴史の主流ではなかったか もしれない。しかし,生薬は民衆の命と健康を守 る大切な手段であるという意味で,量や金額とは 関係なく住民にとっては重要な商品であったと考 えられる。生薬の流通について補足しておくと,
インドネシアおよび東南アジアは,歴史的にはそ れらの輸入地域であるよりは,圧倒的に生薬の輸 出地域であった。中国人,アラブ人,インド人,
また「大航海時代」のヨーロッパ人がこの地域に やってきたのは丁子(クローブ),ナツメグ,メイ スという狭義のスパイス,さらに胡椒やシナモン を始めとする,いわゆる「香辛料」を手に入れる ためであったが,これらは古くは調味料としてよ りは薬としての意味が大きかったのである[大木
2002]。
後で具体的に示すように,
19
世紀末のバタヴィ アで売られていた生薬の中には,インドネシアの ほかの地域から購入されたものだけでなく,遠く 外国からの輸入品もかなり含まれていた。遠隔地 から運ばれた生薬は,家庭の庭先や,周辺の農民 によって栽培された野菜よりはずっと高価だった はずである。それにもかかわらずこれらの原料を 海外も含めて遠隔地から入手していたのは,住民 にとって健康といのちを守るためにどうしても必要だったからである。しかも,これらの入手先は,
通常の経済史に登場する交易相手国とは異なる,
いわば「いのちのネットワーク」を示してくれる。
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世紀末のバタヴィア周辺の住民にとって,どれ ほどの範囲の「いのちのネットワーク」が形成さ れていたのかを明らかにすることが,本稿の重要 なねらいである。本論に入る前に,本論で用いる 資料について説明しておこう。本稿で用いる資料は,
1890
年代に植民地政府の「厚生省(Burgelijk Geneeskundingen Dienst)」,
ジャワ・マドゥラ地域担当の調査官であったオラ ンダ人のフォルデルマン(A.G.Vorderman)が,
1890
年代初頭に,バタビアでおこなった生薬に関 する実態調査の報告である[Vorderman 1894]。イ ンドネシアの生薬にかんする一般的な説明は本稿 の冒頭で言及した拙著で簡単に行なっているので,ここでは,本稿で用いる資料の性格と意義を説明 しておこう。現在,ジャワ人によって書かれた生 薬に関する文献をいくつか見ることができる。こ れらは通常,特定の病に用いられる処方生薬(複 数の生薬を組み合わせた生薬で,一般に「ジャ ムー」と呼ばれる)の一覧であり,一種の処方マ ニュアルである。しかし,ある時代に編纂された 文献に示された生薬が,その時代に実際に使われ ていたかどうかは分からない。これにたいして,
ここで使用する資料は,実際に薬草商人(tukang
rempa-rempa)
(1)が扱っていた生薬130
種を確認 し,それぞれの入手先を聞き取りによって調べた ものである。なお,フォルデルマンは,この資料 の第二部として,バタヴィアでは売られていな かったが,当時ジャワの他の地域で実際に用いら れていた薬草167
種とその生産地をも後に発表し ている[Vorderman 1900]。現地資料であれ外国人の手になる報告やテキス トであれ,ジャワの生薬にかんする文献の性格は 二つに分けられる。一つは,処方生薬の薬効や適 用法(どのような症状に対してどんな生薬が用い られたか)について解説したもので,ジャワ語で 書かれた古い文書のうち,「薬学」というタイトル が付けられた一群の文章をインドネシア語に要 約・翻訳した『ジャワ文書の要約』[Mochtar and
Permadi II:1986], 19
世紀末のジャワ在住のヨー ロッパ人とインドネシア人との混血女性によって 書かれた,1810
種類にもおよぶジャワの処方生薬 に関する網羅的な解説書,『ドゥクン・ジャワおよ びジャワにおいて使われている全ての種類の薬に かんする本―』[Njonja van Blokland:1899],1980 年代に5
年 間 に わたりジャワの伝統医薬(ジャ ムゥ)に関する調査を行ない,それをまとめた『ジャムゥ―インドネシアの伝統的治療薬:歴史 と処方の解釈―』[高橋 1988]などがある。
これにたいして,処方生薬の材料となる生薬原 料をひとつひとつ取りあげてその薬効などを説明 している生薬事典のようなものもいくつかある。
この類の書物としてはたとえば,インドネシアの 医療全般について書かれた大著,ブルフ(Dr. C. L.
van der Burg)
『蘭領インドにおける治療家』[Burg1885]のうち,とくに生薬に充てられている第 3
巻,軍の薬事専門家の手になる『オランダ領東イ ンドにおいて最も用いられる薬に関する省察』
(以下に『省察』と略記する)[Dongen 1913],イ ンドネシアの伝統的生薬から
145
種類を取り上げ た『インドネシアの薬草』[Dharma 1981],そして1940
年代の日本占領下で,薬剤不足を解消するた めに伝統生薬に関する情報の編纂がインドネシア 人の手によってはじめられ,その後何回か改定さ れ1988
年に最終版が出版された『インドネシア 固有の薬』[Seno Sastroamidjojo 1988](2)などがあ る。最後に挙げた書物は,ジャワの伝統的な生薬350
種を体系的に整理した一種の生薬事典であり,インド,アラブ,中国などの影響も含めてインド ネシアにおいて蓄積されてきた,もっとも基本的 な,いわゆる「伝統生薬」事典といえる。そして,
『インドネシアの薬草』と『インドネシア固有の 薬』の二冊には,生薬ひとつひとつの用い方,薬 効,適応症などが記載されている。
処方生薬の解説書は,実際にどのように生薬が 使われたかを知るには重要であるが,その原料が どこから入手されたかはわからない。この点で,
バタヴィアで売られていた単品の生薬の入手先を 調べたフォルデルマンの報告は,「いのちのネット ワーク」を明らかにしようとする本稿の意図に合
致する。しかもこのネットワークは,直接の輸入 先との関係だけでなく,実際にはそれを超えて,
はるかに大きな広がりをもっていたのである。た とえば,本稿
II
のいくつかの事例にみられるよう に,ある生薬をジャワが輸入するとき,その輸入 先の国や地方はそれを,さらにほかの地方から輸 入していたり,植物そのものを移植したり,ある いはその薬としての利用の仕方を学んだりしてい たのである。Ⅰ.生薬原料の交易と売買
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世紀末のジャワにおける生薬には,(1)人々 が身の回りで採れる植物を生のまま,通常は単味(単体)で用いた生薬,(2)ドゥクン(dukun)と 呼ばれる療法家その他生薬の専門家によって処方 された生薬,(3)既存のインドネシアの生薬にヨー ロッパ起源の薬草を加えた混合薬,の三種があっ た。これらのうち(1)は,ジャワの人々が自分の 庭や畑,さらには近くの森で手に入れ,日常的に 用いてきた生薬である。これらは,何らかの理論 に基づいた生薬というより,古くから経験的に用 いられてきたものであった。もっとも素朴なこの タイプの生薬は,たとえば日本で「せんぶり」を 他の生薬と組み合わせることなく胃の薬として単 体で用いるように,通常は単味で利用される。(2)
は,ドゥクンによって処方される生薬である。処 方薬としての生薬は,
20
種類,時にはそれ以上の 多数の生薬原料を組み合わせ,調合して作られる 薬であり,現実的なものであれ観念的なものであ れ,一応,何らかの薬理理論に基づいていた。こ のような生薬の調合と処方はジャワの王都ジョグ ジャカルタやスラカルタが中心であったという。宮廷が受容したヒンドゥー系の生薬医療は長い年 月をかけてその一部が徐々に民衆にも伝えられて いったと思われる。さらに,イスラム教の普及に ともないイスラム文化圏のアラビア医学・ユーナ ニ医学で用いられた生薬や,さらには古くからイ ンドネシアに進出していた中国人が持ち込んだ中 国の漢方医学など,外部世界の生薬文化を吸収し つつインドネシアの生薬文化が形成されていった
のであろう。通常「ジャムー」といえば,こうし て複数の生薬を調合し,生のジュースや煎じたエ キスなどの内服薬,あるいはペースト状にした外 用薬を指す。(3)は主として,インドネシア人と ヨーロッパ人の混血の女性が,インドネシアで従 来から使われていた薬草に,キナの皮,ローズマ リーの葉,海葱(ツルボ類の植物)など,ヨーロッ パ人が使っていた生薬原料を加えて作った生薬で ある。
フォルデルマンがバタヴィアで確認した生薬は,
それぞれ単品で売られていた。外部(当時の「オ ランダ領東インド」以外の外国)からの輸入であ れ,ジャワ人の採集者たちからの購入であれ,フォ ルデルマンが調査したバタヴィアの生薬街(カ リ・ブサール沿いの「グロドック地区」)に持ち込 まれた生薬は,全て中国人商人によって売買され ていた。ただし,硫黄,ミョウバン,鉛,クロー ムなどのいくつかの鉱物や金属類は,ヨーロッパ からヨーロッパ人の会社をとおして輸入され,そ れを中国人の生薬商人が売買していた。もちろん 中国人以外にもジャワ人の生薬商人もバタヴィア の他の地区にはいたはずである。しかし,国内産 生薬だけでなく輸入された生薬の輸入先を知る必 要があって,フォルデルマンは,輸入も行ないヨー ロッパ人業者と取引もある中国人の生薬商人が集 まるこの地区を調査の対象にしたのだろう。
グロドック地区の生薬商人の店(warung=ワル ン)は通りに面していた。店から突き出た庇の下 には,薬草がいっぱい詰まった籠が並んでおり,
それらが発する匂いは遠くからでも確認すること ができた。地元で採れた薬草は,薬や香辛料用の 容器として利用しているブリキの石油缶に入れら れ,それらの缶が所狭しと置かれていた。ただし サフランやメイスなど高価な生薬は石油缶ではな くビンに容れられ,ケースに収められていた。生 薬商人の何人かはバンタム(バタヴィアの西に隣 接する州)の産地へ出向いて薬草を買い集め,そ れを束にして彼らの店の壁に立てかけておいた。
そこには,それぞれの薬草が単品で紙に包まれて,
中身が分かるようにサンプルが紙包みの上に置か れている。買い手は,このサンプルを見て必要と
する薬草を購入した。しかし,薬草の主な収蔵場 所は家の裏手にある暗い部屋や屋根裏部屋であっ た。つぎに,バタヴィアのグロドック地区で売ら れていた生薬原料の入手先(国外の場合には輸入 先,国内の場合は産地)をみてみよう。
Ⅱ.生薬原料の入手先
全体像を見るためにまず,グロドック地区の生 薬商人たちが入手した生薬の入手先一覧を表
1
に 示しておく。この表から分かるように,この地区 の中国人商人たちがあつかっていた130
種の生薬 原料は,184 箇所からもたらされたものだった。そのうち
50
種,約38
パーセントはインドネシア 以外の国外から輸入された。もっとも,輸入された
50種のうち 7
種はインドネシア内からも同時に調達されていたから,国外からの輸入だけに頼っ ていたものは
43
種類ということになる。国外の輸入先でもっとも多かったのはボンベイ で,
23
種を数える。しかし,この場合「ボンベイ」(現ムンバイ)とは必ずしもインドの港湾都市ボ ンベイ周辺だけを指すわけではなく,以下のいく つかの事例に見られるように,インド全体さらに は西アジア各地から集められた生薬が,ボンベイ 経由でバタヴィアにもたらされた場合も少なから ずあった。いずれにしても,国外の輸入先の中で ボンベイ(インド)から輸入した生薬の種類がもっ とも多かったのは,ジャワの生薬文化の源流の大 きな柱のひとつがインドのアーユルヴェーダに あったことを考えると理解できる。そして,13世 紀ころイスラム化したインド商人やアラブ商人が 東南アジアにやってくるようになると,西アジア の医学も同時に東南アジアに伝わるようになった。
このため,ボンベイから輸入された生薬とは,イ ンドだけでなくインド・アラブ世界からもたらさ れたもの,と理解すべきであろう。
つぎに品目数が多かった輸入先は中国であった。
これにはフォルデルマンが調査した生薬商人が中 国人であったという事情も大いに関係しているが,
それだけではない。というのも,古くから漢方薬 の原料を東南アジアに求めてきた中国の薬草文化
が,少しずつインドネシアの「固有の薬」の中に 取り込まれていったからである。
中国に次いで,シャム(タイ)とヨーロッパか らがそれぞれ
4
種を輸入していた。ここで「ヨー ロッパ」からという場合,その国が特定されてい ないので,このカテゴリーには複数の国が含まれ ていると考えられる。同様に「シャム」という場 合,これは輸出地がシャムということであり,周 辺のインドシナ諸地域も含まれる,と解すべきだ ろう。おそらく,東南アジア世界がヨーロッパ諸 国によって植民地化され,その自由な交易が分断 され制限されるようになる以前には,東南アジア 内での生薬取引はもっと活発だったのではないだ ろうか。さらに,フォルデルマンの調査時に,生 薬商人たちが持っていなかった生薬,あるいは彼らは取り扱っていなかったが現地の商人たちが合 法・非合法で輸入していた生薬もあったに違いな い。これらの事情を考慮すると,実際の輸入先国
(地域)はさらに多かったであろう。
つぎに,インドネシア国内における生薬の調達 先をみると,総数の
40%,国内の 55%は西部ジャ
ワで調達されていた。バタヴィアという都市が西 部ジャワに位置していることを考えると,これは ごく自然なことかもしれない。つまり,住民は可 能な限り近隣から調達し,どうしても近隣からは 手に入らないものを国内の遠隔地から,さらには 国外から調達していたことがわかる。本稿ではフォルデルマンが記録した生薬のすべ てを説明することはできないし,植物由来の生薬 原料の中には,筆者が同定できなかったり,和名
表1 生薬原料の入手先*
入手先 種類(数) 入手先 種類(数)
14 バイテンゾルフ 13 15 プレアンゲル 32 16 チェリボン 1
小 計 74
C 中部ジャワ
17 トゥガル 5 18 スマラン 3 19 プカロンガン 1 20 チレボン 1
21 ソロ 1
小 計 11
D 東部ジャワ
22 スラバヤ 11 E その他
23 ティモール 3 24 モルッカ諸島 4 25 マカッサル 2 26 スンバワ 2 27 ポンティアナック 1
小 計 12
I 国外
1 ボンベイ 23
2 中国 17
3 シャム(タイ) 4 4 ヨーロッパ 4
5 日本 2
小 計 50
Ⅱ 国内 A スマトラ
6 パダン 3
7 パレンバン 7 8 ランポン 6 9 ベンクレン 1 10 バンカ・ビリトン 8
11 バロス 1
小 計 26
B 西部ジャワ
12 バンタム 15 13 バタヴィア 13
総 計 184
* ひとつの生薬原料が複数の地域から入手されている場合もあるので,「種類」の総計は130を超える。
がわからなかったものもかなりある。そこで本稿 では,人びとが輸入までして手に入れていた生薬 はどんなものであったかを知るために,とりあえ ず国外から輸入された生薬に焦点を当て,輸入品 目が多い入手先の順に,その中から筆者が同定す ることができたいくつかの生薬事例を紹介するに 留めたい。
1. ボンベイ(インド)
1) Adas manis(アダス・マニス) フェンネ ル(Foeniculum vulgare, GERTEN)=ういきょ うの実
19
世紀当時,ういきょうはボンベイからの輸入 のほかに,ジャワでも栽培されていたようである。ドンゲンは,輸入品は花の長さが
4~6
ミリメート ルであるが,地元産のそれは4
ミリかそれ以下で あり,しかも,ジャワの市場でみかける地元産の ういきょうはとても貧弱な印象を与える,と感想 を述べている[Dongen 1913:130]。また『インド ネシア固有の薬』にも,輸入品の三分の二くらい,4
ミリほどしかないインドネシア産のういきょう も 用 い ら れ て い る と の 記 述 が 見 ら れ る [Seno Sastroamidjojo 1988:64]。これらの記述は,インド
ネシアでも原産地の西アジアかインド経由でフェ ンネルが持ち込まれ栽培されていたことを示して いる。なお,ういきょうが単品で用いられるとき,ジャワでは薬の苦さ,飲みにくさ(とりわけ子ど もにとって)を緩和する剤として用いられた。
2) Atal batu (アタル・バトゥ) 硫化砒素(As2S
3)
『省察』[Dongen 1913:182]によれば,アタル・
バトゥは硫化砒素ではなく三酸化(O3)砒素(As2
O
3 つまり亜砒酸)となっている。どちらであるかは 分からないが,フォルデルマンが記述する硫化砒 素は,中国医学では解毒剤や抗炎症剤の一つの成 分として用いられてきた。亜砒酸は,ヨーロッパ では17
世紀以来,毒薬としてもちいられてきた。日本では
1955
年の森永砒素ミルク事件や1998年
の和歌山での亜砒酸入りのカレー事件(4人死亡)に用いられた毒物として知られている。これが生 薬原料のひとつとして売られていたことから推測
して,やはり硫化砒素であったと考える方が自然 である。いずれにしても,『省察』にもこれが登場 していることから判断して,硫化砒素が漢方薬と してだけでなく,住民の治療薬の原料としても使 われていたことは確かである。しかも,これが中 国ではなく,ボンベイから輸入されていたことは,
インド,アラブ医学の影響でインドネシアの住民 が用いるようになっていたことを示唆している。
3) Jadam(ジャダム) アロエの抽出物
ジャダムはアロエの抽出物(extract),と記され ているが,それは液状なのか粉末なのか乾燥され たものなのかは分からない。フォルデルマンの説 明によれば,輸入されたアロエはアラブ商人に よってボンベイに持ち込まれ,そこからジャワに 輸入された。もちろん,アロエはジャワでも栽培 されていたが,それは輸入アロエ(Aloe socotrina
LAAM)とは別の種類(Aloe vulgaris D.C.)であっ
た[Burg III 1885:333]。この生薬の現地名は「下 剤」を意味する言葉であることから分かるように,アロエの抽出物の最も代表的な使用目的は,下剤 であった。ただし現地産の生のアロエは,下剤と して用いるほか,潰瘍部に当てたり,頭痛時にす り潰した葉肉で頭部を冷やしたり,アロエの葉を 絞って得られる液で髪を洗い,シラミ退治にも 使った[
idem
]。4) Kembang patimah (クンバン・パティマ) 乾燥 したアンザンジュ, (アブラナ科の Anastatica hierochuntia L)の茎
フォルデルマンの調査によれば,当時この生薬 は通常ボンベイから輸入されたが,時にはアラビ アから直接に輸入されていたという[Vorderman
1894:307]。キリスト教の聖書にも登場するこの生
薬は,死海周辺,ネゲブ砂漠周辺に自生するアブ ラナ科の植物で,一般に肝臓障害に用いられた。この生薬の現地名のうち
patimah
はfatimah
つまり,モハメッドの娘ファティマに由来する。ドンゲン が推測しているように,ジャワの人びとは,ファ ティマというモハメッドの娘の名前をつけること によって,聖なる癒しの力に期待したのだろう
[Dongen 1913:4]。いずれにしても,この生薬は 歴史的にはアラブ人がインドネシアにこれを伝え,
後にインド商人たちがアラブ人にとって代わって インドネシアへの輸出を主として担うようになっ たのだろう。この生薬が
19
世紀末においても,ま だアラビア(実際にはアラブ地域を漠然と指して いたものと思われる)からも輸入されていたこと は,アラブ世界の医療とインドネシアとの緊密な 関係を示唆する事例として興味深い。西アジアと ジャワとの関係を示すもうひとつの事例をつぎに 紹介しよう。5) Mustaki (ムスタキ)または Gading (ガディ ン) 乳香
乳香樹はカンラン(オリーブ)科の植物(Pistacia
terebinthus)で,東アフリカ,アラビア半島に生
育する植物で,乳香は乳香樹の樹脂が固まったも の。乳香は古代エジプトにおいても神聖な香とし ていられ,キリスト教の正教会では現在まで儀礼 用に使用されている,非常に高価なものである。ただし,バタヴィアで売られていた乳香の多くは,
本来の乳香樹に近い植物から採れるインド産の,
「ボンベイ乳香」と呼ばれる一種の代用品であっ たようだ。フォルデルマンは,ムスタキは「いわ ゆるボンベイ乳香で,本物の乳香はときどきアラ ブ人から手に入れる」と説明している[Vorderman
1894:316]。いずれにしても,乳香は本来,インド
より西の地域,イスラム成立以降はアラブ世界で 珍重された香であり,医薬品である。ただし『省 察』には,乳香を生薬原料として取りあげられて いるが,ジャワにおいてこれがどのように使われ たかについての説明はない[Dongen 1913:79,99]。
6) Maja kani (マジャ・カニ)=Majakan=Majaan 五倍子(ふし)
ヌルデという植物(Quercus infectoria)の葉に ヌルデシロアブラムシの幼虫が作った「虫こぶ」
のことで,収斂,消炎効果がある。漢方では五倍 子の抗菌,収斂,止血作用を活用した薬として用 いられる,かなり一般的な生薬である。『インドネ シア本来の薬』[p.364]には,「若い女性のための
薬」と書いてあるだけで,具体的な適応症は分か らない。また,五倍子の主成分がタンニンである ことから,ジャワでは歯を黒く染めるためにこれ を使用していた[Burg 1885:602]。フォルデルマ ンは,わざわざ「五倍子」という漢字を示してい るが,ジャワに輸入されていた五倍子はボンベイ で「アレッポ五倍子」として取引されている,と 注釈している[Vorderman 1913:311]。これから推 測すると,ジャワに輸入されていた五倍子は,西 アジアでナラ・カシ類の葉にインクタマバチの幼 虫が作る,五倍子と同様の虫こぶ(没食子)であっ た可能性もある。おそらく,漢方で用いられる五 倍子と西アジアの没食子が,ジャワでは同じ名前 で使われていたのだろう。いずれにしても,樹木 の葉に形成される「虫こぶ」が中国,インド,西 アジアで医薬品や染料として古くから利用され,
それがジャワにまで広まっていたことは興味深い。
7) Kursani (クルサニ) キク科の植物(Veronica antihelminthica)
フォルデルマンはこの生薬について「これはイ ンドのグジャラート地方では
kali juri
と呼ばれる」と注釈を加えている。また『インドネシア固有の 薬』では,この植物はスリランカ(セイロン)か インドに生育するが,ジャワへはボンベイから輸 入される,と補足している。クルサニは,外用薬 としても内服薬としても用いられ,皮膚病,堕胎 剤として,他の生薬と組み合わせてサナダムシや カ イ チ ュ ウ な ど の 駆 虫 剤 に も 使 わ れ た [
Seno Sastroamidjojo 1988:332-33]。クルサニという名称
は,ペルシャ(イラン)のコラサン(Khorasan)に由来し,以前はペルシャ湾地方から来た商人,
およびコラサン鉄を指していたという事実から,
おそらくボンベイから西アジア,中央アジアにか けての広い地域で使われていた生薬がジャワにま で到達し,定着していたと考えられる。実際,こ れは,トルキスタンから薬用に輸入されたヨモギ の花と組み合わせて利用された[Wilkinson 1959:
593, 791]。この事例も,「ボンベイ」からの輸入
という場合,広く西アジアから,と解釈すべきだ ろう。2. 中国
1) Kapur baros(カプール・バロス) 白樟脳
フォルデルマンの資料には,漢字で「白樟脳」
と表記されている。これは,中国産のクスノキ(楠)
(Cinnamomum camphora)から精製したもので,
日本産のクスノキ(樟)から作られる樟脳とは別 物である[Dongen 1915:153]。『インドネシア本来
の薬』の
No.152
にもこの生薬原料が挙げられており,その適応症として,歯痛,鎮痛,傷,強壮,
眼病が挙げられている。さらに細かく,種は腹痛,
実は止血に,そして白樟脳を軟膏にして皮膚病に 用いる,とある[Seno Sastroamijojo 1988:260-61]。
白樟脳とその使用方法は,おそらく中国人によっ てもたらされ,やがてジャワに定着したものであ ろう。
2) Kelema(ケレマ) 大黄(たで科の植物 Rheumu officinale Baill または Rheum spp., Polygonaceas)
大黄は中国からヨーロッパにかけて生育するた で科の草で,古来より薬草として利用されてきた し,漢方では処方薬の成分として不可欠の原料で ある。大黄の薬理作用はかなり広汎におよぶが,
ジャワでは主に下剤に用いられた。この生薬にも
「 大 黄 根 」 と 漢 字 が 示 さ れ て い る [
Vorderman 1894:304]。高橋氏によれば,近代のジャワで,大
黄は婦人科の諸症状,血液浄化,鎮咳,関節や腰 痛の鎮痛の処方薬にも使われている。19
世紀末に フォルデルマンが調査した時には,大黄はもっぱ ら中国から輸入されていたが,古くはインドから も輸入されていた可能性がある。というのもジャ ワにおいて,この生薬にはサンスクリット語名(Revutchini)が与えられており,インドと同じく 血液浄化に用いられているからである[高橋 1988:
64, 76, 109, 123, 160]。ジャワの人びとは,ヒン
ドゥー化の過程で大黄の利用をインド人から学び,おそらくは生薬もインドから輸入していたのだろ う。しかし,正確な時代は分からないが,19世紀 末までにはこれを中国から輸入するようになった ものと思われる。
3) Maja muju (マジャ・ムジュ) ヒルガオ科の 草 Cuscuta chinesis LAMM=Cuscuta australis R.)の小さな種
中国名として「莬子」という漢字が当てられて いる。『インドネシア固有の薬』には,「この種は 中国から来る」と書かれており,強壮剤,利尿,淋 病などに用いる,と書かれている[Seno Sastroamijojo
1988:368-69; Dharma 1981:112-13]。この適用法か
ら,マジャ・ムジュは,中国起源の生薬であると 考えられる。4) Pucuk(プチュック) キク科の植物,イン ドモッコウ(Sausurea lappa CLARK)の根 を乾燥させたもの
この生薬に
Vorderman
は,中国名として「木香」という漢字を充てている。これは,一見,中国産 の生薬のようであるが,根そのものはインドから 中国に輸入されたもの,という注釈がついている。
おそらく,中国人はインド人からこの生薬を学び,
漢方薬の一つとして利用するようになったのだろ う。木香は漢方では整腸,下痢止め,止痛の薬と してよく知られている。ジャワでは,伝統的にリュ ウ マ チ , コ レ ラ , 喘 息 に 用 い ら れ た [
Seno Sastroamijojo 1988:450-51]し,高橋氏が 1980
年 代にジャワで調査したさいに,まったく同じ用法 を確認している[高橋 1988:168]。5) Sari tombong (サリ・トンボン) サルノコシ カケ科の菌類(Pachyma cocos=Polyphorus cocos)を薄切りにしたもの
中国名として「茯苓」が充てられている。これ も,漢方ではさまざまな処方薬に広範に使われる が,とりわけ利尿,強壮,鎮静の目的で用いられ る。ジャワでは強壮,消化器系疾患,赤痢,胸部 疾患に用いられる[Seno Sastroamijojo 1988:470-
71]。この生薬は,中国人によってジャワに伝えら
れたものと思われる。3. シャム(タイ)
1) Selasi (スラシ) めぼうき(Ocimum basilicum)
の種
この生薬には「明角子」という中国名が漢字で 付されているが,これはタイ産の植物で,日本で はバジルの名で知られている。インド原産のバジ ルは
16
世紀ころヨーロッパに伝わり駆虫剤,ある いは調理用に利用されてきた[メイビー 1989:75]。日本では,バジルの葉は名前のとおり,目をあら う植物として利用されてきたが,今日では,バジ ルは薬というより香味野菜として知られている。
ここで取りあげられているのはバジルの種で,『イ ンドネシア本来の薬』[Seno Sastroamijojo 1988:
474-745, No.289]によれば,急性の淋病を鎮める
ため,および胃薬として,また,『省察』[Dongen1913:153-154]でも胃薬として記されている。た
だし,インドネシア語で「お腹の病気」(sakit perut)と書いてある場合,その症状は腹痛,消化不良,
鼓腸,下痢,便秘などが考えられるが,文章だけ からは何を指すのかを正確に知ることはできない。
ジャワの人々が,バジルの使用をインドから学ん だのかヨーロッパ経由で知ったのかはわからない が,これがインドの代表的な薬草のひとつである こと,シャムから輸入していたことを考え合わせ ると,古い時代にインドからシャムを経由してイ ンドネシアにもたらされたものと考える方が自然 である。
2) Buah tampayang (ブア・タンパヤン) アオ ギリ科の植物(Sterculia scaphigera)の実 フォルデルマンの報告には,中国名は「凸大海」
である,と漢字が充てられているが,必ずしも漢 方薬として輸入されていたわけではなく,以前は タイから輸入していた,との記述がみられる。こ れは,喘息,慢性的な咳,胃の中をきれいにする 生薬として知られていた[Seno Sastroamijojo 1988:
110-11]。『省察』にも同様の適応症が書かれてお
り,「呼吸器疾患,慢性的な咳,喘息」の薬として 効果があるという評価がたかかったため,19
世紀 末には,ヨーロッパ人の企業もこれらの疾患にたいする有効な薬として宣伝していたほどである
[Dongen 1913:110]。
以上の他,シャムからは
Kayu secang(カユ・ス
チャン),スホウ(Caessalpnina sappan L.)の幹や 根から採ったWarangan(ワランガン=「蘇木」)
と,砒素(だだし黄色のタイプ)があった。
4. ヨーロッパ
ヨーロッパから輸入された
4
種類の生薬原料は すべて鉱物類であり,植物性のものはひとつもな い。しかも,それらは天然の鉱物というより工業 製品であった。この点が,産業革命を経て工業社 会になりつつあったヨーロッパの特徴を現してい る。なお,すでに述べたように,フォルデルマン の資料には輸入された生薬原料がヨーロッパのど こからという具体的な地名や国名は記されていな い。1) Atal kuning(アタル・クニン) クロム酸鉛 別名「黄鉛」またはクロムイエロー この物質が,どのように使われたのかは分から ない。現在では,クロム酸鉛は主に黄色の顔料そ の他に使われるが,劇薬で体内に摂取されると命 にかかわる中毒症状を引きおこす。クロム酸鉛が 生薬原料として使われるようになった時期はわか らないが,『インドネシア固有の薬』にはまったく これにかんする記載がないので,いわゆる伝統生 薬では使われていなかったと思われる。しかし,
この劇薬が現実に生薬原料として売買されていた ことは,住民が何らかの目的で使用していたこと はまちがいない。さらに,1913年に出版された,
前出の『最もよく使われる薬』にはクロム酸鉛を 生薬原料として記述している[Dongen 1913:182]
ので,おそらく
19
世紀末くらいからは使われるよ うになったのではないかと思われる。いずれにし ても,これは伝統的生薬文化にヨーロッパから新 たに持ち込まれ,住民の間に広まった事例として 興味深い。2) Tawas(タワス) ミョウバン
ミョウバンがいつごろからジャワで薬として使
われるようになったのかは明らかではないが,
アーユルヴェーダではスファチカル(Sphatikar)
という名称で,眼疾患,潰瘍,ハンセン病,白帯 下,嘔吐,有痛排尿困難などの諸症状にたいする 薬として用いられてきた。アーユルヴェーダの影 響を強く受けてきたジャワでも,古い時代から ミョウバンが薬として使用されてきた可能性は十 分ある[高橋 1988:180]。
19
世紀の記録には,「ミョ ウバンは住民によって非常によく使われる。中国 人はミョウバンを特に皮膚病に対する外用薬とし て使う」[Burg III 1885:759]という記述があるよ うに,ミョウバンはかなり一般的な薬剤であった ようだ。現代のジャワでは,たとえば[高橋 1988:70-71]によれば,ミョウバンは頭部冷却湿布用
ジャムー,ピリス・アニャブに使われる10
種の生 薬の一つとなっている。おそらく,古い時代には 天然のミョウバンが用いられたが,19
世紀末には 工業的に生産できるようになったヨーロッパから 輸入するようになっていたのだろう。以上のほか,ヨーロッパからは,硫酸銅,硫黄を輸入していた。
5. 日本
1) Adas Cina (アダス・チナ) しきみ(Illicium religiosum)の実を乾燥させたもの
日本産のスターアニスの実という注釈がついて いる。
この生薬は,香港経由で日本から輸入されてい た。フォルデルマンの資料に示された学名は,日 本に自生するシキミを指すが,シキミの実はアニ サチンという猛毒を含んでいる。この資料には,
Adas China
はトウシキミ(Illicium anisatum)とは 異なるが,両者とも現地では「八角」と呼ばれる,とわざわざ漢字が添えられている。八角は中国産 で,ヨーロッパではスターアニスとも呼ばれる,
よく知られた香辛料の一つである。この生薬に関 しては現地でも誤解があった可能性もある。とい うのも,現地名でわざわざ
China
と,中国を思わ せる言葉が付けられているからである。しかし,八角が「香港経由で日本から」輸入されたもの,
と記されていることから判断すると,やはりこれ は日本産のシキミの実であった可能性が大きい。
日本のシキミの実も生薬原料として使われてきた が[伊澤 1998:119-120],日本では「八角」とは 呼ばれることはなく,
19
世紀末に輸出していたと いう記述もない。原資料では,ジャワでこの実を 売っていたのは中国人とヨーロッパ人の薬剤店だ けである,とことわっているので,日本産のシキ ミの実が,何らかの薬剤として用いられていたの かも知れない。2) Ganti (ガンティ) セリ科のとうき (Lingusticum acutilobum S. and Z.= Angelica acutiloba Kitagawa)
の根 中国名は「川芎」
フォルデルマンの記述には,これは日本と上海 から輸入されるという注釈がつけられている。現 在の日本でも「とうき」の根は「川芎」と呼ばれ,
頭痛,めまい,月経不順などの婦人病に処方され る,漢方薬の「当帰芍薬散」の原料のひとつとし て使われている[伊澤 1998:499-500]。19世紀末 のジャワでは,ジャワ人も中国人も利尿剤や水腫 病の治療薬として用いていたが,これらの目的の ほかにジャワ人は身体を温めるためにもこれを使 い,中国人は難産のさいに出産を促進するために も用いた[Seno Sastroamidjojo 1988:206-07; Dongen
1913:133]。この生薬は,
『インドネシア固有の薬』にも登場するので,ジャワ(もしくはインドネシ ア)においては古くから使われてきたと思われる。
ただし,この生薬が日本から輸入されていたこと,
漢方薬でもよく知られた生薬であったこと,また マレーシアではガンティは中国人によって持ち込 まれたこと[Samad Ahmad 1992:151]から判断す ると,時代は定かではないが,ガンティの使用は 中国人によってインドネシアに伝えられたと考え ることが自然である。
結語にかえて
本稿では,バタヴィアの一角にあった生薬地区 で取引されていた生薬のうち,国外から輸入され た生薬だけを取り上げ,輸入先ごとに若干の具体 例を紹介した。本稿の説明は,バタヴィアという 一都市における生薬の流通事情であった。当時の
ジャワにおける輸入港はバタヴィアだけではな かったので,たとえばスラバヤなどほかの港湾都 市においても,生薬の輸入は行われていたと考え られる。また,オランダがジャワを支配し,その 最重要拠点をバタヴィアに置くようになる以前に は,ジャワと外部世界との交易はバタヴィア以外 のジャワの港湾都市全域で行われていたのである。
したがって,ヨーロッパから(おそらく日本から も)の生薬の輸入は,古くからの交易ルートで,
ジャワだけでなくインドネシア各地にもたらされ たはずである。本稿でみたように,19 世紀末の ジャワにおいて,生薬はインドネシア内だけでな く,国外からも輸入されていた。国外の輸入先は,
インド・アラブ圏,中国,ヨーロッパ,シャム(タ イ)に代表される東南アジア,日本におよんでい た。これらのうち,ヨーロッパと日本は早くても
17
世紀以降のことであるが,それ以外は古くから インドネシアの人びとが,自分たちのいのちを守 るために築いてきた「いのちのネットワーク」を 示している。現代でも伝統生薬がジャワの人びとにとって,
健康といのちを守る上で,大きな地位を占めてい ることは,高橋氏のフィールド調査で明らかであ る。また,ビンに詰めた液状の生薬を路地から路 地を回って売り歩く生薬売りの姿は,現在でも ジャワの日常の風景である。これはジャワだけの 現象ではない。西欧流の近代医学はインドネシア に浸透しつつあるが,生薬の需要は減るどころか ますます増大し,標準化され・パッケージ化され た生薬の製造と販売はインドネシアにおいて一大 産業となっている。この一つの理由は,高額の医 療費がかかる近代医療は,まだまだ庶民には手が 届かないという現実的な事情である。しかし,そ れだけでなく,多くのインドネシアの人びとは西 欧医学にたいして全幅の信頼をおいていないか,
あるいは,伝統生薬への信頼がまだまだ高いとい う事情を反映しているものと思われる。
日本においては,明治の初期に西欧医学だけを 唯一の正統医学(3)と認め,中医(漢方,鍼灸)な どの非西欧医学を法律的には医療行為ができない 非合法の医療としてしまった。筆者が知る限り,
このような医療システムを採用しているのは先進 諸国の中で日本だけである。しかし,医師は漢方 薬を処方することはできるし,実際にかなりの医 療機関で漢方薬が使われているし,個人的に市販 の漢方薬を使用している人も多い。これは,化学 的に作られた近代的薬品が有効ではない症状やそ れらがもつ副作用を考慮して,価格としては決し て安くはない伝統生薬である漢方薬が,依然とし て存在意義をもっているからであろう。いずれに しても,伝統医療は人類が長い時間をかけて利用 し,検証して現代まで存続している,いわば人類 の共通財産である。それは,たんなる歴史的な遺 物ではなく,未来に向けて伝えてゆくべき大切な 医療手段であり,医療文化である。
注
(1) tukangは通常,職人(とりわけ道具を使う職人)を 指すが,専門家一般をも意味する。ここでは,薬草を はじめとする生薬を専門的にあつかう「生薬商人」あ るいは「薬草売り」とも理解できるし,もう少し専門 的な医療的な知識をもった生薬専門家とも解釈でき る。ここではたんに「薬草売り」と訳しておく。
(2) 「本来の」という言葉は,インドネシア語の“asli”
という語が充てられている。これは,本来の,固有の,
独自の,といった意味をもつ言葉である。いずれの日 本語訳を充てたにせよ,インドネシアの生薬にはイン ド,アラブ,中国など外の文化圏から持ち込まれた原 料や用法が相当入っており,とうてい,インドネシア の本来の薬とはいえない。
(3) ここで「正統医学」とは,診断,処方,手術に代表 される身体への直接的な介入など,いわゆる「医療行 為」が西欧医学を修めた医師の資格をもつ者だけに認 められている医療,という意味である。
<参考文献一覧>
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大木,昌.2002.『病と癒しの文化史―東南アジアの医療 と世界観―』山川出版社.
高橋,澄子.1988.『ジャムゥ-インドネシアの伝統的治 療薬 歴史と処方の解釈』平河出版社.
Burg, Cornelis Leedert van der. 1884-85. De Geneesheer in Nederlandsch Indië (Vol.I-III), Martinus Nijhoff, ’s-
Gravenhage.
Dharma, A.P. 1981. Indonesische Geneeskrachtige Planten.
De Driehoek, Amsterdam.
Dongen, J.van. 1913. Beknopt Overzicht der Meest Gebruikte Geneesmiddelen in Nederlandsch Oost-Indië. Druk van Opwijden, Dieren.
Mochtar, Henny L.R. and Paul Permadi. Sari Literatur Jawa (II). 1986. Departmen Pendidikan dan Kebudayaan, Perpustakaan Nasional, Jakarta.
Njonja van Blokland. 1899. Doekoen Djawa oetwa Kitab Dari Roepa-Roepa Obat njang terpake di Tanah Djawa. Albrecht
& Co., Batavia.
Samad, Ahamad A. 1992. Warisan Perubatan Melayu. Kuala Lumpur, Dewan Bahasa dan Pustaka Kementerian Pendidikan Malaysia.
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Vorderman, A.G. 1894. Javaansch Geneesmiddelen (I).
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Wilkinson, R.J. 1959. A Malay-English Dictionary. London, Macmillan.