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可能を表す「見える」「見られる」の研究 −コー パスに見る母語話者と非母語話者の使用の異なり−
著者 森 敦子
発行年 2014‑03‑25
URL http://hdl.handle.net/10105/9866
可能を表す「見える」「見られる」の研究
―コーパスに見る母語話者と非母語話者の使用の異なり―
奈良教育大学 大学院 教育学研究科 修士課程 教科教育専攻 国語教育・日本語日本文化教育専修
学生番号 123109 森 敦子
可能を表す「見える」「見られる」の研究
―コーパスに見る母語話者と非母語話者の使用の異なり―
目次
1 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1 2 日本語学における「自発」と「可能」 ・・・・・・・・・・・・・・・5
2.1 意味的特徴 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
2.2 形態的特徴 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
2.3 統語的特徴 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
3 「見える」「見られる」に関する先行研究 ・・・・・・・・・・・・・・11
3.1 寺村(1982) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
3.2 飯田(1997) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
3.3 山内・清水(2001) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
3.4 下岡(2005) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
3.5 日本語学から日本語教育へ ・・・・・・・・・・・・・・・ 18
4 日本語教育における「見える」「見られる」の扱い ・・・・・・・・・21
5 「見える」「見られる」の用法の分類 ・・・・・・・・・・・・・・・・27
6 書き言葉における「見える」「見られる」の使用の実態 ・・・・・・・33
6.1 書き言葉コーパスにおける「見える」「見られる」の正用 ・・35
6.2 書き言葉コーパスにおける「見える」「見られる」の誤用 ・・・37
7 話し言葉における「見える」「見られる」の使用の実態 ・・・・・・・・39
7.1 話し言葉コーパスにおける「見える」「見られる」の正用 ・・40
7.2 OPIのレベル別に見る「見える」「見られる」の使用の実態 ・・42
7.3 話し言葉コーパスにおける「見える」「見られる」の誤用 ・・44
8 「見える」「見られる」の使い分けに関するアンケート調査 ・・・・・49
8.1 全体の正答率 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・50
8.2 用法別正答率 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・51
8.3 状況可能の「見える」「見られる」 ・・・・・・・・・・・・52
8.4 「見える」「見られる」どちらも使用可能なもの(用法⑥) ・・53
9 日本語教科書における「見える」「見られる」の扱われ方 ・・・・・・55
9.1 日本語教科書における「見える」「見られる」の出現頻度 ・・56
9.2 日本語教科書とコーパスとの比較 ・・・・・・・・・・・・59
10 日本語教育への応用 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・61
10.1 「見える」「見られる」産出用フローチャート ・・・・・・62
10.2 コーパスにおけるフローチャートのカバー率 ・・・・・・66
11 おわりに ―今後の課題― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 69
参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74
資料 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・76
注 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・77
1 はじめに
2 1 はじめに
「見える」は自発動詞であり、「新宿に行けばいろいろな映画が見られる」という場合の
「見られる」は、「見る」という動詞の可能形である。どちらも<対象物を視覚でとらえる ことができる>という意味を表すが、使われ方は異なる。
(1)ほら、あそこに絵が見えます。(飯田(1997:44))1
(2)今日はお母さんが許してくれないから、テレビが見られない。(山内・清水(2001:
107))
(3)東京タワーに上れば、富士山が見えるだろう。(飯田(1997:45))
(1)の「見える」を「見られる」に置き換えることはできない。同様に(2)の「見ら れる」を「見える」に置き換えることはできない。(1)の「見える」を「見られる」に置 き換えた(1)’と、(2)の「見られる」を「見える」に置き換えた(2)’はどちらも非文 である。
(1)’*ほら、あそこに絵が見られます。
(2)’*今日はお母さんが許してくれないから、テレビが見えない。
一方で、(3)の「見える」は(3)’のように、「見られる」に置き換えることが可能で ある。
(3)’東京タワーに上れば、富士山が見られるだろう。(飯田(1997:45))
(1)~(3)’を識別している以上、「見える」「見られる」の使い分けには何らかの規 則性があるはずである。しかし、その規則は複雑かつ曖昧である。日本語母語話者(以下、
母語話者と表記)は「見える」と「(可能形の)見られる」(以下、「見られる」と表記)を 無意識に....
使い分けているが、日本語非母語話者(以下、非母語話者と表記)にとって、両 者の使い分けを習得するのは容易なことではない。事実、日本語上級レベルの非母語話者 においても、「見える」「見られる」の使い分けに関する誤用は数多く見られる2。このよう な状況にあるのは、「見える」「見られる」を非母語話者に明示的に提示するための文法記 述が、未だ確立されていないからであると考えられる。
「見える」「見られる」に限らず、文法規則について非母語話者にわかりやすく提示する ためには、まず、母語話者が無意識に....
理解している部分を意識化しなければならない。そ のためには、日本語を詳細に分析し、体系化する必要がある。これは、日本語学のこれま での研究成果を整理することで実現する。しかしながら、日本語学における研究成果を、
そのままの形で非母語話者対象の日本語教育に応用するのは、適切であるとは言えない。
3
何故なら、日本語学と日本語教育とは、同じ日本語という言語を扱っているものの、それ ぞれ目指しているものが異なるからである。
庵(2011a)の以下の記述が、日本語学と日本語教育の方向性の違いを端的に表している。
なお、ここで言う「日本語記述文法」とは従来の日本語学のことであり、「教育文法」とは 日本語教育に直接役立つ文法(記述)を意味している。
日本語記述文法(日本語学)は基本的に理解レベルの文法である。なぜなら、上で述 べたように3、日本語記述文法では母語話者がもつ文法能力が前提とされているからで ある。あるいは、日本語記述文法では母語話者がもつ文法能力が前提とされるため、
理解レベルと産出レベルの区別が問題にならないと言ってもよいかもしれない。
一方、教育文法が対象とするのはそうした文法能力をもたない(少なくともそれを 持つことを前提とはできない)学習者である。そのため、理解はできていても産出で きないということは十分にありうる。その意味で、理解レベルと産出レベルの区別は 必要である。また、学習者の学習レベルに合わせて理解レベルと産出レベルを区別す るということも必要である。(庵(2011a:5-6))
つまり、日本語学が、「前提とされる文法能力」(いわゆる母語直観)をもつ母語話者を 対象にしているのに対し、日本語教育は、日本語に対する母語直観のない非母語話者を対 象にしているのである。このことが、日本語学の研究成果をそのまま日本語教育に応用す ることができない所以である。日本語学における規則・体系を理解したうえで、それを非 母語話者にいかにして提示するかを考えなければならないのである。
本論文は、日本語学の知見を日本語教育の立場から考察し直し、日本語教育現場への一 提言を試みるものである。まず、第2章で、日本語学における「自発」と「可能」に関す る記述について観察し、第3章で「見える」「見られる」に関する先行研究を参照する。続 く第4章で、日本語教育における「見える「見られる」の扱いについて述べる。第4章ま での内容をふまえて、第5章では「見える」「見られる」を 9 つの用法に分類する。その 分類にしたがって、第6章で書き言葉コーパス、第7章で話し言葉コーパスにおける言語 使用を調査し、「見える」「見られる」の使用実態を明らかにする。第8章では「見える」
「見られる」の使い分けに関して行ったアンケート調査について述べ、第9章で日本語教 材と実際の言語使用実態とを比較検討する。さらに第10章で、日本語学の成果を日本語 教育に応用する一案として、「見える」「見られる」の使い分けに関する規則を明示的に示 した、「「見える」「見られる」の使い分けフローチャート」を提示する。最後に第11章で、
「見える」「見られる」に関する考察が、他の言語形式(「聞こえる」「聞ける」)にも応用 可能であるか否かについて検討し、その上で、今後の課題について確認する。
なお、「見える」「見られる」と語根を同じくする動詞「見る」には様々な意味・用法が ある。『広辞苑 第六版』((2008)岩波書店)の「みる」の項には、最上位項目だけでも、①
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目によって認識する ②判断する ③物事を調べ行う ④(僧の忌詞)仏前に供える花を 切る という4 つの意味・用法が記載されている。さらに、①は10、②は 4つ、③は 3 つの下位項目を擁している。このように、「見る」は非常に多義的な語であるが、本論文で は、「視覚で対象物をとらえる」という意味の「見る」に限定して調査・考察を行うことに した。そのほかの意味・用法については今後の課題としたい。
2 日本語学における「自発」と「可能」
6 2 日本語学における「自発」と「可能」
「見える」「見られる」について考えるに前に、まず、「可能」及び「自発」がそれぞれ どのような性質をもつのか、整理しておく必要があるだろう。そこで本章では、日本語学 において、「自発」と「可能」がどのようにとらえられているかについて、意味、形態、統 語という3つの側面から整理する。
2.1 意味的特徴
「可能」及び「自発」は、どのような意味・用法をもつのだろうか。『日本文法大辞典』
(松村明編(1971)明治書院)には、「可能」の意味について、次のように記述されている。
可能態によって表される意味を分類すれば次のごとくである。①有情物の恒常的な動 作の能力。例彼は英語が話せる...
/昔は僕も泳げ..
たのだが/いつかはこの子も親の気持 ちが理解できる.....
ようになるだろう ②有情物の臨時的な、動作の可能性。例今日は監 督がいないから練習をサボれる....
/昨日だったら貸してあげられ....
たのですが/期限内 でしたらいつでも変更でき....
ます/涙のこぼるゝに、目も見えず、物もいはれ...
ず〔伊勢 物語・62〕/使はるゝ人々も、……恋しからむことの耐へがたく、湯水飲まれ...
ず、同 じ心になげかしがりけり〔竹取物語〕 ③有情物の希望がかなえられて、あるいは努 力がみのって、動作が実現すること。例去年は三万票獲得でき....
た。来年は何票とれる...
だろうか/やっと机をうご..
かせ..
た ④ある事物に関して、有情物が動作をする可能性 をもつこと(恒常的の場合も臨時的の場合もある)。例この部屋、、、、
は窓があけられる.....
/ あなた、、、
は今手伝ってもらえ...
ますか/あんなせまい場所、、、、、、、、
でも、野球ができる...
んだね/大 方は、家居、、
こそ、ことざまはお. し.
はからるれ.....
〔徒然草・10〕
(『日本文法大辞典』(松村明編(1997:125)明治書院)項目「可能」/執筆者:藤井正)
また、同じく『日本文法大辞典』には、「可能動詞」の意味・用法について、次のように 記述されている。
意味・用法の上では、①ある動作が、その主体において実現すること、またその能力 のあることをさす。例1キロぐらいは泳げる/英文が読める ②動作の許容されるこ とを示す。例あと三百字は書ける/三日までは待てる ③自発の意味を示す。例そう としか思えない/そういう悲しい話を聞くと、泣けてくる
(『日本文法大辞典』(松村明編(1997:125)明治書院)項目「可能動詞」/執筆者:吉 田金彦)
『日本文法大辞典』における「可能動詞」の3つの意味・用法のうち、①(ある動作が、
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その主体において実現すること、またその能力のあることをさす)は、『日本文法大辞典』
の「可能」の意味記述に合致するが、②(動作の許容されることを示す)と③(自発の意 味を示す)は、「可能」の4つの意味・用法のいずれにも該当しない。つまり、「可能動詞」
には、「可能」の他に、「許容」や「自発」の意味・用法もあるということである。
『日本文法大辞典』では、「可能動詞」を、五段活用動詞(以下Ⅰグループと表記)から 派生したもの(「話す」→「話せる」、「書く」→「書ける」など)であると定義している。
このように、日本語学においては形態面を重視し、Ⅰグループの動詞が一段化したものの みを「可能動詞」と定義しているのである。しかしながら、「見られる」「食べられる」の ように一段活用動詞(以下、Ⅱグループと表記)に可能の助動詞「られる」がついたもの も、意味・用法の点では「可能動詞」と同等である。寺村(1982)では、Ⅰグループの動詞 が一段化したもの(「可能動詞」)と、Ⅱグループの動詞に可能の助動詞がついたものとを、
一括りにして「可能形」と呼んでいる。日本語教育では、寺村(1982)の考え方にならって、
両者をまとめて「可能形」とするのが一般的である。(日本語教育を念頭においた本論文で も、その立場で論を進める。)以上のことから、非母語話者が日本語教育において学習する
「可能形」には、「可能」の他に「許容」や「自発」の意味・用法も含まれているのだと言 える。
次に、「自発」について見てみたい。『日本文法大辞典』では、動詞に自発の助動詞を付 けたもの及び可能動詞の一部(「泣ける」「思える」等)を「自発」と定義している。『日本 文法大辞典』の「自発」についての項(『日本文法大辞典』(1971:301))を整理すると、「自 発」の意味・用法は次の4つに分類できる。
①「感情がある事物に志向する」という意味特徴をもった動詞からつくられ、「その感情の 志向が動詞の表す動作の主体の意志とは関係なく自然に行われる」という意味を表す。
例故郷の母の顔が思い出される......
/前回の失敗が悔やまれ....
てならない
②「知る」「想像する」「推定する」等、「ある事物についての認識を得る」という意味特徴 をもつ動詞からつくられ、「その認識が、動詞の表す動作の主体の能力や努力によって 可能になるのではなく、ある客観的な事柄があって、それを認めるとその当然の帰結と して可能になる」という意味を表す。
例この写真からでも、彼女が美人であることは十分想像される.....
/これらの状況から、犯 人はAであると推定される.....
③「思う」「考える」等、「思考・判断」を表す動詞からつくられ、「動作主の主観的な「思 考・判断」を断定的に表現することを避けて、それをやわらげるために婉曲に表現する」
場合に用いられる。
例今後は徐々に人口が減少していくものと思われる....
/事件発生直後に通報があったも
8 のと考え..
られる...
④「外的な動作」(「心理的な動作」でないもの)を表す動詞からつくられる。動作が自然 に行われることを表すという点では①と似ているが、①が時間に関して不定であるのに 対し、④はある条件が整ったときに、その自然の帰結として動詞の表す動作が行われる ことを表すという点が違っている
例彼の純情さにはほとほと泣け..
てくる
上記のことから、「自発」とは「動作主体の意志とは関係なく自然と行われるもの」、「動 作の能力や努力に関わらず、当然の帰結として可能になるもの」及び「思考・判断につい ての婉曲表現」と定義することができる。前述した『日本文法大辞典』における「可能動 詞」と同様、「自発」にも様々な意味・用法が存在するのである。さらに、「自発」の意味・
用法の②を見ると、「自発」にも「可能」の意味を含むものがあるということがわかる。つ まり、「可能動詞」と「自発」はどちらも、「自発」「可能」両方の意味を兼ね備えているの である。
2.2 形態的特徴
次に、「可能」と「自発」(及び「受身」)を、動詞の変化という形態的な側面から見てみ たい。Ⅰグループの動詞(例として「読む」)は、受身文では「読まれる」、可能文では「読 める」、自発文では「読める」という形をとり、可能文と自発文には同じ形態が用いられる。
一方、Ⅱグループの動詞(例として「食べる」)は、受身文・可能文ともに「食べられる」
という同じ形態が用いられる。なお、Ⅱグループの動詞は基本的に自発形にはならない(例 外として「見る→見える」「煮る→煮える」がある)。動詞の形態変化からも、「受身」「可 能」「自発」の連続性が見て取れる。寺村(1982)は、「受身」「可能」「自発」の形態的特徴 とその連続性を、次の表1のようにまとめている。なお、表中のVⅠ・VⅡはそれぞれ、動 詞のⅠグル―プ・Ⅱグループを表している。
表1 「受身」「可能」「自発」の形態的連続性(寺村(1982:257))
受身 可能 自発
VⅠ-are-(ru) VⅠ-e-(ru) VⅡ-rare-(ru)
思 w-are-(ru)
表1を参考に、具体的な動詞の例を用いて表2を作成した。さらに、本論文の主題であ り、特殊な自発形をもつ「見る」「聞く」という二つの動詞についても、表2に示した。Ⅰ グループの動詞は通常、「読む」のように「可能」と「自発」が同形態であるが、「聞く」
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だけは「受身」「可能」「自発」のすべてにおいて形態が異なっている。また、Ⅱグループ の動詞は、「食べる」のように自発形をもたないのが基本であるが、「見る」は「見える」
という自発形をもっている。動詞の形態面からも、「見える」「聞こえる」の特殊性が伺え る。
表2 具体的な動詞の変化とその連続性
受身 可能 自発
Ⅰグループ 読む 読まれる 読める
聞く 聞かれる 聞ける 聞こえる
Ⅱグループ 食べる 食べられる 見る 見られる 見える
2.3 統語的特徴
寺村(1982:255)は、「可能」の統語的特徴を、(4)(5)の例を用いて説明している。
(4)彼ニ 中国語ガ 話セル(コト)(寺村(1982:255)) ……… 可能文
(5)彼ガ 中国語ヲ 話ス(コト)(寺村(1982:255)) ……… 基本文
(5)の基本文と(4)の可能文とでは、「格の移動」と「動詞の規則的な変化」が認め られる。このことから、寺村(1982)は、「可能」をヴォイスの一種だとしている4。 一方、村木(1991:185)は、「可能」と「自発」はヴォイス性に欠けるため、ヴォイスのサ ブカテゴリーであるとし、以下の(6)~(9)の例を用いて説明している。
(6)太郎に(は) 英語が よめる(村木(1991:185)) ……… 可能文
(7)太郎ガ 英語ヲ ヨム(村木(1991:185)) ……… 基本文
(8)太郎に(は) 故郷が しのばれる(村木(1991:185)) ……… 自発文
(9)太郎ガ 故郷ヲ シノブ(村木(1991:185)) ……… 基本文
(7)の基本文と(6)の可能文、(9)の基本文と(8)の自発文とをそれぞれ比べると、
「格の移動」と「動詞の規則的な変化」が認められる。この点においては、ヴォイスとし ての特徴をもっている。村木(1991)が問題としているのは、視点の移動の有無である。(7)
の基本文と(6)の可能文とでは、格形式は変化するものの、どちらも主語は動作主(=
太郎)であり、この動作主を中心に述べた文である。二つの文の間で、視点の移動は起こ っていないのである。(9)の基本文と(8)の自発文との間でも同様に、視点の移動はな い。つまり、「可能」と「自発」は、「格の移動」と「動詞の規則的な変化」は認められる
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ものの、「視点の移動」はなく、「主語の交換」が行われていないのである。以上のことか ら村木(1991)は、「可能」及び「自発」はヴォイス性に欠けるとし、ヴォイスである「受動 態」とは明確に区別している。このような観点で見ると、形態的に連続している「受身」
「可能」「自発」の中でも、特に「可能」と「自発」は近しい関係にあり、したがって「可 能」と「自発」は相互に区別がつきにくいものであると言えるだろう。
また、寺村(1982)は、「可能」を「能動的可能」と「受動的可能」という2種類に分類し、
「能動的可能」、「受動的可能」、「自発」の統語的特徴を、以下の(10)~(13)のような 例(全て寺村(1982:275)より引用)をあげて説明している。寺村の示している例を用いて 筆者が整理して示すと、次のようになる。
(10)彼ニ/ガ コノ瓦ガ割レル(コト) ……… 能動的可能
Yニ/ガ Xガ V-e-(ru) (他動詞)
(11)彼ガ泳ゲル(コト) ……… 能動的可能 Yガ V-e(ru) (自動詞)
(12)コノ瓦ハ売レルカ?(売ることができるか?商品か?) ……… 受動的可能 Xガ V-e(ru) (X: V‐の表す動作を受けるもの)
(13)コノ瓦ハ(ヨク)売レルカ?(売れ行きはよいか?) ……… 自発 Xガ V(他動)-e-(ru)
寺村(1982)は、(10)(11)のような、能力をもつ(または可能な状態にある)主体Yを 構成要素としてもつ可能表現を、「能動的可能」と定義している。また、主体 Y が不特定 の人であったり一般的な基準を表す場合にはYは姿を消す(省略ではない)と述べ、その ような可能表現を「受動的可能」と定義している((12))。「能動的可能」は、構文的にも 意味的にも、自発表現との違いは明白である。一方、「受動的可能」は、(13)の自発表現 と、構文的に一致するのである(寺村(1982:275))。
このように、「自発」と「可能」は、意味的にも(2.1)、形態的にも(2.2)、統語 的にも(2.3)、複雑に交差しているのである。
3 「見える」「見られる」に関する先行研究
12 3 「見える」「見られる」に関する先行研究
「見える」と「見られる」についての先行研究は数多くあるが5、ここでは、本論文執筆 にあたって多くの示唆を得たいくつかの先行研究について、その内容を概観する。
3.1 寺村(1982)
「見える」と「聞こえる」は、動詞「見る」「聞く」の自発形でありながら、他の動詞で あれば可能形で表現する意味・用法をも表現しうる、特殊な語である。寺村(1982)は、「見 える」「見られる」(及び(「聞こえる」「聞ける」)について、以下のように述べている。
見エルも見ラレルも、また聞コエルも聞ケルも、共に「可能」の意味をもつが、自 発態を使っての可能表現と、可能態を使っての可能表現には、一般に次のような違い があると思われる。すなわち、前者の可能というのは、その発話の場、時点で、具体 的にあるものが視覚・聴覚によってとらえることが可能か否か、ということであり、
後者の可能というのは、一般に...
かくかくの可能な状態が―発話の場を離れて―存在す る、ということである。(寺村(1982:277))
つまり、寺村(1982)によると、「見える」は本来の意味である「自発」の特性上、「発話 の場・時点で具体的に見ることができるか否か」を述べるものであり、「見られる」は「一 般的に(発話の場を離れて)可能か否か」を述べるものなのである。
3.2 飯田(1997)
飯田(1997:46)は、「見る」という一連の動作を、対象に視線を送る第一過程と、それを 脳で意識し、その対象の形や色を認める第二過程とに分け、第一過程に相当する部分を「見、 る、
」と表している。また、「見える」は第二過程に相当し、第一過程の「見る、、
」を前提にし て成立するとしている。このことを式で表すと、
[ 「見る」=「見る、、
」+「見える」 ]
となるだろう。そして、前提となる「見る、、
」が意志的なのか無意志的なのかという観点か ら、「見える」「見られる」の性質を整理し、記述している。
まず、<前提となる「見る、、
」が意志的な場合の「見える」>の性質について、次のよう に記述している。
(a)対象と対峙した状況で、対象を意志的に見た結果、それが目に入ることを「見える」
で表す。結果が成立するかどうかという点が問題になるため、その点から可能の意 味が生じると考えられる。(飯田(1997:48))
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(b)「見える」対象は、見ようとした対象なら何でもよく、特に制限がない。(飯田 (1997:48))
飯田自身も冒頭部分(飯田(1997:43))で指摘しているように、日本語教育では総じて「意 志性があれば「見られる」、なければ「見える」を使う」と説明しがちである。しかしなが ら飯田(1997)は、「自発」である「見える」にも意志性が存在する場合があることを示して いるのである。さらに、上記(b)も重要な指摘であると思われる。「見られる」の場合、見 る対象に何らかの制限があるが、「見える」にはそれがないのである。このことについて、
(14)~(17)の例で考えてみたい。
(14)私の部屋から海が見える。(作例)
(15)私の部屋からポストが見える。(作例)
(16)私の部屋から海が見られる。(作例)
(17)?私の部屋からポストが見られる。(作例)
見る対象が「ポスト」という一般的に鑑賞の対象ではない物の場合、「見える」は問題な く使える((15))が、「見られる」を使うと不自然である((17))。この点は、「見える」「見 られる」を使い分ける際の、1つの重要なポイントとなるだろう。
次の(18)(19)は、<前提となる「見る、、
」が無意志的な場合の「見える」>の例であ る。
(18)真珠のような実もちらっと見えたのでした。(銀河鉄道の夜/飯田(1997:50))
(19)みあげると一機の敵機が甲山の中腹をぬって、灰色の空を急スピードでとんでい くのが見えました。(黄色い人/飯田(1997:50))
<前提となる「見る、、
」が無意志的な場合の「見える」>の性質について、飯田(1997)は 次のように記述している。
(a)無意志的に視線を送った時、普段は目にするものではないもの、特に目立つような ものが偶然視野に入ってきた場合に使われる。(飯田(1997:50))
(b)特に目立つものではなくても、無意志的に視線を送りながら、対象を確認するとい う文脈の中で目に入った何かを叙述する場合に使われる。風景描写などでよく現れ ることからも頷ける。(飯田(1997:50))
「見られる」に関しても同じように、前提となる「見る、、
」が意志的なものと無意志的な ものとに分けて記述している。次の(20)は、<前提となる「見る、、
」が意志的な場合の「見
14 られる」>の例である。
(20)渓谷に沿ってトレイルが整備され、全部で 6つの橋がかけられており、さまざま に変化する川の流れが見られる。('96~'97るるぶカナダ/飯田(1997:52))
<前提となる「見る、、
」が意志的な場合の「見られる」>の性質については、次のように 記述している。
(a)ある設定された状況の中で意志的に視線を送り、その対象をとらえることができる ことを「見られる」で表す。<現場性>がなく、その状況で「見ること」が可能な ことを一般的に述べる傾向がある。(飯田(1997:53))
(b)視覚対象は見る価値のあるものであり、精神的な活動と結びついている。(飯田 (1997:53))
ここで言う「現場性」とは、下岡(2005)が「見える」の特徴であると指摘する「眼前性」
と、同等の意味で用いられているもの思われる。これについては、3.4で詳しく見る。
次の(21)は、<前提となる「見る、、
」が無意志的な場合の「見られる」>の例である。
(21)町のあちこちに、ドライバーに事故防止をよびかける交通標語が見られるように なりました。(日本語表現文型中級Ⅰ/飯田(1997:53))
<前提となる「見る、、
」が無意志的な場合の「見られる」>の性質については、次のよう に記述している。
(a)対象への関心があり、対象を目にすることからそれを問題意識でとらえて提示する 場合に使われる。また、問題意識からとらえる点では、一回性の出来事を取り上げ るよりも、一般に何度も起きていること、何度も確認していることを述べる場合が 多い。(飯田(1997:56))
(b)対象としては抽象的な内容になる傾向がある。具体的な対象の場合でも、実はその 対象が目に入るかどうかという視覚の問題から離れ、むしろそういったもの、そう いった現象が存在することに焦点が向けられている。(飯田(1997:56))
なお、<前提となる「見る、、
」が無意志的な場合の「見られる」>に「可能」の意味はな く、<前提となる「見る、、
」が無意志的な場合の「見える」>と類似した意味をもつとして いる(飯田(1997:51))。
以上、飯田(1997)を概観した。ここで明らかになったように、「意志性の有無」という観
15
点は、「見える」「見られる」を使い分ける際に、必ずしも万能ではないのである。
3.3 山内・清水(2001)
山内・清水(2001)は、「見える」は「見る」の自発形、「見られる」は「見る」の可能形 であり、それぞれの基本的な意味は全く異なるとしている。しかしながら、他の動詞(「走 る」「食べる」「飲む」など)と比較して、「見る」は「自発」(=「見える」)と「可能」(=
「見られる」)の区別が曖昧であり、それは、「見る」という動詞の特性によるものである と述べている(山内・清水(2001:注3)6。
「見える」と「見られる」について考察するにあたり、山内・清水(2001)は、「日本語に おいては、可能表現よりも自発表現の方が好まれる(山内・清水(2001:109)」という仮説 を立てている。つまり、「見える」と「見られる」が意味的に重なる部分においては、「自 発」である「見える」が優先的に現れるという仮説である。そして、そのような仮説のも と、「「見える」が「見られる」の領域をどこまで浸食できるか。(山内・清水(2001:109))」
という観点から、「見える」「見られる」を分析している。山内・清水(2001)が結論として 提示した図を、下記の図1に引用する。
図1 「見える」「見られる」の領域(山内・清水(2001:116))
① ② ④
③ ⑤
⑥
図1の太枠で囲んだ①②③が「見える」を使うもの、④⑤⑥が「見られる」を使うもの である。①は本来の「見える」の領域、②と③は「見える」と「見られる」が重なり合っ た結果、「見える」が「見られる」を浸食してしまった領域、④⑤⑥は「見える」に浸食さ れずに「見られる」が生き残っている領域である(山内・清水(2001:110))。図1の①は、
典型的な自発表現で、可能の意味をもたないものである。(22)~(24)のようなものを 例としてあげている。(22)は、ただ「視野内のものが目に飛び込んで来る」ということ のみを表現した自発の表現で、(23)はその比喩的な用法、(24)は何かが「目に飛び込ん で来る」時に、それが「どのように目に飛び込んで来るのか」(=見え方)を表現する用法 である(山内・清水(2001:110-111))。
(22)どんどん歩いていくと、目の前に大きな滝が(○見え/×見られ)てきた。(山内・
能力可能 状況可能 心情可能 見える
見られる
16 清水(2001:110))
(23)解決の糸口がまったく(○見え/×見られ)てこない。(山内・清水(2001:110))
(24)彼は、あまり行きたくなさそうに(○見え/×見られ)る。(山内・清水(2001:111))
図1の②と④は能力可能である。能力可能は明らかに「可能」の意味を含んでいるにも かかわらず、(25)のように基本的に「見える」が使われる((25)は図1の②の領域に含 まれる)。
(25)北極星のとなりにある、あの小さな星が(○見え/×見られ)ますか。(山内・清 水(2001:115))
つまり、②は「見える」が完全に「見られる」の領域を浸食したものだと言える。ただ し、能力可能でも(26)のような例では「見える」による浸食が行われておらず、「見ら れる」が生き残っている。これは、「見る」に「理解・判断・鑑賞」といった意味が含まれ ているため、「視野内のものが自然に目に飛び込んで来る」というわけではないからである
(山内・清水(2001:115))((26)は④の領域に含まれる)。
(26)彼は、人の手相が(×見え/○見られ)る。(山内・清水(2001:115))
図1の③と⑤は状況可能である。状況可能のうち、「視野内のものが自然に目に飛び込ん で来る」という自発の意味に解釈しうるものには(27)のように「見える」を使う((27)
は図1の③の領域に含まれる)。
(27)コピーの字が薄くて(○見え/×見られ)ない。(山内・清水(2001:112))
図1の⑤は状況可能のうち、「視野内のものが自然に目に飛び込んで来る」という意味に 解釈することができないものである。山内・清水(2001)は、⑤をさらに、「自然に目に飛び 込んで来る」という条件を満たさないものと、「視野内のものが」という条件を満たさない ものとの 2 つに分けて説明している。「自然に目に飛び込んで来る」という条件を満たさ ないものとは、(28)のように、「見る」が「理解する・判断する・鑑賞する」という意味 まで含んでいる場合である(山内・清水(2001:112))。
(28)今日は、映画が(×見え/○見られ)る。(山内・清水(2001:113))
「視野内のものが」という条件を満たさないものの例としては、(29)(30)のようなも のをあげている。
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(29)フランスへ行けばエッフェル塔が(×見え/○見られ)る。(山内・清水(2001:114))
(30)最近はどこのキャンパスでも留学生の姿が(×見え/○見られ)る。(山内・清水 (2001:114))
(29)の場合、フランスに行ったからといってエッフェル塔が視野に入ってくるとは限 らない(パリの空港に降り立ったとしても、エッフェル塔は視野内に存在しない)ため、
「視野内のものが」という条件を満たしておらず、(30)の場合、「留学生」は1か所にか たまっているのではなく散在しており、そのすべてが視野内に入っているわけではないた め、同じく「視野内のものが」という条件を満たしていないとしている(山内・清水 (2001:114))。
また、(31)のような心情可能の場合、必然的に「鑑賞する」というような意味をもつ ことになるため、「見える」による浸食は行われず、「見られる」が用いられる(山内・清 水(2001:113))((31)は⑥の領域に含まれる)。
(31)ようやく、どうにか(×見え/○見られ)る字が書けるようになった。(山内・清 水(2001:113))
以上のように、山内・清水(2001)は、「「見える」による「見られる」の浸食」という観 点から、本来なら可能形(「見られる」)が使われるはずの領域のうち、どの部分を「見え る」で代用しているのかという点にについて、わかりやすく提示している。日本語教育に おいて、非常に有用な記述であると思われる。
3.4 下岡(2005)
下岡(2005)は、「見える」と「見られる」はどちらも動詞「見る」の可能形態であると定 義して、論を進めている。これは、本来の可能動詞である「見られる」との比較によって
「見える」の性質を考察するためである(下岡(2005:注4))。下岡(2005)は、「見える」を 様々な角度から詳細に分析しているが、ここではその分析を踏まえた結論の部分を紹介す る。下岡(2005)は、次のように述べている。
「見える」には眼前性の有無という他の可能表現にはない性質があるということが 指摘できる。ここでいう眼前性とは、「見る」という行為の対象であるモノやコトが認 知主体の目の前に存在することを示した性質のことである。「見える」は「対象を見る ことができる」といった事態成立の可能性があることを示している形態であると解釈 できる一方で、「対象を見る」という事態が既に成立していることを示した形態である とも解釈できる。「対象を見る」という事態を成立させるためには、その対象は認知主 体の目の前になければならない。なぜなら認知主体の目の前に対象がなければ、認知
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主体はその対象を視覚で捉えることができないからである。このように他の可能形態 には見られない「見える」の特殊な意味をこの眼前性という性質が支えているといえ る。(下岡(2005:18))
「見える」には<「対象を見ることができる」といった事態成立の可能性があることを 示している>ものと、<「対象を見る」という事態が既に成立していることを示した>も のと、2種類あるという指摘である。ここで言う<「対象を見ることができる」といった 事態成立の可能性があることを示している>形態とは、(32)のように「見られる」との 置き換えが可能なものであると考えられる。
(32)ここから富士山が見える。(下岡(2005:8)
(32)’ここから富士山が見られる。(下岡(2005:9)
そして、<「対象を見る」という事態が既に成立していることを示した>形態とは、(33)
のようなものであろう。(33)は「眼前性」があるため、「見える」を「見られる」に置き 換えることはできない((33)’)。
(33)目の前に虹が見える。(下岡(2005:9))
(33)’*目の前に虹が見られる。(下岡(2005:9)
つまり、(33)のように「見る」対象物を既に視覚でとらえている場合には、「見られる」
は使えないということである。下岡(2005)は、「見える」と「見られる」の最大の相違点は、
この「眼前性(もしくは「現在性」7)の有無」であると結論付けている(下岡(2005:19))。
なお、3.1で確認した飯田(1997)の言う「現場性」も、下岡(2005)が指摘する「眼前性」
と、同等の内容を指しているものと思われる。
このような下岡(2005)の指摘は、日本語教育において「見える」と「見られる」の使い 分けを扱う際に、非常に有用であると思われる。
3.5 日本語学から日本語教育へ
本章で見たように、日本語学の分野において、様々な切り口で「見える」「見られる」に 関する研究が行われ、成果をあげてきた。母語話者なら、これらの先行研究に触れること で、それまで無意識に....
使い分けていた「見える」「見られる」の違いについて、理解を深め ることができるだろう。しかしながら、これらの先行研究は、「日本語学的な研究成果」で あり、日本語を学ぶ非母語話者にとっては、必ずしも有用であるとは言えない。何故なら、
第1章でも述べたとおり、日本語学と日本語教育とは、同じ日本語という言語を扱ってい るものの、目指しているものが異なるからである。野田(2005)は、日本語学と日本語教育
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とがかけ離れたものになっている現状を、次のように述べている。
これまでの日本語教育文法は、日本語研究の成果としての文法を応用するという意 識が強く、日本語教育には必要でない部分も取り込んできた。(中略)
日本語教育のためという目的から出発した寺村の文法は、「日本語学」の分野で、現 代日本語の記述的な文法を大きく発展させた。それは、寺村の文法が体系性を持って いたからである。体系性は、体系的でない部分を意図的に排除しなければ得られない ものである。寺村の文法でも、体系的にまとめにくい「機能」より、体系的にまとめ やすい「形式」を中心に記述するなどの工夫が行われている。
寺村の文法は体系性を重視することにより日本語学で重要なものになったが、その 反面、日本語教育に必要な文法という性格は薄れていく。寺村より後の世代では、そ の傾向はさらに強くなり、日本語学の文法は大きく発展したが、日本語教育に必要な 文法を考え直すことはほとんどなくなっていく。現在の日本語教育文法は、日本語学 の文法がすでに日本語教育の目的とは合わないものになっていることに気づかないま ま、日本語学に依存しているように見える。(野田(2005:5))
ここで、日本語教育の対象が「日本語に対する母語直観のない非母語話者」であること を再認識する必要があるだろう。日本語学における研究成果(文法記述)は、日本語教師 自身が文法に関する理解を深めるために利用するには有用である。しかし、日本語教育の 対象である非母語話者にとって、直接役に立つものではないのである。日本語学の研究成 果を、いかにして非母語話者に役立つものに変えていくか。それが、日本語教育のこれか らの課題であると言えるだろう。
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4 日本語教育における「見える」「見られる」の扱い
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4 日本語教育における「見える」「見られる」の扱い
非母語話者を対象にした日本語教育では、「見える」と「見られる」はどちらも初級の文 法項目として扱われている。初級の段階では、複雑な文法体系より基本的な文型を習得す ることのほうが重要であり、また、直説法では使用できる文型や語彙にも限りがあるため、
詳細な文法解説は行わないのが一般的である8。「見える」と「見られる」に関しても、典 型的な例を提示するにとどまり、使い分けについてはあまり詳しく触れられていない。代 表的な日本語初級教材『みんなの日本語初級Ⅱ』の教師用指導書である『みんなの日本語 初級Ⅱ教え方の手引き』には、「見える」と「見られる」について以下のように記述されて いる。
<留意点> 「見える」「聞こえる」と「見られる」「聞ける」の違いについて質問 が出たら、前者は話し手が何もしなくても、対象が自然と目や耳に入ってくる状態 にあること、後者は時間、労力、手段などを使って何かを見たり、聞いたりできる ことを例を挙げて説明する。
例: 暗いですから、何も見えません。
毎日忙しいですから、テレビが見られません。
静かですから、隣のうちから声が聞こえます。
テープレコーダーがあったら、このテープが聞けます。
(『みんなの日本語初級Ⅱ教え方の手引き』(スリーエーネットワーク編(2001:31)))
特に意識せず視界に入ってくるものには「見える」、意志を持って見ようとするものには
「見られる」を使うという説明である。初めて可能形を学ぶ初級の学習者向けの教材であ ることを考慮に入れると、妥当な解説であろう。しかし、「見える」「見られる」には様々 な意味・用法があることは、第3章までに確認したとおりである。そのため、日本語のレ ベルが中級、上級と上がるにしたがって、上記の記述では説明がつかないものも出てくる。
日本語教育で使用されている文法解説書には、初級では使われない意味・用法についても 記載されているのだろうか。『初級日本語文法と教え方のポイント』(市川(2005:275))に は、次のように記述されている。
可能形と同時に提出される項目に、「見える・聞こえる」があります。厳密には自 発動詞と呼ばれるものですが、可能表現と重なる部分もあるので、日本語の教科書で は、可能形のところで提出されているようです。
「見える・聞こえる」に関しては、「見られる・聞ける」という可能形の意味用法 との違いが重要になります。
<14> a.ここから富士山が見える。
b.上野美術館へ行くと、ルノワールの全作品が見られる。
23
<15> a.波の音が聞こえる。
b.1,000円も出せば、一流の噺家の落語が聞ける。
「見える・聞こえる」は自発動詞なので<14><15>のaのように「自然と目の中に 入ってくる」「自然と耳に入ってくる」という意味になります。一方、「わざわざ行く」
とか「お金を出す」などの人間の意志と手間が入ると、<14><15>bのように「見ら れる」「聞ける」が使われます。
(『初級日本語文法と教え方のポイント』(市川(2005:275)))
意志性の有無によって「見える」と「見られる」を使い分けるという内容で、これは前 述の『みんなの日本語初級Ⅱ教え方の手引き』における記述内容とほぼ同様である。しか し、これでは説明のつかない以下のような例も存在する。
(34)(望遠鏡で富士山を探していて)あ、富士山、見えた!!(作例)
(35)最近はどこのキャンパスでも留学生の姿が見られる。((30)を再掲)(山内・清水 (2001:114))
(34)は富士山を目の前にしての発言であり、下岡(2005)の言う「眼前性」があるため、
可能性の有無を表す「見られる」ではなく、「自発」の「見える」を使う。また、(35)は、
「視野内にあるものが自然と目に入る」という自発の条件(山内・清水(2001:109))を満 たしていないため、「見える」ではなく「見られる」を使う。しかし、前述の『みんなの日 本語初級Ⅱ』や『初級日本語文法と教え方のポイント』のような説明で、非母語話者が、
(34)(35)のような文を正しく使えるようになるだろうか。(34)は発話者に富士山を見 るという明らかな意志があるため「見られる」を使用し、(35)は特に意識していなくて も視野に入ってくるものなので「見える」を使用すると解釈する非母語話者がいても不思 議ではない。
以下のように、意志性の有無だけでなく眼前性の有無についても述べている文法解説書 もある。
【見える・聞こえる(自発)】
自発は「自然とそうなる」という意味を持ち、目の前に現れた出来事をそのまま伝 える場合などに使います。この場合可能形は使えません。
<4>あ、富士山が{○見える/×見られる}。
<5>おや、虫の声が{○聞こえる/聞ける}。もう秋だなあ。
テレビ番組や試合・演奏などに意識的に注意を向ける場合には、可能形を用い、自 発形は使えません。
<6>電車に間に合えば、9時のドラマが{×見える/○見られる}。
24
<7>やっとコンサートのチケットを手に入れた。これであの歌手の歌が{×聞こえ
る/○聞ける}。
<8>このボタンで選べば、好きな曲が{×聞こえます/○聞けます}。
次のような場合、意識的に注意を向ける意味の他、「そのような状況になれば、そ こでは自然と~」という意味にもとれますので、基本的には両方使うことができます。
<9>東京タワーに登れば、富士山が{○見える/○見られる}。
(『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』(庵他(2000:84)))
目の前に現れた出来事をそのまま伝える場合には「見える」を使うと明記されており、
(34)のような例には対応していると言える。しかしここでも、非母語話者が(35)の例 を正しく判断できるような記述は見られない。
『新版日本語教育事典』(日本語教育学会編(2005))の<2-M教育のための文法分析>
の「見える・聞こえる」の項では、次のように解説されている。
■見える・聞こえる
可能と自発の両方の意味をもつ動詞で、学習の困難点は、①可能形「見られる・聞け る」との違い、②格助詞「に・から」にある。
○可能形との違い 「見える」「聞こえる」は自発の意味を担っているので、主体の 意志の有無と関係なく、単に対象のほうから視覚や聴覚に入ってくる、あるいは入っ てこないことを表す(用例<1><2>)。可能かどうかの原因が主体側になく、対象の側 にあるとする言い方である。一方、原因が主体の側にある場合は、可能形を使う(用 例<4>)。また、原因が主体以外にある場合であっても、「見る、聞く」という行為が 主体の意志と関係がある場合には、可能形を使うのが基本である(用法<3>)。
<1>「もしもし聞こえますか。」
「すみません、よく聞こえません。もう一度お願いします。」
<2>福岡では韓国のラジオが聞こえるんです。
<3>福岡では韓国のラジオが聞けるんです。
<4>私は臆病なのでホラー映画は見られません。
(『新版日本語教育事典』(日本語教育学会編(2005:204)))
可能かどうかの原因が主体にあるか否かが判断の基準として示されている。しかし、第 1章の冒頭であげた(1)~(3)や、本章であげた(34)(35)のどの例をとってみても、
可能かどうかの原因が主体にあるか否か、容易には判断がつかないのではないだろうか。
例えば(1)は、「主体が視覚能力を有しており、周りを見渡し、絵を見つけたからこそ絵 を見ることができた」と考えれば、可能かどうかの原因は主体の側にあるとも言えるだろ う。逆に(35)は、留学生を目にするかどうかは留学生がいるか否かによって決まるので、
25 可能かどうかの原因は対象側にあるとも考えられる。
他にも、以下の(36)~(38)のように、既存の文法解説書の記述だけでは説明しきれ ない例は多い。
(36)いかのすみが入っているすみ袋は、内臓を取り出すとすぐに見えるので…(略)
(BCCWJコア: PM51_00338)
(37)志津は動かなかったが、表情が平七郎の次の言葉を待っているように見えた。
(BCCWJコア:PB49_00005)
(38)みんなが見えるような大きな字で書く。(BCCWJコア: PB43_00001)
日本語に対する母語直観をもち、「見える」「見られる」を無意識に....
使い分けている母語 話者であれば、これまで見てきた文法記述によって、「見える」「見られる」の違いを理解 することができるかもしれない。しかし、母語話者が無意識に....
できている「見える」「見ら れる」の使い分けを、多くの非母語話者は意識的に....
習得していかなければならないのであ る。母語話者を対象にした文法記述では、カバーしきれない部分があるのは当然であろう。
実際、本論文の冒頭でも述べたとおり、「見える」「見られる」は初級の文法項目であるに もかかわらず、日本語上級レベルの非母語話者においても誤用が多い表現なのである。「見 える」「見られる」の使い分けに関する規則を、日本語に対する母語直観のない非母語話者 の立場に立って整理し直す必要があるだろう。そのためにはまず、母語話者及び非母語話 者がそれぞれ「見える」「見られる」をどのように使用しているのかを知らなければならな い。
26
5 「見える」「見られる」の用法の分類
28 5 「見える」「見られる」の用法の分類
「見える」「見られる」の実際の使用について調査・考察するにあたり、まず、「見える」
「見られる」の意味・用法の分類基準を設定する必要があるだろう。そこで本章では、第 2章~第4章において得られた日本語学的知見をふまえて、「見える」「見られる」の用法 の分類を行う。
山内・清水(2001)は、「見える」「見られる」を自発・能力可能・状況可能・心情可能の 4 つに分類して考察を行っている。本論文では、この山内・清水(2001)による分類をベー スに、さらに詳しく9つの用法に分類した。
まず、能力可能と心情可能に関しては、「見える」と「見られる」の境界線がはっきりし ており、「見える」「見られる」の使い分けについて議論の余地はないものと思われる。そ のため、<基本的に能力可能には「見える」、心情可能には「見られる」を使用する9>と した山内・清水(2001)の分類をそのまま踏襲し、本論文では能力可能を用法①、心情可能 を用法⑨とした。
次に、自発について考える。「自発」には様々な意味・用法があることは、第2章で既に 確認したとおりである。そこで、山内・清水(2001)が自発としてまとめているものを、本 論文ではさらに3つの用法に分けて考えたい。山内・清水(2001)は「典型的な自発表現」
として次の(39)~(42)のような例をあげている。
(39)ママ、見て。お星さまが見えるよ。(山内・清水(2001:110))
(40)ひざが見えるような短いスカートは禁止です。(山内・清水(2001:110))
(41)君のりんごの方がおいしそうに見える。(山内・清水(2001:111))
(42)私には、彼が犯人であるように見える。(山内・清水(2001:111))
下岡(2005)は、自発「見える」には眼前性10があり、それが「見られる」との最大の相 違点であると述べている。しかし、(39)には眼前性があるが、(40)には必ずしも眼前性 があるとは言えない。つまり、眼前性の有無という点から見ると、(39)と(40)は異な る用法であると言えるだろう。また、飯田(1997:50)は、「無意志的に視線を送った時、普 段は目にするものではないもの、特に目立つようなものが偶然視界に入ってきた場合」に
「見える」を使うとしている。そこで、本論文では(39)のように眼前性のある自発表現 を用法②、(40)のように眼前性の有無を問題とせず「特出すべき物11(飯田(1997:49))」
が目に飛び込んでくることを表すものを用法③として区別することにする。また、(43)
のように、それまで視野内になかったものが突然視野内に飛び込んで来るという場合も、
用法③に含める。
(43)信号が変わり、タクシーがスピードをあげた。瞬間、店が見えたが、記憶の場所 から1つずれている。(BCCWJコア: PB39_00024)
29
次に、(41)と(42)について考えたい。(41)は目の前にある「りんご」がどのように 目に映ったのかという「見え方」を問題にしている文であり、(42)は目の前にいる「彼」
を見て犯人であるように感じられると判断している文である。(41)と(42)は、対象物 を視覚でとらえていることを前提とし、その上で、対象物がどのように目に(あるいは心 に)映るのかということを問題にするという共通点がある。そこで、これらをまとめて用 法④として扱うことにした。また、(44)のように見え方の程度について述べる場合も、
用法④に含める。
(44)銀河系の星がたくさん集まる「天の川」が、鮮明に見える季節でもある。(BCCWJ コア: PN2g_00004)
次に、状況可能について考えたい。山内・清水(2001:109)は、「日本語においては、可能 表現よりも自発表現の方が好まれる」という仮説のもと、状況可能の中で「視野内のもの が自然に目に飛び込んで来る」という自発の条件を満たすものには「見える」を使用し、
自発の条件を満たさないものには「見られる」を使用するとしている。本論文でもこの考 え方を踏襲し、状況可能の中で山内・清水(2001)の言う自発の条件を満たすものを用法⑤、
自発の条件の「自然に目に飛び込んで来る」という部分を満たさないものを用法⑦、自発 の条件の「視野内のものが」という部分を満たさないものを用法⑧とする。また、文脈に よって自発の条件を満たすとも満たさないとも解釈しうるものは用法⑥とする。用法⑦は 鑑賞・評価などの精神活動を伴う場合や、「見る」という動作が実現する可能性について述 べる場合に用いられる。用法⑧は「存在する」という意味で用いられることが多く、また、
いわゆる「ら抜き」は使われにくいことから、受身の性質も併せ持っていると考えられる。
以上、「見える」「見られる」の意味・用法について、先行研究をふまえて考察した。本 章で考察した内容を整理すると、以下のようになる。以後、本論文における調査・分析は、
すべてこの分類にしたがって行う。
用法① 能力可能:「見える」を使用
視覚能力の有無、視力の良し悪しなど、対象物を視覚でとらえる能力を有しているか どうかを問題にする場合
(45)(視力検査で)この字が見えますか。(山内・清水(2001:107))
用法② 自発1 典型的な自発:「見える」を使用 眼前性あり/特に可能の意味はない
(46)ほら、あそこに、鹿の赤ちゃんが見えるよ!かわいいね。(作例)
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用法③ 自発2 特筆すべきもの:「見える」を使用
特筆すべきものが目に飛び込んでくる(目につく)場合/何かが視野内に飛び込んで くる(出現・発見)場合/眼前性はなくても可
(47)必要なら、蛍光管が直接見える器具を避けて…(略)(BCCWJコア: OC12_02182)
用法④ 自発3 見え方を問題にするもの:「見える」を使用
既に視覚でとらえているものが、どのように目に映るのかを問題にする場合/「きれ いに見える」などの外見、「はっきり見える」などの程度、「彼はうそをついているよ うに見える」などの判断・評価など
(48)今日の彼女は、いつもよりきれいに見える。(山内・清水(2001:111))
(49)星がはっきりと見えるかどうかで、大気汚染のバロメーターになる。(BCCWJコ ア: PN2g_00004)
(50)彼は、あまり行きたくなさそうに見える。(山内・清水(2001:111))
用法⑤ 状況可能1:「見える」を使用
状況可能の中で、自発の条件を満たし自発と解釈しうるもの/可能の意味を含む
(51)コピーの自が薄くて見えない。((27)を再掲)(山内・清水(2001:112))
用法⑥ 状況可能2:「見える」「見られる」どちらも使用可
状況可能の中で、「自発の条件を満たす」「自発の条件を満たさない」どちらとも解釈 しうるもの
(52)あの山の山頂に登れば、摩周湖の全景が見える/見られる。(山内・清水(2001:113))
用法⑦ 状況可能3:「見られる」を使用
状況可能の中で、「自然に目に飛び込んで来る」という自発の条件を満たさないもの
/鑑賞・評価など、精神活動を伴うもの/「見る」という動作が実現する可能性につ いて述べるもの
(53)18時の電車に乗れば、私は19時からの『忠臣蔵』が見られる。(下岡(2005:5))
用法⑧ 状況可能4:「見られる」を使用
状況可能の中で、「視野内のものが」という自発の条件を満たさないもの/「存在す る」という意味で用いられることが多い
(54)南の島々では1年中色とりどりの花が見られる。(山内・清水(2001:114))
用法⑨ 心情可能:「見られる」を使用 心理的側面に着目したもの
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(55)あいつの顔は、とても見られたもんじゃない。(山内・清水(2001:113))
第2章~第4章で、日本語学における「見える」「見られる」について観察した。そこで 得られた知見をふまえて、本章では上記のように「見える」「見られる」を9つの用法に 分類した12。次章以降では、この①~⑨の用法の分類を基準にして「見える」「見られる」
の実際の使用について調査・分析し、その実態を明らかにしていく。まず、次の第6章で 書き言葉について、第7章で話し言葉について、コーパスを用いて調査・分析する。続く 第8章ではアンケート調査を通じて非母語話者の「見える」「見られる」の使用傾向を探り、
第9章では日本語教科書における「見える」「見られる」の扱いを観察する。そして第10 章で、これらの調査・分析を日本語教育に応用する方法について考える。
32