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非故意的・過失的正犯行為に対する共犯(五・完)

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(1)

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯(五・完)

その他のタイトル Die Teilnahme an der unvorsatzlichen fahrlassigen Haupttat (5)

著者 中 義勝

雑誌名 關西大學法學論集

巻 44

号 1

ページ 65‑105

発行年 1994‑04‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00024651

(2)

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶

結語︵本号︶

一九七三年の刑法大改正以後における共犯規定について考えてみることにしたい︒

1まず︑シュトラーテンヴェルト

( S t r a t e n w e r t h , S t r a f r e c h t ,  

A T . ,

3

 

A u f l

:  

1981)は︑不法共犯説によれば︑構成要件該当で

違法な正犯行為がありさえすれば共犯は可能であるとし︵制限従属性︶︑かつこれには主観的構成要件も充足されているというこ

と︑したがって故意犯においては正犯者の故意も存せねばならないという要件も含まれるとしている︒けだし︑然るときにのみ法

律的意味で﹁違法な行為﹂が存するとされているからである︒しかし︑不法共犯という原理の助けをかりるかぎりでは︑教唆およ

ぴ討助は故意犯に対してのみ可能であって︑過失犯に対しては排除されるのかどうかという問題は答えられない︒というのは︑過 中義

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶

(3)

第四四巻第一号

失的に行なわれる犯罪行為も構成要件的不法だからである︒しかし︑法律はこの点に関して︱つの決断を下した︒つまり︑共犯は

﹁故意的に行なわれた違法行為﹂を前提にすることとなった︵二六条・ニ七条︶︵

a. a. O. Rn

.  864 865)

教唆者の︑行為に対する特別の寄与は︑法規の文言によれば︑彼が正犯者をこの行為へと規定するという点に存する︒そして︑

﹁規定する﹂とは︑正犯者に行為を遂行すべき決意を喚び起すということを意味する︒さらに︑決意は︑未遂におけるように主観

的構成要件要素の全体︑それゆえつねに故意を包括する︒そしてこのことは法律に明言されている︒

もっとも︑このような法律の規定は﹁法政策的失敗﹂と批判されている

(S ch ii nk e‑ Sc hr ii de r Cr am er ,  S tG B.   20 .  A uf l.  1 98 0,   32 f.  

vor§25)︒そして︑二つの事例グループを顧慮するならば︑教唆が正犯者の故意を要求することは困難にみえる︒第一のグルー

プにとっての実際例を

1

この問題を法律的に決着していなかった旧法時代にーニつの最高裁判所判例が提供している︒ある医

者が︑同僚の医者によって︑彼の医療活動のためにその通知が必要であるかのごとくよそおって︑彼によって以前出された診療所

見を通知するよう誘致された

(B GH St . 4,

 3

55

︒また︑ある女性ドライヴァーが擦過衝突事故を起した後に︑同乗者が他車の所有)

者と折衝したうえで万事終ったと偽りの保障をし︑自分で車を操縦して現場を立ち去った

(O LG . St ut tg ar t,  

1•

95 9,

  57

9)

︒もし

教唆が正犯者の故意を前提にするとすれば︑﹁背後者﹂は︑行為へと誘致された者が非故意的に行為するときにはつねに間接正犯

者たりうるにすぎない︒しかし︑︵私的秘密の侵害︹新二

0

三条︺や事故現場からの許されざる離隔︹一四二条︺のごとき︶身分

犯とか自手犯に対する部外者の加功がある場合には︑間接正犯は成立しない︒したがって︑ここに可罰性の間隙が与えられ︑かつ

この間隙は︑共犯が正犯者の故意を必要としないとすれば直ちに塞がれる︒反面︑自分の職務行為として電気配線を点検せねばな

らないと医者を騒し︑この機会に患者のカルテを盗む者はー法律が私的秘密においては国家の秘密︵九六条︶に対するとは違っ

て︑漏洩にのみ刑を科し偵察に対してはそうしていないにもかかわらず

(W el ze l, 11 .  A uf l.  1 96 9,   S.

 1

13 )

ー﹁教唆﹂のかどで

可罰的だということになる︒さらに︑たとえば自らは営利の意図で行為することなしに︑他人の財産の管理者に危険はないと欺岡

することによって損害の大きい経済行為をするよう誘致する者は

1

単なる財産損害は刑のもとに立っていないにもかかわらず 関法

(4)

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶

ー背任︵二六六条︶に対する﹁教唆﹂のかどで可罰的であるということになるのであろう︒それゆえ︑行為の主観的側面が欠如

してもよいと信じるときには︑刑法上重要な不法の限界が崩れることになる︒のみならず︑可罰性のあらゆる間隙を塞ぐ必要があ

るとする主張は﹁罪刑法定主義﹂の原則を根本からくつがえすことになる︒これに対して︑このような間隙を甘受することは僅か

共犯は故意の正犯行為がある場合にのみ可能であるとする主張は︑上述の第二のグループにおいても︵実務上僅かなものである

としても︶やはり可罰性の間隙が生じることになる︒すなわち︑関与役割について錯誤がある場合︑たとえば︑背後者が前置者が

故意に行為しているものと誤認したというような場合がこれである︹背後者は教唆者ではありえない︒教唆の故意をもって︑客観

的には間接正犯としての機能を果しているが正犯資格がないので間接正犯も成立しない︒そこで︑教唆未遂として︑所定の枠内で

可罰的となるが︑それ以外は不可罰である︺︒法律は非故意的行為に対する教唆を知らないということは︑以上によれば完全に理

由のあることである

( a . a . O .

R n .  

878‑880)

封助にあっても︑教唆の場合と同様に︑行為はただに構成要件該当で違法であるだけでなく︑正犯者によって故意的にも行なわ

れなければならない︒然らずとすれば間接正犯が考えられるにすぎない

( a . a . O .

R n .  

8

95)

右のうち︑電気配線を点検せねばならないと医者を欺岡して室外に立ち去らしめた間に患者のカルテを盗んだ事例では︑我々の

立場をとると︑どうして秘密漏泄の教唆が成立することになるのか理解されない︒被告人が医者に働きかけたのは︑電気配線の点

検を口実にして室外に立ち去るということだけであり︑これはなんの構成要件的不法でもない︒したがって︑なんらの教唆罪も成

立せず︑ただカルテの窃取だけが問題になるにすぎない︒また︑他人の財産を管理している者に危険はないと欺岡して損害の大き

い経済行為をするよう誘致する者は背任の教唆として可罰的だとされることにどのような不都合があるというのであろうか︒管理

者に背任の故意がないとしても︑欺岡者はそれを見越したうえでみすみす大きな損害を本人に及ぽすような経済行為をなさしめて

いるのであるから背任の教唆として罰しても不思議はない︒かつ︑これによって管理者として経済行為をなさしめるという決意を な害であるにすぎない︒

(5)

第四四巻第一号

誘発しているのであるから教唆はあるわけで︑非故意的・過失的正犯行為を誘発させることによって刑法上重要な不法の限界が曖

昧にされるといったことは考えられない︒もし︑管理者の右の決意を背任の故意だというのなら刑法上重要な不法の限界を不明確

なものとしているとの非難も当てはまるかもしれないが︑我々はそのような主張をしていず︑さればこそこれを非故意的・過失的

正犯行為に対する教唆だとしている︒したがって︑右の非難は︑このような決意を背任罪の故意とするものだと予定したうえでの

批判であると考えられ︑それが当てはまらないことは明白であるといわなければならない︒

ザムゾン

(S am so n, SK

.  AT.  3

. Au fl .  19 81 )

によれば︑正犯者は故意的に行為しなければならない︒法律はこのことを二六

条・ニ七条において明定している︵﹁この者の故意に行なわれた違法な行為へと⁝⁝﹂︶︒連邦裁判所は最初非故意的行為に対する

共犯を可能と考えた後︵たとえば︑

BG HS t. 4,

 355;  5

,  4

7)

BG HS t.

9,370以来反対の立場を主張し︑故意の正犯行為が存するこ

とを要求している

(B GH .L RS .

18 

19 60 OLG.  S,  44 : 

tu tt ga rt

,  J 

1•

95 9,

  579 

m.

nm.  L  A

an ge ,  J Z.  1 95 9,

  56

0)

学説においては︑これをめぐって見解は分れていた︒少数説は非故意的正犯行為に対する共犯を可能と考えていた

(S ch on ke

Sc hr od er ,  S tG B.   17 .  A uf l.   Rn .  8 9,   116  vor§4 

7.)

。出)っレJ

ふ)‘*エ詈は、そ

J

のさい盲〖の北ハ卯 tがとりあげられているのか、発起者が述

べられているのか疑わしいとしている︒︵同旨︑

Ro xi n, Ti i. te rs ch af t,   S.  

364 

f f . )

もっともこれはいわゆる義務犯にかぎった話だと

している︿同旨︑

Ru do lp hi ,

GA.  1

97 0,

  353﹀︒しかし︑彼は︑現行法にとってこの立場はもはや主張されないとしている

(R ox in , LK .  R n.   21 ff .:   Ju S.  1 97 3,

  355: 

同 3

百 ︑

Sc hm id hi iu se r, 14 / 

94) 。仙 i

の芸匹字(li岬F

姻~にー)たがい、鉦幽叩限に幼 8

g

の正犯好

2

為『を要全求して

(W el ze l, Lb .  S .  11 3)

︒最後に︑第一︳一の見解は︑共犯者が故意の正犯行為を表象しているだけで十分だと考えている

(B au ma nn ,  J uS .  19 63 ,  1 33

,  137;  J

es ch ec k,

  49

9)

F

r

E i T

正犯者の故意を必要でないとする学説は︑背後者はー前置者に故意が欠けているのでー・│この者より優越した知見をもっ

ており︹本来なら間接正犯者としてもよいはずのところ︺︑彼には構成要件上必要とされている正犯者資格が欠けているので︵間

接︶正犯者たりえないといった事例をとらえている︒事故に関与した運転者を︑事故に関する欺岡によって善意でさらに運行する

六八 ︵六八

(6)

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶ よう使喉する者は︑もし教唆には故意の正犯行為が必要でないとするときには︑

一四二条︑二六条からは罰せられない

( O L G . S t u t t g a r t ,

  J 

1

9 5 9 ,   5 7 9 ;   L a n g e ,   J Z .   1 9 5 9 ,   5

6 0

  ;  R u

d o l p h i ,   G A .   1 9 5 0 ,   3 5 3 )

Jが士のユヱ底i去8

キ ぷ 欺 四

I L6↑卜

Pのカルテ

の善意の交付へと使喉する非医師にとっても妥当する︒

⑯正犯者に故意があるとの表象を共犯者がもっているだけで十分だとする諸家にとっては︑背後者には正犯者意思もなく︵彼

はただ教唆しようとだけする︶また行為支配意識も存しないので正犯は成立しないということになる︒共犯には故意の正犯行為が

必要だとする諸家は共犯末遂を認めることになる︵したがって︑三

0

条という狭い範囲内でのみ可罰的︶︵

B G H S t , 9 ,  

3 8 2

  ;  M

‑ G o s

  , 

s e l , A   T .

  2 

A u f l .  

2 3 4

  ;  W e l z e l ,   L b .   1 2

3   ; 

S a m s o n ,   WuV. 

I, 

2 1

9   ; 

T r o n d l e ,   G A .   1 9 5 6 ,   1 4 3

  ; 

B o c k e l m a n n ,   G a l l a s F S .   2 6 1

  ; 

S t r a t e n w e r t h ,   R n .

  9 6 3

  ;  S

c h i i n k

e   , S

c h r o d e r ‑ C r a m e r ,   R n .

  80 

v o r § 2 5 )

8 I

i

北ハ

知土

3

{

8訓することになる

o (

B

m a n n , J u S .   1 9 6 3 ,   1 3 3 ,   1 3 7 ;   J e s c h e c k ,   4 9 2

) ︒

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ところで︑︹共犯は故意の正犯行為を必要とする︺法律の規定は︑ザムゾンによれば︑祝福されるべきである︒この規定は︑違

法性は行為無価値によっても規定されるという人的不法の理論から首尾一貫しているだけではない︒正犯行為には故意が必要だと

することによって︑構成要件の明確性ということから要求される共犯が構成要件該当の正犯行為に緊密に関係づけられるというこ

とが依然として保持されているということからも必要である︒ウェルツェル

( L b .

1 1 3 )

が適切にも強調しているように︑非故意

的正犯行為に対する共犯を認めることは構成要件の限界を棄て去ることになる︹教唆行為と然らざる行為の区分を曖昧にする︺︒

医者を欺岡することによって患者のカルテを交付するよう使喉する者は︑新二

0

三条による秘密破棄を惹起しないで︑不可罰の偵

察行為をしたにすぎない

( B a u m a n n , 5 8 2 ;   J u S .   1 9 6 3 ,   1 3 2 ;   J e s c h e c k ,   6 3 4

;   S a m s o n ,

  WuV. 

I, 

2

1 9

︒同様のことが︑正犯者が故意

)

行為をしていると背後者が誤認した場合にも妥当する

( R o x i n , L K .   §25 

R n

.   9

8 )

︒たとえば︑医者が故意に行為すると信じていた

者は︑たしかに秘密破棄の教唆・討助をしようと思っているが︑客観的には偵察行為をしているものである︒したがって︑共犯既

遂は成立しない︒ここでは︑不可罰の共犯未遂だけが残る︒反対説︹共犯既遂説︺は︑背後者にはそれだけの当罰性があるとして

(7)

第四四巻第一号

いるが︑これには理由がない︒すなわち︑本説によれば︑背後者は彼が欲したことより客観的により大なることを表現しており︑

したがって教唆故意というより小なるものが︑事実上実現されたより大なるものと合わさって教唆既遂になるとする主張

( S t r a t e n w e r t h ,   R n .   1 0 2 5 )

は︑共犯者が客観的に単なる共犯以上のことを実現しているという前提が説得的でないから不適切で

ある︒より以上のこととは正犯以外にはない︒けれども︑正犯を基礎づける行為支配というメルクマールはこのようなやり方では

背後者には与えられない︹たしかに︑彼には客観的には行為支配があるが︑これに即応する主観面が欠如している︺︒行為支配

( W i s s e n s h e r r s c h a f t )

という形でのーは背後者に優越的知見のあることを前提にしているから︹それ

のない本件においては︺︑前置者に故意が欠如しているからとて︑客観的に行為支配があるなどいわしめられない︒背後者がなん

らの優越性をももっていないのであるから︑前置者に不知見があったとしても︑背後者に﹁客観的﹂行為支配があるなどいわしめ

られない︵同旨︑

B o c k e l m a n n , G a l l a s   , F S .   2 6 9   f . )

︒最後に︵⁝⁝﹁この者の故意に行なわれたる⁝⁝﹂︶という法律の文言は明白

である

( R o x i n , J u S .   1 9 7 3 ,   3 3 5   F u B n .   4 4 )

︒如叫ヽつるに︑この種の事例を教唆と﹁同様﹂に処罰しようとした六一一年草案三二条を立

法者は継承していない︒もっとも︑バウマン

( 5 8 4 F u B n .   1 2 )

は︑六二年草案︱二二条の削除は決して最終的な問題の決定でない

本書で主張されている制限責任説

( § 1 6 R n .   1 2 )

によると︑正当化事由を誤認した場合にも故意はなくなる︒然るときには︑

故意的正犯行為の欠落によって共犯は成立しない

( B a u m a n n J , u S .   1 9 6 3 , 3   1

2   ; 

R o x i n ,   J u S   1 9 7 3 , 3   3 6 .   異説↑~共犯の適用可能性

にくみして

1

R o x i n ,

L K  

.   R n .

  2 2

)   ( a . a . O .   R n

.   26‑28 

v o r § 2 6

)

ザムゾンは違法性というものは行為無価値によっても規定されるから︑たとえば故意的正犯行為を誘発させることによって結果

を惹起することが共犯の行為無価値と結果無価値とを併せ惹き起すこととなり︑この点からみて人的不法の理論上首尾一貫してい

るだけではないとしている︒しかし︑共犯不法を正犯者の故意を誘発させることによる結果無価値の実現とするかぎりでは︑右に

ルドルフィも指摘しているように︑正犯者の社会的類廃といった︑いわば責任共犯説的分子をも共犯者不法に数え入れることに ということを認めている︒ 関法

七〇 ︵ 七 〇

(8)

1 0

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶

  ー

J

なって逆に適切ではないであろう︒また︑故意の正犯行為を要求するならば︑たしかに共犯の構成要件的明確性が達せられる︒し

かし︑裏面において︑この要件を充たさない背後者︵つまり︑非故意的・過失的行為を利用する背後者︶が安易に間接正犯とされ

るという犠牲を払って右の共犯の構成要件的明確性が達せられるのだとすれば︑周辺的法形象︵共犯︶の輪郭を明確にするために︑

そのしわよせが中心的法形象︵正犯︶に転嫁され︑実質上︵間接︶正犯に値いしないものが正犯とされることになるので︑この意

味では本末転倒しているといわなければならない︒なお︑

B G H S t .

4,

5

5の事例が︑むしろ被告人を秘密漏泄の正犯とすべき事例

であり︑また︑不可罰の偵察行為を秘密漏泄の教唆と解すべきでないとするゆえんは︑右にシュトラーテンヴェルト説を批判した

さいにも言及されているところである︒最後に︑たとえば︑非医家が医者を教唆して秘密を漏泄させようとしたが︑この医者には

故意がなく︑ただ過失的にカルテを交付したというような場合︑どうして秘密漏泄の教唆が成立しないとするのかが理解しがたい︒

ザムゾンも指摘しているように︑この場合には背後の非医家には間接正犯的な支配も認められない︒けだし︑もし医者に過失があ

るとすれば︑通常ならそれに気づいてカルテの交付に応じないからである︒したがって︑教唆故意というより小なるものが客観的

に単なる教唆以上のことを実現しているので両者を併せて教唆既遂が成立するという推論にはしたがうことができない︒しかし︑

非医家は教唆故意をもって医者にカルテを交付する決意を誘発し︑その結果としてカルテを交付させたというのであればその教唆

は成功しているものであり︑教唆既遂としていささかも支障がないのではなかろうか︒つまり︑非医家は医者に働きかけてカルテ

を手交すべく使喉し︑その決意を誘発することによってこれを手交させたとすれば︑たとえその経過に支配関係︵あるいは必然関

係︶がないとしても︑なお相当関係が認められ︑決意誘発による手交は成功しているものといわねばならない︒したがって︑教唆

既遂を認めてもさしつかえないであろう︒これを単なる教唆未遂として︑かぎられた法定の条件のもとにのみ可罰的とする考え方

シェンケ・シュレーダーが非故意的・過失的正犯行為に対する共犯を可能としていた次第は右に諸家の見解をうかが

うときに知られていたが︑彼らのコメンタールを継承したクラマーとしても︑法律上︑共犯はかならず故意の正犯行為に対しての

(9)

第四四巻第一号

︵ 七 二 ︶

み成立可能とされるにおよんで︑これを無視することができなかったことは当然である︒そこで︑シェンケ・シュレーダー・クラ

マ ー

( S c h i i n k

e , S

c h r o d e

r   , C

r a m e r ,   S t G B .   2 3 .  

A u f l.  

1 9 8 8 )

によれば︑刑法二六条・ニ七条は︑教唆およぴ討助は﹁故意に行なわれ

た﹂正犯行為を前提にするものとしている︒こうして︑立法者は︑正犯行為が故意的に行なわれねばならないか否かについての争

いに幕を降ろした︒しかし︑このように共犯を故意の正犯行為に対してのみ可能だとする制限は実際的には是認されない︒そのか

ぎりでは︑この改正は法政策的には失敗である

( R o x i n .

S

t W .   8 3 .

  3 9 8

  :  L

K .   R n .  

23 

v o r § 2 6

.   租税刑法の領域にとっては

J a k o b s ,

5 4 8

  ;  M a

i e r ,

D R .   8   M

6 ,

  3 5 8 も批判的︒異説︑

S a m s o n , S K .   R n .

  2 7   v o r § 2 6 はこの規定を明らかに祝福している︶︒

立法者がこのように間違って決断したということは︑正犯者が故意に行為しているものと共犯者が誤信しているときでさえ︑可

罰的共犯が存在しないとする点に示されている︒六二年草案三二条はこの事例を共犯と同視しようとしていたが︑﹁故意に行なわ

れた﹂と規定している二六条・ニ七条の現在の法文にかんがみると︑これは可能ではない︵同旨︑

R o x i n , L K .   R n .

  2 4   v

o r

§ 2 6 ,

  § 

2 5   R

n .

  97 

f .  

イェシェックは︑背後者が故意行為へと教唆しようと思っていたとすれば︑前置者に過失的遂行があったときにも教

唆既遂があるとしている︶︒重罪を教唆しようとしていた場合には三 0 条︹教唆未遂︺が考察にのぽる︒自手犯や身分犯の場合︑

直接行為者が犯罪関係を見通していず︑それゆえ故意的には行為していず︑他方故意的に行為している背後者が正犯資格または自

手性の欠如により正犯者たりえないので発起者ということも考えられるが︑これはもはや成立可能ではない

( R o x i n

T .

,

  u .  

T . 

3 6 4  

f f ,  

4 2 0   f f .  

本コメンタールの

1 7 .

A u f l.  

R n

.   1 1 4   f f .  

v o r § 4 7 ;  1

9 ,

A u

 

f l.  

R n .

  1 7   v

o r

§ 2 5 )

︒ 背

E

径孟白が基本犯を教唆したが︑前置者が

故意なく加重構成要件を実現してしまったというような事例もこの関係に属する︒たとえば︑窃盗を教唆した者がひそかに正犯者

のポケットに武器を忍ばせておくとか︑ガスピストルを無害な手段として支給していたとすれば︑背後者はたしかに加重事情に関

しては間接正犯の前提を実現しているが︑彼には正犯のために必要な領得の意思が欠如しているのでこの概念をもってまかなうこ

とができない︒もし単純窃盗の教唆ということに甘んじたくないとするなら︑加重事情は発起者という方法で背後者に帰せられる

ことになろうが︑これは二六条・二七条の現在の規定では不可能である︒構成要件的錯誤︵一六条︶と許容構成要件の錯誤(‑六 関法

(10)

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶

条の類推︶とを区別し︑二六条・ニ七条の意味での故意性を﹁単なる事実的故意﹂として理解しようとするロクシンの見解

( L K .

R n .   2 2

  v o r § 2 6

  ;  J u S .  

7 3 .  

336)~

E七

りが

りか

5

J

3圃店胆のものを徘芦属性に関して不等に取扱っているからで

これに反して︑今日の法状態においても︑背後者が身分犯または自手犯において︑故意を阻却する錯誤を惹き起さずもしくは利 用せず︑直接行為者を暴行または脅迫によって故意に行なわれる行為へと誘致し︑または特別義務者の禁止の錯誤を利用すると いったいわゆる発起者の事例は教唆として把握される︒これまで統一的に教唆と評価されていた﹁似而非なる間接正犯﹂

( 1 1

者︶の事例は︑今や結論のうえで是認されないような仕方で︑正犯者が強制ないし禁止の錯誤を利用して誘致されるのか︹なお事 実的故意なる正犯行為を利用するから教唆︺︑それとも欺岡を介して然るのかによって区別されることになっている︹もはや非故 意的正犯に対するものであるから共犯でなく︑また正犯ともなりえないから不可罰︺︒

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

立法者が二六条・ニ七条の規定を︑教唆および帯助はその固有の構造という基礎から﹁事物の論理から﹂故意に行なわれた正犯 行為を前提にするという見解にもとづいて把えているので︵

N

B

.   B G H S t .   9 ,  

3 7 0

  ;  B

a u m a n n

‑ W e b e r ,   5 4 5 ,   J u S .   6 3 ,   1 3

2   ; 

B o e k e !

‑ m a n n ,  V e r h a l t n i

s   v

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2︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

なわれたる﹂のもとに何が理解されているのかも明らかである︒すなわち︑正犯行為は故意に行なわれた不法たらねばならないと

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

考えられている︒正当化事由の前提に関する錯誤の事例においては正犯者には故意の不法が欠如するから︑これに対する共犯︵既

遂︶は可能ではなく︑三

0

条︹教唆未遂︺が考察にのぼるにすぎない︒もっとも︑行為に加功する者が正当化事由の欠如を知って いるなら︑その他の正犯者資格が具わっているかぎり︑彼は間接正犯者として処罰される︒これに対して︑シュミットホイザー

( S c h m i d h a u s e r ,   V o r s a t z b e g r i f f n   u d   B e g r i f f s j u r i s p r u d e n z , 1   9 6 8 ,

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ち︑彼は意思要素だけを故意概念から切りはなして不法構成要件に属せしめ︑︹指導形象構成要件の認識はあるから故意なるもの

(11)

ぎり教唆および討助は可能である︒そのさい として︺この場合にも故意行為に対する共犯の成立を認めている︒

正犯者が禁止の錯誤において行為するならば︑故意の不法が行なわれており︑したがってこれに対する共犯も可能である︒その

さい︑その禁止の錯誤が回避可能であったか否かはどうでもよい︒というのは︑その禁止の錯誤が回避不可能であっても不法の性

質には変更がないからである︒共犯は他人の不法に対する加功だけを前提にし︑二九条によれば各関与者は自分の責任によって罰

第四四巻第一号

もっとも︑背後者が︑前置者が禁止の錯誤に陥っているということを知っており︑かつ彼が善意の前置者を行為へと利用すると

きには間接正犯が存在し︑教唆は第二次的なものとして吸収される︒間接正犯が成立するというのは︑ここでは背後者が出来事を

その事実的意義においてのみならず︑その法的射程においても知っており︑したがってそのかぎりで悪意なき正犯者を掌中に把持

しているということから与えられる︒

︑︑︑︑︑︑

故意・過失結合が行なわれている構成要件においては特殊問題が生じることになる︒結果的加重犯に関しては︑旧法が行なわれ

ていたときにも︑教唆およぴ帯助が存しうるかが疑われていた︒けれども︑同じ問題が︑故意的に爆発を起し︑もしくは故意的に

道路交通における不当な行為をなし、この故意要素と他人の身体•生命または重要な物の価値にとっての危険の過失的招来とが結

び合わされるといった風に構成要件がつくられている犯罪においても生じうる︒決定は︑ここでも︑結果的加重犯におけると同一

でなければならない︒これによれば︑共犯者が結果的加重犯の基本的構成要件︑あるいは危険な行為に関して故意的に行為するか

果に関しては過失で足りる法律上の構成要件を実現した場合でも︑その行為は︑本法の用いる意味で故意にするものである︺が指

示される︒けれども︑これをこえて︑右の両事例において︑共犯者も危険の招来に関して彼の側ですくなくとも過失が存せねばな

らぬ︒このことは︑故意・過失結合犯においては︑共犯者も重い不法に対して一八条︹結果的加重犯︺の前提下においてのみ責任

を問われるということから与えられる︒ 関法

︱一条二項︹行為に関して故意を要件とするが︑それによって惹起された特別な結

(12)

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶

これに反して︑正犯行為が有責に行なわれる必要がない︒行為に対して各関与者は彼の責任によって︑その他の関与者の責任を

顧慮することなしに罰せられる︵二九条︶︒したがって︑教唆およぴ附助は正犯者に責任能力がなかったということによって不成

立とはされない︒免責事由が正犯者の一身には存するが︑共犯者の一身には存しないとしても︑通説によれば︑このことは後者の

可罰性に関係がない︵ポッケルマン︑ダーム︑イェシェック︶︒他の見解︵マウラッハ︑ゲッセル︶によれば︑正犯者が規範に合

した行為の期待不可能性を基礎づける緊急状態︵三五条︶において行為したときには︑共犯を認めるに十分な関連行為 (B ez ug st at )

関与者が正犯者の責任無能力性を知りもしくは彼が子供(‑九条︶を行為へと誘致するならば︑原則として間接正犯が存在する︒

免責的緊急状態が背後者によって誘致されたときにも同じことが妥当する︒固より︑正犯者が故意に行為しているかぎり︑これと

並んで教唆の前提も存在している︒というのは︑正犯者の心理的表象像は正犯者意思だけではなく︑他人による行為実行の誘致を

も包括しており︑したがってこの場合には教唆者故意が正犯者故意の構成分子になっているからである︒しかし︑教唆は原則とし

て間接正犯に対して第二次的なものである

( a. a . O.

R n .  

3 2

‑ 4 0  vor§25 

f f .

)

ドイツでは︑正犯行為が故意的に行なわれねばならないか否かの問題について︑これを肯定する意味で法律的に決着がつけられ

ている︒そして︑このような法律規定をもたないわが国においては事はおのずから別であって︑こうした規定の制約下に考察しな

ければならないドイツの見解に盲従せねばならないとする理由がないことはこれまで棲説のとおりである︒さらに︑これが立法上

の要請にとどまらず︑事物の本性・共犯の本質にもとづくものであるとすると︑このような立法をもたないわが国においても右の

要請は拘束的であるはずだが︑その然らざるゆえんについては別稿において論証した︵本誌四二巻五号一頁以下︶︒しかし︑クラ

マーによれば︑ドイツにおいてさえ︑この趣旨での改正は法政策的に失敗であるとされ︑現行法を前提にする場合にもなおつぎの

ような問題が生じうるとしている︒

たとえば︑背後者が︑前置者が故意に行為しているものと誤信していた場合︑現行法を基礎にするかぎり︑前置者は非故意的に

(13)

のとしているが︑このような立法を促した実質的理由に注目せねばならないであろう︒そして︑それは過失犯に対しても共犯は可 能であるとする見解以外にはないと考えざるをえない︒もちろん︑背後者が重い結果に対してすくなくとも過失をもっているので

なければ︑全体に対する教唆犯の成立を認めるわけにはいかないのは︑結果的加重犯の単独犯において︑責任主義との関係上︑行 は右のような不当な結論を避けるため︑ の枠内でのみ可罰的となるにすぎない︒ を射繋させたところ︑

B

はその対象を過失的に人と知らず︑

第四四巻第一号 しか行為していないのであるから︑いかなる根拠をもってしようと背後者を共犯とすることができず︑せいぜい教唆未遂として法 定の枠内でのみ可罰的とされるにすぎない︒しかし︑たとえば︑背後者

A

が︑直接行為者Bも事情を知っていると思って︑対象

x

一匹の野獣だとばかり考えていたとしても︑

B

に過失があるかぎり A

に行為支配があるとは解せられず︑この意味では

A

は間接正犯とはなりえないが︑なお B をして射撃意思を誘発かつ実行させてい

るのであるからその使喉︵教唆︶は成功しており︑これを教唆未遂とすべきではなく同既遂と解すべきだとすることは右にも叙述 されたところである︒しかし︑ドイツで現行の法律を基礎にするかぎり︑こうした結論に達しえず︑せいぜい教唆未遂として法定 つぎに︑自手犯や身分犯においても︑直接行為者が過失的に行為するにすぎず︑通説によってこの者を掌中に把持するものとみ られている背後者には正犯資格が欠如するので︑彼は共犯とも正犯ともされないこととなり︑可罰性の間隙が大きく口を開けてい ることを認めざるをえない︒そして︑ここでも︑直接行為者が故意的に行為し︑したがって背後者が共犯となりうる場合よりも実 質上より当罰的である事例において可罰性の間隙を認めねばならないという不合理な結論を避けることができなくなる︒

さらに︑いわゆる結果的加重犯における重い結果にはすくなくとも過失がなければならないとすることは︑ドイツでは法律上要 求されているところであるが︹新一八条︺︑過失的正犯行為に対する共犯が不可能であるとする新しい法律の規定によれば︑基本 行為を教唆した者は︑その基本犯の教唆と︑せいぜい発生した重い結果に対する過失犯の観念的競合となるくらいのもので︑結果 的加重犯全体に対する教唆は成立不可能なはずである︒同じ問題が︑その他の故意・過失結合犯についても生じうる︒但し︑法律

一条二項を設けて結果的加重犯ないし故意・過失結合犯全体に対する教唆が成立するも

関法

(14)

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶ 限従属性はさらに緩和される︺︒

為者は重い結果につきすくなくとも過失の存在が要求されるのと全く同一の理由にもとづく︒もし背後者が重い結果に対しても故

意をもっていたとしても︑にわかにこの結果に対する間接正犯︹通説︺になることはないであろう︒けだし︑直接行為者に知られ

ている基本犯︹傷害︺の遂行が教唆的意味しかもちえないものとすれば︑背後者がこれによって致死の結果を惹き起さしめたとし

ても︑それは殺人教唆になるにすぎないと解せられるからである︵なお︑拙稿﹁故意なき身分犯およぴ結果的加重犯に対する加功﹂

︿

こうして︑ドイツで現行の法律においても︑右にクラマーによって指摘されている各問題において不十分な結論に達するか︑肯

緊に当る結論に達しうるときにはその出発的命題︑つまり非故意的・過失的正犯行為に対する共犯は可能でないとする命題にそむ

かねばならないであろう︒したがって︑その改正は︑クラマーとともに︑我々も︑失敗せるものと考えぬわけにはいかない︒

大改正後のロクシンの見解

( R o x

l n ,

L K ,  

10 . 

A u f l

柑助は﹁故意に行なわれた違法な行為﹂を前提にしなければならない︒刑法︱一条一項五号によると︑﹁刑罰法規の構成要件を実 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

.  

1978)によれば︑刑法の規定︹二六条・ニ七条︺によれば︑教唆および

現する﹂ような﹁行為のみ﹂が﹁違法な行為﹂なのであるから︑構成要件に該当する違法な正犯が存せねばならないことになるが︑

右にみたように︑それはこのほか﹁故意的﹂でなければならないのである︒もし故意を体系的に構成要件のなかに位置づけるとす

れば︑右の構成要件には主観的構成要件も含まれると解説されることになる︒しかし︑人もし故意を責任要素だと考えるとすれば︑

極端従属性ヘ一歩傾くことを意味するであろう︒しかし︑刑法一︳九条が明らかにいっているように︑共犯はいかなる場合にもその

他の責任要素には従属することはない︹制限従属性︺︒このほか︑﹁特別の一身的メルクマール﹂についても︑制限従属性は刑法二

八条の基準によって緩められる︹違法性を基礎づけ︑加減し︑または阻却する一身的メルクマールも連帯しないという意味で︑制

制限従属性にくみし極端従属性に反対したところで︑裁判上の実際的結論はそれほど顕著な相違はない︒けだし︑原則として免

責される行為に対して加功する場合には︑教唆または附助が成立するというよりは︑間接正犯が存在するだろうからである︒もっ

(15)

第四四巻第一号

とも︑これはつねにそうであるとかぎったことではない︒たとえば︑免責的緊急避難行為に加功する場合︑自らこの緊急状態の渦

中にない部外に立つ者がかならずしもこのような状態を作成したとか利用したとかいうわけでなく︑あるいはこのような状態に

陥っているということを知らないときには共犯が与えられる︒事情によっては免責される禁止の錯誤において行なわれる行為に対

する共犯とか︑両加功者とも免責的緊急避難の前提が与えられていないのにこれを誤認し︑直接行為者が三五条二項一文︹行為者

が︑行為の遂行に当り︑第一項により自己を免責すべき事情があると誤信した場合︑その錯誤を回避しえなかったとき︺によって

免責される行為に対しては共犯が可能である︒責任無能力者の行為に加功する場合にも︑個々の事例で共犯が考えられる︒そして︑

これは特に︑直接行為者に責任が阻却されるという事情が部外者に知られていないときに認められる︒なお︑制限従属性の原則は

義務犯においては比較的大きな意義をもつ︒ここでは︑自ら義務をもたない部外者に間接正犯が成立するといったことは不可能で

あるから︑非資格者はたとえ行為支配を内持していたとしても正犯者ではありえない︒したがって︑非公務員として公務員を免責

的緊急避難の前提下に︵免責される︶真正職務犯へと強制するとか︑非公務員が公務員を回避不可能な禁止の錯誤におくことに

よってこの者を真正職務犯へと誘致した場合には︑教唆者として罰せられる︒

正犯行為が故意的でなくてはならないというのはすでに法律上要件とされているが︑この故意性という基準には解釈上若干の困

難がつきまとっている︒特に︑正当化事由の前提についての直接行為者の錯誤が二六条・二七条の意味での彼の行為の﹁故意性﹂

を阻却するか否かが争われている︒そして︑これもまた義務犯において実際的意義をもつ︒何人かがある医者を︑彼の沈黙義務か

ら免れているとあざむくことによって秘密の開示へと誘致するときには

( B G H S t 4 ,

355 

f f .  

OLG•

K ii l n  M DR . 

1962, 591 

f.

 は類似

の状況にもとづいていた︶︑通説的な制限従属性説によれば医者は刑法︱

1 0

三条一項一号︹医者による秘密漏泄︺によっては罰せ

られない︒というのは︑彼の錯誤は故意を阻却し︑かつ過失は可罰的とはされていないからである︒背後者には医者としての沈黙

義務が課せられていないのであるから︑直接正犯者たりえない︒しかし︑二六条・ニ七条の意味での﹁故意性﹂を構成要件的故意

と理解し︑かつ行為者には医者に課せられている秘密を開示するということが知られているだけでよいとすれば︹正当化事由の事 関法

(16)

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶

実的前提を誤認したときには指導形象構成要件という意味での構成要件的故意があるのであるから︺︑彼は教唆者として罰せられ

ることになる

( T a t e r s c h a f t ,

S.

 5 5 2 

f f .  

理由づけは異なるが結論において同旨なのはドゥレーヤー︑イェシェック︑ラクナー︑ルド

ルフィ︶︒これに反して︑有力説︵シェンケ・シュレーダー・クラマー︑ザムゾン︑プライスダンツ︶は二六条・ニ七条における

故意概念を錯誤論から切り離すことを否定し︹この場合にかぎって︑指導形象構成要件の知見があれば構成要件的故意があるとす

ることを否定し︺︑したがって︑この場合には故意の正犯行為が欠如しているというので背後者を共犯とはなしえず︑不可罰とし

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑﹁故意性﹂というメルクマールを単なる構成要件的故意︹指導形象構成要件の認識︺という意味で理解している前者の見解の方

がすぐれている︵理由づけについては︑詳しくは

T i i t e r s c h a f t ,

S.  5 5 2

 

f f . )

︒このことは︑二六条・二七条における﹁故意性﹂を︑

一六条における故意性またはすくなくとも故意刑のために要求されている認識とはいささか別様に理解するよう強いるものである︒

しかし︑同一の言葉が異なる目的論的関係において別様に解釈されるということは決して稀有のことではない︒そして︑このよう

に異なる解釈をすることがここでは命ぜられているのである︒つまり︑正当化事由の事実的前提を錯誤する特別義務者が不可罰に

とどまるとすれば︑彼がこの欺岡の犠牲者になっていたがゆえに責任から免れるということになるが︹後説によって義務者には故

意がないとすれば︑彼は不可罰となるが︑前説をとって彼に故意があるとすれば︑右の錯誤が回避可能であるかぎり︑彼には責任

を問うことができる︺︑よりにもよって︑この欺岡をなし︑したがって二重の責任︹義務者を錯誤に陥らしめたという自分の責任

と︑義務者を非故意的たらしめることによってこの者を不可罰たらしめたが︑それももとはといえば背後者が惹き起したことであ

るという意味での責任︺を自らに担っている背後者を︹直接行為者には故意がないから共犯者たりえず︑また自ら義務者ではない

から正犯者たりえず︺可罰性から免がれざるをえないが︑これは刑事政策的に誤っているであろう︒二六条・ニ七条に故意要件を

かかげた立法的目的論もこのような結論を期待していない︒けだし︑共犯なるものは構成要件的行為がなされたときにかぎって成

立するとして︑その恣意的で曖昧な成立を控制し︑可罰性の氾濫を予防するものであるとしても︑この目的を達成するためには構 なければならない︒

(17)

第四四巻第一号

成要件的故意︹指導形象構成要件的故意︺という要件が十分だからである︒共犯者がこれに関係づけられる典型的メルクマールは

指導形象構成要件のなかに集められており︑したがって︑共犯にとっても直接行為者による指導形象構成要件の意識的実現という

ことで十分である︒ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ このような解釈をする場合にも︑なお故意性を要件とする場合には︑それは疑問のある可罰性の間隙を開くものである︒けだし︑

部外者が部内者に指導形象構成要件のメルクマールを欺岡することによって︑部内者をしてこの意味での故意もなく客観的構成要

件を充たさしめたとすれば︑その無価値内容において単なる教唆をこえる態度が刑法上把握するに由なきものとなってしまうから

である︒たとえば︑何人かがある医者に︑開示されるべき事実はなんの﹁秘密﹂にも当らないと騒すことによって沈黙義務の破棄

へと誘致したとしても不可罰にとどまることになる︒上の判例

( B G H S t . 4 ,   3 5 5 ;   5 ,   4 7 )

がこれを認めていたように︑非故意的正

犯行為に対する教唆が存するとすれば︑部外者はようやく罰せられるということになるであろう︒しかし︑立法者は︑

B G H S t . 9 ,   3 7

0 以来判例を支配している反対の見解を条文化するにいたった︒これによれば︑教唆または帯助のかどでする有罪判決にはつ

ねに正犯者の故意行為が前提とされる︒果してこれが正しかったか否かは学説において最近にいたるまで激しく争われていたし︑

今日でも然りである︵法律の解決に反対して︑および将来の法では故意要件の削除にくみするものとして︑

R o x i n , T a t e r s c h a f t , .     S 3 6 7 ‑ 3 7 9 ; c  S h o n k

e   , S

c h r o d e

r   , C

r a m e r ,   S t G B .  

18 . 

A u f l .   R n .   3 6 ,   3

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§ 2 5 .   : l ; l ; 1

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t r a t e n w e r t h , T   A .  

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成要件に該当する正犯行為にも︑

必要とあらば共犯の可能性を開かしめるほどに従属性を弛めるとすれば︑事態に即した結論へとみちびくことになるであろう︒

なお︑現行法による故意要件にかんがみると︑何人かが他人を犯罪行為へと誘致し︑そのさいこの他人が故意的に行為している

︑ ︑

ものと誤認するといった事例も不可罰である︒

そこで︑正犯行為が﹁違法﹂でなくてはならないという要件を前提とするならば︑構成要件的行為があってもそれが正当化され

るときにはなんらの可罰的共犯も成立しないということが理解される︒そのさい︑二六条・ニ七条の意味での﹁違法性﹂にとって 関法 八〇 ︵八〇

(18)

非故意的・過失的正犯行為に対する共犯︵五・完︶

しうるとしたことは上記のとおりである︒ は︑行為者が注意深く行為したかどうかには関係なく︑客観的禁止に反する態度があるだけで十分でなくてはならぬ︒それゆえ︑義務犯においては実行する部内者が正当化事由の事実的前提を誤認していたとしても︑これに加功し︑かつ事実を見通している部外者は︑直接行為者の錯誤が注意違反にもとづかないときにも共犯のかどで罰せられる︹部内者には指導形象構成要件的故意があ

R n .

1 9

‑ 2 5  vor§26)

^  八

右のうち︑直接行為者が正当化事由の事実的前提を誤認したとしても︑なお彼には指導形象構成要件的故意があるから︑これに関与する背後者を共犯として罰すべきであるとするロクシンの見解にはしたがうことができない︒いうまでもなく︑彼は制限従属性説の主張者であり︑したがって正当化事由の事実的前提の誤認があった場合︑これを過失︑つまり非故意としている︒それにもかかわらず︑この事例に関与する背後者を共犯たらしめるため︑前置者にはすくなくとも指導形象構成要件的故意があるとして故意の中味を薄めることは︑いかにも目的論的必要性に促がされた窮余の一策だという思いが深い︒しかし︑いくら目的論的必要性があるからといって︑これを指導形象構成要件的故意がある場合だとするのは︑いかにも便宜的だという感を免れず︑その制限責任説という本来の主張をこの場合にかぎって厳格責任説に売り渡すものだといってよい︒

B G H S t .

4,

 355の事例は︑このような不

合理を冒して被告人を共犯として可罰的とするより︑むしろ被告人に守秘義務が移ったものとして︑彼を秘密漏泄罪の正犯者とな

一歩ゆずって︑この場合の故意を指導形象構成要件的故意の意味に理解するとしても︑共犯は故意的正犯行為に対して

のみ可能であるとする法律の規定は疑問のある可罰性の間隙を開くものであるとすることは︑まさしくロクシンが指摘するとおり

である︒そして︑これをめぐる議論については︑右にクラマーの見解を検討するさいにも述べたので︑ここでは繰り返さない︒

右のロクシンやシェンケ・シュレーダー・クラマーおよぴルドルフィの見解の基礎となっているのが︑ロクシンの正犯と行

為支配についての論稿

( R o x

i n ,

T i i t e r s c h a f t   u

n d

  T

a t h e r r s c h a f t ,  

4.  

A u

f l .  

1984)である︒これは︑非故意的・過失的正犯行為に対し

ても共犯は可能であるとする見解のいわば源流をなす見解であり︑したがって︑そこでどのようなことが述べられているかを確か

参照

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