第2章 最初期のケルト人たち
(本誌「年報」第 15 号、2010 年、P.89 ─)
<ヨハン・ゲオルク・ラムザゥアーが 1846 年と 1863 年の間にオーストリーのハルシュ タットの墓施設の中で発掘した墓たちの若干の 水彩画たち>
第 1 節 ハルシュタット文化:丘上要塞 と土丘墓たち
(P.89、右)
上 2 ─ 4:<ハルシュタット C 期と……位置 を示す地図>→<(向かい側[次ページ]の地 図:この地図はハルシュタット C 期と D 期の 間における車葬墓たちの西方移動と[D 期の]
若干の「侯爵たち」の中枢場所たちの位置を示 す。 上 5 ─ 7:これら中枢地が…注目される。
→これらの居住地たちは最重要諸河川沿いの諸 街道に近く、かつギリシアのマッサリア港への 通路にもあたるとされる。
上 8 ─ 11:<ヒルシランデンの戦士の……と される→(右)<この石像はバーデン・ヴェル テンベルク州のヒルシランデン[ホッホドルフ の南方約 6km]の土丘墓の上に立っていたと さる(下はその構成スケッチ)。 上 12 ─ 15:
この裸の男の人物は短剣……似ている。→この 裸の男の人物は、ホッホドルフの「侯爵」の墓 の中で発見されたものたちに似た短剣、首輪、
円錐形のハットを身につけている。 前 6 世紀 末>
下 24:<ケルト諸語の諸起源と伝播>→<
ケルト語たちの諸起源と拡大>
下 21:出現→浮上 下 19:伝播→拡大 下 18 ─ 17:しかしはるかに……すでに存在してい たこと→しかし、すでにはるか以前にケルト語 たちが存在したこと
下 15 ─ 11:その 1 つには……移動は証明さ れないのである。→第一に、たとえば大ブリテ ン島とアイルランドにおける考古学の発見物た ちが青銅器時代の土着の諸伝統に際立った連結 性を示していて、そのためここでは大規模なケ ルト人の諸移動は証明されていないのである。
下 11 ─ 3:もう一つには……推測させるので ある。→次に、ケルト語を話す人々は、われわ れがすでみてきたようにおそらく前 6 世紀には すでににヨーロッパの広い諸地域を越えて向う 側に広まっていたであろう。 そうならば石の 碑文たちは、(イタリア・アルプスの縁ふちの前 9 世紀から前 5 世紀まで支配した)ゴラセッカ文 化がケルト語によったとする推測を容易によび 起こさせることになろう。
下 2 ─ P.90、左上 7:それではケルト語の諸 方言は、……大きな地域で作り上げられたかも しれないのである。→それではケルト語の方言 たちは、さらにもっと以前の先史時代の大移動 の波のなかで広まったのだろうか。かならずし もケルト語たちはある特定の小さな地域で成立 して、そこから広まったとする必要はないので ある。したがってそれらは徐々にと全く同様に 一斉に――共通の社会的、政治的並びに宗教的 施策に並行して――大きな地域で形成されてい たかもしれないのである。
上 8 ─ 21:後者の方が……よく適合するので ある。→後者の方がラ・テーヌ文化のたとえば ブリテン諸島への拡大の説明に役立つかもしれ ない。換言すればすでに存在しているいくつか の類似点やある程度の相性のよさなどが人々 を、新しい芸術を受け入れる気分にさせたとい うことである。もちろんこの考えには異論があ サイモン・ジェィムス
ケルト人たちの時代(21)
鍋澤 幸雄 訳 訳文の諸訂正(8)──コラムなどの諸補説並びに図面や写真などの諸解説部分(その2)
り、この考えは、そのときのこの人々はケルト 人になったのた反して何故その他の人々はなら なかったのかすら説明していない。それにもか かわらずこの考えは、歴史的に証明された南方 および東方への拡大の努力と比較される、ケル ト人たちの西方移動の徴候が全く認められない という考古学的諸調査結果には、他の諸理論よ りははるかによく適合している。
(P.90、左、下 21 ─右、上 21)[S.23、左]:<ヴィ クスの墓……との緊密な人のつながりを示唆す る>→< 1953 年フランスのラソワ山の近くの ヴィクス Vix で石の推積の下で一人の女性貴 族の墓が発見された。それは前 6 世紀末期のも ので、各側長 3m の正方形の墓室から成ってい た。
その遺体からは 35 歳位の女性である。その 頭蓋骨はそれでも予想される顔つきが復元され たほどよく保存されていた。(上) 彼女は棺台 として用いられた馬車の車台の上に横たわって いた。四つの車輪は取りはずされ、木造の墓室 の[東側]の内のりに立てかけられて置かれて いた。頭蓋骨のそばには非常に美しい黄金の首 輪が横たわっていた。(右)
墓室のもう一方[西側]の半分は飲食器であ ふれ、その中にはエトルリアのカンヌやアッティ カの飲酒杯たちもあった。(左下) この墓の特 徴を形成していたのはこれまでに発見された最 大の、ブロンズの巨大クラター[台つき両手付 つぼ]であった。(左下) 二体のゴルゴー[神 話上の女怪]と、ギリシャ戦士や戦車たちで装 飾されたこの大つぼは、小さな婦人立像のつい た[丸い]蓋ふたをもち、その高さは 1.64m もある[重 さは 208kg]。このスパルタかまたはギリシャ領 南イタリアで製造された大つぼはどうやら諸部 品の形で北方の地に輸送されてからその地で―
―おそらくギリシャの工芸家たちによって――
組立てられたらしい。別な言葉でいえばラソワ 山とギリシャとの緊密な人のつながりを示唆す る。>
(P.90、左、下 9 ─右、上 11)[S.23、右]:こ れ[Vix の首輪]は最初……この地の金細工士
によるかして――。→<(上と左)Vix の首輪。
最初はダイアデム[頭または額につける]と思 われたが、ほぼ首のまわりにつけられたであろう。
480 グラムの黄金で出来上ったこの環状装身具は、
その単純で、エレガントなフォルムが細い金の透 かし網細工と極く小さなギリシャのペガソス立像 たちで装飾された、えり抜きの芸術作品である。
確かに着想は北方に由来しているが、様式や技 術の逸品は非常にギリシャを思い出させるので 学者たちは今日までその製造場所を争っている。
つまり、地中海の工房に由来するのか、あるいは 発見場所のかなり近くで製造されたか――たと えばこの地に定住しているひとかどのギリシャ人 によるか、またはひとかどのギリシャ人のそばで その手仕事を身につけたこの土地のひとかどの 金細工師によるかして。>
(P.90、右)
下 19 ─ 16:<マッシリアからの……主要発 見地を示す地図>。前 6 世紀→<この地図は マッシリアから来たワイン・アンフォラたち[オ レンジ色の点たち]とアテネの黒絵様式陶器た ち[黒点たち]の最も重要な発見地たちを示す。
前 6 世紀>
下 15 ─ 8:<ザーヴェスト>ベーメンの……
施設の再元)。→ベーメンのザーヴィスト[プ ラハ南方のズプラスラヴの近郊]の強力な建造 物たちの集合体は二・三の丘陵の円項を越えて ひろがってスプロール化していた。もともとの 急斜面たちは土塁たちによってさらに通行でき なくされた。明らかに重要な礼拝所であるらし い中心的アクロポリス[城門入って左の高地]
はとくに際立った防御施設たち(下図はその施 設の復元)で守られていた。
<ギブ・アンド・テークの接着剤社会>[本 誌「年報」第 5 号、2000 年、P.76、左)の掲 載を参照のこと] 上 5:<ギブ・アンド・テー クの接着剤社会>→< 与ゲーベン・ウント・ネーメン[ギブ・アンド・テーク]
え て 、 受 け 取 る
――この社会の結合手段>
上 6:「原始」社会→「原始的な」社会 上 8
─ 9:取引は全くありえず、……すら存在しえ ない。→取引は全くないし、交換取引すら存在 しないだろう。 上 9 ─ 21:それにもかかわら ず……いわゆる「埋め込まれた経済」。→それ にもかかわらず、しばしば大規模に品物が交換 され、諸奉仕が遂行される。こうした交換にお いて現われているのは、社会的ピラミッドのも つ内部の諸関係であり、そこでは家長や貴族た ちは、例えば暴力的世界における持続的保護や 時折の高価な贈り物などの反対給付として農産 物または軍事的その他の諸奉仕を受け取るので ある。そのようにひとかどの婦人賢者も神々へ の彼女の執り成し(きわめて重要な「礼拝」)
に対して例えば羊を受け取ったであろう。この ようにして与ギ ブ・ア ン ド・テ ー ク
えて、受け取るはこの社会の結合 手段になる。経済上の交換は社会組織の中に組 み込まれており、換言すればいわゆる「埋没さ れた経済」[社会]である。
下 19 ─右上 1:大多数の先史農業社会は……
になお一層ふさわしい。→たいていの先史農業 社会たちはこのような仕方で機能していたにち がいない。それに対して例えばハルシュタッ ト D 期の諸侯国のように、かなり強く序列の つけられた社会たちは、貴族たちが最も高価 な品たち自体を手元に残しておくという、この 経済形態の一変種を実践したかもしれない。そ のような「威信財経済」[社会]では選出され た寵児たちは控え目にある物(例えばワイン)
を、盛大な宴会の際にセレモニー風に贈られる ことを好んだ。したがって競争になったが、そ の際に単に貴族だけがそのような財産のコント ロールを求めて競い合ったのではなく、その従 者たちもその栄誉を得ようと躍起になった。こ のような競い合いのふるまいのなかから、も しかすると西方ハルシュタットの族長領たち Hauptlings-schaftenが 成 立 し た か も し れ な い。
と い うのはこれらの族長領が豪華品たちの製 作と輸入において際立っているからである。わ れわれはこれから見るように、この「威信財た ち」というモデルは後期鉄器時代の証明状況に はさらにふさわしい。
第 2 節 ホッホドルフの部族侯爵[再び 本誌「年報」第 15 号、2010 年、(P.90 右)に もどる]
(P.90、右)
下 7:<ホッホドルフの首領墓の最終的外 観>→(最上)<ホッホドルフ侯の土ツ ー ム ル ス丘墓 Tumuls はその発掘諸情報によると、その完 成の最終局面ではこのように[左遠影にBurg
Hohenaspergが見える]見渡せたであろう。[ス
ケッチ]
下 3:<寝いす……婦人像たちの一つ>→
(上)<青銅製の寝椅子を支えた[脚輪をこぐ]
婦人立像たちの一体>
下 1:<ししゆうで……断片>→(左)<刺 しゆうで飾られた布の断面>
(P.91、左)
上 1:<大きな金属釜の……たちの一つ>→
(下)<[ブロンズ製の]大釜[ハチ密酒(ワイン)
用]の上部の、[ブロンズ製の]ライオンの鋳 物たちの一頭。[三頭中のよりリアルな二頭中 の一頭で、他の一頭はやや簡素な作り]
上 2 ─ 4:<[首領の履く]革靴……ひもの 穴たちに注目>→(下)<図柄の刻印された金 箔の鍍金が(保存されなかった)革靴の形をう かがわさせる。ひも穴たちは靴のひも穴とされ る>
上 6:<その大釜>→<大釜は様式上の諸根 拠から南イタリアのギリシャ諸都市内での製造 と推測される。>
上 10 ─ 13:<墓穴の……であったろう。→(右)
<墓[室]内部の復元図。これら以外のものた ちであっても、[この復元図では]跡形もなく 姿が見えなくなっているのかもしれない。 例 えば[復元図の寝椅子に見られる]矢筒には弓 が必要とされたであろう。>
第 3 節 権力の中心地たち:ホイネブルク (P.91、左)
上 14 ─ 17:<北方から眺めた……仮定した ものである。→<前 6 世紀初期のホイネブルク は北方からはこのような様子に見えただろう。
塔たちの上部建造物の形は仮説に基づく。[最 上図、スケッチ]
上 18 ─ 21:<発掘の諸成果……いくつか発 見されている。→(下左)<発掘諸調査による ブルクの見取図。 ブルクの内側に関してはわ りに知られていない。ただし、南東門の内側で は若干の大きな正方形の建物たちの土台が発見 された。[今日ではこの建物たちも立派に復元 され、そこはかってのケルト人たちの町とされ、
ブルク全体が野外ミュジアムとなっている。]
(下右)
<ブルクの東側のふもとを流れるドナウ川[写 真の最下部]をとり入れた航空写真。>[おそ らく発掘直前の写真であろう。]
第 4 節 住民の反乱と大移動:前 500 年 から前 400 年まで
(P.91、左)
下 16:
<イチジクとブドウの……鳴き
>→<イチジクの実とブドウの房たちの、
おとり[招鳥]のおびき寄せ鳴き>
下 15 ─ 5:「当時は克服することが……され うるかもしれない。」→「当時は乗り越えるこ とができないものとされるアルプスの防壁に よって引き留められていたガリアは、彫刻を行 うためにローマに滞在していたヘルヴエチア出 身の同邦人たちの一人ヘリコ Helico がその帰 郷に際し乾燥したイチジクと一房のブドウおよ び若干のオイルとワインのサンプルを携えて来 たことを、最初にイタリアを[人で]あふれさ
せるきっかけ[おとり]として利用したと語ら れている。この目的のためなら、これらの生産 物たちが戦争によってすら手に入れようとされ ることがあろうが、大目にみて許されるだろ う。」
下 4:プリニウス……第 12 巻、2、5 →プリ ニウス Plinius[後 23 ─ 79]、「自然誌」[後 77 年]
第 12 巻 2、5 >
下 3 ─右上 1:<ラ・テーヌ文化の……地図
>→<前 5 世紀におけるラ・テーヌ文化の北方 への発展地域とそこからの前 400 年頃からのケ ルト人たちの南と東への大移動図>:[前 5 世 紀のラ・テーヌ文化は、6 世紀のハルシュタッ ト D 期の西方ハルシュタット諸侯国圏の北方 向にわたって広がり、マルヌ・シャンパニュー 地方から東方のボヘミアやウイーン辺り[薄い 黄色部分]までに及んだ。ここからの矢印たち は前 400 年頃からのケルト人たちの民族大移動 の方向で、斜線部分はケルト人たちの新たな居 住地域を示しているのであろう。]
(P.91、右)
上 2 ─ 4:<クラインアスペルグレ……(前 450 ─ 400)>→(上)<クラインアスペルグレ
[ブルク・ホーエンアスペルク周辺数ヶ所のツー ムルスたちの内で最も若い(新しい)もの]出 土のカンヌ[ポット]の取っ手下部の装飾細部
[半人半獣面](前 450– 前 400 年)[ラ・テーヌ 期早期の作品]>
上 5 ─ 11:<フランスのソンム・ビョンヌ
……一緒に埋葬された。→(下)<フランスの ソンム・ビヨンヌ[マルヌ・シャンパーニュ地 方]の発見状態に基づいた車[二輪]墓の復元。
戦士は自分の諸武器、一台の戦車、エトルリア のブロンズ製カンヌ一個および前 5 世紀のギリ シャの赤絵[姿]様式の深皿一枚とともに埋 葬されたことを示す。[このときは前 6 世紀の ハルシュタット部族諸侯国はすでに没落してい た]
下 12 ─ 28:<エトルリアのカンヌ……生き
生きと風刺している。→ラ・ゴルシュ・メイエ
[マルヌ・シャンパーニュ地方]出土のこの例 のようなエトルリアのカンヌたち(下の写真)
が、成立中のラ・テーヌ世界の芸術を駆り立て た。まもなくケルトの工芸家たちは、例えばモー ゼル河畔のバス・ユッツ出土の[前]5 世紀の 青銅製の嘴くちばしカンヌたち(左の写真)のような彼 ら独自のバージョンたちを生み出した。ケルト の鍛冶家たちはこのエルトリアの基本形を、輸 入されたサンゴや赤ガラスの破片たちの装飾象 眼で補完した。[しかし]肝要なのは、どうや ら取っ手や蓋に居る様式化された小動物たちの 中で、注がれるワインの上を「泳ぐ」一羽のカ モを追いかける犬たちなのであろう。――つま り貴族たちの中で非常に人気のある狩猟に対す る[鍛冶家たちの]生き生きとした当てつけ〔風 刺〕であろう。
第 3 章 各地のケルト人たち
(P.91、右)[S.32 ─ 33]
下 8 ─ 5:<エトルリアの馬上の……前 400 年頃→<エトルリアの戦士が馬上から裸のケル ト人を攻撃する。 ある墓標の石のレリーフか らの抜粋、ボローニア、前 400 年頃>
第 1 節 イタリアのガリア人 (P.91、右)
下 4 ─上 1:<裸のガリアの戦士……である かもしれない→<ベルトや首輪および際立った 二本の角つのつきヘルメットを身につけた裸のガリ ア戦士のブロンズ像。盾や槍あるいは剣などは 身につけていない。イタリアで発見されたこの 人物の姿形は「ゲザーテン」Ga, ,saten(ケルト 人傭兵)であるかもしれない。
(P.92、左)
上 2 ─ 5:<前 4 世紀から……略地図>→前 4 世紀からローマ人たちによって「ガリア・キサ
ルピーナ」(アルプスのこちら側のガリア)と 呼ばれたポー平野とその隣接地域におけるケル ト人居住地たちとその部族名たちの概略図。[こ れによってエトルリア人たちは南西へと移動し たようだ。]
第 2 節 アルプス、南ドイツおよびボヘミア 上 6 ─ 10:<(右)スイス、エルストフェル ド……的浮彫り]と→<(右)前 5 世紀末か 4 世紀初期のスイスのエルスフェルド[ウーリ州、
ロイス河畔の町]出土の黄金の首輪の細部>と、
上 10 ─ 12:(下)スイスのヴァレ出土の……
幾何学模様]>→<(下)スイスのヴァレー
Valais州出土のラ・テーヌ期末期ブロンズの腕
輪二つ。>
上 13 ─ 17:<ラ・テーヌ世界初期の……伸 長したことを示す。→<初期ラ・テーヌ世界東 部の地図。 ケルト人の居住人口の過密な地域 は色が濃くされている。その他の色の範囲はさ まざまな入植人口密度でのケルト人たちの東方 への拡大を示す。>
第3節 ドナウ川諸地域とギリシャに対 する攻撃
<攻 • 防>(本誌「年報」第 6 号、2001 年 P.71 に掲載)
(P.71、左)
上 11:
<攻・防>→<攻撃者たちと防 禦者たち>
上 12 ─ 21:<「ブレンヌスはいくつもの民 会……騎兵が加わった。」→「ブレンノスは民 会などにおいては民会を、 また誰かがガラ ティア人たちの間で影響力を持っていればそ の一人一人に、ギリシャ人たちの目下の虚弱 さ、教区民たちのもつ財宝の大きさおよびとり わけ諸聖域にある奉献物たちや鋳造された金銀 を述べることによって、ギリシャへ向って移
動するよう粘り強く駆りたてた。そのようにし て彼はギリシャに向って移動するようにとガラ ティア人たちを説得した。[……]歩兵として は 152,000 人の成年男子が集められ、さらに 20,400 の騎兵が加わった。>
上 22 ─ 23:パウサニアス……第 10 巻、19、
8 ─ 9 →パウサニアス[2 世紀のギリシャの歴史 家、旅行家で小アジア西部のリュディアの人]、
「ギリシャ旅行」第 10 巻 19、8 ─ 9
<コイン上のアレクサンダ大王の描写>(再 び本誌「年報」㐧 15 号、2010 年、P.92 左へも どる)
(P.92、左)
上 18 ─ 21:<コイン上の……大王の描写>
→<コイン上のアレクサンダー大王の肖像:彼 はペルシャ帝国の征服を開始する前にバルカン 諸国内でケルト人派遣代表団と落合った。>
下 15 ─ 10:<デルポイの大アポロ神殿>
……多数もっていた。→<デルフォイにあるア ポロン大神殿は大きな一群の宗教的建造物や付 属建物たちの中核を形成していた。デルフォイは、
古代の最も有名な聖地の一つとして多数の貴重品 収納用建物たちをもち、ギリシャの全ての都市国 家からの供物たちの巨大な富を所蔵していた。>
下 9 ─ 4:<ケルト人たちのギリシャへ……
平和的進出を示す。→<この地図は前 279 年の ケルト人たちのギリシャへの諸侵入と、そのあ との彼らの小アジアへの、すなわちケルト人た ちがかつて入植した最も東に位置した地域への 平和的進出を示す。>
下 3:
<テルモピレン峠……人たち>
→<テルモピュライの山道でのガラティ ア人たち>
下 2–P.92、右、上 10:「だがガラティア人た ちは……に投げつけた。」→「しかしガラティ ア人たちはそれほどよく武装されていなかった。
つまり彼らは自国で習慣の丈の長い盾だけで、
その他の体を護る武器たちはもっていなかった。
[……]彼らは激情にかられ獣のような意味の ない憤激で彼らの敵を攻撃した。そして手斧や 剣で突き刺されてすら彼らがまだ息をしている 間はその無意味な憤激を失わなかったし、また 投げ槍で突き刺されても、彼らがその魂を吐き 出すまでその気力をもちつづけた。そのため当 てられた槍すらその傷から引き抜き、それをギ リシャ人たちに投げつける者もいた。」
上 11 ─ 13:パウサニアス[……]「ギリシャ 旅行記」第 10 巻、21、2 ─ 3 →パウサニアス、
前揭書、第 10 巻 21、2 ─ 3
上 14:
<真実かプロパガンダか>→<
本当のことなのか、プロパガンダ(政治 的宣言)なのか>
上 15 ─ 22:「カリア人たち Kalleir に対する
……肉を食した」→「ガラティア人たちのカリ ア人たち Kallies[Callians]に対する冒涜行 為の数かずは、我々の聞き伝えのニュースの最 も恥ずべきものであり、他のいかなる人間の残 虐行為とも比べものにならいものたちであった。
とりわけ彼らは全ての男性住民たちを、男性の 老人や子供たちも、母親の胸に抱かれていてす ら打ち殺した。そしてミルクで良く養育された 稚児[男]たちからはガラティア人たちは血を 飲みかつその肉を食した。」
上 23:パウサニアス、……3 →パウサニアス、
前揭書、第 10 巻 22、3
下 19:
<神々の怒り>→<神々の忿怒>
下 18 ─ 6:「ブレンノスと彼の軍隊……まで も燃え上がらせた。」→「ブレンノスと彼の戦 士群の前に立ちはだかったのはデルフォイに集 まったギリシャ人たちだった。するとこの未開 人たちに神は嫌な前兆を通じていつも知られて いるよりも迅速かつ明瞭に驚告した。というの は未開人たちの戦士群が占拠したその範囲では 地上全体が震動し、絶え間なく雷や稲妻があっ たからである。それらがケルト人たちを動揺さ せ、彼らの諸指令の理解を妨げた。そのうえ天
空から何か乗り物に乗って降りてきたようなも のが、それに当った人だけでなくその近くに 立っていた人々や武器までも燃えあがらせた。」
下 5 ─ 6:パウサニアス……23、1 ─ 2 →パウ サニアス、前揭書、第 10 巻 23、1 ─ 2
第 4 節 アジアにおけるガラティア人たち (P.92、右─ P.93、左)
下 3 ─上 5:<[楯の上の]瀕死のガリア人
……裸で出征した。>→<有名な瀕死のガリ ア人(ほんとうはガラティア人)立像。[これ は]ペルガモンの王アッタロス 1 世[前 241 ─ 前 197]が前 3 世紀に女神アテネ[軍神にして 勝利の女神]に奉献したブロンズ[製]立像の、
大理石[製]コピーである。 フランスのガリ ア人とするためにも[頭頂部に針状の毛髪のあ る]ハリネズミの髪型で覆われたとされる。他 のケルト人たちと同様にガラティア人たちも裸 で戦いにおもむいた。
上 6 ─ 14:<ペルガモンの……と合致する。
→(上)<この、ペルガモン出土のフリーズか らの切り取り部分はガラティア人たちやその他 から奪い取った略奪武器たちである。 これら のなかに見える逆さまの軛くびきは(ラ・テーヌの地 での発掘品の軛とほとんど合致するとされる
[本誌、前号(第 24 号)P.45[S.15]の発掘図 参照])。 また類似した頂つぼみのついたヘル メットはイタリアで発見されている。 更にこ の卵型の盾は[ヒースロー空港南方のテムズ河 右岩の]チャーツィ Chertuey の発掘物に合致 する。>
上 15 ─ 17:(下)<ギリシャの文献……政治 機構図。→(下)<ギリシャ語の原典にもとづ くガラティア人たちの政治構造。アジアでのガ ラティア人たちのほぼ確実と思われる政治構造 図>[ガラティア人たちは三部族に分かれ、各 部族は四氏族から成り、さらに各氏族はそれぞ れ四分領主 1、審判者 1、大将 1、副将 2、元老 院議員 20 名から成っていた。]
第 5 節 スペインとポルトガル:ケルト イベリア人たち
(P.93、左)
下 20 ─ 12:<フランネリー・ブローチ…
ほぼ前 3 世紀>→<フランネリー・ブローチ Flannery-Brooch[Braganza brochと称されるこ ともある]は、精密に表現された武器たち、そ のなかでラ・テーヌの剣(その刀身はヘルメッ トの頂飾りと同じく消失している)を持った一 人のケルト戦士を示す。古代ギリシャの製作品 のようだが、スペインのいくつかのフィベルタ イプを連想させるものをもっている。もしかす るとこの製作品はある一人のケルト人によって 注文されたかもしれない。おそらく前 3 世紀頃 のものであろう。>
下 11 ─ 10:<北西イベリア……か前 1 世紀
→(左)北西イベリア出土の黄金の首輪、前 2 世紀か前 1 世紀>
下 9 ─ 7:<南スペイン、……に注目。→<
南スペイン、オスナ[アンダルシア]出土の石 の戦士レリーフ。[このレリーフの盾は]ラ・テー ヌ様式の大きな身体用盾であるとされる。>
第 6 節 ガリア、前 400 年─前 100 年 (P.93、左)
下 6 ─右、上 3:<前 2 世紀にガリア世界
……に巻き込まれた。→(左)<この地域(ガ リア・トランサルピィナ)では前 2 世紀にガリ ア世界と古典世界との間に新たな接触が開始す ることとなった。ガリアの内政にローマが巻き 込まれたのは、ローマの同盟国マッサリアの、
この地域に居住するケルト人その他の諸部族と の軍事上の諸問題と、[ローマ自らの]スペイ ンへの[地上の]接続の必要性とによる。>
上 4 ─ 16:<サルウイィ人たちの首都アント
ルモン……公共的な建築物もあった。→(右)
<サルウイィ人たちの首都、アントルモン[ア ントルモン台地]の地図。サルウイィ人たちは おそらくケルト人とリグリア人の混血民族であ ろう。
この石造りの丘上都市の西側半分は詳細に調 査され、ギリシャにインスピレーションを与え られた街路網と段をつけて高くされた、ヘレニ ズム期の手本通りの張り出し塔付き早期と後期 の二本の防禦壁体制を示す。同様にたとえば刎は ねられた首[頭部]たちを陳列するような明白 に非ギリシャ的催し事をするための大きな建造 物たちも[西端に]どうもあったようだ。
上 17 ─ 19:近くのアクアエ・セクスティア エ(エクス)……首都は見捨てられた。→この 主都が見捨てられたのは、[ローマのコンスル]
セクティウスの水 Aアクアエ・セクスティアエ
quae Sextiae(Aエクスix)近く での駐屯地建設[前 123 年]以降のことである。
>
上 19 ─ 29:考古学上の諸発掘品は……諸立 像も創った。→<考古学上の発見品たちはマッ サリア[ギリシャの植民都市]とアントルモン 間の広範囲にわたる経済的諸接触があったこと を示唆する。 ここ[アントルモン]では多数 のアンフォラが発見されたが、ぶどうやオリー ブの圧搾機たちの発見は、これらの農作物自体 を買い求め始めたサルウイィ人たちの企業心を 認識させる。 同様に彼らは、部分的にはギリ シャの芸術を摸倣し、[左写真の]スカーフを かむった婦人の頭部が示すように、諸石彫像の 制作に際して顕著な技能を発揮した。彼らは大 人の背丈ほどの神々や諸侯や戦士たちの諸立像 も創作した。>
下 10 ─ 9:<下の写真……風景写真>→<
(下)アントルモンの印象的な〔後期の〕防御 壁の一部[張出し塔の見えるところ]の[今日 的]風景>
下 8 ─ 5:<サン・ジャン……前 4 世紀初め
>→<フランス、マルヌ県のサン・ジャン・シュ ル・トゥルブにある車葬墓出土の珊瑚のはめ込
み細工付青銅製深皿[の写真]。直径 245 ミリ メートル、前 5 世紀末から前 4 世紀初期まで。
>[本文中の「地中海離れ期(ほぼ BC400 年 から BC100 年まで)以前の最後のものの一つ にも見えるが、珊瑚の象眼や大・小多数の S 字 文様装飾の配置や中心部の立体装飾などに「地 中海離れ」初期の作品とされるものなのか。]
第 7 節 鉄器時代のブリタニア (P.93、右)
下 4 ─ 3:<墓は戦士のものか…のものか>
→<最後の憩い場所[墓]は、ある一人の戦士 のものか、族長のものか、それとも聖転者のも のか>
下 2 ─上 4:<少し前に……が置かれていた>
→少し前にケント州デール[東海岸の町]で前 200 年から前 100 年の間に埋葬されたと言えるよ うなある一人の成人男性の墓が発見された。(下)
彼はブロンズ製の「王冠」Crown,Krone(右は修 復されたそのレプリカ)を頭にいただき、その亡 骸のかたわらには剣と盾が置かれていた。>
上 5 ─ 10:<この男性は……をも表わしてい るかもしれない>→彼は何者だったのか。戦士 の墓たちは、とりわけグレートブリテンでは めったにないものである。この王冠は、明白な 類例のないものであるが、聖耺者の権威その他 の地位を表すが、世俗の権力も同様によく表し ているかもしれない。
上 12 ─ 17:一部しか残って……をうかがわ せる。→ほんの一部しか残っていなかったこの 盾はかなりよく復元されている。(下の二つの 盾の左) そのブロンズ製の囲い枠は、たとえ ば最近発見されたこの盾(右)のように、もう 一方の奉納盾たちの場合にもある典型的ブリタ ニアの形であることを推論させる。
下 24 ─ 15:<ブリタニアとローマの……と よく適合する。→<前 1 世紀にはすでにブリタ ニアは、ブルターニュとガロンヌ川流域を越え て向う側の南ガリアのローマの属州[ガリア・
トランサルピィナ]までに達する交易路網に直
接つながれていた。たとえば初期イタリア製の ワイン・クルーク[広口ロジャー]たちの南イ ングランドにおける場所的分布は、ヘンギスト ベリー・ヘッド[岬]が重要な(あるいは唯一 の)輸入港であったとする考古学の情況証拠に ぴったり合致する。
下 14 ─ 8:ローマ人たちもおそらく……思わ せることになろう。→ローマ人たちもおそらく 地中海からビスケー湾との交易を営んでいたと すれば、カエサル諸発言は、ブルタニュを周る ものと英仏海峡を渡るものとの二つの北の交易 路が隣人たちのほかに海をも支配した強力な ウェネティ人たちによってコントロールされた ことを推測させることになろう。>[地図上の 黒い線と黄土色の線を参照]
第 8 節 初期アイルランド、前 600 年─
前 1 年 (P.94、左)
下 7 ─ 1:<アーマー州のナヴァン…自治体 の中心であった>→(右)<前 94 年頃にアー マー州ナヴァンに巨大な、おそらく屋根が葺ふか れていたであろう、底面が丸い建造物が建てら れた。ナヴァンは当時すでにある種の自治の中 心あった。
(P.94、右)
上 1 ─ 8:<その航空写真。(植物が……巨石 丘墳に代えられた。→(下)<その航空写真。
その溝は、(その間に樹木で覆われた)[大き な]傾斜地の内側にあるとされる。それゆえ防 禦施設ではなかった。上揭の復元されて撮影さ れた木造建造物は長い寿命は授けられなかった。
おそらく 10 年後にはすでに破壊され、この写 真で明らかにわかるように巨大な石丘墓Stein-
Tumnlusに取り替えられていた。