結語
出雲の考古資料で世間の目をくぎ付けにした二つの発見があった。1984 年荒神谷遺跡で発見された 銅剣 358 本、銅矛 16 本、銅鐸 6 個と 1996 年加茂岩倉遺跡で発見された 39 個の銅鐸である。銅剣の出 土数にしても銅鐸の出土数にしても、一遺跡としては圧倒的な出土数を誇る青銅祭器の発見は「神々 の国出雲」を象徴するかのように扱われた。しかしこれらの青銅器は、それぞれ北部九州・畿内に通 ずる共通の祭器であって、決して「神々の国出雲」の弥生文化を象徴するものではない。
山陰弥生文化を象徴し出雲の弥生文化を代表する事象は、列島に類のない四隅突出型墳丘墓であろ う。方形区画の四隅の通路部を、貼石や石列で囲って突出部を完成させた墓である。出雲・伯耆・中 国山地山間部の三次盆地を中心に、少数ながら美作地域や播磨地域に広がり、系譜は異なるものの北 陸三県にも分布する。弥生時代の定形性のある首長(層)墓としては、もっとも広い分布圏をもって いる。
かつて、この四隅突出型墳丘墓は四隅突出型方墳あるいは在地型古墳と呼ばれていた。貼石と石列 で方形に区画し方形の四隅が突出する異様な墳丘形態は、吉備で研究されていた弥生墳丘墓や関東を 中心に注目されていた方形周溝墓とまったく異なっている。弥生墳丘墓として類例のない墳形に加え 前方後円墳時代初期の方形墳が多い地域であることも影響したのかもしれない。山陰弥生墳丘墓の研 究は山陰最初期の「在地型古墳」から始まった。
この年代観の誤りは、瀬戸内側からあった二つの問題提起を契機に、1980 年代半ばには全面的に見 直された。その経緯と問題提起の論考は第 1 章第 1 節、第 2 章第 1 節に収めたが、1979 年の拙論で課 題としておいた神原神社古墳の編年観については、現在も評価がかなり分かれている。この墳丘墓の 年代観、編年観を確立させることは、出雲に分布する前方後円墳時代初期の方形墳を正しく評価する ための不可欠の課題である。
塩津山 1 号墓や神原神社古墳に伴う山陰型特殊器台を用いて瀬戸内・畿内地域との対応関係をみる と、塩津山 1 号墓は宮山型特殊器台の新しい段階におおむね対応し、大成古墳と神原神社古墳は都月 型特殊器台の時期以降に相当する。塩津山 1 号墓は弥生時代の大型四隅突出型墳丘墓と前方後円墳時 代の出雲型方墳をつなぐ墳丘墓である。
四隅突出型墳丘墓の研究の大きな命題は、その成立系譜と終焉経緯を的確に列島の墳丘墓史の中に 位置づけることである。
数年前まで四隅突出型墳丘墓の成立を三次盆地に一元的に求める説が有力であったが、なぜ三次盆 地で成立するのかという背景に触れられることはなかった。いま必要なことは、四隅突出型墳丘墓の 起源を方形貼石墓にもとめるだけでなく、四隅突出型墳丘墓成立の背景に、弥生前期から北部九州や 朝鮮半島との交通関係をもとに独自の墓制を展開させていた山陰社会があることを、列島の弥生墳墓 史のなかに位置づけることである。
山陰海岸部の堀部第 1 遺跡、中国山地山間部の高平遺跡・岡の段C遺跡にみられる配石墓は、北部
九州の支石墓や朝鮮半島の支石墓との近親性をうかがわせるものの、上石をもっていない。堀部第 1 遺跡にみられる方形の配石手法は北部九州の支石墓下部の埋葬施設には認められず、むしろ朝鮮半島 の支石墓の一部にある積石区画や敷石区画手法、あるいは泗川梨琴洞遺跡の方形周溝墓主体部の配石 手法に似ている。山陰の配石墓は、朝鮮半島の支石墓の埋葬形態を簡素化させた北部九州地域の影響 を受けている可能性を排除できないものの、山陰に住んでいた人々が朝鮮半島の墓造りの情報を独自 に変容させた姿と理解したい。
方形貼石墓あるいは踏石状石列をもつ初現期の四隅突出型墳丘墓が築かれた中野美保遺跡や青木遺 跡は、堀部第 1 遺跡のある島根半島の西側沖積地にある。初現期の四隅突出型墳丘墓が築かれた宗祐 池西遺跡や陣山遺跡は、高平遺跡とおなじ三次盆地にある。前期の配石墓から中期中葉の方形貼石墓 まで両者をつなぐ墳墓の実態は明らかでないが、相関性をうかがうことができる。山陰海岸部と同じ 文化伝播が江の川上流域にあったことはたしかであり、三次盆地の一帯で初期の方形貼石墓が築かれ る条件は認められる。
この方形貼石墓はいまのところ山陰地域だけに分布する。その意味では四隅突出型墳丘墓と並んで 山陰弥生文化を代表する墓制といえる。方形貼石墓が台状墓の変容形態とは考えられない。貼石によ る区画手法が山陰に限られる理由がないからである。弥生中期中葉から現れる方形貼石墓の背景に、
鉄器の入手に象徴される山陰諸集団の広く活発な交通関係があったと、私は考える。現状では朝鮮半 島の積石区画あるいは敷石区画をもつ支石墓の年代と山陰の方形貼石墓の年代に若干の開きが認めら れる。それでも朝鮮半島の無文土器の年代と弥生中期の年代は接点をもっている。少なくとも朝鮮半 島を往来した山陰の人々が、支石墓の遺習を目のあたりにするチャンスは十分あったであろう。山陰 の方形貼石墓を築く発想の原点が朝鮮半島の支石墓にあった可能性は高い。ただし、四隅に通路を設 ける思想は列島内で培われたものと考えられる。
江の川上流域に初期の貼石方形墓が成立する背景があったことは確実であるが、それは四隅突出型 墳丘墓が三次盆地で成立し海岸部に波及する論拠にはならない。
三次盆地起源論のもう一つの課題は踏石状石列の推移と貼石・立石列の手法に関心がつのり、開放 型の通路と閉鎖型の通路を的確に峻別してこなかったことにある。四隅の突出が方形周溝墓の陸橋部 の一類型と解釈する視点も同じ課題を抱えている。墓域への通路を閉鎖することによって前方部形成 の思想につながる突出部が完成する。突出部をいち早く完成させたのは山陰の墳丘墓であり、周溝墓 の陸橋が周溝区画の外まで通路を伸ばし始めるのは弥生終末期段階からである。瀬戸内の台状墓でも 後期後半が初現であり、楯築弥生墳丘墓を除くと庄内式併行期ころに突出部になる。突出部の思想は 四隅突出型墳丘墓から始まった。
山陰の突出部形成段階をみると、江の川上流域の形成期四隅突出型墳丘墓の通路は、歳ノ神 3・4 号墓のように、後期前半になっても通路部を墳丘の貼石あるいは石列で囲わない開放型で、先端部が
「コ」の字型で短い突出部をなすA1 類である。この特徴は三次盆地地域では後期末の矢谷墳丘墓ま で引き継がれる。
山陰海岸部の後期初めの四隅突出型墳丘墓は鳥取県の伯耆西部地区に集中する。後期中葉にちかい 妻木晩田遺跡仙谷地区の墳丘墓群を除いても、洞ノ原地区の小型 7 基を含む 14 基が伯耆西部に分布し
ている。そのうち最も古い段階の洞ノ原 1 号墓は、四隅の通路部も墳丘斜面と同じ貼石または石列で 囲った完全な「突出部」を形成している。長く突出する北隅の先端形態がいま一つ不明確であるが、
そのほかの三隅の先端部は円いB類で三次盆地にはないタイプである。墳丘区画と同じ手法で通路を 閉鎖し、真の突出部を完成させた四隅突出型墳丘墓の初現は伯耆西部にある。その後に続く山陰海岸 の四隅突出型墳丘墓の突出部の特徴も、突出部先端B類である。両地域の突出部を比較すれば、それ ぞれの四隅突出型墳丘墓が同一の系譜上になく、別々の経緯をもつ四隅突出型墳丘墓が形成されたこ とは確かである。
出雲側では同時期の四隅突出型墳丘墓は友田A区墳丘墓の 1 基しかない。踏石状石列がない開放型 の突出部をもつ。通路部を閉鎖し、完成された突出部をもつ四隅突出型墳丘墓の初現例と分布の中心 は、三次盆地でも出雲でもなく伯耆西部にある。四隅突出型墳丘墓は江の川上流域から山陰各地に広 がったのではない。むしろ現状の分布推移からみれば、完成型の四隅突出型墳丘墓は後期初頭に伯耆 西部で成立し、後期中葉段階に伯耆東部から因幡西半部に広がっている。
ただし、伯耆西部地区では四隅突出型墳丘墓成立の背景をなす方形貼石墓は、洞ノ原 1 号墓よりや や古い 2 号方形貼石墓が最古例で、貼石の手法は同じだが 1 号四隅突出型墳丘墓の先行型式とみなし がたい。伯耆西部地区では、洞ノ原 1 号墓に先行する中期の方形貼石墓も形成期の四隅突出型墳丘墓 もいまのところ明らかでない。出雲平野部の展開も、青木 4 号以降の推移や友田A区墳丘墓との接点 は不明である。今後に大きな課題を残している。
伯耆西部に続く後期前半から中葉の四隅突出型墳丘墓は伯耆東部と因幡に出現する。出雲には青木 遺跡で一辺数m程度の方形貼石墓はあるが、現在のところ確実な四隅突出型墳丘墓は認められない。
因幡地域には後期初頭の高墳丘の方形貼石墓が東部の新井三嶋谷遺跡に知られているものの、後期前 葉以前の四隅突出型墳丘墓の系譜が認められない因幡西部に出現する。その西桂見墳丘墓は四隅突出 型墳丘墓全体をとおしても、列島西部の弥生後期中葉段階の墳丘墓と比較しても最大規模である。山 陰における大型墳丘墓の築造は因幡に始まっている。この点もこれまでの「出雲の四隅突出型墳丘墓」
という一般的なイメージを変えるものである。
西桂見墳丘墓は、突出部先端が円い伯耆西部系のB類突出部をもつ。長い突出部は伯耆東部の阿弥 大寺墳墓群の流れをくむ。高さ 5.5mに達する高墳丘は、因幡東部の新井三嶋谷 1 号墓に由来するも のであろう。土取り工事による墳丘破壊が進んでからの調査のため、全容は不明ながら墓上の葬送祭 祀行為に大型の器台が用いられている。器台を用いる葬送祭祀行為も、この墳丘墓のころから伯耆西 部の仙谷 2 号墓で本格的に始まると思われる。西桂見墳丘墓は、単に因幡西部集団の首長墓というよ りも山陰諸集団を代表する首長墓であった可能性が高い。それは渡辺貞幸が指摘するように同盟的な 緩やかな結びつきであったかもしれないが、山陰各地首長相互の関係を示すものであろう。その代表 権は西桂見墳丘墓の後、出雲に移る。
出雲が四隅突出型墳丘墓世界の中心になるのは後期後半からである。後期後半の貼石をもつ四隅突 出型墳丘墓 33 基のうち 26 基が出雲にある。出雲内の四隅突出型墳丘墓の分布は出雲平野と安来平野 およびその中間の松江市域に限られ、大型四隅突出型墳丘墓は西谷丘陵と塩津山丘陵付近に集中して いる。出雲の二極化あるいは二大勢力の拮抗といわれる所以であるが、副葬品や墓上の葬送行為に用