第 1 節 前方後円墳と前方後方墳 1 はじめに
前方後円墳時代の幕開けをもっとも特徴づける墳丘墓はまぎれもなく前方後円墳と前方後方墳であ る。この二つの墳丘墓はしばしば前方後円墳体制という表現のもとで一括りにされ、前方後円墳が前 方後方墳よりも格上の首長墓として扱われている。確かに瀬戸内から大和を中心に分布する初期の前 方後円墳のいくつかは、相前後して築かれた各地の墳丘墓の規模を圧倒的に上回っている。大和地域 を中心に新たな社会関係が形成されたと考えてよいであろう。しかしながら、そのことが 3 世紀の中 葉から後葉にかけて列島を広範囲にまとめあげた政治勢力の立の証とするには、地域ごと時期ごとの 検証がなお不十分である。にもかかわらず、都出比呂志が示した墳丘形態による序列化(都出 1989)
と、いささか異なるニュアンス(のように思える)で全時期にわたる前方後円墳体制論として用いら れている節がある。本節では前方後円墳時代初期の前方後円墳と前方後方墳の分布状況とその前段の 地域ごとの弥生墳丘墓の様相から、前方後円墳グループの実像を素描することにする。
2 前方後円墳成立以前の各地の墳丘墓
図 56 は前方後円墳時代開始期(近藤義郎編集の前方後円墳集成全 6 巻(近藤義郎編 1990~2000)
=以下『集成』と略す=の時期区分によるⅠ期)より前の弥生時代後期から一部は前方後円墳時代Ⅰ 期に属する各地の墳丘墓の特徴を大まかに示したものである。
短い破線で囲ったうち、北部九州は首長墓としての定型的な墳墓形態を特定できない。前原市平原 墳墓群では方形周溝墓が認められ、福岡市宮ノ前墳丘墓のような前方後方形の台状墓もある。前方後 円墳時代Ⅰ期ころには甘木市立野遺跡方形周溝墓群や小郡市津古 2 号墳、津古生掛古墳のように前方 部前端が明瞭に区画されていない墳丘墓も築かれている。突出部形成の動きは認められるものの、集 団単位あるいは小地域単位の動きである。
畿内以東の地域では周溝の途切れ方に違いはあるものの基本的に方形周溝墓群が築かれる。総じて 低墳丘墓である。しかも方形周溝墓群では、規模がやや大きめであるとか、築かれた位置が中心的な 位置にあるとかで、集団内の中心的墳丘墓を推測できることがあるが、外見的に決定的な差はない。
それでも方形周溝墓がある地域では方形周溝の一辺で溝が途切れ、通路状の「突出部」を形成する墳 丘墓が現れる。近江、尾張、上総地域ではこの通路がさらに前方部状に突出して、その先端を溝や盛 土で区切って前方後方形の墳丘を完成させる経緯が明らかにされている(赤塚 1995・佐伯 1999)。
河内地域でも方形周溝墓の一辺に途切れ部がある枚方市中宮ドンバ 1 号墓や、相対する両辺に陸橋 をもつ喜蓮瓜破 1 号墓、陸橋部が発達した八尾南の 30 号周溝墓((財)大阪府文化財センター2007)、 前方後方形の墳丘に前方後方形の周溝がめぐる寝屋川市小路遺跡の墳丘墓((財)大阪府文化財センタ ー2004)、前方後方形の墳丘に箱形の周溝がめぐる八尾市久宝寺遺跡例((財)大阪府文化財センター 2007)など、方形周溝墓から前方後方墳までの推移を 1 段階ごとにたどることができる。
長い破線と重複する北陸地域では、松任市一塚墳墓群に代表されるように方形周溝墓や一辺に開放 型の突出部をもつ方形周溝墓、貼石をもたない四隅突出型墳丘墓が同じ墓域に築かれている。北陸は 四隅突出型墳丘墓と前方後方墳が交錯する数少ない地域である。北陸の四隅突出型墳丘墓に地域差が あることは前章で記したが、前方後方墳の出現期にも時間差がみられる。
長い破線で囲った瀬戸内側の地域も、弥生後期墳丘墓あるいは首長墓の特徴を一つの様相でまとめ ることはできない。瀬戸内南岸の讃岐では方形周溝墓も円形周溝墓も古くから認められ、後期以降に は林坊城遺跡や空港跡地遺跡の円形周溝墓、円形または方形台状墓の大川郡奥 10 号・11 号墳丘墓が 築かれている。阿波では積石塚風の円形の主丘に突出部がつく萩原 1 号墓や同様な足代東原B1 号墳 がある。
瀬戸内北岸の備中南部を中心とする地域は、倉敷市楯築墳丘墓、総社市立坂墳丘墓、倉敷市黒宮大 塚墳丘墓を始め数多くの墳丘墓が知られている。方形基調の墳丘墓は黒宮大塚以下、雲山鳥打墳丘墓、
みそのお墳丘墓があり、立坂墳丘墓は「円形?」、楯築墳丘墓は「楕円形」基調の主丘に二つの突出部 をもっている。その一方で赤磐郡山陽町便木山 12 号墓のように、特殊器台を伴いながら方形周溝墓と も台状墓ともいえない低墳丘墓がある。
播磨南部では陸橋部をもった円形の赤穂市原田中墳丘墓がある一方、やや遅れて築かれたと思われ る竜野市養久山 5 号墳は方形区画の対辺に突出部をもつ双方中方形の墳丘墓、養久山 32 号墳丘墓は円 形指向の墳丘墓、養久山 40 号墓は陸橋をもった円形基調の墳丘墓である。そのほか、加西市周遍寺山 1 号墓のように山陰系の四隅突出型墳丘墓も築かれている。
実線で囲んだ山陰地域は出雲・伯耆・因幡の四隅突出型墳丘墓や、丹後地域のように四隅突出型墳 丘墓はないものの大風呂南遺跡のような方形台状墓あるいは丘陵尾根筋をテラス状に整形した墳丘が 分布している。因幡地域には出雲市西谷 3 号墓に先行して四隅突出型墳丘墓では最大級の西桂見墳丘 墓がある。その後の四隅突出型墳丘墓は鳥取市糸谷 1 号墓以外まだ明らかでないが、高墳丘の方形区 画の桂見 1・2 号墓があり、方形基調の墳丘墓はⅠ~Ⅱ期ころまで確実に存続している。
なお、実線で囲んだエリアと瀬戸内地域では石を用いて墳丘を区画する墓が各所に認められ、瀬戸 内では竪穴式石槨状の埋葬施設をもつものも弥生後期後半には築かれている。
3 前方後円墳と前方後方墳の分布
「古墳」時代の前方後円墳を扱うとき、しばしば前方後円(方)墳と表現される。その際、前方後 方墳は前方後円墳より格下の墳丘墓という潜在的な意識が働いていることが少なくない。「墳丘墓」か
「古墳」かという論法を受け入れたところから、大和の王権と地域首長の構図を受け入れ、「前方後円 墳時代」の墳形による首長墓格差の呪縛が始まっている。そして、前方後円墳の全土的普及を主張す るときには、大和起源に限定できないはずの前方後方墳を含めて前方後円墳の全土的普及と説明され る。そこに論理の矛盾を感じる。
前方後方墳と前方後円墳の成立経緯は、都出比呂志が指摘しているように方丘原理と円丘原理に基 づく違いがある。前方後円墳は弥生後期ころから円形基調の墓を築いていた瀬戸内地域を中心に種々 の要素を総括的に取り込んだ新しい墓制である。都出や白石太一郎は、前方後方墳の成立について東
海地方の可能性を示唆しているが、私は、前方後方墳は方形基調の墓を築いていた各地域で方形周溝 墓から段階的に変容した墳丘墓ととらえている。地域ごとに若干の時間差があるにせよ、方形周溝墓 を築いていた地域はどの地域でも前方後方墳を生み出す要件を備えており、前方後方墳はいわば、方 形周溝墓の最終到達型といえる(藤田 2004)。
その点はさしおいても、大和で「前方後円墳」が成立する過程で、前方後方墳が前方後円墳より下 位の墳丘墓として成立したわけではない。都出は「前方後方墳は 4 世紀代においては前方後円墳とな らぶ首長墓の墳形の一つとして一定の独自性をもっていたが、西暦 400 年前後の政治変動によって劇 的に変化」し、この二種の首長墓は隔絶した上下関係に転換した(都出 2005 311 頁)という。私は、
出雲を除く多くの地域で、4 世紀半ばを境に基本的に消え去る墳丘墓(弥生墳丘墓の到達点である前 方後方墳)と後々まで継続される墳丘墓(前方後円墳)の違いと解釈する。そこで、前方後円墳は「か なりの早さで各地に普及した」という前方後円墳時代初期に想定されている墳丘墓築造の実態がどの ようなものであったか、前方後方墳と前方後円墳の分布図にして考えたい。
図 57・58 は『集成』をもとに作成した、前方後円墳時代Ⅰ期とⅡ期の前方後円墳と前方後方墳にわ けて示した分布図である。『集成』には、約 400 基の前方後方墳を除くと約 4700 基の「前方後円墳」
が記載され、奈良県所在の前方後円墳は 255 基である。2001 年に刊行された橿原考古学研究所編『大 和前方後円墳集成』によれば、少なくとも 320 基が記載されている。『集成』に記載され、『大和前方 後円墳集成』未記載のものもあるようなので、列島の前方後円墳の数を以後、約 4800 基と改める(た だし、時期を詳細に限定できる前方後円墳数は大きな変化がないので、分布図には反映していない)。
初期の確実な前方後円墳や前方後方墳がほとんどない山陰地域については、方墳ないし方形基調の大 型墳丘墓を加えている(註 1)。山陰の墳丘墓の編年観も鏡や墳丘階層論に強く影響されている様子が 見受けられ、必ずしも客観的な見方とはいえない。
『集成』では時期区分に埴輪や須恵器など共通の目安を設けて 10 期に区分しながらも、地域ごとで 抱える問題意識を尊重して各担当者の編年観でまとめられている。そのため編年の根拠もしばしば異 なり、全土的に同一時期あるいは同一時間帯として扱えない問題点がある。たとえば、Ⅰ期には庄内 式併行期の纏向型前方後円墳(寺沢 1988)と呼ばれる墳丘墓や前方後方形の墳丘墓が、布留式併行期 の墳丘墓と一緒に扱われている。また最古型式の墳丘であっても、福永伸也の分類による舶載三角縁 神獣鏡C段階を含む山城椿井大塚山や豊前石塚山、備前車塚などの墳丘墓も庄内式期の纏向石塚や布 留式最古段階の箸墓と同じⅠ期に含めている。これらの問題はⅠ・Ⅱ期の三角縁神獣鏡を副葬する墳 丘墓に集中している傾向がある。
古式の三角縁神獣鏡および魏の紀年銘鏡を副葬する墳丘墓は、前方後円墳よりも周溝墓や方形墓、
不定形の台状墓、前方後方墳の方が多い。墳丘規模も長軸または長径 20m程度の墳丘墓がかなりある。
直径 30mの円墳岡山県一宮天神山古墳は三角縁神獣鏡をもつが、すぐ横にある同時期の墳長 60mの前 方後円墳には三角縁神獣鏡がないという例もある。前方後円墳体制と三角縁神獣鏡の流通は必ずしも 連動しているわけではない。
多数の鏡を副葬する墳丘墓では、三角縁神獣鏡はほかの鏡と一緒に棺外に置かれ、およそ政治的な 配布品とは思えない扱われ方をしている。奈良県黒塚古墳では、三角縁神獣鏡以外の一面の画文帯神