<ちくほう地域研究> 資料と証言で振り返る「昭和二八年筑豊の大水害」
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(2) [ちくほう地域研究]. 雨はととろにょって二九日まで続いた。降り始 めからの福岡県下の雨量は、田川市五一八・四ミ リ、飯塚市四九二・ニミリ、直方市五七0ミリ、. 八幡市四一四・七ミリ、久留米市五七八・九ミリ、. 福岡市六三0ミリ、旧小倉市五八九・ニミリ、旧. 柳川市四九三・六ミリ、行橋市四八五・五ミリ. (以上は各士木事務需ベ。観測機関地点にょ り数ミリの差異がある)だった。. なぜ、このような大雨になったのか。当時の建 設省九州地方建設局の報告書にょると、梅雨前線 は九州中部と北部の間の﹁幅約一00キロの狭い. 匿名希望の農業男性矢正玲年生まれ赤村). 証言﹁とんでもない大水に﹂ .. わたしは香春町と大任町に隣接する地域で、 ず っ と暮らしています。昭和器年6月の豪雨は本当 に す をやっていました。﹁バゲミズ(大水)を見らんと田. ごかった。あのころは6月末から7月1日に田 植 え. 植えをせん﹂と言っていたものですが、バゲミズど. 一. F. 、. 、山、. 一、一゛. T. 胤. 貫給. 藩、゛. ゛. 寄. 一0. 4. t. 、. '、. 謬 一削{吐. h. 趨Xずぞ. 1. 4. 勺. 地域﹂でゅっくりと上下したり、停滞したりした。. まず人的被害である。死者七九二人、行方不明. 二三六人計一、 0二八人が犠牲になっている。負. 0八三戸。田畑や道路橋梁、. 流失・半壊が計三二、九七五戸、床上・床下浸水. 傷者は三、四一二人だった。家屋被害は全壊・. は合わせて四七四. 堤防などの決壊損壊も目立ち、被災者総数は約. 二七三万人の多数にのぽる。うち福岡県は死者・. 行方不明二九七人、負傷者五玉八七人。家屋の. 被害も二二万戸を超えた。. 遠賀川流域つまり旧遠賀郡域を含む筑豊地方の. 被害は当時の建設省九州地方建設局のまとめた報. 告書を参考にする。流域合計で二0人が犠牲にな. リ、二三人が負傷。約三九、七00戸が全壊・. 流失・半壊・床上・床下浸水した。耕地の流失・. だ。筑豊地方はちょうど田植えの時期で、農家に. 埋没・冠水も約一四二00へク・タールに及ん. よっては農地も苗も流された。. 卦. ゛'、、.. 、. 、、. ,イー、,. ,:、曳;ノ. 、J. .、. 、 J く. 諮急4. 、、'一、(.、. 、. 、,、. パカ、. 判. :久望. 益. 、、. 以上のように、九州・山口地方では未曾有の大. y. 豪雨が繰り返された気象状況については﹁本邦海. ノ. 雨災害になったが、定まった呼称はなく、広くと. 幅岡縣災害図. 上の太平洋高気圧と日本海の寒冷な高気圧とが共. ノ. 、、. .、、. 赤卓. ころか、とんでもない大水になってしまい、用 意 し. '. 鶴ノ.. .. 岐烹. ノ. に勢力伯仲して顕著な前線帯を形成し、しかも南. 支那海方面から南西気流にのって非常に湿潤な空. .. '. 手. 亀戦. 八帰. 京. ていた苗はみんな流されてしまいました。 筑豊鉄道)の士手がありますが、田んぼから1. 気が流入し、これらの気塊が前線付近で接触した. 抽=. 賀. i\". .、. .賀一. ,..ー.、.ー. .物阻. 2日 昭晒. 8年7月福岡県発行 本豪雨水害写真集」より. 山剛11. 、..、. 分かりにくいけれども、割と深い谷間になって い ま. ためである﹂としている。. 大雨にょる被害は、資料にょって違いがある。. 集計時期や調査機関認定基準の異なりにょるも のと考えられる。士木学会西部支部が発行した ﹃昭和二八年西日本水害調査報告宝昌に掲載され. ". m近. 昭和28年6月の大雨で決壊した遠賀川の堤防 (直方市植木=遠賀川河川事務所提供). ている九州七県と山口県の﹁各県別人、家屋田. 戸.1.. 家の前が田んぼで、すぐ横に国鉄田川線(現・平成. 一悼寺二. 畑被害表﹂を元に全体的な被害を算出してみた。. ノ. 1='哈. す。苣ダム建設計画が持ち上がったほどです。そ 町役場方面)は海のようになっていましたね。. うそう、県道詑号沿いの中津原交差点より下( 香 春 うちの家そのものは、ちょつと一局いところなので. 助かりました。幸い、田畑の水はけもよかった の で 近所の方に苗を分けてもらつて田植えも出来ました。一. 田川にはまだ地盤沈下で水の溜まりやすいとこ ろ が (記録者・糸瀬勝彦). あります。根気よくなおして欲しいものです。. 朝倉. 糸島. 甥盈. 迫珊川. ﹄. (58). く水が上がっていました。この辺りは見ただけ で は. ﹄. ニ"!'ー. 驚;1'、- 51、、、;、e.
(3) 近畿大学産業理工学部かやのもり 20(2014). であり、一八三人が亡くなった北九州市や周辺で. 大水害﹂もしくは被災日を表す﹁六・二六水生口﹂. 二人が犠牲になった熊本県の白川流域では﹁白川. が甚大だった地方では、独自の呼称がある。四二. 水害﹂という表現が用いられることが多い。被害. らえた場合は﹁西日本大水害﹂﹁昭和二八年西日本. は建設省九州地方建設局の報告書にょる。. 統計は旧郡に含まれる。地区別の被災状況の数値. (現在北九州市八幡西区)ヘ編入されたが、被害. 町と旧遠賀郡香月町は大水害の二年後に旧八幡市. ﹁中間遠賀﹂の四つを使用する。旧鞍手郡木屋瀬. ﹁嘉飯山(かはんざん)﹂﹁直鞍(ちょくあん)﹂. 災したので﹁二八災(にっぱちさい)﹂と言われて. 西日本を襲った大雨は、英彦山で計六二0・五. ︹田川地区︺. は﹁北九州大水害﹂とか、﹁二八年の二八日﹂に被. いる。筑豊地方に特有の呼び方はなく、市町村史. ミリを記録した。彦山川や金辺川などの水源域で. は平地の田川市より一00ミリ程度多く降ったこ. 誌には﹁昭和二八年水害﹂というように、被災年 に﹁洪水﹂﹁水害﹂と付けて表記されている。. 証言 岸本. .﹂. 文明さん(昭和W年生まれ。 田川市伊邑. ﹁ビール瓶の中まで砂が. 父親の代(明治)より芳ケ谷(現・伊田)に店を構え. ています。昔は大水で往生していました。芳ケ谷と. いう名前の通り、谷間の底に位置しており、大雨が. 少しの田畑以外は山ばかりで何もないところを、. 降るたびに水害に見舞われてきました。. 三井炭鉱が買い上げて、たくさんの社宅を建てまし. た。社宅や三井伊加利抗の排水などで、次第に川に. 流れ込む水量が増えていった。そんな状況で昭和部. 谷の上部の至るところから水が下に流れ込み、店. 年6月の豪雨です。. の前も川のようになってしまいました。少し下流の. この結果田川郡で﹁各河川は急激に増水して. 職員住宅から付近一帯は完全に水に覆われ、余りの. 応できるマチづくりが、とりわけ北部九州各自治. 警戒水位を突破し、各所において堤防を損壊決. とがわかる。. 体の防災行政の最重要課題となり、河川改修や堤. 壊して濁水は流域の耕地や住宅に侵入した﹂﹁本郡. 統一名称がなくても被災後は、この大水害に対. 防の補強、水路遊水池、砂防ダムの建設、下水. いて、栓を開けたお客さんから叱られました。現在. などは大丈夫と思っていましたが、砂が入り込んで. まされることは無くなりましたが、いざという時の. は河川の改修も進み、よほどの雨でないと水害に悩. うちも多くの商品がだめになりました。ビール瓶. て住民を救出していました。. 流量で避難もままならず、三井炭鉱はボートを出し. 道整備、鉱害復旧工事などが精力的に行われだし、. で、河川の氾濫とは別に炭鉱住宅地ならびに耕地. は鉱害地特有の陥没地帯が各所に広がっているの. Ξ人が死去、一三人が重軽傷を負い、添田町では. の浸水をきたした﹂(﹃福岡県水害誌﹄)。郡内では. 今日も続いている。. Ⅱ筑豊四地区の被害. 全国に知られ た が 、 エ ネ ル ギ ー 革 命 後 の 炭 鉱 閉 山 、. 地域である。かつてはわが国最大の産炭地として. ふれ、長さ約八0メートルの﹁下伊田橋﹂が流失. かったものの、﹁経塚橋﹂や﹁新橋﹂付近で水があ. 田川市では貫流tる彦山川の堤防決壊こそな. がったのは﹁西日本一帯を襲った大水害の爪跡が. 市政を施行した。﹃山田市誌﹄は市制施行が持ち上. 中の﹁炭都﹂に成長していた旧山田町が翌年春に. (記録者・糸瀬勝彦). 対処だけはしていたらいいと思いますね。. 人々の転出、過疎化の波の中で自治体再編や行政. した。御祓川の﹁糸飛橋﹂、芳ケ谷川の﹁森町橋﹂、. 未だ生々しい中﹂だったと書き留めている。. 七八か所で山林が崩壊した。. 区域の変更が行われ、地方名が指す範囲はとりわ. 鹿場川の石造﹁鹿場小橋﹂も流され市内で二人. 筑豊地方はいまもむかしも、遠賀川で結ばれた. け下流域で大きく変わり、中間遠賀地区は筑豊地. 現在、嘉麻市の一部である旧山田町の被害は、. が負傷、建物被害は約一、-. 貫く遠賀川本支流の水害が主題であり、同一流域. ﹁嘉飯山﹂は、﹁嘉穂・飯塚・山田﹂の頭文字を. ︹嘉飯山地区︺. 戸が浸水した。嘉穂郡全体の被害は死者七人負. 傷五一戸が全壊・流失・半壊し、約一、二00. 川で堤防が決壊したため二人が死亡し、六人が負. 00戸を数えた。. 方に入れにくくなっている。. から一部を切り籬すのはむしろ不自然である。. とつた言い方である。昭和二八年当時、地区は飯. 傷者一七人、人家被害は約七、七00戸。. 旧穂波村と並んで大きかった。山田川はじめ九河. 従って、被災 当 時 の 筑 豊 地 方 の 範 囲 、 地 区 分 け 、. 塚市と嘉穂郡の一七町村で構成されていた。この. しかし、この稿は福岡県中央部の生活文化圏を. 郡市町村名を用いながら徐する。地区は﹁田川﹂. 一一. (59). ーーー..ーー.......ー....』..ーー.ーーーーーー.ーー』一ーーーーーーーーーー.ーーーーーーーーー...ー...ーーーーー...』』』.、ーーー...".
(4) [ちくほう地域研究]. 分ごろ、河口から一四・六キロ地点の左岸である。. ないところ力、ら:::. たのは、遠賀川の水門をせきとめたため水のはけ. 二一. 飯塚市は﹁六月上旬の豪雨にょる被害の復旧も、. れ、筑豊本線は寸断された。家々には床上一・ニ. 約六0戸の中ノ江集落は瞬く間に泥水にのみ込ま. ノと幸畏じている。. いまだに完了しないとき﹂(﹃福岡県水害誌﹄)の被. ︹中間遠賀地区︺. 一の大動脈﹂(西日本新聞筑豊版六月二八日付). 雄橋は西鉄中央停留所と国鉄新飯塚駅を結ぶ市内. 決壊の瞬間を目撃した農業者は取材に<堤防が崩. 戦う地元民︾との見出しで現地ルポが載っている。. 西日本新聞筑豊版二八日付に︽荒れ狂う水魔と. 在はどこもベッドタウンの色彩が濃いが、かつて. 遠賀村は昭和Ξ九(一九六四)年に町制を施行。現. た。中間町は昭和三三(一九五八)年に市制を、. 岡垣村、遠賀村、中間町、香月町の四町二村だっ. メートルから丁ハメートルの高さまで水が押し. だった。国鉄鯰田駅1飯塚駅間では線路が水没し、. れるぞという叫び声を聞いて振り向いたとき、堤. は﹁大ヤマ﹂﹁中小のヤマ﹂が並ぶ産炭地だった。. 約二00メートルの鉄筋﹁芳雄橋﹂は橋脚が沈下. 列車の運行が一時中止された。中心部や周辺部の. 防の上の士がブツブツと音を立てて吹き上げたと. 堤防決壊にょり二六日、植木町中ノ江であふれ. 大水害のころの中間遠賀地区は水巻町、芦屋町、. 小河川の氾濫も相次いだ。市内で二0人が負傷し、. みる間に、ドーツという鈍い轟音をたてて濁水が. 出した遠賀川の濁水は、遠賀郡の左岸平野部を. 寄せた。. 約二、王00戸に被害が生じた。. 流れこみ、アッいう間に水に囲まれてしまい、水. 集落が孤立した、との報で米軍芦屋基地からへ. .一、コ. 風言. 次々に沈めていった。植木町の隣中問町の下大. 鞍手郡域を指す言葉として用いられていた。当時. リコプターや救命ボートが出動旧小倉市の保安. ". 气. ︹. の勢いは畳を吹き上げるほどで、まったく手の施. の鞍手郡は一0町村で、のちに木屋瀬町は旧八幡. 隊曽根駐屯部隊も現地ヘ急行し救出活動に当たっ. 屋の流失・全壊・半壊が三五三尺床上・床下浸. ,,゛一. J﹂W. 「西日本水害記録昭和28年」より. しようがなかった>と語っている。. 市ヘ、植木町は直方市ヘ編入される。宮田町と若. た。だが、水の勢いは治まらず、決壊箇所は拡大. 水は約一八、二00戸。家屋の浸水のうち九、五. '︺. ,. 昭和29年9月日本国有飲道西部総支配人発行. 全域で甚大な被害が出た﹁直鞍﹂は、直方市と. 宮町の合併にょる﹁{呂若市﹂誕生は平成一八年で. し、濁水は田畑や集落をのみ込みながら下流の遠 賀郡ヘ向かい、広範囲が泥海と化していった。. ある。. 鞍手郡でとりわけ深刻な被害に見舞われたのは. 古月村、西川村だった。﹃福岡県水生邑にょると、. 00戸は直方市内の被害である。市民の七八割. 直鞍地区の被害は死者六人、負傷者五五入家. 犬鳴川と八木山川が合流する宮田町では、あちこ. が被災したとみられ、六月Ξ0日付の西日本新聞. 当時の吉川村、若宮町、宮田町、植木町、剣町、. ちで堤防が切れ、町忠部の主要な﹁春日橋﹂が. 筑豊版は二八日の市街地の様子を<中心街の古町 二丁目と殿町通りも二尺余で、直方市はじまって. ル下流の﹁日出橋﹂は真ん中から折れて通行不能 になった。交通の途絶に不安が高まる中、夜を徹. いらいのことといわれている。駅前広場付近一面. 二六日午前、橋脚を残して流失約三00メート. して地元の鉄工会社が春日橋の橋脚に鉄骨を渡し、. まった。遠賀川の水深はさる二十六日ほどには増. の水は明治町の水が押しまくる状態となってし. 流域住民が最も心配していた遠賀川の堤防が、. 水していないのに市街地がこのような状態となっ. C. 仮の橋を設けて町民の孤立を防いだ。. 植木町中ノ江で決壊した。二六日午前一0時王0. 遠賀川堤防欠壊による浸水状況. 28、6、28. 図 B 39. ︹直鞍地区︺. して折れ曲がった。﹁ポッキリ真ん中で折れた芳. 災だった。遠賀川と穂波川の合流点に架かる長さ. 仏の.
(5) 近畿大学産業理工学部かやのもり 20(2014). (. ノ. 、凡. 一. 色. 、於"や. 、}}町゛. 叉工.".基. 、〒. コ. 田. 0. ゛;i. M. Ξ".. 村内の水が引いたのは七月三日の朝で、鹿児島本. は﹁鉱﹂を、坑口数には﹁坑﹂をつけて表記する. つ。このため経営体や事業体の数を表記する場合. 水浸しになった。地区内の被害は死者四人、負傷. 豊版六月二八日付は︽浸水廿二鉱に及ぶ︾(見出し). 嘉飯山地区の炭鉱被害について、西日本新聞筑. のが一般的だった。. 線も開通した。. 芦屋町では架け替え工事をしていた橋が押し流. 者九六人。家屋の流失・全壊・半壊二六九戸、約. と報じていた。前半の豪雨被害である。記者は. された。香月町では一部の高台を除いて全町内が. 玉、七00戸が床上・床下浸水した。. ところもあり、古河下山田二鉱では地表に直径二. た。 1階は水没し、 2階に避難しました。消防団が. て川の水が上がり、目が覚めたら畳が浮いていまし. す。昭和器年6月は舒日晩からの大雨で、一晩にし. 菰田地区は嘉麻川と穂波川の合流地点に当たりま. 証言﹁目が覚めたら1階は水没﹂ 久保倉雄さん矢正H年生まれ飯塚市菰邑. 十メートルの大穴が開いて浸水X日鉱二瀬では家. <設備を誇る大手でも思いがけない災害をうけた. Ⅲ水没した筑豊炭田の炭鉱 九州・山口地方を襲った大雨で最も打撃を受け た産業は、炭鉱だった。まとまった被害統計を見 つけることが出来なかったので、断片的な資料を つなぎ合わせてみたい。. 昭和二八年七月八貝衆議院水害地緊急対策特 別委員会が開かれ、通産省企業局長が五日現在の. 調査結果を報告している。企業局長は﹁一番大き. 激しい雨と洪水に遠賀村は二六日午後一時、避. 設が破損したというようなことに相なっておりま. いは坑外に浸水を受けたとか、あるいは坑外の施. 大雨が降ると徳前大橋の上からランプを流し、目. のです。ある速度になると警戒警報を出していまし. ければ下流の直方方面で水が溜まっている、という. た。どれだけの雨が降ったらどぅなるか、親たちは. 経験と知恵と勘で、臨機応変に判断していました。. 年寄りの判断で早鐘を叩いて避難を呼びかけていま. 職後、炭鉱に来れぱ進駐軍の放出物資があり食ベ. した。. 物があるからと、どんどん人が飯塚に来て嘉穂郡は. になり、大手の被害は少なかったが、小さな炭鉱は. 活気づいていました。ところが器年の水害で水浸し. (記録者1青山英子). 潰れてしまいました。ひどい水害でした。. ーー.ーーーーーー".ーーーーーーーーー.ー."ーー.ー.』一.ーーーーーーーーーーー.ーーーーーーーーーーーー...ーーーーーー.'..ー.. 互、、. H. 、. 船に乗って弁当を2階に運んで回りました。そう、. 中小炭鉱﹂と前置きして、﹁九州地区における被害. な影響を受けたのは西日本、特に北九州における. 隈や上底井野などは十数分で床上まで水位が上昇. 難命令を出す。村内の水位は刻々と変化し、村役. す﹂と説明。貯炭一七、. このうち、筑豊炭田の被害はどのようなもの. は四五七の炭鉱があり、うち二四七鉱は筑豊地方. 雨の降り方は平成茄年水害とそっくりでした。. 炭鉱は二七0鉱の多きに上っていま,、。そのうち、. 場前の国道面で二九日午前四時に一丁五五メート. も述、へている。. だした。駐留軍保安隊、宗像郡鐘崎海難救助隊. だったのか。通産省と福岡通産局が編纂した﹃石. 石炭輸送や旅客輸送にあたっていた鹿児島本線. で操業していた。半分以上が立地していたことに. 炭鉱業二0年の歩み﹄にょると、この年、九州に. 遠賀川駅も構内が全域水没し、濁水は一時プ. なる。炭鉱は規模が大きくなると複数の坑口を持. 一一二. 仏1}. ラットホームの上まで達し、鉄道は不通になった。. 動はこの日まで続いた。. 町村、消防団、青年団など禁かりの住民救出活. 000トンが流失したと. ルという驚異的な深さを記録してょうやく低下し. まで拡大した。. した。この間も中ノ江では堤防の崩壊が止まらず、. ホーム上まで浸水した遠賀川駅構内(海老津側から望む遠賀町提供). 全坑水没、坑道が水浸しになったのが実に九四鉱. 、点・"捧ゞー. ﹁最終的には延長一八0メートル﹂(﹃遠賀町誌﹄). 女;.t゛三一七."」. ていました。ランプが早く流れれば大丈夫だが、遅. 、;卓吋 1. 視で水の速さを測って避難すべきかどぅかを判断し. -0'、'.""'"T. 、、之. 7謝. :爽子. J". 、"、、,ー ー^ー、. , ξ. ゛゛」、η円子!、. 、" J1健;:、 ユニ?、÷<、; 'ミにt古' 1、.、ニ、. '誤. で、ございます。その他は、一部の水没とか、ある. 、、→.、ー「'、」'.
(6) '. [ちくほう地域研究] .. 証言﹁植木の決壊で水位下がる﹂ 学4年生でした。. むかし、飯塚の目尾(しやかのお)は周りよ り 士 地 が 低. きは住職のかたわら. 生まれ、昭和U年逝. 父・清照(大正3年. かったので、しぱしば水害に遭っていました。昭和翠6. の副団長をしていまし. 公民館の館長や消防団. 熊井満さん(大正H年生まれ飯塚市目尾). きて、床上3。師ほど浸水しました。日中のことでした。寝. 月の水害のときは、遠賀川の水が下流の小竹か ら 逆 流 し て. た。新しいものが好き. 一四. はまだ珍しい写真機を. なおやじでした。当時. 持ち、運動会はじめ頼. ました。. こちらから見たら直方の街の先、筑豊本線の 植 木 の 駅 か. るところがなくなったので近所の人たちと公民 館 ヘ 避 難 し. ら下がった所今の高速道路のあたりで堤防が切れたそう. まれたらすぐ撮影に出かけていました。. 真綴りの編集後記にょ. 年二一月三一日﹂。﹁写. ると制作は﹁一九五九. 真同好会の人々にょり. と書かれていますので、. 記録写真を撮影した﹂. 収められている写真の. すべてを父が撮ったの. も含まれていると、こ理. ではなく、お仲間の分. 解ください。写真綴り. '. 一. <お断り>宮嶋さんの晋収集は2月訂日に行われました。. と思って大切に引き継いでまいります。. は、被災した方たちの残してくださった﹁地域の財産﹂だ. その後の3月中旬、松尾さんが母親の記憶を頼りにさらに. (記録者・宮嶋玲子). よそは家が流されたり壊れたり、田畑が埋まったりしてそ. 壊地点より上流域だったので、軽微な被害で済みました。. で、幸い亡くなった方はいませんでした。うちあたりは決. 備、河川改修が進み浸からなくなりました。. せられていました。このあたりはその後堰や排水口の整. た。﹁植木町﹂の公印が押されていますが、編集者として清. 付きです。研究会と﹁記録する会﹂が2月に確認した写真. 綴りとは数枚が重複しているだけですので、別の目的で制. .嘉. 被災の記録写真の存在を思い出したのは、父が亡くなっ. て遊んでいました。. 照さんが署名しています。写真は全部で舒枚、日付と注釈. 庫裏を探したところ、もう1冊、写真綴りが見つかりまし. (記録者・青山英子). 証言﹁八Xたちの残した水害の記録写盲ど. (昭和玲年生まれ直方市植木). 真如 寺 住 職 松 尾 正 典 さ ん. 貼ったものなどが4. 枚出てきました。こ. れにょり真如寺には. いたことになり、こ. 計郭枚が保存されて. んご両会で詳しく調. 査分析します。. 一イ. 作されたと思われます。この他にもB4サイズの用紙に 真を撮っておられた。. 見. 守. "、'. ,1. 、. た直後です。中ノ江の方たちから﹁あんたのお父さんが写. 見たいなあ﹂と尋ねら れましてね。そうした. た写真綴りが1冊だけ. ら、きちんと製本され. 棚から出てきました。. 以来、話を伝え聞いて. ぽつぽつとおいでにな. ]ι.. まず、真如寺の位置から説明します。うちのお寺は遠賀 川の支流、犬鳴川 の左岸にあります。. 6月27日頃船で連絡する消防団員 (大下にて). をいいことに、川からあふれた水の中を泳ぐ魚を追い回し. れは大変で、父は何日も帰宅しませんでした。大人が大変. かなりの住民が高台の小学校やお寺ヘ避難していましたの. ゛,'゛. な思いをしているのに、私たち子どもは、学校が休みなの. あの水害では家が浮いているのも見ましたね 。 後 片 付 け. いました。写真機を持ってのパトロールでした。決壊前に. あの大雨の時は、消防団員として堤防や家々を見回って. です。その話を聞いてから遠賀川の水位が下が り だ し ま し. 162). の時、幼児たちはじやまになるので、竹で編ん だ カ ゴ に 乗. の毒なととになりました。. た。上流のこちらはホッとし、あちらの方たち は 大 変 お 気. 植木小学校に避難した子供たち 荒らされた民家(其の二). 荒らされた民家(其の三). 復旧作業中の決壊現場. 2つの川はちょつ. と先で合流してー. 本の大きな流れに なります。昭和加 二. ています。. る皆さんに見てもらつ. 裟を貼り込んだ写. 卜七. 年の大雨で堤防が. 切れたのは、うち. の中ノ江というと. から下流ヘ約2k. ころです。私は小. 、゛ー'^. .. 一. ". ".
(7) 近畿大学産業理工学部かやのもり 20(20H). などと書いている。そして七月四日付は<水害の 昭和二八午1﹄の付録﹁座談△乏では、営業部貨. 門司鉄道管理局が編纂した﹃西日本水害記録1. の3つの組み合わせで地域の主に昭和史を調ベ、. ﹁語ろう△=﹂である。﹁、証言・資料・現地(調査)﹂. 歳から七0歳までの男女二七人が加わる菊ケ丘. ベ﹂に挑戦している高齢者サークルがある。九二. ため特筆すべき被害をこうむった炭鉱は七十三鉱、. 物課長補佐が﹁災害にょり輸送減となった数は大. それを﹁ふるさと紙芝居﹂に仕上げては地元の市. 田川など代表的な炭鉱の名前も見える。. このうち水没したもの二十一鉱>と続報しており、. 体四三万屯位1その内筑豊で三七万屯位が減屯と. 屋の浸水四百二尺明治平山では火薬庫が浸水 >. 後半の豪雨で被害が一気に拡大したことがうかが. 筑豊炭田の最も北のヤマだったのに地域史から消. 民センターや老人ホーム、小学校で披露している。. このように見てくると、通産省企業局長の報告. えた小倉炭鉱の,発掘で他所にも活動が知られ. なっています﹂と語っている。. 六月三0日付の同紙に直方石炭事務所管内の二. にょる被害二七0鉱と直接被害九四鉱のほとんど. るようになつた。. える。. 九日現在の調、へとして<八十炭鉱のうち二十一炭. が ﹁筑豊炭田のヤマ﹂だったと推定できる。. の他須藤炭鉱・上尊炭鉱、太陽炭鉱など二五坑に. 桝田野田トンネル崩壊で炭送に支障をきたし、そ. 田川線豊前川崎駅付近、同池尻・後藤寺、同添 田 ・. 六月二八日の項に﹁連続豪雨で中元寺川筋が氾濫、. 田川地区については﹃筑豊石炭鉱業史年表﹄の. トンネルが復旧しても、救援物資生活物資の緊. 進み、筑豊本線が全線開通し、水没した関門鉄道. ばかりだった。そこヘ大水害である。排水作業が. 石炭の価格いわゆる炭価引き下げの圧力は高まる. (昭和二七年)、重油の統制が解除されていた。. のエネルギー革命は目前に迫り、大水害の前年. していた。戦後中東の油田開発が進み、わが国. 被災したころ、石炭産業を取り巻く環境は急変. 寿山市民センター(電話093. 会員は北九州市内の三八人。事務局を小倉北区の. ﹁記録する会﹂は平成二四年八月に設立された。. や資料の散逸が著しいことが判明し、﹁北九州大. で被災体験の継承がまったくなされていないこと. 芝居を作ることにした。調査を開始すると、市内. 大水害体験者が玉人もいることが分かり、防災紙. 東日本大震災後の例会で、会員に昭和二八年の. 鉱三十六坑口が浸水、減産三万王千トンを見込ま れている>との記事が見える。直方石炭事務所は. 浸水﹂とある。このほか同地区の被害状況につい. 急輸送で石炭輸送貨車の運行はままならなかった。. 6)に置いている。半数は災害を体験した人たち. 直鞍と中間遠賀地区それに被災した小倉炭鉱(旧. て七月五日付の西日本新聞筑豊版は<炭鉱の直接. 坑道確保に欠かせない坑木は極度の品不足となり、. である。活動歴はまだ浅いものの、﹁語ろう会﹂が. 小倉市二坑水没)などを管轄していた。. 被害は三十六鉱>としている。﹃福岡県水害誌﹄は. 価格は水害後三か月で二倍にまで跳ね上がり、中. 採用している﹁、晋・資料・現地﹂重視の地域調. ・. 査法を取り入れ北九州地方に限ってはすでに刊. 531. これを物語るように、筑豊地方の炭鉱は昭和二. 行物(複写)をほぽ入手し、官庁や図書館博物. ・. 水害を記録する△=﹂の結成を呼びかけた。. 田川郡だけで﹁五0数鉱に及んだ。その殆どは水. 小ヤマは各地でますます鯛地ヘ陥った。. 八年の二四七鉱から昭和二九年は一二六鉱と三0. 館文書館など公共施設の保存資料のチエツクも. 122. 害後復旧したが、大任村の高平炭鉱、金田町の南. 鉱以上も減少している。また、この直後から筑豊. 終えている。市民から提供された未公開の写真. 木炭鉱、豊原炭鉱の三鉱は当時復旧できず中止す. 地方では整理と合理化の嵐が吹き荒れだし、時を. るにいたった﹂とある。. 一方、西 日 本 新 聞 の 社 会 面 に は ﹁ 二 八 日 現 在 の. ネガは三七0枚、市民が所有していた資料も約二. 料の存在を確認し、マスコミに発表した。. 復旧に関する永年保存文晝写真集など大量の資. 庁舎内で旧小倉市、旧門司市旧八幡市の被害や. 0点入手している。平成二五年三月には北九州市. 置かず、地域激変と衰退の時期を迎えることにな. 筑豊地方の隣北九州市の小倉北区に﹁地域調. おわりに1高齢者向きの地域活平. る。. 筑豊地区の水没炭鉱は六十余鉱﹂(六月二九日付) とあった。﹃筑豊石炭鉱業史年表﹄の六月三0 日 の. 項には﹁筑豊の水害炭鉱は飯塚三四直方ニハ、 田川二0、計八二鉱﹂と記され、主な被害炭鉱と して一八鉱をあげ、その中には貝島大之浦、三井. 一五. (63).
(8) [ちくほう地域研究]. 一六. ば、真実性のある体験の継承が可能である﹂とい. 0人)ヘ共同. 年一. う方向をだれでも打ち出せる。. 0月、筑豊地域研究会公=員一. 調査を提案した。研究会代表の宮嶋玲子さんや糸. ただ、その方向を具体化していくには幾つか乗. 収集したものは公開を原則にしており、平成二 五年度は﹁北九州大水害写真展﹂を小倉北区のり 瀬勝彦さん、青山英子さんは被災体験の聞き取り. り越えなければならない障壁が横たわっている。. わが国の場合火山災害や震災、大津波と違って、. と地元資料の収集を担当した。被災写真について. は研究会の助言者で地域史研究者牛嶋英俊さん. の﹁思ひ出ステーシヨン門司﹂と松ケ江南市民セ ンター、小倉南区の北方市民センターの四か所で に協力を頼んだ。. 書館で写真展とつどいを、秋には遠賀町の文化施. どい、六旦二 S二九日に八幡東区の市立八幡図. 四日に北九州市小倉北区の今町市民センターでつ. タジオなどで計五回催した。平成二六年度も六月. のつどい﹂もNHK北九州放送局りバーサイドス. 域をとらえたものは計五五枚となった。写真デー. に真如寺で新たな写真が見つかり、被災直後の地. 提供にょる。これがきっかけで三月になってさら. 成二六年二月二七日に行ったが、牛嶋さんの情報. 録写真の調査は研究会と﹁記録する会﹂合同で平. 直方市植木真如寺(松尾正典住世所有の記. 旧事業推進のため、かなりの枚数を撮影したはず. 簡単には入手できない。公的機関は被害調査や復. の被害とされる昭和二八年の大水害関係でさえ、. 0. カメラが普及していなかったので、個人撮影. の5W1H﹂を改めて調ベなければ、公表しにく. して撮ったのか﹂という基本データがなく、﹁写真. つ・どこで・だれが・なにを、なぜ、どのよ、フに. 写真になるとさらに険しい。西日本で戦後最大. 村史芭も詳しくは記されていない。. 大雨は年中行事のような扱いを受け、身近な市町. 設で写真展を開く予定だ。. 貴さんが担っている。. だが、ほとんど残っていない。探し出しても﹁い. .. 防災や減災に関して地域社会は二つの格言を. ,、. 分はもともと少なく、真如寺に保存されていた写. 11. ﹁備えあれば憂いなし﹂である。これまでに五0. 真は稀な例である。マスコミは生々しい写真を. 持っている。﹁災害は忘れたころにやって来る﹂と. 人以上から被災体験を聞いた﹁記録する会﹂会員. 持っているけれども、使用には相応の負担を覚悟. しなけれぼならない。他方、被災体験者にも﹁将. らは、格言を次のように考えている。. ﹁災害はなぜ忘れたころにやって来るのか。そ. 来のために語っておきたい。書き残しておきた. い﹂という意識は希薄である。. れは、地域社会が被災体験の継承を怠ってしまう 力らだ﹂. 温暖化にょる気象の激烈化と、地域社会の超高. ﹁備えあれば憂いなし、と言いたいが、巨大な災. 害になれば、被災を免れるのは難しい。しかし何. 齢化が同時進行している現代では、避難法や避難. にますます住民の視点と知恵が求められる。この. も知らなかったら備えることもできない。備える. 格言をこのように受け止めると﹁災害の実相を. 時、過去の災害資料類が機運づくり、議題の設定. 場所の選定相互支援ハザードマップ作成など 学ぶには現物資料とりわけ被災状況をとらえた写. 解決策の追求、判断・決断に役立つ。いや、不可. には、災害の実相を知る必要がある﹂. 真や被災した品々が重要である。資料は自ら語ら. もU. 筑豊地方の深刻な被害については、遠賀町での. 欠である。それだけに、資料の収集や被災者から. .. 1. 夕の処理管理は﹁記録する会﹂世話人、末永裕. 風水害は歴史の中で重んじられておらず、梅雨の. 巡回展示し、大水害体験者が語る﹁被災体験継承. バーウォーク北九州﹁朝日さんさん広場﹂、門 司 区. (64). ないが、被災体験者の証言と資料を組み合わせれ. リバーウォーク北九州「朝日さんさん広場」で開催された 「北九州大水害写真展」(平成25年7月1日 9日). 写真展開催の下調ベをしていて気付き、平成二五. 田. 曳,ゞ、ι・.
(9) 近畿大学産業理工学部かやのもり 20(2014). の聞き取りなどは急ぎたいところである。. だが、それらを行政機関が手掛けるのは恐らく 無理であろう。お金と時間がかかる割には運やツ. キに左右され、成果を見通しにくいのだ。となる と住民、それも多くの体験と記憶と時間を持った 高齢者の出番ではなかろうか。同世代に被災体験 者がいるのも強みである。. しかも、この種の調査活動にプロ、アマの差は. Ξ二年二月. 水害調査報告書﹄士木学会西部支部刊昭和 福岡通商産業局石炭部編﹃九州石炭鉱業20年の 四二年Ξ月. 歩み﹄通商産業省臨時石炭対策本部刊昭和 永末十四雄著﹃筑豊石炭の地域史﹄日本放送出 版協会刊昭和四八年一二月 山田市誌編さん委員会編﹃山田市誌﹄山田市刊 昭和六一年三月 和六一年三月. 遠賀町誌編纂委員会編﹃遠賀町誌﹄遠賀町刊昭. 策特別委員会(昭和二八年七月八日開催). 衆議院会議録情報第016国会水害地緊急対. ない。ワ、要﹁他人の話を聞き、文字にするワ資 料・被災現場写真や刷り物、日記、文書を個人の. ろうかい﹄(一. S二七七号). 0月. ﹃北九州大水害を記録する会会報﹄(一. S二四号). 菊ケ丘﹁語ろう金会報﹃このあたりのことを語. 程﹄福岡県平成一七年一. 西日本新聞筑豊版昭和二八年六月S七月 第二回福岡県市町村合併推進審議会配布資料﹃福 岡県の地理的条件と市町村の歴史的形成過. 家図書館行政機関などで集める。探し出すV 現場n証言や資料をもとに現地を訪ね歩いてみる。 この﹁証言・資料・現場﹂の三つを組み合わせて、. 照らし合わせるという約束事を守りさえすれば、. 専門家でも無視できない一次資料のセットが完成 する。そして、防災・減災ヘつながるかけがえの ない財産を地域に残すことが出来る、と私は思う のである。. .主な参考文献. ﹃福岡県水害誌﹄福岡県編刊昭和二九年三一月 ﹃西日本水害記録昭和28年﹄日本国有鉄道西 部総支配人編刊昭和二九年九月 年八月. ﹃西日本豪雨水害写真集﹄福岡県編刊昭和ニハ ﹃昭和28年末の豪雨にょる北九州直轄5河川の Ξ月. 水害報止口﹄九州地方建設局編刊昭和二九年. 和四八年三月. ﹃筑豊石炭鉱業史年表﹄田川郷士研究会編刊昭. 平成一八年三月. ﹃遠賀川﹄ NOP法人遠賀川流域住民の会編刊. 西日本水害調査研究委員会編﹃昭和28年西日本. 一七. (65).
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