Title
奇美のアミ(中部アミ)の宗教
Author(s)
平敷, 令治
Citation
沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 8(1): 123-159
Issue Date
1968-01-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10998
第一節
第二節
第三節
奇美のアミ
l
まし
(中部アミ)
の宗教
社
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礼
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一三四頁
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車 問 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 ,A.. 寸ヨ頁
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L A ﹄ 一九六四年度の統計によれば、台湾の原住民(高砂族)の総人口は約二十四万人で、 その三分の一強(九万人)を 占める最大の部族がアミ(阿美)族である。 アミ族は、彼等自身では、 ﹁パンツァハ﹂と称する。アミ族は、台湾東 岸の花蓮県に集中的に分布し、中央山脈と台東山脈の聞を縫う﹁花蓮渓﹂、 ﹁秀姑轡渓﹂及び﹁卑南渓﹂の三河流域 で、農耕庄活を営んでいる。 一般に、北部の花蓮海中下流域の﹁北部アミ﹂ (叉は秀姑皆アミ)、及び卑南渓流域の﹁南部アミ﹂ (又は南勢アミ)、花蓮渓上流域から秀 姑轡渓流域にかけての﹁中部アミ﹂ ( 叉 は 卑 南 ア ミ ) 、 の 三 グ ループに分けられている。この区分は、勿論、地理的区分であると共に、 アミ文化のヴァリエーションの別でもあ る 汀 山 + j a、
1l
一九六七年の九月に、琉球列島米国民政府教育局及び台湾政府技術協助委員会の後援により、花蓮県瑞穂郷 奇美村(蕃社名はキウイット社)、同郷舞鶴村(カララ杜)、及び岡県吉安郷化仁村(リ l ラウ社)に於て、宗教儀礼 の調査を行なうことができた。前二村は﹁中部アミ﹂に、化仁村は﹁北部アミ﹂に属する。私は、主として、奇美村 の調査を行ない、佑仁村においてはアミのシャl
マンである﹁マカワサイ﹂を面接しただけである。 ﹁アミは皆キリスト教徒である。昔の迷信は、もはや存在しない。﹂これが、私の調査目的に対する、奇美村の指 導者たちの最初の発一=ロであった。確かに、奇美村では、村の中心の広場には、 (集会所)と並んで天主堂 (カトリックの教会)があった。村の入口には、長老教派(プレスビタリアン)の教会が建てられていた。これらの ア ロ ワ ン 教会はいずれも茅葺の堀建小屋であったが、花蓮市から汽車で瑞穂駅へ向う途中、光復郷太平村(ヴァタアン社)で 下 車 し た と き 、 コンクリート造りの壮大なカトリック教会が正上の集会所跡に建てられ、 それがヴァタアン社の茅葺の家並を圧しているのを見た。村の中心にキリスト教の教会が存在する状況は、 アミの文化変容の過程を端的に象徴 し て い た 。 アミの言葉は他の高砂諸族と同じくオ l ストロネジア系統である。三十代以上のアミは流暢に日本語を話 すけれども、中国語は上手でない。また、若い世代は中国語を話すけれども、 日本語を理解できない。調査期聞が二 週間という制約もあったので、私は調査方法を日本語による面接に依存し、三十代以上のアミを対象とした。奇美村 を含めた瑞穂郷において、キリスト教の活発な伝導が開始され、各村に教会が建設されるようになったのは一九四九 年(中華民国三十八年)以来のことである。従って、キリスト教の強い影響下で社会化された若い世代を面接対象か ら除外した事は、私の調査主題に﹁キリスト教の社会的機能﹂を含めなかった事を意味する。奇一美の指導者たちは ﹁昔の迷信は存在しない﹂と言ったが、彼等はキリスト教の前にアミ本来の宗教を卑下してこれを﹁迷信﹂ と み な し、遠来の客に対して身を固くしたにすぎなかった。奇美村にキリスト教の二つの教会があり、キリスト教徒である 事を自認するまでに彼等が回心しつ﹀ある事は事実だとしても)奇美のアミの重層信仰(シンクレテイズム)がアミ 本来の宗教に傾斜したま h である事は以下の記述で明らかにされよう。 アミ族固有の宗教の如何なる要素が奇美村に現存しているか、 それらは彼等の空活の中で如何なる機能を有してい 日本民族更に漢民族の支配下にありながら、何故彼等は﹁祖先崇拝﹂に背を向け﹁キ リスト教﹂に回心しつ﹀あるのか、の三点について、私の資料に昭和初期(一九三
0
年代)の民族誌を対比させっ て若干の考察を試みることにする。私の資料は短期間の調査によるもので、不充分のそしりを免がれないけれども るのか、また十九世紀末以来、 記して後考を倹ちたい。 奇 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 一 二 五沖大論叢 一 二 六
第一節
社
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丑
織
(1) 奇美村 ( 註1
)
奇美村は、都市佑した瑞穂村から東へ二里の、台東山脈中の台地にある。一戸数百四十八一戸、人口九百八十四人で、 その中二十六戸百五十人が漢民族系である。奇美村に通ずる道は、瑞穂村に至る道の他に、秀始轡渓河口の大港口村 に下る道があるだけで、集落とその周辺の田昌を含む台地は、山なみの中に彊立している。住居は総て礎石のない堀 建の茅葺平屋である。壁及ぴ床には竹が用いられている。面積はおよそ三聞に五聞で、それに倍する庭が前面(東方 叉は東南方)にあり、庭先右手には穀倉、左手には家畜小屋が建つ。屡敷のまわりには、ピンロウ樹と芭蕉が植えら れている。噛み続けると果汁が唇と歯を赤く染めるピンロウの実は、アミにとって欠かせない晴好品である。 ( 註2
)
ヘチマである。最大の換金作物は 彼等の栽培している作物は、水稲、陸稲、 ト ウ モ ロ コ シ 、 甘 藷 、 豆 類 、 野 菜 、 落花生である。奇美のアミはこれを担いで瑞穂村に下り、代りに石鹸、タバコ、缶詰、衣類などの日用品を買い込 む。かつてアミの主要作物であった粟は、今では全く栽培されていない。水稲と陸稲の作付割合は四分六で陸稲が多 い。甘藷は豚の飼料となる。一一戸平均三頭の豚の他に鶏が飼われている。鋤耕には牛が用いられ、狩猟には犬を連れ るが、犬は食肉にも供せられる。猟獣は近来とみに減少したと云われ、男たちは気晴しに捕、野生の山羊、キワの狩 を行うにすぎない。村の南ぞ流れる秀姑轡渓では、鮒、鰻、車海老がとれる。村長(日本の﹁字﹂の区長)の荘登原 ( 註3
)
氏によれば、各戸平均の田畠所有面積は約一町歩(一甲)だという。彼等の共同狩猟場であった森林は、蕃社のもの ではなく国有林であるから、濫りに伐り拓いて私有地を拡げることは許きれない。昔も今も、奇美のアミは、 地 理 的孤立を続け、きわだった貧富の差別を生ぜしめる内外の要因の少ない、農業共同体の中で生活していると言えよ- Aノ 。 ( 註
4
)
村の権力は、村長、幹事、七名の郡長ら、台湾政府の末端機関の手中にあり、スラル(年令集団)は共同体支配の 機能を奪われてしまった。村長と榔長は男女有権者により選挙され、任期は前者が四年、後者が三年である。幹事は 郷公所(日本の﹁村役所﹂)から派遣される公務員で、村長の補佐役を勤める。その他の公的機関として巡査駐在 所、国民学校があって、国民学校には校長以下七名の教師のもとに、六学年百六十六人の児童が在籍している。全教 員が漢民族系台湾人である。台湾の教育制度は日本と同じく六・三・三・四制で、奇美村から瑞稽村の初級中学に十 一名、花蓮市内の高級中学に四名を送り出しているが、未だに大学進学者は一人も出ていない。 (2) 男子年令集団 ﹁昔はカラス(長老)の意見を皆が尊重してくれた。しかし、今の村の指導者たちは、カラスが昔からのし・きたり を話しても、相手にしてくれない。世の中がかわったのだから、私はもう何にも言わずに黙っているだけだ。﹂と、 奇美村に入って最初に会った察老人は嘆いた。アミの男子年令集団は、﹁上級年令者による支配と下級年令者の服 従﹂の原則が幾重にもかさなった階級集団であり、長老政治( e
さ
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日 胃 ) の 基 盤 で も あ っ た 。 し か し 、 奇 美 村 の 現在の年令集団に、支配と服従の原則があるとすれば、それは唯、未成年者と成人との一般的なそれであって、もは や年級別の階層的威信を認めることはできない。 奇美では、生れたばかりの幼児から九才までの男児をワワ ( S h g b ) 、十才から十五才までの少年をタラクラライ ( 同 ぬ ﹃ お 守 ぬ ま 民 ) と い う 。 彼 等 は 、 家 庭 に 於 て 両 親 の 保 護 の も と に 置 か れ 、 両 親 と 同 じ 屋 根 の 下 で 姉 妹 と 共 に 寝 起 ・ き す ることが許される。だが、十六才から十八才までの若者は、 -F 一年毎に﹁レプレプ﹂と称する年級を結成して社会の準 奇 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 一 二 七' 沖 大 論 叢 一 一 一 八 成員としての地位を確保し、共同体において男子成員に期待される筏割を担い始める。男子年令集団の最下層のレプ レプ組を結成して共同体全成員の承認を受ける儀礼がイニシェ
l
ション(入社式)である。男は十六才になると、自 ( 註5
)
分 の 家 に 泊 ら ず 、 F 必らずアロワン(むささb
p
村の集会所)に泊る。そして食事のとき耕作に出かけるとき、その他用 事があるときに家に立ち寄るのである。 一九六七年八月のイリシン(豊年祭兼正月祭、一三九頁参照)の際に入社式が行なわれた。今年は十六才l
十八才の ( 註6
)
若者十四人がレプレプ組を結成した。次回の入社式は一九七O
年に行なわれる。奇美の男は三才毎に一つの組を構成 していく訳である。第一表に見る如く、レプレプ組からラカツアウ(七十三│七十五才)まで二十一組を数えること ができる。組(スラルSE
﹃ 芯 ) の名称は固定しており、今年のレプレプ組(十六l
十 八 才 ) は 、 一 九 七O
年 の 入 社 式以後はラスドウン組(十九│二十一才)、 一九七三年にはラアベ組(二十二│二十四才) を名乗っていく。組の名 称は、本来はそれぞれの職能に対応するものであったから、 別の厳密な職能はもはや存在しない。 アミの男は三年毎に進級するならわしであった。併し組 二十一組の年級は、更にカパハ ( 青 年 ) -マトアサイ(壮年) -カ ラ ス ( 長 老 ) の三つの階層に大別されている。 本来の職能から云えばベカパハは労働者層、 七十六才以上になると隠居し、公的生活には関与しない。 マ ト ア サ イ は 監 督 層 、 カラスは顧問団であった。ラカツアウ組を超えて 一 九 三0
年代まではカパハのラサナ組(その当時は二十五才│二十七才の組) になって初めて結婚を許されたといつ
カf ( 鈴 木 、 一九三二、二六二頁。小泉、 一 九 三 二 、 四九頁)、現在そのような規制が崩されている事は云うまでも r h 、 。 み d , E'LW カパハの候補生としてのレプレプ組は別として、今でもラスドウン組以上の各組には、組内で五選されたコモド( ﹄g § 。札)則ち組頭が一人いる。以前はコモドが全員で協議して、奇美社の頭目たるパプロアイ し、パプロアイを議長とするコモド会議が最高決議機関であった。もともとアミ族には﹁部族統合の観念﹂は存在し ( h v b h v 宮 司 。 h H民 ) を選出 なかった。部族としての社会組織を有していなかったのである。従ってアミ族の各蕃社は、 それぞれが独立した全体 社会であり、隣接の他部族(殊にブヌン族)の蕃社との戦闘は蕃社単位で行なわれた。全体社会としての蕃社の秩序 を維持し、他部族に軍事的に対抗する機能を課された集団が、﹁パプロアイ 1 1 6 コモド││男子成員﹂の権力配分の 制度としての、男子年令集団であ・った。だが、十九世紀末以来、出草(首狩)は私斗として禁止され、しかも部族を 超えての国家権力に組み入れられてしまった現況では、蕃社における年令集団は、その存在価値を漸次失わ、ざるを得 ない。本来、年令集団の活動は、共同体の統制・他部族との戦争・共同狩漁を主目的として、その目的のために組織 佑される活動と、それらの活動を容易ならしめるような﹁集団の凝集性﹂を強佑するための活動││すなわち定期的 集団儀礼
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ー で あ っ た 。 奇美村では、村長のことをまだ﹁パプロアイ﹂ 男子年令集団を選出母胎とするパプロアイではなく、男女有権者により選出されたパプロアイである。 (本来の意味は雄弁家)と呼ぴならわしている。しかし、村長は、 スラル代表で あるコモドの権威も、地域集団(都)の代表にとって代られた。その共同体統制の機能、軍事的機能を否定されてい るにもか、わらず、今なお奇美村ばおいて年令集団は存在している。しかし、その本来の目的を失なった集団は、 ( 註7
)
それに代る新たな目的が確立されない限り、所詮は遺制的な集団でしかない。奇美村の年令集団の活動は、僅かに二 つの協働事業と、今に残る二つの集団儀礼(コモリス及びイリシン。 二て八│三一九頁参照) の 遂 行 で あ る 。 協働事業の一つは、崖崩れで属切断される奇美││瑞穂聞の道路の修復工事である。この場合、村長はコモドを通し ( 註8
)
て、幾組かのスラルを動員する。他の一つは、住宅新築であ右。奇美村のアミは、結婚後数年すれば、長女以外は、 脊 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 一 一 一 九1
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No. suraru 年令 (入社年) 職 名 及 び 職 能 稽 眉2
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走-1<線料 第一表 奇 襲 の 男 子 年 令 集 団 組 織分家する。新築される家め大きさに応じて、村長が幾組かのスラルを動員し協力させる。 (3) 母系同族団 ( 註
9
)
奇美村には、七つの母系同族団﹁マガサワンs a
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3
﹂がある。パチラル ( h u a 包 宮 司 ) ・ サ リ ポ ガ ン ( 句h N
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誌 ) -キ ウ イ ッ ト ( 尽 さ と ) ・ ラ ラ ン グ ス( E
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・ チ ウ ツ パ イ ( ロ 芝 語 、 父 ) ・ ム ラ ネ ( ミ ミ 室 町 ) ・ ヴアサイ ( て お 包 札 ) のマガサヲンのうち、最大のものはキウイットで、二十六戸がこれに属する。 母系同族聞は、共通の始祖からの系譜を、女系を通して、たどることのできる人々の集合体である。生まれてくる 子供はすべて母親のマガサワンの成員となる。婚姻は婿入婚(さミミ・向。円札)が原則で、夫は家族の中では、父系制家 族における嫁の地位のような、﹁よそ者﹂の地位におかれる。家と土地は母から長女へ相続され、娘がいない時に は、マガサワンの長老の承認を得て、息子に相続される。アミの男が自らの土地を所有することは先ず稀であり、結 婚によって妻方の財産(土地)運営に参与するにすぎない。アミの母系制は、夫の妻方居住、﹁妻方の財産﹂管理へ の夫の参加、母から娘への財産相続によって特徴づけられる。これは、中根の規定する﹁カシ型﹂ ( イ ン ド の ア ッ サ ム地方のカシ族に因む) の母系制である ( 中 根 、 一九六三、九三l
一O
三 頁 ) 。 奇美のアミの親族名称は、第二表に見られるように、類別的(
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ミ)・位代型(むさm
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子 守 、 同 ) で あ る。親の世代、自己の世代、子供の世代の区分があるだけで、マードックの云う分岐的区分︿w
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マガサワンの機能としては、婚姻の規制、女子による財産相続の他に、成員相互の連帯感を高めるための、 ﹁ 集 団 儀礼﹂の挙行がある。 マガサワンのメンバーシップが誕生と共に発生する・ものであるから、誕生祝、結婚式、葬式な 奇 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教一
一
一
一
一
奇襲アミの親族名称 (Termof Reference) 第二義 基本的親族名称 I 神大論叢 vaka 父の父 押zama 父
2
.
lna 母 3. ρutoD キョウダイ4
.
kaka 年上のキョウダイ 5. kako 自己 (ego)6
.
sava 年下のキョウダイ 7. vatnal 夫8
.
vavahe 妻 9. ramud 配偶者1
0
.
且rI キョウダイの配偶者 • 1 1。
ρ
'?f 配偶者のキョウダイ(叉はイトコ)の配偶者1
2
.
wawa 子供 13. kadavo 子供の配偶者1
4
.
親族名称の接辞 E sarikaka 両親の年上のキョウダイをあらわす kaka 年上をあらわす 2. sava 年下をあらわす 3. vaznazan 男性4
.
uavaheian 女 性5
.
接辞を用いる親族名称の例 E sarikaka-no-mama.to・uavaheian 父の姉 saua-no-ina-fo・vainaian 母の弟2
.
一
一
一
一
一
一
kaka-fo-vainaian 兄3
.
wawa-to・vainaian.no-kaka-to-vavaheian 姉の息子4
.
wawa-no・wawa 孫5
.
アミの一生に区切をつけ る ﹁社会的地位の 変 化 す る 機 会 ﹂ に 、 成 員 が集まって共感を 一 示 し 合 う 。 また、成員に時ならぬ禍が訪れた折に、神々と宥和する儀礼を主催す る 。 マガサワ ン は ど の 、 註 川奇美村はアミ族の村としては中位の大ききの村である。一九六四年度の統計によれば、アミの村 落 人口の平均は約七百人 で あ る ( 衛 官 邸 林 他 、 一 九 六 六 、 二 三 頁 ) 。 凶日本本土ではヘチマを食べないが、アミはこれを什 菜 として好
b
。 同農耕地は往昔村落共同体の所有であり、地割制度が行なわれていた。一九二五年頃から、各 一 戸 に 割 当 てられていた占 有地を 私 有地として登記するようには っ た(アミ出身の現花 蓮 県 会 議 員 王 錫 山 氏 の 談 ) 。 凶奇美村は七つの区劃に分けられていて、各々を鄭という。 同レプレプ以上のスラルの成 員 であっても、未婚者はアロワンに寝泊りする。 則一九五八年の入社式までは、十三才│十五才の若者がレプレプとなった(岡田、一九三九、 十 七 頁 。 劉 斌 雄 他 、 一 九 六 五 、 二 O ニ頁)。台湾政府は、一九六八年度から義務教 育 制度を中学校までひきあげる ζ とを計画しているので、一九六七年八月の 入社式に際し、村の協同活動に歩 J 加するレプレプを十 六 才│十八才に改めたものと思われる 。 間奇美村から南方に三里の舞僻村(カララ社)では、すでに年令集団も存在しなければ、旧来の年 中行 事も行なわれていない 。 集団儀礼と云えば、キリスト教の行事だけである。 倒アミの男は暇々に国有林で様やセンダンを伐り倒す。木材が枯れた頃に 友 人の協力を得て山か ら 運 び出す。四、五年の 歳月 を かけて木材をそろえた後で 、 村 長に連絡して幾組かのスラルを動員してもらう。夫及ぴ婆の 双 方 の マガサワンの成 員が協力 す る こ と は 云 う ま で も な い 。 柱 を建て、床、壁、屋根を竹で編み、茅をのせ て 家 を仕上げるのに二 日 を 要 す る だ け で あ る 。 剛一九三三年の資料によれば、一社あたりの同族団の数は平均七つであ っ た(馬淵、一九 五 四 、 付 表 ) 。 村 内 婚 ( S h -a h 川 町s h e
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ミ)の原則はまだ刷れていないようであるから(劉斌雄他、一九六五、百三十二頁)、おそらく現在でも 一 社あたりの 奇美のアミ(中部アミ)の宗教一
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神大論叢 二 二 四 同 族 団 の 数 は 十 指 を 超 え な い も の と 恩 わ れ る 。 脚 類 別 的 世 代 裂 で 、 し か も 分 岐 的 灰 分 の な い 親 族 名 称 は 、 全 高 砂 族 に 共 通 す る と 云 わ れ る ( 馬 淵 、 一 九 六 O
、
一 四 O 頁 ) 。第二節
信
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l {言 何 か つ て 、 アミは五十種以上もの超自然的存在を信じていた。これらの超自然的存在は、 ( 註1
)
カワス(同 h H 8 8 ) と総称さ れ る 。 カ ワ ス の 神 性 は 、 アミの神話から判断する限り、事物そのものの個有性を表象するものだけでなく、人聞の行 為そのものを、或いはまた人間の生活に関わる自然現象の表象そのものでもある。例えば、 アミはハパイ ( 粟 ) は ハパイの神、タレ ( 里 芋 ) にはタレの神を認めると共に、播種のときには、トマルン(同︼ミミミミ悼新芽を出す神)に ( h g n p h h H H . ) に或いはまたトマオオル(同Z
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8
﹃成長の神)に祈る。トマオオルと 祈り、少し伸びればアプドアイ 云うのは﹁露をあつめる﹂という意味で、露がおりれば畠が潤おい、作物の成長を助ける。だから﹁トマオオル﹂と いう動調が﹁作物の神々﹂の中の一つの神とされるのである。また、人聞の﹁懐える﹂という行為から、 ﹁ 標 え を 止 め る ﹂ ( 同 J S H M ミミおお)という名のカワスが生まれる。他部族との戦争のときに標えていたのでは勝目がないから、 ( 註2
)
﹁標えを止めさせる﹂神ツアツラランは﹁戦争の神﹂であった。 ( 註3
)
これまでに先学によって採録されたアミの神話は、実に十数代の神代記より成るが、これは神々の系譜の体系化を アミの神話でいう﹁神々の世代﹂は、先ず第一代に太陽と月、字官の現象、樹木と穀物の名称 意 味 す る の で は な く 、としての神々を置き、第二代以後に、作物や樹木の成長過程、人間の病気、狩猟及び漁掛、人聞の誕生など の、社 会 現象及自然現象をその名とする神々を配列したものに他ならない。アミのパンテオン ( 万 神 殿 ) には、人閣の 生活 に か h わり合う自然の事物のレパトリーとしての神々と、自然現象ぞ抽象化した神々の二群があって、 カワスは相互に 系譜関係をもたない独立併存的な存在である。 ︹ ド ン ゲ b o h b 日本神話の芙照大神に相当する神を強いて求めれば、それはドンゲという女神である 。 ドンゲは 人聞を創る神であり、人間は誕生と共に魂を与えられ、死と共に魂はド ン ゲのもとに帰 る、と アミは信じてい る 。 他方に於て、人聞の魂、祖先の 霊 魂についての儀礼には、太陽と関耕するものが多いので、ドンゲの神体がチダル ( 註
4
)
(吋包含司)すなわち太陽であるのか、ドンゲとチダルの同一性について訊ねても、奇美のアミは肯定も否定もしな か っ ( 註 5 ) た 。 ︹ ア デ ゴ ( 註6
)
( b h 片品。︺ドンゲによって各人に与えらね吐魂がアデゴである。死者の需魂のこともアデゴという。 H 叶 一 き ている時に、共同体の規範に背いた者、変死した 者の ア デ ゴ は 、 ド ン ゲ の もとに帰らずに、 俗 界を街僅し、生 き て い るアミに危害を及ぼす邪震とな る 。 この邪霊を奇美のアミはパラブァイ・アデゴ(、h q
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一 札 -h n e h o ) ︹ サ ゴ 旬 。 h o ︺沖縄のキラムナーのような超自然的存在を、奇美のアミも信じている。サゴは、日本本土の ﹁ 水の ( 註 7 ) ﹁裕樹の精﹂である。奇美のインフォl
マントは、サゴについて次のように説明 と 呼 ぶ 。 妖精﹂としてのカッパとは異なり、 し た 。 サゴは寝ている人に忍びより、上から全身を圧迫する。サゴに襲われる直前から 意識 はあるけれども、身体 がしびれて、動くことができない。息苦し き の あまり捻っている中に、サゴは消 え去 ってしまう。サゴは格樹 に住む妖怪である。 奇 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 一 三 五沖大論叢 一 一 ニ ム ハ サゴは睡眠中の人聞を一時的に呼吸困難にさせるだけで、 それ以上の危険をもたらす事もなければ、また特定の人間 に幸運を授けるという事もしない。パラブァイ・アデゴやサゴのような邪霊・妖怪をカリア (句門司
3
﹄ W ) と も 云 う 。 ︹植物の神、生産の神、戦争の神︺先に述べたように、 アミは粟、米、豆、ピンロウ、楠などの精霊としての神々 と、穀物や果樹の成長を司る神々、狩猟、漁携を効果的に行なわしめる生産の神々、及び戦争の神々を信じている。 奇 美 の ア ミ は 、 と 総 称 す る 。 それらのカワスの中、男子に関係する﹁狩猟・漁摺及ぴ戦争﹂のカワスを﹁マラタウ マラタウの中でも特に個人の保護神として霊顕あらたかなカワスを﹁アパン(
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芯)﹂という。狩や魚 ( ミR H
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﹂ 捕りの上手な男を指して、 ﹁あの男のアパンは良い﹂という言い方をする。女でも例外的にアパンを有する者があ る。それはチカワサイ(本節第2
項 参 照 ) で あ る 。 ︹個人の所有する聖物︺奇美のアミは神に祈るときに各人の﹁デワス(
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)
﹂ を使用した。これは﹁オラウ せただけのものでゐる。 (。ミミ)﹂を入れる土器であった。オラヴとは神酒のことで、我が国の神酒と同様の、炊いた米に麹を入れて発酵さ ( 註8
)
アミは、神に接する前にはかならず、酒を以てミフテイルとよばれる放いをする。神酒の入 それを右上方にはねて指についた酒をはらう。 ( 註9
)
いう。ミフテイル用のデワスは、今では存在せず、代りに茶碗が用いられている。 ったデワスに右の人さし指をつっこみ、 ﹁政﹂のことをミフテイルと また奇美の女は、﹁ラロエタン ( 註 叩 ) 台所の柱に掛けている。ラロエタンは主婦権を象徴する聖物であり、母から娘へ代々引き継がれている。奇美と同じ ( 河R
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﹂ という竹製の藍をもっていて、これに乾肉やピンロウの実を入れ、 く中部アミの﹁太平村(ヴアタアン社)﹂には、男の所有する聖物として、ラロエタンのような竹製の藍﹁ヴァレラ ツ ァ ン ( て お ﹃ 一 向 さ な お お ) ﹂ が あ っ て 、 それには人の形をした小石を三個入れているという(劉斌雄他、 一 九 六 五 、 二 頁 ) 。2 司 祭 者 ︹カキタアン同怠札 HSS ︺ 奇美にはカキタアンの家が二軒ある。カキタアンは、専ら村の行事を主宰する司祭者で ある。その地位は世襲で、伯父から姉妹の息子へ継がれる。後述の村の行事の際に、カキタアンはドンゲ、 神、生産の神、代々のカキタアンなどを杷る。カキタアンは首狩で得た頭蓋骨を祭壇に安置していた。が勿論、今で 穀 物 の は廃棄されてしまって存在しない。 ︹ チ カ ワ サ イ 同 d s h 司S h a h H D カ キ タ ア ン が リ ン ト ン の 言 う
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ミ 智 弘 めE
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であるのに対し、チカワサイは与忌芯若丸 E切 宮 町 史 的 で あ る ( ヒ S H O F N U句 。
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。原因不明の熱病にかかったとき、幻覚があれば、これは特定の神が滋いた証 左 で あ り 、 の弟子﹁チサカウエハイM d
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ミ ﹂ その神に仕えることを響うことによって病は癒える。そのような宗教的経験をした男女は、チカワサイ となり、数年を経てチカワサイとしての知識(神々についての、また犠礼 の次弟についての)を修得すれば、 一人前のチカワサイに昇任する。 チカワサイは自己の霊交することのできるカワ カリア(人聞に悪意をもっカワス)を被う儀礼を行なう。チカワサイの中でも特にシャ l マンとし て資質優れた者は﹁アイシダン与を母 S ﹂と呼ばれる。儀礼に際しては、チカワサイはカキタアン同様、神酒(オラ ス の 力 を 借 り て 、 その他にも、チカワサイは、 ( 註 円 ) る。奇美には十数年前までは十二名ものチカワサイがいた。 ウ)でもってミフテイル(被)を行うが、 ススキ、芭蕉の葉、 ショウガの葉を祭具とす 3 年中行事 奇 美 村 で は 、 一 九 五0
年 代 ま で は 、 七つの村の行事があったけれども、現在集団儀礼として行なわれているのは、 脊 美 の ア ミ ( 中 部 ア E ) の 宗 教 一 三 七沖大論議 一 三 八 コモリスとイリシンの二つだけである。 ︹ミサウマさ
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十二月か一月に、ミサウマ叉はミサアラペ(ミ3
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﹃ 尋 問 ) という播種祭があった。 かつての 主要作物は粟だったので、粟の播種を開始するに当り、村民全員がカキタアンの庭に集合して、 カキタアンがミフテ ィル(放)を行ない、神々に祈願するのを見守った。その後に、各一戸毎に家長(家族の申で最年長の女)がミフティ ル を 行 な っ た 。 今 は 、 カキタアンの家に集合せず、各一戸毎に、作物の栽培を始める前にミフテイルしている。 ︹ミパパオラオミe s
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︺ 三 月 頃 、 カキタアンの家に村人が集まり、果樹(ミカン、バナナ、ピンロウ) の 成 長が速かならん事を、また、多くの実をつけるよう、果樹の神々、生育の神々に祈った。パパオラオとは果樹園のこ と で あ る 。 マ サ ウ マ 以 来 、 カキタアンにとって、身体を洗うことは﹁パイシン ( 見 V R H な な 悼 ) ﹂ ( タ ブ l ) と さ れ 、 月 初め頃に秀姑織山渓に下りて初めて体を洗ったという。 つまり、植えた作物(粟)が芽を出し、順調に伸びるのを見届 げ る ま で 、 カキタアンの身体は神聖視されていたのである。カキタアンの慢が済んでからミパパオラオは挙行され た。共同体の行事としてのミパパオラオは姿を消したが、今では、各人で、こっそり、 一本一本の果樹の前でミフテ ィルしているという。 ︹ サ パ ラ サ ン 九w h
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ミ88
︺ 四月頃に、村の男は、 ス ラ ル 単 位 で 、 五日間の共同狩猟を行なった。とれた獲物は村の 成員に平等に分配された。出猟の前にカキタアンの主宰する儀礼が行なわれた。この行事は全く廃れてしまった。 ︹ ミ ハ パ イh h
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白色五月か六月頃に、カキタアンによる儀礼を行なってから、各一円別のミフテイルを行ない、粟 の収穫を開始した。ミハパイの行事はなくなったが、米、落花生などの収穫の前に、各一戸でミフテイルを行なってい る ︹コモリス同。ミミa s
六 月 か 七 月 に 、 カパハ層が全員出漁する。これは、 一九六七年にも七月に挙行された。 コモリスの内容は次の通りである。 最 初 の 目 、 カパハはカキタアンの家でミフテイルしてもらい、 それから山に入ってサリムという木の根を取 ってくると共に、クワチン(ススキ)の茎で鰭を二つ作る。次いで秀姑轡漢に下り、川の流れをせきとめ、サ ( 註 惚 ) リムの根を叩いて白い樹液を流し込む。酔って浮いてきた魚の中から、大きなものを十六匹だけ選ぴ取り、八 尾宛をススキの簡に入れ、ラサナ組のコモド(組長)が両カキタアン家に持っていく、そのときカキタアンは ミフテイルを行ない、来る一年間の豊漁を祈願する。 パクラン(漁掛)に参加しなかったラウエツ以上の各組員は‘餅一個と酒をそれぞれの組長の家に持ち寄 り、ヵパハを招待する。カパハはそこに数名宛割当てられるのである。その晩、 カパハは再びパクラン(漁 携 ) に 出 か け る 。 コモリスと関聯した行事として﹁ワンホイ 二日目、朝早︿パクランから戻ったカパハは、ラウエツ以上の各組に獲れた魚を分配する。 コモリスの始まる前の晩に行なわれるもので、年 割 、 ぬ お -P 。 払 ﹂ が あ る 。 令が男のラウエツ以上に相当する女たちが、自己の年令に相当するスラルのコモドの家に集まり、飲み食い踊るの派 出な饗宴を聞くのである。ワンホイは中国語の﹁晩会﹂であるし、 一 九 五
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年以前の民族誌にも記録されていないか ら 一 九 五O
年以降に始まったものと思われる。 ︹ イ リ シ ン 同 な き ︺ 八月乃至九月に行なわれるアミの新年祭・豊年祭がイリシンである。アミは粟の収穫が済み、 豊年祭を挙行することで、年の区切をつけた。イリシンから新しい年が始まったのである。 第 一 回 目 、 カキタアンのミフテイルの後、男は全員、 カキタアンの庭で円舞する。イリシンの宣言を意味す る 日 で あ る 。 脊 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 一 三 九沖大論叢 一 回 O 第二日目崎村民が全員アロワンの広場に集合して、村長の雄弁を聞く、村長は過去一年間の村政について経 過報告と、来るべき年への抱負を述べ、村民の協力を呼びかける。その後で、老幼男女が入り交って円舞する。 第三日目、男たちはカキタアンの庭で円舞し、 それから前日同様にアロワンの広場で女、子供も混えて踊り まくる。翌日は全員秀始轡漢でパクラン(漁掛)を行なう。 チカワサイがチカサウエハイを伴なって、ミサクロと呼ばれる踊 ( 註 悶 ﹀ りをしながら、村内の各戸を廻り、村人の健康を祈ったという。此の行事も今は無い。 ︹ミサクロミ
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さ ︺ 九月から十月にかけて、 4 通過儀礼 アミの通過儀礼の中で、旧慣通り行なわれているのは入社式と結婚式である。誕生視は家族でひっそり行なわれる だけで、葬式に至つては、 キリスト教の流儀に変ってしまった。 ︹ 誕 生 祝 ﹄h a
ミ誌なろインフォl
マントの一人のカンノl
老爺(七十九才)から聞いた背の誕生視は次の通りであ る かならず母親の家(長女が継いでいる)で出産する。専門の産婆は居ら ず、母や姉妹(未婚者を除く)が手伝う。分娩は蹄んだ形で行なわれ、胞衣は、村近くの山の中に埋められる。 出産の翌日にチカワサイを招き、母乳が豊富に出るよう、祈蘭してもらう。チカワサイはミフテイルした後 妊婦が分家している次女、三女でも、 に母親の身体を芭蕉の若葉で蹴う。その後に、母親とその夫の双方のマガサワンの長老が協議して子供の名前 をきめる。生れた子供が女児ならば、名前を妻の母、妻の祖母、妻の母の姉妹の中から選ぴ、男児ならば夫の ( 註 同 ) 父・祖父・兄弟の名前から選ぶ。第三日目の早朝、妻のマガサワンの男たちと夫はパクラン ( 漁 携 ) に出る。晩に、夫方のマガサワンの人々 も招待され、命名式を行なう。先ず夫は座敷の中央で東に向ってアグラをかき、ミフテイルを行ない、子供の 名をいう。すなわち、ドンゲに向って自らあ﹄清めた後に、ドンゲに子供の名を報告したのである。次に皆の見 ている前で、水煮された小魚を子供の手に握らせる。あとは会食である。 ︹入社式ミ会ミ
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・守同名忌︺奇美の女のアミにはいかなる形の﹁成年儀礼﹂も存在しない。女の子はワワ・ ( 唱 で お8
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官官芯)と時ばれ、適令期になってカイシン(同3
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悼)と呼名が変る位のものであ ヴァヴァへイアン る。既に第一節で触れたように、男は青年期に入ると、年令集団への入社式に参加する。 一九六七年のイリシンは八 月十八日、十九日、二十日の三日間続いたが、 その最終日の二十日に入社式が行なわれ、十六才l
十八才の若者十四 人がレプレプを組織した。 八月二十日午後三時頃、 レプレプは二群に分れてカキタアンの家に行き、ミフテイルしてもらった。そこの アロワンの近くに待期した。ラスドゥン以上のスラルの成員は、アロワンの広場で円障を 組んで待期した。やがてパプロアイ(村長)の号令で、レプレプは広場に入場し、上級スラルのメンバーに囲 庭で円舞した後に、 まれた。そこで、パプロアイは、共同体における若者の役割を説いた。以前は、 その後にラツァパ組(入社式 日頃素行の悪いレプレプを散々掘りつけたという。パプロアイの訓示が済んで 直前までのラアベ組)の者が、 から、全員歌いながら円舞を続けた。女と子供は見物するだけである。好き勝手な時聞に、各人家に帰ってタ 食を済ませて、パプロアイが﹁マリアラツ﹂ (閉会の辞)を叫ぶ午前二時まで、男性円舞は続けられた。 八 月 二 十 一 日 早 朝 、 レプレプは全員秀姑轡漢ヘパクラン ( 漁 携 ) に 出 た 。 この新しいレプレプ組の教育係は、主としてアロワンで起居を共にする﹁新ラツァパ組(廿五l
二十七才)﹂であ 奇 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 四沖大論叢 四 る ︹ 結 婚 式 、 ミ ミ ミ 喝 さ ・ 吉 ・ て
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一 札 ︺ 以前はラサナ組(一九六七年以前の﹁廿五l
廿七才﹂の組) にならないと、男た ちは結婚できなかったというが、今では廿四、 五才で結婚する者が多い。現今の女の結婚適令期は十八才│二十才で あり、二十才を過ぎても結婚しなければオールド・ミスとみなされる。結婚への道が先ずデl
トから始まるのはアミ も 同 じ で あ る 。 異性からピンロウの実又はタバコを差出されて、それを受けとれば、デートを承諾した事を意味する。若者は、夜 中に集会所をぬけ出し、好きな娘の家の穀倉の近くで待つ。逢う瀬が重なれば、若者は、 日 本 の 横 笛 と 類 似 す る 笛 れば、娘の部屋に忍び込むようになる。この夜這いのことをミゴハ (テプテプ)を吹いて、娘を誘い出す事もできる。最初のうちは、穀倉の傍での語らいだけだが、相思相愛の仲とな ( h h 民 h c p h H ) という。ミゴハする程の仲であって も、二人でいる所を他人に見られることは、非常に恥,すべきこととされているため、 日中は互いに顔を合わせても口 も き か な い 。 ( 註 市 ) 結婚の意志を固めたら、双方ともに両親の承認を求める。娘の結婚について、決定権を握るのはどちらかというと 父親である。婿入婚であるから、生活を共にする婿の人物について娘の両親が詮索するのは当然であるとして、母親 L 4 hノ 多 也 、 アロワンに出入りして婿になるかも知れない男について情報をあつめる事の出きるのは、父親の方だからで あ る 。 結婚の手続きはミロロ (ミ輔ささ婚約)から始まる。女のマガサワンの長老が二、三人で男の家を訪問し、とりわ け卑下しながら婚約を願う。ミロロが済み結婚式の準備が整うと、パタパン( M M
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冨結納の犠)を行なう。女の家 の財力に応じた結納品(酒とピンロウ、 タバコ)が男の家に届けられる。女の家では、長老たちがパタパンに出かけた直後に、娘の母親が空の白(ドダン)を杵で叩き始める。そして畏老たちが帰宅すると、娘の姉妹が餅をつく。こ の餅っきの音を聞いて、村の人たちは婚約成立を知る訳である。パタパンが済めば、男はその晩から女
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家 に 寝 泊 し 、 一 結 婚 生 活 に 入 る 。 パタルマ ( M M h N H h H g w E 披露宴) は省略される場合もある。 パタルマは嫁の家で聞かれ、 双方のマガサワン・友人 が招待される。席上、花嫁は花婿に神酒(オラウ)を飲ませ、次にピンロウの実を差出す。花婿はピンロウの実を食 べるふりをして、床の竹の聞から下に落す。花嫁の過去の横れ(不貞のこと)を払うためであるという。パタルマの 翌日に花婿は友人を誘ってパクラン ( 漁 掛 ) に 出 る 。 婿が妻或いは妻の身内と協調できないときには、家出してアロワンで宿泊する。 アロワンで宿泊するようになって から一ヶ月以上たてば、離婚の成立を意味し、男の持物は、男の家に届けられる。 ︹ 葬 式 出 向 h N E 官官民︺今では奇美のアミの多くがキリスト教徒であり、村の中のカトリック教会か長老教会のいずれ かに属している。葬式はキリスト教の儀礼に従がい、死体を共同墓地に埋葬し、 その上に十字架を建てている。カン ノl
老人から聞いた旧慣は次の通りである。 人が死ぬと神酒(オラウ)で死体を洗い清めて、クワチン ( ス ス キ ) の茎で編んだ台の上に安置する。チカ ワサイにミフテイルさせた後で、身内の者は死体の周りに立ち、死を悼 h u 歌をうたいながら静かに舞った。翌 日埋葬されるが、死者が妻叉は子供である場合にはその家の近くに、夫である場合には夫の実家の近くに、土 葬された。そのときにもチカワサイを招く。ミフテイルの後で、死者のアデゴが死体からぬけ出てたかどう か、チカワサイが確かめた。すなわち、ミフテイルに使用した茶碗をとりあげ、酒の中にアデゴがいるかどう か見たのである 0 ・ も し 酒 の 中 に ア デ ゴ が 居 れ ば 、 アミならば誰でもそれを見ることが出きるという。埋葬に参 奇 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 四沖大論議 一 四 四 列した全員がこれを確認してから、 チカワサイは墓の上に酒をこぼし、 ﹁此の他には留まらずに、あの世に行 ってくれ。アデゴょ、生きている人々にか﹀わらないでくれ﹂と祈る。もし酒の中にアデゴがいなければ、そ のアデゴは生きている人々に災厄をもたらすパラブアイ・アデゴ ( 悪 霊 ) と な っ た の で あ る 。 埋葬が済めば、全員秀姑轡演で身体を洗った。帰宅する途中で幾度も睡を吐き、家の入口では塩をまいても ら っ た 。 翌 日 は 豚 を 殺 し 、 マガサワンの者が会食。その次の自にパクラン 一年間喪に服し、村の行事に一切参加しないことになっていた。 (漁掛)を行って、忌はあげたのである。 配偶者が死んだ場合は、 5 チ ダ ル ( 太 陽 ) に関する儀礼 チダルと関聯する特別な行事を今では行なっていないが、 を、長雨の時には﹁陽乞祭﹂を行なった(小泉、 一 九 三
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年代までは、早天が続いた時には﹁雨乞祭﹂ 一九三二、三二五頁)。前者をパカウラド(、b
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、後者をパカ チ ダ ル ( h u h N F a H M 匙 ミ ) と 言 い 、 いずれもチカワサイが主宰して、全村民がチダルに祈願を行なったものである。 6 ア デ ゴ ( 魂 ) に関する儀礼 生れた時から各人のもっている魂がアデゴである。アデゴと肉体は死を契機に分離する。しかし、生きている時に も一時的にアデゴが肉体を離れることがある、と奇美のアミは考えている。アデゴが一時的に失なわれるのは、川で 溺れたり、怪我をしたり、急に頭痛がするとかの場合である。そこで急拠アデゴを肉体に回復させるための儀礼が行 なわれる。沖縄の﹁マブイ簡め﹂と似たこの儀礼はミサタウ(ミu b
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と呼ばれる。奇美のアミは今でもミサタウを行 な う 。 例えば、テポスという名の女の子が畠で急に頭痛を起したとすれば、テポスの母がミサタウする。テポスの 母は、昼のうちに、東の方向に葉先の垂れている芭蕉の若葉を一枚選定しておき、夜中にそれを切り取って、 テポスが頭痛を起した畠に出かける。他人に見つからないように夜出かけるのである。畠に着くと、数固定を 踏 み な ら し 、 準備してある。此の辺の悪いカワスと遊んではいけない。きあ家に帰ろう。﹂と大声で叫ぴ、更に﹁テポス、 ﹁ テ ポ ス よ 、 お前は何時までも此処に居てはいけない。私はお前を迎えにきた。家には御馳走も テポス﹂と呼びかける。それから帰途に就くが、家に着くまで、テポスの母は、手にした芭蕉の葉に向って畠 で言った事を繰返し繰返し腔やかなければならない。これを止めるとアデゴはまた元の場所に帰ってしまう。 ﹁テポスよ、お前は帰ってきた。もう何処にも行くなよ。﹂と言 母は病
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のテポスの傍に芭蕉の葉を置いて、 ぅ。こうしてテポスと彼女のアデゴは一体となり、頭痛はまもなく治ってしまうという。 7 カリア(悪霊) に関する儀礼 ︹ミプロンミ骨建言︺ミサタウしでも病気がなおらなければ、その次には、悪霊にとり輝かれたのではないか、と 奇美のアミは判断する。悪霊にとり癌かれるのは、夢の中で悪霊と出合った時、または夜道を歩いていて異様なもの を見たり、肌に感じた時などである。だから夜道でカリアの気配を感じた時には、道端のススキを一本取り、葉先を 曲げて茎に結び、その場所に立てる。そうすればカリアを駆逐することが出きるという。ス、キの葉先を結んで立て ( 註 叩 ) ることをミプロンというのである。ミプロンしでも念の為に、家に入るときには戸口の前に塩を一条まいてもらう。 ︹ ミ サ リ ボ ン ﹄b
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︺カリアを追放するための、家族ぐるみの行事も今なお行なわれている。家族に不運が相 脊 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 一 四 五沖大論叢 一 四 六 次ぐときに、門や家の四隅、壁にプロン 省略した形式である。以前は奇美村に疫病が流行した時にミサリボンを行なったが、 (ススキの葉先を結んだもの)を掃しこむ。この行事は以前のミサリボンを インフォマントのカザウ氏やパ ヨ氏によれば、ミサリボンは次の通りであった。 疫病の原因であるカリアの所在をチカワサイが突きとめ、その場所で先ずミフテイルした。チカワサイの後 には村人が或いはプロンを持ち、或いはドラや太鼓を持って立った。チカワサイのミフテイルが済むと、村人 ( 註 げ ) は一斉にプロンを打ち振り、ドラや太鼓を叩き、歓声をあげてカリアのいる場所へ突進した。その場所で稲束 を燃やしてから村中に入り、村の入口に縄を張り、 ねて槍の形に作ったものをその縄に吊し、 ススキの茎を白と黒で交互に塗ったもの、ススキの茎を東 ( 註 叩 叩 ) カリアが村の中に再ぴ入れないようにした。それから各一円別にスス キを門に立てたり、家の壁や窓に掃込んだ。 ︹ パ カ ワ サ イ M U
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凸ミサタウしでも病気が一向に快方にむかわなければ、残された儀礼はパカワサイであっ た。これはチカワサイが行うものであった。奇美村にはチカワサイがいないけれども、北部アミのリl
ラウ社(吉安 に直接試みてもらったパカワサイは 郷化仁村)でマカワサイ(北部アミではチカワサイと云わずマカワサイと云う) (註刊は) 次の通りである。 病人の傍でマカワサイは、東方に向ってアグラをかいて坐り、ミブテク(奇美のミフテイルのこと)した。 それからマカワサイの霊交できるカワスの名を呼ぴ、ピンロウの実を二、三個と酒を差し出した。やがて、 ユ ノ ュウシュウ音を立てながら息を吸い込み、次に酒を口にふくませ、霧状にこれを吹き出した。カワスに酒を飲 ませた訳である。病人の痛む場所に口を当て h 吸い込み、傍の芭蕉の若葉に気合を込めて吹きつけた。同じこ とを繰返したあとで、今度は患部を軽く撮んで、 そこから何物かを掴んで後方に捨てる仕種を見せた。このようにして悪霊を放逐したあとで、病人のアデゴが帰ってくるように祈った。そこへ弟子のマカワサイが新たな ﹁今まで貴方は暗い道を歩いていた。さあ明るい所へ来て下さい。﹂と言い、芭蕉の 芭蕉の葉を差し出すと、 葉に酒を吹きかけ、芭蕉の葉を病人の頭にふりか。きして病人の名を呼んだ。 8 マラタウに関する儀礼 ︹ パ マ ラ タ ウ MM ぬ
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︺奇美のアミが狩猟・漁掛・戦争のカワスをマラタウと称することは先に述べたが、 マ - フ タウとは言って見れば﹁男性を保護する神﹂である。 アミは戦争や狩猟で怪我をしたときには、 マラタウの庇護がな かったものと考え、マラタウと和解するための儀礼を行なった。今では行なわれていないけれども、奇美のインフォ マントによれば次のようなものであった。 怪我をした男は三日間パカサウ(断食)してからチカワサイを招いた。チカワサイは男の傍でミフテイルを 行 な い 、 マ ラ タ ウ に 祈 願 し 、 その後で男と彼の妻の双方のマガサワンの長老と共に、鶏汁を食べた。 9 ル ダ ク 奇美の男は、病気が尋常でないときに、これをブラック・マジック ( N W E与 さb
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円黒呪術) の故為にすることがあ る。例えば、顎の付根、服、股その他手足の関節が痛み出したり、皐丸が腫れたりすれば、誰かに黒呪術をかけられ たのではないかと思う。従来、アミ族には黒呪術は存在しないと見られていたが、私の調査では、奇美のアミも太平 ( 註 却 ) 村のアミも、黒呪術を今でも信じている事が確かめられた。 ︹ ル ダ 夕 、 一 R h t b ︺ルダクは、黒呪術を意味すると共に、呪術的な力をも意味し、狩猟を行なう男に限りルダクを行 、 ふ i}。
ナ J E 、 , , , アミの男は一人で出猟するのが普通で、 た心﹂え数名で入山しでも、山中では個人行動をとる。先ず獣(猪、 キ 奇 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 一 四 七沖大論叢 一 四 八 ヮ、野生の山羊) の出没しそうな所を検分し、各人の山小屋に一泊して、翌日に畏をしかけてから下山し、数日後に 毘 を 見 廻 る 。 毘をしかける前に、山小屋の傍に小石を置き、 そこにピンロウの実を二、三個置いてルダクする。すなわち、自分 の毘にかかった獲物を盗む男があれば、 その男に崇りがあるように、呪誼するのである。毘をつくった後で再びルダ タブー という。パイシンは禁忌のことであるか ( 同 名 h H
宣
言
さ
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クを行なう。このルダクする場所のことをカパイシナヌ ら ﹁禁忌の地﹂という意である。 ︹ラウ均むと山で他人の獲物を盗んだ男で、しかも前述の症状に悩む男は、生命の危険を感じて、 ルダクを解く儀 礼 を 行 な う 。 ルダクを解くことのできる者は、 チ カ ワ サ イ か 、 ﹁ラウ﹂の上手な男である。彼等は、太陽に向って梢 の垂れている﹁一年生の若竹﹂を探し、これを根元の方から二尺位切り取る。切りとった竹の根元を僅かに残し、ヒ 方を細かく縦に割く。茶第を拡大した形のこの竹製品をササ・アラウン・ア・アオラ ( 句a
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・ 号 室s
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)
という し、先の細かく割かれた部分をラウという。次にツォハク ( 守 的 。 給 与 楠 ) の枝を一尺位切りとって、尖端の方に深い 切 込 み を つ け 、 その切込みの部分にラウをはめこむ。 ツオハクを足で固定してから、ラウの両端を両手で摘み交互に 上方に引っ張れば、ラウが次第に擦り切れていく。全部擦り切れた時に、その切れ工合を見て、ルダクをかけた男が ( 註 引 ) 誰であるかを判断するのである。ルグクをかけた男がはっきりするまで幾度もラウは繰返される。幸にしてその男が 見つかれば、病気の男は酒・ピンロウの実・タバコを贈って窃盗を詫びるのである。 註ω
馬 淵 ﹁ パ ン ツ ア ハ 篠 の 神 々 ﹂ ( 一 九 三 四 ) に よ れ ば 、 高 砂 族 に あ っ て ア ミ の ﹁ カ ワ ス ﹂ と 同 系 統 の 言 葉 を 用 い て い る 部 族 は パ 岨イワン族だけである。パイヲン族では﹁ツヲス﹂という。 凶馬淵、一九三四、一 O 五 │ 一 一 O 頁 参 照 ・ 間アミの神代記争詳細に記録したものとしては、馬淵前掲論文と、王様興﹁馬太安阿美族之宗教及神話﹂ れ る 。 凶沖縄の方言で太陽の乙とを﹁ティダョ
. &
6
﹂というが、乙れもオ l ス ト ロ ネ ひ ア 系 統 の 言 葉 で あ ろ う 。 附王松興前掲論文κ
よれば、パタアン社のアミは、﹁ドンゲとチダル﹂を同一視している。 附﹁影﹂のとともアデゴという。 間私の調査では、パタアン社・カララ社︿何れも中部アミ)及ぴリ l ラウ社(北部アミ)の人々も同様のものを信じている。カ ララ社ではサゴ、パタアン社ではトポトポ( F
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)
リ l ラウ社ではパタラワン・ノ・カワスg a
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た ぬ き a a z き ・ 宮 S S 句 ) と 言 う 。 また、マイクロネシア(例えばサイパン)では、岩窟や格樹に棲む精霊であると信じ、これをタウタウ・ハルム・タノとい う(松岡、一九四三、一二八l
一 二 五 頁 ) 。 附奇美で﹁ミフテイル﹂、太平村(グ 7 タアン社)では﹁ミフテク﹂、化t
村(リ l ラウ社)では﹁ミプテク﹂と云う。 同一九二八年頃、パチタ l ル・プ矛オというアミの先覚者(アンツン社出身)が﹁デワス廃棄﹂の運動を起し、これが全アミ族 に及んだ(小泉、一九三二、三 O 頁 ) 。 間ラロエタンに似た竹製の小間物入れは沖縄でも古くは使われていた。﹁九六六年の久高島の﹁イザイホウ﹂の際に、ナンチュ たちが﹁イザイ家﹂でとれを用いていた。﹁ィザイ・ティ l ル ﹂ で あ る 。 削奇美村には一人もチカワサイがいなかったし、近くの舞鶴村(カララ社)にも、太平村(グアタアン社)にもいない。だが、 化仁村(リ l ラウ社)のアイスダン(長高のマカヲサイ)である張桜花氏は、奇美村にチカワサイがいる、と話していた。 間奇美の男は魚、をとるのに打網・サリムの根を用いる他に、自塾阜のバッテリーを買込んで、﹁電気ショック漁法﹂も行なって い る 。 間昭和初期には、﹁ミルック﹂と呼ばれ、八、九月頃に行なわれたようである(鈴木、一九三二、六一頁)。M
-般に、男に関係深い事物の名称を男の名とし、女に関係深い事物(乙とに作物)を女の名としている。ロオ(芭蕉)・テポ ( 一 九 六 一 ) が 挙 げ ら 奇美のアミ(中部アミ)の宗教 一 四 九沖大論議 五 O ス(精の籾)などは女の名であり、アモト(セメント)・パブイ(猪)などは男の名である。 回結婚が承認されないのは、性格、身体的欠陥のほか、次のような場合である。 一、血縁関係。マガサワンについて見れば原則として族外婚であり、イトコ・マタイトコ、第三次イトコ同志の結婚は許され
五 、 。
e ' q ' L W 二、土地関係。男の家の十一地と女の家の土地が隣接している場合、結婚は許きれない。土地が隣接しているときには、土地の 境界についての紛争が絶えないからである。 三、仇敵関係、先祖代々双方に仇敵関係が続いている場合にも結熔は許されない。 制ススキを悪霊除け、所有権標示に用いるのは高砂族に共通する習俗のようである(台湾総替府蕃桟調査会、一九一八l
一 九 二 て第四巻、三三二頁。小泉、一九三二、二ニ二頁。丘、一九六四、七七頁 ) 0 柳田国男編﹁民俗学辞典﹂によれば、九州南部にも似たような風習があるという。沖縄では通常三本のススキを用いて魔除 け、所有権標示を行ない、乙れを﹁ゲエン﹂と言っている。ゲエンを回押す乙とを﹁シパ差し﹂と言い、旧八月十日の年中行事 となっている 0 マイクロネシアでは、ハイビスカス及び榔子の葉が同様の目的に使用されていた(松岡、一九四三、一七三l
一 九 五 頁 ) 。 間脊美のカリア(パルプアィ・アデゴ)に相当するヤミ族の牒霊は﹁アニト﹂と呼ばれる。ヤミ族はミサリボンに似た行事を今 でも行なっている(同 SS 伶 句 呂 田 昌 H E L b u q h ω 恥 N ) 側魔除けの儀礼の一つとして村の入口に注連縄をめぐらす風習は、マーシャル群島にもあった(松岡、一九四三、一九五頁)。 日本では神社に見られるし、正月一元旦には各戸毎に門に飾りつけられているが、沖縄の東風平村では今でも旧九月九日の﹁フ l キ返し﹂には村の入口に縄をめぐらしている。 間花連県吉安郷化仁村五二号に住む。アミ名をきフラ、中国名を張桜花という。五八才の寡婦である。彼女は化仁村(リ l ラ ウ 社)の 7 カワサイの指導者﹁アイスダン﹂である。これは中部アミのアイシダンのととである。リ l ラウ社には現税二十八人 の男女マカワサイがいる。 パカワサイの謝礼として、病人はピンロウの実の他に現金二拾元乃至四捨一兆(五拾仙乃至一弗)を支払う。側 私 の イ ン フ ォ マ ン ト の 一 人 、 王 制 問 山 氏 は 太 平 村 (ヴ ァ タ ア ン 社 ) 出 身 の 県 会 議 員 で あ る が 、 ヴ ァ タ ア ン 社 で 今 も 行 な わ れ て い る と 報 告 し た 。 ま だ カ ラ ラ 社 の ア ミ も 乙 れ ぞ 信 じ 1 ラ テ ( 勾 ミ 同 ) と 言 っ て い る 。 帥 ζ れ に 似 た 風 習 は 、 北 部 ラ オ ス の タ イ ・ プ l ア ン 族 に も 見 ら れ る ( 岩 田 、 一 九 六 三 、 二 一 九 頁 ) 。
第三節
若
干
の
考
察
︹社会組織と儀礼︺ かつては 奇 美 村のアミ全員が参加して行なわれ る儀礼 は八種あった 。 カキタアンの 主宰 するミ サウマ -E パパラオ・ミハパイ・イリシンと、 チカワサイの主宰するミサクロ・パカウラド・パカチ ダ ル・ミサリボ ンである。カキタアンに関係する四つの儀礼は、定期的農耕儀礼であり、 チカワサイの関係する儀礼は、現実の災厄 を除くための不定期危機儀礼であった。それらの 儀礼の 中、今でも行なわれているのは イ リシンだけであ る が 、 それ も粟祭の一つとしてではなく、 作物 全般の豊作を祝い、歌い踊る﹁娯楽﹂の機会とし てのイリ シンなので ある。社 会 的価値を有する事物が儀礼の対 象 となるのであるか ら ( 宮 弘 之 札 H P・ 切 さ S F N U h N H b b ) 、栽培されなくな っ た ﹁ 粟 ﹂ の豊作を願ってミサウマ -E ハパイを行う意義は存在しなくなったのである。これらの儀礼の司察者た る カキタアン の 権 威 も 、 カトリックと長老教の両教会の権威にとって代られ、ミサウマ・ミハパイに代るクリスマス・復活祭が年 中行事として全村民を参加させている。殊に、 ﹁ 迷 信 ﹂の張本人のレ ッ テ ルを貼られたチカ ワ サイは全く公的 機 能 を 剥奪されてしまい、共同体の儀礼はおろか同族団的儀礼(葬式・パ マラタウ-・ラウ)まで 主宰 することが出来なくな っ た の で あ る 。 奇美のアミが粟自を潰し、落花生の栽培を始めたのは現金収入ぞ確保するためであった。 アミの最大の出費は教育 奇 美 の ア ミ ( 中 部 ア ミ ) の 宗 教 五沖大論叢 五 費であり、親は粗衣、洗足に甘んじても、子供達には制服制帽・鞄・靴その他学用品を準備し学校に送らねばならな 一九六六年に電気が引かれると、それ以後は電気料も支払って行かねばならない。貨幣経 ぃ。また土地には税金を、 済の浸透は、他部族に備えて村を守る事と本務としたスラル(男子年令集団) に、奇美と瑞穂を結ぶ道路の保全・水 田の滋瓶事業という代替機能を与えた。しかしこれは飽くまでも代替機能であり、花連県庁によって予定されている 道路舗装が実現し、トラックタ