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不真正不作為犯論の批判的考察(二): 沖縄地域学リポジトリ

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Title

不真正不作為犯論の批判的考察(二)

Author(s)

神山, 敏雄

Citation

沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 5(2): 57-91

Issue Date

1965-02-01

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10941

(2)

不真正不作為犯論の批判的考察

っ ↓

)

第二章

学説に対する批判の展開

前号において不真正不作為犯に関する諸学説を出来る限り詳細に分析した。 本号においては右の諸学説を私なりに批判する ζ とにより私見の理論構成への途を聞く積りである。学説の紹介、分 析の過程では特に作為義務の体系的地位を中心に記述しておいた。けれども不真正不作為犯においてはその外に不作 為による過失犯、作為義務の本質、因果関係論、行為論、不作為で犯し得る犯罪範囲、不作為犯の歴史的発展等の諸 問 題 が あ る 。 ζ の論文では是等の問題にはほとんど触れてない。他日の機会に発表したく思っている。 不作為犯論の批判を展開する際に根本的な背景となる基盤、即ち如何なる面から批判を行っていくかの基準は次の 三側面である。第一に構成要件の機能、第二に規範的機能、第三に主観的要素たる故意の機能である。斯かる側面の 上位には国民の基本的人権の擁護をよりよく貫く指導理念がなければならぬ。不真正不作為犯は作為構成要件の内部 で変形した犯罪として出現してきた。然るに斯かる犯罪はいまだ不安定の様相を呈している。されば乙そ国家権力の 会入を安易にならしめる理論は断呼として批判されなければならない。しかし国民の基本的人権の保障の為に怒意を 持ち込み理論を蔑にするととは許されない。理論構成は常に平等的正義並びに配分的正義を実現する為のものでなけ 不 真 宜 不 作 為 犯 論 の 批 判 的 考 察 五 七

(3)

ペーリングの見解によると、構成要件はその中に違法性が存在することの徴表である。作為犯においては、構成要 件該当の行為があれば違法性は推定されるが、不真正不作為犯においては構成要件該当の不作為が存在しても作為義 務がなければ違法性の存在根拠が否定される。その点、M・E・マィャーの理論もほぼ同様である。 これらの見解の第一の欠点は、作為義務を有しない、即ち、法的に無関係の人間の不作為も全べて構成要件該当の ︵1︶ 判断を通過せねばならぬことである。我々の日常生活で隣家に急病人が発生した場合や見知らぬ幼児が通りがかりの 河壱溺れかかっている際に容易に救助出来たにもかかわらず、放置することにより死の無価値的結果が惹起しても、 ︵2︶ 不作為は果して一九九条の人を殺したる構成要件該当の事実として判断される必要があるか。斯様な不作為者の人格 的態度は道徳的には非難さるべきであるが、しかし、かかる人間は刑罰の威嚇を以て結果を防止すべき地位に立た されているものではなく、法的に殺人行為とは何の関係もないと見るのが自然である。かくて作為義務を有しない者 の不作為は法以前の問題と考えなければならない。構成要件該当の行為は違法性を徴表すると解すれば、即ち構成要 件に違法推定機能を認めれば、作為義務を有しない者の不作為態度は如何なる意味においても適法である故に作為義

沖大論叢五八

ればならないと思う。これによってはじめて国民の基本的人権は保障されるものと信ずる。批判の過程において行過 ぎた点や誤解等があると思うがいさぎよく御指摘下されば幸甚に思います。

第一節違法性説に対する批判

㈲ペーリングとM。E・マイャーの理論に対する批判

(4)

務を有しない者の不作為を構成要件該当として法的判断を下すことは矛盾を包含する。 叩交理論上の問題として作為義務を有しない者の不作為的態度が構成要件該当性の判断を受けることになると国家権 力の介入の余地を残すことになる。けだし、一様構成要件該当鯵の行為があればへ捜査機関は権力.の発動をなし違法 性の有無は裁判官の判断を待つことにしようという態度にでることが可能となるからである︵しかし、実際には作 為義務がなければ違法性説によっても違法性が欠けるのであるから国家権力の発動はほとんどなされないかも知ら ないが、“乱用の危険性はある︶・更らに、不作為においては、構成要件は違法性の推定機能を有しないとすれば、作 為においてはその機能が完全であるにかかわらず、前者はそれを有しないとするのは理論的に統一性を欠く結果とな る。例えば作為叉は不作為による殺人の際に、一九九条の構成要件の内部において、人を殺したる以上違法性を有す るとの推定を受けなければならぬ筈である。作為であろうが不作為であろうが同一構成要件の法的評価を受けるので あるから一方においては構成要件の推定がはたらき他方においてはその推定機能がないとすることは許されない。統 一的な機能を説明せんが為には自ら作為義務は構成要件の問題とせねばならぬことがわかる。即ち、作為義務を有す る者の不作為のみが構成要件に該当すると判断される場合にはじめて構成要件の機能が統一的に説明され得る。しか し作為義務が構成要件の内部において如何なる位置を占めるかについては後に検討する。 次に不真正作為犯における規範は命令規範ag言︶か禁止規範宮の吾具︶かという問題があるが、ペーリング の見解においては私の知る限り明らかでない。MoE・マイャーにおいてはそれが明確である。即ち、禁止規範は、 何を為すべきでないということを規定しているのであり、何を為すべきかということまでは規定していないとする。 MoE・莞イヤーは不作為犯というのは禁止規範に反する犯罪とみる理であるがこれはきわめて妥当な見解である。 蓋し、不真正不作為犯も作為構成要件を侵害するものであり、作為構成要件は一定の結果を侵害してはいけないとと

不真正不作為犯論の批判的考察五九

(5)

沖大論叢’

六○ だけを規定し、何々をせよと命ずるものではないからである心実定法規を分析した場合に作為構成要件は一定の行為 潅禁ずるのに反し、真正不作為犯は一定の行為を命ずる。不真正不作為犯は作為構成要件の法的評価を受けるのであ 患から禁止規範の対象とならなければならない。 立法者は、国民の行為規範として二種類に分けて定立している。即ち、作為構成要件は禁止規範の形態として、真 正不作為犯の構成要件は命令規範の形態として現わしている。一つの条文の中に両者が混在している場合があるが− 例えば一三○条の住居侵入罪の前段と後段であるIしかし、これはむしろ二つの構成要件が規定されたものと解すべ きだと思う。即ち、前段は作為構成要件、後段は真正不作為犯の構成要件である。 更らに主観的要素たる故意の面から違法性説に対する批判が可能である。しかし、この批判は全べての違法性説に 当てはまる故に一括して後に展開したい。 。ザウエルの見解に対する批判 !ザウエルの見解は同じ違法性説とはいえ、ペーリングやMoEoマイャーの見解とは思考過程において著しく異な 窓心彼の理論の特色は、構成要件の違法性推定機能を作為・不作為において統一的に把握しようとしたことである。 即ち、作為義務を有しない者の不作為的態度は、M・E・マイャーの見解によれば違法性の推定が及ばなかったが、 彼によれば構成要件に該当する以上、形式的に違法性があることになる。作為においても構成要件に該当する以上笹 形式的に違法であゑとの点、両者は全く同様である。しかし、形式的違法︵言冒の房詞の。宮窒喜一得のgがある だけでは犯罪は成立せず、更に実質的違法︵邑騨の働呈の両の呂誘三島碕富gが存しなければならぬ。この実質的違法

性を根拠附けるのがまさに作為義務だとする。︲。

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ザウエルは、確かに”構成要件の違法性推定機能を、形式的違法性を導入することによって、作為・不作為において 統一的に把握することに成功しているかの様に思われる。しかし、斯様な〃形式的く〃実質的〃という二重の違法J 性概念を用いること自体に問題がある。 一構成要件該当の行為は、最初から違法であるか否かが問題であり、形式的違法・実質的違法の段階的違法概念を経 るのではない。法典の示す行為が発生すればこれは形式的違法の推定を受けるが、しかしこれは実質違法に対立する 違法概念ではない。この形式的違法性を根拠づけるのが即ち実質的違法性でなければならない。違法判断はあるか否 かの問題であり、違法とされることが法典の形式的立場から考察したのが形式的違法であり、との形式的違法を超法 規的、実質的に根拠づけるのが実質的違法論の問題と解するのが妥当ではないか。最終的躯違法性がない場合にも形式 的違法は存在するということはナンセンスと思われる。ザウエルの理論によれば、正当防衛やその他の違法阻却事由 によって違法性が阻却される際にも”斯かる行為は形式的に違法判断を受けることになろう。つまり形式的な違法性 があることになる。しかし、斯かる場合にも我々は最初から違法性はなきものとして取扱う。カウフマンもザウエル の理論に対して次の如く批判する。我葱が、一般に〃形式的〃違法性と〃実質的〃違法性が区別され、そうして対立 して置かれるという前提をたとえ承諾することがあってもなお次の様な方法は質問される価値がある。即ち、現実に 各々の結果防止の不作為が〃形式的〃違法性として見られる必要があるか。立法者は結果防止の全べての不作為を違 法なりとしようとし、そうして刊罰の下に置こうとしたのではない。ここでは〃実質的〃違法性の理論は無意味に押 ︵@J︶ しやると。・・ ザウエルの理論に見られる形式的違法においては法的に何の効果もなく、唯便宜的説明の域を出ない。斯くて我々 はザウエルの見解によっては不真正不作為犯の問題が解決されないということが理解出来る。 不真正不作為犯論の批判的考察 一ハー︲犀

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-沖大論議

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ノ 、 国 牧野博主む見解に対する批判 牧 野 博 生 除 、 作為義務を因果関係の問題から好離して専

B

違法性の問題一'とした点、不真正不作為犯においても因果 関係が作為の場合と同様に存するとした点、作為義務の根拠を我が国固有の公序良俗に求めた点、不作為は命令規範 に反するとじた点等は我が固において高く評価される。 しかし、博士の見解においてもベ

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シ グ 、

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E-マイヤ!の理論におけるが如く、法的に無関係な不作為者ハ ︽ 4 ﹀ ,作為義務を有しない者)の不作為態度までが構成要件該当の判断を受けるという欠点が曝露される。しかも・米真正不 作為は命令規範に反するという考え方も批判されねばならない。葦し、 す る ζ とは考えられないか ιちである。そのことは既に

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に ・ お い て 明 ら か に し て お い た 。 一つの構成要件に禁止規範と命令規範が雑居 し か し 、 ζ とで最と深く吟時する℃とにしよう。博士は、作為義務の根拠を公序良俗の世界に求める。かかる作為 義務をもたらすのが命令規範となる。そ ζ で不真正不作為犯広おける規範は、構成要件の外に求められるという結果 になる。我々ば斯かる見解には到底賛成する乙とは出来ない。近代の罪刑法 ・定主義の原則は、各々の構成要件を明ら かにし、有害な行為を禁ずる行為規範と不良な現状を変更する為に-定の行為を命ずる行為親範密定立する ζ と に よ り行為準則を定めている。現行刑法において前者の形態が作為構成要件であり、後者の形態が真正不作為犯の構成要 停である。作為構成要件の禁止規範は一定の行為を禁ずる(例えぽ千九九条の殺 a 人一罪においては人を殺害してはなら な い ) 。 ζ れに反し、真主不作為構成要伴の命令規範は一定,の行為を命ず忍(例えば一一ニ

O

条後段は要求を受けた者 は 退 去 せ よ ) 、 o J 不真正不作為犯は不作為犯たるには変わりはない。しかし、そ ζ には一定の行為を命ずる命令構成要 件はない?不真正不作為犯は作為構成要件の内部において作為と不作詩静岡価値を得る場合の問題マ占める。一九九条 の構成要件に芯険診規範はふ八壱殺害しではいけない目℃とだけを規定

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3

↓定の行為をせよと命ずるものではない 1 ・ 作

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為であろうと一不作為であろうと人を殺す態度に出てはいけないととを規定するのみである。それ故に構成要件 、 による 行為規範の外にそれを求める見解は立法権者の権限を侵す結果となる。とのととはマウラツハも独逸刑法総論の第一 版で次のように述べている。結果防止義務についての錯誤を禁止の錯誤とする見解(グエルヅエルの見解﹀は構成要 ハ 国 自 己

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2 5 3 件による規範

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ロ凶)と構成要件の中に取り上げられた行為義務 ︿5 v と。以上において博士の見解は批判されたのであるが、外に故意の面からも批判される。とれは違法駐一説全部に共通 との聞の区別の誤認に基く して批判される放に後に展開する。 木村博士の旧説は、牧野博士の理論を発展させ、特に作為義務の根拠は公序良俗にあるととを詳細に実証された点 に高く評価される。文不作為犯は禁止規範の下に落ちるとされた点も高く評価される。しかし、作為義務を違法性の 問題とする点において同じく批判されねばならぬ。博士の見解は、従来の通説が不真正不作為犯にあっては構成要件 該当の不作為は違法性を徴表せず特別な法律上の義務が存在しで違法性が決定されたのに対し、不真正不作為犯と作 為犯との聞には差異はなく、積極的な構成要件的結果を実現することは原則として不作為義務違反及び作為義務の違 尻、換言すれば、違法性を徴表することを意味するとされた。博士の見解はずクエルの見解程明確ではないが、私の 理解によるとザクエルと同じ見解ではないかと思う。即ち、容易に救助が可能であるにも拘らず放置するととにより、 死の結果を生ぜしめた者は原則として違法性と判断されるが、しかし作為義務違反があってはじめて実質的に違法と 解されるのではないかと恩われる。新かる考え方であれば,ずクエルの見解を批判したと同様なととか該当する。 伺 団藤教授・江家教授の見解に対する批判 団藤教授の見解は従来の違法性説とは思考過程において著しく異っている。即ち、不真正不作為犯は、先ず構成要 不 実 正 不 作 為 犯 論 の 批 判 的 考 察 -'ー・ ノ、

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沖 大 論 叢 六 回 件該当が問題である ζ とを指摘されながらも、不作為が構成要件該当性を・もっと

ω

える為には先ず ζ れが違法でなけ ればならぬとさ札る。そうしてその違法性は結局、作為義務違反に 基 礎づけられるとされる。しかし、構成 要 件 該 当 以前に、不作為の違法性を判断する ζ とは現代の 構 成要件の機能を全 く 無視する ζ とにはならぬか。刑法における如 何なる犯罪も先ず構成要件該当の行為でなければ刑法土は違法とさ札伝い。教授も ζ の点に関しては、原則的にほ是 認されている。それにも拘らず、不真正不作為犯に於ては例外的に解する理由として不作為は通常は社会 生 活上みの がされる場合が多いので、特に 違 法でない限り犯 罪 定型そのものにあたらないとみるべき だ からであるとされる。じ かじ、不作為犯の場合に普通みのがされる場合が 多 い からと云って 構成要 件以前に 違 法性 が判 断されると云う 結論 は 出て来ない。違法性は結果防止をなす法律上の義 務 に違反することによって基礎づけられるとされるが、とれも 構 成 要件による行為規範から離れて法秩序全般に存する抽衆的規範を前提とされるように思われる唱斯様な見解は現代の 構成要件の機能を無視するものと思う。斯様な欠点を指摘してい名者に、

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、?イヤーがいる。彼は次の如く云って ︽ 6 ) いる。違法性が構成要件の前に来るならば罪刑法定主義の原則に反するだろうと。 作為義務を構成要件の要素と解すれば、斯かる不合理は避け得られるととになる。 在家教授に於ても太体において団藤教授の見解に批判を加えたことが該当すると思われる。しかし、江家教授が次 の点を指摘したことは高く評価すべではないか。即ち、不真正不作為が構成要件該当となる為にはとの不作為が 違 法 マなければならぬ乙との外に結果に対して因果関係がなければならぬ。更に、 ζ れだけでは足らず、当該構成要件に ︽ 7 ) 規定された法定刑を科すに足る反社会性がなければならぬとする。 ζ の ζ とは当該不作為が当該構成要件に該当すると判断された後に違法性、責任性の価値判断の分野において考鹿

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する限り妥当な ζ とと云えよう。即ち、当該不作為が法定刑を科するに足るか否かは、違法性、責任性の段階に於

τ

考慮されてはじめて正当化され得ると信ずる。 同 違法性説に対する共通的批判 以上において個々の違法性説に対する批判はなされたのであるが、 ζ ζ では作為義務を違法性の要素とする右学説 に共通的に批判がなされる点がある。これは故意の面である。とれは従来までの学説では、 諸 学説の効果として論じ てはいたが批判の素材として積極的に用いてはなかった。私は不正 真 不作為犯の故意面を 重 視する立場から私なりの 批判を次の知く展開する。 違法性説によると作為義務に関する錯誤は違法性の錯誤となる。現在においては、故意説の立場から違法性の認識 は現実的に認識する必要はなく ζ れについての認識の可能性文は認識なき ζ とに過失があれば足るとする見解が多数 説である。文責任説の立場からも禁止の錯誤として論ぜられるのではあるが、作為義務の現実的な認識は必要ではな くその可能性さえあればよいことになる。作為義務を違法性の要素とする説を前提とする限り、全 d q て不当な 結論 粍 導びくと思われる。それは次の理由による。作為構成要件の下で、不作為が作為と同格性を得るには意思力広おいて も両者同等に評価され得るものでなければならぬと思う。即ち、不作為による一定の結果惹起が作為による場合と同 等な資格を得るには、不作為者は自己の作為義務を認識しながらもなおそれに反して構成要件該当の結果の実現を意 欲する意思的態度に出たときにはじめて犯罪の意思力が証明された ζ とになろう。作為 義務 を認識す忍必要がないと すれば、作為義務を有しない者の意思力と余り差異はないととになる。作為犯においては、内的意思の表動として外 的な身体運動を繰縦し、 一定の結果実現に向けられる。これに対して不作為!においては、自ら物理的原因を設定する 不 真 正 不 作 為 犯 論 の 批 判 的 考 察 六 五

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り勺・

沖大論叢・六六

必要はなく、不作為的態度で結果の実現を意欲す急ことである。単に結果の意欲だけでは内心の問題としてとどま り、飛躍的な意思力としては不十分である、こ農では作為義務を現実的に認識しなければ殺人を犯す犯罪意思力とし て、作為における意思力とは同格に置かれ得ない。作為義務を現実的に認識してあえてこれに反し不作為的態度に出 てはじめて故意を実現する作為と同等な評価が出来るものと信ずる。 H、マイャーも不作為における意思力を重視したのであるが、彼は作為義務のメルクマールを無視してこれの認 識については何も語らない。即ち、彼は不真正不作為が積極的な活動亀○の三ぐ①目胃侭冨ごと同程度の法に敵対す る意思力︵雲肇の口のgの曇の︶を必要とする場合に、法的意味において純粋な作為として把握されるのだと主張する。 しかし彼の云う法に敵対する妻屋の旨ののロの曇のは作為義務を現実的に認識する必要があるとしてはじめて正当化され得 る。比の点で彼の主張は妥当性を欠くことになる。 作為義務を構成要件の要素とすれば、故意の確定的な対象となり、それに対する認識の可能性では足らないことに 態る。これは故意に対する学説の相異によっても異ならない。これに反し、違法性説によると故意犯における不真正 不作為犯の成立する範囲が広くなる。不真正不作為犯は例外的現象であり、その成否には厳格なる標準の確立が要求 される。にも拘らず違法性説によると作為義務の認識の可能性又はその認識なきことに過失があれば故意犯が成立す る学説もあれば、これに対する現実的認識が必要だとする説もある。そこには確定的な標準がなく暖昧であり、基本 的人権の擁護の面が不安定となり不当な結論に導びく恐れがあり強く批判しなければならぬ。 以上において違法性説の欠陥が明らかにされたことと思う。 構成要件は違法行為の類型を規定したものであり、か漢る立場よりすれば作為であろうが不作為であろうが構成要 件の機能の統碁的把握が必要となる。︽それには少くとも作為義務を構成要件の要素と解し、作為義務を有する者の不

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更らに追加されねばならぬことがある。違法性説に於ては、不真正不作犯の共犯について全んど説明が不可能と云 うことである夕例えば全く赤の他人が溺れかかっている子供を救助せんとしている際に甘言をもって救助することを 止めさせた場合である。赤の他人は自ら不作為しても処罰されないことには異論はないと思うが、父親を教唆した場 合には如何に解するか。私見よりすると作為義務は身分を形成する要素であり、不真正不作為犯は身分犯である故に 刑法六五条によって解決され得る。違法性説にあっては斯様な理論構成をすること又は他の共犯についても説明する ことは不可能ではないかと思われる。私見についての詳明は第三章にて行う。 エルや小野博士も身分犯としたのであるがその論理構成に欠点があり、体系的に構成されてない。しかも作為義務な 真正不作為犯を身一分犯として特色づけ、開かれた真正身分犯の名称の下に理論を展開していく積りである。ヴエルッ は後に批判がなされるが、私は作為義務を行為要素としてではなく、行為者要素として理論構成することによって不 要素と解するにしても作為義務を行為要素とするのが従来の保証人説であり構成要件説である。しかし、斯かる見解 作為態度のみが構成要件該当と判断され、違法性の推定を受けることとならなければならぬ。作為義務を構成要件の 夕争・へ...↑ るものがヴエルシエルに於ては違法性の分野に移る。小野博士に於てはそれが明確でない。私は、作為義務が行為者 要素として理解されてはじめて体系的に理論構成が可能となるものと信じている。このことは第三章で詳細に諦展開さ れることになる。 註H斤自言日日はM、E、マィャIとべIリングの見解に対して、一つの作為構成要件から作為と不作為の違法性判断は不 可能として批判する。かかる批判は我々の批判とは全く異った立場からなされている。彼は作為構成要件と不真正不作 為構成要件はあくまでも別のものだと主張する立場にある。このことは後に批判することにする。 ぐ瞳。厨閣員ロ憾目P己討己◎ぬ口愚睡丙Qの﹃[百8塁側の吻屋目胴の旦座欝蒔9乞切鱒塑噌傘吟︲・..’︲:

不真正不作為犯論の批判的考察六七

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沖犬論叢六八

。独逸刑法第三三○条Cには緊急教助義務が認められる場合に特別猫として一般の作為犯より軽く刑を規定している。 国ぐ唾.民凹黒目閏目.卿。鯉︾。︾卯や圏禽駒 卿博士の見解は、作為義務なき者の不作為が構成要件に該当するという判断を下すのではなく、因果関係の存在を肯定 し、斯かる状態に対して違法性の存否が決定されるとする。即ち、博士の見地は因果関係の面から見て、作為と同様 に結果惹起に対して原因力を有するとする。かかる見解は我々からすると結局は構成要件該当の面として考察される。 けだし、因果関係は構成要件の一素であるからである。これは博士の構成要件に対する見解の相異による。しかし、 博士の見解もベーリングやM、E、マイャーの見解に対して構成要件の面から批判した如きことが当俄まること蚤思う。 固冨四月四。ごロの巨筋。言のの耳幽時①。茸消・雷邑。、岳謹励.謹寧 尚閏陛言匡夢冨昌の周.理3津の。三岳認︾い旨瞬 出江家博士のこの主張は昭和十五年に発表されているのであるが独逸に於てはカウフマンが一九五九年の論文の中で特 にこの点を強調している。斯かる考え方は妥当と思うが、作為義務を違法性の問題とする点に賛同しかねる。 最近因①鼻の﹄はカウフマンが右の主張をしたことは妥当だと云っている。即ち、しかし又保証人的義務の不履行の確 定によって無造作に刑法上の責任があたえられるものとして容認することによってこの問題︵筆者註、これは構成要 件の結果惹起に対する作為と不作為に於ける不法内容の同価値の問題を示す︶を等閑に附している。これに対して、 最近、当該構成要件の作為と不作為の同価値の問題が保証人の問題と並んで全く独立の意義を有していること、それ 故に比の両者を明確に区別しない様なものは問題解決の光を少くするのであり、その為に誤った個々の解決に達する だろうと云うことが正当に主張されていると云っている。 ぐ魁.雷のロ斤堅ロロpの冨騨露。Qのロロ3匡の日ご里ご鼻の1画の切目旨傾切旦堅涛蔚厚冨Q旨鼻の門野働津霊﹃︼辱旨目目。旨喰の属国Q の寄寓患○宮閏風9日鰐冷這巴、の砂ごやく弓① ㈹閏.三冒冨9.浬菖時①①宮やご認やゆ旨騨

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Hg雷冒冨言宮と云う統一的日一 けることが可能となって来た。 Hナーダラーに代表される保証人説に対する批判。 ナーグラーに代表される保証人説は、不真正不作為犯の本質を先づ第一に構成要件該当性にあることを指摘し、保 ︵1︶ 証人的義務を一般的共通的な要素とし、それを客観的メルクマールとした点に功績がある。 違法性説によると法的に無関係な不作為までも構成要件該当となり、其の不合理性が立証されたが、保証人説によ ると斯様な欠点は排除されることになる。 しかも構成要件の違法推定機能も作為と不作為に於て統一的に説明が可能となる。叉⑦閏閣冨g巽呈自侭叉は⑦甲 Hg雷弓震o宮と云う統一的日の烏g巴は、従来まで個々・ハラバラに説明されていた作為義務を一体性をもって位置づ しかし、作為義務を行為要素とする所に批判が加えられる。行為概念に関する通説的見解は、作為と不作為との上 ︵2︶ 位概念︵Q︺①吾の喝霞︶を人間の事実的意思的態度に求めた。しかし、これにも問題はあるが︵例えば忘却犯は意思 的態度ではない︶、故意犯については右の通説的見解は是認される。右の通説的見解が妥当だとすれば、作為におい ても不作為においても存在論的な故意的態度︵故意犯において︶としての行為でなければ共通性がなくなる。即ち、 両者は構成要件的結果を実現せんとする人間の意思的事実的態度として共通性が発見されるのである。唯、両者が相 異なることと云えば、前者においては手足を動かすことであり、後者に於ては自然の因果の流れを利用せんとする不 作為的態度である。 しかしやナーグ弓

第二節構成要件説に対する批判

ナーグラーの保証人説にあっては不作為に更らに⑦閏曽鳥g茸言言という価値的要素が附着しなければ構

不真正不作為犯論の批判的考察六九

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沖大論叢!;七○

成要件該当の行為ではなくなる。即ち、行為者と行為を一分離した場合に不作為に価値物たる附加物溌附着しなければ 構成要件該当の行為とはみなされない。斯様な見解によると作為と不作為の上位概念としての事実的意思態度と云う 共一通概念は放棄されねばならぬことになる。、我々は斯かる見解を採用することは出来ない。“我々が行為概念に関する 遁説的見解を貫くとすれば、作為義務と云う附加物ば行為から分離して、行為者要素とし、行為を構成要件的結果を 実現せんとする意思的態度として存在論的に考察することによってはじめて作為、:不作為を統一的に把握することが 可能だと一思う。私見の特色は従来の学説に見られない所の即ち、作為義務を不真正不作為犯に於ける不作為の主体者 たる身分の形成要素として考察することによって行為者と行為を分離し、作為と不作為の上位概念を事実的意思態度 ︵3︶ として共通性を見出さんとするものである。斯かる理論によってはじめて妥当な結論に到達す喝ことが出来ると信じ ている。詳細は第三章で論証する。更らに批判さるべき点は保証人説によっても共犯関係が充分に説明され得ないこ とである。このことは違法性説にて於は説明不可能であったが保証人説にあっては保証人と云う特殊な要素を以て身 分犯として理論構成することも不可能なことではないかも知れぬ。しかし、ナーグーフーは行為者と行為を明碓に分離 #ず保証入的義務を行為要素とした点に批判され、しかも積極的に共犯関係について体系的に論証してない。 不真正不作為韮犯を真正身分犯と解しなければ次の様な不合理が出て来る。,例えば作為義務を有しない者がそれを有 する者を教唆し又は謂助して不作為犯癌犯させた場合に、直接米一条、六一一条を適用することになると罪刑法定主義の 原則に反する疑いが出て来る?けだし︿加何なる学説と云えども作為義務を有しない者は不真正不作為犯を犯し得な いことになるから刑法六五条の適評用がない限り処罰し得ないからである。即ち、刑法六五条は、本来正犯は一定の身分 を有する者のみが犯し得るものであるが身分なき者といえども当該身分者に加功した場合には社会秩序を乱す者とし て処罰に稲蝋捗鴬と池たゆえの規定であ電増とれは特別規定であり右の様な立法趣旨から云えば前述の如き批判がな

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きれ待る。 反対にへ斯様な加功行為が処罰されないとすればこれ叉明らかに不合理な結果となる。何づれにしても不真正不作 為犯を身分犯と解することによってはじめて共犯関係は論理的に解決出来るものである。 ,最後に指摘しなければならぬことは保証人説にあっては保証人的地位を特に重視するのであるが、しかし作為と不 作為が同価値とされる為の意思力、刑罰が科され得る為の不法内容の同格等の価値論的な考察を無視しては到底解決 出来ないと云うことである。 a 規範的構造についてはぐの吾寓の下に不真正不作為があることとした点は正当と思う。 賛同するものである。けだし、前述の伽 斯様な考察方法以外にないからである。 しかし、ヴエルッエルが作為義務とそれが生ずる基体たる保証人的地位を分離して作為義務を命令規範に関係する 違法要素とした点に賛同出来ない。彼が作為義務を違法性の要件とする理由については精極的に論述してない。しか ︵5︶ も其のことが明らかとなるのは、不真正不作為犯の責任の箇所においてである。作為義務は一つの命令規範によっ鰻て 根拠附けられるとする考えは違法性説に対する批判で既に反論された。一九九条による規範は禁止規範でありそこに は人を殺してはならぬことだけを規定し、:一定の行為を命じているのではない。構成要件による規範と構成要件の一

不真正不作為犯論の批判的考察七一

ロヴエルッエルとマウラッハの見解に対する批判 ヴエルッエルは保証人的地位︵作為義務が含まれてない︶を行為者要素として不真正不作為犯は一つの真正身分犯 であると理論構成した点に功績がある。彼が行為者性︵弓詳風の呂呉sと行為たる態度と分離した点に私も基本的に 賛同するものである。けだし、前述の如く作為と不作為との上位概念として人間の意思的態度に共通性を求めるには へ 4 ー

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次にマ官フッハの見解に移ることにするが、大体においてヴエルッエルの理論と一致しているのである。しかし彼 は保証人的地位から作為義務と云う一つのぐの吾吋のsgの日の鼻日陛︵寄呂豚三号芦鳴の房目○日の具︶を分離する積極 0 最後に批判すべき点は、作為義務に対する認識の面である。彼は不真正不作為犯の問題点は、構成要件、就中行為 者性︵謹計の尉呂幽津︶にあることを指摘しながらも作為義務を違法性の問題としたところに違法性説の欠占馨句含す る。彼によれば作為義務に関する錯誤はぐのg三豊算匡日となるのであるから、作為義務を現実的に認識する必要はな ︵6︶ くその可能性さえあればよいことになる。勿論、斯かることを明碓に論じてはいないのであるが彼の目的々行為論よ りすれば当然の結論となる。斯かる理論からすれば不真正不作為犯に於ける故意には作為義務の認識がなくても故意 犯は成立することになるがその不当性については既に違法性説に向けた。

沖大論叢七二

要素2しての作為義務との混同は許されない。又作為義務は保証人的地位から分離して考えることは出来るものでは ない。保証人的地位を一般的抽象的にそれ自体だけを考えることは無意味と信ずる。蓋し保証人的地位を形成する要 素は作為義務以外にないからである。親子関係、先行々為により構成要件的結果の発生の危険性を生ぜしめた関係、 契約関係等に於て事実関係が保証人的地位を形成するのではなく、そこに作為義務がなければ保証人J的地位は形成さ れない。結果を防止すべ義務が課されてはじめて不真正作為犯の行為主体者となり得る。とかく両者は一体不可分と 解して保証人的地位なるものの存立意義がある。斯様な一体不可分の保証人的地位は私見よりすればまさに身分を形 成する要素となる。 は既に指摘したことである。 ヴェルッェルは不真正不作為犯の規範的構造については命令規範aの宮舜︶とするのであるがその妥当でないこと

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的理由附けをしているので其の点を検討する ζ とにする。彼の分離する理由は、自己の保証人的地位についての認識 はあるが、作為義務を認識しない者の不作為は、構成要件該当とされなくなるから、その ζ とは斯様な非社会的人間 ( 7 v k 忍び難い特権を与えることになるとする。それ故に作為義務を違法性の要素とするのである。 しかしそのことがまさに不当な考えである。不真正不作為犯に於ける法に敵対する意思カは少くとも作為と同等で なければならぬ。作為にあっては意思の強度性は積極的に物理的原因設定をなす外部的行為に表示されるから問題は な い 。 ζ れに反し、不作為においては内心に於ける 構 成要件的結果の 惹 起の認容だけではハそれは比較的に容 易 で あ る)作為における犯罪的意思力と同格には置かれ得ない。それが為には、行為者が一定の危 険 に曝されている法益を 防止するととが義務附けられだいる ζ とを認識し、その義務を侵害してまでも構成要件的結果を実現せんとする 意 思 的態度があってはじめて可能となるものと信じる。それ故にマヲラツハの理由ヴけは妥当でなく、義務を認識しない 者はそれについて過失があれば過失犯として処罰すれば足ると思う。 又実際上に於ても作為義務についての認識の可能性さえあれば故意として十分だとすると行為者の意思内容が 容 易 に推定を受ける危険性があり人権が侵害される恐れも大きい。マヲラツハの規範的構造については違法性説に向けた 批判が当恢まる。 伺我国の学説に対する批判 小野博士の構成要件説は我国においてはじめて展開され、・しかも不 真 正不作為犯は一 種 の身分犯だとした。しか し、作為義務の体系的地位については明確ではないが恐らく構成要件の要素とされているのではないか。斯かる推論 が許されるとしても構成要件の内部においては行為者要素となるか行為要素となるかはなおさら不明確である。身分 不 実 正 不 作 為 犯 論 の 枇 判 的 考 察 七

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沖 大 論 議 七 回 犯とされる理由も積極的に展開されていない。しかも H 犯罪構成要件理論 H 以後の博士の文献には身分犯としての理 論構成が見られない。 ζ れはさておき、博士が不 真 正不作為犯の問題は徹頭徹尾、構成要件の問題である ζ とを我国において独自に強調 された乙とは大きな意義がある。博士の理論的前提が右の如き状態故に批判を差し控える ζ と に す る 。 次に木村博士の理論であるが、我が国においてナ l グラ!の保証人説を支持され、従来の 博 士の違法性説を放 棄 さ れたととは学界に大きな影響を与えた。 と ζ でも又ナ l グラ!の保証人説に加えた批判がそのまま妥当するものであるが、いま少し検討する乙とにする。 木村博士によると、ナ l グラ l が不真正不作為犯の体系的地位をもって構成要件の行為要素にある乙ととしたのに 対しグエルツエルはそれを構成要件の客観的・行為者的要素にあるとするのは、両者とも単純に重点の置き方に由来 ( 8 ) するものであり、質的なものでないと批判しておられるが、しかし私見によるとそれは本質的な差異をもたらす ζ と になる。ナ l グラ l の保証人説にあっては、の自

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ぬに作為 義 務が含まれ、それを行為要素とする ζ とか ら作為と不作為の統一的な上位概念を求められず、文共犯関係が説明され得なかった。乙れに対し、グエルツエルに おいてはの管

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のみが行為者たる身分を形成し、作為義務を違法性の要件とするので、乙の身分者の行為 には附加物たる作為義務が附着せず、作為と不作為は統一的に事実的 意 思態度として考察される。文共犯関係につい ても明らかになる。この様に両説には根本的な差異があらわれる故に木村博士の批判には 賛 成出来ない ζ と に な る 。 そ ζ でついでにカタフマシが、ナ l グラ l の保証人説とグエルヅエルの説に向けた批判を見る ζ とにしよう。彼は 人がナ

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グラ!と共に保証人的地位の問題を構成要件行為に移すか文はその問題をグエルヅエルと共に H 不作為者 H

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( 9 ) の構成要件約限界におい‘て考案す wQ かは重要でないとする?じかじ、彼の批判路、根本的に木村博士の批判さは異な る。蓋しハカタフマジの環論によると不真正不作為犯は作為構成要件とは独立な命令構成要件上のものであるから、 従来までの理論が作為構成要件内で問題を論じている限り彼からすれば何らの重要性もない乙とになるからである。 次に大塚教授の見解を検討する ζ とにする。教授は、作為義務を構成要件、しかもその中で行為要素とされる。斯 かる見解に対する批判は既にナ

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の保証人説に加えた。以上において構成要件説に対する批判は終るのである が、そ ζ でも不真正不作為犯において、行為者と行為を明確に区別し、作為義務は本葬の主体たる行為者を行為者た らしめる要素でなければならぬ ζ とが解る。不真正不作為犯は一定の者でなければ犯し得ない。その特定の者が保証 人といわれるのであるが、保証人から作為義務を取除く・と意味がだい。むしろ作為義務が斯かる保証人たる地位を基 礎づけているこ・とがめかる。作為義務を行為要素とする見解は右の ζLU を看過している。 註 (-l 同 マウラツハもその点を認めるものであるがその統一体なるものの不明確な定式化によって今日の体系上の暖妹さを疑 い

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、 助 成 し て 来 た と 批 判 す る 。 彼 は の 釦 ﹃ 自 件

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同 時 ・ 不作為による過失犯の中、忘却による場合は意思的要素が欠けるとして刑法上の行為概念に該当しないことも考えら れ る 。 メ ツ ゲ ル の 説 明 に よ る と 、 ラ I ト ブ ル ツ ヲ は 作 為 犯 と 不 作 為 犯 を 分 離 し 、 不 作 為 は 行 為 で な く 、 肯 定 と 否 定 一 、 a と非

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との関係にある両者の上に共通概念を含めるととは出来ないとした。このことはカウフマン、グエルツエルの行為 論 を 検 討 す る 際 に 批 判 を す る 。 不実正不作為犯論の批判的考察 七 五

参照

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