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現代論理学が伝統的論理学よりもすぐれていると考えるのはなぜだろうか

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現代論理学が伝統的論理学よりも

すぐれていると考えるのはなぜだろうか

飯田 隆

1989

1

フレーゲによる新しい論理学の考案は、算術の基礎を探求する というかれの課題を遂行するために、数学的証明をできうる限り の厳密さで表現するという必要から生じたものである。したがっ て、現代論理学は、数学との密接な関連のもとに形成されたと言 える。しかしながら、フレーゲの目標が、算術的真理の論理的真 理からの導出にあったことを思い起こすならば明らかなように、 フレーゲにとって、論理は、決して数学の一部ではなく、アリス トテレス以来そうであったように、数学をも含むすべての科学に 先立つものである。新しい論理学は、そのもっとも複雑な適用を 数学的証明に見いだすとしても、どのような分野であれ、われわ れの推論活動のすべてにおいて妥当するものでなければならない。 新しい論理学が、数学者のための道具であるにとどまらず、数学 的概念をまったく含まないような推論にも適用されるようになっ たことは当然の結果である。 たしかに、新しい論理学が、「数学の基礎」といった、一般の 数学者から見れば怪しげであり、また、一般の哲学者から見れば 哲学の辺境に位置するに過ぎない主題に関心をもつ、数学者や哲 学者のサークルを超えて普及するには、しばらく時間がかかった。 だが、現代論理学が誕生して百年以上が経過した今日、「論理学」 の名称のもとにフレーゲ以前の「伝統的論理学」のみを教えてい る大学があるとすれば、大学としての資格を疑われてよい。その 理由は、伝統的論理学が時代遅れの代物であるからというのでは なく、フレーゲ以後の論理学が、論理学として、フレーゲ以前の 論理学よりも決定的にすぐれているからであり、また、そのこと が広く知られているからである。

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以上は、私が数年前に書き出しかけた原稿の冒頭である。今でも私は、こ こに含まれている主張が全面的に誤っているとは思わない。特に、「大学の資 格うんぬん」については、まったく正しいと思う。しかし、「現代論理学が、 論理学として、伝統的論理学よりも決定的にすぐれている」という主張の根 拠をどこに求めるべきかについては、これまであまり表立って問題とされて こなかった問題を検討する必要があると考えるようになった。そう考えるよ うになったことには、少なくともふたつのきっかけがある。

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ひとつは、論理学史はいかにして書かれるべきかという問題である。一般 に科学史叙述が新たな活気をもって再開されるきっかけとなる最大のものは、 その叙述が対象とする科学の分野での革命である。論理学と論理学史の関係 もまた、このことを示している。前世紀後半から今世紀初頭にかけての論理 学の革命が、論理学史研究への大きなインペトゥスを与えたことは、周知の事 実である。すなわち、クーチュラによるライプニッツ論理学の研究1、ウカシ エヴィッツによるアリストテレス論理学の研究2、ベーナーあるいはムーディ による中世論理学の研究3などは、どれも、論理学の革命の副産物としての論 理学史研究である。だが、他方で、科学革命をきっかけとして生み出される 科学史叙述の多くが新たに権力を獲得した理論を弁証する性格をもつという ことも広く確認されている事実である。そして、今世紀の論理学史における パイオニア的研究と言うべきこれらの書物もまた、その例外ではない。 たとえば、こうした精神のもとで書かれたショルツの『西洋論理学史』(1931) は、西洋の論理学史記述としては記念碑的資料集成であるプラントルの論理 学史(1855–1870)に関して次のように述べている4 プラントルが論理学史を書いた時には、今日記号論理学という形 で取り扱われている新しい形式論理学はまだなかった。したがっ てその当時には、論理学史を位置づけ展望することのできる、確 固とした立脚点がまだなかったといえる。 このような形でなされる論理学史研究の問題点は、他の分野の科学史研究 において指摘されているのと同じものである。すなわち、こうした「歴史的」 探究は、えてして、過去の論理学を、現在の論理学において知られているさ まざまな概念や手法の「先駆的取り扱い」を拾い集めるための雑草地と見な しがちである。しかしながら、科学史的研究が「事実調査」以上の興味をも

1L.Couturat, La logique de Leibniz . 1901. 2J.Lukasiewicz, Aristotle’s Syllogistic. 1951.

3P.Boehner, Medieval Logic. 1952.; E.A.Moody, Truth and Consequence in Medieval

Logic. 1953.

4H・ショルツ『西洋論理学史』山下正男訳、一九六〇、理想社、四頁。(原著: H.Scholz,

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つ可能性は、現在支配的な理論の弁証だけにあるわけではない。より重要な のは、現在流布しているのとは異なる概念や手法がそれなりの首尾一貫性を 所有していたという可能性がないかという探究である。科学革命の直後にお いては、以前の理論の「首尾一貫性」を擁護することはほとんど問題となら ない。(そうすることは、時代遅れの反動派と見なされるだけのことである。) だが、革命騒ぎが一段落したあとでは、より冷静な態度で過去を見ることが 可能となるだけでなく、むしろ、それは、革命の決算表を作成するためにぜ ひとも必要なことですらある。 「論理学の革命」から百年以上経過している現在、革命の決算表は、すで にしばらく前から要求されていたはずである。だが、その決算表が正確なも のであるためには、現代論理学以前の論理学を、ショルツのように「現代論 理学の観点から」見るのではなく、「それ自身の立場から」見る必要がある。 だが、「伝統的論理学」をそれ自身の立脚点から見るということは、どのよう にして可能なのか。

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ここで、私が小論の標題である問いを立てることになったもうひとつのきっ かけについて触れなければならない。それは、アメリカの哲学者フレッド・ ソマーズによってなされた伝統的論理学の拡充と復権の試み5である。 フレーゲに始まる現代論理学に対して、その「不自然さ」、日常言語で表現 された推論との相性の悪さといったことが指摘されたことは過去にもなかっ たわけではない6。だが、現代の論理的研究の主流は、フレーゲ以来の論理学 の言語を最低限の核(コア)として保持したまま、日常言語の複雑さに対処 するためのさまざまな殻(シェル)を追加して行くという方策を取って来た。 このコアそのものを取り替えよう、ましてや、フレーゲ以前の「伝統的論理 学」をコアとして採用しようなどという提案は、まともに取り上げられる価 値があるとはまず考えられなかった。 かく言う私もまた、ソマーズなる哲学者が伝統的論理学を擁護する一連の 論文を書いているということは知ってはいても、「何をいまさら」と高をく くっていた。ところが、ソマーズの『自然言語の論理』(1982)を冷やかし半 分で手に取って、初めの何章かを読んでみただけで、こうした先入見は大幅 に修正される必要があることを痛感させられた。ソマーズが構成してみせた 論理学は、その基礎にある論理観とともに、真剣な考察に値するものである。 第一に、ソマーズの論理学がそれ自体として、その体系性ならびに一貫性に 5伝統的論理学の復権を目指したソマーズの長年にわたる努力は、次に集大成されている。

F.Sommers, The Logic of Natural Language. 1982. ソマーズの論理学へのよりコンパクト な入門書としては、次が挙げられる。 G.Englebretsen, Three Logicians. 1981.

6もっとも顕著なものとしては、P.F.Strawson, Introduction to Logical Theory. 1952 が

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ついて検討される必要がある。そして、第二に、もしもソマーズの論理学が ソマーズ自身が主張するようにフレーゲ以来の現代論理学の代替たりうると するならば、現代論理学の伝統的論理学に対する「優位」という主張は、根 底から考え直されねばならない。 だが、他方で、ソマーズの論理学の評価ということがきわめて困難である ことも事実である。古典二値論理と直観主義論理とを比較するということに も困難がないわけではないが、何と言っても、両者とも同様な言語のなかで 表現されているものであり、現代論理学とソマーズの論理学のように互いに きわめて異なった発想のもとに構成された言語をその基底におくものではな い。現代論理学のなかには文字どおり無数の論理があるとしても、現代論理学 とフレーゲ以前の論理学とのあいだの相違、現代論理学とソマーズ流の「伝 統的論理学」とのあいだの相違に比べれば、現代論理学のなかでのヴァラエ ティなどたいしたものではない。

4

結局、何がとりわけ必要であるかと言えば、極端に異なる発想・立脚点の もとに構成された論理学は、そもそも比較可能であるのか、もしも比較可能 であるとすれば、どのような手段によって比較するべきなのかという考察で ある。小論の目的は、そうした考察を本格的に開始するための(きわめて) ささやかな寄与をすることにある。 以下に述べることのすべてが、きわめて暫定的なものであることを断わっ ておく必要がある。私が以下で提出するいくつかの概念 —とりわけ、「パラ ダイム的推論」の概念— が、その特徴づけ・適用の境界において、はなはだ 不明確なものにとどまっていることは、私自身、百も承知である。したがっ て、読者は、小論の標題である問いに対するいかなる明確な答をもここに期 待してはいけない。この問いが一見そう思えるほど容易に答えられるもので はないこと、このことさえ示されるならば、小論の最低限の目標 —考察の必 要性を論証すること—は達成されたことになる。

5

ある観点によれば、論理学とは、論理的真理あるいは論理的法則の発見に 従事するものであり、論理学が物理学や生物学から区別されるのは、物理学 が探究する真理が物理的対象だけに妥当し、生物学が探究する真理が生物学 的対象だけに妥当するのに対して、論理学が探究する真理はありとあらゆる 対象に妥当するという点においてのみである7 7こうした観点にもっとも近い立場を取っていると思われる哲学者は、フレーゲである。G.Frege,

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論理的真理が最大限に普遍的な真理であり、いつでもどこでも変わらず妥 当する真理であるという立場を取るならば、論理学の歴史とは、非時間的に 存在する論理的真理の全体が時間のなかで開示されて行く過程の歴史にほか ならないことになる。また、この場合には、たがいにいかに異なる発想のも とに構成されている論理学であろうとも、論理的真理という共通の真理の母 体に照らして相互の優劣を決めることも原理的には可能となろう。 論理学に対するこうした「極端な」立場にも、それなりのメリットがない わけではない8。実のところ、私自身は、この立場が完全に誤りであるのかど うか心を決めかねている。だが、この立場に賛同することがやはり無理なの ではないかとも思う。その第一の理由は、論理法則が物理法則や生物学の法 則と同様の性格をもち、論理法則の特殊性はその際だった一般性 —いかなる 対象についても妥当する— にのみ存するとするならば、論理学は人々が実際 に行う推論と無縁なものとなるのではないかという懸念である。

6

いまひとつの観点によれば、論理学的理論の第一の対象は推論である9。そ して、理論一般の目標が、ある領域に属する現象に対する説明を与えること にあるとするならば、論理学的理論は、推論の説明を与えることを目指すと いえるかもしれない。だが、論理学的理論は、自然現象の説明を目指すよう な理論と同列に見なすことはできない。その最大の理由は、論理学的理論が 規範性と分かちがたく結び付いていることにある。 規範性との関係は、ここでは、二重である。 まず、論理学的理論の対象である推論は、現に人々がなす推論ということ ではなく、人々が「正しい」と見なす推論である。(より正確には、どのよう な推論を人々が「正しい」と認め、どのような推論を人々が「誤っている」と 認めるかの両方が問題となる。) だが、「人々が正しい(あるいは、誤っている)と認めている推論」という ものの外延が、いかなる論理学的理論にも先だって確定していると考えるこ とはむずかしい。ある種の推論は、あまりに複雑過ぎて、何らかの論理学的 理論を用いなければその正しさ(誤り)が認められない、ということがある。 また、われわれの推論活動の中には、複雑さの度合はそれほど高くなくとも、 どのような推論が正しいのか(誤っているのか)について人々の間の合意が の規範性を強調する。この一見落ち着きの悪い「事実性」と「規範性」の共存がはたして一貫性 をもって主張できるかどうかは、より綿密な論究を必要とする。

8Cf. G.Harman, “Logic and reasoning” Synthese 60 (1984) 107–127. pp.109ff.

9「論理学は何を扱うのかという問いに対する伝統的な解答は、真理をというのではなく、推

論、より適切には、論理的帰結関係を扱うというものである。. . . たしかに、これが正しい見解 である。. . . 論理学が、文から文への移行のもつ特性に関するというよりは、文や真理のもつ特 性に関するものであると考えることは、論理学ならびに哲学に有害な結果をもたらしてきた。」 M.Dummett, Frege: Philosophy of Language. 1973. pp.432f.

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存在していない部分があるという可能性も無視できない10 つまり、「正しい推論」ならびに「誤っている推論」という概念の外延は、 いかなる論理学的理論からも独立に指定することはできないと思われる。理 論による規格化(regimentation)は不可避である。そして、規格化を通じて、 論理学的理論自体が規範的に作用する。

7

だが、論理学的理論の任務が「説明」にあるということは果して正しいだ ろうか。 論理学的理論が説明的理論であるという結論へ導くひとつの魅力的な考え は次のようなものである。 人々が論理的能力を有していることは、人々が推論を行い、何が正しい推 論で何が誤っている推論であるかを(ある程度の範囲で)判定できることか ら明らかである。比較的単純な推論に限るならば、一般に、ひとは、これま で出会ったことのない推論であっても、その正誤を判定することができる。 それは、ひとが正しい推論と誤った推論のパターンを何らかの仕方で暗記し ていて、それとの照合によるとは考えられない。つまり、ひとは、ある種の 構造化された論理的能力をもっていると推測することが許されるように思わ れる。論理学的理論のめざすべきところは、こうした構造化された論理的能 力のモデルを構成することである。このモデルは、人間のもつ論理的能力の 説明を与えるものとなろう11。 だが、こうした考えの難点は、それが論理のもつ規範性を失わせることに ならないかという点にある。たしかに、こうしたモデルは、可能な推論の全体 を「正しい推論」というレッテルを貼られたものと「誤った推論」というレッ テルを貼られたものとに分類する。しかし、そのときには、「正しい」「誤っ ている」という語は、もはや規範的なものではなく、記述的なものとなるの ではないだろうか。それとも、論理のもつ「規範性」とは、実のところは、 「人々のあいだでの一致」ということ以外に求められないのだろうか。 論理学的理論に対するプラトニズム的見方(5 節)に対して、それが論理 の規範的性格を捉えられないのではないかという疑惑を禁じえないのと同様 10そうした例として、多重様相がかかわる推論を挙げることができる。たとえば、「p は必然 的である」から「p が必然的であることは必然的である」を推論することは正しいか(これは、 S4では許されるが、T では許されない)、あるいは、「p」から「p が可能であることは必然的で ある」を推論することは正しいか(これは、B では許されるが、S4 では許されない)、といっ た問いに対して、人々の間の合意が存在しているとは思われない。(もちろん、こう言うことは、 何らかの理論的考察を通じて、こうした推論の正誤に関しての人々の間での合意が形成されると いう可能性を否定するものではない。) 11論理学的理論に対するこうした見方と文法理論に対する現在でも有力な見方とのあいだの アナロジーは、最近の言語哲学(ふたつだけ名前を挙げるならば、チョムスキーとデイヴィドソ ン)についての何らかの知識をもっている読者にはいやでも目につくはずである。論理学的理論 に対するこうした見方が仮に可能であるとしたときに、問われなければならない最大の問いは、 論理的能力が実は言語的能力の一部なのではないかという問いである。

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に、論理学的理論を人間の論理的能力のモデルと見なそうという「心理主義」 的見方にとっても論理の規範性は困難な問題として現れると思われる。

8

論理学的理論に対するもうひとつの見方は、論理学的理論を、われわれが 推論を行う際に利用できる道具(オルガノン!)と見なすものである。先に も触れたことであるが、われわれの多くが自らの経験から知っているように、 推論の正誤の判定は、問題となっている推論がいくらかでも複雑になれば、 容易ではなくなる。われわれのだれもが、いわば「初等的な」論理的能力は もっているとしても、この能力だけでは何らかの人工的な助けなしには遠く まで行けないというのは、説得的な考えではないだろうか。 論理学の規範性についても、この観点からある程度満足の行く説明を与え ることができるように思われる。まず、道具としての論理学的理論は、「初等 的な」論理的能力の及ぶ範囲では、人々のあいだでの正誤の判定を尊重する。 ただし、推論が複雑になってきて、初等的な論理的能力だけでは間に合わな いようなところでは、単純な推論の場面での判定と矛盾しない形で、道具と しての有効性を発揮するために「規格化」を押し進めることが許される。こ うして、論理学的理論を道具と見なすことは、それが対象とする現象におい て既に存在している規範性を尊重するだけでなく、論理学的理論によっては じめて導入される規範性の余地を残す。

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論理学的理論を説明的理論と考えるか、それとも、推論のための道具と考 えるか、この点についても、現在の私には確答がない。だが、どちらの立場 を取ろうとも、論理学的理論は、最低限、ある範囲の推論を正しい推論と誤っ た推論の二種類に分類することができなくてはならない。そして、その際に 取られる手続きは、どのような論理学観を取ろうとも、ある程度までは共通 であると言える。 まず、論理学的理論による推論の分類は、単に、正しいとされる推論のす べてを書き上げたようなリストの形で与えられることはできない。 論理学的理論が、それによって正しいとされる推論をただ列挙するだけで は済まない第一の理由は、同一の文法的カテゴリーに属する句から、まった く同じ仕方で構成されている文から成る推論が無数にあることである。例を 挙げよう。p と q が文という文法的カテゴリーに属するとする。

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pならば q pq という形の推論は、文が潜在的に無限個ある以上、無数にある。 したがって、論理学的理論は、個々の推論を直接に扱うのではなく、それ を、ある推論パターンの事例として扱うことになる。推論パターンを見いだす ために必要な手続きは、文法的カテゴリーの特徴づけと論理語の特定である。 理論は、まず、推論に現れうる文がどのような構造をもつ文であるかを明 示することから始めなくてはならない。そのために必要なのは、ひとつの例 外を除いて、文に現れうる個々の語を特定することではなく、語をいくつか のクラスに類別することである。文には、語よりも大きいが文全体ではない ような単位、すなわち、句が存在する。そして、語の分類だけでなく、句の 分類が、たいていの場合には必要となる。こうした句の分類が「文法的カテ ゴリー」への分類と呼ばれる。 ところで、ある種の語は、推論にとって特別の重要性をもっている。それ は、一般に「論理語」と呼ばれる種類の語である。大部分の論理語に見られ る特徴は、それが、繰り返し適用されうる(iterable)ことにある12。論理語 に関してのみは、それが実際にどのような語であるかを特定する必要がある。 そして、これが先に言及された「ひとつの例外」の場合である。 以上が、論理学的理論が、その理論が正しいと見なす個別的推論全体のカ タログではありえないことの理由である。論理学が「形式論理学」でしかあ りえないことには充分な理由がある。論理学的理論が扱うのは、個別的推論 そのものではなく、個別的推論がその具体例となってる推論パターン、つま り、「形式」なのである。 では、論理学的理論は、個別的推論のカタログではありえないとしても、 それによって正しいと宣言される推論パターンのカタログとなるのだろうか。 これも決して事実とはなりえないことが容易にわかる。すなわち、相異なる 個別的推論が無限に多くありうるだけでなく、推論パターンそのものに関し てもその数は無限である。もっとも簡単な例として、次のような系列を考え れば、このことは納得できよう。 12iterationが可能であることは、論理語であるための必要条件でもなければ —同一性(iden-tity)を考えよ— 、十分条件でもない —形容句「赤い」は無制限な iteration が可能である。し かし、依然として、iteration の可能性と論理語のあいだには何らかの関連があるように思われ る。もしも論理語とされるもののなかに iteration を許すものがひとつも存在しないとすれば、 複雑な推論を構成することは不可能となり、わざわざ「理論」を考案することはほとんど必要な くなるであろう。もっと「野心的」な形で、論理語と iteration とのあいだの本質的関係を打ち 立てようとする議論は、人々の論理的能力の一部として、潜在的に無限にある推論の正誤の判定 能力が含まれているという仮定から出発する。人間の能力が一般に有限であるならば、論理的能 力もまた有限であろう。よって、潜在的に無限個ある推論に対処できる有限的能力を可能とする ものとして、何らかの再帰的装置が存在し、それが論理語の iteration であると結論できよう。 この議論が 7 節で考察したような立場と密接に関連していることは自明であろう。

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pならば q pq pならば q qならば r pr pならば q qならば r rならば s ps . . . 論理学的理論は、無限個ありうる正しい推論パターンを組織的な仕方で特 徴づけることができなくてはならない。こうした特徴づけを達成する方法と しては、少なくともふたつのものがある。 ひとつは、少数の推論パターンを「原始的推論パターン」として最初に列 挙したうえで、原始的推論パターンの(繰り返しを許す)組合せとして、正 しい推論パターンの全体を獲得しようという方法である。 もうひとつは、正しい推論パターンのすべてが、そしてそれだけがもつよう な性質を探し、そうした性質を備えている推論パターンが正しい推論パター ンであるとする方法である13。たとえば、古典命題論理において真理表を用 いて前提から結論が帰結するかどうかを調べるような場合には、この方法が 用いられる。 (決して厳密ではなく、ごくおおざっぱな意味であることを強調しなけれ ばならないが、前者は「証明論的」方法に対応し、後者は「意味論的」方法 に対応する。)

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さて、ある論理学的理論が、他の論理学的理論よりもすぐれているという ことは、何によって決まるのだろうか。 13しかし、厳密なことを言えば、この特徴づけを字義通りに取れば、それは、前者の方法をも その一部として含むことになってしまう。すなわち、「原始的推論パターンの繰り返しによって 獲得される」という性質もまた、正しい推論パターンのすべてが備えている性質と言えるからで ある。本文で言及されたような区別を厳密な仕方で定式化することは、先の課題としておこう。

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推論の外延に関する限りでは14、最上の論理学的理論とは、正しいと認め られている推論の全体を、また、それだけを正しいとするような帰結をもつ 理論である、ということになろう。しかし、もちろん、事態はこれほど単純 ではない。先にも述べたように、「人々が正しいと認める推論」というものの 外延が、いかなる論理学的理論にも先だって確定していると考えることはむ ずかしい。つまり、「正しい推論」という概念の外延は、いかなる論理学的理 論からも独立に指定することはできないと思われる。理論による規格化は、 不可避である。 だが、論理学的理論の構成は、正しいと認められる推論の全体をまず確定 したうえで着手されるわけではない。そのことは、正しいと認められる推論 の「全体」というものが、理論以前には確定できないということもひとつの 理由であるが、実際上の問題として、理論の建設者が視野に収めることので きる推論の範囲というものが限られたものであるということに起因する。 理論家は、理論構成を始める前に、ある限られた範囲の推論に関して、正 しい推論と誤った推論との区別を所有している。そして、この限られた範囲 に属する推論に関して、前理論的な分類と大綱において合致する判定が結果 するような理論を構成することを理論家は目標にすると言ってよい。つまり、 理論構成に先だって、とりあえず立てられている正しい推論と誤った推論と の部分的区別が、論理学的理論にとってのデータであると考えることができ る。このような「データ」として与えられている推論を「パラダイム的推論」 と呼ぶことにしたい。 こうした推論を「データ」と呼ぶのは、それが理論構成に先だって与えら れていることによるだけであって、いかなる理論によっても必ず尊重されな ければならない「不可侵性」を備えているということを意味しない。「デー タ」そのものが、そこから出発して構成された理論によって改変される— た とえば、とりあえず正しい推論と認められていたものが、実は誤った推論で あったと理論によって宣告される— ことは、十分にありうることである。

11

論理学的理論構成の出発点となるパラダイム的推論について、私が主張し たいことは、次の三点である。 1 パラダイム的推論は、理論に応じて異なりうる。 14人々が長い熟慮のすえにようやく正しいと認めるような推論も、もちろん、「正しいと認め られている推論」の外延に属する。しかし、正しいとしても、人々の多くが決して自明とは見な さないような推論のステップを原始的推論規則として採用することを許す理論ははたしてすぐれ た理論であると言えるだろうか。こうした問いは重要であるが、ここでの考察は、正しいとされ る推論の外延との適合性という観点が論理学的理論の優劣を決定するための要因を提供するかと いう問題に的を絞る。13 節参照。

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2 しかし、パラダイム的推論は、ある特定の主題・分野と結び付けられた ままのものではない。パラダイム的推論は、特定の主題・分野との結び 付きから自由となる形で、より包括的な推論のクラス(拡大されたパラ ダイム的推論)にまで拡張されうる。 3 このように拡張されたパラダイム的推論は、可能な推論全体のなかで のある限られた範囲を覆うものでしかないが、それにもかかわらず、そ の数は有限ではなく、無限である。 まず、具体的な個別的推論の集まりとして見られたときに、理論家が出発 点として取るパラダイム的推論が、異なる理論家に応じて異なることは当然 である。どのような知的分野に属する推論に理論家の関心が向けられるかに よって、パラダイム的推論は異なるものとなる。たとえば、アリストテレスに とってのパラダイム的推論とは、アリストテレスに知られていた「科学」の 体系的提示に出現するものであり、それは、典型的には、各々の「科学」を 定義づける「類」の本質を表現するためのものであった。これに対して、フ レーゲにとってのパラダイム的推論とは、数学的証明における推論であった と言ってよかろう。 しかしながら、論理学的理論は、個別的推論を直接扱うものではなく、個 別的推論が提示する推論パターンを扱うものである。よって、パラダイム的 推論もまた、ある一定の推論パターンを具現しているものとしてのみ、論理 学的理論の対象となる。推論パターンが問題である以上、その具体例がどの ような知的領域において見いだされた推論であるかは、推論パターンがいっ たん抽出されたあとではとりたてて問題にしなくともよい。すなわち、論理 学的理論の出発点となったパラダイム的推論が、もともと生物学から取られ たものであるか、それとも数学から取られたものであるかは、もはや不問に 付してよい。 そうすると、理論家の考察の出発点となるパラダイム的推論の数は有限で あるとしても、そうした推論がある一定の推論パターンを提示するものと見 られることによって、パラダイム的推論の数は無限となりうる。 考察の出発点に取られるパラダイム的推論のクラスを Γ0 としよう。(パラ ダイム的推論は、正確には、推論のクラスの対 < Γ0, ∆0>,によって特徴づ けられるべきである。ここで、Γ0はパラダイム的に正しいと認められる推論 のクラス、∆0 はパラダイム的に誤りであると認められる推論のクラスであ る。話を簡単にするために、ここでは、Γ0だけを考えることにする。)Γ0は 有限であってよい。パラダイム的推論が呈していると考えられる推論パター ンが抽出されるならば、Γ0はふた通りの仕方で拡大される。第一に、Γ0に属 していないが、抽出された推論パターンと同一の推論パターンを呈する推論 を Γ0 に付け加えることができる。第二に、推論パターンは一般に不定回繰り 返し適用できる。よって、Γ0から抽出された推論パターンの不定回の繰り返 しを許す組合せによって生ずる推論もまた、Γ0に付け加えることができる。

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以上をまとめると、理論家は、当初に取られたパラダイム的推論のクラス Γ0から、次のような手続きによって、パラダイム的推論のより豊富なクラス Γ1 を得ることができる。 Γ0 → 推論パターンの抽出 → Γ1 (以下では、Γ1 を「拡大されたパラダイム的推論」と呼ぶことにしよう。)

12

パラダイム的推論から出発して論理学的理論を構成することは、9 節で記 述された手続きに従ってなされうる。 第一に、パラダイム的推論に出現している文の構造を明らかにして、そこ に本質的に関与している論理語を特定する。このことによって、パラダイム 的推論がどのような推論パターンの事例であるかを明らかにする。この過程 は、Γ0から出発する。推論パターンの抽出がもっぱら理論的作業である以上、 同一の Γ0 から出発する理論であっても、そこからどのような推論パターン を抽出することになるかは、理論に応じて異なりうる。その原因として考え られるもののなかでも重要なものは、文の構造についての理論的見解の相違、 ならびに、何を論理語として選択するかについての見解の相違である。よっ て、Γ0から、より豊富な推論のクラス Γ1への移行は、理論に応じて異なり、 その結果生ずる Γ1 の外延も異なりうる。 第二に、こうして抽出された推論パターンを体系的に特徴づけることが必 要である。これには、ふたつの方法がありうる。 ひとつは、正しいと認められる推論パターンのうちの比較的単純なものか ら出発して、それらの繰り返しによって得られるものが、理論が正しいと認 める推論の全体であるとするものである。 もうひとつのやり方は、拡大されたパラダイム的推論全体(Γ1)が共有し ており、誤っていると認められるパラダイム的推論(∆1 — ∆0 から何らか の仕方で得られると考える)には欠けているような性質を、理論が正しいと 認める推論一般のもつ性質であるとする仮説を立てることである。 いずれの方法によっても、こうした体系化の結果は、拡大されたパラダイ ム的推論のクラス Γ1とは異なりうる推論のクラス Γ2が生ずることである。 クラス Γ2が、論理学的理論 T によって正しいとされる(妥当な)推論の全 体である。 Γ2 は、必ずしも、Γ1 を包含するものである必要はない。なぜならば、体 系化とそれに伴う規格化によって、Γ1 に属するため当初正しいと思われてい た推論が実は誤りであると宣言する自由を理論が所有しているためである。 (理論による改訂は、拡大される前のパラダイム的推論 Γ0 に対しても及びう

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る。)しかし、Γ2 が Γ1 (ならびに Γ0)からあまりにかけはなれたものとな ることは、普通、許されることではあるまい。 そうすると、論理学的理論の構成の過程においては、推論の三つのクラス が登場することになる。図示すれば、次の通りである。 Γ0(パラダイム的推論) ↓ 推論パターンの抽出 ↓ Γ1(拡大されたパラダイム的推論) ↓ 推論パターンの体系的特徴づけ ↓ Γ2(妥当な推論) Γ0、Γ1、Γ2はすべて具体的な推論から成るクラスであり、それに属する推 論は何らかの自然言語で表現されていると考えてさしつかえない。しかし、 推論パターンの抽出、その体系的特徴づけのためには、何らかの形式的装置 が用いられるのが普通である。それは、(古代や中世の論理学におけるよう に)文法的カテゴリーを表示するための文字を用いるだけのことでもあれば、 (現代論理学におけるように)完全な形式的言語でもありうる。

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「パラダイム的推論」という概念をわざわざ持ち出した理由は、これが異 なる論理学的理論相互の比較のためのひとつの手がかりを提供できないだろ うかという期待にある。 論理学的理論の比較がどのような尺度によってなされるべきかという問い に対してまず返って来ると思われる素朴な答は、それができるだけ多くの範 囲の「正しい推論」を扱えるかどうかによって決まるというものであろう。も ちろん、ただこれだけの答ならば、どのような推論でも「正しい」と宣言す る理論が最良であるということになってしまうから、この答には、「そして、 明らかに誤っている推論を正しいとは認めないこと」という条件を付加する 必要がある。 ところが、「正しい推論」というものが理論とは独立に確定できないこと は、これまでにしばしば強調してきた事実である。そこで登場するのが「典 型的に正しいと認められる推論」という意味でのパラダイム的推論の概念で ある。もしもふたつの論理学的理論が、ほぼ同一の推論のクラスをパラダイ ム的推論として認めており、パラダイム的推論の範囲に限って、その扱える

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範囲に違いがあるならば、このことは、理論どうしの比較のための基準を与 えるのではないか。 もちろん、扱える推論のクラスの大小というものは、それだけでは比較の ための十分な基準とはなりえない。いま仮に論理学的理論を推論のための道 具と見なす立場を採用するとすれば、道具の優劣が、単に、その適用範囲の 広狭によるものでないことは自明である。その信頼性や扱いやすさといった 要因の方がはるかに重要となる場合もあろう。全体的比較はこうしたさまざ まな要因を考え合わせることによってはじめて可能となる。しかし、全体的 比較が可能となるためにも、そのための要因のひとつである適用範囲に関し て、比較のための他の要因から相対的に独立である何らかの基準が立てられ うるかどうかを考察する価値は十分にある。

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しかし、結論を先に述べるならば、残念ながら、ひとつの論理学的理論が カバーしうる推論の範囲という観点のみから立てられた基準は、理論相互の 比較においてほとんど無力である。 12節でまとめられた図式を見るならば、Γ0 から Γ1、Γ2と行くにつれて、 理論への依存度が強まっていることがわかる。 たとえば、Γ0 に次の推論 (1) が属しているとしよう。 (1) 雨が降っているかまたは雪が降っている 雨は降っていない ∴ 雪が降っている いま、理論 T の主張の一部に、文という文法的カテゴリーが存在すること、 「または」と「ない」は論理語であるということが含まれており、かつ、T に よれば、(1) の推論パターンが (2) pまたは q pでない ∴ q で表されるとしよう。そうすると、T に従って構成される Γ1 には、たとえ ば、次の推論が含まれていることになる。 (3) 雪は黒いまたは2+2=5 雪は黒くない ∴ 2+2=5 これに対して、別の理論 T′ によれば、主語および述語という文法的カテゴ リーが存在し、(1) の推論パターンは、(2) によってではなく、次の

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(4) S1は P であるかまたは S2は P である S1は P でない ∴ S2は P である で与えられるとする。そうすると、(3) は、推論パターン (4) を示すものでは ない —第一の前提は述語 P を共有していない。よって、(3) は、それが Γ0 に属する (1) 以外の推論から別の仕方で導かれない限り、T′に従って構成さ れる Γ1 には属さないことになる。 つまり、文法的カテゴリーの特定の仕方や論理語の選択に相違があるなら ば、同一のパラダイム的推論のクラス Γ0 から出発するとしても、拡大され たパラダイム的推論のクラス Γ1は、理論によって異なりうる。 Γ1 には属さないが、Γ2に属するような推論がどのような仕方で出現する かは、次のような例によって説明できる。 Tが、推論パターンとして、(2) の他に、次のふたつを正しいものとして認 めたとしよう —つまり、T によれば、推論パターン (5)(6) の具体例であると 解釈される推論が Γ0に属していたとしよう。 (5) pかつ q (6) p ∴ p ∴ p または q そうすると、三つの推論パターン (2)・(5)・(6) を組み合わせることによって、 次の推論パターンも正しいことがわかる15 (7) pかつ p でない ∴ q そうすると、たとえば、 (8) 雨が降っていてかつ雨が降っていない ∴ 2+2=5 が、T によれば、正しい推論として Γ2に属することになる。 この例が適当だと思われるのは、(8) が当初のパラダイム的に正しいと認 められる推論のひとつである((8) が Γ0に属する)ということがありそうに ないからであり、また、(8) の「妥当性」が、単一の推論パターンとして初め から認められるよりも、いくつかの推論パターンの組合せによって認められ る16というのがいちばん自然に思えるからである。 15このことは、次のような仕方で示すことができる。 a. pかつ p でない b. p (5)により c. pまたは q (6)により d. pでない aから (5) により e. q cと d から (2) により

この論証には興味深い歴史がある。たとえば、次を参照されたい。Stephen Read, Relevant

Logic. 1988. pp.31f.

16もうひとつの考え方は、たとえば真理関数的テストで (8) が正しい推論とされるとすること

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Γ1 および Γ2が、このように高度に理論依存的であるとすれば、「データ」 との適合性という観点のみから論理学的理論を比較する望みは、もっぱら Γ0 にかけられることになろう。 ところが、多くの場合、Γ0の次元では、理論どうしを直接に比較すること はできない。推論パターンの抽出をまってはじめて、個別的推論に現れる具 体的語彙への依存を無視することができる。よって、多くの場合、理論どう しの比較は、Γ1 の次元ではじめて可能になるということになる。ところが、 すでにここでも理論への依存度は、きわめて高いものがある。文法的カテゴ リーについての見解、論理語の選択、こうした考慮をまきこまなければ、Γ1 に到達することはできない。 Γ0 の次元での直接的比較が唯一可能と思われるのは、Γ0 を部分的に共有 する理論の場合であろう。たとえば、理論 Ta と Tb に関して、Ta がパラダ イム的推論として認めるクラス Γ0a と、Tb がパラダイム的推論として認め るクラス Γ0b とのあいだに、 Γ0a> Γ0b という関係が成り立っているとすれば、Ta の方が Tb よりも包括的なパラ ダイム的推論のクラスをもっているのであるから、その点に関する限りは Ta の方が Tbよりもすぐれていると結論できるように見える。 しかしながら、こうした結論はもちろん早急に過ぎる。なぜならば、理論 Tb の信奉者には、理論 Ta のパラダイム的推論であるが理論 Tb のパラダイ ム的推論とはならない推論が実は誤った推論であると抗弁する可能性が残さ れているからである。 そう主張する根拠としてはいくつかのものが考えられるが、もっともあり そうなケースは、次のふたつである。 1 Taだけによってパラダイム的推論と認められる推論は、必ずしも「誤っ た推論」とは言えないが、論理的に正しい推論ではない。たとえば、Ta は、論理語ではない語を誤って論理語に算入してしまったために、論理 的に正しい推論の範囲を多めに見積ってしまったと抗弁することが可能 である17 2 Ta だけによってパラダイム的推論と認められる推論は、端的に誤って いる。そうした推論を正しいと認めるならば、他の正しい推論と組み合 わせることによって、明らかに誤っている推論に導かれることが示され ると主張できる18 17こうした主張のひとつの例として、「必然的に」「可能的に」といった語は実は論理語ではな いのであって、「様相論理」は本来論理とされるべきではないといったものを挙げることができ よう。 18たとえば、relevant logician は、このような議論を用いて、古典論理が正しいとする推論 を誤りであるとする。註 (15) 参照。

(17)

前者のような反対は、論理語の選択にかかわる以上、Γ1の次元での議論を

まきこまざるをえない。他方、後者のような反対は、たぶん Γ2 の次元での

議論まで進まざるをえまい。つまり、論理学的理論の場合においても、理論 に比較的中立的であるような視点を確保することはきわめてむずかしいこと が判明するのである。

参照

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