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高等学校国語教育の現状への疑問と提案(続編)

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(1)Title. 高等学校国語教育の現状への疑問と提案(続編). Author(s). 谷口, 巌. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 18(2): 137-147. Issue Date. 1968-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4574. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第倍巻 第2号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和43年3月. 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 (続編) - 特に国語学的知識教育 の面にも触れて -. 谷. 口. 巌. 北海道教育大学函館分校国語科教室. lwao TANIGUHI : Solne Doubts and Proposal 〔 s about the Teaching M ethods. of 五わた錫goin the High School of To-day (PART 江). 前々号 (北海道教育大学紀要・第一部C・第十七巻・第二号) にのせた 文 章 の 論旨を受け て, 同一標題のもとに稿を書き継ぐ. 「続編」 と称するゆえんである.. 5.. 改 革 へ の 略 地 図. 「現代国語」 教科書系統化 への試み 高等学校での国語教育の現状について, 現行の 「教科書」 の内容や構成を話題に しながら それ , に対する私的な 「疑問」 (批判) を述べる という形で これま で論をはこんできた さて その間 , . , の 考察の過程において, 今後の改革の方向への 「提案」 に類することも すでに部分的には述べて , きたので はあるが, 以下にそれらを総合 しつつ 筆者の考える 「略地図」 を提出 してみた い , . まず 第一に, 教科書を内容別になるべく合理的に系 統化する必要がある 言 てみれば 「縦割 . っ , り」 の分冊形態である. たとえばどんな系 列化が予想されるか. すでに して 「古典」 は, ( 1) 古文, ( 2 ) 漢文, の二系列に分冊化するのが, 過去 (明治以来) の伝 統でもあっ た し, 現在 (戦後ふたたび 特にここ数年来) の趨勢 でもあるが 戦後新登場の現 , , 代国語につ いても, その全体を大きく 見渡すとき やがては次のような教科書の系列化・分冊化が , , 教授や学習の効果や能率の 点から言っ て, 考えられてくるものと思われる 即ち ( ) 実用的方 。 , 1 2 面, ( 3 ) 文学的方面, ( ) 言語的方面, の三つがこれである. o l ) 実用 的方面の教 科書は 手紙の書き 方 原稿の書き方 電話のかけ方 会議の進め方 と ( , , , , , いっ た, 言語生活一般につ いてのくHO W TO >を述べる内容のもので 卒業 後も必要に応じて , 役 立つ よ う な, 簡 便 な ハ ン ドブ ッ ク と い っ た 体 裁 で あり た い ス ポ ー ツ の ル ← ル ブ ックを モデルと .. して 想定 してみてもよい. 実生活 で遭遇する 言語に関係 した 諸活動の 「場」 で 常に基本の心が , , まえともなり参考ともなり得るよ うな 心得や文例・事例等を なるべく具体的にのせるべき であ , , ろう.. 2o ( ) 文学的方面の教科書は, 読解関係の教材を盛る. この場合の文学という語 はもちろん広義 のと らえ 方をす る 訳 で , ・説だけでなく, 評論・紀行・日記等, いろいろな種類を含ん で考える. つ ま り, フ ィ ク シ ョ ン及 び ノ ン・ フ ィ ク シ ョ ンの 両 面 で あ る 前項 で 述 べ た 実用 方 面 の 教 書 が お 科 . そ らく は コ ンパ ク ト な 一 冊本 と な る の で あ ろ う の に 対 し こ の 類 の 「教 科 書」 は 数 冊 (あ る い は , ,. 考え方に よっ ては数十冊) といっ た豊 富・多彩さが予想される 論理を中心に した知 性的な見方と . , 感情の面を主と した 情緒的なとらえ方と, この二つを 訓練の大きな軸と して 文章の選択が はから , .

(3) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 (続編) れ る.. 30 ( ) 言語的方面 の教科書は, 現代の日本語の種々相及び過去からの発展の歴史につ いて, 説く 性質のものである. 一冊と してまと めることが可能であろう. 資料や図表等 も多く し, 場合によっ てはソノシート等 の音声教材をも併用する形式が考え られる. 目的 と しては, 国語 (日本語) への 客観的な 認識 を深めることにより, 自分が日常用いて いる言語への主体的な 興味と関心とを呼びお こ し, 国語を愛 し, 一生かけて 「己の言葉を磨く」 ような態度の人間を 作ることを意図する. 段階化と学年配当の考え方 さて次に, このような各系列の中で, 生徒にはできるだけ段階的に, 訓練や知識や体験を与えて ゆく手順を考える。 即ち今度は, 各教科書 (それはまた必然的に教師の指導計画) の, 必要に応じ た 「横割り」 の思想である, たとえばどんな予想が立てられるか. 2 ) 歴史的なつながり に応 じた 「) 領域的な 広がりに応じた処理法と, ( この際の割り方には, ( 処理法と, 大別 して二つの方法が考えられる。 事柄の難易度や, 生徒の現実経験や興味との相関度 に お いて, そ の いず れ に つ いて も 適 当 な 配 置 が 考 え ら れ る べ き だ ろ う.. lo ( ) たとえば実用的な教材は領域的な 性質をもつ. 従っ て内容につ いては, なかなかその順序 がたてにくいが, それでもある程度の配置は考えられていい。 「聞く・話す」 活動の分野か ら 「書 く」 活動の分野 へ, つまり 「電話」 の作法から 「手紙」 や 「議事録」 作製の方向へ, と いっ た展開 のさせ方。 あるいはまた,「記録」 的な活動 (記事や説明文) の方面から漸次 「創作」 的な活動(批 評文や論説) の方面へと至る展開, 等, 2o ( ) 文学的教材は原 則的に, 文学史の指導との関連にお いて, 歴史的な 配置に従う。 小説1, 虹, 皿, あ る い は明 治 編, 大 正 編 の よ う な 並 べ 方 を す る の で あ っ て, 人 生 ・ 芸 術 ・ 自 然, と い っ た. ようなゴマ切れ的な テーマ主義はや める. ただ しこの場合, 配列を常に明治か ら始 める必要 はない. む しろ高等学校の段階では, 文章の難易度から考えて大正期以降を先に し, 最後に明治 へ戻る考え 方もあろう. 作品選択に あたっ ては文学史的意義を取捨 の基準とはするものの, 単に 「普遍的な人 間性」 の, 見地にのみとどまらず, 「現代的な関心」 にもこたえ得る性質のものを選びたい. 特に, 評論 類の教材化に あたっ ては, この視点が重要 である. 30 ( ) 言語的な 教材につ いては, いわゆる 「共時論・通時論」 の考え方を反映 しつつ, 二つの立 場が対 立する. 即ち, 「国語要説」 とでも呼ぶべき, 発音・文字・語桑・語法等につ いての領域的 記述法によるものと, 「国語略史」 とでも言うべき歴史的記述法によるものとである. この場合, 両 者を組み合わせて説く と したら, 領域的な 記述 を基礎と し, その各々の分野において史的な 発展 のあとをふりか えり, 最後に現代語の諸相と将来 への志向・国語問題等にふれるのが適当と判断す る。 つまりこ の場合は, 前項でふれた文学的教材の, 史的配置を軸にその中へ小説・ 戯曲等の領域 的なものを含ま せてゆくやり方と, ほぼ逆な形を考える訳である。 そ してさらに, こういっ た系統別, あるいは段階的な配置 をほ どこされた教科書 を用 いるにあた ) いて思い切っ た っ ては, いたず らに形式的な連 続性にこだわらず, 学年間 (あるいは学期間 にお 「切りかえ」 の考え方を適用するのが大切である. 実用的教 材を, 特に理由もないまま三学年にわ たって引き のばす必要はない. 初年度に凝集させて後を省く方法もあろう. 文学的方面 の教材は学 年 ごとに各段階を完了させつつ全学年にわたって学習する. 言語方面の教材は, 国語学習のまと め の意味をもたせるものと して, 最終学年にこ れを置いて, 各自の言葉への反省と今後の努力のため の資料ともす る. たとえばこういう ような学年配当 の計画が立てられるべきである. この ような学年別 (あるいは学期別) の教材内容による切りかえは, 「古典」 の方面では, 実情 と してすでに現場に多く 例のあるところである, たとえば学校によっては文法 (古文) の学習を- -138-.

(4) . 谷. 巌. 年生の時に集中 し, あるいは文学史の授業を三年生の 時にまと めて実施するような形もある. この ような 経験が教える 「切りかえ」 方式の長所を, 「現代国語」 の方面にも適用 し, さらにはその上 に立っ て, 「現代国語」 「古典」 の両方面を包含する, 教科と しての 「国語」 の立場か ら, その全 体を有機的に組み立て直す作業(全体と しての系統化や段階化や細部の学年配当についての再吟味) が な さ れ る べき で あ ろ う. い わ ゆ る 「プ ロ グ ラ ム」 化 へ の 道 が そ こ に 開 け る.. ト学習の組織化 教室内学習と教室タ 今一つ 考えておきたいことは 「教室内」 学習と 「教室外」 学習との, 二つの学 習の 「場」 が成り 立ち得る (実際に存在 している) ことを意識 して, それに適 した場合場合による, 教科書の構成法 や指導法をとるということである. 学校における 「教室」 の特徴は, そこにまず学習者と しての 複数の生徒達がおり かれらの中心 , に指導者と しての教師がいるという形式である. この形式における授業の 形態と して は 大学にお , けるいわゆる 「講義」 と 「演習」 の形が, 基本のモデルと して考えられる. ただ し そこにはおの , ずから, 高等学校段階における特殊性が考慮されるべき であろう. 講義に類する授業形態と して は, 生徒各自が必ず 教科書を持っていることを 前提に して考えるな らば, その教 科書の記 載事項の 「解説」 「説明」 といっ たことが当然主眼となる. そう して その , 解説等のあとには, 常に生徒各自に 「作業課題」 が提出されるように計画されなければな らない . 課題の勉強は基本的には教室外 (図書館や自宅) の学 習の範囲に属する. 演習に相当する形式はこんな要領でおこなう. 教師か ら生徒に対 し, 個人的に調査 して報告すべ き事 項 (たとえば辞書をひいて語義を調べておくとか, 日常生活の場 における生きた言語を採取 し ておくとか), あるいは教室において皆で討議すべき事項 (たとえば一冊の 文学作品の教材を読ん で, その中で発せられている多くの設問に対する自分の答え方をノートに記載 しておくとか) が , あらかじめ提出されてある. それを基礎に教室では, 資料配布や板書や ロ答発表等の形式による , 徹底 した 「討論」 や 「吟味」 をおこなうのである. 教師はその討論の導き手となるの であるが こ , の 際大切なの は討論の結果ではなく, む しろそれに至る作業の過程である. 教師は生徒の提出する 報告や意見を, 言葉づか いや発声や論理の面につき随時に批評 し, 「君の用語 はそれでいいのか」 「もっと他に適切な 表現はないのか」 等と, じっくり反問 したり示唆を与えたりする. つまり, 教 室における 「解説」 (講義) や 「討論」 (演習) の, 発展となり準備となる作業を , 重要な意味をもつ 「課題研究」 と して教室外に位置づけるの であるが これを単なる 「心がまえ」 , の議論 に終わらせず, 実際的なものとするた めには 教科書の構成法に是非とも変革が加えられな , ければな らない. 即ち, 豊富な 「設問」 の, 教科書中における継続的・体系的な提出である この . 設問の解答のために, 実際の 授業以前に教室外で 生徒が相当の努力を払 てこないこ とには 授 , っ , 業を受けることそのものが 困難となるような それだけの意味をもつ 「現実性」 を この設問の部 , , 分に与えたいと考える. 数学の教科書の体裁やその授業法が この点につ いては一つのイ ←〆 ジを , 提供することになるであろう. 要するに, 教室内の作業に関する限り, 国語の授業なるものは 教師と教科書の介在なく しては , 考えられぬ方面につ いての 徹底 した知識主義 訓練主義 さらには同年輩の仲 間が組織的に同一場 , , 所 に あ っ て 初 め て 成 り 立つ 活 発 な 相 互 討 論 や 交 感 の 方 式 を も と と る べ き で そ う な て こ そ は っ , っ , ,. るか に効率的といえるであろう. 而 して 教室外の家庭生活や社会生活が 生徒の成長 に応 じて自 , , 然に与えるような言語経験に類するものにつ いては 実用 的教材のハ ンドブ ク中に基本事項を整 , ッ 理 して記載する程度にとどめ, 学校での実際の扱 いから は思い切 て除外する方向に向か てよか っ っ -↑59一.

(5) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 (続編) ろう。 「学校」 で しか出来ぬことを 「学校」 ではするのである。 「多読」 の意義 さて, 教室における授業が, このよう に訓練的・演習的色彩を濃く ,おびて, 設問の多いその教 科 書が生徒達に緊張感を与え, 読解作業もより一層の精読・吟味へと傾 斜 してゆく 一方では, はるか に自由にのびのびと, 多くの本を読むように, 生徒達に刺激を与えることを, 忘れたくな い。 しか し, それも生徒一般を対象と した 時には, まっ たくの放任では実績が上がらぬことが予想さ れるので, たとえばそれを助ける一手段と して次のようなことが考えられる. 広く文学・思想等の領域にわたっ て基本的な本を適当冊数選び, できれば学年ごとの三つの グル ー プに段 階づけ して, それらを補助教材シリ ー ズのような形で指定するか, あるいはまた独自な編 集を施 して出版 してみて はどうか, 安価に して携帯便利な文庫本新書版等の体裁が望ま しい. たと えば一案と して, 別稿 (「近代文学 演習叢書の構想」 ・語学 文学・第 五号) に示 したような 試み を 利用することも考えられる. さて, この選択がなされたら, 次には各作品につ いて簡単に解説 した 目録を作り, それを読書の 参考と して学年の はじめごとに生徒に与える. 教師はそのリ ストの中から適当なものを選び, でき れば月 に一冊程度の割であらか じめ指示 し , 全員 が読んだ時期を見はからり て, その内容につ いて 教室で自由討論させた り, 時には読書感想文をまと めさせた り等のことをする. いわゆる 「国語の力」 が, 言葉につ いての深い注意力や, 一字一句の鋭い分析能力とは 別に, 徹 底 した多読や濫読の習慣に支えられて 「肉体化」 してくる 実例を, われわれは 体験的に多く見て い る. この事実の意味を考えるならば, やはりわれわれは, 「多読主義」 を国語教育の場でも方法化 しない訳にはいか ない。 具体化の方法は いるいるあろうが以上はその一案である, 書物の選定にあ たっ ては, すでに図書館関係者にその種の試みがあるのを参考にできよう し, 出版社の方面でも, そ の よ う な ね ら いに た っ た 一 連 の 書 物 を 用 意 して い る と こ ろ も あ る。. 「現代国語」 の内容は, 「聞く・話す」 「読む・書く」 のすべての方面にあるとされる が, だか らといって, これらを常に同一平面に並べて, 並行的・等価的に扱おうとするのは, 必ず しも正 し くはない, たとえば 「聞く・話す」 方面の教育は, 高等学校の場合, 原則的には, 以上に述べてき た分析 的読解や多読経験の後にくる, 質疑や討論の場に重ね合わせて実施することの方 が, (「話 す.聞く」 ことにつ いての純粋な基礎 訓練の方面を別とすれば) 現実的でもあろう. つま りこの場 合は, 「読む」 ことの基本作業の上に 「聞き・話す」 ことがくるのである. 「書く」 ことの教育につ いても, やは り同様の位置に, 実際の授業での指導過程 が考えられよう. つ ま り いつ だ っ て, 「読 ん だ」 こ と 「考 え た」 こ と の 実 際 の 内 容 の 上 に 立 っ て, 「聞 き ・ 話 し・ 書. く」 学習活動や訓練 がすす められるの が現実的であり, 有効であるのである. つまり, 「聞き・話 し・書く」 われわれの行為は, それが 「言葉」 による 行為である限り, 常に その 「内容」 を持 ち 「思想」 を持つ. 純粋に抽象された 「形式」 だけの 「聞きo話 し・書く」 訓練 というのは, 一般に偽善的であり無意味である。 そこに, それらの学習活動の基礎と して, 「読む」 こと, 特に多読主義の確実な意味があるのである. 三系列の教材の, 「量」 的な 比重の置きどころ は, 以 上 で お の ずか ら 明 ら か で あ ろ う.. 6, 「日 本 語 教 育」 の 視 点 国語についての科学・国語に対する愛情 ここで特に考えておき たいことは, 教科書は以上のような内容や構成をとると しても, それを扱 0- -14.

(6) . 谷. 口. 巌. う教師の中心の心 がまえは, どうあるべきかということである. 換言す れば, 教科と しての「国語」 の性格や意図をどこに求 め, その教育をどう進 めるかという, 大切 な 根本の 「姿勢」 の問題である. 結論から先に言え ば, まことに平凡な言 い方ではある が, 「日本人に対す る徹底 した日本語教育」 をこそ, その根底の理念と して求めたいと思う. 即 ち, 「国語につ いての 科学的教育」 がそれであ り, 同時にま たそれは, 「国語に対す る愛情を育てる教育」 ということでもある. 両者は本来密接 不可分なものと思われるのだ. 実は目下の学校に おける国語教育では, この平凡なこと が意外 に徹底 していないことを実感する. それは決 して高 等学校の場合に限っ たことではない. 「日本人な らば日本語は知 っ ているはずだ」 という自然習得論の上に 終始あぐらをかいて, その母国語につ いて深く 認識 し, 反省 し, 自己のそ れをさらに磨くた めに, 意識的に訓練を重ね努力す る--そう いっ た国語愛, 国語尊重の気風 が実 に希薄である. ただに生徒や一般人のみでなく, いわば本職の 「国語」 教師といえども, その点に おいて徹底 した意識 をどれほど持って いるか, 疑わ しと思われる面も無いではない. 恐らくはそう いっ た根本の考え方 が原因となって, 国語教育の世界には, すでに述べたような 訓 練主義の不徹底, 知識主義の敬遠のような 現象 が生じてきた のであろう. しか し, これこそは現在 の国語教育の, 見逃すこ とのできない病弊である. この批判的視点に 立って現状を評する時, きわ めて大まか な言 い方ではあるが, さ しあた り次の ようなことが, 今後の方向と して指摘されなければなるま い. まず小・中学校ま での段階においては, 基礎的であり同時に実用的でもある国語技術の訓練 (ト レーニ ング) が, 真に徹底 しておこなわれる必要がある. 即ち, 正確明瞭な個々の音の発声練習や 間 (ま) のとり方に始まる話 し方の法, 詩や文章の美 しい朗読法, 現行の教育漢字の範囲から拡げ てせ めて当用漢字の全域にわたる程度の量の確 実な 文字力, 基本的な 語暴力, さらには言葉のきま りにつ いての実際的知識等, それらの指導過程や指導技術が, 段階的・計画的に研究, 編成され, 教室にお ける反復訓練によって 体得されねばならない, 一例をあげるならば, 高等学校に入ってか ら後も当用漢字の学習 が漠然と予定されており, しかも卒業時になおそのすべて を憶える必要な し とする現行指導要領の方針などは, まことに不合理かつ卑屈なものと言わねばなるま い. この点に 関 して の実情は, また別稿 (「高等学校の国語教育における現場の問題点」 ・人文論究・第二十四 号) で述べた通り である. 高等学校に おいて ももちろん, 小・中学校段階に引き続く訓練はありた い. た だ し そ の領域は 「話 し・聞く」 方面 より はより多く 「読み・書く」 方面へと比重を移すであろう し, より高度に思 想的 (知的にも情緒的にも) な 内容の表現理解を目指す性格 をおびることは当然であろう. そ して それらの訓練の中核をな すものは何といっても読解作業であり, そこにおける演習のあり方等につ いて はすでに述べた通りである. しか し, とりわけこの高等学校の段階に おける, 「日本語教育」 の精神の具体化と して は, 実技 的な 訓練の方面とは別に, 是非とも母国語の知的・科学的認識 の方面をとりあ げたいと思う, 生徒 の年令もまた, そういっ た考察に向く理解力や批判力の相伴う時期だからである. 即ち, 方法的に は, 母国語につ いての望ま しい 「知識」 を 「体系的」 に 「教科書」 と して提出 し, 教師はそれにつ いて解説 (講義) する立場をとる. いわゆる 「国語学」 的内容の主要点を, 積極的に 「国語につ い ての国民必須の知 識」 と して説く のである. 国語学と 「国語」 の教科書 明治以来, 近代国語学は飛躍的に発展 し, 数々の成果をあげてきた. だがその成 果はそのまま学 「一 r14.

(7) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 (続編) 界内に温存され, 国語教育の場に出 してこられることが比較的少なかっ た. その理由と して はいる いる考えられようが, 国民 一般につ いて国語の一通りの 実用の力をつけることを当面の 目的と し , あるいは文学 的情操の養成の面 を重ん じるあまり, 国語につ いて の知識教育などは後回 しに し 時 , にはそれをタ ブーの如く見るような消極的な考え方が, 国語学者の内部にすらあっ たという傾向を, 否定できぬように思う。 しか し学問は, その成果が人間日常の生活面に有意義に生かされて こそ存在意義を明確にする. ま してこ. の場合, 対象は 「言葉」 であり しかも 「日本語」 であるからには, 日本人なら誰一人と し て, 日常を通 じ, 一生を通じて, これと無縁な者 はあり得ない。 その意味ではすべての日本人が, 国語学の愛好者・研究者の資格を持ち得る. またそうなっ た時こそ, 真に国民的な基 盤において, 日本語の確実な美的・論理的な一層の 「磨き上げ」 (brush up) への動きが期待 し得るのである. それゆえに国語学 は, 決 してその成果を, 国語教育の場へ出 し惜 しみ して はならな い. 現状はその 点かなりに 不備・かつその知識の提出の し方も, 教科書を通 して見る限り, 十分に体系的とは言え な い.. いま, 文部省の検定を受けて, 高等学校用の 「現代国語」 の教 科書を作製 して いる出版社は 資 , 料 (「教科書目録」 ・文部省) によれば十五社であるが (昭和四十二年四月 現在。 ただ し, その三 年前においても事情は同じ), これらの出版社がそれぞれに, その編集者と して依頼 して いる人々 の顔ぶれを一覧する時, その中に国語学者, 言語学者の数が至って少ないことに, 驚かされる. 表 向きの主だった編集委員の構成の中に, その方面の人を含まない例も珍ら しく はな い. これはまた 「国語」 教科書と しては, まことに 不思議なことと言わなければなるま い. このような, 文学者や文学研究者偏重の, 編集者の実態を反映 してか, 教科書全体の教材の中で, 言語 (それについての一般論や, 各論的知識や, 歴史的説明など) に関する教材の占める割合は, 不当に少ないという観を免れない. もちろんそれ は, 学習指導要領の指示するところに忠実ならん と しての総花的編集の結果でもあろうが,・ざっ と見渡 したとこ ろ, 章のたて方の割合などからみて , せ いぜ いの とこ ろ で 十 分 の 一 と い っ た 見当 で あ る.. ようなわず かなペー ジの分 量をもって して は, 日本語の全領域 (文字・音韻……将来の国語 この・ 問題, 等々) にわたって, たとえその大要だけでも, 体系的に語ろうという企ては大変な困難にあ わねばならない. ま してさら に, 言語の本質というような方面にも話題 を及ぼそうとするならば , ペー ジの絶対量が足りないこと は明白である. しかもそれらの教材が 三カ年に分かたれた各教 科 , 書のあちらこちらに, 切れ切れに配されている実情を見る時, 「体系」 的イ ーメ ジは, 到底構成さ れそうにもなく思われる. その 「散漫」 なあるいは 「断片的」 なものが, 生徒達の学んで受ける一 般的な 「国語の科学」 の印象であり, 実は 「国語」 の教師達もまた, 多くはそれに近 い意識や知識 の範囲内にとどま っているのではないかと, 残念ながら疑えそうな 状態で ある. 前々号の稿に用 いた資料 (「教材と資料」 ・文部省) を今一度参照すると, 昭和四十年度当時, 「言語に関する教材」 (ただ しこの場合は, 知識 的方面だけでなく, 話 し聞き書くといった実践 的 方面につ いての解説文をも含 めての扱いであるが) の出度数が一番多い教科書 はE社のものとなっ ている. いまこのE社の最 近の版 (昭和四十 一・二年の新編) に よって, 言語につ いての一般論及 び日本語につ いての知識的記述といった性格をもつ教材の実態を例示すると, それに該当する部分 の標題とその中味の概略は, 次の如くである. 〔一年〕 日本語の特質 (金田一春彦) ……語順の問題をとりあげたもの 敬語 (岩 淵悦太郎) ……・ ・………敬語発生の歴史的基盤につ いて , 「うつく しい」 等の語義の変遷史 〔二年〕 日本語の年輪 (大野 晋) ……・ ・ ・ -142-.

(8) . 谷. 口. 巌. 福沢諭吉と国語の問題 (伊藤正雄) ……漢字制限と演説の話題 〔三年〕 こ と ば と 事 実 (S・1・ハ ヤ カ ワ) … … … 言 語 に よ る 「同 一 視 反 応」 に つ いて 言語とは何か (服部四郎) ………………言語の人類における役割の解説 12ペー ジに対 し, 以上の合計は74ペ ー ジとな っている < 注> 教科書本文の総合計8 このE社の教科書には, 別に参考資料 (付録) と して 「国語文化史表覧」 と称する表がつ け加え られており, 編集代表者に二人の言語学者, 国語学者の名 を連ねて いるだけに, 他の新工夫も あっ て, 言語的方面に関 しては, まず は編集の配慮の行き届いた 部類の ものと思われるのであるが, そ のような教科書に してなお, 内容は以上のような 程度にと どまるのが現状なのである. 日本語の知識教育についてのスケ ッチ つまり, ざっ と見ただけでも, ここには多くの基本的 (知識と思われる) 項目につ いての, 説明 や記述 が欠けている. 他の教科書の記述と比較対照 してみれば, いくらでも具体的に指摘できるで あろう. たとえば漢語と外来語 (C社), 上代日本語の八母音 (F社), アク セ ント (N社), 方 言 (0社) の問題など, 例をあげ始 めたらきりがない。 そ して他社の教 科書はま た他社の教科書で, それぞれに別の基本的項目を欠いているである. 要するに, かりに編集者にそれではいけないという不満の気持があると しても, ペー ジ数の絶対 量の不足がこういう結果を招いているのであろう. その点を考慮してか, たとえば 「明治以後の日 「学習の手びき」の項でいき 本語」 という概説風の文章のみをあげて,具体例は何一つ として示さず, なり 明治以後の日本語の「語桑や語法・音韻・文字・表記法その他の面」での西洋語の影響を具体的に 調べよ (K社) と, 生徒に対し注文をつ ける形の扱い方も出てくるのであるが, 自主的学習活動の すす めと はいわれもすることながら, これではあまりにも不親切, 非効率的な教科書のあり方と, いうべきではな いであろうか. 少なくとも解説型の教科書には, 今少し 「具体的」 な 親切さが欲し く, 卒業後も一応の 「参考書」 として残るに足るだけの, 「体系的」 な 構成が欲 しいの である. そこで筆者は, このような国語学的知識とその根底にある言語の問題とを, ま とめて一本とし体 系的に記述した教科書の必要を, 何と しても教育の場で想 定せざるを得な いのである. たとえば文 部省検定済の 「現代国語」 や 「古文」 とは別個に, 高等学校の教育現場では 「古典文法」 や 「文学 史」 の副教科書が, あきらかに存在し流通しているように. いま, その内容につ いて, 目次程度に構成の粗書き を示せば, およそ次のようなものが考えられ る であ ろ う.. 第一章. 言語と日本語. (言語とは何か. 民族と言語, 日本語の系統, 言語の要素-音韻・文字・語桑・文法. ……) 第 二章. 日本語の文字. (漢字の起 源と構成, 万葉仮名の用法. 平仮名・片仮名の発生. ロトマ字. 現代表記の実 態. … …). 第三章. 日本語の発音. (上代日本語の発音の特徴. 五十音図といろは歌. 漢字音の各種. 音韻の変遷. アク セ ン ト. … …). 第四章. 日本語の語莫. (和語の特徴と性格. 漢語の流入の歴史と影響. 西洋系外来語の流入, 現代用語の実態. … …). 第 五章. 日本語の語法 -145-.

(9) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 (続編) (外国語と比較したその文法上の特色-主語の性格・語順・論理性, 言語観と文法. ……) 第六章. 現代日本語の諸相. (敬語. 男性語と女性語. 口語と文章語。 方言と標準語. マス コミの影響-新聞・放送. ・…・ ・ ). 第七章. 日本語の将来. (国語問題の歴史と現況-漢字制限・現代仮名づかい・正書法. 外国語との関係. ……) この構成 は, いわゆる 「国語概説」 の類のそれと大同小異であっ て, 格段めずらしいものではな いが, あくまでも高等学校国語教育の全体計画の中で, 必須の 「教科書」 として編ま れるべき性質 の も の で あ る こ と を, 特 長 と し て 強 調 し て おき た い. いうな れ ば 将 来 の す べ て の 日 本 人 に 向 け て,. 母国語につ いて是非これだけは知 っ ていて欲しいと願う, 「日本語知識の心得帳」 である. 言語と思想的創造性 人によっ てはこの試みを, あまりにも知識偏重 (詰 め込み主義) の立場にたつものと, 批判する か も し れな い. し か し, 開 き 直 っ て いえ ば, 「国 語」 教 育 な る も の は, い っ た い今 迄 に ど れ ほ ど の. 「詰 め込み」 を, 自覚的・方法的におこなっ てきたと言えるであろうか, かっ ての低学年児童にお ける漢字学習の過大な負担や, 旧制中学等における漢文教育のあまりにも煩項な教材内容のイ メ← ジが, そのまま 漠然と 「詰め込み」 反対の風潮を形づくり, それが自動的に, 重要な 「国語の 科学 的認識」 という知識学習の方面につ いても, 反対の力となっ て作用 しているとした ら, このような 傾向は是非改められなければならぬことだと考 える. 国語につ いての知識は, 決して 「知識」 とし て の み と どま る よ う な 性 質 の も の で は な いか ら で あ る.. かりに, いま一歩ゆず っ て, 上述のような 「国語」 科における国語学的知識の提出が, 学習者 に おいて単なる 「知識」 のままに終わる 結栄になっ たとしても, 「他教科」 との比較において, それ がどれだけとが められる性質のことであろうか. たとえば現在, 高等学校 (普通科) で授けられて いる数学や英語, あるいは理科や社会の知識や技能は, かなりに高度なものであるが, いっ たいそ れだけ高水準のものが, 卒 業後の彼らの実人生にどれだけ生きたものとなっ て残るか, という可能 性や歩合を考えてみると,◆まことに疑わしい思いがおこる. 特殊な職 業の道を進んだ一部の者を除 いて, 大多数の者は, それらの知識技能の多くを活用せず, 次第に忘れ去り, 結局彼らに残るもの は, 文化の各方面に及ぶ漠然とした学習経験の記憶のみである。 その記憶の中に国語学的知識に関 してのそれがあっ たとしても, それは何ら不都合なことではないといえよう. そして 「国語」 科の 内容においては, 言語を用 いて作られたもの (たとえば文学) だけが文化ではなく, 言語そのもの も明らかな社会性を有し, 人間をして人間たらしめている価値ある文化だと考えられるのである. しかし, そのような消極的な 見地からだけではなく, はるかに積極的に, このことを支 持し推進 しなければならぬ根本の理 由があると, 筆者には考えられる. 即ち, 国語学的な知識を国民一般 に , たとえ一通りでも 科学的体系的に説くことは, 読解作業における精読的頭脳 訓練と相ま っ て 日本 , 人の今後の 「思想」 生活に, 大き な意味を生むことだと思うのである. 日本人として生まれたからには, 母国語との縁は, 精神と肉体との奥底においてつ な がる, 拒否 することのできぬ運命的な性質のものである, となれば, 積極的にこれに向かう姿勢 が必要となる であろう. かかる 時, 上述のような国語教育は, 国語に対する認識を国民的規模において深め, 必 ず や 母 国 語 へ の 愛 と ・ 自 己 の 日 々 の 言 葉 に つ い て の 反 省 心, 向 上 心 を生 み 出 す も の と 期 待 さ れ る. ,. 同じく, その言葉を<するどく ><やさしく>見つ める姿勢の中に, 確実で深い思考への契機 が庭 胎する. そこから真に 「独創」 的な思想 が生まれてくる可能性 がある ことも, われわれは信じ てよ かろう. それらのすべて は, 根本的に, 言語 (とりわけ母国語) に対する, 国民一般の層の厚 い関 -「44-.

(10) . 谷. 口. 巌. 心と心 がまえと, それを生み出す教育法のあり方にかかっ てくる問題 なのである。 あえて漠然と した 習慣的な 「国語教育」 の呼び名にかえて, この章を 「日本語教育」 と題して論 じた根本の意図もまたそこにある. 国語教育者 (またはその研究者) は, みず から思想教育者とし ての自覚の上に立っ て-- 「思想」 を教えるのではな い, 「思想を生み出す精神」 を教えるのであ る--積極的に国語教育 の一層の合理化とその実践とに励みたいものだと考える.. 7. 教師とそ の周辺に 残る問 題 国語教師の養成について 以上で, ほぼこの論の主要点は尽きるのである が, それに付随して, 当然考えられなければなら な い方面のことにつき, 問題点だけでも略述 しておきたいと思う, 即ち,「教科書」 を扱う 「教師」 の問題であり, それに授業の場を与える 「学校」 の問題である. 昭和四十年の四月 から九月にかけて, 筆者は当時勤務先の高等学校の三年生の一部に対し, これ まで述べてきた 「日本語の常識」 とでもいうような解説型の授業を, 約三十 時間にわたって試みた. 授業がまだ進行中である際からも, 生徒の生き生き した反応によ って, 漠然と予想したことではあ った が, 学年末におこな っ た ア ンケ ー トの結果は, このような 内容の国語授業に対する生徒の関心 度 が非常に高いことを, 事実として示した. 「自分が日本語につ いてほとんど何も知 ってはいな か ったことに気がつ いた」 「毎日の新聞やテ レビに接する自分の態度に新しい世界 が開けて 来た感 じ がする」 「今度も後輩のた めにこの種の授業を是非続けて欲 しい」 と, そういっ た類の感想 が続出 した の で ある.. やや話は手前味噌 めいて来た感 がある が, これに続けて筆者は自分の大変な恥の方も告白してお かなければならない. それは, 生徒 がいだいたのとま ったく同じような感想を, 授業をすすめな が らも, 実は 「国語」 教師である筆者自身 が身にしみて感じつつあったということである. 「自分は 今まで何と母国語の知識につ いて不勉強であっ たことだろう. しかも日本のお役所は, この自分に < 高等学校国語 一級 >の免許状を平然と与えて いる/」 -そもそもこの講義を始めた原 因というも の が, 国 語 につ いて の 知 識 ゼ ロ に 等 し い 「国 語」 教 師 の 自 己 を, 再 教 育 す る つ も り だ っ た の で あ る.. このような 「国語」 教師の存在することは, できることな ら筆者一人の例外に過ぎぬと考えた い のである が, 残念な がら, 筆者の見聞は, 他にも同類の教師が多くいるらしいことを教えている. 「国語」 教師自身の職業に対する自覚の乏しさはもとより責められなければならないが, このよう な 現情を作った原因の最たるものは, 当然, その養成の制度に帰せられるべき であろう. 戦前のこ とは詳しくも知 らな いが, 戦後の免許法にのっ とった, 大学の 「国語」 教師養成のた めのカリキュ ラムは, この方面につ いていたく不備なのである. 形式的な何単位かの講義, これまた形式的な何 週間かの教育実習, それだけが自分が 「国語」 教師になるた めのすべてであった.「日本語の系統」 の 各 説 の こ と な ど は, 岩 波 新 書 で 知 っ た の で あ っ た。 ま して も っ と 基 本 的 な こ と が ら に 属 す る,. 「日本語の母音や 子音」 の正確な発音のことなどは, およそ 訓練 を受けた経験など無いのである. これではいけな い。 いまここで具体案を展開するだけの準備は無いが, ともかく も今後の 「日本 語」 の健全な育成・発展を期待するならば, その中 核となるすぐれた 「国語」 教師を, 是非とも早 急に作らな ければな らな い。 それが第一の策である. 日本語につ いて確かな専門知識を持ち, また その教育のた めに熱情あふれる教師を, 続々と生むこと ができるよう, 大学の教師養成課程におけ る国語科教育の内容と方法と が再検討されるべきことを, 心から期待する。 なおその 問題 は, 当然, すぐれた 「国語」 教師を育てるた めに必要な, 大学における国語教育の -145-.

(11) . 高等学校国語教育の現状への疑問と提案 (続編) 教授者や研究者の実質を, 如何に して高めるかという課 題 に も 発展するであろう. 理論と実践と を総合するた めの 「実験校」 の設置や, それらを利用 した研 究者の 「イ ンターン制度」, あるいは 「実践留学」 の制度等, 考慮 したい問題 がいろいろとあることを指摘 しておきたい。 授業環境の整備について しか し , いかにすぐれた教 科書 ができ, いかにすぐれた教師が養成されたと して も, それらを 生 かす 「学校」 のすぐれた体制 が無けれは, 十分な 実効は上がらないのではないかと危ぶまれる. 具 体的にはまず, 学校内における各教 科への適正な 授業時間の配当であり, さらには必要に応じた教 育機材等の配置である. 国語の授業時間数の絶対量が不足であることは, 最近かなりの論者 が指摘するとこ ろである. 特 に義務教育の場合について, 戦前のわ が国の例とくらべ, また現在の諸外国の例とくらべて, その 増加が強く望まれている. このことはまた, 視点をかえて言えば, 他教科の授業時間数とくらべて, 戦後国語の授業時間数 が, 相対的に大幅に後退せ しめられているということで もある. 高等学校の 場合で も, それ は決 して例外で はない. 一つの資料 (「中学校教則大綱」 明治十四年) によれば, 当時のカリキュ ラムにお いて, 「高等 中学校」 (年令的に今日の高等学校にあたると思われる) での国語関係教科の授業時間数は, 全授 業時間数の4分の「を こえていたという, 今日の授業時間数を 「高等学校学習指導要領」 によっ て 見ると, その割合は5分の「 (あるいは6分の1) 以下であろう. 体 験 的 に 言えば, 一週六時間 (あるいは五時間) 程度の授業では, 現行の教科書といえども満足に消化できるものではない. さ らにそれに加えて, 「日本語」 の知識について独立 した教科書を 一冊扱うなどということは, まず 不可能と思えるのである. (筆者の実験の場合も, 正規の授業時間以外の枠を使ったのであった.) それゆえ, すでに述べたような 国語教科書 (従っ てまた指導法) の合理化をおこなった後 も, 授業 時間数不足の問題 は残るであろう. いやむ しろ, 国語教育全般の傾向 が, 先述 したような 徹底 した 「訓練」 主義に行けば行くほど, 授業時間数の増加は当然の要求と して, 「国語」 の側から出てく る に 違 いな いの で あ る.. これに対 して他教科から も, 時間増の要求 が強力に出てくることが予想される. しか し, ここに 至って時間数の適正な配当を決めるもの は, 決 して各科の 「力関係」 で あってはな らない。 それを はるかに超えて, 教育やあるいは文化全体の大所高所に立っ た 「哲学」 でな ければな らぬのである. 一国の文化の創造性を示す思想, その思想の根源を なす言語, そ してその教育の具体的実践である 教科と しての 「国語」 の認識-そこに思い至れば国語の時間数の決定は, 決 していい加減な他教科 との妥協の産物であってはならないのである. 「日本語教育」 的自覚に達 した教師の増加 が, 「国 語」 の内部からも強力な力となって, その主張を支 える筈である. だか ら と言 っ て, こ の こ と は, 国 語 教 師 一 人 一 人 の 授 業 時 間 数 の 負 担 が, そ のま ま ふ え る と い う. ことであってはならない. 方向はむ しろ逆である。 作文指導等の徹底 した実現を意図すればする程, 現在の高等学校教師の持ち時間は, 他教科に先んじてで も軽減をはかる必要 がある. 一週十五時間 以内, できれば十二 時間程度にとどめるの が理想であろう, 国語教師に限ったことで はないが, 現 在の高等学校にはいわゆる 「雑務」 が多く, その多忙さの犠牲になって, いかに多くのすぐれた潜 在能力を持ちひたむきな意欲を持った人々 が, 人間的な 「摩 耗」 状態に落ち入っていくことか。 こ のことを教育行政の衝に当る人はよくよく考えてみる必要 がある。 とりわけ, 日々の授業で「思想」 と相対する 「国語」 の教師において, この感は深く切実なのである。 思索と授業研究のための時間, さらに言え ば図書購入の研究費等 が, 当然に保証されなければならぬところである。 -146-.

(12) . 谷. 巌. 口. 教育機材の配置につ いて も, 今後は決 してこれを軽視 してはならない, もはやノートと黒板だけ の時代ではな いのである, 教材や資料〆作製のた めに能率よく活用できる複写機 (例えばゼロ ックス や トーシャフ ァックス 一これらは生徒作文の添作指導に も使い道 がある) . 万能幻燈機 (本の開 い た ペ ー ジを そ の ま ま 映 し出 せ る もの) 。 あ る い は 音 声 訓 練 の た め の テ ー プ レコ ー ダ ー 等. こ れ ら は. いずれも, 今後の国語授業にとっ て必需品となる 性質の ものであろう. 欲を言えば, 外国語教育の た めな ど と い う 二 次 的 な 目 的 以 前 に, ま さ に 「日 本 語 教 育」 そ の もの の た め に, ラ ン ゲ ー ジ ラ ボラ. トリ ーすら (特に地方の学校には) 必要な設備と思われるのである. それらはすべて教師の負担を 軽減 し, 授業計画を立体化・能率化 し, 飛躍的に教育の効果をあげることになるであろう, 諭ここに及べば, もはやこれは一学校内で解決できる問題では到底ない. 一国の政治, その文化 政策の根本にかかわる問題であろう. 一小論の触れるべき論点と して は, もはやその範囲 を逸脱 し た ものと言わなければなるま い. これ以上の論の発展はさ しひかえることとする. 但 し , 国語教育 の問題 を, その国語 教育の内部だけの 姑息な 技術論や実践論のみに とどめてはならぬという, 筆者 の気持は是非ともここで書きとどめておきたい, 論とは別な次元においても, 国語教師は, その教 育のた めの本質的な要求を, 常に己の外部へ押 し出 していくという態度を, 正当な権利と し義務と して, 忘 れ る べ き で は な い と 考 え る. お. わ. り. に. 最初に もことわ ってお いたことではある が, この論ではあくまで も現在の 「高等学校」 の立場を 主体に して, 国語教育のあり方への批判と提言とを述べた. 従っ て論点の中には, む しろ小・中学 校の段階におろ して論じるべき問題 あるいは大学の教養課程へと延長 して考えた方が適当な性質 の問題 が, おのずと含まれることになっ たかも知れな い. 筆者の視野の狭さからくる性急な意見の あ れこ れ に つ いて は, 識 者 の 御 検 討 をお お い に 得 た い と こ ろ で あ る.. な お, 前章の執筆最中偶然に, 池田弥三郎氏の 「言語教育への提言」 なる文章に目 が触れる機会 があった。 (「言語のフ ォークロア」 桜楓社) . そこ における氏の主張には (ごく一部を除いて) 全く同感であり, 筆者の論旨との類似に驚かされた次第だ が, この一書に限らず, 共感をおぼえた 書, 教えを受けた書は数多く, 枚挙に限り がな い. 従ってここでは, ことさらに 「参考文献」 なる ものはあげず, 筆者の感謝の念のみを書き添えておくことと したい. そのような 有形の書物からの 影響 もさることな がら, 無形の体験をむ しろより多く発想の土台と して, この考察は成り立ってい 「967.8.30 る の で あ る. ( ). 7- -「4.

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参照

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