上徳内― 堀田正敦の『観文禽譜』(十)
著者
鈴木 道男
雑誌名
国際文化研究科論集
巻
24
ページ
15-29
発行年
2016-12-20
URL
http://hdl.handle.net/10097/00120976
鈴 木 道 男 序 堀田正敦(1755 − 1832)の『観文禽譜』は質的・量的に江戸時代の鳥類図譜の最高峰であ るのみならず(鈴木 1990 参照)、当時の鳥学の水準(鈴木 1994 参照)、鳥の記述を介して和歌 を中心とする古典文学(鈴木 1995a)、当時の幕府周辺の博物学を中心とする学問の様相(鈴木 1995b, 2013)、正敦の内政・外交等に関する重要な情報(鈴木 1995b, 1998, 2000, 2002, 2003)、ま た化政期の学問の庇護者としての正敦像(鈴木 2002, 2013)を提示しており、本研究ではそれら に極力広い観点から様々なアプローチによって分析を加えてきた。本稿は、この内政・外交に関 するもののうち、特に 42 年間(1790 − 1832)幕府の若年寄を務めた正敦の北方行政と北方の鳥 研究に関する情報提供者についての新しい知見を示し、併せて『観文禽譜』その他の正敦の鳥に 関する記述をも再検討するものである。 本稿に最も密接に関連する、正敦の蝦夷地巡察を扱った拙論(六)(鈴木 2000)等で詳述した ように、レザーノフ配下による露寇事件に対処するため、堀田正敦は文化 4 年(1807)、徳川幕 府の若年寄としてはただ一人役職を帯びて蝦夷地に渡った。彼は若年寄就任以来、北方政策に大 きな発言力を維持していたように見える。例えば記録はないが、就任以前にも、大黒屋光太夫ら の尋問に陪席して雁について質問していたのも正敦と推測される(鈴木 1995 pp.6-7 参照)。レザー ノフが日本に連れ帰した仙台漂民を大槻玄沢に尋問させ、その成果『環海異聞』を携えて蝦夷地 を踏んだのも正敦であれば、レザーノフに返され、一旦仙台領に帰った仙台漂民 2 名を連れ出し て函館で南部漂民と面会させ、情報収集にあたったのも正敦であった1)。しかし彼が政務につい た当初から定信の指示による北方探検再開の頃までに、いかにして北方に関する知識を獲得し、 幕閣の一員として参政の実務に生かしていたのか、その原点についてはいまだに解明されていな いところが少なくない。また後述のように、『観文禽譜』には、当時の我が国の図鑑としては例 外的に北方の鳥に関する情報が多いのだが、それがいかにして正敦にもたらされたのかについて も、未だ完全には確認されていない。本稿ではかかる問題を論じる。そして、拙稿のもう一つの 課題は、それをもとに、拙稿(八)(鈴木 2003)を中心とする本研究の過去の記述を訂正しつつ、 正敦における政治と鳥の関係をさらに明らかにすることである。拙稿が扱う北方とは、主として 序 正敦と工藤平助 正敦と最上徳内 ―蝦夷エ巡行セシ者 鳥類研究と北方経営 正敦の蝦夷地巡察再考 善知鳥について ―小結に代えて
堀田正敦の北方探究と鳥学
―正敦と工藤平助・最上徳内―
堀田正敦の『観文禽譜』(十)
松前および樺太を含む西蝦夷地(樺太は文化 6 年北蝦夷地と改称された)、千島列島を含む東蝦 夷地、そして赤蝦夷(ロシア人)の住む地とされたカムチャツカと、その支配に関連する限りの ロシアである。 松前藩領より東北部の海岸から千島に至る東蝦夷地のうち、浦川から知床半島に至るまでを、 幕府は寛政 11 年(1799)から上知という形で松前藩から奪う。代償として松前藩は武蔵国埼玉 郡に 5000 石を得た。当初これは 7 年の期限付きの処置であった。しかし返還は行われず、正敦 が蝦夷地視察に赴いた文化 4 年(1807)には樺太に至る北海道西海岸、西蝦夷地も上知される。 同年に松前藩は大幅に規模を縮小された上で梁川へ転封され、松前領と蝦夷地の幕府による直轄 統治が開始している。 レザーノフ配下の 2 艘の艦船が去った旨連絡を受けた後においても正敦に伴って松前に向かっ た五百数十名の兵力には、対露政策に対する幕府の強い決意を看取することもできる。しかしむ しろ、転封に伴う不満分子への牽制のために配された側面があると見ても,決して穿った見方で はなかろう。兵力の配置には正確な情報が必要である。そして正敦は化政期の北方に関する幕府 の政策の中心におり、かかる情報を最も必要としていたのである。まず、正敦の本格的な北方情 報収集はどの時点まで遡りうるのかという問題に着手する。なお、引用に際して、本論では正敦 の『観文禽譜』(稿本)を『禽譜』、そして『観文禽譜』図譜部(別称『堀田禽譜』)に基づく堀 田正敦著・鈴木道男編著(2006)『江戸鳥類大図鑑』は『図鑑』とのみ記し、これらの総称とし て『観文禽譜』を用いる。また、本稿の題材として、すでに本研究で取り上げた鳥に関する情報 を、新しい角度から再び取り上げることが多いことをお断りする。また同じ鳥名が当時と現代で は異なる鳥を指すこともあるので、学名を付した。 正敦と工藤平助 幕閣内で有数の北方通であった仙台伊達家出身の堀田正敦と、本田利明らとともに天明年間の 田沼意次時代の幕府による蝦夷地開発構想の出発点にいた仙台藩医工藤平助(1734-1801)との 関わりが、仙台藩を軸として密接なものであったであろうことは、容易に想像できる。正敦は藩 主重村の生母を同じくする親密な間柄の実弟であり、重村は平助を重用していた。しかし、正敦 の遺作に平助の名は見出しがたい。定信の時代に、かつて田沼意次を動かして北方開発を推進さ せようとしていた平助の名を殊更に持ち出すことは危険ですらあった。この時代の幕府の動静の 詳細を知ろうとする場合一般と同様に、幕府側よりもむしろ、幕命や幕閣を構成する人物の指示 を受けた側の記録、いわば搦手の細い糸でこれを手繰らなければならない。まずは平助の側から 史料にあたる。とはいえ、平助とて不用意に記録を残すことはしておらず、また彼の自宅は天明 6 年の火災で全焼しており、資料も灰燼に帰した。一方、『赤蝦夷風説考』を残した平助の長女、 歌人としても知られた只野真葛(1763-1825)は、『昔はなし』なる回想録を綴っている。関民子 (2008)はこの作品の成立年を文化 8 ∼ 9 年(1811-12)と推定している(pp. 188-9)。「江戸の清 少納言」2)真葛について、『仙台叢書』七の真葛の著『磯つたひ』の解題(p.169)が簡潔にして 要領を得ている。そこには …真葛女史名は文。工藤平助球卿の女なり。性聡慧にして国風を善くし。又文を善くせ り。太田蜀山人馬琴安堵と交る。藩士只野伊賀の妻を喪ふや。氷人あり真葛を娶らんこ とを勧む。伊賀諾して猶依違す。真葛国風を贈る云く。
掻き起す人し無れは埋火の身は徒らに消えんとすらん 伊賀其才情を喜び聘を厚ふして之を迎ふ。真葛時に年十九。其前妻生む所の子女を。愛 育すること最も方あり。全家親睦闔藩其婦行を称す。晩年歌道益進み鬱然として一家を なす。松島紀行・松島巡覧記・昔はなし及び紅蓮尼伝等の著あり。文政八年六月二十八 日歿す。年六十一仙堂松音寺に葬る。 とある。ちなみに「掻き起こす」の歌は、真葛の歌文集『真葛がはら』(成立年未詳)地の巻に は「かきおこす人しなければつれなくも下にこがるゝ閨の埋もれ火」として収められている(鈴 木よね子校訂 1994 p. 467)。大胆な歌である。この只野伊賀の江戸駐在中に、仙台で自ら無聊を 慰めるように書かれたのが『昔はなし』3)である。話題は父平助に関するものの割合が突出して いる。そしてそこに、正敦と平助の浅からぬ関係を明示する一文がある。 …ワ(鈴木注:「私」の意)十四のとし、はしかはやりて有しが、其年あたりや、東屋 を立てられしは。仙台より御下り間もなく、げんぞく仰付られし。其頃は又々地面御か りたし、御ふしん被遊しが、摂津守様御のぼり被遊て。ふしんびらき早々いらせられし。 庭の桜御覧、御大名がたよりも数々被下有し。… (『昔はなし 三』 句読点鈴木) 医師として剃髪し、周庵を名乗っていた工藤平助が、還俗して平助の名のまま、市中で各藩な どと内密の折衝に当たるべく「外宅」の形で医師を継続するよう藩主伊達重村から命じられた年 は安永 5 年(1777)、正敦の摂津守就任は天明 6 年(1786)である。この記事とは 9 年の開きがある。 しかし正敦は寛政 8 年(1796)以降、実兄の仙台藩主伊達重村の没後後任の藩主が夭逝するなど 不安定になった仙台藩を後見しており、この後仙台藩にとって絶大な影響力を暗に行使するよう になる。従って藩医の親族としてまず真葛の念頭に浮かぶ「摂津守」は正敦以外には考えにくい。 『昔はなし』なる題名が示す通り、この作品は 50 歳に近づいた真葛の回想録であるから、寛政 8 年から彼女の存命中「摂津守」であり続けた正敦を指すと推定できる4) 。ちなみに『昔はなし』 には土井山城様あるいは山城様として、重村同様正敦の実兄である山城守土井利徳も登場する5)。 さらに、寛政 12 年の暮れ(1801 年 1 月)の平助の死後、彼の地位を襲って仙台藩の藩医となっ た真葛の弟源四郎は、江戸で病床にあった正敦の「女君」の手当てに必死にあたったが、正敦夫 人は亡くなり、源四郎も夫人を追うかのように文化 4 年(1807)12 月に死去している6)。平助の 没後も正敦は工藤家との関係を絶たなかったと見える。工藤家にとって正敦はもっとも重要な人 物の一人であり続けたのであり、これからしても「摂津守」には正敦以外に候補はない。 以上によって、正敦の政治的北方研究の発端となる時期は幕政への参画よりも早く、知識の獲 得の初期に、工藤平助との密な接触があったと推測することができるのである。新築の祝いに真っ 先に駆け付けるほどの関係は決して浅からぬものである。向学心と政治的野心に燃えた若き日の 正敦は『赤蝦夷風説考』から間接的に北方に関する知識を得たというよりは、生々しい情熱と情 報を直接平助から吸収していたと考えるべきである。そして実は、蝦夷開拓が唱えられて以来の 動向をつぶさに吸収したとも考えられるのである。時は天明年間であり、田沼意次の絶頂期であ る。『昔はなし』の、工藤平助に関して有名な一節を、確認のためここに引くのも無駄ではあるまい。 父様をば田沼時代の人は大智者とおもゑてありしとぞ。或時公用人とさしむかひいに
て用談終て咄しのうち、用人言う、我主人は富にも禄にも官位にも不足なし。此上の願 には、田沼老中の時仕置たることとて、ながき世に人のために成事をしおきたき願いな り、何わざをしたらよからんかと問合せしに、父様御こたえに、それはいかにもよき御 心付きなり、さあらば国を広くする工夫よろしかるべし。問それはいかがしたることぞ。 答それ蝦夷国は松前より地つづきにて、日本へ世々随い居る国なり。これをひらきてみ つぎ物をとる工面を被成かし。日本を広くせしは田沼様のわざとて、永々人のあをぐべ き事よと被仰しかば、文盲てやいははじめてかようのことをきゝ、恐れ入りし了見なり。 いざさらば、そのあらまし主人へ申上度し、一書にしていだされよといいし故、父様書 て出されしを、随分受けもよく感心ありて、その奉行に父様をなさんといひしとぞ。(『昔 はなし 五』) ここに見える「一書」は有名な『赤蝦夷風説考』(天明 3 年序)として提出されたが、政変の ため平助は蝦夷地開発の奉行には就任しなかった。しかし、まさにこの蝦夷地開発の機運が絶頂 まで高まったころ、正敦は平助と確実に深く接触していたのである。 平助は「奉行」就任の件を藩主重村(徹山)に打診する。上の引用の件の後、「色々御工夫の上、 徹山様へ打明けて、ケ様(鈴木注:かよう)へのことの候が、内々上にても左様の思し召しあり とて、上の御いさほに仕り度、と申し上げられしに、一段の御機嫌にて、それ至極宜しと御意な りしとぞ」と語られていることがさらに重要である。好学の伊達兄弟(重村・正敦)は揃って平 助を後ろ盾していたことを示しているからである。 中井信彦(1953)の半世紀以上も前の指摘によれば、『闢疆録』を著し、最初の蝦夷地開発論 者として知られる並河天民(1679-1718)の遺志を受け継いだのは兄誠所(1668-1738)である。 誠所は、寒冷地に適すると考えた稲の早生種「占城苗」を取り寄せ、最晩年に至るまで同志を募 り、蝦夷地開発に当ろうとしていた。中井は元文 2 年(1737)と推定される誠所の書簡を紹介し ているが、そこには「…蝦夷之図幷書は、尤他見有之間敷候。江戸には工藤丈庵、大坂に北国屋 次郎兵衛、松前領江刺に七年巳前より太田彦介と申仁遣し置候、苗も出来候、砂金も有之候、此 上は若開国の手懸り申来候はゝ、何時も発足可申覚悟にて候…」(p. 73)とある。いつでも蝦夷 地に赴く覚悟が示されているのだが、その同志の筆頭に挙げられている工藤丈庵は、工藤平助の 養父である。中井はこの幷河平太郎宛書簡が、「平助の風説考が、決して突如として書かれたも のでないことを示すものに外ならない」(p. 74)とも指摘している。中井に従えば、平助が蝦夷 地研究に足を踏み入れた背景には丈庵の意向があったことは確実なのだが、丈庵の蝦夷地開発の 動向に関しては中井以後も文献に乏しい。しかしそれは平助には十分に口伝されていた。ここで 正敦がその内容を理解していたことを示唆する一文が、蝦夷地視察の際の正敦の紀行文『松前紀 行』7)にはあることを再確認したい。その件は、拙論(鈴木 2000 p. 22)ですでに紹介している。 ここに敢えて自説を再掲する。以下のとおりである。 正敦の蝦夷巡検の手記『松前紀行』(1804)の中には、蝦夷地経営の施策に対する正 敦の見解は開陳されていない。ただ一箇所、凾館近郊東部の視察をおえて、東蝦夷地に 向かって北上するにあたり、凾館近郊の中の郷村にさしかかる際の行に、「稲どもみな ほにいでゝ、よそめきあひたり。このほとりは田をかへすわざをもしらざりしが、おほ やけの地となりし後に田ばりて、今は千町にもをよべりとかたる。はたつものも所々に
おほし」とある。…幕府直轄となってからの水田開発の成功を正敦が手放しでよろこん でいるかのようにも見える。「千町」とされている田は松前藩に返還された後衰退して 畑作に代わり、『松前町史』(1988)が掲げる安政元年の「凾館御収納廉分帳」によれば、 大野村枝郷の千代田、同文月、戸切地村などで 21 町 6 反 4 畝があるにすぎなくなって いる。幕府がこの地方で進めた水田開発は結局は頓挫するが、そもそも凾館奉行所設置 の際の職務項目にも謳われていたことであり 、定信の蝦夷地委任非開発論が彼の老中 辞職後早々に否定されたことを象徴的にあらわすものであるから、これをもってかなり 積極的に正敦を蝦夷地開拓論者と見るための材料としうるように思われる。 松前を含む蝦夷地への水田の導入に正敦が直接関与したとは、『松前紀行』には一切述べられ てはいない。また、ロシアの圧迫に対する時局を論じた建白の書でもある『赤蝦夷風説考』にも、 蝦夷地における米作は主張されていない。しかし幕閣による蝦夷地経営に関して、正敦がそのた めの情報収集の先端にいたことを考え合わせれば、ここで蝦夷地開発論者たちの系譜に連なる自 らの献策の成果を確認して率直に祝福しているのであり、それには並河天民以来の蝦夷地開発論、 とりわけ並河誠所の稲の導入の主張が反映されていることは明らかである。それが丈庵・平助を 経ていることを知るべきなのである。そして正敦が最上徳内を優遇していたとすれば、この蝦夷 地開発論者のラインの延長線上にそれを見るべきなのである。 ちなみに、『昔はなし』には工藤家の鳥の飼育や珍鳥などの記事が散見されるが、平助と正敦 の間の鳥についての議論の存在を示す史料は、管見ではみあたらない。また平助が、本田利明を 介して僅かながら交流があった最上徳内と、堀田正敦とをつなぐ働きをしたか否かも全く不明で ある。 正敦と最上徳内 ―蝦夷エ巡行セシ者 『禽譜』第一巻子の冒頭の項目「つる」に以下の一文がある。 俗、マナヅルヲ以テ鶴ノ通称トスルハ、丹頂ナル者我邦ニハ稀ナレバナリ。然レ 蝦 夷地ノウチ、クスリトイフ所ノアタリニハ来ルヿアリ。此事寛政ノ末ニヤ官ニ啓セシカ バ、ヤガテ台命アリテ、三雙マデトリテ献ゼシナリ。今猶官園ニ養ハル。(句読点鈴木) 『観文禽譜』本文の最初期ヴァージョンの序は寛政 6 年(1794)に付されている。それからさ ほど年数を経ていない時期の内容を記したこの件にあるように、正敦が「蝦夷地ノウチクスリ」、 即ち釧路8)にタンチョウ(Grus japonensis)が渡来している報告を受け、寛政年間の末に将軍に 報告し、捕獲の命令を受けたのが具体的にどのような経緯によるのかを確認しなければならな い。あらゆる鶴を代表すべき「つる」、はマナヅル(G. vipio)ではなく、タンチョウであるとす る当時の考え方が興味深い。それは当時も稀な鳥だが、官園即ち江戸城内の将軍の動植物園には あって然るべきものなのであった。『禽譜』のこの件の背景には、幕吏に東蝦夷地をくまなく探 検した人々があり、詳細な報告を正敦にあげていたことが推察できる。おそらくは、寛政 10 年 (蝦夷地巡行第 6 回)と 11 年(同第 7 回)に択捉にいたる東蝦夷地を巡察し、執拗なまでに松前 藩の実態を調査していた9)最上徳内(1754-1836)の報告を受けてのことであろうという推測は 容易にできる。事実、『禽譜』には『蝦夷草紙』からの引用もあり、筆者は正敦と徳内との接触
があったことは確実視していたのだが、幕府側の公的記録にそれは見られず、これまで両者に密 なコンタクトがあったことには確証を得ることができなかった。例えば奥医師・本草家の渋江長 伯10)らのフィールドワーカーも 11 年の巡検に参加し、徳内と多く行動を共にした幕吏近藤重蔵 (1771-1829)も晩年、長子富蔵の殺人事件のために罪を得て大溝藩預けとなっていた間に、『江 州本草』30 巻を完成させている。本草学的博物学に明るい彼らが徳内の著作を引きつつ、正敦 に報告することも全く不自然ではないのである。しかし長伯にも重蔵にもそのような記録がなく、 天明年間以来の北方調査隊のメンバーのうち、その残した記録から直接正敦との鳥を介したかか わりが把握できるのは最上徳内のみである。そして徳内には、以下に見るように正敦への格別の 情報伝達回路が存在したのである。 徳内は、1798 年に越冬を決意した蝦夷地探検の若い同僚近藤重蔵らより先に蝦夷地検分から 江戸に戻る。その後に、正敦と内密に面談した記録を、重蔵宛「廿二日八ッ時罷越候様摂津ノ守 殿被仰聞候旨にて先々大慶帰宅仕候」と述べつつ覚書として送っている。そしてそこには「極内 密御慈悲之趣覚書」と題された一文がある。すでに、明治 44 年の徳内と重蔵らの死後の正五位 追贈を機に 1911 年に「地学雑誌」によって活字化されている11)が、村山市最上徳内記念館副館 長鈴木正人氏のご厚意により、同館所蔵の複写(寛政 10 年を中心とする)からそれを含む原文 を確認することができた。両者の面会は寛政 10 年(1798)11 月のことである。面会の部分のみ をここに紹介する。 二十二日八ッ時参上仕雛型ぇ下札にて銘々訳書被仰付即座に差出且アツケシ之大根並粟 穂稗穂御下ヶ被成候に付上げ切に申立候種々皮類は御留被置度由 八ッ半頃御逢 徳内曰 左近将監殿 申上候通尚詳細に申上る 公 曰 兼而右体之儀聞及候に付遠境之儀は格別之儀にて鎖細之事迄差図仕候はゞ却て勤 悪く御奉公も出来申間敷に付其趣に申談置候且又申立之趣にては心配仕候様子にて右 体の儀も間々可有之筈越年之用意も少々費等有之候共聊之儀又風説之筋等は取用候通 理も無之委細全承知候間心労仕間敷殊に格別の御奉公に候間深切に相可勤候 徳内曰 感涙奉畏 公 曰 此度重蔵より申越候趣は入組候儀も不尠書面を以申候はゞ事不足故取計致し難き 場も可有之冬中は異国船渡来も致間敷候間彼地引取候共差障等も有之間敷候間一先づ 呼返仔細に様子取糺候上被仰付候方に御評議も有之近々不申遣候間其方よりも右の段 安心之為書状差遣候方可然候 徳内 奉畏 公曰 重蔵と新左衛門は不和に候哉 徳 内曰 不和と申筋には無御座候得共新左衛門儀は胸中に貯置候儀不相成生付にて密談 等は難相性に有之此度松前之方にて取隠置候儀等は隠密に聞探候儀故無服蔵談判社候 儀も出来兼候儀に御座候 公曰 島之丞と重蔵は如何に候哉 徳内曰 不和之様子等は一向無之重蔵より指図いたし地理産物等探索仕甚出請仕候 公曰 新左衛門と島之丞は如何候哉 徳内曰 不和之様子相見不申候得共胸中落合候儀には無御座候
右之外は毛皮之儀等被仰聞候 (下線鈴木) 「公」が堅田公堀田摂津守正敦である。徳内の書簡集には、徳内が正敦に面会する前の 11 月 17 日に、「左近将監」に松前藩の不正の指摘と、最上の巡察隊において生じた隊内の不和等の問 題の顛末について報告した際の重蔵宛覚書も収録されている。「極内密御慈愛之趣覚書」の冒頭 もこれを受けた面会であることを示している。左近将監は勘定奉行石川忠房(1756-1836)である。 彼の目付時代の寛政 5 年(1793)、前年根室に来航して大黒屋光太夫らを引き渡したアダム・ラ クスマンを松前まで回航させ、同僚村上義礼とともに「宣諭使」という役職を帯び、「信牌」を 渡した人物であり、以後も北方行政に関与している。遠山景晋、中川忠英と並び称される有能な 幕吏であった12)。忠房に報告すれば、幕府への報告は事足りるはずだが、徳内はあえて正敦を 訪ねているのである。 新左衛門は長嶋新左衛門、島之丞は村上島之丞である。この両者は強引に探検を進める重蔵お よび彼を極力支えようとする徳内との間に軋轢を深めていた。正敦はそれに関しても微に入り細 に入り尋ねながら、重蔵らへの悪しき噂は取るに足りないから安心して励めといい、徳内の労を ねぎらい、また重蔵らにも越冬には及ばない旨申し渡している。しかしここで看過しがたいのは むしろ、正敦と徳内の対話を挟む形で見える、下線を付した「種々皮類は御留被置度由」および 「右之外は毛皮之儀等被仰聞候」である。当時、鳥の剝製標本についても「皮類」「毛皮」と表現 されることは普通であるから、徳内と正敦の間には、すでに以前から鳥その他の「毛皮」を所望 する正敦と、それに応える徳内という親密な関係が存在していたことを読み取るべきである。そ して正敦は種々の「毛皮」を受け取り、かつそれについての説明に聞き入ったのである。正敦が 若年寄の立場で徳内に接することができたのは、後に見るように、早ければ就任の年寛政 2 年 (1790)、徳内が三回目の蝦夷地巡察(東蝦夷地、寛政元年)を終えてから、または第 4 回目の巡 察(東蝦夷地、寛政 2 ∼ 3 年)を終えてからまで遡りうる。寛政 2 年正月に、徳内は第 3 回巡察 時の上司青島俊蔵の背任に加担した疑いを受け入牢、同年 5 月に恩師本田利明預かりで保釈され、 その後許されて普請役に異例の昇進をし、以後幕命による蝦夷地調査に邁進する。蝦夷地上知は 利明の意見でもあった。徳内昇進の背後にあるいは正敦がいたことも十分考えられる。これを含 めての面談の記録が「極内密御慈愛之趣覚書」の内容だということになろう。「極内密」の覚書 の中身に、鳥類に関する情報取得が含まれることはまことに興味深い。 後述するごとく、『観文禽譜』の「かり」(丑 水禽中)にみえる「予蝦夷諸島ヲ巡行セシモノヽ 話ヲキク」として収録されている記事のように、徳内の著作『蝦夷草紙』や『蝦夷国風俗人情之 沙汰』から全く同じ内容が確認できるにもかかわらず、名を伏せたまま直接の伝聞として表現さ れていることに、筆者はかねてより疑問を抱いていた。しかし政務に関する情報収集の合間に齎 された「毛皮」のように、機密保持の順守にかかわるものの中から正敦が鳥に関する情報を拾い 集め、後に情報提供者の書物からも確認したと考えれば平仄が合う。天明年間に蝦夷地に派遣さ れた探検の関係者の多くが松平定信によって厳罰に処されたなかで、幕臣ではなく仙台藩医で あった工藤平助は、この時代の蝦夷地開発のプロモーターでありながら、何ら咎めを受けていな い。幕臣徳内は、一旦は入牢の憂き目に遭うが、数か月で許される。身請人は、蝦夷地上知を唱 える徳内の師本田利明であった。幕閣に彼らを庇護する勢力があったのは明らかだが、その中に は必ずや正敦がいたはずである。そして上知決定以来幾度となく幕吏の巡検隊が蝦夷地に派遣さ れたが、いわば正敦子飼の巡検員の位置に、最も優秀な地理学者・探検家がついていたのである。
官園にタンチョウが舞ったとすれば、それは徳内の功績である。 鳥類研究と北方経営 徳内の東蝦夷地探索は国後、択捉、得撫にまで及ぶ。正敦とのこの面談の際に、徳内が正敦に 手渡したのは何であったのか、『観文禽譜』から拾い上げる。いずれも「皮」、すなわち全身また は頭部が剥製にされたものの図が収録されているものである。そしてそれらの解説文には徳内の 名は一度も現れない。精々が「寛政ノ始エゾエ巡行セシ者」として登場する程度である。シーボ ルトが持参した、綿を内填し、目に黒いガラス玉をはめたゴシキヒワ(Carduelis carduelis)など の全身剥製以外では、『観文禽譜』が収録する剥製の図はこれらの剥製標本を描いたものしかない。 これらが必ずしも全て「極内密御慈愛之趣覚書」の際の面談で手渡されたものとは言えないとい う留保は当然必要である。しかし剥製法の一致などからも、筆者は徳内のものと考える。 ・「コロコロ 蝦夷チリポイ島産」(『図鑑』水禽下 p.227 及び『禽譜』寅水禽下) はエトロフウ ミスズメ(Aethia cristatella)であり、首から上の剥製のみを模写している。「此鳥蝦夷地ノ中 チリポイ島ノ鳥ニテ捕シトテ往年贈リシ者アリ」の一文が付されている。チリポイ(知理保以) 島 はウルップ島の北東、南千島の火山島である。徳内がそこまで赴いた記録はないが、アイ ヌ人、あるいはロシア人を通じての入手は困難ではない。 ・「名不知 蝦夷産」(『図鑑』水禽下 p.227 及び『禽譜』寅水禽下)はシラヒゲウミスズメ(A. pygmaea)である。「此モ其頃全剥シテ贈シガ其名ヲ失ズ」とある。 これらのウミスズメ類は、とくにシラヒゲウミスズメは本州以南では数少ない冬鳥で、しか も洋上でしか目にできないことが多い。江戸時代の他の鳥類図譜にこれらが見当たらないのは 当然なのである。 ・「ヅレヅレ エトロフ島ウルップ島辺ノ産」(『図鑑』異邦禽小鳥 p.714)はムギマキ(Ficedula mugimaki)14)である。ヒタキ科のムギマキは本州以南では渡りの時期以外には見ることができ ない鳥である。 ・「ブクサチリ」(『図鑑』異邦禽小鳥 p.715)はムシクイ類、おそらくはオオヨシキリであろうと 思われるが、この図のみからでは同定はできない。 ・「名不知 エトロフノ産」(『図鑑』異邦禽小鳥 p.715)はシラヒゲウミスズメの夏羽であるが、 上記シラヒゲウミスズメ(「名不知」の夏羽とは別の個体とみられる。「極内密御慈愛之趣覚書」 の面会とは別の機会に正敦に差し出されたものである可能性もある。 「コロコロ」と「名不知 蝦夷産」は『図鑑』水禽下に、「ヅレヅレ」以下は同異邦禽小鳥に相 並んでまとめて掲載されている。これは「極内密御慈愛之趣覚書」に「皮類」とまとめて送られ ていることに対応するのであろう。いずれも蝦夷地の産で択捉産が多いことからしても、重蔵徳 内隊の巡検の際に得られた鳥類と考えられる。北方の鳥でも、たとえば後述の「ウトウ」(Cerorhinca monocerata)の記事における「新田某」のように、幕吏以外からの情報以外のものについては、 それが間接的な引用であっても松前藩士にいたるまでその捕獲者が明示されるのが普通であり, それが明示されていない蝦夷地の鳥の場合が徳内から得られたものと推測されるのである。この 鳥が徳内経由で正敦に渡ったことについては夙に指摘がある13) 。 このほかに、『禽譜』寅水禽下の「エトビリカ」(標準和名エトピリカ、Fratercula cirrhata)が、 徳内から正敦に手渡されたことがすでに確認されている。 エトピリカに関する記事の中で、ゴローブニンの『日本幽囚記』のオランダ語訳より高橋景保
が重訳した『遭厄日本記』から、この鳥の件を拾っていることはすでに紹介した(鈴木 1990 p.195)。 そしてこのことを明らかにすること自体が政治的には危険を伴う異例のことであることも示した (鈴木 1995 pp.14-18)。「エトビリカ」の記事には、この他に「寛政ノ始エゾエ巡行セシ者其頭バ カリヲ齎シ来テ贈ル五年秋九月又全皮ヲ贈レリ其形状ヲミルニ善知鳥ノ属ナリ其後又彼地ニテ捕 テ養ヒシトテ活タル者四隻幣籠ニ入テ持帰シガ雌雄分チ難シ」云々(『禽譜』寅 水禽下)があ る。徳内がこの鳥が多い東蝦夷地を訪れた寛政 3 年の東蝦夷地、国後択捉探検の際に得た「全皮」 を正敦に贈り、後に生きたまま 4 羽を届けたのは、徳内が東蝦夷地で道路工事を命じられながら 現場で視察総裁松平忠明と衝突し、「取放し」されて無聊を託った寛政 11 年の徳内第 7 回の巡察 の時点のことであろうと想像できる。蝦夷地から魚食のこの鳥を江戸まで生きたまま運ぶにはか なりの労力を要したことであろう。この後の速やかな業務復帰を正敦に願い出た際の贈物ではな かったか。そしてこれにより、正敦の若年寄就任後間もない寛政の初めに、すでに徳内との接触 があったことがわかるのである。 正敦が蝦夷地から得た鳥の情報は、もちろん徳内経由のものに止まるものではない。これまで 本研究において取り上げたものも含めて、『禽譜』からみえる正敦の北方との政治的関わりにお いて重要なものを、重複をいとわずここに再掲して訂正・再確認したい。以下の本節では、拙論 でこれについてかつて一度纏めたが、遺漏が多かった一節(鈴木 2003 pp. 126-128)をなぞる形 で、本稿で加わった知見等を加味して論を進める。鈴木(2003)の誤りを逐一指摘することは極 力さける。 まず正敦のロシア関係情報の収集に関して、彼が文化 4 年の蝦夷地視察の折、途中仙台から仙 台漂民の生き残り津太夫、左吉の 2 名を同行させたことには幾度か触れた(鈴木 2000 pp.19-23 参照)。正敦はこの 2 名を函館の地でいわゆる南部漂民と面会させ、彼らがもたらした情報の整 合性の確保にも努めていた。南部漂民は、カムチャツカに残留した仙台漂民の保護を受け、この 前年地島伝いに択捉に自力で戻り、当年には函館で保護されてた。それ以前に、正敦が仙台漂民 からの事情聴取に仙台藩医大槻玄沢を当たらせたが、その報告書である既述の『環海異聞』(1804) は、この時代の日露交渉史において最重要資料である。これは、まさに正敦に重用され始めてい た玄沢にとって、同種の業績として夙に重視されていた桂川甫周の『北槎聞略』に伍すべきもの に仕上げるべき喫緊の重要な課題であった。事実、甫周らの光太夫らに対する尋問のうち、機密 性の高い情報を玄沢が『北辺探事』として纏める作業にあたった年(文化 3 年、1806)の直後に 作成された『環海異聞』は、高い完成度を示している。しかし玄沢の北方に関する知識は、すで に種々の蝦夷地探検家の報告を閲していた正敦の要求に応えるべく編まれる必要があった。その 裏には、『環海異聞』にすら書くことが憚られる生々しい情報の収集があったと推測できる。 『環海異聞』作成を指示した当事者は正敦であったが、仙台領出身者への尋問は、彼が後見し ていた仙台藩の為すべき仕事であった。従って当時彼が漂民たちを直接尋問することはなく、彼 が蝦夷地視察に趣いた際には、完成直後の『環海異聞』を仙台藩から借り受けるという手順を踏 んだ。しかし当時幼少の藩主周宗をたすけて仙台藩を後見する立場にもあり、露冦事件の処理を 迫られていた身である正敦自身が、『環海異聞』と、その背後に隠された情報を最も必要として いた。後に蝦夷地に向かう途上、正敦は南部領野辺地で初めて直接 2 名の仙台漂民に面会し、尋 問するのだが、それまでには、徳内からの北辺に関する情報も踏まえて、尋ねるべきポイントの 整理が十分に行われていたのである。 かつて述べたように(鈴木 1995 pp.4-10)、『北槎聞略』からこの『環海異聞』までの時期に、
正敦の許に伊予松山藩主松平定国を経てアダム・ラクスマンが齎した「あをがん」の図が届いて いた(『図鑑』p. 118 参照。アオガン Branta ruficollis はユーラシア西部の極地で繁殖してヨーロッ パとアフリカ北部などで越冬し、日本には渡来しない)。その経緯を記した部分に「予今其図ヲ 蔵セリ松山侯ノ写真ト合セミルニ同物ト見ユ」(丑水禽中)とあることに注目したい。漂流民を 帰還させたロシア人からの通商の申し込みという事態に際し、同じ田安家の出身で定信の実兄な がらも疎遠の定国にこの図が伝わったことは、両者でも事態への対応について協議されていたこ とを暗に示す。さらに、図を提供した定国の名を先に出して無言の謝意を表しながら、実は当然 正敦も独自のルートからロシアに関する情報を収集していたことも示している。『観文禽譜』が 収録する他のガン類にも匹敵する精度で描かれたアオガンの図に接した正敦の感想は書かれてい ない。しかし後述のように光太夫らの尋問にはおそらく正敦も陪席しており、ガンについての質 問を発していたから、職務と渾然となった強い関心がガン類には示されているのである。 『観文禽譜』には、大黒屋光太夫・仙台漂民以外の漂流者の記事も収録されている。『禽譜』丑 水禽中の「おほとり」(アホウドリ Phobastria albatrus)には「仙臺ノ猟人漂流セシモノヽイヒシ 無人島ノ大トリト云者ノ属ニヤ未詳」とあり、同じく『禽譜』寅水禽下「大なんかもめ」(これ もアホウドリまたはコアホウドリ(D. immutabilis)などのアホウドリ類と推定できる)には「寛 政九年丁巳仙臺ノ漁人無人島ニ漂着セシ者数年ヲ経テ帰シガカノ島ニアルウチ食尽テ無為方大ナ ル白キ鳥ヲ打殺シテ食ナシ其毛羽ヲ衣トセリ」とある(『図鑑』p.211 参照) 。同時期の漂流の記 録『環海異聞』にもアホウドリ類の記録15)があるが、寛政 9 年のこの記録は直接の聴取として 掲載されている。仙台藩主伊達重村による自藩の漂流民の尋問に正敦は直接立ち会ったと推測で きる。当時の伊豆諸島南部の鳥島には、明治時代に羽毛目的の撲殺の憂き目に遭うまでは、莫大 な数のこれらの鳥が生息していた。『禽譜』の「かり」(丑 水禽中)にみえる、光太夫・磯吉か ら齎された情報「寛政五年巳丑八月魯西亜ヨリ送リ還サレシ漂流人(鈴木注:光太夫・磯吉)ノ 云シハ」と、徳内から齎された情報「予蝦夷諸島ヲ巡行セシモノヽ話ヲキク」も、それぞれ『北 槎聞略』と徳内の著作『蝦夷草紙』や『蝦夷国風俗人情之沙汰』から全く同じ内容が確認できる にもかかわらず、『禽譜』では直接の伝聞として表現されている。本稿で確認した正敦と徳内の 関係からして、直接情報を得たことは確実であるほか、徳内の報告と同様の、伝聞ではない直接 的な書き方がなされている上述の光太夫らの報告も、正敦が尋問に陪席していたことを示すと考 えられる(但し光太夫らに将軍家斉が謁見した際の桂川甫周の記録『漂民御覧之記』には正敦の 名はない)。『北槎聞略』作成や蝦夷地の探検に関わる学者に対する監督は、学者支配という若年 寄の職務のなかでも重要な部分であった。これらの記述は光太夫らへの尋問以来、正敦が北方か らの情報に関心を示し、集積に努めていたことを裏付けるものであることを再確認させるもので ある。 さらに、「ヱトビリカ(ゼーパペガーイ)」(寅水禽下、上述)にみえる「寛政ノ始蝦夷エ巡行 セシ者其頭バカリヲ齎シ来テ贈ル五年秋九月又全皮ヲ剥テ贈レリ」という一文(『図鑑』p. 226-226)は、お定まりの「寛政ノ始蝦夷エ巡行セシ者」という表現から、やはり徳内から直接聴取し たことを示しており、正敦と徳内との関わりが寛政二年の若年寄就任前後にまで溯りうること を教える。先に引いた「つる」にみえる、徳内の情報に基づく、「蝦夷地ノウチクスリトイフ所 ノアタリニハ来ルコトアリ此事寛政ノ末ニヤ官ニ啓セシカバ…」の件からは、既に述べたように 当時から正敦がすでに徳内経由の詳細な情報のルートを確立し、北方と幕閣を結ぶ太いパイプと なっていたことも確認できるのである。
正敦の蝦夷地視察以後も、文化 7 年(1810)に松前奉行が持参した「さかつら鳥」(申林禽下、『図 鑑』には収録されず)、文政 5 年の「朝鮮をしどり」(寅水禽下、『図鑑』p.171-175 参照。絶滅し たと考えられるカンムリツクシガモ Tadorna cristata)、文政 7 年に松前奉行が持参した「このは がへす」(申林禽下、『図鑑』p. 511 参照。ホオアカ Emberiza fucata)のように年号を確認できる もののほか、幕府上知期間中の蝦夷地産の鳥が多く正敦の許に届けられている。正敦の四十余年 に及ぶ若年寄在任期間のほぼ全体に亘って、蝦夷地からは折に触れて鳥の情報が届いていたこと が確認できるのである。 そのうち「ほし羽白」の項(丑 水禽中)には「文政三年庚辰十月廿三日奥州梁川ノ隣大枝邑 ノ阿武隈川ノ渡口ニテウチ捉シト云ホシ羽白ノ図」を正敦が検討していることが述べられている。 この一件についてもすでに述べた(『図鑑』p. 158)。誰がこの図を正敦に贈ったかについての記 述はない。北方の鳥を最も多種正敦に届けてきた 66 歳の徳内はこの頃も国内各地で土木工事と 殖産の指導に努力をしていたが、天領に属さないこの地方には赴いていない16)。またこれはたん なる鳥の捕獲に関する記事のようにも見えるが、当時梁川には、正敦が蝦夷地を視察した文化 4 年(1807)に転封された松前藩が、在松前時代からははるかに規模を縮小されて納まっていた。「ほ し羽白」とされている鳥は、現在のホシハジロ(Aythya ferina)ではなく、図譜(『図鑑』p. 158) からシノリガモ(Histrionicus histrionicus)♀と同定できる。このカモの個体数は決して多くはな いが、北日本では敢えて捕獲の日付けを付して記録にとどめるべきほどの珍鳥でもない。またご く少数が東北地方の山地で繁殖してはいるが、本州より北で繁殖するものが冬に北日本の海岸で 目撃されるのが普通で、北海道の岩礁にとくに多い。従ってこの、梁川領を阿武隈川の中流域を 挟んで対岸から南に見る位置から届いた記述は、藩の動向を監視すべき位置に配置された何者か から、あるいは、それよりもむしろ、この鳥をよく知り、松前復帰を目指す藩の側から、藩の松 前復帰工作の一環とすべく、特異な場所での観察例として、正敦が鳥に明るいことを承知した上 で彼に届けられたことを示す可能性がある。松前藩はこの記録の翌年、文政 4 年(1821)に旧領 地に戻されている。一時的にロシアの南下が途絶え、かつ蝦夷地経営費が嵩む一方で期待した利 益が得られなかったことを理由とする幕府の判断を、蝦夷地開発派であった正敦が主導して下 したものであるのかを明示する史料はない。「寛政の遺老」松平信明の死後、老中水野忠成には、 松前藩の家老蠣崎波響広年らの献金、賄賂なども含む強い働きかけが続いていたことが知られて いる17)。 このようにして、正敦の北方関連情勢の探求は常に鳥研究と手を携えていたのであり、正敦の 政治的探究の姿を裏付けるのは、彼の鳥に関する記述である。 正敦の蝦夷地巡察再考 善知鳥について ―小結に代えて 最後に、正敦における北方政策と鳥学との同居を確認するため、徳内が正敦に贈ったウトウを 考察する。『松前紀行』のウトウの件についても拙論(鈴木 2000 p. 23)ですでに一度簡単に言 及した。ここでは『禽譜』寅水禽下から、この鳥に関する記述の一部を引いて論じる。 今按ズルニ、嚮ニ蝦夷地ニテ獲ル所ノウトウヲ全剥乄贈ル者アリ…贈リシ者ノ略ニ曰、 去ヌル文化三年蝦夷ニアリシ時漁人ニ託シテウトウヲ捕セ全剥乄コレヲ蔵ス…古歌ニモ 外ガ浜ニ読合セタレバ、松前ニ到リシ時土人ニ問シニ今ハアラズト云。三燈稲荷ノ神職 佐々木大和ト云ル者ノ曰、松前家ノ先祖古ヘ秋田城之介ニ従ヒ秋田ニ数々行レシニ、其
道津軽青森ト云所ニテ善知鳥ヲ見シト云ヿ其時ノ紀行ニ見エタリ。其後二百年許行方ヲ 知サリシニ、明和ノ頃松前ノ家臣新田某ト云者、松前ヨリ三四里西方ナル人モカヨハヌ 小島ニ到リシ時異形ノ鳥ヲ見鉄砲ニテウチタルニ、友鳥飛鳴シテ雨ノ如ク露ヲ降ラシタ リト人ニ語リシ。…意フニ三百年許サキ津軽ニアリシモノハ、明和ノ頃ハ七八十里北方 ニ移リシニ、今ハ其所ニモアラズトイヘバ、猶北方エ遠ザカリシナラント思ヒ、鮑ヲ捕 漁人ニ如是鳥アラバ捕テ来レト命ゼシニ、西蝦夷ノウチテウレト云島トヤンゲジリト云 島ノ辺ニテ捕得シトテ、六月ノ比贈リシナリ。…コノ二島ハ松前ヨリ百餘里北ニ当レリ。 鳴声ハ鷗ニ類セシト云。(『禽譜』寅 水禽下「うとう」句読点筆者) 正敦にウトウの剥製と生きた鳥を贈った徳内は、松前の神職佐々木大和なる人物から、この鳥 が当時より二百年も前から、外ヶ浜にはいないどころか、松前にもいなくなっており、そこから も遠い西蝦夷地における新田某の捕獲談を聞き、アイヌの漁師に天売島の近辺で生きた鳥を捕獲 させ、正敦に贈ったというのである。繁殖地が次第に北上していたことを示す貴重な一文である。 北海道内とはいえ、これが地理的に実に広い範囲にまたがる捕獲談であることに注意したい。東 蝦夷地を巡行することが多かった徳内だが、文化 2 年から 3 年にかけての第 8 回巡行以降は西蝦 夷地が舞台となる。徳内は松前藩と秋田藩の過去の接近に関する細かな情報と、ウトウの群れの 生態の記録まで添えて鳥を正敦に贈っているのであり、史的にも生物学的にも有意義な記述であ る。これが青森から西蝦夷地まで繁殖地が北上したことを示すのか、あるいは人の干渉などの原 因で青森の繁殖地のみが消滅したのかは不明である。現在、青森に近い津軽半島西岸の島嶼にも この鳥の繁殖地がある。ちなみにウトウは現在も旧仙台藩の領内の島嶼でも繁殖しており、その 近海では年中この鳥が観察されているが、『禽譜』には仙台藩領内の記録はない。仙台藩領でも 繁殖場所の変遷があったのだろうか。 かかる情報を文化 3 年(正敦の蝦夷地巡行前年)にあらかじめ得てから、正敦は蝦夷地に向かっ ていた。『禽譜』の件からは、正敦が徳内の報告から詳細なメモを作成していたことがうかがえ る。拙論(鈴木 2000 p. 23)ですでに引用した件だが、正敦は『松前紀行』において「烏頭とい ふ鳥はむかしは外が浜にありしが、今は所をかへ、えぞのやむけじりのほとりにあつまり、浦人 是をとればおや鳥うらぶれてしずくをおとすこと、ふるくいひ伝がごとしといへり」と述べる。 これはまさしく徳内の報告を踏まえたものであることが改めて確認できる。「しずくをおとす」は、 たとえばコアジサシ(Sterna albifrons)の集団営巣地に踏み込むと、警告の声とともに熱糞をお とされるがごとき攻撃を、文学的に表現したものかもしれない。定信による対露戦略の拠点、北 国郡代設置の候補地であった青森において、ウトウを「烏頭」と記する喜多流の能にみえる「う とう」「やすかた」の文学的伝説に思いを馳せつつ、地元で尋ねたウトウの情報を記したもので あるかのように、即ち職務を離れて旅の感慨を表しているかに見える短い件に、これだけの背景 が存在していた。 仙台漂民の蝦夷地同行とその意味、蝦夷地の米作、そして青森のウトウを記録する正敦の『松 前紀行』における雅文体は、きわめて短く重大な内容に触れつつも、その背景を明かさない。正 敦の側から、あるいは幕府の側から松前巡察の実情に触れている唯一の文献の完全な解読は、な お今後の課題に属する。遠回りながらも、『観文禽譜』研究を通じて今後もこれを継続する必要 がある。
以上本稿においては、正敦が幕閣で政務につく以前から工藤平助と交流があったこと、その薫 陶を受けて北方に対する理解を深めていたと考えられること、最上徳内と特別なパイプをもって 松前と蝦夷地に関する情報とともに鳥に関する情報を得ていたことを示し、それに基づいてこれ までの拙稿を補強・訂正し、政務と鳥研究が同時進行している様相をウトウを例に観察した。文 化 4 年の松前藩の転封に対する正敦の関与などに関しては、おそらく『観文禽譜』から得られる ものはないと思われるが、正敦の北方の鳥研究における松前藩のかかわりについてはさらに稿を 改めて論じる必要がある。また、平助と深く交わり、かつ正敦と姻戚であった林子平と正敦との 関係については資料がとぼしく、今後の研究を期することとしたい。 注 1) 正敦の蝦夷地巡検とその背景に関しては鈴木(2000)を参照されたい。 2) 永井路子(1995)『真葛日記』(改題『葛の葉抄』)の文春文庫版(2016)酒井順子解説(pp.361-365)参照。 3) 現在版本で確認できる『昔はなし』(仙台叢書版、国書刊行会版只野真葛集所収版、平凡社東洋文庫版)は、 現在東北大学図書館医学部分館蔵の写本を底本にしている。その末尾には「書昔話後」と題した朴庵佐々城直 知の「昔話六巻、藩医工藤周庵之女真葛所筆記也。系譜附于後、以示読於此記者耳。周庵及真葛之筆記数部、 存于其家云云 乙卯春書省斎南窓下」の一文があり、只野伊賀の次男真山杢左衛門による丈庵以後の工藤家 と桑原家の系図が付されている。この朴庵は、1831 年に一応の完成を見た『観文禽譜』のさらなる改訂を正敦 から命じられており、実際仙台本『観文禽譜』(稿本)には朴庵による欄外の書き込みが存在する。『昔はなし』 という題名の表記は、朴庵の蔵書の内題に従ったものである。 4) 関(2008 p.28)も、「普請開き早々に仙台藩主伊達重村の弟で堀田家の養子に入った正敦が訪れ、桜を鑑賞 している」と摂津守 = 正敦説をとっているが、出典がなく、また正敦が堀田家に入るのは上述の通り天明 6 年 (1786)年であり、この表現には錯誤がある。 5) 『昔ばなし』三には「ワ十七の時分、父様山城様の御用にてかりやへ御登り遊ばされ候ことありし。御秘蔵の お妾大病故のこととぞ」(p. 85)とある。刈屋藩主土井利徳、仙台藩主重村、そして正敦の実の三兄弟が平助を 愛顧していたことになる。ちなみに利徳も、『観文禽譜』に「ちどり」の図を寄せるなど、正敦と趣味を同じく している。 6) 『真葛かはら』(地の巻十四、「七種のたとへ」(『只野真葛集』pp.500-507)には、「今更に澄むもかひなし秋の 月あはれといひし君もまさなくに」の歌を掲げ、「こは、堅田の殿の女君〔原割註―堀田摂津守と申しし殿の、 女君にぞ坐せし。〕かくれ給へる秋よみけりとぞ。見るまゝにいと悲し。此の女君かくれさせ給はん時、御病あ つしうなりまさり給ふにつけて、もとすけ(鈴木注:文中に「俗にいふ名は工藤源四郎、実の名はもとすけと ぞいひし」とある。)には夢ばかりの暇だに許し給はず。…いさゝか心休めむとて臥しそめしより、起きもあが らで、やうへにはかなくなりにき。斯らずばと思うぞ、八千度の悔いなる。」として「月影の澄むと見るにもか きくらす心のやみは誰かはるけん」(pp.500-501)の歌を添えている。 源四 郎の没後三年にあたり、「堅田の君よりも偲び出でさせ給ひて、なかすみがもとまで給はせしとて、人の 見せし御歌 いまも世に残れる筆の跡ならで何を昔のかたみとはせむ 諸共に消えもはてなで無き人の集めし窓につもる白雪」(ibid. p. 505) とあり、正敦から二首の歌が贈られていることもわかる。歌人としての真葛をも正敦が認識していたことにな ろう。 7) 正敦の蝦夷地巡察の記録『松前紀行』とその化政期の北方行政理解における重要性については鈴木(2000) を参照願いたい。 8) 『観文禽譜』中の「蝦夷地ノウチクスリ」の「蝦夷地ノウチ」は、「蝦夷地のウチクスリ」ではなく、「蝦夷地 の中のクスリ」の意。「蝦夷地ノ中」と書かれることもある。「西蝦夷ノウチテウレト云島」(『禽譜』寅 水禽下 「ウトウ」の項。天売島のこと)、「蝦夷地ノ中チリポイ島」(同「コロコロ」の項)など。『蝦夷草紙』によれば クスリは現地の釧路の呼称である。 9) 徳内の 9 回にわたる蝦夷地巡行の動向は、島谷(1977)pp271-297 の「略年譜」に従う。
10) 山崎栄作(2006)pp.313-323、口絵『蝦夷本草写真』及び腊葉標本帖参照。これらは正敦経由で岩崎灌園に渡 され、大著『本草図説』に用いられた(鈴木 2013p.105 参照)。 11) 『地学雑誌』第 276 号(1911 年 12 月)pp. 76-78 参照 12) 忠房も正敦同様和歌に造詣が深く、ラクスマンの帰国に際して「異国の船ふきおくれ 日本のたみを恵みの天 津神かぜ」の歌を残した。松前派遣時の和歌集に『石川左近将監詠草』(北海道大学蔵)がある。しかし寛政年 間後、次第に北方との関わりは薄くなっていく。 13) 島谷良吉(1977)は、文化 2 年から 6 年にわたる長い第 9 回蝦夷巡察の後「徳内は江戸へのみやげに善知鳥 という珍鳥を剥製にして持帰り、志賀理斎・屋代弘賢・林自見・滝沢馬琴を初め諸識者の好事心を掻き立て、 老中堀田摂津守正敦にも贈ったという」(pp.157-8)と指摘している。但し正敦は老中には昇っておらず、この 件の出典も示されていない。 14) 筆者は『江戸鳥類大図鑑』(p.714)においてこの鳥の名を「キビタキ」と誤記した。正しくはムギマキ(Ficedula mugimaki)であり、掲載した鳥の解説もムギマキのものである。ここに訂正したい。 15)『環海異聞』巻之一「兼々通船の節、定りたる舟路より沖え乗出シ候得は、「オヽブ」と申大鳥見懸し事御座候。 能ク人に馴れ申者ニ御座候。漂流の間見当り候オヽブは形も別て大きく、常に見候より三四倍も有之、鷲の如 くに様子たくましく御座候」云々(大槻ら 1986 p.36 参照)である。鈴木 2003(p.126)において、筆者はこの 記述と正敦による寛政九年の仙台の漂流者の記述を混同していた。ここに訂正する。寛政 9 年に安南国から帰 国した仙台領閖上浜の漁民らは、伊達重村によって取り調べを受け、漂流記を枝芳軒静之が『南瓢記』として 出版している。ただしその中には『禽譜』のこの件に見えるアホウドリに関する内容は見当たらない。 16) 島谷(1977)、とくに年表(p.292)による。 17) 松前藩の工作に関しては『松前町史』通説編第 1 巻下 p.398 参照。 引用・参考文献 大槻玄沢・志村弘強編、杉本つとむ他解説(1986)『環海異聞 本文と研究』八坂書房 枝芳軒静之『南瓢記』5 巻(寛政 9 年 1797 序)国立国会図書館蔵版本 只野真葛(1812 序)『むかしかたり』。本論では、東北大学医学部分館蔵写本により、最も校訂が優れた鈴木よね 子校訂国書刊行会(1994)『只野真葛集』所収のものを適宜参照した。 只野真葛(成立年不詳)『真葛がはら』、国書刊行会(1994)『只野真葛集』所収 pp.417-519 堀田正敦(1804)『松前紀行』東北大学附属図書館蔵自筆稿本 堀田正敦(1831)『観文禽譜』稿本(宮城県図書館蔵本) 堀田正敦著・鈴木道男編著(2006)『江戸鳥類大図鑑』平凡社 最上徳内(1798)近藤重蔵宛書簡(最上徳内記念館蔵複写)、同(1911)東京地学協会『地学雑誌』第 276 号 最上徳内著・須藤十郎編(1994)『蝦夷草紙』、東京経済(MBC21 発行) 菊池勇夫(1991)『北方史のなかの近世日本』 島谷良吉(1977)『最上徳内』(人物叢書)吉川弘文館 神保小虎(1911)「最上徳内近藤重蔵両氏に就て」、東京地学協会『地学雑誌』276 号 pp.837-848 (および著者名を欠く「最上徳内近藤重蔵両氏の事跡追記」ibid. pp. 880-910) 鈴木道男(1990)「堀田正敦の『観文禽譜』(一) ―鳥類図鑑としての評価及び科学史上の位置づけ―」、東北大 学文学部付属日本文化研究施設『日本文化研究所報告』第 26 集 pp.177-214 鈴木道男(1994)「江戸鳥学の到達点―桂川甫賢『鷦鷯写真説』の周辺 堀田正敦の『観文禽譜』(二)」、東北大 学言語文化部『言語と文化』第 2 号 鈴木道男(1995a)「彩色の鳥の歌学書 ―堀田正敦の『観文禽譜』(三) 」東北大学文学部付属日本文化研究施設 『日本文化研究所報告』第 31 集 pp.57-81 鈴木道男(1995b)「『観文禽譜』と海外 ―図鑑に見える江戸の異国― 堀田正敦の『観文禽譜』(四)」、東北大学 言語文化部『言語と文化』第 3 号 pp.1-32 鈴木道男(1998)「堀田正敦周辺の博物研究と松平定信」東北大学大学院国際文化研究科『国際文化研究科論集』 第 6 号 pp.55-73
鈴木道男(2000)「若年寄の蝦夷地視察 堀田正敦の『観文禽譜』(六)」、東北大学大学院国際文化研究科『国際 文化研究科論集』第 8 号 pp.13-29 鈴木道男(2002)「江戸後期探検博物学の体制的位置づけ 堀田正敦の『観文禽譜』(七)」、東北大学大学院国際 文化研究科『国際文化論集』第 10 号 鈴木道男(2003)「化政期の内政・外交資料としての鳥類図鑑 堀田正敦の『観文禽譜』(八)、東北大学大学院国 際文化研究科『国際文化論集』第 11 号 鈴木道男(2013)「堀田正敦博物学の射程 堀田正敦の『観文禽譜』(九)、東北大学大学院国際文化研究科『国際 文化論集』第 21 号 関民子(2008)『只野真葛』(人物叢書)、吉川弘文館 中井信彦(1953)「蝦夷地開拓説の系譜」社会経済史学会『社会経済史学』vol. 18 no. 5 永井路子(1995)『真葛日記』(改題『葛の葉抄』)、使用版は文春文庫版(2016) 山崎栄作・編集発行(2006)『徳川幕府奥医師渋江長伯集 資料編』