T.S.エリオットとF.R.リーヴィス : 批評の効用について
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(2) 後. 2. 藤. 明. 生. 評である。批評は創作の先駆け,ないしは補佐としてあり,それは創作から離れては存在 できない。詩人が書いた批評の利点は,詩人自身を解明する手助けとなるところにある。 因みに,エリオット自身,自分が詩人として最もよい影響を受けた作者について書いた批 評が,最もよく書けていると語っているol)また')-ゲィスは,エ7)オットの最もすぐれ た批評が,詩人として直接技巧上の問題に係わったところに見出されることを指摘して,忠) このことを裏書きしている。 ところでエリオットは,この種の批評に関して,一つの見解を表明している。それは, 詩人・批評家としての自己弁護と取れなくもないが!見方によっては,一種の批評効用論 として成り立つものである。彼は"ToCriticizetheCritic"の中で,批評家を4つのタイ プに分類している。即ち,. (1)書評家などの職業的な批評家,. 伝につとめるところの,ある種の趣味・噂好を備えた批評家, 批評家(彼はF.R.リ・-ゲィスを, いる),. (2)特定の新しい作家の宣 (3)学者・理論家タイプの. 「モラリストとしての批評家.としてこの中に数えて. (4)実作者を兼ねた批評家,である。. エリオットは,自分が属す(4)のタイプの批評家について述べたところで,詩人が詩 について書いた批評が最も純粋な「文学.批評であるといっている。つまり,文学批評と. いうものは,ある点を越えると「文学.批評ではなくなり,例えば社会学や心理学や歴史 学に変わってしまう危険性をはらんでいる。また,これが逆の方向に行き過ぎると,文学 批評は「文学.でありながら,. 「批評.ではなくなり,例えば,自己告白や個人的な感想・. 意見の表明に陥ってしまう。前者は,マルクス主義やフロイト主義の批評,あるいは伝記 的研究という名の歴史主義的批評となって現われ,一方後者は,印象主義的批評において きわまる。その点,詩人が自分自身の芸術について書いたものは,これらのいずれにも堕 することがない。そうした意味では,これこそ「純粋に文学的価値」をもった批評に近い ものだとエリオットはいうのである。 2 F.R.. 7)-ゲィスの出発点がエ7)オットにあったことは,改めていうまでもない。. SacredWood. The. (1920)が出版された時,まだ学生だったリーグィスは,鉛筆片手に年に数. 回,これを読み返したという。彼がエリオットから学んだ最も重要なことは,文学批評の 理念ということであった。ひとくちでいえば,. 「知的訓練としての批評.である。1)文学の. ために,知倣を,無私無欲の態度で,しかも有効に役立てることとはいかなることか。文 学に対する純粋な関心とはいかなるものか。また,詩を評価するには,それを詩以外の何 物としても考えないという態度とは,いかなるものか。エリオットは,このような批評態 度が意味するところを明らかにしてくれたという。 批評とは知性と感性の練磨である,と)). -ダイスは機会あるごとに繰り返し述べているo このような批評に対する考えが,直接エリオットに由来することを考えただけでも,彼が エT)オットから受けた影響は,決定的だったといえるo. しかし理念はあくまでも理念とし. てとどまる。批評の用い方という問題となると,両者の相違は,リーグィスがエリオット.
(3) T.S.エリオットとF.R.リーグィスー批評の効用について. から受けた影響に劣らず,決定的となるのである。 詩人兼批評家のエリオットが,批評を創作の一部として用いるのに対し,リーグィスは 批評と創作を別個の存在と見なす。彼の考えるところによれば,文学批評とは創作の先駆 けでも単なる理論でもなく,. 「実際的な識別と判断.に始まってそこに終わるべきもので. あるという。批評を知性と感性の練磨と見る態度には,精神主義的な色彩が強く感じられ るが,いわゆる「判断.の基準となるべきものの性質上,そうならぎるをえないのである。 即ち,価値判断の基準に,きわめて広い意味での倫理性がかかわってくるからであって, エリオットがリーグィスを「モラリストとしての批評家」と呼ぶゆえんはここにある。 リーグィスにとって・,単に純粋に文学的な価値をもった批評などというものはありえないo 言葉あるいは文体が他の価値基準,例えば思想とか倫理とかいうものと結びつかないで, 純粋な価値をもつことばありえない,と彼は考えるのであるo2) こうしたリーグィスの立場から見ると,価値基準の不在はエリオットの批評において, 致命的な弱点となって現われる。例えば,ジェームズ王朝の演劇を復活させたのは,エリ オットの功績であったことは間違いないとしても,彼の批評には肝心の個々の作品に対す る評価が見られない,というのである。8)あるいは,実際に評価が下される場合において ち,それは的外れな批評に陥りがちだという。こうした傾向は,現代文学を扱うときに, 特にいちじるしい。例えばジョイスやウィンダム・ルイスをロレンスの上位に置くという 「陳腐な.評価は,その典型的な例だとし∧,,うのである.. (ついでにいえば,リーグィスは,. エリオットの判断を狂わせ,月並みな批評に陥れたのは,彼が文壇で係わりをもった,ブ ルームズベリ・グループやタイムズ文芸付録などの知的スノビズムと関係があろう,と肘 度している。両者の文壇的背景の違いが,それぞれの批評の方法論に,ある種の方向づけ を与えたことは,確実である。) 3 以上のように,批評の効用に関して見解を異にする批評家の目に,過去のイギリス批評 はどのように映るかo. T.S.ェT)オットは,ドライデン(JohnDryden),ジョンソン(Sam-. Coleridge)という3人の批評家に,イギリス批評の重 uelJohnson),コウルリジ(S.T. 要な流れを見出した。一方,リーグィスは,ジョンソン,コウル7)ジ,アーノルド(MatthewArnold),そしてT.S.エリオットーエリオットに対する手厳しい批判にもかかわ らず,である-これら4人の批評家に,イギリス批評の伝統を求めた.結局,両者が共 通して扱っているのは,ジョンソン,コウルリジ,アーノルドの3人であるが,これらの 批評家に関する彼らの論評を比較すると,それぞれの批評上の立場が明らかになってくる。 まず,ドライデンをめぐって,両者の相違が対照的に現われる。エリオットによると, 批評史をたどってシドニー(Sir. Philip. Sidney)からドライデンへ到ると,初めて「我々. に.語りかけてくる人間に出会う気がするという。2)即ち,いま詩を書いているエ))オッ トにとって,実際の詩作に役立つ批評を含んでいる,というのである。彼は別の機会に, ドライデンの批評文は,. (ジョンソンのと同様). 「文学としての文学.にかかわった批評家. 3.
(4) 4. 後. によって善かれたものであるが故に,. 藤. 明. 生. 「永続的な効用.を備えている ,と書いている。8)こ. れによっても,ドライデンの批評が,実作者の書いた批評として,高く評価されているこ とが明らかになる。それに対してl)-ゲィスは,エリオットが,ジョンソンからコウルリ ジを経てア-ノルドに到る批評史の流れに,ドライデンを置くこと自体に,エT)オットの 批評の「陳腐さ.を見る。リ-ゲィスによれば,ドライデンとジョンソンには,古典的文 献と古典文学ほどの相違があるというのである。4) リーグィスは,その限界は認めながらも,ジョンソンをコウルリジの前にすえるべき第 一級の批評家として賞讃する。ジョンソンーが偉大な批評家となりえたのは,同時代の文学 的伝統-スペンサーからテニソンへ通じる,意味よりも音楽美を優先させる詩風と対照 をなす伝統-との係わり合いの深さのためであるという。彼の天才が発揮されるには, 安定した社会と共に,このような文学的伝統が必要であ-ったことば,エリオットも認めて いる。しかしその批評の効用という点になると,両者の考えは大きく異なってくる。 エリオットによると,ジョンソンにとって,批評は「純粋に文学的な価値.のためにあ ったという。5)現代においては,批評は,社会学とか心理学などからの影響を受けたため に,ジョンソンの時代に可能だったような純粋性を,保つことができなくなっている。だ からこそ,. 「よい文章.. (good. writing)をそれ自体のために鑑賞するという批評態度は, ますます貴重になっているという。いうまでもなく,エリオットにとって,ジョンソンが. 詩人であったという事実は,きわめて重要である。このジョンソン諭の中で,エリオッ・ト は,詩人の詩論というもめは,その詩人が書く詩と関係づけてこそ理解できるといちてい. 畠が,ここtこも彼の立場が明白に表われている。要するに,詩人や批評家が現代社会にお ける言葉の混乱を目の辺りにして,言葉の保存という問題に思い到るとき,ジョンソンの 批評は,その解決に有力な手掛りを提供してくれるという点で,有効だとエリオットはい うのである。 エリオットが,いわば文章道という見地から,ジョンソンを批評するのに対して,リー (first・hand)印. グィスは,ジョンソンが一流の批評家であるゆえんは,彼が「直接的な」. 象から批評を行なうところにある,という。6)ジョンソンの経験主義的な態度を重視して いるのであるが,ここに実践家としてのリーグィスの本領が発揮されている。 コウルリジに関して,エリオットはあまり多くを語っていない。しかしその語られたこ との中には,7)エリオットの批評観が要約されているといえる。コウルリジと共に,文学 批評は哲学や美学の領域と交差するようになった。批評に哲学,美学,心理学の概念や用 語が取り入れられ,その結果,コウルリジ以後の批評家は文学以外の領域の営みに無関心 でいられなくなったという。このような指摘のうちに,現代の批評がもはや純粋な「文 学.批評ではなくなったことに対する不満を読み取ることができる。そうした意味では, エリオットにとってコウルリジは,批評を不純なものにした元兇であったともいえるので あるoちなみに,. BiographiaLiterariaを書いたときのコらル・)ジは,すでに「破滅した. 人間.であったという,エリオットの有名な評言にしても,コウルリジにおける詩人と哲 学者との分裂を批判したものと解釈することができる。逆にいうならば,コウルリジの批.
(5) T.S.エT)オットとF.良.. 5. 1)-ゲィス-批評の効用について. 評の最良の部分は「自らの詩作の経験について内省するときに見られる,その鋭敏で繊細 な洞察力.にある,ということになり,エ')オットの関心はやはり,詩人を兼ねた批評家 としてのコウルリジに向けられるのである。 リーグィスは,コウルリジを扱うとき,美学者としてでなく,文学批評家として扱うべ きことを説いている。8)しかしそれにもかかわらず,現実には,コウルリジは文学の原理 そのものに係わり過ぎたために,実際の批評上の業績に,見るべきものを多く残せなかっ たという。めぎましい業績を残せたはずの天分を備えていながら,実際には,それを有効 に用いることができなかったのが,実情だというのである.コウルリジの批評は,リー グィスにとって,あくまでも可能性として存在することになる。従ってリーグィスが求め る,具体的な作品に即した批評というものは,コウルリジの批評文中に,ごくわずかしか Biog-. 見出せない。充分な分析に裏づけられた批評として,彼が文句なしに認めるのは, raphiaLiteraria中のシェイクスピア論と,天才論の一部に過ぎないo. コウルリジが,. アーノルドより豊かな才能を備えていたことは認めるが,結局,批評の古典として残るも のは,アーノルドほども書いていない。こうリーグィスは断定するのであるo さて,そのアーノルドをめぐって,エリオットと7)-ゲィスは,再び際立った対照を示 す。エリオットにとって,アーノルドは,詩人としての経験に根ざした批評が全くないと いう理由で,いわばなじめない批評家である。9)アーノルドは,詩のスタイルというもの を重視しない,というエリオットの不満に,彼の意味するところがうかがえる。いいかえ れば詩の「偉大さ.. (greatness)にばかり係わっていて,詩の「純正さ」. (genuineness). をないがしろにする,ということになる。アーノルドは,批評家というよりは,批評のプ ロパガンディストであるというエリオットの批判10)は,結局ここに由来するものと思わ れる。 1)-ゲィスは,こうしたエリオットの非難をむしろ肯定する。11)しかも批評のプロパガ ンディストが,あたかもアーノルドの美点であるかのように,肯定するのである。プロパ ガンディストとは,伝統の崩壊した時代に文学的伝統を守ろうとした批評家が,当然取る べき姿勢なのである。リーグィスはここで,アーノルドに託して自己を語っていると思わ れるほど,アーノルドの態度に共鳴している。しかし彼が批評家アーノルドを高く評価す るのは,単に批評の効用論からだけで■はない。彼にとってアーノルドが重要なのは,具体 的な作品に即した批評を実践しているからである。例えばリーグィスが,アーノルドの悪 名高い「試金石.. (touchstone)を弁護するのも,そうした方法論上の理由からに他なら. ない。しかもこうした具体に即した批評が,常に価値評価で終わるところに,批評家とし てのアーノルドの偉大さがあるという。リーグィスのキー・ワードである, の練磨.という言葉が適用された批評家は,. (エ7)オットを除いては),アーノルドをおい. て他にないことを見ても,彼のアーノルドへの傾倒ぶりがうかがえる占アーノルドが偉大 な批評家の1人でないとしたら,誰が偉大な批評家なのかと,リーグィスは反間するほど である。. 「知性と感性.
(6) 後. 6. 藤. 生. 明. 創作古と役立てるための批評と,知性と感性の練磨のための批評という,. 2つの異なった. 立場から見ると,過去の批評家の美点と欠点は,以上のように様々な相の下に映し出され る。しかしここで対立するものをはかりにかけてみる必要はあるまい。どちらも現代の英 米の批評を発展させるのに不可欠の批評観だったからである。エリオットは,ドライデン からジョンソンを経て,コウルリジに至る批評家に求めた批評の効用論を,自らの創作の 場で実践し,成功を収めた。またリーグィスは,実践的な批評を,ジョンソンからアーノ ルドに到る批評家に求め,批評とは作品あってのものという,いわば批評の副次的な性格 を生かすことによって,批評の独白の立場を確立したのである。 そしてT・S・エリオットとF・R・. 7)-ダイスは必ずしも,すJR<,ての点で対立するわけで. はない。結局,リーグィスによれば,エリオットは,具体的な評価の場で弱点を現わすに もかかわらず,偉大な批評家だというのであるo1芝)エリオットの最良の批評には,アーノ ルドの批評が達することのできない,高い批評的集中力があるとすらいっている。これは リーグィスがイギリスの批評家に与えた中でも,最大級の賛辞と見なしてよいのである。 「共同の探求.. それに何よりも対立ということは,. (tbecommonpursuit)という批評の理. 念に含まれる,むしろ創造的な要素なのである。なぜならリーグィスの理想とする批評と は,対立しつつ弁証法的に展開する,一種の知的共同作業に他ならないからである。. 7). -. ダイスは,この「共同の探求.という言葉をエリオットから借用しているが,これもまた 意味深いというべきである。. 註 1. 1). "To. 2). "T. S. Eliot. 1). "Approaches. Criticize. the Critic", To. as. Critic", Anna. Criticize the Critic and Other Writings, 1965, Faber, and Other Essays, 1967, Chatto & Windus,. Karenina. p. 20. p. 178.. 2 to T. S. Eliot", The. Common. Pursuit,. 1952. (1962), Chatto. 「英語青年.. 2)拙稿「『円熟』と『健康』一批評は自由か窮屈か.. & Windus,. Vol.CXXI. No.. p. 285.. 6 (1975年9. 月)参照. 3). "Approaches. to T. S. Eliot", The. Common. Pursuit,. p. 283.. 3. 1)イギリスの批評家の中で,エリオットによって単独に扱われたのは,ジョンソン(「詩人及び 批評家としてのジョンソン.というのは,いかにもエ])オットらしい)とアーノルド,そし. てペイクーだけである。ドライデン,コウル1)ジ,アーノルドはTheUseofPoetTyandthe UseofCriticismの中で論じられている。一方))-ゲィスは,ジョンソン,コウル))ジ,アー そのうちコウルl)ジと. ノルド,エリオットについて,それぞれ独立した評論を書いているo. 2). lm・ Scrutinyからの選集(The アーノルドに関するものは,単行本に再録されていをいが, Selection from Scrutiny, by F. R. Leavis) Portance of Scrutiny, ed. by E. Bentley及びA ed. には収録されている。 The Use Poetry and the Use Criticism, 1933 (1960), Faber, p. 55. of of. 3). "Johnson. as. Critic and. Poet",. On. Poetry. and. Poets, 1957. (1960), Faber,. p, 190..
(7) 4) 5). "Johnson "Johnson. 6). "Johnson. 7) 8). "Wordsworth. 9). "Matthew. ))-ダイス-批評の効用について. Critic", Anna. and. as. T.S.エ1)オットとF.R.. Critic and Critic.". as as. "Coleridge. 10) ll) 12). "T. S. Eliot. ''Arnold. as. The. Use. Critic", The. Perfect. Critic", Anna. LTse. Essays, p・ 197・. of. Poetry. and. the Use. ofCriticism・. (1940).. of Poetry. Sacred. Critic", Scrutiny as. Other. Poet.". The and Coleridge", in Criticism", Scrutir2y Amold",. "The. Karenina. 7. Wood,. the Use. and. 1920. oj. Criticism.. (1964), Methuen,. (1938). Karenina. and. Other. Essays.. p・. 1・.
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