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ジョン・スミス「神に関する知識にいたるための真の方法」

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(1)ジョン\ス-ス. )ohnSmith's'A. 「神に関する知識にいたるための真の方法」. DiscoulSeCOnCerningtheTrueWayor. 訳・注. DivineKnowledge'. 光一(哲学倫理学教室). MethodofAttainingto. るいほイギリス市民革命という当時の時代背景との関連など、様々な. into]apanesewithanintroductionandnotesbyK6ichiYANA((Dep十.ofPhi)osophy). 〔はじめに〕. 訳を掲げるのも、そのような研究のささやかな1環を形作るものとし. 観点からして、興味深い研究対象になるであろう。ここにスミスの翻. らとならんでケンブリッジ・プラトン学派を代表するジmソ・ス・・,ス. の草稿ほ、没後、友人ジョン・ワ-ジントンの手によって編集され、. それの1部はまもな-出版される予定であるが. のために用意し、そこで批判・検討されたものがもとになっている。. ケンブリッジ・プラトン学派研究序説』御茶の水. て検討しなおしたものである。同会の新井、鎌井、泉谷周三郎、三井. 書房、1九八八年九月刊行予定、に所収)、今回の翻訳はそれを改め. -. 礼予の諸氏にはこの場を借りて厚く御礼申し上げたい。ただし、訳の. Smith,Select. Discourses,London. 欠点の責は'すべて訳者にある。なお、ス・,、スの簡単な紹介も同書で おこなっておいた。. 翻訳の底本にほ')ohm. ]660. (新井明・鎌井敏和共. 『説教選集』として1六六〇年に出版されたが、以下に掲げたのは、そ. 編『信仰と理性 のあり方と、それにいたるための方. 神学と激しい熱狂のいずれもが斥けられ、「神に関する知識」、ス,,、ス デイダイニチイ. の主張する真の意味での「神学」. 途・方法が基本的、原則的な形で説かれている。 ケンブリッジ・プラトン学派の研究は'とりわけわが国においてほ 従来はとんどなされていないが、同派ほ様々な観点から'例えば、プ ラトン主義の展開、イギリス思想史におけるその意味と位置付け、あ ジョン・ス、,、ス「神に関する知識にいたるための其の方法」. 一. デイケアイン・ノレッジ. の冒頭を飾る説教である。そこでは干からびた論証からなるスコラ的. この翻訳ほ'ケンブリッジ・プラトン学派に関する小規模な研究会. てそれなりの意味が見いだせればと念じてである。. ベンジャ、,、ン・ウィチカッ-、ヘンリ・モア、レイフ・カドワ-ス. Translated. 矢内. ほ、その短い生涯の晩年に、ケンブリッジ大学クイ (〓ハ1六-五二) -ンズ学寮の首席司祭として一連の説教をおこなった。それらの説教. 矢内.

(2) 辛. Cambridge Platonisis.Oxford. (1九八八・四・三〇) *. 古来いみじくも言われているように、およそどの学問・技芸にもそ れぞれ何らかの原理というものがあり、ある学問・技芸の構造物の全 体はしかるべき原理に基礎を置いていなければならない。そしてある 学問・技芸の蕗奥を究めようとする者も、ストア派の言葉を用いるな プtIレ-プセイス. 学を定義しなけれ. デイヴイl)ティ. らば、その学問・技芸に即した一定の「先取観念」を身につけていな. ければならないのである.そこで」もし私が神. デイヴアイソ・サイエソス. 二 デイブ. アイソ・ラ. ばならないとすれば'それを私は神に関する学問というよりも、むし フ. 命をももたらす、永遠の光からのまことの流出物である。それゆえに. (3). とは、太陽から発出する光線にも似て、照明するのみならず熱をも生. る最も純粋で最も混じり気のない知識をもつのであって'教義を最も よくする老がそのような知識をもつのではないのであるo実際、神学. える。神にかかわる事柄を最もよ-実践する着こそがその事柄に関す. なく巨大な独占的組織を打ち立てた者にしても、やはり同じことが言. じているわけでは必ずしもない。あるいはまた学問・技芸のこのうえ. るが、しかしそのようなものを最もよ-学んだ者が神学に最もよ-逮. よりもむしろ行為にょるという認識の方法について若干述べておこ う.『総覧』.の類いには時には神学の概要が収められているものもあ. その序論として、この真の認識の方法について、すなわち、宗教その ものの本質が言葉よりもむしろ事柄のうちにあるのであるから、観念. すなわち'「主を畏れること」がその建物全体の礎なのである。 それゆえわれわれも、神学の諸問題を具体的に論じるに先立って、. を刻んで立てた」が、しかし「主を畏れることほ知恵の初めである」I. (2). 書き生こそが神に関する学問の先取観念であり、かつ根本原理である と説かれるのがつねなのである。「知恵ほ自分の家を建て'七本の柱. ダット・ライフ. によってこそ最もよく知られるのである.それゆえにまた聖書でも、. る」、つまり、ものはそれぞれそれと正し-類似し類比しているもの. (1). も述べているように、「おのおののものの認識は類似性によって生じ. 理解されるべきものであるからである。ギリシアの哲学者がいみじく. が、神学もまた言葉による説明よりも、むしろ霊的感覚によってこそ. はすべて感覚能力と生命能力によってこそ最もよ-知られるのである. ろ神に かかわる生と呼ぶであろう。およそ感覚と生命をそなえたもの. イ. ジョン・ス,・、ス「神に関する知識にいたるための真の方法」. The. 7一1・10、「ヨハネによる福音書」七・1七'. Platonisis,London1969(rpt.Cambridge1980).pp.. s.a.),pp,76・90およびC.A.Patrides(ed.)}The. R.Cragg(ed.)}. (rpt.NewYork[London)97B).pp.1・21を用いたoまたこれ以外 にも'Gerald 1968(rpt.Lanham Cambridge. )28-44を参照した. 原文には「詩編」 さらにアレクサンドレイアのクレメンスの『雑録』三の章句が冒頭に 説教の題目として掲げられており'また編者ワ-ジントソが全体を三. 筋に分け、そのおのおのに要約を付しているが'これらはすべて省略 した。. 新共同訳』(日本聖書協会、. 新改訳』(日本聖書刊行会、一九七〇年)を参. 聖書の引用に関しては、特に『聖書 一九八七年)と『聖書. *. 照した。聖書の各書の書名、章節の区分'固有名詞の表記等は前者に よっている.. 訳〕. ジョン・スミス「神に関する知識にいたるための真の方法」. 〔翻. 矢内.

(3) またわれわれの救い主も、八福の教えのなかで'心の純潔を至福直観 (4). に結びつけたのである。また'日というものは、もしそれが「太陽に. れに教えようとしたさいに、「主の暮さを味わい、見よ」と'思弁で. はな-感覚を要求しているのである.脳の汗みどろの労苦によっても. たらされるものが神に関する最もすぐれた最も正しい知識であるわけ. に形づ-っておらず、神の本性に与るものとなっていなければ、神を. それと同様に、もしそれが「神に似たものにならず」'神をそのうち. しめるものが心臓であるように、神にかかわる事柄に関して、われわ. である。ちょうど生来の肉体において、善い血液と温かい精気を頭に. かの天上の温もりによって火を灯されるものこそがそうした知識なの. ちが'生命の水とは何かと問うと、楽園の四つの川である四元徳であ. に問うたとき、師は弟子たちに、生命の水を浴びよと命じた.弟子た. ができるような、巽もてる魂を手に入れるには、何をなすべきかと師. が'神に関する真理という明るい光の束のなかを天高く飛和すること. 水を注いでやらなければならないのである。ゾpアスタ-の弟子たち. 育て、それを開花させようとするのであれば、知識のか弱い木に聖性の. たらすであろう。まことにわれわれは、いやし-もわれわれの知識を. 実のみならず悪い実をもみのらせ、甘い実ばかりでなく苦い実をもも. 木のそばに植えられず、生命の木から樹液を吸収しないかぎり、善い. 生きた聖性の原理でなければならないのである。知識の木は、生命の. れが正し-知り、理解することを可能にするものはわれわれの内なる. 送り込み、そのことによって頭にそのさまざまな働きを最もよくなさ. とも. るための正しい道を明らかにしようとしたさいに'「知識は人を高ぶ. (6). 似たものにならず」、太陽の形相と類似物をそのうちに取り入れてい. (5). (12). ではないoそうではな-'われわれの内部においてわれわれの心のな. (13). るのでなければ、太陽を見ることができないのであるが、人間の魂も. 矢内. 見ることができないのである。使徒聖パウロも神に関する真理にいた (7). らせるが、愛は人を造り上げる」と言っている。もろもろの『体系』 や『要説』の類いに現われているような神学の知識は弱く微かな光に すぎない。神に関する知識の力強い活動は清められた魂のうちにこそ (8). 現われるのである。そこにわれわれほ、古代の哲学に言う'まことの 「真理の野」を見出すであろう.. われわれの神学をただ書物や著作のうちにのみ求めることは、「生 (9). きておられる方を死者のなかに探す」ことに等しい。事実'われわれ はい-度とな-、ただいたずらにそれらのうちに神を求めているので. あるが'しかしそこでは神の真理ほ柁られているというよりも葬られ. ジョン・ス・"ス「神に関する知識にいたるための其の方法」. な神的な光を魂にもたらすのである。われわれが戯い推理や精綾な議. の善性から湧き出るものこそが、オリゲネスの言う「いかなる論証よ りも神的なもの」であり、いかなる論証よりも明噺で納得のいくよう. ると師は答えた。三段論法や論証に導かれるようなたんなる思弁によ ってもたらされる類いの知識は浅薄で軽薄な知識にすぎない。まこと. (14). ていることのはうがあまりにも多い。いなむしろ、「汝のうちに神を. 求めよ」、あなた自身の魂のうちに神を探すがよい。神は'プロティ. 葉をわれわれの目で見、われわれの耳で聞き、われわれの手で触れな. る。このことを聖ヨハネの言葉で表わせば、われわれは「いのちの言. ノスの言うように「理性で触れることによって」最もよく認識され. (10). ければならない」。肉体と同様、「魂にもある種の感覚がある」のであ る.それゆえにまたダビデも神の善性の何たるかを知る方法をわれわ. (ll).

(4) (19). ジョン・ス,,、ス「神に関する知識にいたるための其の方法」. 論をどれほど積み重ねようとも、依然として、真理がこの世を支配す るにいたっていないのは、われわれが真理とまことの善性とを乗離さ せていることがあまりにも多いからである。しかし本来'真理とまこ との善性ほ決して分離することができず'両者はともに同じ根から生 長し、互いに相侯って生きるものなのである.プラトンの言う、洞窟 に閉じ込められ、顔を下のはうに向けた人々のように、われわれも、. 魂が何らかの悪徳や欲望で汚れたままでいるかぎり、真理の生命や実 体と交わりをもたず、ただそれの音声や影と交わっているにすぎない iエア(1) であろう.悪徳や欲望は人間の魂をずぶ濡れにする暗黒の忘却の湖で ある。まことの徳を欠く者ほ天上の論理では「盲目であり、近視限で. ある」。地上の不純な心から立ちのぼる汚い霧が、あたかも大気圏の ごとくに、たえずその者を取り巻いており、そのためその老ほ神に関 する真理という太陽を見ることができないのである。この太陽はその (1). 者のまわりを照らしはするが、しかし清められざる魂のなかまでほ決 して照らしはしない。晴間はそれを悟らず、愚者はそれを理解しな い.不浄な心にも時には光と知識が立ちのぼってくるように思われる ことがあるかもしれないが、しかしおよそかかる光と知識というもの は、しよせん、厨房の火から立ちのぼるや、おのれの煙に包まれたま ま、たちまち消え去ってしまう煤けた炎のごとき代物にすぎない。あ るいほ大地の鯵出物から生じる鬼火のようなものにすぎない。それは ただ、ほじめに生じたと.ころであるこの大地の表面で上下・前後にす しろわれわれを欺き、迷える旅人に道を教えるどころか、いっそう迷. 早-飛びまわるはかりで、われわれに光を与えて導-というよりもむ. わせることしかしはしないのである。われわれがおよそ汚い悪徳を内. にほ、その人々が. いかに見事にごまかしていようと. の暗黒の忘却がある人々の心をとらえているというようなことは、私. するにもかかわらず、そのような真理に対して疑念を懐かしめるはど. ろう。書き人々にとってほ白昼の太陽のように明る-輝-真理が存在. に絡みつき、ついにほそれらの生命と精気を吸い尽-してしまうであ. 這い上がってきて、そこを汚してしまうであろう.それはあたかも樫 の木に巻きついて生い茂った木蔦のように、われわれの判断力や知性. 支配的部分・支配的権力のなかに、理性の寝床のなかに'たえまなく. ろで、その糸にはたえず悪徳が絡みついているであろう.それは魂の. 四. 散気というものが発生し、それが魂の感覚をなくそうとするのであ. れば、考えられない。罪と悪徳から、麻痔させる精気、凝固させる発. のおぞましい悪徳でおのれの魂をきたなく汚しているというのでなけ. -. (15). に宿しているかぎり、われわれが思弁の糸をい-ら精細に紡いだとこ. 誇示するときには、それがすこぶる美し-早見るように、いや、それ. な行列に加わって自分自身のこの偶像を担いでまわり、それを世間に. 手本にして作り上げたような観念にすぎない。ただし、人々が華や・か. 配している手本としての神の観念ほ、そのじつ、何かしら自分自身を. いる観念は自分自身の姿を措いた自画像にはかならず、人々の心を支. がそれをあからさまに吹聴してまわる。普通人々が神について懐い七. 声高に叫んでいる。彼らの看が沈黙していようとも、彼らの生きざま. 人々の格言である。彼らの唇がそれを語らずとも、彼らの魂がそれを. れるであろう0神はさまざまな点で自分に似ているとは'最も悪しき. 人がどのようにあるか、それに応じて、神もそのようにあると思わ. 毒を注ぎ込む、かの毒ナスがそれにあたるのである。. うシビレユイからそのようなものが発せられる。人間の知性に冷たい. る。博物学着たちの言うところでほ、近寄る老の感覚をな-してしま. (20). (17). 矢内.

(5) なのであるo内なる欲望が人間の心に潜んでいるかぎり、しよせん. のとするこの交わりによって形相を別のものに変えてしまった」もの. 着せ、変装させるであろう.たいていの人々は. は'それが人間の心を軟弱にし、男らしい度量のある知識などは決し. どころか、実際とは異なった別物に見えるように、人々はそれに衣を. いていなくとも)、あの偽善的な修道僧のように、「学校にいるときと. て生み出しえなくするであろう。それほちょうどアイ-アノスがコウ. なのであるが'しかし人間の腐敗した心がそれを許そうとほしないの. かかわる事柄についての観念や概念はしかるべき形を与えられるはず. 高次な理性が働-こともあり、そのような理性をもってすれば'神に. つあるだけでなく、頭も二つあるのである。時にほ人間の内部でより. 本性上つねに飢えたるものであり、人間の知性を養い育むはずの、人. やいかに貯化を試みても後の祭りで無駄に終わるという。罪と欲望は. クロウがとまると、卵はたちまち、言わば風卵になってしまい'もは. ノ-リについて述べているようなもので、コウノトリの卵のうえにフ. それらの生得観念ほ窒息させられたり、あるいは人間の汚い欲望の色. 観念の考え方を一掃しょうとしてきたつもりはない。しかしながら'. ただ虚ろな泡のように膨らむだけのものだとすれば、およそそのよう. た香りもない無味乾燥な代物に満ちたものであり、人間の魂のなかで. ことの善性に満ちたものでな-'かえって味もなければ生き生きとし. 神に関するわれわれの最も崇高な思弁とはいっても'もしそれがま. が深く染み込んで汚されてしまっていることがあまりにも多い.それ. ロが彼の時代に嘆いている「自説をただ知識の誇示と考えるだけで、. 細かな詮索がよ-理解できないような人々に対する高慢と尊大と軽蔑 と暴君的態度でもって人間の魂を満たすだけである。ちょうど、キケ. ならず、かえってただ人間の魂を膨らませ増長させるばかりで、その. なものが何だというのであろうかoそのような思弁は人間の魂の糧に. きているのである。時にはこれらの共通観念が神に関する知識を育成 すべくほなはだせわしな-活動することがあるとはしても、しかしや. はり人間の腐敗した悪徳が共通観念の邪魔をし、それを携乱し'支配 (博物学者の言うところでは、生物の形成において、主人を欠い けいそう. た御しがたいこの質料が生来の形相に対してそのようなことをなす)I ぎようそう. そのあげく、共通観念の生み出すものはといえば見る影もな-歪んで 醜い形相をした怪物でしかないであろう.およそそのようにして生み. ことにかかる連中こそ、「いつも学んでいながら、決して真理の認識. もない無益な糸を紡ぐことにひたすらこれ努めているにすぎない。ま. かかる人々はただクモのように自分の腹から自分を暖めて-れるはず. 生活を律するものとほ考えなかった」哲学者たちがそのようである.. (24). に達することのない」あの愚かな輩なのである.彼らはファラオの痩. せた雌牛のごと-、あらゆる言語と学問を貴り食らうであろうが、し. 五. 出された学問は'プロティノスの言葉を借りれば、「質料的なものと. (25). て窒息させられた光にすぎず、そこから神に関する事柄についてのあ の着色された、あるいほむしろ変色された観念や理解のl切が生じて. は「暗い質料に埋葬された光」、何らかの暗い物体のなかに埋められ. 私としてほこの間ずっと、神に関する真理にかかわるすべての生得. 間の魂の生命感情を吸い尽-してしまうのであるo. (23). (自分ではさして気づ. (22). 私室に引きこもっているときとでは別のことを考えている」。心が二. 矢内. である。. (21). 大いに交わるうちにそれを自分のなかに取り入れて、自分を劣悪なも ジョン・ス・"ス「神に関する知識にいたるための其の方法」. (26). して.

(6) ジョン・ス・,,ス「神に関する知識にいたるための其の方法」 かしそれらを食い尽-したところで、相変わらずもとの痩せた醜い姿 をさらすであろう。もろもろの痩せた不毛の思弁は神学のまわりで上. 六. ましく優しいイエスの霊. あの甘-穏やかで慎. のうちにあるような真理を認識するとい. ひろがる、光と生命に満ちたあのイエスの霊. のうちにあるような真理、書き人々の魂のうえにまるで朝日のように. -. うことがあるのである.肉によってキリスト自身を知ったとしても、. -. 益するところはほとんどない。キリストは書き人々に自分の霊を与. (29). へ下へと移ろい飛ぶことがあるとはしても、しかし神学のうえにしっ. tIボブティ. -.「徳な-しては神は名 ー. (喜劇のなかの彼の言葉. るゼウスの鳥にほかならないと自分たちのことを考え、「神に目を向. によれば)「大気を踏み、思いを太陽のまわりに馳せること」ができ. ほ、天和るグノ-シス派の人々に対して. 取り入れられるときにのみ知られうるのである。ギリシアの哲学者. 的な美しさ、いのち、優しさがある。そしてそれはただ生活と実践に. え'そしてその霊が神の深みを探るのであるo神に関する真理にほ内. (30). かと降り立つことほできない。真理の衣のひだをのばしほしても、真 理の愛らしいかんばせを拝むことはできない.神に関する真理にほ互 いに包みあった隠れた奥義があり、それらの奥義はただ神的な見 者のみが見透しうるのである。. スッ(27). われわれほ真理を覆っている言葉や文句の外穀を突き破ったからと いって'真理の正しい認識にいたったと考えてはならない.あるいは また、論理的分析によって言葉や文句の相互の依存関係や整合性を見. (31). けよ」と声高に叫んだかの人々に対して. (32). もろもろの意見や観念よりも、まことの敬慶の種子と純潔の神的な手. われに真理を『正典』や『信仰箇条』の形で示そうとはしなかった。. り、弟子たちも師に倣ってそうしようとはしなかった.救い主はわれ. 『体系』や『集成』といった文書にまとめようとはしなかったのであ. 教師であるわれわれの救い主も'まだこの地上にあったときに真理を. きにこそよりよく理解される。それゆえに、神に関する真理の偉大な. れを敷術するときよりも、人々の心と生活の純潔のうちに現われると. 神に関する真理ほ、詮索好きな理知の力が精赦・精細をきわめてそ. ろう。. としても'やはり以前と同様、そこに神を見出すことはできないであ. 殿の壁におびただしい亀裂を入れて聖なる地に押し入ることができた. ができた。不敬な輩は、かの昔の異教のギリシア人たちのように、神. 前にすぎない」、すなわち、乾いた虚ろな観念にすぎないと言うこと. (33). 出したとしても'やほりそのように考えてはならない。あるいはさら に、論理的分析に長けた強靭な闘士のごと-に論証の無敵の力でもっ て論理的分析の防御を固めたうえで世間の人々の面前に敢然と姿を現 わし、われわれに対して敵たらんとするすべての人々の陣地めがけて 戦いを挑むときにも'やはりそう考えてほならないのである。. われわれの周囲にほ、威厳に満ちた尊崇すべき偶像崇拝者が大勢お られるo彼らも真理の崇拝者なのであるが'しかしそのじつ、彼らが 崇拝しているのは、はかならぬ自分自身の知力をかたどった、それの 似姿としての真理にすぎない。かかる人々にあっては、そのさまざま な思弁がさまよったあげ-にようやくまとまってある種の信念ができ あがるのであるが、しかしもし、真理がそのようにしてできた信念と. 別物であって、真理のうえに自分自身の肖像と銘が刻まれているのが 見出されな拝れば、彼らはたとえ真理を崇拝しているように見えると しても、実際には決して崇拝することができないであろ-0 イエスのうちにあるような真理、キリストのごとき本性をもつもの. (28). 矢内.

(7) な道であると考えたからである。救い主はおよそまことの神学知識と. を促すことにあった.それが正しい信仰にいたる最善にして最も直裁. するように配慮したからである。救い主の主たるねらいほ聖なる生活. 霊的理解に関しても善い実をみのらせる最善の道であると考え、そう. 本の種子を世界に播き、世界をそれらで豊かにすることが、いかなる. して十分には清められえないと考えていた。だからこそ彼らは、ソク. えないうちは'どっぷりと浸かっている感覚と情念の地上の激から決. く、細心の注意を払っており、人間の心は彼らの禅的形而上学に与り. たと言われている。この点、プラトン主義者たちはきわめて用心深. 落ち着きと道徳的な気質を確かめるための方法をいくつか用意してい. こそ、神に属する事柄を賞味することのない、かの「自然の人」なの である。腐敗した情念や地上的な感情はその本性からして'あらゆる 平静な思考を掻き乱し、われわれの判断を急き立て'われわれの知性 を歪めようとしがちであるo「聖霊ほ地上の情念に住まわぬ」とほ、 昔のユダヤの作家たちのすぐれた格言であった。神学は精細な理知の 力によってよりも、プロティノスの表現を借りれば「清められた感覚. 求めてやまないのである。なぜなら、それが彼らの哲学の目標であっ. ソ主義者たち自身がよ-用いる表現によれば、「肉体からの分離」を. 関する真理を純粋に理解しょうとするすべての人々に対して、プラト. ラテスの言う「純粋に哲学し」ようとするすべての人々、つまり神に. (40). (39). たからである.このことは'wた、彼らが哲学を「死の訓練」として定. るまでは、道徳上の重大な教則に手を染めることは適当でないと考え. 法を知らなかったわけでほない。だからこそアリス-テレス自身も、. と自由に交わることに多少とも慣れ、再び下を見やって感覚へと堕ち. のようにしてひとたび肉体を凌駕するようになれば、非物質的なもの. 支えるために用いずに、言わば独り立ちできるようになり、そしてそ. 矢内. 若者ほその若者らしい感情の熱と激しい性急さが冷やされ和らげられ. ぅ振り払い'感覚によって認識されうる物質的ないかなる杖も自分を. あった。これによって人間の魂は感覚に依存したそのあり方をいっそ. をもさらに工夫した。それははかでもない、彼らの言う数学的観想で. でな-、哲学者としての条件にいっそうあてほまるような分離の仕方. 分離し、肉の汚れから清めることができるような「浄化の徳」ばかり. からである。それゆえに彼らはまた、人間の魂を感覚的なあり方から. 事柄を正し-観想するためには'それが不可欠であると彼らは考えた. な仕方で死ぬることを目指すものである。理性によって認識されうる. もっぱら、魂を肉体とこの感覚的生から解放することによって精神的. 義するさいにも'彼らによって示唆されている.彼らの場合、それほ. (41). いうものを、神の御心を行なうことに結びつける。「神の御心を行な おうとする老は、私の教えが神から出たものかどうかがわかるほずで. ある」。神の御心を行なうことだけが、聖ベトロがわれわれに告げて いるように、われわれが「われわれの主であり救い主である方を知る. (36). 感覚的な心にはそれを楽しみ味わうことができない。この感覚的な心. て-れるのであるo神に関する真理には内的な甘美さがある.しかし. ぅえで、役に立たない者とか、実を結ばない老になること」を阻止し. (35). 古代の哲学も、神に関する事柄の認識にいたるためのこの方途・方. によってこそ」よ-とらえられるのであるo. (37). (42). (34). たのである。またピエタゴラスも、弟子たちに自分の哲学のより高次. て行-ことはないというのである。さらにこのほかにも、彼らにはこ. 「神に関する知識紅いたるための其の方法」. の陪い肉体を抜け出て上へ昇るための多-の方法があった。すなわ ジmン・ス・∼ス. 七. な奥義を伝授するにあたって、あらかじめその能力を試し、その心の. (38).

(8) (43). ジョン・スミス「神に関する知識にいたるための真の方法」. ち、彼らがよく用いている表現によれば「洞窟からのさまざまな上 昇」があったo彼らが魂の理性的な部分でもって光と不死なる存在の 野に確実に踏み立つことができるようになるためには、まず、可死性 というこのぬかるんだ地下の洞窟から地上に歩み出なければならず' そのための方法が彼らにほさまぎまにあったのである.. さらに次のこと. (この間た. われわれは議論のいまの主題をすでに長々と論じすぎたきらいがあ り'以上をむってそれから離れるべきであろう.しかしながら、私と してはこの主題からすっかり離れてしまうまえに、それを えずわれわれがはっきりと目指してきたこと以外に). にも関連させて論じてお-べきであると思う。それはつまり'こと、 信仰の問題に関しては、人々のいかなる意見や指示であれ、それがあ. 自分を委ねたりすることがないようにし'またいかなるセクトであ. くまで私的なものであるかぎり、そのようなものに一身を捧げたり、. れ、およそセクトの教義というものをあまり熱狂的に主張することが ないようにするということである。自分には受け入れられない他人の. 信条であっても、まるで厳格な監察官のように、それについて熟した. 来の鋭敏な働きによるだけでな-、さらに、禁欲的な聖なる感情の慈. う。そのような学問的な論文を最も大量に生み出す者が必ずしも最も. 純潔な精神の持ち主であるわけでほない。かかる論文には、不法な宣. 伝を行なうという汚いしみがついていることがあまりにも多いからで. ある。われわれの最も偉大な学者たちのインクのなかにさえ'時には. 腐敗した感情の苦い1滴がしみ込むことがあるかもしれず、彼らの主. 張する理論も、それが通り抜けて-る樽の酸味が効き過ぎていること. があるかもしれない。われわれが、最も清頗な手にょって整えられた. あの衛生的な食物(ある人々は通常それを宗教の教理部門と呼んでい. る)と出会うときでさえ、その出会いは必ずしも歓迎すべきものであ. るとはかぎらない。ある人々は心があまりに悪しきため、頭も善-紘. ない.実践においてはなはだ悪しき人々ほ、理論においても善-ほあ. りえないのである。われわれが信仰箇条を授けてもらおうとする人々. のあまりにも多くがそうであると考えてまちがいないであろう。神父. たちが残した遺産に対して'われわれがあまりに強-権利を主張して. いると'彼らのまじめな見解ばかりでな-、誤りまでもしっかりつか. 度もあちらこちらとさまようが、しかし書き人々がそれを凌ぐ重大な. 決意をすれば'その心から飛び去って行-であろう。われわれは伝統 的神学の現状に決して十分に満足できるわけではないが、しかしさり とて何の不安も懐かずに特定のセクトの人々に身を任せられるわけで. ようにそれを作り直すことができるであろう。すなわち、「真理を見. きく仕立て直し'神に関する真理を誠実に追究する老にちょうど合う. ければならない」という哲学者のモット-であった着物をい-ぶん大. もない。われわれは、「哲学しょうとする者は判断において自由でな. うちに1その信条を告発し、禁じるようなことを'われわれはなす. 悲深い働きがそれに加わってえられるような成熟した理解をもたない. べきでないのであるが、しかし同様にまた、われわれほあまり性急に. 「他人の信条を信じる」べきでもな-'他人の信仰箇条に賛同すべき でもないのである。最も多くの紙にインクのしみをつける老が必ずし. も最も善い人間であるわけではない。真理はそれほど嵩張るものでは なく、われわれの書物はどに浩軸に膨れあがるものではないと私は思. 八. まされるはめに陥るであろう。洞窟のイドラ、すなわち、生来の先入. (44). 観、人を欺-臆説というものがある。それは書き人々の心のなかで何 十分な理解をもたないうちに1つまり、たんにわれわれの理性の生. 矢内.

(9) (46). 出そうとする老ほ自由な判断と神聖な心をもってそれを探究しなけれ (4). ばならない」、と。か-探究する者は見出すであろう。その者ほ真理 のうちに生き'真理もその老のうちに生きるであろう。真理はあたか. されようとも、おのれが真理とともにあるのを感じ、おのれのうちに 満足を見出すであろう。. 以上をもって、私は再びこの議論から離れるべきであろうが、しか しこの間たえずわれわれは'建物を築き上げようとしながら、かえっ てその下の地盤を掘り崩していると、あるいは思われてきたかもしれ 善-あ. ない。つまり、もし神に関する真理がまことの善性という根からしか 生じないのであれば'こういう疑問がおこるかもしれない. 消し去ることはできないのである'と。感覚の卑しさにしても、最初. の刻印ははなはだ暖昧にされることがあるとほしても'しかし容易に. れらの原理は魂のはるか奥深-まで刻みこまれており、そのため'そ. わち'人間の魂には知識の根本的原理というものがい-つかあり'そ. これら二つの疑問に対して、われわれはこう答えるであろう。すな. 真理を確信させればよいのであろうか.. 徳を吹き込むこともできないとすれば'いかにしてそのような人々に. と努めればよいのであろうか、しかしまた、真理に反対する人々には. るということがいかなることかを知る以前に、いかにして善-ゐらん. -. は、ディアゴラスにおけるように神を否定せしめたり、またプロタゴ. ー、すべての人々. ラスにおけるようにその存在に疑いを懐かせたり、あるいほディオド. (50). 線を定めることに疑いをもつはど. とはいえ、エピクロスも時には. ではない。また徳の共通原理も、エピクロスのように徳と悪徳の境界. ど、すべての悪しき人々の魂をひど-汚し、泥まみれにしているわけ. ロスにおけるように理性的魂の不死性に疑問を皇せしめたりするほ. (51). な-'われわれがそれに導かれて人々の魂のなかに入って行-ことが. い。しかもこの理性はいたるところで消されてしまっているわけでほ. 義にすぎず、いかがわしいまがいものであると疑われてもしかたがな. 判にあえて耐えようとしない教義というようなものほたんに私的な教. 要がない。真理と理性の間には永遠の友情があるのである.理性の審. せるのにも役立つのである。真理はいかなるときにも理性を避ける必. 人間の魂に徳の道を示すのに役立つことはもとより、真理を受け入れ ようとしない人々に、熟達したよき指導者の手によって真理を認めさ. 現前するのである.そしてこれらの共通観念は'それが現前する当の. かなる幾何学的論証よりもたやす-、われわれの反省能力にあらわに. べても、確実性ではそれに劣るとしても、明証性では勝っており、い. ほかのどの共通観念よりも明噺で判然としており、幾何学的論証と比. 述べているように'人間の魂に刻印されている神と徳の共通観念は'. がその者はど弱-弛んでいるわけでほない。アリアノスがいみじ-ち. 討った暑がいたが、しかし、すべての懐疑論者において真理の記憶力. な-鞭打たれたにもかかわらず、帰宅後、自分が打たれたかいなかを. しても'同様のことが言える。かつて路上で血だらけになるまで容赦. において根こぎにされているわけでほない。真理を保持する記憶力に. その境界線に気づかぎるをえなかったのであるが. -. もその者自身の魂からはとばしり出る生ける水の流れのごと-であろ. 者ほ朝ごとにこの天のマナがおのれの魂の頂きにあるのを見つけ、そ. う。その者はおのれの水ための水を飲みて満たされるであろう。その. (47). れを食して永遠に生きるであろう。その者ほよしんば全世界から反論. (48). ジョン・ス、,、ス「神に関する知識にいたるための其の方法」. 九. (49). 矢内.

(10) ジョン・スミス「神に関する知識にいたるための其の方法」 できな-なっているわけでほない。ちょうど地上の物体に対して磁石 の力がなすことを、人間の心に対して理性がなす。理性が差し出され ると、人々の心ほ互いに引き寄せられるのである。さらに、悪しき人 人にも時には悪徳への嫌悪の念が生じ、徳への愛の閃きが見られるこ. とがある.これらほまことの知性に由来する運動であり、彼らの内な るより高次の生のかすかなあがきにほかならない。ただし、それら. を、彼らはその悪しき感覚的生によって再び押さえ付けてしまうので はあるが。書き人々のなかで真理がつねに活動しているわけではない ように、感覚も悪しき人々のなかでつねに活動しているわけではな. かに色の定義や説明を聞かせたとしても、その人にほ色を知覚するこ. を知るからである.. とができないように、およそただの論証によっては知ることができな いもの. そしてさら聖一Tロえば、普通の人々の魂のなかで光を放っている最も. 明噺で最も判明な、真理のもろもろの観念にしても'その本来の状態. を維持しうるようなしかるべき実践を伴わなければ、極度の暗雲に覆. われて暖昧になってしまうであろう。それらのか弱い木ほ、われわれ. の腐敗した感情がたえまな-そこに滴り落ちて、たちまち傷んでしま. うであろう。それらは弱い女性的なものにすぎず、われわれのなかに. 潜んでいるあの荻滑な感覚的生というへどによってひとたまりもな編されてしまうであろう.. ろもろの観念や共通原理に、われわれの内部で眠りを貴らせてお-か. 魂が「肉体で満ちている」かぎり、われわれが、宗教のそれらのも. (53). い。悪しき人々にも時には、平静期、一時的な正気の状態というもの があるであろう.また、何らかの神的な霊が彼らに吹き寄せて息を吹. -. の理性ほ、プロティノスがいみじ-も表現しているように、次第に'. 体になって混じり合おうとするであろう。そしてわれわれの内なるか. ぎり'やがて'あの「生成に関わる力」、動物的生の力がそれらと一. (54). きかけるときにも、その息吹によって、彼らの内なるまことの知性に いささかなりとも火花がおこるであろう。ただし、そのせっか-生じ た知性のきらめ-火花を、彼らはすぐさま再び消そうとし'彼ら自身. ちょうど'日の不自由な人に向かってい. の日を閉じて、あのもっと輝けるわれわれの知性の日、「誰もがもっ. の努力を積み重ねていかなけれはならないのである。われわれは感覚. のみじめな隷属状態から可能なかぎり解放するように、よりいっそう. の肉体的な事柄から自分を取り戻し'われわれの魂をこの卑しい肉へ. を欠いた'濁ったものとなるであろう。それゆえわれわれは、これら. そう溶け合って、それらがつ-りだす知識ほはなほだ水っぽ-、香り. 肉体にどっぷり浸かれば浸かるはど'理性と感覚的生はそれだけいっ. 生から生じる悪しき臆見で汚染されてい-であろう。われわれの魂が. 「後から生じる悪しき臆見と同類」になっていき、われわれの肉体的. (55). の地上の思念の灰のなかに埋めてしまおうとするであろうが。 以上のすべてが、そしてこの議論に関してさらに言われうる多くの ことが徳の道を示すのに役立つであろう。われわれに必要なのほ、わ れわれのなすべきことを知るための手段というよりも、むしろわれわ. れの知りうることをなさんとする意志である。とはいえ'およそ徳と 善に関する内面的な認識から切り離されているようないかなる知識 も、徳と善のまことの生ける感覚から生じる知識とは本性を著しく異 にするoというのも'その感覚こそが徳と善を最もよ-認識するもの であるからであり、その感覚によってのみ'われわれは徳と善のまこ. -. との完全さ'甘美さ、力強さ'優美さを知り、およそ「語ることも記 すこともできない」もの. (52). 矢内.

(11) ってとらえていたにすぎないのである。それに対してこのたびのわれ tLゴス・アポパンティコス. ていながら'はとんど誰もが使っていない」、あのもう一つの魂の目. さて'もしさしつかえなければ、つぎに、感覚的生というこのうえ. 至福なる姿、確固たる姿'不変なる姿を示してくれるであろう.. に注ぐであろう。そしてかかる理性'かかる平静ほ、われわれに神の. ガレ-辛. の平静」によって、知性の平静によって、われわれの心をひたすら神. -・ノエヲ-. われは、「直証的理性」によって、平静なる知性によって、「理性. の目で見るとき、鮮やかに見えるであろう。そのとき、神の世界の光 がわれわれに降り注ぎほじめ'あの聖なる「照明」が、あの永遠に生. な-深い忘却の湖に自分の正気の理性をすっかり溺れさせてしまって. ける不死なる真理のきらめく純粋な光が、われわれのなかに射し込 み、われわれは神自身の光のなかで神を見るであろう.われわれは味. テトスにもとづいてわれわれに示している方法に倣ったものであり'. 「蜜よりも、蜜蜂の巣よりも甘い」であろう。プルタルコスが述べて. いるように、ヘルメスの神官たちも、彼らの聖なる食物を口にしなが. またわれわれがこの間たえず触れてきた四種類の知識を考慮したもの. うるのである。ひとたび理性が神の霊の偉大な力によって高められ、 神と交わるようになるや、理性は感覚になる。それまでほ確実な原理. いわば、それぞれの部分と力をちょうど等し. できあがった複合的で多的な. 人間である。このような人間が手にする知識を、私はプルタルコスの. く取って算術比例させるようにして. わち'魂と肉体から. いはもしそう呼びたければ「多的な人間」であると言ってよい.すな. 第一の段階は「生成界と混じり合ってしまった人間」である。ある. (62). はそのようなものであると言ってよい)'いまや鮮やかな直観となる. のうえに堅固に築かれた信念にすぎなかったものが. (63). ー. 言葉を借りて「暖昧模糊とした臆見」と呼ぶであろう。つまり、感覚. デイアノイ. るであろう。以前のわれわれは神をたんに「論証的理性」によって. のであるが、このたびのわれわれほ「直観的理性」によって神と交わ. り」というキット-を作ったが、たしかにそれは彼らに似合っている. 臆見を生むのである。ストア派の人々は彼らのために「人生は想念な. の最高の理性でさえ「感覚と意見を同じ-し」、両者相謀って卑俗な. もとの原理にならべるこ.とができそうもないような知瓢である。彼ら. ジョン・ス、.、ス「神に関する知識にいたるための其の方法」. tLゴス・アポテイクティコス. とらえていたにすぎない。すなわち、難問や、様々な意見がやりとり. と理性がひどくもつれあってしまっており、そのためそれを掩どいて. (64). される激しい論争に取り組んで臓烈に格闘し、またそれ自身でもつぎ. ス. であろう。彼らの人生はもっばら臆見と想像力によって操られている. -. つぎに清輝を重ねてい-ことに苦心する'闘い'争い'競う理性によ. ヌ. われわれはたんに「論証能力」によって神と交わっていたにすぎない. ア. のである.プラ-ン主義者たちがつねに区別していたごとく、以前の. (われわれの学問. -. 甘-、何と棄味なることかは、ただ、それを現に味わう者のみが語り. ら、「真理は甘い」と大声で言うのがつねであった。だが、天の生ま. 段階に分類してみよう。この分類は、すでにシソブリキオスがエビク. いるエピクロスの徒の獣のごとき一群を除いて'残りの人間を四つの. 矢内. わうであろう'この知識の果実の甘きこと、美味なることを。それは. (60). (57). 言っているのであるが、その目を開かなければならないのである。こ. を開かなければならない。哲学者があれわれの知性能力のことをそう. (56). である。. (61). (58). れの聖なる魂が神との神秘的な交わりにおいて食む、かの真理の何と. (59).

(12) ジfnソ・ス,、、ス「神紅関する知識紅いたるための其の方法」. ができるからである。それゆえかのストア派の人物も「このような者. てやることによって、それらで空腹を満たして活力空荷めてやること-. 一二. ゆえ魂がたえず肉体と肉体的情念から飛び去り、自己自身に回帰しっ. がより低次のこの人間的徳によってすでに浄化されている人間、それ. 第三の段階は「すでに浄化されている人間」である。すなわち、魂. あろうからである。. 践を積んでそれに水を注いでやれば、彼らの内部でそ加が芽を出すで. 整っていないにしても(それはより高次な流出物である)、しかし人 間的徳については、決してその機が熟していないわけではないのであ る。彼らはすでにその種子を自分の内部に宿しており'しかるべき実. である。そして彼らには神的徳を受け入れるだけの準備はまだ十分に. 政治的・倫理的徳に関する教えを授けてしかるべきであると考えたの. には倫理的・政治的徳がふさわしい」'つまり、このような人々に紘. (69). からである。神や宗教に関する彼らのより高次な観念にしても'肉の 情念と地上の虚栄という鳥もちのわなにかかってしまっており、その ため、この暗い土の表面から舞い立つことができず、天上の事柄をた だ地上的にとらえることしかとてもできそうにない.ここに張り付け. られているような魂は、プラトンの言うように「重荷を背負って」い るのであり、この世の中心に向かってたえず下へと突き進んでいるの であるoそしてこのような魂にしても'クモのように、時には空中の. 高いところで上下しながら動いているように見えることがあるかもし れないが、しかし、しよせんは巣のなかにとどまり、自分の粗雑な空 想が織りなした巣のなかを動いているだけであり、しかもその巣ほ何 がしかの地上物にくくってとめてあるのである。. 第二の段階は「その本質が理知的生にある人間」である。すなわ ち、自分自身を肉体よりもむしろ魂によってあるものであると見てお り'自分の顔を見るのに理性と知性以外の鏡を用いることをよしとせ. ず、自分の魂を支配者たるべくつくられたものと考え、自分の肉体を 服従すべく生まれたもの、侍女のように、より高貴な自分の主人にい つも仕えるべく生まれたものとみなしている人間である。このような. 人間にほ徳と善の共通観念ないし共通原理がより明噺かつ確固たる形 で見られる。このような人間に対してわれわれは「より明噺かつ判明 な臆見」を割り当てることができるであろう。この人間はすでに「浄. やる以前の段階では、それら自身だけでは貧弱で空ろで腹を空かせた. (70). (65). るそれらの生得観念は、まことの徳の実践という食事を十分に与えて. にふさわしい者にほなっているからである.というのも、真理に関す. 化の途上にある」か、あるいは少な-とも信仰の小秘儀を授けられる. (68). が言わんとした意味よりも悪い意味で)「自分自身の本性によって満. の最も洗練された道徳哲学者たちでさえその多-が、(プロティノス. ぎり、それはただちに腐敗堕落Lがちであると言ってよい。われわれ. ているからである。しかし、この知識がこの段階にとどまっているか. 覚が、それらに関するすべてのたんなる思弁的臆見をはるかに凌駕し. 当てることができるであろう。徳と道徳的善を感じ取る彼らの内的感. てはわれわれは「私生児的な虹%],つまり,より低次の学知を割り. 汚れから逃虹ei)']人々がそのような人間である・これらの人々に対し. つある人間である。聖ベトロの言葉にある「情欲に染まったこの世の. (71). (66). 代物にすぎないが、しかしまことの徳に関する規則や教則をあてがっ. 大きく膨らみすぎていると言ってよいoそしてこの感覚の奥底には自. あろう。彼らの魂は自分自身の徳と知識を得意に感じる感覚によって. たされている」'つまり、自分自身を苧んで腹が一杯になっているで. (74). (67). 矢内.

(13) 第四の段階は「観想的人間」である。「自分の錘知的生を1気に過. ヘ-・ヘアウトウ-・tlギケ-・ゾ-エ-. 強まり、神的生にまことに与ることL4Jb到底望みえな-なるであろう。. 越し、自己全体がより優れた老たちの1員になろうと欲する」まこと. 己愛というよこしまな酵母が潜んでおり'それが高慢や尊大や自惚れ でその感覚をますます膨らませ、のぼせあがらせるであろう。徳と知. の形而上学的・観想的人間、すなわち、自分の理知的生(ないし自分. ヒズ・オウソ・t1ジカル・ライフ. 識は神の御意みによって、本来、悪霊への防御を強化することを目的. 矢内. とした軍隊として、われわれに与えられているのであるが、しかしこ. (77). (78). ウサニアスがところどころで語っているあのエロスとアンテロスのま. ヒズ・セ. この神的な愛と純潔のはうも神的知識を高めてい-。それら両者はパ. 的美を愛する老にし'美しい者、愛らしい老にする.そして道にまた. 「美しい者、愛らしい老にする(云々)」'すなわち、われわれを、神. (a). にはかならない。プロティノスが語っているように、この神的知識は. を強く熱烈に求める愛によって生み出されたその完全性の生きた似姿. つになる幸福な結合によって生まれ出るのであ-、神のごとき完全性. な知識ほ神的徳をつねに宿しており、そしてこの神的徳は魂が神と一. の神的知恵を割り当てるのがつねである。彼らが言うには、そのよう. 「理性的生において」力強-現われる「神的知識」、つまり、まこと. トン主義者たちはこのような人間に対して、彼らの言葉を借りれば、. づいてそれと一つになろうとひたすら努めるような人間である。プラ. ば'それを神の存在の中心と結び合わせ、神の本質に可能なかぎり近. せ」'すなわち、いやし-も自己の中心というものをもっているなら. 自分を抜け出て、プロティノスの言うように「中心を中心と結び合わ. ことの形而上学的・観想的人間であるo遍き愛と聖なる感情によって. の理知的生)を一気に超越し、華南の生にまっしぐらに突入する、ま. ル7=ヲシmナル・ライフ. (79). の軍隊はわれわれ自身の高慢の反乱によって悪用されうるのである。 高慢は天に忠誠を誓っているこの軍隊をた-みに取り込んで、われわ. れの魂のなかで勢力をふやし、ついにほわれわれの魂を天に背かせよ うとするであろう。ちょうど、知恵と徳で自分の心の武装を十分に整. えたと思ったとき「知者はユピテルとさえ幸福を競うであろう」と高 らかに宣うた、ストア派のかの増上慢がそのようであった。かかる輩. は知恵と徳で架空の天国をこしらえ、そこに自画自賛の壁をめぐら し'あげくはそこに神々として鎮座ましますであろう。その昔自分の 神殿にほかならぬ自分自身を絶って物笑いの種になったペルシア王コ スロエスがちょうどそのようであったoそれゆえ、もしこの段階の知 識が謙虚さを伴わず、おのれの貧しさやおのれの虚しさの深い感覚を 伴わなければどうなるか。おそら-われわれは、神に関するあのまこ との知識を自分ではひたすら求めていると思っていながらも、そこに. いたりえないであろうOおのれの計画像をたえず自分の眼前に掲げて いるために、それが邪魔をして神をはっきりと見ることができないは. めに陥るであろう。そして、虚栄心や俗受けのような悪徳のために再 び虚栄などといった地上的・外面的なものへと逆戻りするというわけ でほないにしても(だがさらに上昇しなければ、すべてではないにし. の段階に安住しょうとする債向がはなはだ "ス「神に関する知識にいたるための其の方法」. もない、まことの正気のキリスト着であるoすなわち、生命そのもの. たちには失礼ながら、このような生と知識にとりわけ与る者ほほかで. うに、1緒になって成長してい-のである。ただし、プープト.ン主義者. (81). (75). ても多-の老がそこまで堕落する)、たんなる理知的生(これほシソ. ジョン・ス・_. プリキオスの表現である). (76).

(14) ジョソ・ス,.、ス「神に関する知識にいたるための其の方法」. である神のうちに生き、真理そのものである神によって光を与えら れ、聖ヨハネの言う'神的塗油に与る老とされて「何もかもを知って. いる」、まことの正気のキリ・r(卜者こそがそのような生と知識にと.り. わけ与るのである。そのような生ほ、かかるキリスト老の内なる、神 (8). (朗). 自身の息にほかならず、かかるキリスト者の魂のなかで形づくられ、. にほかならない.だがしかし'. ある意味で「父なる神の栄光の輝き」である幼子キリスト(私にこの. 表現を用いることが許されるならば) われわれほ間違えてはならない。そのような知識はこの地上において. 死が生にすっかり飲み込まれ消え失せてしまうであろ. よって、敬度な魂をもつ人々はあの幸いなる時を切望するようになる のである. ぅ、あの辛いなる時を。神の幸いなる姿を隠している、かの瀧げな鏡. を通して神を見るということがもはやないであろう、あの幸いなる時. 1〇.また「琴言」一・七、九・10を参照。. プロティノス1・八・1・八。. 「歳言」九・ 「詩編」. 「マタイによる福音書」五 ちは神を見るであろうから」 プロティノスT・六・九.. ・八「心の清い人々は幸いあでる.その人た. :I..那.‥.. は幼児期にあるにすぎないoさらに高次の知識、もしくはその知識の. よ旦島次の段階というものが存在する。ただし、かかる高次の知識は この地上に住めるわれわれのところまでは降りきたらない、いな、降 りきたるはずがないのである。この地上では「明るい鏡のうちに」見. -. プロティノス一・六・九.. 三二-三三を参照。. ・'・i... を参照。. '.W;I. 1. 矢内. 浄の露を吹きかけ続け、それをきたなく汚してしまい'そのためわれ われほそこに神の姿をあるがままに映して見ることができないのであ るoだがしかし、われわれの与りうるのがこのような知識であるにし. ても、それほあ-まで、神自身の祭壇から火を分けたまことの天上の 火である。それは書き人々の魂に不屈の勇気をもたらし、彼らに、こ の地上の生活が神にかかわる事柄と比較して何とみすぼらしく取るに たりない屑であるかを悟らせて'地上の生活に聖なる蔑みの念を懐か. せうるのであり、また、食事にさいしてただ肉の快楽のたんなる度し か口にするものがない、あのあわれな獣のごときエピクロスの徒たち に憐れみの情を懐かせうるのであるo神のこのような姿を見ることに. (9) (14) (13) (12) (ll) (10). 最高の活動にさえたえずつきまとい、われわれの知性の澄んだ鏡に不. 二六・五五を参照。. l以下の「洞窟の比喰」を参照o. プラ-ソ『国家』六二1cl-二「忘却の河」、プロティノス四・三・. 二1九頁)を参照。 プラトン『国家』五1四A. 訳編『ルネサンスの人間論-原典翻訳集-』有信堂高文社. 7九八四年、. ピ-コ・デッラ・・"]フソドラ『人間の尊厳匠ついての演説』(佐藤三夫. 「創世記」二・九を参照。. 「詩編」三四・九。. 「ヨハネの手紙こ一・一を参照。. この語句はプロティノスにないが、1・二・六・7三を参照o. 「ルカによる福音書」 二四・五を参照。. 六・七・一三・三四。. プラ・Lン『パイドロス』二四八B六'プロティノス1・三・四・ll.. ことしかできないので鮎.霊宝自身の想像力がわれわれの魂の 「コリントの信徒への手紙一」八二。. ることほ不可能である。ここではただ鏡のう・ちに、しかも瀧げに見る. v^三互互. 1. 杏.u. 3:三三‡翌 5 6. 7. 8. (82).

(15) 「ベトPの手紙二」. キケロ『トクスクルム論議』二・四二1 「自説を知識の誇示と考A. 五五九B二〇以下を参照.. ある」を参照。「夙卵・無精卵」についてほ、アリストテレス『動物記』. 御なのである。コウノトリは巣にプラタナスの葉をかぶせるoすると、コ ウモリがその葉に近づくや、麻捧して害を加えることができな-なるので. ものにしてしまうからである。そこで'そうさせないための処置がその防. モリが危害を加えようとするのを'まことに賢明に防御する。というの も'コウモリはその卵にただ触れただけで、それを風卵にし、僻化しない. アイリアノス『動物特性論』 l・1二七「コウノト-は'自分の卵にコウ. 六を参照。 「詩編」一二・三を参照。 プロティノス一・六・五・四一-四三。. 「詩編」九二・七を参照。. 「ヨハネにょる福音書」一・五を参照。. 1・九。. プリニウス『博物誌』九・一四三、アイリアノス『動物特性論』. (a). ず'生活を律するものと考える暑が、いかにわずかであるか」を参照。 「創世記」四一・三-四'1九-二1'二七を参照.. 「テモテへの手続二」三・七を参照。. 秘儀に与る者を「ユボブテ-ス」と言った。プラトン『饗宴』二一〇A一、 「エフェソの信徒への手紙」四・二1を参照。. 「パイドロス」二五〇c四を参照。. 「コリントの信徒への手紙二」五・1六を参照.. 「コリントの信徒への手紙こ二・10を参照. アリストバネス『雲』二二五のソクラテスの言葉。 プロティノス二・九・一五・三三。. プロティノス二・九・一五・三九-四〇を参照. 「ヨハネによる福音書」七・1七.. ( (. 「ベトPの手筋二」. プラトン. プラトン. プラトン. ス一・四・. 四・二-三、二・九・六・四〇-四1などを参照.. 『パイドン』八1A一-二。同書六七E四-五'六四A四!B. 1・二'六三、一一七を参照.. l・四二'五三1五入を. ラ派の哲学者ディオドロスを挙げている。しかし、むしろ無神論者・快楽. ついて』. 二1、二九'六三、1 1七をも参照. どのディオドロスのことが言われているか明確でない。craggほメガ. としないし、人間の命も短いからである」を参照。キケロ『神々の本性に. ないということも、その或るものがどのような姿をしているかということ も。なぜなら、知ることを妨げるものが多いからである。それははっきり. 断片四「神々について私は知りえない、存在するということも'存在し. ロ『神々の本性について』. 無神論者として知られていたメロス島出身の前五世紀の拝情詩人.キケ. 三三、四九-五一、五入を参照.. 「出エジプト記」1六・1四-三五、「ヨハネにょる福音書」六・三一-. 「琴言」五・一五を参照。. 「ヨハネによる福音書」七・三八を参照。. 「マタイによる福音書」七・八、「ルカによる福音書」一丁一〇を秦. 参照。. フランシス・べ-コソ『ノダム・オルガヌム』. 「洞窟の比喰」を参照。. プロティノス二・九・六・八-九.プラトン『国家』五1四Al以下の. 九をも参照。. 『パイドン』六七c六-七'D四-五、九-10、プロティノ. イアンプリコス『ビュタゴラス的生活』七1-七二を参照o 『ソビステス』二五三E五-六を参照o. アリストテレス『エコマコス倫理学』一〇九五A二以下。. プロティノスにはこの語句は見当たらない。. l・八を参照。. 「コリントの信徒への手紙1]二・1四を参照.. (g). (4). 46. 丁三. ジョン・スミス「神に関する知識にいたるための其の方法」. ). 照。. ヽー ヽ-・′ ヽ・_.ノ. ) ヽー. 亡ヨ■::l 亡竺=l. ′■-ヽ. ( ( ( ′、. 35 414039383736. (4 2) (. 47. (45) ′■ヽ. ). 亡■ら \._′. ′ 、. 49. 48 Ei■コ. エレウシス秘儀において、小秘儀に与る「-エステ-ス」に対して'大. ヽ J. ). 1. ) ). 50. ). 8). 2221 \-_′. 26 25 ). 3332 ). Eu. 1). (17) ). (. 23. Eid. 27 3029. (. 34. 185. (5. (20) (19)(1 ′ ヽ ( Eu Eu. 28. ′一ヽ. 31. (. ′′■■ヽ. ′ヽ. (. )、J)\ノ、J. (. 矢内.

(16) in. 1・二'六三、二七. ジョン・ス・・,ス「神に関する知識にいたるための真の方法」 『神々の本性について』. でディアゴラス'プロタゴラスとともに名前が挙げられているキュレネ派. 論者として知られ'キケロ のテオドnス. Discourses,p.53をも参照.. (前四世紀後半). のことが言われていると思われる.)ohm. Smith,Select. プロティノス六・九・四・一1-二一を参照. プロティノス六・七・二六・二二を参照。 プロクロス『神学綱要』二〇九を参照。. プロティノス三・五・七・三九。ただし'その箇所のス-スの読みは今 日のふつうの読みと異なる。 プロティノス一・六・八・二六-二七。. 「詩編」 1九・1 1。. プロティノス一・八・l四・四1'六・九・七・1六他を参照.. 『イシスとオシリスについて』三七八B.. Enchiridion.in(.Schweighaevser(ed.),EpicteteaePhiloso・. 上記注(16) を参照。 シソプリキオス『エビクテトス『提要』注解』(SimpliciiCommentarius Epicteii. )977).). ヽー. プルクルコス. phiae. シソブリキオス同書四c。. 「序言」を参照。 シソブリキオス同書四c。「世の多くの人」、「世人」、「俗人」などと訳 すことができ、またそのような意味がこめられているとも見ることができ. プルタルコスの出典未詳。プロティノス三・六・四二二を参照。. るが、このように訳しておく。. シソブリキオス上掲書四B、五A。二Bをも参照。. プラトンではな-'プロティノスの言葉(六・九・四・二二)0. シソブリキオス同書六Bを参照。 上記注(27)を参照。 シソプリキオス上掲書五A。. 83. ) ヽー. 84 85. Monu7nenta.tom.rV.Lipsiae.)800(rpt.Hildesheim. シソプリキオス同書四A-Bを参照。. (71). (73)(72) ′ーヽ. (82)(81)(80)(79) (78)(77) (76)(75)(74) (. \_′■. 60595857. ). ). ′一■ヽ. 61. (. ). ) ) ) ) ) ) ) ). ヽ. ) J. ^ ^. ヽ. ヽー. ′. 52 \.ー■. 53 55. .^ .^. 56. 54. ′、. ( ′ーヽ ′ ヽ. (6 (62) 3) (. (. (. (64) .ー\. ( (. 6665 70696867. の. 矢内. シソブリキオス同書四Bを参照.John. 「ベトロの手紙二」一・四'二・二〇を参照。. Smith.op.cit.,p.387. プラトン『ティマイオス』五二B二、プロティノス二・四・1〇・一一. ・1三を参照o. 〓ハ. 「ヘブライ人への手紙」一・三を参照。. 三・二〇を挙げているが、適切でないであろう。). 「コリントの信徒への手紙1]三・1'1三・1. 「コリントの信徒への手紙こ 1三・1二を参照.. 1を参照o. をも参. 「ヨハネの手紙こ二・二〇を参照。(CraggとPatridesほともに同書. パウサニアス1・三〇・1'六・二三・三、五を参照。. プロティノス1・六・七・三〇.. プロティノス六・九・一〇・1七を参照.. シソプリキオス同書四B。. シソプリキオス上掲書四B.. 上記注(66)を参照。. セネカ『道徳書簡』二五・四を参照。. プロティノス三・五・七y. を参照。. 照。.

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参照

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