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教師の基礎的修業についての一考察 : 泉野方式を中心として

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(1)教師の基礎的修業についての一考察 -泉野方式を中心として信州教育第2報告 松. A. Study. Izumino. the. on. Plan. Second. The. 治. How. or. You.ng. a. of. 賢. 本. Training. be. Teaeber. Report. Basic. the. of an Education Japan. in Shinshu,. MATSUMOTO*. Kenji. StJMA(ART We. in this. try,. to. thesis,. educational. practice in other countries, is training its central theme of the in且uential uld be one is so The lzumino plan unknown. lage. Fujimori teacher.. graduating There he. de丘nitely. and School. he. and. was. and. become. to. the. next. plan. According. to. the. plan,. lesson early serves. as. preparation bone, be In short, professional at Tzumino,. a. and teacher for the. study he was. *教育学教室(Dept.. dayJs. next any. he. and teacher. He. second. to. used. to. year. visit the. as. Suwa school. Normal. with himself. his pupils. teach. at. vilSh6go. Kubota,. originally. train. small was. the Nagano. school.. famous. should. should. the. was. plan became. Fujimori. sho-. elementary Moriya and. entranced teacher. After Izumino. a. born. was. Ee. regular of the This. that. at. serving There. he. Fujimori's. called this as. if he. his. class, he seventh,. several remained. plan・ follows・ is. a. The. student・ his. criticize is to get. up. Then, be or at school, Japanese of Chinese classics・ before leaving be should have and, school, completed bo血e Without bag・ In the evening, lesson, so be goes at. one. read some devotedly. should study his time-table. a. teachers,. eminent. teacher・. good. Izumino's. is the preparation period・ in his college days. Everyday, to teach. From how and guide. morning. aI一unquali丘ed. teacher,. a. 丘rst year teacher. school.. (1928-1943).. years about丘fteen kinds for of three study. He. village. two. our. rather. herself. or. Its founder. became. by. improve. lzumino,. at. there,. school-master. served. use. Shinshu.. of the. became. year. the. a. himself. teacher. into. area,. mountainous. to. seems plan for the reason. improvement.. of educational it was brought. as. This. evaltlatioll. the. and. intent. an. with. schools.. higher. teacher. middle school deeply influenced. appointed. was. however,. schoolmaster. the. determined. 1908. at. schools,. the. plan. high. and. young. moments. called Yatsugatake. of the. (1885-1945),. after. and,. foot. the. at. a. of. lzumino. the. exemplify in elementary deserving,. chie丑y. learnlng,. is divided. of any aTId that in general an of Educationl. e・g・ into. pbilosopby, three kinds:. scienti丘c excellent. teacher,. history, and so on・ heritage, cultural of our seven be丘nisbed years. mathematics,. studyir)g learning. When man. of consciousness. and. learnlng・.

(2) 2. 松 We. In have. draw. may. How. 1). some. tbe丘rst his. ideal. an. should. a. place,. lifelong. own. man. will. How. 2). A. a. should. years. thirty. to to. to. His. cultural. bow. his life. he as. object. but. will. so,. studying may. read. moreover,. can't. that. realize. classics,. of He. should He. is. teacher's. of. teaching what in. our. in. and. until. The. a. get is.. as. a. place,. learning,. and to. useless. and. that. human. begin. heritage,. and. SCbolar. but. wisdom. teacher,. to. 3. 修養の内容とねらい. 泉野方式の出発点. 4. 学問の内容とねらい. 知識と体験. 2. 新らしい意味の発見. 1. to. be. 泉野方式の原理的考察 理想の教師像. 3. 教師への開眼. 2. "Slow. 4. 伝統教育の教訓. 3. ムダな学問のすすめ. Ⅲ. some. study any丘eld a. of true. literature, history g. philosophy, They be di缶cult may of top level・ his profession directly, but don't is a】ways Its skelton out sight. of. 小論の意図と課題-その構成-執筆事情. 結. of. from. of pleasure and be il一eVitably. meantime,. a. gra-. is. young. sentiment should. from. e.. originality. skelton-making, doubted.. he. forty. counts. a. 「ゆたかさ」と「たしかさ」. 方式の全貌. sincere. days. second. is. So. In the. cultural precious is not to become. seem. last. pure. most. any. The. 2. 泉野方式の展開. The. long,. years. eight. 1. 1. com皿OnneSS,. made? his young. retirement,. "novice".. second. 序. Ⅱ. of. now. teacher.. a. skelton・making.. education. is in be. live. the. learning. choose books of may. be. i.e.. is, and throughout his. truth lover. teacher. time,. same. tradition,. in education, a. the. at. toward. passion. college graduation is seven or The丘rst. periods.. problems,. course.. thereof.. signi丘cance. pupil. our. live?. hi工-itselfto. Japanese. They,. read・. mind. he. di缶cult and. on,. devote. Then. of. so. and. strong. and. upon. good. in. life, after. think,. we. all,. satisfaction・ faces many. teacher,. three. a. above.. the period thirty years about old, and of forty・丘ve, full of activities and self-reliance.. above. of Chinese learnillg.. teacher. young. has. first period,. should,. in且uence. professional It. so・. duation. de丘nite. a. teacher's or. The. have. a. fundamental,. most. be. of high血issioⅡ How can such. man. backbone.. is the. study. truth. a. have. should. be. and. practice. novice. be. was. 治. the. should. This. teacher.. courage. of. teaching. teacher. good. 賢. from. generalizations teacher be?. Then, will be in future. then, be should life. And and. 本. but. steady". 語 〔付篇〕泉野方式体験記(村田好道).

(3) 教師の基礎的修業についての一考察. 3. 序 (1)小論の意図と課題 (2)小論の構成 (3)執筆の契機-第2次信州旅行 (1)小論の意図と課題 標題が暗示するごとく,この論文は信州教育研究の一部であって,この地において広く 知られている青年教師育成の典型的なやり方,すなわち泉野(諏訪郡泉野村,現在は茅野 市)方式を考察の中心としているものである。もっとも泉野方式という名称は私が便宜上 命名したもので,信州では「藤森省吾先生の三種の勉強法」として通っている。これは蘇 森先生の晩年(昭和3年から18年まで),心血をそそいで僻地振興のために尽された実践 の一部であり,特に青年教師がこの課題のにない手として育成されることに最大の重点を おいたもので,着眼がすぐれ,影響の深大なることにおいて,単に信州という一地方の教 育事実たるにとどまるべきものでない。 私は日本の教育がいま教師たらんとして大学に学びつつあるものたちの双肩にかかって. いることを考え,そのような大学で教員養成の一端をになう自分の立場から,いかにして 学生たちを次代のよき教育者として育成すべきかに常日頃J[Jを用いてきた.同時にしかし,. 現代の状況において学生にそのような自覚をもたしめることの至難さを痛感せずにはおら れないものがある。ところで,泉野方式を知ることによって,学生時代の不十分不徹底を 補うには,かれらが教職につき児童の前に責任あるものとして立ってから後の修行がとり わけ重要であることを悟った次第である。もちろん,それだからといって,大学教育の欠 陥をあげて現職教育におんぶしようというのではない。むしろ各々の重点を明らかにし, かつこれを徹底させることをねがってのことに他ならない。 (付篇参照.以下体験記とはこのもの この論文では,泉野方式を村田好道民の「体験記」 をいう。)を主要な拠り所として全貌を解明するとともに,その基底をなしているとおもわ れる原理的問題を究明して普遍化の方向を探ろうと試みた。いまは時代がちがい,また場 所もちがう。泉野方式を旧のままで実行しようとしてもこれは恐らく無理だし成功の見込 みも乏しいといわねばなるまい。にも拘わらず,この方式の精神にいたっては珠玉のごと く光るものがある。小論は文字通り模索にすぎず,むしろ問題の提起というのが適当かも 知れない。 (2)小論の構成 小論は全部で3章から成る。. Ⅰでは,教師の勉強がどこまでも児童との共同的な営み. (教育実践)を主軸として展開すべきこと,ことに学生時代の観念的立場から就職後の現実 的立場への転換によりはじめて主体的な研究の基礎が置かれ,ここに教師一生の骨髄とも いうべきものの構築がなされることを述べるo教師としての主体的自覚はかれらが責任の.

(4) 4. 松. 本. 賢. 治. 地位におかれてからのことであり,責任に徹する行動をぬきにして一切の勉強は力あるも のとなることができない。青年教師の時期においてそのことが特に強調さるべきだと考え る。この意味で,日々の子どもとの生活を大切にし,それを充実させること,この行為,. この事突こそ,教師の一生の基礎をきずくと考えねばならぬ。最初の出発点を誤まっては ならぬのであるo. Ⅱほ,上の出発点から発して若い教師がまず自己を人間としてゆたかな,たしかなもの とする具体的方策,すなわち泉野方式の何たるかの解明に当てられる。それによれば青年 教師は学校で教師として子どもを指導するとともに,登校前に経典語録などをよんで修養 につとめ,帰宅後はかつての学生時代にかえって学問を自学することが要請される。朝, 昼,夜それぞれに別種の勉強が配置されるところから三種の勉強法の名がある。しかもそ. れの実行は凡人であっても努力さえすれば不可能でなく,秀才と嘩もそれなしには至難事 である。. (小論の付篇は新卒教師として7年間親しく藤森先生の指導下にあった筆者の体. 験記として興味深い。) Ⅲでは主として泉野方式の根底をなし,またなすべき原理問題をとりあげ,それによっ てこの方式の普遍的意義をたしかめようとした.現代化,都会化はとめようとしても甲斐 なき時代の動向かもしれない。しかしそのことに教育まで無自覚に同調していては問題に ならぬ。そのことをここでは考えたい。. たとえば,すべては能率と効用を生活原理とするのがこんにちの大勢だが,これが全部 であるかに考えられるところに大きな問題があろう。教師のばあいでいえば,とりわけ青 年時代の教養としてはむしろ直接有用をめざさない,むしろ「無用の学問」こそ本すじで はないか,との論旨を展開してみた。. (3)執筆事情一第2次信州旅行 小論は本学教育学科3回生とともに行なった信州-の実地桝究旅行からの収獲の一部で. ある。筆者はさきに(1962年11月)同じく学生をつれて信州に赴いたが,その瞳の調 査と体験がまとめられて「教育精神の継承と高揚」. (本紀要,第3集,. 1963.. 11月)とな. った。それはいわば筆者の信州教育研究の序論に当る。今回のものはこれを承けて,いわ ば各論の最初ということになるo こん回の旅行は「教師開眼」過程の研究をテーマとしており,教職についた青年が自己 の職分にめぎめ,ひきいれられて行くプロセスを信州の先生方の体験にきくことに主眼を おいた。第1回のときとちがい,この度はテーマをしぼったことおよびその他の関係もあ. って,場所も上田地区と奥信濃柏原にえらんだ。上田は上小教育の中心地,そこに同教育 会の事務所があり,その2階で教育会幹部の先生方からお話しをうかがい(第1日),翌日 は中塩田小学校で終日授業参観と研究会をもつことができた。第3日は柏原に行って,中. 村貫-先生の指導に接し,信濃の生んだ薄幸の詩人小林一茶の遺品遺跡をつぶさにみるこ とを得た。この旅行中,たまたま泉野で青年時代をおくり,親しく藤森先生の指導を受け られた村田好道民にお桝こかかり,その体験記を読ませていただくを得たのは幸運であっ た。そしてこんど参観した中塩田でも,また筆者の知る限りの小中学校でも,泉野方式の.

(5) 教師の基礎的修業についての一考察. 精神は脈々とうけつがれているのを知って,すぐれた遺産の真価を深く考えざるを得ない のである。. なお,小論は直接には前記の体験記をもととしており,またそれは広く一般に読まれる に値いすると考えて著者の諒解を得た上本稿の付篇として再録したので,小論とあわせて これをよんでほしいとおもう。あるいは付篇の方を先に読まれるのが便宜かとも思われる。 敢えて希望を記す次第である。. Ⅰ. 泉野方式の出発点. 1知識と体験. 泉野方式の第1年は教生の徹底的復習ということである。学生時代に経験してきたこと を一人前になってからもう一度やれというのである。初任者教育として全く型破りのこの 出発,そこになみなみならぬ洞察と決意のほどがうかがわれるのである。 初任者教育の例は,別にめずらしいことでないが,多くは講習会形式によるもの。内容 も実際上の知識や心得といったものが多い。当面必要な知識をできるだけまとめて教え, あとはその実行に期待するというわけである。ところが泉野方式は,教師となったその日 から教師一生の勉強がはじまるとし,その基礎づくりを子どもとの毎日の生活の中に行な わせようとする。かれは昨日までとは全く立場がちがうのである。教えをうけるのでなく. 教えるものとなったのである.観念の上では誰にもわかりきったことながら,その事実を 徹底的に生活をとおして体験体得させることからほじめるのだ。 学校は知識を受容させるところであり,実社会はこれを実行にうつすところだというの が,大ざっばにいって,明治いらいの伝統的な考え方であった。そこでしばしば,学校で 学んだことはやくに立たないといわれてきた。どちらにもそれぞれ一面の真理はあるのだ. ろう。同時にどちらの認識にも誤りがありそうである。 い剖まこの問題に深入りする余裕がないけれども,観念的に受容しうる知識は知識の全 部でないことをここで確認しておきたい。肝要なのは既成品的知識の受容ではなく,むし. ろ主体的にこれを発見し創造して行く態度であり,その発見創造の過程である。そのため には知識の根源たる生活の事実と真剣に取組むことが必要なのである. 教育に関する知識も例外でない。自分自身,子どもと一緒に生活すること,責任主体と して行動することによってのみ,生きた知識が生み出されてくる。結果からいえば,それ は,教育原理や教育心理学できいたことと一致するかも知れぬが,もはや単なる観念的知 識ではないはずだ。いや,そうした知識自体よりも,さし当ってもっと大切なのは,子ど ものたましいとのふれあいによる教育の生命の感得ということであろう。一生をこのしご とにささげで悔いるところがないという気持,これが生れるならば,それこそ最大の収獲 といえるだろう。. (去就はなるべく早い時期にはっきりきめるべきものだ。教師のように,. その仕事ぶりが大きくひびく性質のものにあってはなおのことである0). 5.

(6) 6. 松 2. 本. 賢. 治. 新らししヽ意味の発見. 筆者はかつて教員養成大学のカリキュラムを論じて,教育実習に特別の役割を与えなけ ればならぬと述べた(拙稿,大学の目的と教育学カリキュラム,本紀要第5集,. 1965)0 教師養成の目的大学の是非は議論のあるところだが,現在の諸事情からみて,それは恐ら く社会的必要があるとせねばなるまい。この種の大学が存在理由をもつ以上,その教育の 重点の一つは学生をして教育者として立つという自覚ないし姿勢をもたせることでなけれ ばならない。実情はしかし,もともとその趣旨で設けられ,その教育目的は入学時から明 示されているに拘わらず,学生は必らずしも教師志望でないものがおり,大半は免許状を とるものの,最後まで進路に迷うものも決して稀でない。そのことについて,ある論者は, 在学中はそのようなものも多いが,卒業生の大部分は教師になって行くから心配はない, という注1。がこれは少々らんぼうな議論ではあるまいか。大学の性格なり内容から結果 として大多数が教師になるという現状こそ問題ではないか。そのようにして生産されるサ ラリ-マン教師,デモシカ教師のはんらんは,この種の大学にとって致命傷ともいうべき 重大な問題だと考えざるを得ないのである*。. そこで私はできるだけ早い機会に学生をして教育実習の体験をさせる必要があると信じ ている。といっても相手はモルモットでない以上,ある程度大学の課程がすすんでからと. いうことになるが,卒業直前の第4年次ではややおそきにすぎるとおもう.カ1)キュラム をくみかえて第2年次の最後にするか,おそくとも第3年次にこれをさせるのがよいと考 える。. 教育実習はなるほど先生の「まねごと」だともいえようが,少なくとも1学級の児童生 徒の前に教師として立つのであり,教生本人としては全くはじめての経験である。教えら れる立場からの180度の転換である。教師というものについての従来の既成観念はこの間 の体験によって完全に打ちくだかれることもあろうoそうでないまでも,何ほどかの新ら しい意味や意義をこの体験的事実の中から発見することであろう。 教育実習の効果としてはさまざまな点が従来から指摘されている。たとえば,次のごと き具体的認識一教育という仕事は決して安易にできるものでないo子どもは実にいろい. ろであり,その能力,性質,行動において一人一人ちがうものである。子どもの教育は辛 いこともあるが楽しい仕事である。等々。ところでそのようなことは,かれがすでに理論 としては十分に学んだはずのものだ。ただ,実習時,そのような知識は多くは忘れられて いるから,事実上自分で発見したというのに近い。. 周知のようにこの教育実習を旧制師範は特に重視したのであった。実習は専ら付属校で 行なわれ,付属が教生を迎えこれを指導するやりかた,特にその気構えは,教生自身のそ れと相呼応して,真剣そのものであったといわれる。制度がかわって大学になってからは 一般にそうした熱意はうすれたようだ。大学の制度上の問題もあり,何よりも時代の風潮 *当初デモシカ教師として出発しながら,教師としての生活の中で使命感にめざめ,他日すぐれた 実践家となった人の少なくないことを知らぬではない。だがそのような人の多くは教師養成以外 の学校出身に多い。この点を見おとしてはなるまい。.

(7) 教師の基礎的修業についての一考察. が大きいといえようが,教育実習こそ教員養成学校のカリキュラムのなかで独特の意義を もたせるべきものだ。これをお座なりの単位計算の問題としてはならないはずと思う.節. 範教育は決してマイナスばかりであったのではない。学ぶべき遺産の一つが正にここにあ るというべきであるo. それはともかく,一度教育実習を経験してくると,学生の勉学態度に大なり小なり歴然 たる変化が生じてくる。つまり真剣味が加わり,確実さと豊富さを求めるようになり,そ れ以前のあいまいさが影をひそめるようになる。実習をなるべく早期にと主張する最大の 理由は,このような態度の変化に大きな意味があると考えるからである。 3. 教師への開眼. いうまでもなく学校を出て教職につくということは,社会人としての第一歩を教育界に ふみ入れることであり,さきの用語をくりかえすならば180oの転換をすることである。 この転換の事実を主体的にどのような受けとめ方をするかが問題なのだ.往々みられる ごとく,安易な気持でズルズルということならば,サラ1)-マン教師の運命はまず避け難 (サラリーマンの視点だけからは,気苦労の多くして報いられることの少ない,ただ. い。. あきらめと惰性ですごす毎日ということにもなろう。あるいは,小さい子ども相手に適当 にあしらってすごす,見栄えはしないがわりと安定した職業といえるかもしれぬ。)ところ でその反対にこの転換を積極的にうけとめ,生涯の仕事と思い定めてその基礎土台をきず くことに着手するならば,別の未来が開かれて行くだろう。教師の仕事は人間そのものと 同じく一生かかる仕事であるから,その初期のすごし方,すなわち就任早々の青年教師時 代をどのように生きるかは,特殊の重要性をもつ問題である。 学生時代の教育実習とちがい,かれはここに一個責任ある大人として子どもの前に立つ。 時々刻々,毎日毎日,かれの一言一行は何十人の子どもの限と心を以てうけとめられ,そ. の精神の張りも緩みも鏡に反映するごとく,その影響がはね返ってくるだろう.いわば双 方のたましいが呼応しあう形であるoこの点,若い年代の教師は,子どもとの精神的距離 が近いし,純粋さも強いので,子どもを愛し子どもに愛される可能性が大きい。かかる愛 情はまた,相互理解や相互信煩の基礎をなすものである.教育は第一義的にそのような人 間関係の上に成立つものである。これなくしてはいかなる教育技術も知識もその真価を発 揮することほできない。. なるほど,青年は教師としての経験も識見も不足でそのための失敗も少なくあるまい。 人間としての未熟はいうまでもない。がそれは時間をかけねばならぬことであって,性急 にあれもこれも要求するのほ無理というものである。そのような欠点はたしかだが,何よ りも根本のものである愛情,理解,信頼を生活事実の中でたしかめることができれば,か れの教育活動は数々のマイナスをカバーしてあまりあるものとなるであろう。 私は青年教師が教師として立つという覚悟を就任後できるだけ早く固めてほしいとおも う.. (在学中ならそれにこしたことはないが,ほんとうの覚悟ほ何といっても教師となっ. てからのことだと考えるoその覚悟がきまらず,惰性で日をおくる危険のあることは前述 のとおりである。)そしてこの覚悟をきめさせる本質的な契機は,上記の子どもとの人間. 7.

(8) 8. 松. 本. 賢. 治. 関係がうち立てられるか否かにかかっているといえようoくりかえすがこれは観念の問題 ではない。どこまでも体験的事実でなければならない。 さて以上述べたことをあたかもうらづけるごとき事実が泉野学校で典型的に展開される。 以下「体験記」の叙述を引用してその間の事情をうかがうことにしたい。 師範を卒業したばかりの村田青年は,予想もしなかった山奥の学校にバスではこばれ, 学校についてから・とりあえず校長宅にあいさつに出向く。病臥中であった藤森校長はこ の若い先生を迎えて,開口一番,平素の信念を吐露するのである。 ① 「教師の成長は児童の成長である○教師の求道の精神の強弱が以心伝心子供に映っ て行く。これが教育の原動力である。」 ②. 「教師は常に問題を把む着想が大切である。これは素質にもよるが情熱の問題であ. って,是は如何?と,是は如何?と常に問題を出すようでなければ青年ではない.」 ⑧ 「われわれの勉強に元来二つの方向があるo一つは掘下げる面と,いま一つは広げ る面である。前者は確かさであり,後者は豊かさで,この両面がなければ本物の人間では ないし,本物の教師にはなれぬから,これを心得てやることだ。」 以上3点をまず示した後,鉾先を転じて若干の質問をあびせ,その学習態度の甘さを指 摘するoそして最後に教師第1年の目標を指示して次のようにいう.. 「君は今年度は,教 生をいま1年徹底的にやり直すことだ。そして教材研究をどの課目ということなしに全力 を挙げてやれ。その中に僕と稲田君(教頭)と交代に見にゆくから.」 この日の対面で村田青年はひどく感激し,床についても容易に寝つかれない。ほじめて ほんものの先生に接したというよろこび,いままではっきりつかめずにいた今後の生き方 に一道の光明をつかんだという思いがいっぱいであったのであろう。 さてそのようにして村田氏の教師生活は開始されたo. 校長は約束どおり, 「毎日授業を 見られ猛烈な酷評を下され・-・。」その後は予告なしで随時来られるので,俄に赤面したり 狼狽したりすると,. 「授業は君,何時,誰に不意に来られても取乱すようでは駄目である。. 平日の授業は研究授業,研究授業は平日の授業と心得てやれ。」と度々訓戒される。授業 批評だけでなく職員室などでもしばしば質問され,指導されるo. かくて,. 「私は何時校長. 先生に叱られはしないかと戦々歳々と暮し,夜間は終日緊張で死んだようになって眠りに 落ちたのであったoただ一日中一番楽しい時は,児童と校庭を縦横に跳び廻って遊ぶ時で あった。こんな時は校長先生は如何にも嬉しそうに眺めていらっしゃることが度々あっ ,::oJ. 上の文章は藤森校長の鮮やかな先達ぶり,また教師1年生の修業ぶりをほうふつさせる ものだが,しかもみよ。その第1年の終りに青年村田氏の心勤ミどこまで進んだかを。 「こうして-ケ年を顧みて自分乍ら生れ替った様な充実した今の生活に,立身出世も学問 も何も一向関心事でなく,ただ担任の子供一人残らずよい子供になって,校長先生に間が 抜けていると叱られないような人間に育てあげるようになりたいものだとのみ思いつめて いた。」. 正しくこれは修行であり鍛錬である.これに耐えてよくやった青年もえらいが,校長の.

(9) 教師の基礎的修業についての一考察. 9. 情熱と意志の強さ(病身にも拘わらず)は非凡というほかないのである。われわれほしか し,ただ嘆賞していてはなるまい。思うに,教師になりたての青年は,必らずしも-生の 方針を確立していないことが多く,また青年心理のつねとして迷いや不安に動揺し勝ちで あるだけに,この間よき指導の有無は決定的な意義をもつに相違ない。ここでいうよき指 導とは,何よりもまず,教育の根底をつかませるごときものでありたいoだから単なる教 育技術や方法のヴェテラソというだけでは十分でない.藤森先生のごとくこの仕事に一生 の意義をかける底の,ほんものの先生だけが,よくこのような指導者となりうるのである。 毎日授業をみてもらうわ桝こは行かずとも,せめて週に・二度は実際にみてきびしく指 導されることが望ましいのである。 師資相承ということばがある。東方教学ではよき師は必らずやよき弟子でもあったので ある.かかるすぐれた伝統はいまの教育界に甚だ影の薄いものがあるように思うoそのこ とを思うにつけても泉野方式の精神は民族のよき伝統の継承にあったと思われるo 4. 伝統教育の教訓. わが国の学校が西欧風の制度をとり入れて発足してから早くも100年を迎えようとして いるoそ・れによって日本の教育は急速な普及と発達が可能となり,近代日本の形成に大き く寄与したことは疑うべくもない。もっとも近代日本には明暗の両面があるが・そのどち らについても教育は大いに関係があると思われる。ところで西欧に学んだのはよいが,そ. の学び方たるや性急であって,制度方法をそのまま模写的に摂取することとなり,もっと 肝心な本質的なものに学ぶというところが欠けていた。それだけでない。西欧がいいとな ると日本伝統のものはすべて古いものとしてかえりみない結果を生じた。彼からは外形表 面のみを学び,我々のよきものをもすててかえりみない-これがわが国文化の根本に横 たわる大問題の一つである注2。. 問題を教育に限っていうならば,わが国には古くから一種の伝統的方法があった。それ ほ掛こ芸能人や禅僧の間で,また商人や職人の社会で,新人を修行させるばあいにみられ たところのものであった。そこでは師匠や親方が指導するが,まず知識や観念を先に与え るのではなく,その監督の下に具体的な生活をさせ,生活事実に即して本人自ら必要な知 識技能を習得させる方法である。すなわち,どこまでも本人の自覚にまち・発奮に訴えて, 主体的学習をさせようとするものであるoそこでは単に知識技能だけがねらいではない。 むしろその根底としての芸道とか商人魂といったものの悟得を期待したのだといってよ い。. こんにちの学校教育が,与えられた知識を受容し再生する人間,すなわち模写的人間を っくる.に終始していることを思うとき,わが祖先のかくのごとき伝統を省りみることほ大 切なことだと思われる注3。. さきに被教育者から教師-の立場の転換ということばを用いたが,むしろ脱皮の文字を 用うべきであったと思う。教師の任務は単に既存の知識技術の伝達にあるのではないoむ しろ子どもを主体的人間にまで形成するはたらきこそ教育の本質をなすものだといわなけ ればならない。こんにちの学校では生徒はしばしば非主体的に思考し行動させられ,さま.

(10) 10. 松. 本. 賢. 治. ざまな知識はもっているが,自分自身の思想や信念を形成できぬものが多い。教師となる ものも恐らく例外でない。だから,教師となっても,自己自身の主体的立場をもたずに子 どもに接するとしたら,そこに真の教育というものの行なわれるはずがないのである。 どうしてこのようなことになったのか。敗戦による国の独立の喪失やその後の文化的植 民地状態も大きな原因であろうが,それだけではない。戦争中,超国家主義者や軍国主義 者におどらされたことは生ま生ましい記憶であるし,それ以前だとて国民が真に主体的人 間であったとはいえそうもない.だから問題はすこぶるかんたんでないが,少なくともそ. の責任の一端は教育の内部にあるとせねばなるまい。 明治いらい,わが国の教育は知識を事実から切り離し,あたかも知識がそれとは独立に 成立し存在するかのごとく扱う傾向があった。明治のはじめのほんやく一辺倒にとって代 ったのは勅語のイデオロギー教育であった.どちらも観念主義であることに変わりほない. 入学試験や資格試験が知識の再生を要求する性質のものの多いことは誰も知るとおり。要 するに事実,現実から遊離した知識が学校の中で幅をきかせてきたのである. なるほど,実験実習の必要が説かれた事実はあるが,それもまず知識を与えた上で,こ れをよりよく理解させなっとくさせることを目的としたものであった0 それなら知識が特に尊重されたのかというと実はそうではない。学校の最大関心事は, 試験の成績(点数と順位)の上にあり,知識は専らそれとの関連においてのみ考えられた。 試験のやり方もあるが,多くのばあい,知識の細々した末梢的なものが対象とされ,その 本質的部分はあまり蘇りみられなかった.またそれで通ってきたのである. 学校学問のそうした観念的性格を打破ることが今後大切である。それには事実,現実の 中から知識を発見し発展させる訓練をすることだ。教師がまずそのことをやらなければな らない。学校の古いやり方を身につけてそのまま教師となり,それを無批判に継続して行. くのでは,立場の転換といっても高が知れている。不幸な関係はいつまでも改められず, 学校はそのうちに社会のはげしい動きから文字通り取り残されてしまうであろう。 学校の優等生かならずしも社会の優等生でなく,劣等生また社会の劣等生とは限らぬと いうのは,恐らく学校側に一半の責任がある。理解力や記憶力だけカミ大切なのではなく, そのほかに,むしろそれ以上に,事実に即しての斎乱 くふう,実行九 持続力といった 方面に注目しなければならない。そ・れらは他から教えられるものでない。自分自身,事実 と取組み,頭をつかい身体をつかって,主体的自発的に努力する中で,身につけて行くこ とができるものだ。. 耳や限から入る知識は観念的知識だからどこまでも借りもので,必要がなくなれば忘れ られるけれども,事実の中からからだで学んだものはどこまでも自分のものである。全部 の知識をからだで学ぶことは到底出来ないだろうが,それによって自分のものの考え方や. 信念を身につけた人は,他から学ぶ(読書をふくめて)ものをもけっしてただの観念的受 容に終らせることはないだろう。 泉野方式第1年は,学生から教師-の転換をさせ,文字通り脱皮させるための期間であ った。脱皮は苦しい。だがそれが済んだとき,以前とはちがう人間がそこにある。.

(11) ll. 教師の基礎的修業についての一考察. Ⅱ. 泉野方式の展開. 1方式の全貌. 泉野にはじめて教師となったものは任期7年と定まっていて全期間あげて教師の基礎を 修行することになるoその第1年はいわば準備期で,前章(Ⅰ)で述べたように専ら受持 児童の教育にすべてをささげるoこの期問は学校の1室に起臥し,傍目もふらず学校のこ とに没頭させる。しかも授業は校長(時に教頭)が毎日教室を訪れてきびしい授業批評を 行ない,いってみれば教生時代の徹底的再現なのであるo かくて第1年がすぎると,いよいよ「三種の勉強」である。第2年から第7年までの6 年間。そのうち,はじめの4年間(第2年-第5年)を中期・最後の2年間(第6年-節 7年)を後期と仮りに名付けるならば,中期は部落に宿泊してその部落の小学生及び青年 学校生の指導責任者となり,学校での担任も高学年(小5-高2)を受持ち,研究面では この期が発展の段階に当る。後期は徹底,完成期で・部落主任は前と同様だがすすんで村 この間, 「三種の勉強」は完成段階であるo 生活の問題の把握解決に当るべきものとされ, 授業担任は小3および小4であり,ほかに青年学校の授業を受持つこととなる*。 さて,. 「三種の勉強法」は上のごとく6年計画だが,. 1日についてみると次のように. なる。まず,掛ま暁に起床し,出勤前に経典語録などの修養書,または打坐(座禅)o出 勤後は児童の教育に打ち込み,放課後は明日の教材研究を必らずやり終えてから帰宅の こと。学校の仕事を自宅にもち帰ってはならず・手ぶらで退出すべきものとされるo夜間 は学生時代にかえって自分が定めた一定の学問に従事するo朝の修養,昼の教育活動およ び教材研究,夜の学問研究-これがいわゆる「三種」の所以であるoただ,週末および. 祭日には小説を,学年末休暇などのさいは他校(県内および県外)参観などをすすめてい る。. 三種の勉強は一定の計画にしたがって行なわれる。まず本人があらかじめ原案をつくり, 藤森校長の意見を加えて,月別実施案をつくる.あとは各自自学自習するわけだが,その 間たえず校長は一人々々の進捗状況をみて指導し,,職員会の折には勉強の徹底方をくりか ぇし説く。かくて年度の終りになると各自の成果について評価激励されるのが例であった という。後期になると単に読書だけでなく,テーマを与えて問題解決に当らせるなど,こ の段階にふさわしい内容をえらんでいるo. 以上,泉野方式のあらましを素描してみたoそれはおそらく信州でも稀有の実践に属す るのであるが,一にかかって指導者藤森先生の存在に負うことはいうまでもないo同時に もう一つここで注目したいのは方法論のたしかさということであるoすなわち勉強はどこ 1. ・小3から高2にいたる各学年は7年の任期中次々に担当するが,. ・. 2年(低学年)はどうする. のか。この疑問を体験記筆者村田好道氏に照会したところ,低学年ほ地もと諏訪出身の先生がく 4をくりかえし担当することになっ りかえし担当(外に青年学校に専念),他郡市出身者は小3 ・. ていたとのことである。.

(12) 12. 松. 本. 賢. 治. までも自力で自発的に行なうことが根本であり,そのための下地づくりに大きな注意が向 けられていることである。私は年来論語を愛読している着であるが,孔子のことばに「憤 せずんば啓せず,併せずんば発せず,一隅を挙げて三隅を以って反えらざれば,則ち復た せざる也。」注4とあるのを想起せざるを得ない。学校教育では生徒はともすると受動的学 習に終始しがちであるが,いやしくも社会人として立つからにほ,そのような態度の惰性 的延長は改められねばならぬ。況んやひとを導く教育者においておやである。この立場の 転換にともなう態度姿勢のきりかえを,藤森先生はことばで要求するよりもまず事実行為 を通して体認させる.一体,相当の学校教育を受けた青年ほ頭ほすすんでいて,何がいい かわるいかの判断はできても,実行これに伴なわぬうらみが少なくない。観念過剰もあっ てとりわけ迷いが多いのである。一そこで最初の1年を教生の徹底的やり直しと定め,その 間たえずきびしい指導を加えて,学問や修養の如何に大切であるかの自覚を深めて行くの である。. (当時の師範学校といえば20歳そこそこで卒業するのだから,人間としてはまだ. これからである。多少事情はちがうが,この点ほこんにちの大学卒業生も大同小異といわ ねばなるまい。) 2. 「ゆたかさ」と「たしかさ」. 日々児童の前に立ち,自分の学問や人間のまずしさを徹底的に反省,自覚させられると き,まともな青年なら,ここで1つの覚悟をきめざるを得ないだろう。教師は自分に向か ないとして他に生きる方途を求めるのも1つ。また,生まれかわったつもりで,よい教師 となるための修行を志ざすのが第2。この選択ほ大切である。いずれをえらぶべきかは一 概にいうことほできず,前者の選択が敗北ときめつけることもできぬ。. (最も困るのは, すでに教職についてしまったという事情のため,ただズルズルと現状に引きずられ,した がって良心を鈍らせてしまうばあいで,これが必らずしも少なくないことほ周知のとおり である。) 良心的な教師,実力ある教師になろうと覚悟をきめたばあい,勉強は2つの方向をめざ してすすめられなければなるまい。泉野方式のいう「ゆたかさ」と「たしかさ」の2つを。 「ゆたかさ」とほ拡充すること, 「たしかさ」とは掘り下げることの意味であるが,この二 方向ほ決して無関係でなく,無関係どころか実は相即不離の関係にある。ことにその人問 の全体の刀が問題となる教育者においてその然るをみる。. 「ゆたかさ」の方向にそうもの・として修養(経典・語録の読書)があげられ,. 「たしかさ」. ほ学問研究ということになっているが,上のように考えるとき,ここでの学問研究のねら いほ必らずしも学者と同一でなく,況んや学者のまねごとにあるのでないことほ明らかで あろう.むしろ一個の人間としての主体性に立って,学者の研究から何を学びとるかが問 題なのである。先哲の修養書についても同じであるo 3. 修養の内容とねらい. 体験記の筆者のばあい,. 6年間の読書計画にあげられているのは次のごときものである。 経典語録として,論語,大学,中庸,老子,欺異観正法限蔵随聞記。小説として,藤村, 激石,鴎外,子規,芭蕉,芭蕉及び作句。. (どちらも毎年一つずつ。).

(13) 13. 教師の基礎的修業についての一考察 このリストをみて第1に気付かされることほ全部がわが民族の文化的遺産からえらばれ・. 西欧のものほ1つもふくまれていないことであろう.それはおそらく指導者の読書経験か ら釆ているもののように思われるが, 1つにはまた,基礎段階として民族的古典が最適と 「東洋道徳西洋芸」 (象山)ということばにもうかがわ の観点もあるに相違ない。まして, れるように,実践的叡知の点では,わが民族伝統の遺産は西欧のそれを凌駕するものある においておやである。. (この点藤森先生の見識に敬意を表したい。西欧文化にもまたこの. 種のすぐれた遺産があり,そこにわが国人の学ぶべきもの少なしとしないけれども,まず 一通り民族固有のものを学んだ後でも,決しておそくほないからである.) 第2点は,選択眼のたしかさである。経典のうち,論語,大学,中庸はいうまでもなく 四書の中の孟子を省いたものであって,ここではその代りに老子が採られているoそれは もちろん然るべき理由あってのことに相違ない。老子は儒教とは別系列に属する思想であ り,儒教がどこまでも現世的実践界にとどまるに対して,深い形而上学的思索から世界観 的根底に達している.老荘の学は孔孟のそれと相まってわが民族の学問的伝統の形成に大 きな役割を果したものである。 歎異砂は親鷲の弟子唯円が,また随聞記ほ道元の弟子懐英が筆者で,いずれも先師の折 りにふれてのおしえを書きとめたもの.先師はそれぞれ日本仏教の代表的人軌おのおの 教義の本格的著述があるが,その深遠の故に容易に初学老の体認を許さないo幸いにして 語録の筆者はそれぞれ親しく師の膝下にあり,日夜馨(けい)咳に接したものとして・師の 真意をよく伝えるものであったoそれ故初学老にとっては必読の好著というべく,代表的 (二官爵夜話のごときもその1つに数えられよ 語録として親しまれているものである。 う。) 小説(文芸)もここでは人間の生き方を教えるものとして修養の立場から考えられ,作 家として5人の名が記されている。疎石,鴎外の2家については動かぬところとして,蘇 村が最初の年にあげられているのはその作品が若い青年の悩みを好んでテーマとしている ことのほか,この作者の同じ信州(木骨)人としての親しみにもよるのであろう。俳句に ぉける芭蕉,近代俳句(および短歌)の基礎をきずいた子規の2人は,誰も異存はあるま い。元来,俳句ほ信州人の問で特に愛好され,ことに庶民の問で親しまれてきた長い歴史 1963・参照)。 がある(才出稿,教育精神の継承と高揚,横浜国立大学教育紀要,第三集, 単に鑑賞するだけでなしに句作をたのしむ人がすこぶる多い。 体験記最終年度(昭和14年)の実施細案によると,芭蕉研究の2書とならんで俳誌「草. 上」を毎月読んでいるが,この雑誌は信州上伊那出身の伊東月草(俳人)の主宰しキもの, かく 従ってあるいはその同人に加わり,作句練習をしたのではないかと想像される注5o 「泉野年刊俳句集」の編集がなされる以上,ここの 想像するにはもうーつの根拠がある。 先生たちが主たる投句着であろうからである注6. 以上, 「ゆたかさ」を養うための経典語録と小説(文芸)がどのような内容であるかをみ てきた.. 1例にすぎぬけれども,そして他のひとのばあい多少の変化はあり得たかもしれ. ぬが,これによって藤森先生が何をねらいとし,何を期待したかは,ほぼうかがうことが.

(14) 14. 松. 本. 賢. 治. できるように思われる。そのねらいとは何であろうか。 教育ほすぐれて人間関係,特に大人と子どもの閤に成立つ交渉関係である。これほ時に 楽しいこと,喜ばしいこともあるが,しかし反面この上なく苦労の多い,忍耐を要する仕 事でもある。大人と子どもといっても文字通り比較的のこと,神の限からは五十歩百歩の 差に過ぎまい。だから自分ほ何の資格あってひとの師でありうるか,との疑問は,困難な 場面,問題に逢着する度に,若い教師の心にわいて,かれを苦しめるに相違ない。子ども を叱り,その行為をいましめる声ほ,直ちに教師自身にはね返ってくるだろう。親は子に 対し一種の教育責任をもつ。しかし教師ほ自らえらんでこの責任を負うものとなり,それ を白からの職業とするが故に,責任のあり方はおのずと異なるものがある。 ところでその人問関係は,教師その人にとって子どもとの交渉だけでない.同僚上司と の問,子どもの父母との問にもあるし,自分の友人や異性との問題もあれば,親兄弟との 問題もあるだろう。すでに一個の教師とし社会人として立ち,そのように多角的な人間関 係におかれる以上,時にどのような困難が生じてくるか全く予想もできぬことが多い。 一角に突如発生した問題が当人の運命を左右することすらないでほない。どう対処する か-そこに平素の修養がものをいうのである。 およそ誠実に生きたいというねがいほ人間共通のものだが,現実の思想,行動はしばし ばこのねがいをうら切るのである。. 1つにほ人間内部の衝動とか欲望が理性(良L)の声 を圧倒してしまうことにもよるが,また1つにほ現実社会の矛盾不合理があって,両者の 苦藤に決定的役割を演ずるともいえよう.そのことが古来人間の苦悩の根源であったo社 会悪の方をタナ上げして修養だけを強調するのが古い道徳観だったことはいうまでもない が,社会悪だけを一方的に批判するだけで問題ほ片付くわけではない。問題はしかく単純 明快ではないのだ。社会悪の根絶につとめる努力は一方において強力にすすめられねばな らぬが,その間人間悪・人間の弱さを放置しておいていいことにはなるまい。それらはい ずれも人間の力にまたねばならず,その人問をつくることが教育の根本課題だとすると, 結局は教育のあり方が問題となる。教育のあり方は同時に教師のあり方ということである。 ここに職業人としての教師の修養問題は,単に人間個人のそれを超えて深大な意義をもつ ものと考えられるのであるが,前にものべたごとくそれほ一生の課題であり,若い時代に はその時期の現実と真剣にとりくむことによって基礎をきずくことが大切であろう. 私の考えでは,若い教師は自分のおかれた地位と仕事の中にある人間関係をまともに受. けとめる態度が必要であるo良bに妥協やごまかしはない。まして相手の子どもほそうし たことについておそろしいほどに鋭敏であり,教師の一言一行からの影響ほ大きい。未熟, 未経験からの失敗や過誤をおそれるよりも,誠実純粋-すじに生きようとする真剣さが教 師としてのかれをつくって行く。ここでほ要領のよさや損得の計算ほ禁物である。 正しくこの点にこそ青年教師の教育の重点目標がおかれねばならぬ。それにほ現実の自 己のたえざる反省と自戒がまず大切であり,それとともに他者の経験に学ぶことが有益で あろうoことに第一級の人物の言行は,修養に志ざす人の苦悩の深く切なるとき,暗夜に 灯を見出すかの思いを与えてくれるに相違ない。西欧,東洋を問わぬわけであるが,風俗.

(15) 教師の基礎的修業についての一考察. 15. 人情を同じくし,ことばや考え方を共通にするわが国の古典(中国をふくむ)において, その感は深いといえようo. 経典語録に展開される著者の世界は読者の体験の深まるに応じ,次第にその真価をあら 50代には50代のよみ方があるといわれる。 20代には20代の, わしてくるものである。 そのことは経典などに限ったことでほなく,人文一般に共通していえることであろうo文. 芸ことに小説などもこの例にもれないが,ここでは概念や抽象が背稜に退き,リアルな描 写を以てしているが故に幾分接近が容易となるのであろう。. 経典にせよ小説にせよ,それがすぐれたものなら,必らずその作品ほ著者の人間全体, 思想全体の投影である。その現実体験から刻苦してそこまで到達し得たものである。簡潔 な,さりげない字句の奥にひめられた血涙のあとを読みとりたいものだo読書も眼光紙背 に徹するところまで深まるならば,いわゆる「ゆたかさ」は「たしかさ」と相即一体の関 係にあることが明らかとなるであろう. 4. 学問の内容とねらい. 以上,教育者の修養について述べてきた。それとならんで1日もおろそかにできないの が学問への志であるo 教育は知識を媒介として成立つ師弟の人間的交渉である。知識の価値はあらためていう までもないが,教育上からは知識そのもの以上にそれの成立発展の過程とその発展をにな う人間のあり方やその精神力に重点をおかねばならない。すなわち,すでにでき上がって かたまってしまった知識をそのまま与えるのでなく,教師白身の生命をその中に吹き入れ, 生きた知識として提供しなければならぬ。それが生かされてこそ人間と人間の媒介の役割 (教師が恰も小売商人のごとく知識の生産者と需要者を媒介する をはたしうるのである。 と考えるのほ誤まりである。) そのためにはまず教師が生ける知識のもち主でなければならぬ。学問の灯ほかれの内部 にあってたえずもえていなくてはならぬ.そうでなくて何で児童の生命に知識の火を点ず ることができよう.だから教育者は愛知の人,学問熱bの人であれという,第一の理由は ここにあるのだ.. ここで学問というのは,必らずしも教育と直接関係あるものを指すのではない。教材が 正確な,しかも豊富な内容をもっていて,その中から精選して提供されるべきことほ,教 師という専門職から来る当然の要求である。そのことが学問的実力を背後に予想するのは たしかであろう.ここでは,そのような要求なり事実をふくめても差支えないが,むしろ. それを越えて,教材にとらわれずに,何らかの学問をいわば自分の「趣味」としてもちつ づけることをいっているのであるo従って学問研究から得られたものがそのまま教育に役 立つのではなく,それらはいったんこれを学ぶもの(教師)の血肉となり生命となり,そ の人の精神を鍛錬し覚醒することが期待される。この学問のほたらきは,やがて教師の児 童に対するはたらきかけの中にあらわれてくるはずである。すでにふれたごとく,教育活 動は教師の全人格の投入という趣きをもつものだ。もし学問がかれの身について,本質的.

(16) 16. 松. 本. 賢. 治. な部分となるなら,つまり教師の精神そのものにまでとけこんでくれば,かれの言動のす べてに力強い反映を示すに相違ないのである。 ところで,教育界の現状をみるに,教育を職業とする人々の中には,ここでいう学問と. ほ殆んど無縁ともいうべきものが少なくないようであるoそのような教師は,せいぜい学. 生時代に学んだ知識(読験のためのノート勉強で,い剖ま殆んど忘れている.)の域を出で ず,あとは教材関係の雑誌,参考書程度で毎日をすごすことにもなりかねない。かれらに あっては教育経験や若干の技術を頼りに,既成の知識の伝達だけが問題である。それを理 解させ,記憶させ,テストするというのが教育というものだと考えられている。だが元気 知識というものは精神,生命の生きたほたらきでなければならず,その結果よりも過程自 体に大きな価値が見出されなくてはならないとすると,テストの成績だ桝こ子どもの学習 への刺激を求めるやり方は,教育の本道をはずれたものといわなければなるまい。 さて,泉野方式では,どのような学問がすすめられているか。体験記ほ筆者の1例をあ げるのみで,この点の詳細は明らかでない。村田氏は哲学と数学をえらんでいる。このう ち哲学ほ,. 「誰もが必要で全職員に奨めている」. (藤森校長)のことばどおり,あらゆる学 問の基礎と考えられており,数学は特にその時問に子どもの活動が括顔になることからそ れをいっそう研究するように,というのである。 一般に信州人が理屈好きであることは周知の通りで,ここの教師の学問に対する熱心さ は抜群といえるであろう.この風土が生んだ人物をみても政治家や実業家に比べて学者, 教育家にほ一流の,しかもきわめて多数の人材を出しているが,けだし偶然でないのであ ろう。. 哲学や数学のほか,どのような学問が教師によって好んで研究されているか。その選択 はひとそれぞれのもつ機縁と個性的興味などによることであるが,伝統的傾向というもの ほあるようだ。中でも民俗学,人文地理,生物学,地質調査,気象観測など,この風土に ついての調査研究は長年の成果を積んで学問的にも立派なものを生んでいる。郷土の生ん だ先人の遺産をほりおこし,これを収集整理して出版したり,記念館をつくって広く一般 の参考に資することもさかんに行なわれている。その中心はいつも教師たちである。この 人たちは郷土の歴史・自然を愛するが故に学問の限をもってこれを確実にとらえようとす る。同好の士が相集って研究集団をつくり,全国的組織とつながって研究の質を高めるこ とに努力する。. 話がすこしわきみちにそれたようである。泉野方式ほ教師になりたての青年を対象とし たものだo昼は子どもの指導に全力を投入し,学問は夕食後であるoだからどうしても読 書が主になる。そこで読書法如何が成否を左右するわけだ。藤森先生は,素読,精読,抜 き書きの三段構えで,. step. by. stepでやれ,と教えている。これほ読書法の重要なコツ なのだが,ことに難解な学問書などのばあいは不可欠の方法であるo (先生もまた若いと きは哲学,西田哲学を研究されたのだろうか。)素読という民族伝統の読書法をすすめて いる点に私は注目する。最初に,わかってもわからなくても, 1度ならず, 2度3度通読 せよということは,私自身深くその意義を痛感するものだ。ことに洋書を学生に講読させ.

(17) 教師の基礎的修業についての一考察. 17. るさい,つねにくりかえしこれを説いている次第である。 そこで,哲学と数学をえらんだ村田氏が,. 「自分が順調に成長しているときは,三種の勉強は滞然一体. へん興味ふかい。すなわち, 何等矛盾なく行われるが, の書のみである。」. 7年間の終りに,感想をのべている部分は大. 1度破綻を来し集中を欠くとまず学問が崩れ,残るものほ修養. 「学問であるがこれは精神が健康でないと絶対か羊進展しない.」と。いか. にもその通りに相違ない。同時にしかし,村田氏がえらんだ哲学や数学の学問的性質がい っそうその感を深からしめたのかもしれぬ。なぜならこの2つの学問はともに普遍,抽象. 学形式学であるo数学の純粋形式性は誰も知るところ,哲学ことに西田・カントのごとき はその傾向の著しいものである。もっとも青年というものは人生の中で最も抽象的観念を 好む時代だから,それが有名な本で難解だなどといわれるとなおさら読んでみたくなる傾 向はあるだろう。だが同時に中途半端に終る危険も少なくないと思われる。けだし,そこ にはおのずから研究の順序があり,一定の準備と訓練が必要だからである。 筆者は数学に閲し何ら論評の資格がないが,体験記のあげている書目をみると,哲学に 比べてはるかに実際的の感をうける。しかるに哲学のそれは,最初の年が数冊の入門書で, 次年度からはいきなり西田,カント,カント,カント,西田の順になっている。つまり, 哲学の本格的勉強は西田哲学にはじまり,カントを経て再び西田哲学にかえるというプロ グラムなのだ。両哲学のいかなる書物が選定されたかは明らかでなく,僅かに最後の年の 西田のみが示されている。それによると,. 定」, 「一般者の自覚的体系」,. 「働らくものから見るものへ」,. 「哲学の根本問題」,同続篇の5冊o. 「無の自覚的限. 各冊2ケ月乃至3ケ月. 宛となっている。これらは西田先生の50代の終りから60代の前半にかけてのものであ るから,筆者の推測が許されるならば,はじめの西田哲学はそれ以前の諸著,たとえば 「善の研究」, 「思索と体験」, 「自覚における直観と反省」, 「意識の問題」, 「芸術と道徳」 などであったろう。. さて,カント哲学はその中問の3年をかけるのだが,これは恐らく三批判書(プロレゴ メナをふくめて?)をそれぞれ1年ずつというのではあるまいか。もちろん原書でなく, 岩波文庫版などによったものと思われる。原書を用いず,訳本だけによってカソトを「徹 底」的によむことは大へんな冒険である。それは不可能に近いといってもいいほどの冒険 であるo. まず西田哲学.わが国において独創を許しうる唯一の哲学だといわれる.西欧哲学に学 んで,これを武器としながら主体的に強靭な思索をつみ重ねた類例のない哲人であり,こ れをえらんだ限に狂いはない。日本人にとって,ある意味でカソト以上に親近性のもてる ことも事実だ。何故ならそれは民族のすぐれた遺産たる禅的体験を思索の対象としている からである.それは,宗教哲学であり形而上学であって,西田の著書は自ら「悪戦苦闘の ドキュメソト」と名付けたように思索のプロセスを正直に告白している趣きがある.その 主題と方法において当時多くの読者をひきつけたのはけだし不思議ではないのである.こ の哲学の全盛期は大正から昭和の前半までであるが,時代のおかれた重苦しい情況は辛か 不幸か西田哲学流行の背景をなしていたのである..

(18) 松. 18. 本. 賢. 治. またカント哲学は戦前の諸大学において哲学科の中心的地位を占め,あたかも正統哲学 たるの観があった。この巨大な哲学体系はその歴史的意義と相まって哲学古典の名をはず かしめない。ところでカント哲学の難解は一般に知られているが,ある意味で素人を寄せ つけないほどの峻険な連峰にもたとえられよう。前代の哲学(形而上学)を徹底的に批判 してコペルニクス的転回をなさしめたといわれるこの哲学は,批判の対象となった従前の. 学問を相当程度身につけた学徒以外は容易にふみ込むことを許さない。一木一草すらない 氷雪におおわれた岩山といっては大げさかも知れぬが,とにかく日本人の性情からは最も 遠いところの徹底的な概念の学,純形式学である。日本の哲学界のこんにちの不毛は,幾 多俊秀を哲学の門に集めながら,カントを以てその研究を開始させた誤りにあるとの森信 (森信三,学問方法論, 三氏の指摘は,たしかに一理も二理もあるというべきであろう。 森信三全集第2巻参照)注7 西田,カントの両哲学について以上感想の一端をのべてみた。いわんとするところは, 何れもすぐれた第一級の古典であるが,これによって自らの思想形成に資することの容易 ならざることにある。元来哲学ほ,徹底的な自覚自省の学であり,他者の書いた本をよむ だけでは未だ哲学したとはいえない。読書はそのための重要ではあるが1つの手段たるに すぎぬものである。ところがどちらの哲学にしてもこれを読み理解するだけですでにほな はだ困難だとすると肝心の自分で思索するところまで行きつけるか否かが心配になる。 かくいうものの,私は青年期の読書の中にこれらの哲学を入れることを頭から否定せん とするものでは決してない。いな,そこにはそれだけの意義も価値もあり得ると信じて疑 わないものだ。ただそのた捌こは,まず動榛が1つの問題であり,より根本的には真撃な 生活態度の有無いかんが問われなければならぬ。. Ⅱ すでにⅠ,. 泉野方式の原理的考察. Ⅱにおいて泉野方式の何たるかをあらまし解明し得たかとおもうが,本章ほ. 一歩すすめてこのような構想および実践の基底をなしている原理的問題を若干究明してみ たいと思う。けだしそこまで掘り下げることによって,泉野方式のもつ時代的,地域的限 定を越えてその普遍性にせまることができるだろう。 1理想の教師像. およそ1つの実践計画がそれ自体強い説得力をもち,関係者をしてよろこんで着手させ, しかも持続完成にいたらしめるということほ,必らずしも容易なことでないo. ことにそれ. が名利につながるものでなく,しかも多大の勤勉と努力を要求するごとき内容のものであ るにおいて。. 泉野方式成功の秘密は,. 1つにほその時代にもあるが,全く藤森校長その人に求めねば. なるまい。その閲歴,経験,思想,行動のすべてが一体となった先生の全存在がこれを可 能にしたものと考えられる。. 世上,何々プランと称する教育計画ほ数多いが,その殆んどはまたたく割こ時代の披の.

(19) 教師の基礎的修業についての一考察. 19. 中に消え去った。それは多く机上プランであり,一時の思いつきや流行に便乗したものだ からであろう.泉野の実践は先生穀してすでに20年,いま信州各地にその根をひろげ,. ほとんど目立たないがしかも着実に発展しつづけているかに思われる0 藤森省三-それほいかなる人物であったか。生前一度の面識なく,いまだ泉野の地を 訪れたことすらなく,先生について書かれたもの,先生の自ら善かれたものを多く読んで もいない筆者が,先生の人物を云々する資格なきことはいうまでもない。筆者はただ,こ の小論を展開する必要上,最少限,glれざるを得ないのであるo 藤森先生ほ信州諏訪の人注8。中学卒業後の数年間,郷里の小学校(高島小)の代用教員 となり,この間,首席に守屋菩七,次席に久保田俊彦(島木赤彦)という幸運に恵まれた. 先生が一生を教育者として生きる決意はこの間に定まったといわれる。年来の志望であっ た物理学校をやめて長野師範第2部(第1回生)に学び,いらい一貫して小学校教育に献 身した。各地の訓導からふり出しに戻って高島の首席を8年勤め,昭和3年から18年ま で2度目の泉野校長。. (昭和18年,病気退職。. 2年後の昭和20年,満60才の若さを以. て死んだ。). 藤森先生が一生をかけて取組んだ大問題ほ,. 「教育によって村を興すにはどうするか」. の問題であった。そこから先生の3つの努力目標が出てくる。. (1)農村文化の向上. 明治いらいの教育ほ都会中心で農村は常にすててかえりみられ. ない.これは国家的損失である.農村と農民の生活向上,そこに農村教育の中J[Jがある。. (2)青年教育の充実. 農村青年ほ小学校卒業(高等科までで8ケ年)後教育上の無籍. 者となり,軍隊までの人間形成期を全く放置されるo将来村の中堅人物となるべき青年に 教育の機会を与えなければならない(実業補習学校の飛躍的拡充)0 (3)青年教師の育成. 農村文化といい,青年教育というも,結局は教師その人を得る. のでなければ実効を収め難い。故に青年教師の育成が問題のカギである。 藤森先生のこのような思想・信念形成に至大の影響を与えたものは上記両先輩だといわ れる。まず,久保田はいう。. 「都会の生活は人間を官能的末梢的方面にのみ発達させ,人. 間の根底的な力を養う事が出来ない。然るに原始生活に近い農民の生活ほ日光と土と新鮮. な空気に触れ,自然の変化に接する機会も多いので,子供に真撃とか率直とか無邪気とか 辛抱強いとかいう人柄が養える。と共に其求知心を満足させ,身体を強健にする事が出来 るのである。故に子供は田舎で成長させ,泥をこねたり,尻を掩ったり,顔に泥をつけて 飛び歩いたりしながら,泥鱈とり,川干し,栗拾い,地梨とり,茸狩り,晴蜂とりなど原 始的生活をさせる事が,生涯の力の源泉を滴養し蓄積する所以であるo」注9 さらに,守屋喜七にも次のことばがある。. 「我国固有の文化を保存蓄積して居る農村地 方の開発発展に当る事が都会地よりも大切であるo各郡とも1人2人終生を田舎に捧ぐる 教育者の出現を望んで止まないo殊に教員給が国庫負担になると教育が画一的になり易い. から,町村に腰を据えて真に町村を愛し町村を背負って立つ慨のある方に期待すること切 なるものがある.」注10とo. 守屋,久保田両氏が藤森先生にとって人生開眼の師であることほさきにふれたが,事実.

(20) 松. 20. 本. 賢. 治. 両氏ほ先生にとって終生敬慕止まない指導者でもあった。先生の生涯ほこの2人の思想の 最も誠実な実践であったともいい得るであろう. 筆者ほここにおいて,信州教育者といわず,およそ教育者たるものの深省を要する一事 実に想到せざるを得ない。それは,よくひとの師となるものは,みずからよき弟子であっ たという事実である。わが民族は師資相承というすぐれた伝統をもつのであるが,そのこ との真意義が再認識されなければならぬと信ずるのであるo宗教人にしろ,芸道や文芸に しろ,また学問にしろ,このことに殆んど例外はない。よく人間をつくるものほ,つくる ことの何たるかを白からの体験の中で学んできたものである。 すでにしばしば述べたことだが,教育ほ単に知識や技術だけの問題ではない。知識や技 術だけのことなら必らずしも心の師を必要とはしない。けれども人間をつくることに教育 の第一義があるとすれば,人間と人間のふれあいが必要である。. 「ひとは,人生の途上,だ. れかを師とし,人間形成の影響をうける。だれかを人生の師とするのは,とくにそのひと. に何らかの共感を覚えてのことである。共感がなくて,傾倒することはできない。傾倒す ることがなくて,真に学ぶことはできない。共感をもつためには,自分で苦しみ,求める ところがなければならない。」 「われわれほ,人生の途上,さまざまなひとびとに出会うが, 自分が深く苦しまず,深く求めてもいないた捌こ,師とすべきひとをとらえ得ず,とらえ. 得ても,傾倒し得ず,じゅうぶんに学ぶこともせずに終るのである。」注11 ここに引用した一文の精神ほ泉野における先生と青年教師の交流にそのままあてはまる かに思われる。私は,一期一会ともいうべき先生との出会いをこの上なく貴重なものとし ているひとびとの少なくないことを知って,信州教育のため,いやわが国教育のた捌こ,. 明かるい気持を覚えるのであるo かくて,理想の教師像の第1点は,心の師,人生の師をもつということだと考える。そ のことを私ほ藤森先生を頭においてひきだしたのだが,同様にして第2,第3の資性をひ き出すことが可能のように思われる。. 私は第2点として求道の情熱をあげたい。この点,先生ほ好個の典型的人物であろう。 幼時から病身に苦しんだ先生は,一生病魔とたたかい,そのために倒れた人である。だが, そと病魔とたたかいつつ,内にほ人生問題と対決し,最後のいきを引きとるまで,求道の 「人生は薄明の如し」 「人生ほアル 情熱をもやしつづけたといわれる。その愛用句にいう。 ファづき」. 「深刻なれ」. 「心は高く生活は低く」. 「ステップ・バイ・ステップ尺取虫的進歩」. 「奥行きのある生活」. 「御一代の覚悟は出来て御座候か」など。胸底深く求道の心意をも. やしながら,しかもひとに対し児童に対してはおだやかに温かく接する-そのような人 がらは真の教育者のものというべきである.. 第3点は高く澄んだ使命観である。先生の遺稿中のことば-「教師は,汝の従事しっ っある職業は汝自らえらびしものにあらず,天によって命ぜられたものである。天によっ て命ぜられた所が汝の仕事の場であるという使命に立て。」. 「使命に立つ時学校に所謂格の. 上下はない。学校の大小及び其の所在地が都会であり農村であることは所謂格の上下では ない。叉,教員にも所謂格はない。校長,教頭,平訓導等は其の人の性質による適不適に.

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