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(1)朝ほ暁に起き修養の書を読むこと。

(2)放課後は校内で明日の直接教授に関係するものの勉強を必ずやり終えて帰ること。

(3)夜は根抵ある学問の勉強を行的に徹底して行ない,力強い実践を日々積むことであ

る。

右〔上〕の三種の勉強をどのように指導されたであろうか。指導するにはその素地啓培 するために1カ年間は着手させなかったのであるoこの問題を明らかならしめるために, 一例を私にとって,その経過を記録すれば次のようであるo

(1)

これは忘れもせぬ昭和8年師範卒業の喜びで有頂天となり,一刻も早く受持となって児 童と暮したいという甘い夢を抱いて,中央線茅野駅下車,バスに乗り,終点泉野行なので 安心して乗りこんだ。ところで,バス15分の永明学校が泉野かと思えば通過してしまい, 20分位の学校が見えたのでこれこそ泉野と思えば玉川学校で,だんだん失望している中 をバスほただ海抜1000米以上もある山奥へ山奥へと凹凸の激しい道をあえぎあえぎ登っ てゆくので,ただただ淋しくなって釆た。もう目の前は八ヶ岳がおおいかぶさって,行き つかえたかと思う時,谷底のような道を下りきって,そこに一棟の泉野学校があった。私 は島流しにあった落武者の心持でバスから下りた。 2, 3人の村人は皆モソペをほき,使

う言葉が長野市とは全然違って私のところをじろじろと眺め「おめし、さん,どこからきな さった」といわれるので,今度こちらの学校に厄介になることを話すと「先生様か,おめ い若けえのによく長野から釆た。」とわざわざ学校まで案内してくれるのであるが,私は 涙が出そうでどうにも仕方がなかった。ところがさらに驚いたのほ職員は全部で8人,管 坊主頭に詰襟で学生のようである。私はどうせこんな山奥で,こんな先生方ならたいして 勤めるにも難かしいことはなかろうと思っていると,兼て校長先生から連絡があったとみ

えて,

‑カ年間は宿直の2階*であると案内されたo なんで宿直の2階で泊るのか,多分 宿がないためであろう位に思って,またいくら寝坊しても遅刻する気遣いはないと,総て その調子で・予想以上の山奥へ来た落胆も加わって高をくくっていた私ほ,その夕刻当時 病臥中の校長先生のお宅に挨掛こ上り,これは容易ならぬことであると俄に緊張しほじめ

た。校長先生ほ,私のた捌こわざわざ床の上に起き上って,

「教師の成長は児童の成長である○教師の求道の精神が以心伝心子供に映ってゆく。こ れが教育の原動力であるo」と.この最初の一言にすっかり感銘した.教育実習の体験か

ら確かだと思ったo私はポケットから小手帳を出して,校長先生にわからぬようメモを取

J

*宿直室は階下,その上に別室があった。

==■■‑・二‑・一▲=‑i‑‑==‑‑→=‑

(村田)

教師の基礎的修業についての一考察 33

りはじめた。次には,

「教師は常に問題を把む着想が大切であるo これは素質にもよるが,情熱の問題であっ て,これは如何?と,これは如何?と常に問題を出すようでなければ青年ではない。」

と。さらに第三として,

「われわれの勉強には,元来二つの方向がある。一つは掘下げる面と,いま一つは広げ る面である。前者は確かさであり,後者は豊かさで,この両面がなければ本物の人間では ないし本物の教師にはなれぬからこれを心得てやることだ。」と。私は生れて始めていい

ことをお聞きしたのでただただ感心していると,今度は校長先生から突然,

「ところで君は師範在学中に何か特別興味をもって勉強したものはなかったか。」

という初対面最初の質問が発せられた。私は行詰って真赤になってしまった。生欠坤をか み殺して漸く送って釆た5年間,ただただ遊び暮したのを俄に後悔したがどうにもならぬ ので,恐る恐る,

「別にどれ一つ趣味もありません。強いて申せば,学科は皆嫌いでした。ただ匝然と遊 び暮らしただけです。」

と正直に申上げたところ,

「そうか,それはいけなかったな。」

と言ったなり叱られなかったのでホッとしていると,次に「君は小県郡出身だな。」「はい」

と答えると,

「それでは同郡の山極勝三郎先生(わが国ガン医学の権威)を知っているか。」と第二の質 問である。これも私はとんと知らないので, 「一向に知りません。」というと,先生は声を 大にして, 「駄目だぞ山極博士を知らぬようでは。同郡ではないか。どうも小県人ほ概し

て不徹底である。君は山極先生を見習って徹底した人になれ。そこで夏休みには,一つ山 極博士はどうして徹底した人になれたか調べてくるがいい。」と宿題をいただいた。さら に先生は「君達の勉強は甘くて何にもならない。もっと挺身没入的にやれ。斜面上をステ ップバイステップで上ってゆくのだ。そ・してその方法は黒岩涙香の素読,精読,抜書と三 段構えでやるのだ.」と申され,最後に次のように第1年日の目標を指示された. 「君は今 年度は教生をいま一年徹底的にやり直すことだ。そして教材研究をどの課目ということな

しに全力を挙げてやれ.その中に僕と稲田君(教頭)と交代に見にゆくから.」と言われ, 先生のお宅を辞して帰途についた。恰度雨上りの泥浮の坂道で一歩一歩抜足差足で帰りか

けたとき,東の空に月が昇り出したので,何んだか自分の首途の象徴のような気がして, 今日の対面を境として従来の生活と一線を画したことをひどく感激したo前途ほとても難

関で無事勤まるかどうかわからないが,本物の先生に対面した喜びで,なかなか眠られな

かった。

(2)

それからは校長先生が毎日授業を見られ猛烈な酷評を下され,回を重ねて期待に添い得 るようになったのは半年も後のことであった.

その後は予告なしで臨時来られるので,俄に赤面したり狼狼すると, 「授業は君,いつ, 誰に不意に来られても取乱すようでは駄目である。平日の授業は研究授業,研究授業は平

日の授業と心得てやれ。」とたびたび訓戒された。そのほか,職員室で習字,綴り方の添 削をしていると, 「なぜ習字は添削するのか,丸をくれるのはどういうわけか。」と質問さ れ,説明につまると勝雲山*先生らの指導者を指示して聞きに行くよう紹介状を書いて下

さってすすめられた。こうして私は,いつ校長先生に叱られはしないかと戦々競々と暮し, 夜間は終日緊張で死んだようになって眠りに落ちたのであった。ただ一日中一番楽しい時

紘,児童と校庭を縦横に跳び回って遊ぶ時であったoこんな時は校長先生は如何にも嬉し そうに眺めていらっしゃることがたびたびあった。

こうして夏休みには,兼ねて山極博士はどうして偉いかを調べる宿題を持って郷里小県 へ帰った。こうして1カ年を顧みて,自分ながら生れ変ったような充実した今の生活に, 立身出世も学問も何も一向関心事でなく,ただ担任の子供一人残らずよい子供になって, 校長先生に問が抜けていると叱られないような人間に育てあげるようになりたいものだと のみ思いつめていた。

(3)

いよいよ三月の学年末休暇となるともうすぐ四月から2年目である。校長先生は,

「君も大体子供にも馴れたようだから,三種の勉強を来年から6カ年間はじめる段とな ったが,計画をたてておくように。」

と言われたので,私は兼々このことあるを予期し事前に調査していたので,趣味も特長も 何一つ取得がない私なので,校長先生の青年時代やられた学問をそっくりまねてやるに限

ると,即座に,

「先生,私は哲学と数学をやります。」と答えると先生は一寸考えていたが「それでは泉 野6カ年の計画と知っているだけの書物を書いて一日僕の家に来い。」と言われたので, 盛沢山の計画表を作製したところ,先生の毎週水曜日の職員への論語の講義と諏訪哲学会

との関係を考慮されて,次のように簡潔な表に削除していただいた。

第1衰

*勝雲山。長野師範教諭,書道担任。信濃教育会編検定教科書「書き方」の著者。

教師の基礎的修業についての一考察 35 そして「僕は学問としては形而上的なものとして哲学,形而下として数学がやはり君に はよいと思う。哲学は誰もが必要で,全職員に奨めているが,数学は君の授業で子供が教

えてくれているoすなわち君の数学の授業には子供が特に活発に動いているようであるか ら,この長所を伸すようにするがよい。」といわれた。

こうして私は,自分の学問を子供に教わり,校長先生によって見出していただいて,は じめて自分は数学が特長であるのかと気が付いたのである。

そこで月別細案を表にして見ていただいたところ「これは計画的でよい」とおほめにあ ずかったが,赤鉛筆で削除され,三種の勉強の第1年目の月別紳案は次のようにしていた だいた。

第2表 昭和9年度三種の勉強実施細案

(む哲

学(夜9時‑11時)

4月‑8月 9月‑12月 1月‑3月 豊かさの部 ①経

典(登校前)

名 語

自‑至

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