内モンゴルのアルジャイ石窟の壁画(一): 第二八 号窟を中心に
著者 楊 海英
雑誌名 アジア研究
巻 1
ページ 33‑52
発行年 2005‑03‑31
出版者 静岡大学人文学部「アジア研究プロジェクト」
URL http://doi.org/10.14945/00002557
内 モ ン ゴ ル の ア ル ジ イ ャ 石 窟 の 壁 画
︱ 第
二 八 号 窟 を 中 心 に
︱
︵ 一
︶
英
四 三 二 一 元
朝 モ ン ゴ ル の 二 重 の聖
. 34
内 モ ン ゴ ル の ア ル ジ イ ャ
石 窟 壁 の 画
︱ 第 二 八 号 窟 を 中 心 に ︱ チ
ン ギ ス
・ ハ ー ン の 最 期 舞 の 台
楊
海
英 中華
人 民 共和 内国 モ ンゴ ル自 治 区 の西 部 黄︑ 河 の南 オに ルド スと いう 高 原 あが る︒ オ ルド ス高 原 の西 北 部 に ア ルブ スと いう 広大 な 山地 が広 が り︑ そ のな か から 大 規 模 な石 窟 群 が 一九
〇八 年 代 末 に発 見 さ れ た 一︒ 一〇
〇 三年 月二 中︑ 国 の国 家 重 点文 物
︵重 要 文 化 財
︶ 指に 定 さ れ た
︵地 図参 照︶︒ 石 窟 群
^︒を 狙 嫡″ρ モ ンゴ ル人 は ア ルジ イャ
︵阿爾 案
︶ と 呼び
︑ 中 国 語 では 百 窟眼 と いう
︒ も と も と 数 珠 の数 と 同 くじ 一〇 窟八 あ たっ と伝 え ら れ て るい が︑ 現 在 確 認 さ れ て るい 洞 窟 は 六 五 で︑ 岩 壁 に 彫 たっ 仏 塔 は 二十 八を 数 え る
︒ 石窟 には 約 千 点 以 上 の豪 華 絢爛 な壁 画 が残 てっ お り︑
〇三
〇
〇年 春 はに 大 量 の モ ンゴ ル 語 と チ ベ ット 語 の文 書 が出 土 たし ア ルジ イャ 石窟 のな か で︑ も とっ も 古 窟い は長 方 形 の造 り で︑ 奥 方に 形 の柱 を 彫 り出 たし 形式 と な てっ いる
︒ こ の種 の石 窟 は 世四 紀 ころ の北 魏 時 代 に開 造 さ たれ
︑ と 考 古学 者 や 石 窟 究研 家 た ち は み て いる
︒ しか し
︑ 最近 では こ の種 の方 形 中 心 窟柱 は イ
ンド のチ イャ テ イ ア窟 や ア フガ ニス タ ン のバ ー ミ ヤ ー ン 議の 輪 窟 の影 響 を 受 け て るい 能可 性 も 指摘 さ れ て るい
︒ 石 窟 のあ る ア ルブ ス山 周 辺 は︑ 十 一世 紀 ろこ 勃に 興 たし 西夏 王国 の領 土 に 入 てっ たい
︒ 西 夏 王 国 は 当 時 の新 興勢 力 であ る モ ンゴ ルに な かな か帰 順 し よう と なし か たっ
︒ そ こ で︑ チ ンギ ス oハ ー はン 一三 二六 年 秋の 西に 夏征 服 のた め モ ンゴ ル高 原を 出 発 たし
︒ チ ンギ ス
・ハ ー ンは 黄 河 を 南 に渡 てっ
︑ 今 日 のオ ルド ス高 ユ原 k 灘 炉 ル琥
︒ 十 三世 紀 に書 か れ た
﹃元 朝 秘史
﹄ に︑ チ ギン ス
・ハ ー はン ア ルブ ス山 で巻 狩 の最 中 馬に から 落 ち て︑ 多﹁ 数 の洞 窟
﹂ に 入 てっ 駐 営 し た とあ る︒ 多﹁ 数 洞の 窟
﹂ と は 今 の ア ルジ イャ 石 窟 であ る 西︒ 夏 王 国 は 虔敬 な 仏教 国 で︑ 多﹁ 数 の洞 窟
﹂は 石 窟 寺 院 だ たっ 仏︒ 教 に つい てほ と ん ど 知 識 を も たな か たっ モ ンゴ ル人 た ち 単は 純 に 多﹁ 数 の洞 窟
﹂ と 呼 ん だ︒ 西 夏 滅 亡 を 前目 に し て︑ チ ンギ ス oハ ー はン 落 馬 の怪 我 が も と 死で 去 す る︒ 西夏 が滅 ん で元 朝 時 代 なに てっ も 西夏 の僧 侶 た ち 厚は 遇 さ れ
︑ ア ルジ イャ 石窟 寺 院 は繁 栄 し続 け た
︒ 十 世四 紀 末 に モ ンゴ ルが 中 原 から 撤 退 漢し 土 に明 朝 が 成 立 す る が︑ ア ルジ イヤ 窟石 は 万 里 の長 城 北の 側 位に 置 し
︑ ず とっ 北 元 と 呼ば れ る モ ンゴ ル の勢 力 下 にあ つた
︒ そ し て十 七世 紀 半ば に ーユ ラ シア 東 部 草の 原地 帯 が 後金 国 統に 合 さ れ て くい 混 乱 なの か で︑ 石窟 寺 院 は 没落 の 途一 を た ど つ て い たっ
︒
一 一 元 朝 時 代 仏 の 教 密 教 資 料
︱ 八 二 号 窟 を 例 こ
モ ンゴ ルは ュー ラ シ ア に跨 る 大帝 国を 建 立 たし
︒ 帝 国 の東 方 を 成 す 元 朝 は チ ベ トッ 仏教 を 国教 と し︑ チベ トッ の高 僧 を 招 てい 帝 師 や 国師 称の 号 を 与え て いた
︒ ア ルジ イャ 窟石 壁の 画 は
︑ 西夏 時 代 のも のが 少数 で︑ 大 半 は 元朝 時 代 以 降 製に 作 さ れ た 一︒ 部 の壁 画 の 四方 に は 回鵠 文 字 モ ンゴ ル語 と チ ベ ット 語︑ そ れ に 古 代 イ ンド で使 わ れ た サ ン スク リ ツ ト で題 字 が 書 いて あ る︒ いず れ も 仏教 の神 々を 称 賛 す る 内 容 であ る が︑ 多 言 語 の同 時 用運 帝は 国 の権 威 と多 様 性 を 演 出 し て いる
︒ 本 報 告 で は ア ルジ イャ 窟石 のな か 第の 二八 号窟 内 の壁 画 を 紹介 す る こと に たし い︒ 私 は 一九 九 九 年 から 毎年 二〜 三 回 は ア ルジ イヤ 石窟 を 訪れ る よう に し て いる
︒ 壁 画 を観 察 し︑ 出 土文 書 を 整 理 し てき た
︒ そ の際
︑ 窟石 内 で壁 画 を 模 写 し つづ け て いる オ ルド ス市 ハン ギ ン旗 出身 で︑ 現 在 ド イ ツを 拠 点 と し て活 躍中 の画 家 ナ ソ バン ト
︵Z 3●
●げ 洋巳 氏
と 出 会 たっ
︵写 真 1︑ 2︶︒ ナ ソ バン ト 氏 はに 将来 壁︑ 画 を復 元 し た り 社︑ 会 向に け て公 開 し た りす るた め の重 要 な 課 題 与が え ら れ て いる
︒ 二八 号 窟 は岩 壁 の南 側 あに り︑ 典 型的 な平 頂方 形 中 心 柱窟 であ る
︵平 面 断・ 面 図参 照
︶︒ す でに 触れ た よ う 方に 形 中 心 柱 窟 は北 魏 時 代 から 造営 が 始ま てっ るい が︑ 現在 の二 八 窟号 に 西は 夏 以前 の壁 画 は ほと んど 残 てっ いな い︒ 地 元 の 考 古 学者 や 文 物 管 理 者 た ち は︑ 二八 号 窟 内 の壁 画 は例 外 な く 元 朝 時 代 のも のだ と み て るい
︒ 王朝 替が わ る度 に︑ 前 代 の壁 画 を 削 てっ 新 た に描 写す る こと が多 いと うい
︒ ま ず 入︑ 日 の西 側 す な わ ち 南 壁 の右 側 には チ﹁ ンギ ス
・ハ ー ンと そ の 一族 を 祭 る絵
﹂と 呼ば れ て いる 壁 画 が あ る 写︵ 真 3︑ 4︑ 5︶︒ こ の作 品 は ア ルジ イャ 石 窟 なの か で︑ いま ま で にも つと も 注 さ目 れ てき た壁 画 のひ と つで あ る︒ 中 央 のチ ンギ ス
・ハ ー ンを 二人 の妃 が 囲 み︑ そ の左 側 に 四人 の息 子 た ち 並が ん で座 てっ いる ︒ 族一 前の には さ ま ざ ま な 民 族 か なら る 臣 下 た ち が左 右 二 つの グ ルー プ 分に かれ て座 てっ いる
︒ そ し て彼 ら の右 前 方 には 馬 や ラク ダ︑ それ 牛に の 群 れ 献を 上す る 人 々 が いる
︒ こ の絵 の背 景 にな てっ いる のは
︑ ア ルジ イャ 窟石 そ のも のだ と 理 解さ れ て るい
︒ 人 生 最 期 のと き に ア ルジ イャ 石窟 で療 養 し て たい とこ か ら︑ 死後 に 窟石 内 に 族一 神を 聖 視す る壁 画 が描 かれ た︑ と の見 方 が 定 着 し て いる
︒ 入 口に 向 か てつ 奥 正の 壁 はに 仏亀 が 開 造さ れ て るい
︒ 東 西 両 壁 に は仏 籠 が な く 壁︑ 画 が 一面 描に かれ て いる
︵写 真 6︑ 7︶︒ 右 壁 に は 上 段 に 奥 から 持 金 剛︑ 大威 徳 金 剛 密︑ 修 閻 魔
︵写 真 8︑
︶9︑ 大威 徳 金 剛 写︵ 真 10︑
︶■︑ 密 集 金 剛
︵写 真 12︑
・3︶ 一︑ 一つ の慣 怒尊 な ど 七 つ 壁の 画 配が 置 さ れ て るい そ︒ の下 段 はに 七 人 の大 成 就 者 が並 ん で いる
︵写 真 14︑
・5︑
・6︑
・7︶ o 上段 の方 に比 べ て︑ 下段 の方 が 剥落 した り 破︑ 壊さ れ た り し て現 存 状 態 が好 ま くし な い︒ 左 壁 もに 二段 の壁 画 が あ たつ 現︒ 在 上︑ 段 には 奥 から 勝 楽 金 剛
︵写 真 18︑
・9︶︑ 持 金 剛︑ 勝 楽輪
︵写 真 20︑ 2
.︶ な ど 七 つの 壁 画 が あ り
︑ 下 段 に 高は 僧 かも し く は祖 師 の図 が 少 し 残 てっ いる
︒ 左 右 対 置 的 展に 開 さ れ て いる 構 図を 考 え る と
︑ 恐ら く左 壁 の下 段 もに 七 人 の高 僧 祖か 師
︑ あ る いは 七 つ の場 面 が 描 かれ て いた だ ろう
︒
%
ゴヒ
θδ
28号石窟平、剖面 圏
一 元 朝 モ ン ゴ ル の 二 重 の 聖
上 で紹 介 たし 二 号八 窟 内 の壁 画 のよ なう 男女 合 体 の秘 密 仏 や憤 怒 尊 を 一般 の モ ゴン ル人 たち は イダ ムと 呼 ぶ︒ イダ ムと は 守 護尊 を 意 味 す る チ ベ ット 語 由に 来 す る︒ こ のよ う な守 護 尊 は普 通
︑ 灌 頂 し て いな い者 に 公は 開 しな い︒ 私 自 身 も 子 供 のこ ろ に チ ベ ツト 仏 教 の寺 院 入に たっ 時
︑ 秘 密 仏 や憤 怒 尊 には い つも シ ルク の幕 が掛 け ら れ て いた こと を 覚 え て いる
︒ こ のよ う に神 秘 的 な 色 彩 に包 ま れ た壁 画 に はど のよ うな 原 理 隠が さ れ て るい のだ ろ う か︒ 立 川 武 蔵 密は 教 に つ てい 論 じ た際 に︑ 次 のよ う に指 摘 し て いる
︒ 中 世
︵十
〜十 五世 紀︶ チ ベ ット 仏の 教 は密 教的 色 彩 が 強 く 九︑
〜 十 世 紀 頃 に イ ンド で成 立 たし 新 し 密い 教 経典 の 勝﹁ 楽 タ ント
﹂ラ や 呼﹁ 金 剛 タ ント
﹂ラ が重 視 さ れ た︒ これ ら のタ ント ラ経 典 の主 尊 であ る勝 楽尊 な ど は︑ 血 満に ち た頭 蓋 骨 杯 を も ち 肉︑ 切 り包 丁 を 振 り上 げ 明︑ 妃 を 抱 く︒ こ のよ う な 秘密 仏 は チ ベ ット 中 世 以降 の密 教 パ ン テオ ン内 の代 表 であ たっ
︒ チ ベ ット 高 原 だ け でな く
︑ お よ そ チ ベ ッ ト 密 教 が 伝 わ たっ 先 々 で︑ 動不 の地 位 を 獲得 し て諸 神 の頂 点 に立 つよ う なに たっ のも 事 実 であ ろ う︒ 血 や 骨 の儀 礼
︑ 性 的 オ ルギ ー もを 合 む 性崇 拝 憑︑ 依 など の エク スタ ー ゼ が 純 化さ れ る局 面 や 度 合 いに よ つて
︑ あ る 宗 教 形 態 が密 教 か 否 かを み る こと が でき る と︑ 立 川武 蔵 はさ ら に いう
︒ つま り 日︑ 常 おに い て 不﹁ 浄な るも
﹂の が 浄﹁ な る も
﹂の の価 値を も つよ う に聖 化さ れ た 場合 血︑ や 骨 の儀 礼 も す ぐ れ て密 教 的 と な る︒ 神 と 女 神 の合 一し た 姿も 世 界 そ もの ので あ る︒ 立 川 武 蔵 流 考に え れ ば
︑ ア ルジ イャ 石窟 第 二 八号 窟 まは さ に元 朝 時 代 の モ ンゴ ルの 聖 な るも のを 集 約 した 場 所と な る
︒ チ ンギ ス oハ ー ンは いわ ば モン ゴ ルそ のも のを 創 造 し た 人物 で︑ 死 後 にも 神 格 化さ れ︑ そ の祭 祀 活動 今は 日ま で シ ャ ー マ ニズ ム のし き た り に従 って 維 持 さ れ てき た
︒ し か し︑ 元 朝 の支 配 者 た ち にと てつ
︑ チ ンギ ス
・ハ ー ンと いう とひ り の 神﹁
﹂だ け では 不 十 分 だ たっ か︒ れら はさ ら に チ ベ ツト 仏教 の神 々 の威 力を も 借 用 した 仏︒ 教 の典 籍 は シ ーャ マ ン の 口伝 す る テキ スト よ り論 理 的 に 見え
︑ シ ーャ マ ニズ ム的 な 宇 宙 観 だ け では 完 全 純に 化 でき な か たっ 血や 骨 の儀 礼 を も 聖 化 でき た と ころ が
︑ 魅 力 的 であ たっ だ ろう
︒ こ のよ う に︑ 二八 窟号 は
︑ モ ンゴ ル の唯 一に し て固 有 の聖 と し て のチ ンギ ス ハ・ ー ンと チ ベ ット 仏 教 の体 系的 な 聖 と を 対 等 に扱 てっ いる
︒ わい ば
︑ 二 つの 神 聖 性 が演 出 さ れ た 場 であ る︒
θ7
四 今 後 の 展 望
仏 教 が 中 国 や朝 鮮半 島 そ し て 日本 伝に わ たっ も とつ も 古 い ール ト のひ と つが シ クル
・ロ ー ド であ る︒ ーバ ミヤ ー ン や 敦 爆 を は じ め︑ 多 数 の石 窟 東が 伝 の ルー ト 上 に造 営 さ れ た︒ 石窟 は 造営 当 時 最の 先 端 の建 築 技 術 や 美 術 の精 粋 を 集 め て造 ら れ た︒ 東 西 の文 明 が 融 合 し て創 出 さ れ た文 化 の宝 庫 であ る︒ 北 アジ ア 草の 原地 帯 仏に 教 が い つ︑ ど のよ う に し て伝 わ り︑ ど ん な 形 で開 花 し た のか
︒ ま た
︑ 元 朝 時 代 仏の 教信 仰 の実 態 はど のよ う な も のだ たっ のか
︒ これ ら 問の 題 を 解 明す るた め に は︑ ア ルジ イャ 窟石 内 の壁 画 や 出 土文 書 大が き な 手 が か りと な る︒ 今 後
︑ これ ら の資 料 対に す る総 合 的 な 研 究 が 期待 さ れ て いる
︒ 注 記 本 研 究 科は 研 費 ア﹁ ルジ イャ 窟石 1 窟号 出 土 モ ンゴ ル語 古文 書 に関 す る歴 史 人 類 学 的研 究
﹂
︵大 野旭
︵楊 海 英︶ 代 表
︶の 研 究 成 果 の 一部 であ る︒ な お
︑ 一部 文 章 は 私 が 二〇
〇 年四 一二 月 十 六 日 に
﹃讀 賣 新 聞
・夕 刊
﹄に 掲 載 し た チ﹁ ンギ ス
・ハ ー ン の遺 産
︱ 中 国
・ア ルジ イャ 石窟
﹂ と 重 な てっ るい とこ を 断 てっ お き た い︒ ア ルジ イャ 石窟 で調 査 し て いた ころ に は文 物 管 理 所 長所 の巴 図 吉 日嘔 勒 先 生 の多 大 の支 持 得を た 友︒ 人 の おZ
●● 誅σ 口氏 は本 研究 模に 写作 品 の掲 載 を 快 諾 し くて れ た︒ 併 せ て哀 心 よ り感 謝 した い︒ ア
ルジ イャ 石窟 出 上 の文 書 に つい て は︑ 大 野旭
︵楊 海 英
︶ 著
﹃ア ルジ ャ イ石 窟 一号 窟 出 土 モ ンゴ ル語 古文 書 関に す る 歴 史 人 類学 的 研 究
﹄
︵科 研 報 告 書 一一
〇
〇 五年 月三
︑ 課 題 番号 一 一五 五 二〇 五 一四
︶ に詳 し い記 述 あが る︒ 東 山健 吾
﹃敦 建 三大 石 窟
﹄ 講 談社 一九 九 六 年
︑ 五 二頁
︒ 宮 治 昭
﹃バ ー ミヤ ー ン︑ 遥 かな り﹄ 本日 放 送 出版 協 会 一一
〇
〇 二年 ︑ 一五 頁︒ ア ルジ イャ 石窟 に つい ては 綿 密 な 考古 学 的 調 査 は ま だ実 施 さ れ て ない い︒ 将 来
︑ 各 窟 を 精 査す れ ば
︑ 現 存 壁の 画 の下 に︑ あ る いは 隅 にも とつ 古 い時 代 の壁 画 断の 片 発が 見 さ れ る 可能 性 はあ る︒ ア ルジ イャ 石 窟 壁の 画 に 関す る 図像 学 的 研究 まは 始だ ま たっ ば か り であ る︒ 壁 画 の内 容 と名 称 等 に つい ては
︑ 地
4 3 2
38
10 9 8
元 の考 古 学 者 や 文 物管 理者
︑ そ れ に ア ルジ イャ 石窟 を 拠 点 と す る モン ゴ ル人 僧 侶 た ち から の情 報 総を 合 し て︑ 暫 定 的 用に てい るい とこ 断を てっ お き た い︒ 田中 公 明 チ﹁ ベ ツト 仏教 美 術
﹂ 立 川武 蔵 頼富 本 宏 編
﹃チ ベ ット 密教
﹄ 春 秋 社 一九 九 九年 ︑ 三 全
︱二 一八 一 頁︒
﹃タ カン の世 界
︱ チ ベ ット 仏 教 美 術 入 門﹄ 山 川出 版 社 一一
〇〇 三年 初︵ 版
〇二
〇 一年
︶︒ 立 川武 蔵 序﹁ 論
︱ チ ベ トッ 密 教 と 何は
﹂か 立 川武 蔵 頼 富 本宏 編
﹃チ ベ トッ 密 教
﹄ 春 秋社 一九 九 九 年 ︑ 一︱ 一三 頁︒ 立 川武 蔵
︑ 前 掲 文︑ 三 ハー 一七 頁
︒ 楊 海 英
﹃チ ンギ ス
・ハ ー ン祭 祀
︱ 試 みと し て 歴の 史 人類 学 的 再 構 成
﹄ 風 響社 一一
〇
〇 四年
︒ 巷 の研 究 者 のな か に は︑ チ ベ トツ 仏 教 は 性﹁ 的 な 儀 礼
﹂ を 重 視 す るた め
︑ 元 朝帝 室 歓に 迎さ れ たと いう
︑ 世 俗 的 な 目 で セ ク シ アュ ルを 強 調 す る 見 方 あが る︒
﹃元 史
﹄列 伝 后・ 妃 一の 項 に は︑ 大 都 城 内 の高 寧 寺 に多 数 の 秘﹁ 密 佛 像
﹂ 安が 置 さ れ て いた が︑ 見 学 訪に れ た 成 宗 の妃 は それ を 醜 怪 と し︑ ハ カン チ で顔 を 覆 てっ 去 り︑ や が 仏て 像 も 破 壊 さ れ た
︑ と いう 記 事 が あ る︒ 大 都 チの ベ トツ 仏 教 寺 院 もに 幾 度 か の波 乱 があ った こと を 示し て いる
︒
39
らヽ
写真2:アル ジヤイ石窟 内で壁画 を模写す るナ ソンバ ト氏
写真 1:ド イツ在住の画家ナソンバ ト(左)と筆者。2004 年 夏、アル ジャイ石窟 を背景 に。
写真3:28号窟南壁右側 の壁画全体(模写)
イI
劇料ヽ﹁¶ヾ七Nく′︱マ針゛ЭI浦中畿かお﹂針
︐ ψ薯り
42
内モンゴルのアルジャイ石窟の壁画(一)(楊
海
判糾いL¶ヾ七Nく′︱マ針中ЭI滞鮮波がお﹂館ワ0当ゆЭ前劇
イθ
4イ
劇糾劇も∞巾酬冊憚Э鼎回
内モンゴルのアルジャイ石窟の壁画(一)(楊
海 イ5
劇糾∞中麟嚇酬調 針憚
劇料o¨職嚇酬調Э前劇
イδ
内モンゴルのアルジャイ石窟の壁画(一)(楊 海
鋼糊ご¨汁聾甜ゆ聖 針憚
判河二¨汁聾壽ゆ聖Э前劇
イ7
劇糊恙¨対柵ゆ聖 針椰 劇糾お︼討柵ゆ聖Э前劇
イ∂
写真14:大 成就者(奥か ら1番目)右壁
写真15:大 成就者(奥か ら2番目)
イ9
写真16:大 成就者(奥か ら3番目)右壁
写真17:写 真14、 15、16の模写
5θ
内モンゴルのアルジャイ石窟の壁画(一)(楊
海
歩ヽ ト
劇糾 諄激ゆ聖 計岬
劇料ご¨課撒ゆ聖Э前劇
5ヱ
劇糾8¨撃脳罫 計憚
劇糾蜃¨課激罫Э前劇
52