• 検索結果がありません。

雑誌名 評論・社会科学

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "雑誌名 評論・社会科学"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研 究 : 1910年代から1920年代までの蔡元培の教育実 践を中心に

著者 楊 奕

雑誌名 評論・社会科学

号 120

ページ 1‑19

発行年 2017‑03‑20

権利 同志社大学社会学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015483

(2)

要約:中国近代教育史上,「教育救国」という理念を掲げ,さらに美育(美による教育)を 中華民国の教育方針に取り入れ,美育をもって近代国家を作ろうとしたのが,民国初代の 教育総長蔡元培であった。蔡元培は,美育の提唱者そして実践者として,中国近代美育思 想において「主導的な役割」を果たしたと位置付けられている。本論文では,蔡元培が北 京大学総長を務めた1910年代から20年代までの時期において,彼の美育思想がどのよう に実践の中で展開されていったのかを,彼が密接に携わっていた二つの美育団体−画法研 究会と音楽研究会の活動に焦点をあてて,北京大学で発行した全校向けの新聞誌『北京大 学日刊』を中心に,当時の美育運動の実態を明らかにした。

1917年,蔡元培は画法研究会を設立した。画法研究会は著名な芸術家と留学経験を持つ 芸術家を教師として迎え,中国美術と西洋美術に関する理論と実践の教育を行った。また,

『日刊』には,中国の近代美術の発展に関する芸術家たちの論説や講演も多く掲載され,

人々の美術に対する新しい視点を示したのである。音楽研究会も1919に蔡元培によって発 足された。当時の人々の西洋音楽に対する関心を喚起させるため,1922年から27年まで の間,23回のコンサートを開催し,西洋音楽の普及に力を注いだ。

蔡元培の呼びかけで設立された画法研究会と音楽研究会は,美育に対する人々の理解を 促したと同時に,両研究会の積極的な活動は,美育の社会への普及をも促進したのである。

キーワード:美育,中国の教育近代化,北京大学日刊,画法研究会,音楽研究会

目次 1.はじめに

2.教育救国者」としての蔡元培 3.蔡元培の美育思想

4.北京大学での美育実践−『日刊』を中心に 4-1.『日刊』の発行と掲載物

4-2.研究会の発足 5.おわりに

────────────

同志社大学社会学部嘱託講師

2016129日受付,2016129日掲載決定

論文

中国近代における美育運動の展開に関する 実証的研究

── 1910

年代から

1920

年代までの蔡元培の教育実践を中心に──

楊 奕

(3)

1.はじめに

中国近代教育史上,「教育救国」という理念を掲げ,さらに美育を中華民国の教育方 針に取り入れ,美育をもって近代国家を作ろうとした人物がいた。それが蔡元培(1868

-1940)である。蔡元培は,美育の中心的な提唱者そして実践者として,中国近代美育

思想において「主導的な役割」を果たしたと位置づけられている。

19

世紀末から

20

世紀初頭にかけて,相次いで起きた戦争による中国の敗北と外敵の 侵略を経験して,知識人の間に大きな危機感が生まれたのである。基本的には,それが

「近代」がもたらした問題であった。つまり,軍事面,政治面,経済面から来る侵略に よる亡国の危機感,そして侵略を可能にしたと有力視される「近代」の前にさらされた 中国の伝統喪失への危機感である。

それらの危機感に対抗するための方策として,洋務派と変法派は「洋務運動」と「変 法運動」を引き起し,「中体西用論」に立脚したうえで,近代化の達成を目的とする改 革を推進した。しかし,いずれも実らずに失敗に終わってしまった。そこで,技術導入 や政治改革では救国できない原因を「中体」の固守,そして国民精神の欠如にあると見 なし,その「中体」の限界を乗り越えて国民精神の再建を目的とする知識人が現れてき た。救国方法を模索していた中で,やがて美のもつ意味を発見し,美育による救国の道 へと辿りついたのが蔡元培であった。

従来,日本の中国近代教育思想研究の基本的枠組みの主流は,「ヨーロッパ−アジア」

という二分法のもと,ヨーロッパによるアジアへの侵略,そしてアジアによるヨーロッ パの内在的克服という近代史認識であったと牧野篤は指摘している(1)。同じく中国近代 化過程の中で,「近代化」と「伝統」という二分構図に基づく中国による西洋近代の受 容・融合が,中国における近代教育史研究の基本的スタンスの一つであると言える。研 究対象,方法および着眼点を異にしているものの,二分化による中国近代教育史は,ヨ ーロッパ近代という価値において解釈されている点で共通しているように見える。

これまでの中国近代教育美育思想における蔡元培研究は,そのような枠組みに依拠し て行われてきた。中目威博は中国の伝統思想に西洋思想を取り入れ,そこに接点を見出 そうとした蔡元培の美育思想は,美育をいかにして中国の伝統社会に生かしていくか,

または,中国伝統文化といかにして統一させるのかという過程の中で形成されたと捉え ている(2)。聶振斌は感性と理性の融合を目指そうとした蔡の美育理論は,中国の近代的 主体性の確立を意味していると述べる(3)。また,蔡建国は美育を社会改良,国民道徳の 向上と結び付けることは,近代中国において重要な意味をもっていると指摘してい る(4)

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究

(4)

蔡元培の美育思想に関する理論研究は数多く蓄積されているが,一方,彼の実践に関 する研究,つまり,蔡の美育思想はどのような形で社会に浸透していったのか,その推 進過程の中で彼の思想がどのように具体化されていったのかの視点が欠けているように 思われる。彼の実践はこれまでの研究において,常に理論を補足した形で語られ,その 実態または効果が詳細に検証されていないといってよい。しかし,理論を具体化した過 程への視点なしには,蔡元培主導下の美育の全体像を把握できないのではないかと考え られる。

本稿では,蔡元培が北京大学総長を務めた

1910

年代から

20

年代までの時期におい て,彼の美育思想が実践においてどのように展開されていたのかを検証してみたい。な かでも,とりわけ,彼が密接に携わっていた二つの美育団体−画法研究会と音楽研究会

(後に音楽研究伝習所に改名)−に焦点をあてて,北京大学で発行した全校向けの新聞誌

『北京大学日刊』を中心に,彼の実践活動および当時行われていた美育の実態を明らか にしたい。

2.「教育救国者」としての蔡元培

蔡元培は

1868

年に浙江省の紹興で生まれた。幼少時から儒学に励み,12歳まで科挙 を受けるための古典をほぼ読み終えた。15歳から次々と難関の科挙試験を突破し,28 歳の若さで翰林院編修の官職を与えられた。若き身で学問の頂点に立ち,官職上も順風 満帆であった彼は,日清戦争の敗北,続いて変法の失敗に亡国の危機を感じた。「今日 憂国の士が議論する独立自存の正道は学校である」(5)と蔡は教育の重要性を説き,32歳 の頃に官職を捨ててより多くの人材を育成しようと教育界に身を投じたのである。

後藤延子は教育者としての蔡元培の活動を辛亥革命をさかいに二つの時期に分けて,

辛亥革命前の前半期の教育を「革命のための教育」とし,その革命後の後半期は政治主 義的傾向は影を潜めているが,教育がその政治活動の重要な一環として位置づけられて いたことに変わりはないと指摘している(6)。革命のための教育にしても政治のための教 育にしても,いずれもその中心をなすのが救国という教育の目的であった。つまり,蔡 にとって,教育は決して政治と切り離して考えるものではなく,両者は密接不可分な関 係にあって,厳しい現実を見据えたうえで,社会や国家のために役割を果たすことので きる人材の育成という視点から捉えなければならないものであった。革命の前と後とで は,置かれている立場や抱えている教育の課題は異なるものの,蔡は教育救国という姿 勢を保っていた。それは「教育こそ中国を救う道であると考え,人材の育成につとめ た。そして終生その方針を変えなかった」(7)と竹内洋が指摘しているように,救国とい う揺ぎない目的が,彼の教育思想の中に始終一貫していたと言えるからである。

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究

(5)

かつて中国には「天下の興亡,匹夫も責めあり」という言葉がある。この言葉が意味 しているように,天下国家を第一義とすることは中国近代知識人が持つべき良識であ り,責任でもあった。儒学の素養を深く身につけた蔡元培もその例外ではなく,彼は救 国を自らの使命として引き受け,さらに国家を近代化する教育のあり方を生涯を通して 探求しつづけていた。この意味において,蔡元培は全人格をもって中国の近代化を樹立 しようとした「真の教育者」(8)であると評価できる。

3.蔡元培の美育思想

救国の方法を求めて,蔡元培は

1907

年ドイツへの留学を決心した。ライプチッヒ大 学で彼は心理学をはじめ,哲学,文明史,美学,美術史などを学んだ。とくにヴント

(Wilhelm Wundt 1832-1920)の講義を通して学んだカント(Immanuel Kant, 1724-1804)

の美学に深く心を惹かれ,美がいかに重要なものであるかを考え始めたと『自伝』の中 で述べている。そしてこの美への注目は後に彼の美育理論を構築する出発点となったの である。

1912

年に孫中山の要請を受けて,蔡元培は中華民国初代教育総長に就任した。就任 した際に発表した「教育方針に関する意見」は当時の教育界に清朝の教育方針と決別す べく,今後進むべき新しい方向を明確に示した。その新教育方針は「軍国民主義」,「実 利主義」,「公民道徳主義」,「美育」と「世界観教育」という五つの側面から構成されて いる。蔡は前三者を「現象世界」に属する教育と位置づけ,人間はこの三つの教育を受 けて「実体世界」へと到達することが可能であると述べ,そして「現象世界」から「実 体世界」への橋渡しをするものとして,蔡は美育をあげたのである。

人間の世界は「現象世界」と「実体世界」からなると蔡は言う。両者の関係を彼は次 のように語っている。「現象と実体とは,世界の二つの側面であり,対立するものの 別々の世界ではない。また,われわれの感覚自体は現象世界に依存しており,いわゆる 実体は現象の中にある。決して一方を消滅してから一方が生まれるという関係ではな い」(9)。要するに,現象をもたない実体が存在しないと同じように,実体を持たない現 象もありえない。感覚は現象世界に存在するがゆえに,実体も現象を超越した実体では なく,現象に包含される実体になる,いわゆる現象と実体は表裏一体の関係にあるので あると彼は指摘した。

蔡元培がここで現象と実体に分けて説明していることは,彼の教育の捉え方によるも のであると考えられる。蔡は教育が「政治に従属した」教育と「政治を超越した」教育 という二つの側面をもっていると述べている。すなわち,現象世界だけを追求するのが

「政治に従属した」教育の目的であり,それに対して,「命を犠牲にしても世のため人の

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究

(6)

ために尽くす」という価値をもつことが「政治を超越した」教育の目的なのである。政 治に属したレベルから政治を超越したレベルへと発展させるのが彼にとっての意味のあ る教育の姿であった。このような教育をもって国民の精神意識を改造するのが,彼の理 想とした教育像であった。

では,人間はいかにして現象世界から実体世界へと到達できるのか。言い換えれば,

いかにして私利を重んじる人間から社会,国家のために命を顧みない人間へと転換でき るのか。それが美育によって可能であると蔡は確信した。それについて,彼は次のよう に述べている。

「美感とは優美と崇高をあわせもつ言葉で,現象世界と実体世界との間に介在して橋渡し をするものである。これはカントの思想に由来し,その後にそれに反対する哲学者はいな い。現象世界では,人間は喜怒哀楽の情をもち,生死禍福利害などの現象を伴って変化す る。美術はこうした現象を材料としつつも,美感以外のあらゆる雑念から自由となることが 可能である。(中略)現象世界から実体世界へと導く教育者は美感教育を用いなくてはなら ない」(10)

このように,蔡は現象と実体を橋渡しするカントの美学に依拠して,人間は美によっ て,束縛された現象世界からあらゆる利害関係を超える普遍性かつ超越性をもつ実体世 界へと向上するという,美の役割を唱えた。また,蔡は知情意という三分法に基づい て,道徳を意志と感情を持つものとし,また感情は美育によって養われることから,美 育は道徳と密接に結びついていることを強調した。こうして蔡は道徳と美育との不可分 な関係から,国民道徳再建の可能性を美に見出したのである。

この教育方針をもとに,1912年

9

月に教育部は「道徳教育を重視し,実利主義,軍 国民教育を以てそれを助け,さらに美を以てその道徳を完成する」(11)という新しい「教 育宗旨」を打ち出した。この意味で,「彼を名実ともに民国教育の生みの親と称するこ とは可能である」(12)だけでなく,近代美育の先駆者と評することも可能であろう。

しかし,20世紀初頭,国内外の緊迫した情勢に追い詰められた中国では,教育方針 としての美育はあったものの,その役割は決して広く認識されていたわけではなかっ た。そこで,新たな教育実践の場を求めて,蔡元培は

1917

1

月に北京大学の総長に 就任。それを機に,彼は着実に美育の実践を進めていたのである。

4.北京大学での美育実践−『日刊』を中心に

4-1.『日刊』の発行と掲載物

北京大学の前身は

1898

年に設立された京師大学堂で,官僚養成の教育機関であった。

当時の北京大学では,学生は学問を「官僚になって金儲けする」ための手段にすぎない

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究

(7)

と思い,研鑽の精神を持たず,卑俗な娯楽に耽っていた。北京大学総長に就任した蔡元 培は,その腐敗を正すため,学生としての自覚を促すことから出発し,就任演説の中 で,大学の理念を「宗旨を堅守すること」,「道徳を砥礪すること」そして「師と友を敬 愛すること」の三つを学生に求めたのである。

大学が立身出世の道具ではなく,共に学術を研究する機関,つまり,学問研究の共同 体であるという宗旨を蔡は説きながら,心を堕落させるような卑劣な嗜好を排除し,道 徳の向上には美育が不可欠であることも強調した。彼は大学の気風を一新させるための 教育改革を行い,その中の一つはカリキュラムの改革であった。

早くも

1917

12

月から,蔡元培は文科課程改正を行い,哲学学科に美学,美術史を 選択科目として新しく加えた。しかし,科目は設けられていたが,適切な教師がいなか ったため,開講はできなかった。1921年

9

月から,彼は自ら美学講座を引き受け,「美 学」,「美学の趨勢」と「美学の価値」をテーマに,主に西洋美学概念,実験法,研究方 法,対象,範疇などを中心に講義を行った。講座は前後

10

回にわたって開講されたが,

彼の足の手術による入院で中止となった。

当時の開講様子を蔡元培の教え子だった蒋復聡は次のように回顧している。

「先生は西洋美術に触れると,図や絵などを持ってきて見せてくれた。とても興味深いも のであった。講義は第1院(文学部)の第2教室で行われていた。第2教室は学校の中で一 番大きく,100〜200人の席のある教室であったが,それでも,足の踏み場のないほど学生で いっぱいだった。中には,講義を選択した人,そして選択していない人もいたし,本校以外 の人もたくさん聞きに来ていた。パリ大学と殆ど変らない大盛況であった。さらに講壇にま で上がって座りながら聴講している人もいた……」(13)

1917

年から

1927

まで総長を務めた約

10

年間,講義をもったのは,その美学だけで あった。そのことは,蔡がいかに美学研究を重視していたのかを物語っている。それ に,選択科目であったにもかかわらず,200人の学生が教室を埋めるほど聴講している ことが,当時受講の一般的な状況からみてもごくまれな光景であった。

では,なぜ,学生の美学に対する関心がここ

3, 4

年の間に急速に高まるようになっ たのか。それは,単なる西洋学問の一つである美学に関心があったことによるものなの か。それとも,蔡元培が北京大学で美育を着実に推進した一つの結果として見ることが できるのか。ここでは,当時北京大学で発行された『北京大学日刊』を手がかりにし て,その実態を検証してみたい。

就任後まもなく,蔡元培は大学のあらゆる情報を教員,学生と職員に公開し,三者の 交流をより密接に図るための新聞紙『北京大学日刊』(14)(以下『日刊』)を発行させた。

『日刊』は

1917

11

月から

1932

9

月まで,日曜と休み期間中を除いてほぼ毎日発行 された。基本的には,見開き

4

版のものが多かったのだが,時には

2

版,6版,8版と

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究

(8)

減らしたり増やしたりして発行する年もあった。最初は法規・法令,大学・総長の通 達,公牘,各学科の通知,学内の動向,集会などが主な内容であったが,後に文芸,雑 録,講演録の欄が設けられ,翻訳,論説,講演内容なども掲載されるようになった。北 京大学の教師や学生は,国の法令,大学の連絡事項から学習,生活にかかわる重要な情 報まで,例えば図書館の新着書目録,成績の公表,追試,合格者の発表,学費の納付な どといったものを,この新聞紙を通して把握していた。このように考えると,『日刊』

は大学のあらゆる動きを知る重要な情報紙として,教師と学生によく読まれていたと推 測できる。

1

は,1918年から

1923

年まで,文芸,雑録に掲載されている美学,美術に関する

1 掲載されている講演・翻訳・著者

No. 掲載日期 著者 題目 分類 備考

1 19182月20日 蔡元培,孫松齡述 蔡校長在育德學校演説之述意 講演録

2 19183月15日 張厚載 美與善 文芸 連載2

3 19184月13日 黃環素 美與善 文芸

4 191868日−10月21日(第二冊)

19192月27日−6月24日(第一冊)

布綏爾 戴嶽

中國美術 雑録 連載44回

連載82回

5 1919年10月11日 楊昭恕 樂理的研究 文芸

6 1919年10月14日 楊昭恕 音樂在美術上之地位及其價值 文芸

7 1919年11月17日 蔡元培 蔡校長在音樂研究會之演講詞 講演録

8 19205月29日−192118 蔡元培 美術的起源 講演録 連載18回 9 19207月31日−9月31日 ErnestF.Fenollosa

李四傑

中國日本美術分期史 雑録 連載20回

10 1920年10月30日−1921年12月22日 C. Bayet孫方訳 美術史 雑録 連載50回

11 12 13 14 15 16 17 18

1921214 1921215 1921219 1921221 1921222 1921223 1921224 1921225

蔡元培 蔡元培 蔡元培 蔡元培 蔡元培 蔡元培 蔡元培 蔡元培

何謂文化?(1)

美術的進化(2)

美學的進化(3)

美學的研究法(4)

美學與科學的關係(5)

美學與科學的關係(5)續 對於學生的希望(6)

對於學生的希望(7)

講演録 講演録 講演録 講演録 講演録 講演録 講演録 講演録

19 19221月10日−1月14日 劉海粟講 潘傳霖 現代繪畫之新趨勢 文芸 連載3

20 19221月16日 蔡元培 李建勳 介紹藝術家劉海粟 專件

21 192227日−4月25日 E. Peeaut et C.

Baude孫方 訳

美術(音樂,詩歌,建築,雕 刻,圖畫)

雑録 連載20回

22 19236月27日−6月28日 Edward Carpenter 生命的藝術 雑録 連載2

23 19235月21日 澤村専太郎

張鳳擧 譯,

魏建功 記

東洋藝術的精神 講演録 連載6

24 19235月25日 田邊尚負雄

周作人

中國古代音樂之世界的價值 講演録

*『北京大学日刊』により著者作成。なお,連載されたより具体的な年月日については,ここに記載されて いない。1923年以後,文芸,雑録がなくなった時期もあり,美学,美術史に関するものはみたらない。ま た,蔡元培に関するものは太字にした。

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究

(9)

ものを整理してまとめたものである。

1918

年から

1923

年の約

5

年間,『日刊』に掲載された翻訳,論説,講演は,合わせ て

24

本に過ぎない。数値としては一見してそれほど多くはないが,注目すべきことは 連載回数の長さである。そもそも『日刊』は学校の各行事を知らせるためのもので,そ の内容が大半を占めていた。紙面に制約があるために,文芸,雑録,講演に載せられる ものが少なく,一日に一つか二つ程度のものであった。そうした中で,『中国美術』は

1918

年から

1919

年にかけて,126回にわたって連載されていたのである。それは,掲 載された翻訳の中で一番長いものであったと言える。そしてそのことは,次のことをも 意味している。つまり,『日刊』を読んでいる人は,この一年間を通して中国美術に触 れて,少なくともその分野に関する知識を得ていたということである。一年間にわたり 集中的に連載していたことは,今まで見慣れなかった「美術」という言葉を人々に印象 づけるだけではなく,美術に関心を持たせようとした点において,きわめて重要な意味 を持っている。

もう一つ注目すべき点は,連載されていたものには翻訳書が圧倒的に多いということ があげられる。限られていた紙面にどのようなものを掲載するのがよいかの取捨選択 は,実に編集する側の姿勢を明確に反映していると思われるからである。

近代西洋の研究方法を取り入れて,中国の伝統的な学問を補うことは,中国近代化を 進めるうえで不可欠な作業であると中国の知識人たちは認識している。蔡元培もその近 代的な研究方法を吸収することに力を注いだ一人であった。早くも

1914

年から,彼は 中国研究に関する西洋学者の成果を高く評価しつつ,科学的にかつ系統的に研究する著 書は中国ではまだ現れていないことを指摘している。彼によれば,中国の地質,宗教,

古文物,美術史,古文語,チベットの地理,風俗,文物,辛亥革命などの分野におい て,西洋はすでに高い研究成果をあげているが,中国には彼らに勝る研究は一つもなか った。世界の一員として認められるには,学術の向上が重要であることから,中国は科 学的に学術研究を行うべきだと唱えた。その中には,美術史に関する優れた研究とし て,彼はイギリス人ブッシェルの名をあげていた(15)

30

年間以上中国に滞在していたブッシェル(Stephen W. Bushell, 1844-1908)は『中 国美術』を著し,建築,彫刻,陶器,漆器,硝子,刺繍,書などの膨大な中国美術につ いて,時代ごとにその製造,材料,図案の意味,成立,変遷などを詳細に検討した。そ の本は上下巻二冊に分かれ,1904年と

1906

年にロンドンで出版された時,大きな反響 を引き起し,中国美術を紹介する最初の専門書となったのである。蔡元培がこの本に注 目したのは,何よりもその科学的分析手法であった。その研究方法を取り入れること で,中国の従来の美術研究領域における内省,想像の旧習を改め,中国の美学研究をよ り広い視野に立った,近代的な科学的方法へと導くことが可能であると彼は考えていた

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究

(10)

のである。ここには,美学研究に関する彼の科学志向の姿勢がうかがえる。

『日刊』に掲載されていた蔡元培の言説はもともと少なく,そのほとんどが表に示し たように,美学,美術に集中している。それらは育徳学校,北京大学学術講演会での講 演をもとに『日刊』に載せたものであった。近代的な学問を追求しない大学の風習を批 判し,蔡元培は

1918

2

月に,民衆に学術研究に関心を持たせるための講演会を定期 に開催することを各教員に求めた。彼自身も

1920

年から

1921

年までの一年間,学術講 演会で何回も美学を中心とする講演を開いた。例えば,美術の進化,美学の研究法,美 学と科学との関係などは,主に西洋美学を中心に語られ,また,「美術の起源」につい て,アジア,アフリカ,オーストラリアとアメリカの未開民族を対象に,膨大な資料を 駆使し,時代や民族,社会,風俗が異なるものの,美術が人々の生活の需要から生まれ た点において共通していることに言及し,その普遍性と個別性をもつ美術のあり方を提 示した。この研究は,これまでの美術を一国に限定して論じるという従来の視点を超 え,実証的科学方法を重んじる西洋美術研究から示唆を得た一つの試みであると考えら れる。数多くの講演から,ほかではなく美学,美術をあえて選んで『日刊』に掲載する ということは,美を重視する彼自身の立場を表明しただけではなく,その重要性を全校 生に訴えて,美に対する思索を新たに喚起させようとしたのである。

このように,『日刊』に掲載されていた美,美学に関するものは,蔡元培が関わって いたことは明らかである。美術の連載や講演を多く取り入れたことは,美育を推進しよ うという蔡の方針と一致し,さらに彼の考え方をも反映していると思われる。そしてそ れは,美術に対する人々の理解や認識を促したと同時に,近代的な美術研究の新しい方 法をも提示したのである。

4-2.研究会の発足 4-2-a.画法研究会

1917

12

月,蔡元培は当時名高い画家陳師曾を招き,北京大学で清朝の山水画につ いての講演会を開催した。来場者が千人を越えるほどの大盛況で,聴衆は大学生が大半 を占めていた。それをきっかけに,学生の間で美術に対する関心が沸き起こった。

そして蔡元培の呼びかけの下で,1918年

2

22

日に学生を中心とした画法研究会が 設立され,自ら会長を務めた。4月

15

日,蔡元培は「北大画法研究会趣旨書」を起草 し,科学と美術は新教育の重要な内容であるにもかかわらず,大学では理論の学習を重 視しがちで,練習の機会を軽視するという問題を指摘し,それは美育の方針に反してい ると述べた。また,彼は絵画を「雅」と「俗」の二種類に分類し,研究会の宗旨は高尚 な趣味を養い,卑俗なものを排除し,科学精神を用いて美術を研究することにあると強 調した(16)。3月

3

日の『日刊』に研究会の会則及び入会の規程が掲載され,会員の募集

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究

(11)

がはじまった。会則によれば,研究会は中国画と西洋画の二つに分かれて,中国画は山 水画,草花画,人物画,翎毛画からなっており,一方,西洋画は油絵,鉛筆画,木炭 画,漆絵,線描画,水彩画と図案からなっている。両方を同時に兼ねて学ぶことはでき ない。入会の規程について,品行端正で中学校以上の教育歴ないし同等の学歴を有し,

または二年以上の美術学習歴のある者は,校内外を問わず入会できる。研究会は三ヶ月 を一期とし,毎日午後

4

時半以後指定する教室で各自で自由に練習を行い,課題が月曜 日に渡され,そして土曜日に提出することが全員に課せられる。授業は指導教員の時間 と都合により講義,個別指導,評価という形で行われ,また講演会と談話会も授業の一 環として取り入れていた。

1918

年から

1920

年まで研究会は,確認できる範囲で全部九期を開いた(17)。入会者数 は三期だけが記録されたが,後は見当たらなかったため,詳細な数字を把握することは できない。『日刊』によれば,第一期は

37

人,第二期は

71

人,創立一周年の

1919

2

月までには教員を含めて

170

人に達しており,また『絵学雑誌』第一号が公表した会員 数は,1920年

6

月までに

184

人に達していた。会員が確実に増加していることはこの 数字からも見て取れる。

1919

10

月の入学式で蔡元培は,わずか二年間で,研究会が他の研究会より実に大 きな成果をあげていると評価している。人数の増加は,たしかに美術に対する認識の変 化を表していると言える。では,その変化は何によって生じてきたものなのか。実は他 の研究会と異なって,画法研究会は,講演会や談話会の内容を『日刊』の研究会紀要に 詳細に記録している。そのことが人々の美術の理解,ひいては知識の普及につながって いたと考えられる。そこで,画法研究会が行った講演会,談話会を一覧表にまとめて,

その内容をみることにする。

設立当初,蔡元培は北京画壇を代表する人物−陳師曾,湯定之,賀履之,留学から帰 国した李毅士,徐悲鴻,そして馮漢叔,錢稻孫,貝季眉を兼任教師として招聘した。講 義は一定の形式にこだわらず,それぞれの専門にもとづいて行われた。実技の教授以 外,理論学習の一環として講演や談話も数多く開催された。表

2

に示したように,講演 と談話は指導教師の個々人の研究領域にかかわるものが多かったが,そのなかでも,注 目すべきことは,中国画と西洋画との比較,中国美術の近代化のあり方に関する考え方 であった。

20

世紀初頭,中国近代化が進む中で,中国の伝統文化をどう捉えるのかが大きな課 題の一つであった。旧文化,古い価値観に代わって,西洋の新思想を全般的に取り入れ るという主張もあれば,その一方で,中国の伝統文化,とくに儒教を全面的に肯定し,

擁護する説もあった。また,西洋の長所を取り入れて,中国の旧習を補う,いわゆる

「中体西用論」の立場で論ずる人もいた。このような動きは,美術の世界においても例

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究 10

(12)

外なく反映されている。中国の美術近代化はいかにして達成できるのかという問題をめ ぐって,研究会の教学に携わっている教師兼画家たちは,講演や談話を通じて,自らの 立場を表明していた。

まず,中国画の伝統に対する姿勢の違いがあげられる。賀履之,湯定之は伝統的な学 び方を重視する立場に立って,臨画をあらゆる絵画の土台と見なし,『芥子園画伝』(18)

にしたがって,臨画から習熟,さらに創作に至るまでの段階を正確に守ることを初心者 に求めた。そのため,本物を見ること,絵画に関する書を読むこと,名所旧跡を探訪す ることが重要であると述べている。一方,馮漢叔は,臨画は単なる忠実に形を真似るの

2 講演者・テーマおよび掲載紀要

No. 日期 講演/談話 テーマ 掲載紀要

1917年12月1 陳師曾(講演) 清代之山水画 紀要第二十一(1918/6/1)

紀要第二十一續(1918/6/3)

紀要第二十一續(1918/6/4)

紀要第二十一續(1918/6/7)

紀要第二十一續(1918/6/8)

紀要第二十一續(1918/6/10)

191848 陳師曾(講演) 清代之花卉畫 紀要第十七(1918/5/15)

191849 湯定之(談話) 山水画之基礎 紀要第七(1918/4/15)

紀要第七續(1918/4/16)

191849 賀履之(談話) 山水画法 紀要第十八(1918/5/16)

19184月15日 19184月23日

貝季眉

徐悲鴻 画之美與藝之第三段 紀要十(1918/4/26)

19184月24日 馮漢叔(講演)

錢稻孫(講演)

中国画之大略 何謂美

紀要第十一(1918/4/27)

紀要第十一續(1918/4/29)

紀要第十一續(1918/4/30)

19184月26日 賀履之(講演) 中国山水画 紀要第十二(1918/5/4)

紀要第十二續(1918/5/6)

191851 李毅士(談話) 西洋画法 紀要第十六(1918/5/14)

19185月10日 徐悲鴻 對於古画之批評 紀要第十五(1918/5/10)

紀要第十五續(1918/5/11)

19185月14日 徐悲鴻(講演) 中国画改良之方法 紀要第十九(1918/5/23)

紀要第十九續(1918/5/24)

紀要第十九續(1918/5/25)

19185月23日 馮漢叔 各朝画之特長與變遷 紀要第二十(1918/5/30)

紀要第二十續(1918/5/31)

19186月第三週目 1918年10月29日

李毅士・貝季美・馮漢

呉稚暉(談話録) 遊藝家美術之照相 紀要第二十五(1918/10/29)

1918年12月15日 陳師曾(講演) 對於普通教授圖畫課之意見 紀要第三十(1919/1/10)

191928 19192月25日

盖大士(談話三回)

鄭褧裳

西洋画写生 中西绘画之異处

紀要第三十四(1919/2/22)

紀要第三十五(1919/3/8)

*『北京大学日刊』により著者作成。画法研究会紀要番号が第七から明記されて,第三十五までとなってい る。なお,『日刊』に記録されたほかの講演,例えば,1918411 陳師曾,1918415 季眉,1918515 錢稻孫,1918528 貝季美,19186月第一週目 陳師曾,19186 月第二週目 錢稻孫,19186月第三週目 李毅士・貝季美・馮漢叔,19181110 陳師曾・馮漢 叔・錢稻孫,19181229 錢稻孫,および他の談話内容は紀要に掲載されていないため,ここでは 省略する。

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究 11

(13)

ではなく,筆墨から風格や気韻まで,すべてを含むものでなければならないので,従来 の臨画より絵画の鑑賞を推奨している。また,中国画と異なり,西洋画はその写実性を 重んじるという特徴から,李毅士は,写生を軽視し,写意を求める中国画の風潮を指摘 し,絵画の基礎である写生を忠実に行えば,後はどんな絵でも自由自在に描けると主張 し,対象を迫真に写生することの重要性を強調した。

次に,中国画と西洋画の共通点と相違点が論じられている。馮漢叔は中国画は書詩画 の統一,品性端正を重んじる伝統があり,一方,西洋画は写実性を重視するところから 発展してきたものである。異なる文化,歴史,社会から醸成してきた両者は,それぞれ の美意識を有していて,美術を発展させてきたのである。それゆえに,一つの基準で優 劣をつけることはできない。それぞれの特徴を生かし,発展させていくことが重要であ ると述べている。一方,中国画と西洋画とはそれほど相違がなく,感動,意趣卓逸を重 要視する点において両者は共通していると李毅士は言っている。

さらに,中国美術の近代化は今日の現状を改造することから始まるべきという主張も あった。徐悲鴻は後退しつづけた中国画を再び振興させるためには,旧習の気風に固執 する画派を取り除くべく,ひたすら模倣するという従来のやり方をやめて,対象の形,

光,色,質を深く観察する西洋の写生方法を取り入れることを主張し,石膏模型から写 生へと進む新しい学び方を提示した。陳師曾は「中国画を主体とし,西洋画の長所を取 り入れ,我が短所を補う」という姿勢を明確に示し,光線,遠近の扱い方や雲,樹木の 描き方は西洋に及ばないところを学び,また,風景や雨模様など,西洋に勝るところは もっと力を入れて研究すべきと述べている。

「写生と写意」,「伝統と革新」,「中国画と西洋画の技法」といった美術界によくとり あげられている議論が,このように,『日刊』の紀要を通して,人々に知られるように なり,美学を具体化した美術のあり方もこうした形で深く理解されることになったと考 えられる。

また,研究会では学生の学習成果を積極的に社会に発信しようと様々な展覧会に参加 し,イベントを企画していた。例えば,1919年元旦,蘇州で開かれた万国禁煙大会に あわせて

8

点を出品した。これは,学校以外の公共の場でのはじめての出品となり,研 究会の名が次第に知られるようになった。それに加えて,1920年

3

月の春休み期間中 に,各地から集めてきた名画と学生の作品を展示する展覧会を開いた。さらに大学の各 周年記念会にも参加し,例えば,25周年記念大会(1922年)には書道研究会とあわせ て

228

点の作品,また,31周年記念会(1929年)の時には中国画および書道約

100

点,西洋画約

100

点を展示していた。このように,展覧会などを通じての大学全体そし て社会への発信は,人々の美術に対する関心を大いに促したのである。

発足してまもなくの二年半の間に,このような成果があげられたのは,美術教育に対

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究 12

(14)

する教員と学生の努力と熱意によるものがもちろん大きかったが,それ以上に,蔡元培 の惜しまない指導と協力も大きな力になっていたものと思われる。研究会の運営は基本 金,大学の助成金と学生の受講料によって賄われるが,基本金の不足と受講料の滞納が あったため,資金難に瀕する状態がしばしばあった。研究会が継続的に運営できるよう に,蔡元培自らが全校生に呼びかけて募金活動を企画し,千金以上の資金を集めた

(『日刊』画法研究会紀要第二十八,1918年

12

13

日)。研究会員は,「研究会全員に よる蔡先生と各指導教員に対する感謝状」という一文を発表し,そのなかで,研究会を 支えてきた蔡元培の活動が次のように述べられている。教師の招聘や経費の集めに尽力 し,模写できるように中西の名画を買い求め,さらに大学がかかわっている国内外のコ レクションの作品を閲覧できるようにわれわれに開放している。蔡先生が広い心と高い 志をもって,研究会の発展に腐心している努力はわれわれの励みとなったと(『日刊』

1918

6

29

日)。ここにはまさに蔡元培の献身的な姿が表されていると知られる。

4-2-b.音楽研究会から音楽伝習所へ

上述した画法研究会と同じく,蔡元培が深く関わっているもう一つの学生団体があ る。それは,音楽研究会であった。1919年

1

月に蔡元培は

1916

年に設立された北京大 学音楽団を北京大学音楽研究会に改名し,会長を兼任し名高い国楽の演奏家王心葵を兼 任教師に招いた。蔡元培が起草した『音楽研究会の規程』は

1

30

日の『日刊』に掲 載された。『規程』によれば,音楽研究会は「音楽を研究し,性情を陶冶する」ことを 宗旨とし,ピアノ,バイオリン,古琴,琵琶,昆曲の五つの楽器コースを設け,音楽に 関心のある者は校内外を問わず入会できる。半年または年に一回コンサートを開催する と。音楽研究会に西洋の楽器コースがあったものの,基本的には国楽が主流を占めてい た。それは王心葵の指導方法によるものが大きかったが,その上,王を責任者にした蔡 元培の考えをも反映していると思われる。また,国楽重視の方針は音楽研究会が主催し た三回のコンサートからもうかがえる。

1919

4

19

日に青年会で開催された音楽演奏大会では,古琴,糸竹,琵琶,洞 簫,昆劇,笙簫琵琶合奏,ソロ,合唱,ピアノ,バイオリン,チェロなどによる

19

の 演目が行われ,なかには国楽を代表する演奏が

11

もあった。翌日の『晨報』という新 聞には当日の盛況ぶりが次のように報道されている。

「大会は蔡元培総長が主催していた。千人以上の来場者が足の踏み場もないほど会場を埋 め尽くしている。古今中西の音楽が演奏され,演奏者は国楽と洋楽を代表する音楽界の著名 人ばかりであった。甚だしく荒廃している今日の社会において,演奏会は未曾有の出来事で あった。このような演奏は定期的に行われれば,国民の美に対する理解に役に立つととも に,国民精神を向上させることにもなると考えられる。」(19)

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究 13

(15)

はじめての演奏会は校内ではなく,校外で開催されたことに注目しなければならな い。それは全校生だけを対象としたものではなく,大学を超えて社会全体へと発信して いることを意味していたと思われる。音楽に関心を持たせる演奏会を通して,国民全体 の精神を向上させようとするのがこの演奏会開催の目的であった。そのため,蔡元培が 総長として自ら演奏会を主催することは,演奏会が単なる大学の一大イベントに終わる のではなく,実に重要な使命をもっていることを社会に宣言したのである。換言すれ ば,演奏会は国民精神の向上という社会的使命を担うものとして国民に認識させようと したのである。この国民精神の向上に貢献できるという考え方は,これまでの個人趣味 としての音楽の鑑賞とは異なったものであった。この意味において,演奏会のもつ社会 的役割への強調は,『晨報』で述べられている「未曾有」というものだったのかもしれ ない。

音楽研究会の規程によると,コンサートは半年か年に一回の開催ということであっ た。ところで,1919年から

1922

年まで『日刊』で確認できたのは,上記のものを含む 三回だけであった。後の二回は三年後の

1922

5

1

日と

2

日の二日間に連続して開 催されたもので,1日は糸竹,ピアノ,琵琶,ソロ,二胡,昆曲,簫,バイオリンの全

17

曲(なかには国楽が

10

曲),そして

2

日は糸竹,三弦,ピアノ,古琴,琵琶,ソロ,

昆曲,二胡,舞踊,箜篌椰胡,秦箏阮蕭全

16

曲(なかには国楽が

11

曲),いずれも国 楽が中心に演奏された(20)。ここ

3

年の間,なぜコンサートを多く開催することができ なかったのか。それについての記録がなかったため,詳細については推測できないが,

コンサートを音楽の普及,ひいては国民精神を高める手段として考えている蔡にとって は,音楽研究会を改善する余地があったに違いない。1922年

10

月,北京大学

25

周年 の開学式で蔡元培は音楽研究会は成果をあげていないことを指摘し,日本・ドイツ留学 経験のある蕭友梅の要請を受けて,研究会を音楽伝習所と改名し,大学全体の審美的感 情を養うためにコンサートを週に一回開催するようにと提案したのである。

その後『音楽伝習所の規程』が出され,それによれば,音楽伝習所は音楽人材の養成 を宗旨とし,そのために,西洋音楽の理論と技法を伝授すると同時に,国楽の保存と継 承に努めることが求められる。伝習所は本科・師範科・選科の三つに分かれて,本科に は専門性をもつ人材の育成を目的として,理論作曲,ピアノ,バイオリン,管弦楽,ソ ロの五つの科目があり,所定の課程を修了すれば卒業できるという卒業要件が設けられ るが,卒業年限は問わない。師範科は中小学校の音楽教員の養成を目的として,18歳 以上で中小学校で教師経験をもつ者は学習期間を四年とし,持たない者は二年とする。

選科には音楽に関心のある者のために設けられる科目が含まれるとし,理論,唱歌,ピ アノ,オルガン,吹奏楽,管弦楽と,中国の国楽の学習をその内容とし,修了年限を設 けずに講義時間は毎日午後四時以後に行われる。

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究 14

(16)

音楽伝習所に関する情報はコンサートの開催という形で『日刊』に掲載されている。

講義以外,コンサートの開催は彼らにとって重要な活動の一つとなっているようであっ た。そこで,1922年から

1927

年までに開催されたコンサートを以下の一覧表にまと め,その演奏内容と工夫から,音楽を大学,社会全体へと普及しようとする彼らの様子 を浮き彫りにしたい。

3 音楽伝習所が主催したコンサート

No. 日期 作曲家 演目の説明

1 1922年12月17日 Er. V. Suppé, Mendelssohn, P. Tschaikowsky, Franz Liszt, Leon Jessl, Gustav Michiels(全10曲)

3 19231月19日 J. S. Bach, J. Haydn, H. C. Lumbye, W. A. Mozart, Beethoven, Fr. Schubert, Fr. Chopin, G. Meyerbeer, R. Eilen- berg(全9曲)

古典派音楽・ロマン音楽・

サロン音楽,音楽家の紹介

4 19233月10日 Kéler Béla, W. Balfe, Fr. Schubert, Fr. Neruda, G. Meyerbeer, E. Strauss, G. Lortzing, M. Moszkowski, W. Popp, Beethoven, Fr. Chopin, K. Komzak, Johann Strauss(全14曲)

5 19233月24日 Auber, Häudel, Fr. Lehár, B. Godard, Antonio Tosea, Gluck, Mozart, Beetoven, R. Vollstadt, A. Adzm, Ch. Beriot, G. Le- maire, M. Mozskowski, Ed. Elgar, Weber,琵琶(全14曲)

6 192345 Fr. v. Suppé, Fr. Schubert, G. Meyerbeer, Beethoven, Ed.

Grieg, J. A. Sodernann, Schubert, Eilenberg, Ziehrer,琵琶,

Schaeffer(全12曲)

7 19234月21日 Rossini, W. Rossbach, E. Toselli, W. Popp, G. Meyerbeer, Balfe, F. Poliakin, L. Hérold, W. Cadman, Gerturde Ross, H.

Wieniawski, E. Waldtenfel(全11曲)

8 192355 Beethoven, Kéler Béla, R. Wagner, A. Seifert,琵琶(全6 曲)

絶対音楽と標題音楽,ベー トーヴェンの「田園交響楽 6番」

9 19235月19日 Fr. v. Suppé, O. Hackh, E. Gillet, G. Meyerbeer, J. Ivanovici, Kéler-Béla, A. Calvini, M. Moskowski, R. Eilengerg,琵琶

(全10曲)

10 192362 Mendelessohn, K. M. Weber, A. Glazounow, A. Francis,琵 琶(全5曲)

メンデルスゾーン

「夏の夜の夢」

11 1923年10月7 Kéler-Béla, Ed. Grieg, Beethoven, J. Strauss, Mendelssohn, Mac Dowell, Gastaldon, P. Siegfried(全8曲)

エドワード・グリーグ

「Peer Gynt-Suite I」

12 1923年10月23日 J. Strauss, Ed. Grieg, Josef Haydn, Mendelssohn, J. Gungl, Rob. Vo Beethoven, J. Ivanovici(全8曲)

エドワード・グリーグ

「Peer Gynt-Suite II」,交響

13 1923年11月4 Mozart, Fr. Schubert, A. Calvini, Ivanovici, Adam, Mozart, J.

Sibelius, Fr. Schubert,琵琶(全9曲)

14 1923年11月18日 Beethoven, Kéler-Béla, H. C. Lumbye, M. Mozskowski, P.

Tschaikowsky, Ed. Strauss(全6曲)

ベードーヴェンの「交響楽 2番」

15 1923年12月17日 Kéler-Béla, Beethoven, Fr. V. su, B. Godard, M. Mozskowski, C. Lemaire, Mozart,霓裳羽衣舞(全8曲)

ッベートーヴェン「交響楽 2番」,行進曲,前奏曲,

ワルツ 16 19244月19日 Rossini, Gastaldon, J. Haydn, F. Waldtenfel, O. Nieolai,

Depret, Mendelssohn, B. Sinigaglia, C. Meyerbeer(全9曲)

ハイドン「ソナタ」,メン デ ル ス ゾ ー ン 「 狂 想 曲 Op.22」

17 1924年12月13日 Beethoven, Kéler-Béla, M. Mozskowski, Mendelssohn,琵琶

(全5曲)

ベートーヴェン「交響楽第 5番」

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究 15

(17)

1922

年から

1927

年まで,音楽伝習所は

23

回のコンサートを開いた。各年次から見 る と,1922年 は

1

回,1923年 は

13

回,1924年 は

2

回,1925年 は

4

回,そ し て

1927

年は

1

回という具合であった(第

2

回目と第

22

回目は開催時期が不明)。それ以外に,

音楽伝習所成立一周年記念(1923年

12

12

日),海外芸術家による公演(1923年

11

28

日),師範科卒業(1926年

6

8

日)などのコンサートも開催され,大学の周年 記念日にも必ず出演していた。こう考えると,音楽伝習所が実に多くのコンサートを頻 繁に行ったことがわかる。また,国楽が洋楽に取って代わられた動きも上記した演目か らもうかがえる。

そもそも音楽伝習所は国楽と洋楽の両方の学習を宗旨として作られていたが,コンサ ートは国楽ではなく,主に洋楽を中心に行われていた。それは普段洋楽に接したことの ない学生や一般の人々に,コンサートを通して洋楽に対する知識を普及しようという蔡 元培の意図があったからと考えられる。当時,国楽に比べて,洋楽の受容が遅れている という音楽研究会の教育実態に鑑み,蔡元培は西洋音楽に造詣が深い蕭友梅を抜擢し,

洋楽に力を入れる方針を示した。こうして,洋楽中心のコンサートが中断することなく 最後まで行われてきたのも,その背後に蔡の支持があったことが裏付けられる。

3

で示されているように,コンサートではヨーロッパ音楽をもっとも代表する古典 派,ロマン派の作曲家の作品が演奏されていた。作曲家の国籍から見ると,ドイツ,オ ーストリア,ハンガリー,ノルウェー,ベルギー,ロシア,ポーランド,デンマーク,

スウェーデン,フランス,イタリア,アメリカなどに及んでいる。ここで注目すべきこ とは,毎回ではないが,プログラムの後ろに載せている説明のことである。そこには作 曲家の紹介や,その曲にあわせて西洋音楽に関する基礎的な知識,またはその曲が作ら れた背景,その内容に関する説明が書かれている。例えば,第三回目では,バッハ,ハ イドン,モーツァルト,ベートーヴェン,シューベルト,マイアベーア,ショパン,ロ ンビー,アイレンベルクと彼らの作品,特徴が紹介されている。また,第八回目では,

ワーグナーのオペラ,ベートーヴェンの「田園交響楽第

6

番」が取り上げられ,それに かかわる絶対音楽と標題音楽の意味とその由来も解説された。このように,詳細ではな

18 19251月17日 G. Lortzing, J. Hayun(J. Haydn),Kéler-Béla, Ed. Grieg, W. Balfe, Mozart(全7曲)

エドワード・グリーグ

「Peer Gynt-Suite I」

19 19253月28日 Beethoven, Chopin(全3曲)

20 19254月25日 Beethoven, O. Nicolai, Depret, K. Millöcker, K. Komzak, C.

M. Ziehrer(全6曲)

絶対音楽と標題音楽,ベー トーヴェン「田園交響楽第 6番」

21 1925年10月17日 Mozart, Beethoven(全2曲)

23 19271月15日 Haydn, Schubert,ピアノ,琵琶(全4曲)

*『北京大学日刊』により著者作成。なお,第2回と第22回の記載が見つからなかったが,その次の番号付 けから二回とも開催されたと推測できる。

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究 16

(18)

かったが,聴衆の洋楽をよく理解するための工夫がなされているように見える。つま り,曲だけではなく,それに関する知識や背景を把握することができ,聴衆に対する洋 楽の理解に啓蒙的な働きを果たしたと考えることができるであろう。

毎回のコンサートにはどれほどの来場者がいたのか。それに関する報道情報がなかっ たため,その詳細は不明であったが,ただし入場券は赤(他大学の学生),白(一般人)

と黄(本校の学生,本校の教職員は赤か白を使用)の三種類に分けて販売していること から,校内外を問わず多くの人はきていると推測できる。23回も続いたコンサートは,

必要とする資金が集まらなかったため,最終的にやむを得ず中止することとなった。し かし,20世紀

20

年代,大学という特定な階層から一般の人々へとコンサートを開催 し,音楽教育の社会への普及に尽力した音楽伝習所の役割はけっして小さいものではな かったと評価できる。

5.おわりに

1840

年以後,相次ぐ西洋の侵略に中国は常に亡国の危機にさらされていた。蔡元培 はそれを軍事力,経済力,政治力ではなく,国民精神の危機と受け止めた。したがっ て,それへの対抗は中国国民の道徳精神の再建にあると考え,美を教育方針に取り入 れ,美育による道徳の再生と中国の近代化を構想したのである。

この美を思想の中心に据え,美育を通じた近代化の実現はいかにして可能なのか。そ れは,美育思想をどのように社会へ浸透させていくのかという実践の問題と深く関わっ ていると言える。北京大学総長を務めた

10

年の間,蔡元培は美育の実践を積極的かつ 地道に推進し,その理論を具体化した形で展開したのである。彼は『日刊』という新聞 誌を利用し,美に関する多くの言説と異なる見方を掲載することによって,人々の美に 対する関心を喚起し,美に対する理解を促したのである。そのほか,画法研究会,音楽 研究会という二つの団体を立ち上げ,展示会やコンサートの開催などの活動を通して,

大学や社会全体へと発信し,感性的に美を愛好する人々の心を育成することに尽力した のである。

20

世紀初頭,中国というものの存在基盤を脅かす力を持つ西洋の圧力を前にして,

それに対抗できるのは,実用的なものでもなければ,実力的なものでもなかった。それ は一見して無用で無力であるように見える美であった。その選択は当時受け入れがたい ものであったが,蔡元培の努力によりその重要性が徐々に認識されるようになった。美 に注目し,そして美育による国民精神の再建という考え方は,後に進められてきた中国 近代化を方向づけるものとなり,中国教育の近代化を推進する大きな要因ともなってい る。この意味において,蔡元培の美育理論と実践は今日でも色褪せることなく大きな意

中国近代における美育運動の展開に関する実証的研究 17

参照

関連したドキュメント

一丁  報一 生餌縦  鯉D 薬欲,  U 学即ト  ㎞8 雑Z(  a-  鵠99

 中国では漢方の流布とは別に,古くから各地域でそれぞれ固有の生薬を開発し利用してきた.なかでも現在の四川

Department of Cardiovascular and Internal Medicine, Kanazawa University Graduate School of Medicine, Kanazawa (N.F., T.Y., M. Kawashiri, K.H., M.Y.); Department of Pediatrics,

16)a)最内コルク層の径と根の径は各横切面で最大径とそれに直交する径の平均値を示す.また最内コルク層輪の

Keywords: homology representation, permutation module, Andre permutations, simsun permutation, tangent and Genocchi

Standard domino tableaux have already been considered by many authors [33], [6], [34], [8], [1], but, to the best of our knowledge, the expression of the

The only thing left to observe that (−) ∨ is a functor from the ordinary category of cartesian (respectively, cocartesian) fibrations to the ordinary category of cocartesian

The inclusion of the cell shedding mechanism leads to modification of the boundary conditions employed in the model of Ward and King (199910) and it will be