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暴力的なビデオゲームの規制と言論の自由 : Brown v. Entertainment Merchants Association, 131 S. Ct. 2729 (2011)を素材に

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(1)

暴力的なビデオゲームの規制と言論の自由 : Brown v. Entertainment Merchants Association, 131 S.

Ct. 2729 (2011)を素材に

著者 桧垣 伸次

雑誌名 同志社法學

巻 63

号 7

ページ 3225‑3253

発行年 2012‑03‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014064

(2)

(    同志社法学 六三巻七号二二一

― ― B ro w n v . E nt er ta in m en t M er ch an ts A ss oc ia tio n, 13 1 S . C t. 27 29

20 11

)を素材に

― ―

桧    垣    伸   

一 Brown v. Entertainment Merchants Association 1  2  3    ScaliaKennedyGinsburgSotomayorKagan調  ) AlitoRoberts調  ) Thomas  ) Breyer

三二二五

(3)

(    同志社法学 六三巻七号二二二 二 Brown―――― 1  2  3  4 ――――

はじめに

 本稿は、暴力的なビデオゲームの子ども

)1

への販売、貸付を禁止するカリフォルニア州法を違憲とした、

B ro w n v.

E nt er ta in m en t M er ch an ts A ss oc ia tio n

2

(以下、本判決とする)を素材に、子どもの保護と言論の自由との関係につき検討するものである。 デスレース(

D ea th R ac e ;

人をひき殺すことを目的としたアーケードゲーム)が発売された一九七六年以来、暴力的なビデオゲームは常に論争の的となっていた 3

。現在では、アメリカの若者にとってビデオゲームは一般的な娯楽となり、その市場規模は一〇五億ドルにもなるといわれているが、良く売れるゲームの半分は暴力的な内容を含んでいるといわれる 4

。このような暴力的なビデオゲームが子どもに悪影響を与えるとして、しばしば販売規制がなされ、EMA(

E nt er ta in m en t M er ch an ts A ss oc ia tio n

)やESA(

E nt er ta in m en t S of tw ar e A ss oc ia tio n

)などの業界団体との間で、それらの州法の合憲性が争われてきた 5

。本判決の構成からもうかがえるように、この問題は、リベラル派からも規制を主張される問題であり、イデオロギーで分かれる問題ではない 6

三二二六

(4)

(    同志社法学 六三巻七号二二三  本判決以前は、下級審レベルでいくつかの判決があるが、連邦控訴裁判所では概ね、暴力的なゲームが保護されない言論(

un pr ot ec te d sp ee ch

)であるという主張を否定し、暴力的なビデオゲームと子どもへの害悪との関係の証明は、内容規制を正当化するほど十分なものではないとし、また、暴力的なビデオゲームの子どもへの販売、貸付等を禁止することは、子どもを守るという州の利益を達成するための最も制限的でない手法ではないと判示した 7

。本判決は、この問題を初めて扱った最高裁判決である。以下、本判決の争点を検討する 8

一 

B ro w n v . E nt er ta in m en t M er ch an ts A ss oc ia tio n

1 事実 カリフォルニア州は二〇〇五年、暴力的なビデオゲームの子どもへの販売あるいは貸出を禁止し、また、それらのゲームのパッケージに﹁

18

要たし定制を律法るす求を﹂とこる貼をルベラういと 9

。同法は、プレイヤーが利用可能な選択に、人間のイメージを殺害する(

kil lin g

)、ひどい傷を負わせる(

m aim in g

)、手足を切断する(

dis m em be rin g

)、あるいは性的な暴行を加える(

se xu all y as sa ult in g

)行為を含み、これらの行為が、合理的な人間が、ゲームを全体として考慮したときに、子どもの常軌を逸したあるいは病的な関心に訴えていると判断される方法により、また、子どもにとって何が適当かについての共同体における一般的な基準に明らかに反している方法により、そして、ゲームが全体として、子どもにとって真剣な文学的、芸術的、政治的、あるいは科学的な価値を欠いている方法で描写されるゲームを対象とする ₁₀

。同法に違反した場合、一〇〇〇ドル以下の過料が課される ₁₁

三二二七

(5)

(    同志社法学 六三巻七号二二四

 ビデオゲーム及びソフトウェア業界を代表する被上訴人は、カリフォルニア北地区連邦地方裁判所に対し、本州法施行前に提訴した。同裁判所は、本件州法は、修正一条に違反するとして、終局的差止命令を出した(

V id eo S of tw ar e

D ea le rs A ss oc ia tio n v. Sc hw ar ze ne gg er , 20 07 U .S . D ist . L E X IS 57 47 2

20 07

))。第九巡回区連邦控訴裁判所も地裁の判断を支持したため(

V id eo S of tw ar e D ea le rs A ss oc ia tio n v. Sc hw ar ze ne gg er , 55 6 F . 3 d 95 0

9 th C ir. 20 09

))、カリフォルニア州は連邦最高裁判所に上訴した。

2 争点(1) 暴力的なビデオゲームは憲法上保護された表現か。(2) 本件に厳格審査は適用されるか。(3) 本件州法は厳格審査を通過するか。

3 判決

( 1 )  Scalia 裁 判 官 に よ る 法 廷 意 見 ( Kennedy 裁 判 官 、 Ginsburg 裁 判 官 、 Sotomayor 裁 判 官 、 お よ び Kagan 裁 判 官

が 同 調 )

 修正一条の言論の自由条項は、主として公的事項における言説を保護するためにあるが、我々は長い間、政治を娯楽から区別することは困難であることを、そしてそのような区別をすることは危険であることを認識してきた。保護される本や演劇、映画と同様に、ビデオゲームも、キャラクター、会話、脚本、そして音楽などの多くの文学的な手法や、プレイヤーの仮想世界との相互作用のような独自の媒体を通して、思想

― ―

そして社会的メッセージすら

― ―

伝達す 三二二八

(6)

(    同志社法学 六三巻七号二二五 る。このことは、修正一条の保護を与えるには十分である。憲法上、芸術や文学に関する美や道徳上の判断は個人がなすものであり、政府が命ずるものではない。どんなに憲法を常に変化する技術に適用しようとしても、修正一条が命ずるような言論及びプレスの自由の基本原則は、コミュニケーションのための新しく異なった媒体が登場しても変わらない。最も基本的な原則は、政府は、そのメッセージ、思想、対象、内容ゆえに表現を規制する権限を持たないというものである。これにはもちろん例外があり、修正一条は、わいせつ、煽動、喧嘩言葉といった例外的な領域については、言論内容の規制を許容してきた。そして、これらの伝統的な限界を無視する自由は含んでこなかった。前年度の開廷期に、

U nit ed S ta te v. S te ve ns , 55 9 U .S .

︳︳において、我々は、ある特定の言論が寛容できないほど有害であると結論付けた議会が、新しい保護されない言論の範疇をリストに加えることは許されないと判断した。

St ev en s

判決において、政府は、歴史的な根拠の欠如は問題とならないと主張したが、我々は、この衝撃的で危険な主張を断固として拒絶した。 

St ev en s

判決における判示は、本件を規律する。

St ev en s

判決と同様に、カリフォルニア州は、暴力的な言論規制を、わいせつ規制と似せようとしたが、それは十分ではない。我々の先例は、修正一条におけるわいせつの例外は、立法府が不快であるとみなしたものすべてを包含するわけではなく、単なる性行為の描写のみを包含するということを明確にしてきた。州が、暴力に関する言論をわいせつに押し込もうとしたのは

St ev en s

判決が初めてではない。

W in te rs v . N ew Y or k, 33 3 U .S . 50 7

19 48

)において、我々は、暴力はわいせつの一部ではないことを明確にした。暴力に関する言論はわいせつではないから、本件カリフォルニア州法は、

G in sb er g v. N ew Y or k

で支持された子どもにとってのわいせつを規制するニュー・ヨーク州法とは異なる。本件カリフォルニア州法は、大人のためになされた定義が無批判に子どもに適用されないことを確保するために、既存の保護されない言論の範疇の境界を調整するものではない。それは子どもに向けた言論にのみ許容される完全に新しい内容規制の範疇を作り出すものである。それは先例にないことであり、

三二二九

(7)

(    同志社法学 六三巻七号二二六

誤っている。子どもも修正一条の保護の重要な基準を与えられるのであり、比較的狭く、明確に定義された状況においてのみ、政府は、保護された言論の子どもへの公的な普及を禁止することができる。間違いなく政府は子どもを害悪から保護する正当な権限を持っているが、それは子どもが触れる思想を自由に規制する権限を含んでいない。 もしこの国に、暴力描写への子どもの接近を特に禁止する長年にわたる伝統があれば、カリフォルニアの主張は受け入れられるであろうが、そのような伝統は存在しない。グリム童話、白雪姫、シンデレラ、ヘンゼルとグレーテルなど、我々が子どもに与えるあるいは幼い頃に読んであげる本も流血がないわけではない。ホメロスのオデュッセイアや、ダンテの地獄篇、ゴールディングの蠅の王等、高校の読書リストも同様である。 カリフォルニア州は、ビデオゲームは、プレイヤーが画面上の暴力行為に自ら参加し、結果を決定する点において﹁相互に作用する(

in te ra ct iv e

)﹂ため、特別な問題を有すると主張する。しかし、

P os ne r

裁判官が述べるように、すべての文学はそれが素晴らしいものであればあるほど相互作用的である。

A lit o

裁判官は、暴力が驚異的であるビデオゲームを明らかにする、相当の独立した調査を行っている。

A lit o

裁判官は、我々を嫌悪させるために、それらのビデオゲームにおいて、犠牲者は手足を切断され、断頭され、腹を裂かれ、火をつけられ、細切れにされ、血が噴出して飛び散って、血だまりになるといったこれらすべての嫌悪させるようなビデオゲームを列挙する。しかし、嫌悪感は、表現を規制する妥当な根拠とはならない。 本件州法は、保護された言論の内容に規制を課すものであるため、カリフォルニア州が、本件州法が厳格審査を通過することを証明できない限り、無効となる。すなわち、本件州法は、やむにやまれぬ政府利益により正当化され、その利益を達成するために厳格に限定されていない限り、無効となる。カリフォルニア州は、この基準を満たせていない。最初から、州は暴力的なビデオゲームと子どもへの害悪との直接的なつながりを証明できていない。むしろ、州は、 三二三〇

(8)

(    同志社法学 六三巻七号二二七

T ur ne r B ro ad ca st in g S ys te m , I nc . v . F C C , 51 2 U .S . 62 2

19 94

)に依拠して、立法府は、競合する心理学の研究に基づいて、そのようなつながりが存在するとの予言的な判断をすることができるため、上記の証明をなすことは不要であると主張する。しかしながら、州が依拠している判例は内容中立規制に中間審査を適用した事例であるため、

T ur ne r B ro ad ca st in g

に依拠することは誤りである。カリフォルニア州の責任は非常に高く、曖昧な証明では十分ではない。 州の証拠はやむにやまれぬものではない。カリフォルニア州は主として、暴力的なビデオゲームにさらされることと子どもへの悪影響との関係について証明しようとしている

C ra ig A nd er so n

博士や数人の科学的研究専門の心理学者に依拠している。これらの研究は、それを考慮したすべての裁判所に拒絶されてきた。彼らは、暴力的なビデオゲームが、子どもを攻撃的に行為するようにさせることを証明していない。これらの研究のほとんどすべては因果関係ではなく相関関係に基づくものである。彼らはせいぜい、暴力的なエンターテイメントにさらされることと、ビデオゲームをプレイした後の少しの間、暴力的ではないゲームのプレイ後と比較して、少年の感情がより攻撃的になり、あるいは大きな音をたてるといった、現実世界への極めて小さい効果との間の相関関係を示しているだけである。 たとえ、暴力的なビデオゲームは子どもの攻撃的な感情に影響を及ぼすとする

A nd er so n

博士の結論を認めたとしても、それらの効果は小さく、また他のメディアにより生み出されている効果と区別をつけられない。

A nd er so n

博士は、子どもを暴力的なビデオゲームにさらすことの効果の大きさは、暴力的なテレビにさらすことにより生み出される効果と大体同様であることを認めている。また、彼は、子どもがバッグス・バニーやロード・ランナーのようなカートゥーンを観るときや、全年齢対象の暴力的なゲームをするとき、あるいは銃の写真を見るときにも同様の効果が見られることを認めている。 もちろんカリフォルニア州は、(賢明なことに)土曜日の朝のカートゥーンや、小児向けのゲームの販売あるいは、

三二三一

(9)

(    同志社法学 六三巻七号二二八

銃の写真の頒布を規制することを拒絶した。このような過少包摂は、政府が、特定の話者あるいは見解を嫌っているのではなく実際にその規制がもたらす利益を追い求めているのか否かという深刻な疑いを引き起こす。ここでは、カリフォルニア州は、ビデオゲームの業者のみを不利に取扱っており、説得的な理由を提示してこなかった。 本件州法は、別の点でも過少包摂である。カリフォルニア州は、両親あるいは叔父や叔母が求めている限り、この危険で精神に変化をもたらすものを、子どもの手の中に完全に残している。カリフォルニア州は、この点は、両親の権限を支援するものとして正当化されると主張する。本件州法は、何が適切なゲームであるかを両親が決めることができるようにしている。当初から、我々は、両親が不許可とする場合に備えて、子どもに保護された言論を提供したことを理由に第三者を罰することは、両親の権限を支援するための適切な政府手段であるということに疑問を呈している。この立場を受け入れることは、比較的狭く限定された状況においてのみ、政府は保護された言論の子どもへの一般の普及を禁止できるというルールを大幅に損なう。 しかし、それは置いておくとしても、カリフォルニア州は本件州法の規制が、子どもの暴力的なゲームへの接近を規制したいがそうすることができない両親の実質的な要求を満たしていることを証明できていない。ビデオゲーム業界は、ゲームの内容を消費者に伝えるように考案されたレーティング制度を自主的に有している。連邦取引委員会(FTC)は、この制度の結果、ビデオゲーム業界が、(1)アダルトゲームの子どもへのターゲットマーケティングを規制している、(2)明白に突出してレーティングの情報を公開している、(3)小売りにおいて、子どものアダルトゲームへの接近を規制している点において、映画や音楽業界に勝っていると判断している。この制度は、子どもが深刻に暴力的なゲームを自分では買えず、この問題につき心配している両親は、子どもが家に持って帰るゲームを容易に判断することができるということを十分に確保している。心配している両親の管理において残っているわずかな隙間を埋めるこ 三二三二

(10)

(    同志社法学 六三巻七号二二九 とは、州のやむにやまれぬ利益とはまずなりえないだろう。 そして、最後に、親の権限を支援することを意図した本件州法は、過大包摂である。暴力的なビデオゲームの購入を禁止された子どもすべてに、彼らが暴力的なビデオゲームを買うか否かを心配している両親がいるわけではない。本件州法の効果は、確かに一部の規制された子どもの親が実際に望むことの支援となるが、その全体の効果は、親が望むはずであると州が考えることの支援にしかならない。これは、修正一条の権利の規制が要求する、親を支援することへの厳格な限定ではない。 暴力的なビデオゲームを規制するためのカリフォルニア州の努力は、子どもへの暴力的な娯楽を検閲しようとする、長い一連の失敗した企ての最後のエピソードである。我々は、ビデオゲームの有害性を支持するために提示された証拠は説得的ではないと指摘してきたが、これらを規制する企ての根底にある懸念を貶めることを意図していない。我々の任務は、そのような仕事が、その規制や処罰がいかなる憲法上の問題も引き起こさないと考えられてきた、明確で、狭く限定された言論のクラスを構成するか否か、そして、それが否であれば、そのような仕事の制限が、我々がやむにやまれぬ州の利益として描写してきた、高い程度の必要性により正当化されるかを述べることのみである。子どもの保護が目的の時でさえ、政府の行為に対する憲法上の制約は適用される。 カリフォルニア州議会は、(1)深刻な社会問題に取り組むことと(2)心配している親が子どもを管理することを支援することとの間の垣根を明らかにしていない。両目的とも正当だが、それらが修正一条の権利に影響を及ぼすとき、それらは深刻に過少包摂あるいは過大包摂とならないような手段で遂行されなければならない。子どもを暴力の描写から保護する手段としては、ビデオゲーム以外の描写を排除するためのみならず、両親らの拒否権を許容するため、本件州法は過少包摂である。心配する両親を支援する手段としては、暴力的なビデオゲームが無害な娯楽であると考える両

三二三三

(11)

(    同志社法学 六三巻七号二三〇

親らを持つ子どもの修正1条の権利を縮減するため、過大包摂である。そして、ある目標を達成するための過度の広汎性は、別の目標を達成するための過少性により治癒されない。このような得体のしれない法は、厳格審査を生き残ることはできない。

( 2 )  Alito 裁 判 官 に よ る 結 論 同 意 意 見 ( Roberts 首 席 裁 判 官 同 調 )

 

A lit o

裁判官は、

G in sb er g

判決で問題となったニュー・ヨーク州法と本件カリフォルニア州法とを比較し、後者は、憲法のデュー・プロセスが要求する適切な警告を与えておらず、狭く特定されていないとして、法廷意見に同調する。 しかし、

A lit o

裁判官は、法廷意見が、

St ev en s

判決を先例とする点を、①

St ev en s

判決で問題となった法律と本件カリフォルニア州法は著しく異なる、②

St ev en s

判決は、動物の虐待の描写が修正一条の保護の範囲外であるとする政府の主張を拒絶した事例であるため、本件で問題となった法律は厳格審査を満たさなければならないという立場を支持するものではない、③

St ev en s

判決は動物虐待の描写を標的としたより限定された法律が修正一条と矛盾しない可能性を明白に残している、として批判する。 また、

A lit o

裁判官は、本件カリフォルニア州法は、子どもが曝される思想を規制する自由な権力を行使したものではなく、

G in sb er g

判決におけるニュー・ヨーク州法と同様のやり方で親の意思決定を強化するものであると主張する。法廷意見がゲーム業界の自主規制を挙げ、親の支援のための本件州法の必要性を否定するのに対し、

A lit o

裁判官は、そのような自主規制はうまく機能していないと指摘し、多くの親が、子どもがどのようなゲームをしているかにつき監視することができていないと主張する。 さらに、ゲームに特別の考慮が必要か否かにつき、法廷意見と意見を異にする。

A lit o

裁判官は、今日、ゲームは現 三二三四

(12)

(    同志社法学 六三巻七号二三一 実的な世界を作り上げ、それにより、プレイヤーは、仮想世界で行われるイベントに参加するという、かつてない可能性を持つことになったと指摘する。これに対し、文学については、驚異的に想像力のある読者のみが、殺害の描写を読むに際し、ビデオゲームにおいて殺害の役割をする際に得られるのと同様の鮮明な経験をするに過ぎない。それゆえ、暴力的なゲームをプレイする経験は、本を読むことやラジオを聞くこと、映画やテレビを見ることから得られる経験とは異なるため、ゲームをする経験あるいはそれが子どもに与える影響については、異なる考慮が必要となると述べる。

( 3 )  Thomas 裁 判 官 に よ る 反 対 意 見

 

T ho m as

裁判官は、ニューイングランド植民地の時代に遡り、歴史的な証拠は、親が子どもに対し絶対的な権力をもっていたことを示していると述べる。そこでは、子どもは理性と意思決定の能力を欠いており、自治に適さない存在とされる。それゆえ、建国者は、親は自分の子どもの成長を統治する権利と義務を有すると考え、言論の自由は親や保護者を通さずに、子どもに話す権利あるいは子どもが言論に接近する権利を含んでいないと理解していたであろうと主張する。それゆえ、例えば、子どもに話すには親の同意を要するような、子どもの言論の自由を規制する法は、修正一条の原意における言論の自由を縮減するものではない。

T ho m as

裁判官は、このような親の権威の伝統は、我々の個人的な自由の伝統と矛盾せず、むしろ、前者は後者の基本的な前提となると述べる。 

T ho m as

裁判官は、確かに、憲法の条項に関する原意の公的理解は、現代の感覚を常に合致するわけではないが、独立革命以降、多くの物事が変化してきたが、親が子どもに対して権威をもっており、法はその権威を支援することができるという観念は、今日においても存続するため、本件はそのような事例ではないと述べる。 以上の観点から、

T ho m as

裁判官は、法廷意見は修正一条の原意の公的理解と適合しないため、本件州法が修正一条

三二三五

(13)

(    同志社法学 六三巻七号二三二

に違反し、文面上違憲であるという法廷意見には同意できないとする。

( 4 )  Breyer 裁 判 官 に よ る 反 対 意 見

 

B re ye r

裁判官は、本件州法が違憲か否かを決定するにあたり、漠然性の理論と厳格な修正一条の審査を適用すると述べる。その際に、

B re ye r

裁判官は、関連する修正一条の特定の範疇は、﹁暴力の描写﹂の範疇ではなく、﹁子どもの保護﹂の範疇であると指摘し、このような子どもに向けられたコミュニケーションの制約については、修正一条は大人の場合と同様の要求は適用されないと指摘する。また、本件カリフォルニア州法は、法廷意見が指摘するような、新しい保護されない言論の範疇を作り出すものではなく、ここでは、暴力的な描写が自動的に修正一条の範囲外という議論がなされているわけではないと指摘する。したがって、ここでの争点は、本件州法が伝統的な修正一条の基準を通るか否かであると主張する。 次に、

B re ye r

裁判官は、本件カリフォルニア州法は、何が禁止されているかについての適切な警告を与えているため、曖昧ではないと主張する。

B re ye r

裁判官は、

G in sb er g

判決で問題となったニュー・ヨーク州法と比較し、誰が﹁殺害﹂や﹁ひどい傷を負わせる﹂、﹁手足を切断する﹂といった表現が﹁裸﹂という言葉より難解であると考えるのかと指摘し、両者の間には、漠然性が問題となるような違いは存在しないと主張する。 また、

B re ye r

裁判官は、本件においても厳格審査を適用し、カリフォルニア州法は、﹁やむにやまれぬ利益﹂を促進するために、﹁少なくとも同様に効果的な﹂﹁より制限的でない﹂方法がないように﹁厳格に限定﹂されていなければならないが、このような厳格審査を機械的に適用しないと述べる。そして、子どもの特質、ゲームの害悪に関する多くの科学的研究を指摘し、やむにやまれぬ利益を認定する。また、ゲームの特徴や、本件カリフォルニア州法はゲームをす 三二三六

(14)

(    同志社法学 六三巻七号二三三 ることを禁止しているわけではないこと、また、自主規制が機能していないことを指摘し、手段に関しても正当化されると主張する。 

B re ye r

裁判官は、これらの理由から、本件カリフォルニア州法は厳格な審査を通過し、文面上合憲であると主張する。なお、

B er ye r

裁判官は、法廷意見の結論は、修正一条の法理に深刻な変異をもたらすと指摘する。

G in sb er g

判決は、州が、裸の描写の子どもへの販売を禁止できることを明確にするが、本件における法廷意見は、州が、最も暴力的で相互作用的なビデオゲームの子どもへの販売を禁止することができないことを明確にした。

B re ye r

裁判官は、これでは、一三歳の少年に、裸の女性のイメージが載っている雑誌の販売を禁止できるが、一三歳の少年が能動的に、しかしヴァーチャルの世界において、女性を拘束し猿轡をかませ、さらには拷問し殺害するような相互作用的なゲームの販売を禁止できないこととなると指摘する。それゆえ、

G in sb er g

判決が本件の結論を規律すると主張する。 また、

B re ye r

裁判官は、この事例は、究極的には教育の問題であると主張する。

B re ye r

裁判官によると、教育は選択に関することであり、子どもは、時には自身のために選択をすることにより学ぶ必要があり、また、別の時には選択は、親等により、子どものためになされる。修正一条は、州が、両親がそのような選択をすることを支援することを不可能にするものではない。

二 

B ro w n

判決の検討

― ―

暴力的なビデオゲームをめぐる憲法上の争点

― ―

1 暴力的なゲームは保護された言論か まずは、暴力的なビデオゲームが保護された言論か否かが問題となる。暴力的なビデオゲームの規制を支持する者は、

三二三七

(15)

(    同志社法学 六三巻七号二三四

ビデオゲームの相互作用的な性質を指摘し、映画とは異なるため、ビデオゲームは非言論的な行為であると主張する ₁₂

。これに対し、本判決において、

Sc ali a

裁判官は、保護される本や演劇、映画と同様に、ビデオゲームも、キャラクター、会話、脚本、そして音楽などの多くの文学的な手法や、プレイヤーの仮想世界との相互作用のような独自の媒体を通して、思想

― ―

そして社会的メッセージすら

― ―

伝達するため、保護された言論であると述べる ₁₃

。ビデオゲームが言論である点は、下級審の間でも広く認識されている ₁₄

。 また、暴力的な表現は、わいせつと一括りに考えることができ、保護されない言論であるとの主張がなされる(本件州法は、

M ille r

テストを参考にしている)。これに対し、

Sc ali a

裁判官は、ある特定の言論が寛容できないほど有害であると結論付けた議会が、新しい保護されない言論の範疇をリストに加えることは許されないと判断した

U nit ed S ta te s v. St ev en s

₁₅

を引用し、暴力的なビデオゲームは保護されない言論ではないと判示した ₁₆

St ev en s

判決は、保護されない言論は、歴史的に認識されてきたものに限ると指摘する ₁₇

が、わいせつとは異なり、暴力的な表現が規制されてきた歴史はない ₁₈

。暴力表現は、保護されない表現を列挙した

C ha pli ns ky v. N ew H am ps hir e

₁₉

のリストにも上がっておらず、また、連邦最高裁は、

W in te rs v . N ew Y or k

₂₀

において、暴力はわいせつの一部ではなく、言論の自由の保護を受けることを明確にした ₂₁

。そもそも、わいせつが規制される主たる理由は、それが有害である故ではなく、それが不快である故であるため、暴力的な表現とは規制理由が異なる点も指摘される ₂₂

。これらの点に鑑み、暴力的な表現は保護されない言論に含まれないと考えるのが妥当である。 なお、

St ev en s

判決の法理は、新しい技術に適用される場合にはほとんど意味をなさないとの批判がある ₂₃

。この批判は、新しい媒体の使用が内容規制を正当化しうるとするわけではないが、本件で問題となっている害悪は、概念的に新しいものであるため、他の媒体による害悪とは異なるとする ₂₄

。それゆえ、裁判所は、歴史的な傾向の欠如を指摘して、 三二三八

(16)

(    同志社法学 六三巻七号二三五

St ev en s

判決の法理のもとで自動的に言論を保護されたものであると判断するのではなく、むしろ、範疇的な排除が正当化されるか否かを決するために、そのような新しい害悪を他の行為と類推すべきであるとする ₂₅

。しかしながら、後述するように、ビデオゲームを特別視する理由はなく、﹁修正一条が命ずるような言論及びプレスの自由の基本原則は、コミュニケーションのための新しく異なった媒体が登場しても変わらない﹂ ₂₆

とする

Sc ali a

裁判官の立場が妥当である。

2 本件に厳格審査は適用されるか 暴力的なビデオゲームが、保護された言論であるとするならば、その規制は内容規制となるため、厳格審査が適用されるか否かが問題となる。この点、カリフォルニア州は、大人にとってはわいせつではないとしても、子どもにとってはわいせつとみなされる性的にあからさまな物の販売を禁止できるとする、いわゆる可変的わいせつ概念を認めた

G in sb er g v. N ew Y or k

₂₇

を引用し、子どもの保護が目的の場合、厳格審査は適用されないと主張する。これに対し、法廷意見は、子どもも修正一条の保護の重要な基準を与えられるのであり、比較的狭く、明確に定義された状況においてのみ、政府は、保護される物の子どもへの公的な普及を禁止することができるとし、本件で問題となった州法は、

G in sb er g

判決で問題となった州法とは異なるため、本件には厳格審査が適用されると主張する ₂₈

。 これに対し、

B re ye r

裁判官は、本件は暴力の描写という修正一条の特定の範疇ではなく、子どもの保護という範疇に関するものであるとし、

St ev en s

判決は子どもの保護とは関連がないため、

St ev en s

判決は本件の先例とはならないと主張する ₂₉

。そして、本件には﹁修正一条の審査の厳格な形態(

st ric t f or m o f F irs t A m en dm en t s cr ut in y

)﹂が妥当すると述べる ₃₀

。これは、通常の用法での﹁厳格審査﹂ではない ₃₁

。また、

A lit o

裁判官、

T ho m as

裁判官も、明示的にではないが、厳格審査は適用されないとしている。

三二三九

(17)

(    同志社法学 六三巻七号二三六

 しかしながら、

G in sb er g

判決において、法廷意見を執筆した

B re nn an

裁判官は、﹁本件では、子どもと州との関係全体に対する、表現の自由への影響を考慮する必要はない。本件の目的にとっては、ニュー・ヨーク州が、一七歳以下の子どもに対し、大人に保障されているよりも規制された権利を与えることが憲法上許容されるか否かを検討できれば十分である﹂と述べ、射程を限定している ₃₂

。わいせつ概念が、他の不快な表現を含むように拡大されるという主張は今日では否定され、また、わいせつと暴力との類似性は何度も否定されてきたことから ₃₃

、本件に

G in sb er g

判決の法理が適用されるという主張は妥当ではない。 また、近年、

Sa ble C om m un ic at io ns v . F C C

₃₄

U nit ed S ta te s v . P la yb oy

₃₅

のように、子どもを性的な有害情報から保護することが問題となった事例において、最高裁は厳格審査を適用している。ある評者は、この点を捉え、

G in sb er g

判決の法理はほとんど消え去っていると主張する ₃₆

。そして、それゆえ、本件州法は、性的なもの以外のものを規制しているからではなく、厳格審査が要求される内容規制であるからこそ、厳格に限定されていることが要求されると主張する ₃₇

。 これらの点に鑑みると、本件において、子どもの保護が問題になっているとはいえ、審査基準が緩和されることはなく、本件では厳格な審査基準が適用される。

3 本件州法は厳格審査を通過するか 本件に厳格審査基準が適用されるならば、立法目的がやむにやまれぬ政府利益により正当化され、また、目的達成手段がその利益を達成するために厳格に限定されていない限り、無効となる。 カリフォルニア州は、暴力的なビデオゲームが子どもに肉体的・精神的な害悪を及ぼすため、そのような害悪から子 三二四〇

(18)

(    同志社法学 六三巻七号二三七 どもを守ることが州のやむにやまれぬ利益であると主張する。この点、州は、

T ur ne r B ro ad ca st in g Sy st em , I nc . v . F C C

に依拠して、立法府は、競合する心理学の研究に基づいて、そのようなつながりが存在するとの予言的な判断をすることができるため、暴力的なビデオゲームとその害悪との直接的なつながりを証明する必要はないと主張する。しかしながら、控訴裁判所では、立法目的がやむにやまれぬものであると主張するためには、暴力にさらすことが子どもに害悪を与えるという社会一般的な信条だけでは足りず、州は暴力的なビデオゲームとその害悪との直接的な因果関係を示すことが要求されるとされ、州はそれらを示すことができていないとされた ₃₈

。本判決においても、

Sc ali a

裁判官は、カリフォルニア州が挙げる研究のほとんどすべては因果関係ではなく相関関係を示すものに過ぎないとし、カリフォルニア州はやむにやまれぬ利益を有しないと判断した ₃₉

。 仮にカリフォルニア州がやむにやまれぬ利益を有していたとしても、目的達成手段が厳格に限定されたものかが問題となる。この点、

Sc ali a

裁判官は、テレビや漫画等、他の有害なメディアも存在する中、本件州法はゲームのみを対象としたものであり、過少包摂であるとする ₄₀

。このような主張に対し、

A lit o

裁判官は、今日、ゲームは現実的な世界を作り上げ、それにより、プレイヤーは、仮想世界で行われるイベントに参加するという、かつてない可能性を持つことになったと指摘する ₄₁

。これに対し、文学については、驚異的に想像力のある読者のみが、殺害の描写を読むに際し、ビデオゲームにおいて殺害の役割をする際に得られるのと同様の鮮明な経験をするに過ぎない ₄₂

。それゆえ、

A lit o

裁判官は、暴力的なゲームをプレイする経験は、本を読むことやラジオを聞くこと、映画やテレビを見ることから得られる経験とは異なるため、ゲームをする経験あるいはそれが子どもに与える影響については、異なる考慮が必要となると述べる ₄₃

。しかし、

P os ne r

裁判官が指摘するように、すべての文学、映画、テレビなどは相互作用的であり、良い作品であればあるほどより相互作用的である ₄₄

。文学は、読者をその物語に引き込むことに成功する時、読者を登場人物と同一視させ

三二四一

(19)

(    同志社法学 六三巻七号二三八

₄₅

。そうであるならば、ビデオゲームのみを規制する理由はない。 また、子どもを暴力的なゲームの害悪から守るという立法目的に対し、本件州法は単に子どもへの販売、貸付等を禁止したものであるため、子どもは容易に暴力的なゲームを入手することができる点でも過少包摂であるとする。 さらに、

Sc ali a

裁判官は、本件州法で暴力的なビデオゲームの購入を禁止された子どもの親がすべて、子どもが暴力的なビデオゲームを購入するか否かを心配しているわけではないと述べる ₄₆

。確かに一部の規制された子どもの親が実際に望むことの支援となるが、すべての親が暴力的なゲームが有害であると考えているわけではない ₄₇

。それゆえ、

Sc ali a

裁判官は、本件州法の全体の効果は、親が望む﹁はず(

ou gh t

)﹂であると州が考えることの支援にしかならないため、過大包摂であると指摘する ₄₈

。このように、本件州法は、過少包摂であり過大包摂でもあるため、目的を達成する手段としては、修正一条が要求するほど厳格に限定されていない。 最後に、

Sc ali a

裁判官は、それらの点を抜きにしても、ESRB(

E nt er ta in m en t S of tw ar e R at in g B oa rd

)によるレーティング制度のような自主規制が暴力的なビデオゲームに関連する不確かな害悪から子どもを守るより制限的ではない手段となっている点を指摘する ₄₉

。また、FTCもこれらの自主規制が機能していると認めているため、本件州法はより制限的でない手段を用いていないため、厳格審査を通過しないとする ₅₀

。この点につき、

A lit o

裁判官、

B re ye r

裁判官は、自主規制はうまく機能していない旨の異議を唱えており、評価が分かれている ₅₁

4 まとめ 以上みてきたように、本判決は、暴力的なビデオゲームが保護された言論であるとし、それに対する規制は内容規制となるため、厳格審査を通過しなければならないと判示した。そして、本件カリフォルニア州法は、暴力的なビデオゲ 三二四二

(20)

(    同志社法学 六三巻七号二三九 ームの害悪の証明が不十分であるため、暴力的なビデオゲームの害悪から子どもを守るという政府利益はやむにやまれぬ利益ものではなく、また、規制手段も過少包摂であり、過大包摂でもあるして、厳格に限定されたものではないと判示した。本判決は、一連の下級審の判断と概ね同じものであり、暴力的なビデオゲームの規制をめぐる問題に一応の終止符を打ったといえる。 ゲーム業界側とカリフォルニア州側双方の専門家の調査を比較し、後者の方が、信頼度が高いとする論者 ₅₂

や、本判決につき、ゲームの害悪の特殊性についての検討が不十分であるとする論者 ₅₃

もいるが、本判決の枠組みに従うと、害悪の証明は相当高い程度要求され、その要求を満たすのは極めて困難であろう。また、規制手段についても、非常に高いハードルが要求される。今後は、暴力的なビデオゲームの規制は相当困難になったといえる ₅₄

むすび

― ―

日本への示唆

― ―

 暴力的な表現は、保護されない言論を列挙した

C ha pli ns ky

判決のリストにも挙げられず、また、合衆国最高裁は、

19 48

年の

W in te r

判決において、﹁最も優れた文学と同様に、自由な言論の保護を与えられる﹂ ₅₅

と明示した。このように、アメリカ法の歴史において、一般的には暴力の描写を規制しようとする努力はほとんど見られなかった ₅₆

。しかしながら、

19 40

年代に漫画の規制が問題になって以来、音楽やテレビなど、様々なメディアに着目して、その規制が議論されてきており、本件ではゲームがその俎上に上った ₅₇

。暴力的なビデオゲームが保護された言論であるということは、多くの下級審で支持されていたが、本件は、その点を明確にした点で、大きな意味を持つ。この点、なぜキャラクター、会話、脚本、そして音楽などの文学的な手法の存在が、その行為が思想を伝達し、それゆえ保護されることの試金石となるべ

三二四三

(21)

(    同志社法学 六三巻七号二四〇

きなのか、不明確であるとの批判がある ₅₈

。また、その相互作用性を理由に、ゲームは言論ではないとして、規制が正当化されることがある。 しかしながら、CG映像や動画に着目すると、技術的にも芸術的にも、ビデオゲームと映画は重なり合う芸術ジャンルである ₅₉

。また、最終的な行為が観客の投票で決まる演劇もあり、すべての良い絵画や文学は、読者や視聴者を魅了するという意味で相互作用的であることから、ビデオゲームの相互作用性に着目し、他の表現媒体との相違を主張するのは見当違いである ₆₀

。また、①絵画と同様に、表象的である点、②しばしば美術的な価値を有する点、③音楽とナレーションをプレイヤーの動きと連動させ、そしてこれらの特徴は、映画や放送のサウンドトラックと同様に、感情に訴える演出となりうる点、④おとぎ話や叙事詩と同様に、強力で基本的な主題を構築する点から、ビデオゲームは、芸術の形態のすべての特徴を備えているとの指摘がある ₆₁

。ビデオゲームの表現手法や物語的な性質に鑑みると、他のメディアとの相違を否定する本判決の立場は妥当である。 このように、暴力的なビデオゲームは、保護される言論であるが、しばしば子どもの保護を理由に規制される。ここでは、子どもの表現の自由をどのようにとらえるかが問題となる。本件で、

T ho m as

裁判官は、建国者は、﹁子どもは理性と意思決定の能力を欠いており、自治に適さない存在である﹂と捉えていたと述べる ₆₂

。また、

T ho m as

裁判官のように捉えることができないとしても、

B re ye r

裁判官は、青少年は円熟さを欠いており、否定的な影響や外部の圧力に傷つきやすく、影響されやすい。そして、その特質は大人のそれとは同様に捉えることはできないと述べる ₆₃

。本件の評釈にも、子どもは、ゲームの没入型の環境における行動を現実世界から切断する能力が低い点を指摘し、子どもを保護するためにも特別な配慮が必要であると指摘するものがある ₆₄

。 この点、日本では、岐阜県青少年保護育成条例事件において、伊藤正己裁判官は﹁青少年は、一般的にみて、精神的 三二四四

(22)

(    同志社法学 六三巻七号二四一 に未熟であって、右の選別能力を十全には有しておらず、その受ける知識や情報の影響をうけることが大きいとみられるから、成人と同等の知る自由を保障される前提を欠くものであり、したがって青少年のもつ知る自由を一定の制約をうけ、その制約を通じて青少年の精神的未熟さに由来する害悪から保護される必要がある﹂と述べる ₆₅

。 このように、子どもは発達途上にあるため、傷つきやすく、保護が必要な存在であるため、子どもを保護するための表現の自由の規制は、厳格な審査に服さないとの主張がなされる。 確かに、子どもが成年に比べて保護が必要な存在であることは否定できない。しかしながら、そのことから、表現の自由を規制する立法には厳格審査基準が適用されないとするのは妥当ではない。むしろ、﹁子どもの表現の自由が不当に抑圧されるということがあれば、子どもは自ら主体的に表現活動に従事するという経験を十分に積まないまま成長し、いざ成人となったときに表現の自由の権利を自ら積極的に行使して統治過程に参加したり、自己実現を目指して活動してゆくということが困難になる恐れがある﹂ ₆₆

こと、また、﹁青少年は身体的・精神的成長期にあり、その時期に青少年に対して様々な知識・情報に接する機会を保障することは、青少年が健全な精神を養い、責任ある思考・行動を採ることができる成人に成長するために極めて重要であり、その機を失すると、もはや精神的成長がはかれないことすらありうる﹂ ₆₇

ことに鑑み、子どもの表現の自由を規制する立法についても、安易に大人の場合よりも審査基準を緩和すべきではない ₆₈

。 そうであるならば、問題となる表現が、本当に子どもに悪影響を与えるか否かを問題にする必要がある。福島県青少年健全育成条例事件 ₆₉

や、岐阜県青少年保護育成条例事件では、いわゆる有害図書が﹁一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっている﹂と述べているが、ここでは、﹁有害図書﹂

三二四五

(23)

(    同志社法学 六三巻七号二四二

が子どもにとって有害なものか否かにつき科学的な証明はなされていない ₇₀

。この点、岐阜県青少年保護育成条例事件における伊藤正己裁判官補足意見は、﹁青少年非行などの害悪を生ずる相当の蓋然性のあることをもって足りる﹂ ₇₁

と述べているが、果たしてそのような蓋然性があるか否かにつき、根拠が示されておらず、明確ではない ₇₂

。子どもにとっての表現の重要性に鑑み、﹁相当の蓋然性﹂があるか否かは、少なくとも、具体的な事実認識を踏まえ、厳格に検討するべきである ₇₃

。 また、本判決で暴力的な表現とわいせつの区別が詳細に論じられたように、これらはそれぞれ異なる問題であるため、青少年保護育成条例にみられるように、性的な表現と暴力的な表現を一括りにして論じるべきではない ₇₄

。さらに、本件判決においても意見が分かれているように、より制限的でない手段としての業界団体の自主規制をどのように評価するか等、検討すべき問題は多い ₇₅

。 子どもを保護する必要性は、そのような立法事実が認められる場合に、わいせつや暴力表現の定義を成人に比べて広げるなどして図ればよい ₇₆

。そもそも、何をもって﹁健全﹂とすべきかにつき、国家が押し付けることがあってはならない ₇₇

。子どもは、一方で保護が必要な存在であるとはいえ、他方では個人として尊重されるべきであり、少なくとも国家は、子どもに特定の生き方を強制してはならない ₇₈

1稿) 

131 S. Ct. 27292011.2)  . H R”, all.W Cnya &ay. DRri erT oS “n3cenaeliRt Sofctcience to Protetiv Againe eola BDeja Vu: From Comicooisks to Vid Games: Legst ) 

Uncertain Societal Harm Linked to Violence v. the First Amendment, 89 OR. L. REV. 415, 4172010. 三二四六

参照

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