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インドネシアにおける福祉思想諭の源流

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論 文

インドネシアにおける福祉思想諭の源流

‑1945年憲法とモハマッド・ハッター

工 藤 尚 子*

1.はじめに 問題意識

従来の福祉研究は,ほとんどが北欧などの福 祉先進国を対象としてきたといえよう。インド ネシアをはじめとする発展途上国については, 研究の蓄積は少ない。たとえばエスピン・アン デルセンの福祉レジームの3類型つまり「自由 主義的福祉国家」, 「コーポラティズム的もしく

は保守主義的福祉国家」, 「社会民主主義的福祉 国家」は,西欧中心の類型である[エスピン・

アンデルセン 2001]。そして途上国について はその分析の対象外に置かれてしまっている。

西欧の福祉国家論は,最低限の豊かな社会の 建設が既に終わった後の「開発後」の社会が存 在することを基本的に前提として福祉国家の建 設を行っており,先進国の福祉国家体制の理論 モデルとなっている[白鳥 2006:15]。一方で, アジアや中南米の諸国は, 「開発途上」の社会 において福祉国家建設を行わなければならない [Ibid., 16]。途上国における福祉は先進国の福祉 モデルからは程度の差こそあれ,質・量ともに 逸脱している。

これまで途上国の福祉研究がさほど進展しな

かったのは,当該国に関する基本的情報の蓄積 の欠如,当該言語習熟者の不足,などの理由か

らであろう。

しかしながら実際は,世界人口64億人のうち 81%は開発の進んでいない国に住んでいる。そ の割合はさらに拡大し, 2050年には86%になる と予測されている[総務省統計局 2005]c福祉 研究の重心は,これらの諸国‑移行すべき時期 にあるのではないか。

現実には未発達な段階にとどまっている国に おいても,福祉が21世紀の重要な課題であるこ とは言うまでもない。福祉の側面は,社会保 障,貧困嬢和,経済的不平等の除去,より一般 的には社会的公正の追求においてとくに重要に なる[アマルティア・セン 2002:105]。

経済発展を遂げながらも,縮まらない貧富の 格差など,経済開発中心では途上国の社会経済 状況が充分に改善されないことは既知の事実で ある。先進国と比較した場合,途上国における 高齢化は短期間かつ大きな人口をベースとして 進展しており,低い社会経済開発状況の下で起 きているため[国際連合経済社会局 2003],ご く近い将来高齢者福祉は探刻な問題になってく ると考えられる。

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程2年

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本論文の目的

福祉サービスを最も必要とする人は,まだ社 会経済が発展していない国に多数存在する。福 祉研究は豊かな国を中心に展開されているため に,経済発展と同時に社会生活改善を柱とした 社会発展を必要とする国に関する研究は,これ まで十分な進展を遂げていなかったと考えられ る。福祉国家の建設が急がれる国に関する福祉 研究が,ほとんど成果を残していない。これは 現代の福祉研究における大きなパラドックスで ある。

本論文は途上国の福祉に関する事例研究の一 つであり,将来は研究成果が蓄積されて総体的 な研究となり,かつ体系的理論化を目指してい きたいと願っている。そして究極的には,途上 国において福祉サービスを必要としている人に 資することを目的としている。

本稿では,インドネシアを事例として途上国 における福祉概念とそれが出現した際の思想や 理念を明らかにしたい。福祉について考察する 上で,その源流に立ち返ることで福祉のあり方 に関する示唆を得ることを試みる。

2 インドネシアの社会福祉について 本章ではまず,インドネシアを事例とする 背景について述べる。次にインドネシア共和 国1945年憲法と社会福祉(1)の関連について指摘 し,社会福祉について規定している同憲法第14 章を紹介する。その上で同国における社会福祉 概念の出現は第14章であるという解釈を加えて

いる。

最後に同車第33条は初代副大統領モハマッ ド・ハッタMohammadHatta (1902‑1980)に よるものであるとの指摘を紹介している。また

逆の視点から,すなわち憲法起草以前のハッタ の演説・講演の中から,憲法の社会福祉概念と 共通する彼の思想を提示し,先述の指摘の裏づ け作業を行っていく。そしてこれらを踏まえて インドネシアの福祉思想論の源流はハッタの思 想にあると論じている。

なぜインドネシアか

インドネシアの福祉は,伝統的かつアジア的 な家族制度をベースとしていて,どちらかとい うと日本型に近い。他の要素としては「ゴト ン・ロヨン」 gotong‑royong 相互扶助)精神に 基づく伝統的慣習を基盤としている点が特徴的 である。コミュニティによるインフォーマルな

福祉サービスとしては,近所,仲間,親族など による伝統的な互助慣習もある(2)現代インド ネシアにおいては,都市化や近代化に伴い,衣 族制度をベースとしながらも,公的な福祉の要 素もある。インドネシアにおける福祉は,伝統 的な家族制度をベースに,公的制度の要素が ミックスする中間的な位置づけとして捉えるこ とができよう。しかし将来的には都市化の進行 により,公的扶助の必要性がより高くなってく るものと推測される。

本研究では上述の中間的な視点から社会福祉 研究を行うために,インドネシアを事例にす

る。

インドネシア共和国1945年憲法と社会福祉 インドネシア共和国1945年憲法Undang‑

Undang Dasar Republik Indonesia tahun 1945では, 第14章は社会福祉Kesejahteraan Sosialと題する 章であり,第33粂Pasal 33と第34粂Pasa1 34から 編成されている。

(3)

『世界憲法集』を見る限りでは,憲法におい て,福祉に関する条項・編・章を設けている 国はあまりない[宮沢1983(3)。インドネシア は,憲法で社会福祉を条項としてかかげる稀有 な国ではないだろうかと思われる。憲法に社会 福祉に関する条項を設けるということは,換言 すればインドネシアは社会福祉の充実を建国の 理念とする国家であると言えるのではないか。

それではどのような思想からインドネシアでは 憲法に社会福祉に関する条項を規定するのに 至ったのであろうか。

独立宣言後すぐに公布されたインドネシア共 和国1945年憲法は,それまでこの地域を植民地 化していたオランダ人や短期間ではあるがここ

に軍政をしいた日本人ではなく,インドネシア 人自らによる新生インドネシア共和国の理念や 哲学を謡っているものである。オランダ植民地 時代にオランダ政庁が倫理政策において「原住 民」のために「福祉」政策を展開したとしても, 本来それは宗主国オランダ資本主義の利益に資 するためである。したがって本稿では,インド ネシアにおける社会福祉概念の出現を,独立宣 言後の社会福祉条項が記載されているインドネ シア共和国1945年憲法とともにあるものとみな す。

社会福祉と題する第14章における第33条の内 容は次項で詳述するが,ハッタの演説のとくに 終わりの部分でよく引用される言葉すなわち,

「独立したmerdeka,人民主権のberdaulat,公正 なadil,繁栄したmakmur」は,漠然とした概念 ではあるが,新生独立インドネシア共和国の理 念であるとともに,ハッタの社会福祉概念の中 心を成していると考えられる。たとえば次のよ

うに使われている。

Perjuangan kita mesti menang, Indonesia merdeka yang berdaulat, adil, dan makmur pasti datang

(我々の闘いは勝利するにちがいない。人民主 権の,公正で,繁栄した独立インドネシアは必 ずややってくる!)'壬)

さて,インドネシア共和国の独立宣言は, 1945年8月17日に,スカルノSoekarno,ハッ タHattaの署名の下に行われた。日本軍政下に あった1944年9月,小磯首相は,帝国議会に おいて「東インド(当時のインドネシアのこ と)に,将来独立を許容する」と発表した。し かしいつであるかは明言されなかった1945 年3月になってようやく独立準備調査会Badan

Penyelidik Usaha‑Usaha Persiapan Kemerdekaan

Indonesia (BPUPKI)が設置された。この調査 会は,日本人特別委員8名のほか,民族主義者, 上級行政官,各人種団体代表などから成る70名 の「インドネシア人」委員によって編成された。

目的は,将来の独立国家建設のために必要な利 息 法的事項を討議することであった[石井

1991: 291]c

第‑回会議は5月28日に召集され,この席上 6月1日にスカルノが,インドネシアの「建国 5原則」 PancaSila (パンチヤ・シラ(5)として 知られるようになった構想を発表した。第二回 会議は, 7月10日に開会され,独立国家の領域, 形態,政治機構,市民権,イスラムと国家の関 係などについて討議された。 7日間の討議のあ と,憲法が起草され,独立へ向けての準備がほ ぼ完了した[Md., 291](6)。

そのころの戦況は日本にとって極度に不利 だったので,日本当局は早急に独立を認める ことにし,そのための独立準備委員会Panitia

Persiapan Kemerdekaan Indonesia (PPKI)を8月

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中旬に発足させると発表した。 8月14日に独立 準備委員会21名(うちジャワ代表13名,スマト ラ代表3名,その他の地域代表5名)が任命さ れ,第‑回会議を8月18日に開催する旨発表し た。ところが15日,日本軍は降伏したため,冒 本の指揮下での独立準備は突如中断を余儀なく された。この混乱の車で17日にスカルノ,ハッ タら民族主義者が中心となって独立を宣言し, 彼らの手によって第一回の独立準備委員会が当 初の予定どおり18日に開催された。この席上で 既に準備されていた草案を土台としてインドネ シア共和国1945年憲法が公布された[><291〕(7)。

インドネシア共和国1945年憲法の本文は37条 から編成されている。同意法は1949年12月にイ ンドネシア連邦共和国憲法に替わり, 1950年8 月にインドネシア共和国暫定憲法に替わった。

その後1959年7月大統領布告により復活し,覗 行憲法となっている。

同意法は, 4回の改正を経て現在に至る。第 1回は1999年10月,第2回は2000年8札 第3 回は2001年11月,第4回は2002年8月に決定さ れた[Majelis Permusyawaratan Rakyat 2006] (8)。

インドネシア共和国1945年憲法第33条

1945年に制定されたインドネシア共和国1945 年憲法は,社会福祉について第14車で次のとお

り規定している。

第14車 社会福祉

蝣‑蝣>.<二> i一

第1項 経済は,家族主義の原則azas kekeluargaanに基づき,協同事業usaha bersamaとして編成される。

第2項 国家にとって重要かつ国民の生活

に必要な生産物は,国によって支配され る。

第3項 領土内の土地,衣,天然資源は 国家が管理し,国民の繁栄kemakmuran ra桓tのために最大限活用される。

第34条 貧困層および家庭から放棄された子供 は国家が保護する。

インドネシア語で社会福祉とは, Kesejahteraan Sosialという Kesejahteraanは,福祉と訳す。こ の単語は sejahtera (安全な,平穏な,繁栄し た)である状態を示している。 sosialは,英語 のsocialからの倍用語である。

1945年憲法第33条は後述するとおりハッタの 発案によるものであることは明らかである。し たがって本論文ではハッタの社会福祉思想論の 現れは第33条であるとの認識に立ち,同条を分 析の対象とすることにする。

第33条に関するハッタ自身の解説は次の(1ト (3)のとおりである[Hatta 1946a: 22]c

(1)第33条には,経済的民主主義の基礎が記載 されている。生産は,国民の指導または監督の 下,全国民により全国民のために行われる。

個人一人ひとりではなく,国民の繁栄こそ が重視されるべきである。したがって経済は, 家族主義の原則を基礎として編成される。こ

の原則に則った事業を起こすには,協同組合 kooperasi(9)によることとするo

(2)経済民主主義に基づく経済政策は,すべて の国民にとって繁栄をもたらす。したがって, 国家にとって重要な生産物,ならびに,多くの 人々の必需品となる生産物は,国家がこれを支 配する。仮にそうでないとすれば,生産物の利 益は所有者個人のものとなり,多くの国民は抑

(5)

圧されることになってしまう。国民大多数の生 活必需品を支配しない事業は,個人が支配して

も構わないであろう。

(3)土地,求,埋蔵する天然資源は,国民繁栄 の元になるものである。国家がこれを支配し, 国民の繁栄のために最大限活用しなければなら

ない。

つまり,ハッタの主張する社会福祉(10)とは, 経済における民主主義であり,全国民が公平に 経済成長の恩恵を受けるという社会主義的な思 想である。経済活動の手段としては,協同組合 を挙げている。中小規模の事業は,協同組合を 通じて個人や民間の経営が可能である。大規模 な利益を生む事業については,公平な富の分配 を目指すために個人所有を認めていない。イン ドネシアは豊富な天然資源を有するが,これに 関わる事業および大規模事業については一振り の個人や集団だけが多大な利益を独占すること がないように,国が支配するとしている。

ハッタ[Hatta 1946a:7,8]によれば, 1945 年憲法第14章第33粂社会福祉の考え方の基本 となっているのは,国家経済を決定する3つ の要因である。すなわち,天然資源kekayaan tanahnya,国際社会におけるインドネシアの地 位,国民性やその能力と志向,である。さらに インドネシアの場合には, 3世紀以上にも及ん だオランダによる植民地支配の影響を挙げてい

る。

天然資源に恵まれているため本来ならばその 恩恵を授かっていいはずなのに,インドネシア 国民は依然貧困状態にある。全国民が貧困状態 から脱却するための経済政策の基礎は相互扶助 による協同組合であり,この協同組合こそが, ハッタがインドネシアにとって経済活動の中心

となるべきものとして終始一貫主張しているも のである。

協同組合の設立が遅れてしまった場合には, 資本主義に搾取されてしまい,弱小な国民は少 数のずる賢い資本家階層に支配されてしまうだ ろう,と協同組合の早期展開の必要性について 述べている。

またハッタは,これまでのオランダ東インド 会社や日本軍による搾取により,経済再建の基 盤となる生産労働力が弱小化されてしまってい るインドネシアの社会状況について,国家経済 再建のための最優先事項は,時間のかかる大変 な仕事ではあるが,新たな生産労働力をつくり あげることである,と述べている。

そのためには,国民にとっては次の点が必要 であるとの認識に立つ。すなわち, (1)食糧を充 分に摂取できるようにすること, (2)最低水準以 上の生活必需品をまかなうのに見合う貸金にす ること, (3)生活の最低ラインを引き上げ, (4)国 民の購買力を創出しなければならないこと. (5) 従来の貧しい生活から食事も十分に摂れず,健 康にも留意できなかったので,健康に注意する こと。また,国民の健康を改善するために最も 重要な点として, (6)住居改善が必要であるこ

と,である。

さらに,政治経済の実践において重要なの は,教育であり,できるだけすみやかに教育を 発展させることが必要である,とハッタは主張

している。

ここでハッタの言う教育の発展とは,学校数 を増やすことのみならず,協同組合に関する理 解を深める教育didikan kooperasiを重視すること である。将来のインドネシア経済の支柱となる のは,協同組合であるとハッタは断言している。

(6)

ほかにも,国民の繁栄を目指す積極的経済運 営実施のために,大規模なトランスミグラシ transmigrasi (国内におけるジャワ島から他の島

‑の人口移住)を行うべきだと述べている。人 口分布の偏りにより,適切な産業発展が妨げら れているため,トランスミグラシによりこれを 是正することによりその発展にも資することが できるとの考えに基づいている[Hatta 1946b, :;i)∴

第33条とモハマッド・ハッタ

インドネシア共和国1945年憲法の社会福祉 に関する第33条がハッタによるものであるこ とは,著名な社会学者のデリアル・ヌルDeliar Noerがその著書の中で指摘している[Noer 1990:9]。さらにはハッタ自身もインタビュー に「『家族主義』という言葉がわれわれの社会 によりふさわしかったからだ」と答え, 「独立 準備委員会でも皆がこの言葉を受け入れた」,

と自分が発案者であることを暗に認めている

[Hatta 1978: 97]o

1945年7月の第二回独立準備委員会でインド ネシア共和国1945年憲法の草案が起草される以 前にも,ハッタの演説・講演原稿にすでに第33 条と同じ主旨が見られる(ll)。ハッタの思想が, インドネシア共和国1945年憲法第33条の社会福 祉に反映されているのは明白である。憲法制定 後も独立後のインドネシア経済のあり方などに ついて触れる際に,ハッタは繰り返し第33条の 条文を引き合いに出し,重要性を強調してい る。

本論文では,インドネシアにおける社会福祉 概念の出現を,インドネシア共和国1945年憲法 第33条に依拠するものとする。第33条の提案は

モハマッド・ハッタによるものであり,ハッタ の理想とする社会福祉は,インドネシア共和国 1945年憲法第33条の条文に記載されている内容 を基礎とするものであろう。したがって,本稿 で述べる福祉論の源流とは,換言すればモハ マッド・ハッタが第33条で表した社会福祉に関 する思想であると考える。

本稿で考察の対象とする資料は,ハッタの演 説原稿Kumpulan Pidato,回想録を中心とした 著作や自叙伝などである。政治家としてのハッ

タの政治行動は,分解の対象外とする。

3 モハマッド・ハッタの福祉概念

本章では,まずモハマッド・ハッタの略歴 について簡略に記す。次にハッタとも親交が あり,彼に関する著書MohammadHatta‑Biografi Politik ( 「モハマッド・ハッター政治のバイ

オグラフィー」)がある社会学者デリアル・

ヌルによるPortrait of Patriot, ∫elected writings by

MohammadHattaの前文を参考に,インドネシ ア共和国1945年憲法第33条に影響を与えたと推 測されるハッタの思想を3点に集約したい。そ してこれらの視点からハッタの思想について整 理し,考察を試みたい。最後に協同組合につい

ても出現の背景について概観する。

モハマッド・ハッタについて

インドネシア共和国の首都ジャカルタの空港 は,スカルノ・ハッタ国際空港という名称であ り,初代大統領スカルノと副大統領ハッタにち なんで名づけられたものである。モハマッド・

ハッタは,インドネシア共和国独立宣言の年の 1945年から1956年まで,同国の初代副大統領を 務めた。彼は,同国建国で重要な役割を果たし

(7)

た独立運動家であり,政治家であり,経済学者 であった。そして,協同組合運動の理論・思想 的な指導者であった。

ハッタは, 1902年西スマトラの州都プキティ ンギBukittinggiで生まれた。ブキティンギはミ ナンカバウMinangkabau地方の中心に位置して いる。ミナンカバウといえば,イスラム信仰心 が篤いことや母系制社会(母系氏族の存続,衣 督の母系相続)が強いことで知られるが,同時 に近代西欧の思想が19世紀後半から流入してい た地域でもある。彼は「敬慶で熱心なイスラム 教徒」であった。プキティンギでは国民学校に 3学年の中途まで在学し,オランダ人学校に転 校した。そして1913年,パダンPadangへ転校 した。第‑オランダ人学校に, 5学年から7学 年まで在学。その後MULO (Meer Uitgrebeid Lager Onderwijsの略。現在の中学とほぼ同じ) に入学した。

スマトラ青年同盟Yong Sumateranen Bondは, 1917年にバタビアBatavia (現在のジャカルタ Jakarta)で設立された中学に在学するスマトラ 出身の青年たちの集まりである。ハッタが「歴 史的」だったと回顧しているのは,その代表の ナテール・ダト・パモンチャックMohammad Natzir DatukPamuncakが,酉スマトラのパダン にきて演説を行い,スマトラの青年たちの視 野を広めたことだった。団体の目的の一つは,

「勉学中のスマトラ青年相互の群を強め,民族 [ここではスマトラの諸民族を指す。インドネ

シア民族ではない, (筆者)]の指導者および教 育者になることを心のそこから自覚させるこ

と」,であり,演説を開いてからハッタはその 新たな任務を感じていた。 1917年,彼は,パダ ン支部の会計に選ばれ,その後事務局長も務め

た。 1919年には,バタビアにあるプリンスへン ドリック校に進んだ。

1921年,彼はオランダのロッテルダム商科大 学へ留学した。歴史,政治思想,とりわけ経済 について勉強に励み,西欧文化の幅広く深い知 識を身に付けた。勉学だけではなく,インドネ シア独立を勝ちとるために,民族独立運動に遇 進し, 1921年以来,東インド協会(12)の会員とな り, 1921年には会計に指名された。そして1926 年にインドネシア協会会長に就任した。1927年, オランダ警察によりハーグで拘留されるが,法 廷闘争で無罪を勝ち取った1932年経済学修士 号を取得して,インドネシアへ帰国した。帰 国後はインドネシア国民教育協会Pendidikan NasionalIndonesiaを率い,当時パルテインド Partindo (Partai Indonesia:インドネシア党)を

率いていたスカルノと民族独立運動に関して論 争を展開した。

精力的に民族道動を推進するハッタであっ たが,植民地政府に対する非協調路線を貫き, 1935年には西部ニューギニア(現パプア)タ ナ・メラTanahMerahへ流刑になるo 同年には そこからパンダ・ネイラBandaNeiraに移送さ れた。

日本軍政期には政界に複帰して,スカルノら といっしょに民族独立運動を率いるとともに日 本の軍政監部の顧問となった。 1945年8月には スカルノとハッタの署名の下,インドネシア共 和国独立宣言を発布した。ハッタは副大統領に 選出され, 1948年から1950年の間は,首相,外 相,国防相を兼職して,政権の中枢にあった。

オランダとインドネシアの停戦と主権委譲を議 題として1949年に開催されたハーグ円卓会議で は,インドネシア側の代表を務めた。会議の結

(8)

莱, 1945年8月17日の独立宣言以来,これを認 めようとしない旧宗主国オランダとの独立戦争 は終結した。しかし次第にスカルノと対立し, 1956年には副大統領を辞任した。その後政界に 復帰することはなかった。しかしスハルト体制 以降も,知識人の精神的な支柱をなしていた。

3つの思想と協同組合

ハッタの思想に影響を与えたのは,イスラム 敬,インドネシアの伝統的な集産主義kolektivism,

ならびに民主的社会主義であったと推測され る。

これらはそれぞれが有機的に関連している。

インドネシアの集産主義とは,西洋の社会主義 の理論,イスラム教の教義,インドネシア社会 伝来の慣習であるゴトン・ロヨンが一体化した

ものである.そしてゴトン・ロヨンは,国民の 特徴,アイデンティティーとなるべきものであ

る[Hatta 1979:66]。

ハッタの社会福祉概念の背景には, 3世紀半 に及んだオランダ植民地支配によるインドネシ ア人の困窮や悲惨さがあると考えられる。人道 主義的かつ反資本主義な感情からハッタは,オ ランダ資本主義の犠牲から人々を救いたいとの 思いがあったのに違いない。それは‑揺りの集 団ではなく公平に全国民の生活を改善したいと いう経済的な民主主義であり社会主義的な発想 であった。敬慶なイスラム教徒であるハッタ は,指導的なイスラム近代主義者との出会いか ら,インドネシア社会・経済変革の必要性につ いても触発されたのであろう。

経済的な民主主義に基づく社会を達成するた めの手段として彼が提唱したのは,多数の人た ちが道営に関わる協同組合であった。道営の元

になるのはインドネシアの村社会に伝統的な慣 習として根付いているゴトン・ロヨンと全員一 致による民主主義の思想ムフアカットmufakat であった。彼はインドネシア全体を家族とみな し,国民全員が家族のように助け合うことをゴ トン・ロヨンの精神に則り実践し,協同組合を 通じた国家経済建設を行いたいと考えていた。

換言すれば,個人主義ではなくインドネシア的 な相互扶助に基づいた集産主義によるものでも あった。

以下では上述の3点からハッタの思想につい て概観し,考察を行う。

イスラム教

ハッタだけではなく彼の家族も敬慶深いムス リムであった。祖父も父も偉大なウラマulama (イスラムの法や神学に通じた人。宗教上の指 導者であり,イスラム社会の知識人としてムス リム‑の大きな影響力を持つ)であった。教え 子はカリマンタンやスラウェシ等他島からも集 まってきた。ハッタ自身も幼少期からイスラム へ献身的に傾倒していた。ハッタはムスリムだ けでなく他の宗教の信者に対する奉仕も惜しま

なかった[Noer 1972:5]。

中学の頃には近代的なウラマであるブキティ ンギのシェイフ・ムハマッド・ジヤミル・ジャ ンベSjech Djamil Djambekやパダンのハジ・ア ブドウラ・アフマッドHajiAbdullahAhmadに 直に接するようになった[ibid.,5〕。ハジ・アブ

ドゥラ・アフマッドは,スマトラにおけるイス ラムの近代化推進者3人のうちの一人であっ た。この近代化では,イスラムの教義に合理的 な考えを取り入れ,保守的で社会の発展につい ていけない考えは部分的に切り捨てることにし

(9)

た。イスラムは社会の発展を指導するもので ある,というのが彼らの考えである[モハマッ

ド・ハッタ1993:45]。

彼らはイスラムの現代社会への融合について 説くだけではなく,インドネシア社会・経済構 造の変革の必要性について強調し,インドネシ アの後進性や民衆の惨状が国の発展の障害に なっていると考えていた。そして人々を貧困状 態から抜け出させ,向上させることが自分たち の義務だと感じていた[Noer 1972:5]。

インドネシアの伝統的な集産主義

民族運動 pergerakan kebangsaanにおいては 反資本主義的な感情とともに,集塵主義に基 づく国家経済のコンセプトが生まれた田atta

1979: 66]c

ハッタによるインドネシアの伝統的な集産主 義とは,ゴトン・ロヨンという相互扶助と家族 主義により表される。ハッタは国家を家族とみ なしていた[ibid.,8]。村の共同生活に関するす べての規則については,村の議会においてム フアカットという全員一致により決定される。

個人では手に負えない事業については,共同事 業として扱われ,相互扶助を基礎として実施さ

nmm

ムプアカットは,政治的民主主義において基 礎をなすものであり,ゴトン・ロヨンは,経 済的民主主義建設の基礎となる田atta 1946b:

36]。

近代西欧国家ではたしかに政治的な民主主義 は達成したが,しかしそれはあくまでも個人主 義individualismeの精神に基づいている。さら に西洋では政治的な民主主義は達成しても,経 済的民主主義は達成していない。インドネシア

は個人主義ではなく集産主義に基づく社会なの で,経済的民主主義の達成は十分可能だとハッ

タは考えていたibid.,1946b: 35]c

民主的社会主義

オランダ留学前の1919年には,バタヴイアに あるプリンスへンドリック校に進んだ。

この頃,学費と生活費の面倒を見てくれたの は,叔父アユブ・ライスAyubRaisだった(13) アユブは,当時大商人として有名だった。胡椴 を商売の対象として,先物取引や投機のような 商いを行っていたという。その叔父がハッタ を古本屋に案内し,ハッタが必要としていた 教科書を探したが,なかった。ここでいろい ろな本を見ているうちにハッタが読むべきだ とアユブ伯父考えた書物は, 『国家経済学』 (N.

G.Pierson)初版の二巻, 『社会主義者』 (H.P.

Quack)全六巻と, 『2000年』 (Bellamy)である。

これは初めてハッタの持った図書で,蔵書の 基礎となった[モハマッド・ハッタ1993:76]c 1945年憲法の社会福祉の概念となっているのは 経済における民主主義であり,社会主義的な機 能を含んでいる。ハッタはこの当時に『社会主 義』から,その思想に触れることとなったかも

しれない。ハッタ自身も「知識の源としては魅 力的で,経済と社会問題に関する私の知識はこ の本で少なからず増えた」 [ibid.,79〕と記してい る。

民主主義的社会主義の関連では,ハッタはし ばしばイギリスの緩やかな社会民主主義的運 動であるフェビアン協会Fabian Societyの活動 や北欧の協同組合運動について言及していた [Noer1972:8]。ハッタはこれらの社会民主主義 的な運動に触発されていたのであろう。

(10)

インドネシアの社会主義については,公正 で,繁栄し,貧困や困苦から解放された社会

を目指すという独自のモデルであり田atta 1957b:115],マルクス主義の理論,イスラムの 教え,インドネシア元来の集産主義の影響を受 けていると述べている[Hatta 1957a:92]。

中国のマルキシズムに基づく社会主義との比 較において,ハッタはインドネシアの社会主義 は独自のものであると説明している。その理由 としてはイスラム教の原則とインドネシアの 伝統的な村社会における集産主義的民主主義 demokrasi kolektifの原則に基づくからである。

またアメリカ自由資本主義経済政策との相違点 について,インドネシア共和国1945年憲法第33 条は経済政策および政治の基礎となっているこ と,経済においては政府が一定の役割を果たす ことを説明していた[Hatta 1983:7](川。

死の前年の1979年6月21日に「指導された経 済」と慈し,パンチヤ・シラ経済研究所で行っ た講演の中で,ハッタは次のように述べてい る。

1945年憲法を制定したことは,インドネシア 独立運動により「独立した一つのbersatu,人民 主権による,公正で繁栄した」国家としてのイ ンドネシアの入り口まで,国民を導くことに成 功した[Hatta 1979:66]。

ハッタはインドネシアの独立を目指して締っ てきたが,彼が独立というとき2点における独 立を唱えていた。つまり,政治的および経済的 な独立である。経済的な独立すなわち経済的な 主権とは,外国の経済や権力に依存しないもの で, 1945年憲法第33条を実行したときにその結 果として実現可能である。そして国家歳入増加 の目的は, 1945年憲法の理念に沿い最大限公正

かつ公平に,国民の繁栄を拡大する,という一 つでなければならない[iiid.,66,67]c

民族運動pergerakan nasionalには,初めから 反資本主義的感情があった。急進的な民族主義 者nasionalis radikalによる非協調主義とは,人 道主義や政治的民主主義と併存する経済的民主 主義の理念の実践を重要視するほかは,その多 くが西洋の社会主義の影響を強く受けたもので あった。政治的な民主主義と経済的な民主主義 の両面がなければ,完全な民主主義とは言えな いのである[ibid., 66〕。

協同組合

以上, 3つの視点からハッタの思想について 述べたが,最後に協同組合の必要性とその背景 について以下に記す。

インドネシア共和国1945年憲法第14章第33 条は,経済政策politikperekonomian,社会政 治politiksosialの重要な基礎となる。国民経 済の基礎は,家族主義的に行われる協同事業 である。すなわち協同組合である。インドネ シアの協同組合の理念は,個人主義と資本主 義kapitalismeに根本的に相反するものである

[tfォ」, 68]o

オランダ留学(1921年 ‑1932年)中の1925 年,インドネシア協会の会員の親の多くが,棉 民地政府に脅迫されていた。親は職を退くか, 息子が会員をやめるかを迫られた。そのために インドネシア協会の会員は相互扶助の生活を 余儀なくされた。この頃,インドネシア協会 は,政治的な独立のみならず,経済的な強立も 達成すべきであると感じていた。そのためには 協同組合を基盤とすべきであるという考え方が 生まれてきていた[モハマッド・ハッタ1993:

(11)

185,186]。その背景についてハッタは次のよう に述べている。

‑インドネシア協会は,インドネシアは政 治的独立のみならず,経済的独立をも達成す べきだと久しく感じていた。インドネシアの 民族経済は,人民が自立を学び, 「自助」と

「自主活動」に基づく協同組合に基盤を置く べきだという考えがその当時生まれてきてい た。インドネシア人は零細農業,零細商業 等,おしなべて小規模な事業に従事している ことに民族経済の弱点があることは明白だ。

大商人,大規模農業,輸出入,大型海運,級 行等の大規模な事業はすべて白人の手にあ る。中規模経済,伸介経済のほぼ90パーセン

トは「東洋外国人」と呼ばれる華人やインド 人たちの手中にあった。この分野でインドネ シア人は10パーセントを占めるに過ぎず,こ れとて下層部分である。彼らがこの地位を獲 得できているのも,彼らが一生懸命働き,普

た先祖から代々受け継ぎ,家族の財産として 運用してきた自己資本を元手として持ってい たからだ。彼らがその地位を維持できれば, それはもう上出来だ。 「自由競争」に基づく 資本主義の仕組みでは,インドネシア人は小 さい仕事なら何でもうまく運営することはで きても,上へ昇っていくことは期待できな い。イギリスやその他のヨーロッパ諸国の例 を見ると,協同組合だけが貧困に嘱ぐ人民の 経済を一歩ずつ向上させてきている。この方 向にもっぱら昌を向けていたのはサムシ[サ ストロウイダグドSamsiSastrowidagdo, (筆 者)]だった 蝣[ibid., 186,187]。

オランダ留学中の1925年半ばには,インド

ネシア協会がハッタとサムシをデンマーク,ス ウェーデン,ノルウェーに派遣し,協同組合の 運営方法を研究させている[ibid., 187〕oハッタ は1926年にインドネシア協会会長に就任した。

次期総会では国際社会におけるインドネシアの 地位について演説するとし, 「世界の経済構造

とカの対立」と題する演説をした。

この中で, 「植民する側と植民される側の対 立があること,白色人種と有色人種との間に対 立があること」を述べ,インドネシアは植民さ れる側であり,植民地が解放されるには「自ら 独立する道をとること」であり, 「インドネシ アは非協力主義の方針をとること」で, 「自信 をもって秩序立って国家の中の国家形成を努力 する強力な組織が極めて重要になってくる」。

「国際世界の状況は,基本的には原始生活の社 会と変わりがない。原始社会では無法が幅を利 かせている。植民地を支配する国家が自国の生 活物質が不足している時,植民している国を解 放することはないだろう」。そのうえ「国際世 界にも諸民族の権利と義務を規制し,保障する 国際法がない」。したがって「ヨーロッパ帝国 主義は人類の利益のために終結させなければな らないし,植民されている各民族は,植民地か ら自らを解放する義務がある」。そして「これ を実行する唯一の手段」は, 「力をもってする 以外にないのではないか」という考えを述べて いた[ibid.,203‑209]。その力をつける手段とし て考えていたのが,支配者の統治システムの外 に自分たちの組織をつくり,それを自分たちで 運営することだった。協同組合もそのような組 織のひとつとしてハッタは位置づけていた[山 本 20021。

オランダ留学時代におけるハッタの著名な演

(12)

説は, 「インドネシアは自由だ」である。これ は1927年,オランダ在住の独立運動家たちと, オランダ警察に逮捕されたときのハッタの陳述 書である。これは後目『インドネシアは自由 だ』と遷して刊行された。オランダ政府が禁止 する団体のメンバーになっていること,反乱に 関係があること,オランダ王国に対する挑発行 為をしたことを理由に彼は逮捕されたが, 1928 年にハーグ裁判所に起訴されたときにはその内 容は変わり,当初3つあった起訴事項は,オラ

ンダ王国に対する挑発行為だけになっていた

[モハマッド・ハッタ1993:233,238,239]c

この演説の中で経済的目標は協同組合組織に よる生活水準の向上を図ることを挙げている。

非協調主義を維持し民族精神の滴菱を行いなが らも,インドネシア社会に古くからある協同と 助け合いの精神が,オランダの支配下における 現状においでもインドネシア人組織に基礎を置 くインドネシア国民を形成する基盤になるもの であると述べている。

インドネシアが独立を達成し,次の段階と して独立国家としての国家建設の段階に入っ た1950年代から70年代にかけても多くの演説・

講演を行ったが,その中心を成す内容の一つ は,インドネシア民族・国家の哲学であるパン チヤ・シラの紹介であり,またとくに強調した のがインドネシア共和国1945年憲法第33粂およ び協同組合の実践であった[Hatta 1983‥ 8〕(15) この期間中, 1956年末まで彼は副大統領の職に あった[ibid.,7](16き。独立後間もないインドネシ ア民族によるインドネシア共和国の建設,すな わち公正で繁栄した社会を建設することがハッ タの目的であった{ibid.,7〕(17)。

4 課題と展望

アジアや中南米などの開発途上国における

「開発型福祉国家」とは, 「生産の拡大のために 福祉国家政策を行う社会発展のモデル」である という類型が提示されている[白鳥 2006: 17]。

アジア諸国の「開発型福祉国家」の特色として は,第一に福祉国家そのものには何の価値も認 めないのであって,生産の拡大を意味する経済 発展こそが目標であり,福祉国家政策はその目 標に奉仕する限り価値あるものとされる[ibid.,

17】。

しかし本論文で分析したように,インドネシ アは独立当初から憲法に「社会福祉」に関する 条項を盛り込んでいた。そして経済的民主主義 に基づき協同組合を通じた経済活動をとおして 全国民が利益を享受するという理念を掲げて, 社会福祉を梓橋していたと言えるだろう。イン

ドネシア共和国1945年憲法にみるインドネシア の経済と福祉の関係は, 「生産拡大のための福 祉」ではなく, 「全国民の福祉のための経済政 策」であったと言えよう。この枠組みからイン ドネシアにアジア諸国の「開発型福祉国家」類 型の特色を当てはめれば, 「福祉国家そのもの には何の価値も認めない」と断言するのは困維

・lI',' ,

ハッタは,インドネシア社会全体が公平かつ 繁栄するのを理想としていた。一部の集団だけ が裕福になり,他の集団を搾取するような社会 を望んでいたのではなかった。ハッタの理念は 資本主義の矛盾を衝き集産主義を志向する経済 的民主主義であり,また西欧型社会民主主義の 要素をも含んでいたと考えられる。しかしなが ら,その後のとくにオルヂ・パル(スハルト

(13)

体制下の「新秩序」)による外資導入を挺子に した長期にわたる開発主導の経済開発により, ハッタのインドネシア共和国1945年憲法に託し

た理念は,現実とはかけ離れてしまっているの ではないだろうか。現実には,少数派である富 裕層の出現や,経済的格差を生む結果となっ た。ハッタが掲げた「経済的な民主主義」の理 念からは程遠い。最晩年の彼のスピーチは,ス ハルトに対する批判を内包していた。

このような結果に至った理由については,理 念を遂行するための政治,社会,経済,文化の 機能や制度,ならびに変遷について具体的かつ 詳細に検証しなければならない。インドネシア

における福祉の現状を考察する上で,ポスト・

スハルト期における福祉に関する諸問題は,今 後の課題の一つとなる。これらは次回に譲りた w.

また,他の東南アジア諸国との比較研究によ る新興開発諸国における福祉理念の事例研究も 蓄積していきたいと考えている。

〔投稿受理日2006. 9.26/掲載決定日2006.ll.30〕

(1)社会福祉は一般に実体概念と昌的概念にあたる 次の二つの意味で用いられる.一つは.社会成員 の幸福な状態をもたらす手段・方法を意味し,さ まざまな生活上の困難や障害,すなわち生活問題 を解決・緩和・予防することを目的とする利敵, 政策,実践などの総称をさすO 制度・政策レベル では,とりわけその基礎的条件となる良好な健康 状態や経済的状態の確保に向けたものに限定され る。もう一つは,社会成層の幸福な状態そのもの を意味している。その場合には,その状態をもた らすより広汎な条件を視野に入れることになり, 福祉とのみ表現することもある[庄司1999:426]。

本文ではこの定義をベースとするので,社会福祉 は福祉と同義で使用する。

(2)各世帯が貧しい人々へ少量のお金やお米を提供

しあう「ジャンピタン」[白鳥 2006: 63]や, 「ア リサン」 ansanという通常,何人かの人が会を作 り,定期的に会費を払い,その総額を会員が順番 で利用できる一種の民間金融制度があるO順番の 決定は親によるもの,くじ引きによるものがある。

順番が一巡すると,原則として会は解散する。商 人仲間における資本調達のためのものもあるが, 一般には会員宅持ち回りで会合を開き茶葉の供給 を行うように,社交的側面を有する[石井1991:

55]。

(3) 『世界憲法集』 [宮沢1983〕に記載されている国 の中で,ベルギー国憲法(1831年),イタリア共和 国窓法(1947年),ドイツ連邦共和国基本法(1949 年),フランス共和国憲法(1958年)には,福祉と 題する条項はない。

アメリカ合衆国窓法(1788年)では,福祉に関 する条項はないが,前文で福祉について触れてい る。また,ソビエト社会主義共和国連邦窓法(塞 本法) (1977年)では,やはり福祉に関する章立て はないが,前文で福利二について触れている。

なお,日本国憲法25粂第2項では, 「国は,すべ ての生活部面について,社会福祉.社会保障及び 公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」

とある。

(4)以下の1948年の演説原稿や雑誌への投稿原稿に 書かれている。この年の1月にはハッタは首相に 就任している。

[Hatta 1948a: 158], [Hatta 1948b: 172], [Hatta 1948c: 191], [Hatta 1948d: 275]

(5)サンスクリット語で, 「パンチヤ」が「5」を,

「シラ」が「徳の実践」 (仏教で言う「戒」)の意味 であるO五原則とは1 ,唯一神への信仰Ketuhanan YangMahaesa, 2,公平で文化的な人道主義 Perikemanusiaan, 3 ,インドネシアの統一Persatuan Indonesia, 4,協議と代議制において導かれる民主 主義Kedaulatan Rakyat, 5,インドネシア全人民に 対する社会正義Keadilan Sosial,である。

(6)実際には独立準備調査会での議論を踏まえて, 6月に骨格を策定していた。

(7)この経緯については[増田1971】第4章に詳述 されている。

(8)本論文では,福祉思想の原点の背景にある思想 を分析するために.最初に発布された1945年当時 の窓法条文を分析の対象としている。なお,第14

(14)

章は第4回目の改正で,大幅な修正が加えられて いる。

第14章は国家経済政策と社会福祉Perekonomian Nasional dan Kesejahteraan Sosialとなった0第33条 の第1項,第2項,第3項には修正がないが,吹 のとおり第4項と第5項が新たに加えられた。

第4項 国家経済政策Perekono.血an nasionalは, 協同の原則prinsip kebersamaan,公正なる効率effisiensi berkea山肌持続可能性berkelanjutan,環境に対する配 慮berwawasan lingkungan,自立kemandirian,ならび に国家経済全体との発展のバランスをとりながら, 経済民主主義demokrasi ekonomiに基づいて実施され る。

第5項 この条文の実行に関する詳細な決定は, 法律に定められる。

(9)ハッタの協同組合に関する先行研究としては,

「インドネシアの協同組合運動」 [加納1973〕, 「M.

ハッタの協同組合論について一運動主体の問題を 中心に‑」 [河野1994], 「国民経済への移行と協 同組合」 【宮山1963】などがある。

インドネシアの協同組合運動は. [宮山1963〕

によれはオランダによる蘭印統治がいわゆる「自 由主義政策」から「倫理政策」の時代に移行する 19世紀末に萌芽が見られる。蘭印政府の協同組合 に対する関心は1900年ウェステルローデDeWolf vanWesterrode副知事に.インドネシア人社会の金 融事情とその改善策について調査を命じたときに 始まっている。ウェステルローデは, 「協同組合方 式による金融機関の設立」という結論を出したが, 蘭印政府はその見解に反して,政府が福祉政策の 一環として直接関与する金融機関を増やしていく 政策をとった。早急に福凝二政策を進めようとする オランダ本国および蘭印政府の方針では,長期間 を要する協同組合の成長を待っていられなかった。

1900年以降の蘭印における倫理政策が上から与え る政策を主とし,インドネシア「原住民」自体の 経済力の発展を意味する協同組合の育成には冷淡 であった。

蘭印政府の監督下に主としてインドネシア人地 方官吏や教師の努力により成立した協同組合のほ かに,きわめて活発な「民族遊動の展開に伴う協 同組合運動」が存在していた。それは,ブデイ・

ウトモBudiUtomoの成立とともに出現している。

民族運動の先駆として1908年に誕生したブデイ・

ウトモは,民生向上の手段として,日常必需物資 の購買販売にあたる協同組合の設立を提唱し,そ の結果各地に消費協同組合が出現した。

1942年3月の日本軍ジャワ上陸に始まる3年半 の日本軍政は.ジャワにおいては協同組合に関心 を示し,意欲的な政策を実施しようとした。協同 組合政策実施準備のために戦前から協同組合論を 唱えていたハッタの主宰する委員会が設けられた。

しかし当時の状況では計画通りに実施される余裕 がなかった。実施後1年で終戦を迎え,戦争末期 のインフレが円滑な実施を阻んだ。

1945年8月の独立宣言後,協同組合は福祉省の 所管となった.スラツハマンR.P.Soerachman福祉 省は, 10月初頭に公布した布告第1号で新生共和 国政府の協同組合政策を明らかにしている。経済 政策ではハッタ副大統領の影響を受けて,協同組 合問題への関心が高かった。

(10)社会福祉の視点からハッタの思想について研 究した先行研究はないものと思われる。しかし, ハッタの考える社会福祉が.全国民に対して経済 的な民主主義が達成された状態だと捉えるとする ならば 関連した先行研究として[山本 2002]が ある。ハッタの民主主義思想と協同組合論に共通 するキーワードを探りつつ,経済活動手段として のみならずインドネシア民族の精神形成という点 からも協同組合について着冒し,ハッタがインド ネシアに民主主義国家を実現させるためには国民 の意識改革が必要であると考え,協同組合運動に その意識改革の役割を託していたことを検証した。

そのほか,ハッタの政治思想については「ハッタ は西洋派か」 [山本1987], 「スカルノとハッタの 論争」 【土屋1971]などがある。

(ll)インドネシアは農業を主要産業とする国であり, 農民のほとんどは相互扶助の慣習により農業を営 んでいる。相互扶助.および共に働くことはすで に社会に根付いている慣習であり,この慣習を拡 げて,経済政策に適用したときには,協同組合と いう形になると述べている田atta 1943:231。

1908年,オランダ留学中のインドネシア学生に よって作られた親オランダ的親睦団体1922年末 から1923年初頭に,イワ・クスマ・スマントリ, ハッタらが自らの力で独立を目指すインドネシア 協会Indonesische Vererdgingに改組し, 1925年2月 に名称をインドネシア語名Perhimpunan Indonesia

(15)

に改めた。 [後藤1975]第二章に詳述されている ので,参照されたい。

個 ハッタは, 1933年3月に叔父アユプと共に来日 している。日本の唱えた「アジア主義」の理念と 現実の敵醇をいち早く指摘していたハッタの日本 に対する認識や,日本での工業専門学校,工場, 企業見学に際しての日本の近代化への視点は, [後 藤1986〕第八車を参照されたい。

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PERUBAHAN PERTAMA UNDANG‑UNDANG DASAR NEGARA REPUBLIK INDONESIA TAHUN 1945

PERUBAHAN KEDUA UNDANG‑UNDANG DASAR NEGARA REPUBLIK INDONESIA TAHUN 1945

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PERUBAHAN KEEMPAT UNDANG‑UNDANG DASAR NEGARA REPUBLIK INDONESIA TAHUN 1945

UNDANG UNDANG DASAR REPUBLIK IINDONESIA 1945 D.ALAM SATU NASKAH

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