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機能主義理論と太陽政策

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(777)

翻 訳

機 能 主 義 理 論 と 太 陽 政 策

具 永 禄

郷 田 正 萬 (訳 )

目次

141

はじめに一.共通利益概念の登場

二.共通の利益のために三.・︑︑トラニーの⁝機能主義

四.⁝機能主義と国際地域機構五.ヨーロッパ共同体の政治的な意味

六.ヨーロッパ合衆国へ向う第一段階七.ヨーロッパ連合の防衛政策と経済統合

八.機能主義理論とEUの発展過程九.ドイツの統↓と旧ソ連の崩壊

↓○.太陽政策と平和論一一.太陽政策の未来

一二.結びにかえて

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神 奈 川法 学 第34巻 第3号2001年 142

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はじめに

この論文は・太陽政策の宣言以後に執筆したもので︑太陽政策の基礎になる機能主義の理論が登場した経緯を叙述

し・機能主義理論が既存の政治現実主義の視角と全く異なる視角から葛藤・紛争.戦争の原因を把握する新しい転機

を作り出したことを説明している︒特に︑太陽政策との関連で︑機能主義理論と新機能主義理論の基本的な発相心と論

理構造を説明し︑これらの理論が南北関係に応用できる可能性を探り出している︒

機能主義理論が歴史上の舞台ではじめて取り上げられたのは︑〒・ッパ石炭および鉄鋼共同体(ECSC)から

はじまってEECさらにEUへ発展する過程であった︒EUへの発展は︑機能主義理論から出発して新機能︑王義的な

発想が加えられ・しかも両者が調和されるヤ﹂とによって可能になったものである︒この場ム・は︑最初から機能主義と

新機能主義理論を混合する方式で始まった場合で︑伝統的な機能主義が強調する厳格な政経分離主義から脱皮し︑機

能主義と新機能主義を混合する接近法を選らんたのである︒たとえ︑機能主義と新機能主義がドイツ統一の直接的な

要因にはなれなかったけれども︑平和的な統一を成し遂げるのに必要とする友好的な環境と基礎を作り出すことによ

って・制限的で間接的な形でドイッ統一に寄与したと評価することができる︒このよ・つなことによって︑開放され多

元化された民主主義の政治体制を基本的なモデルとする機能主義理論が︑閉鎖的で全体主義的な土ハ産主義体制との関

係において︑制限的であるとしても︑一定水準の適合性を持っていることが立証されたと言えよう︒

太陽政策はドイツの場合と異なる︑最悪の相手と繰り広げるより難しくて危険な関係に適用された機能主義的接近

法である・したがって︑太陽政策の執行は韓国的な状況に照らし合わせ︑機能主義的な接近を再構成することによつ

て行われなければならい︒

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機 能主 義 理 論 と太 陽 政 策

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} . 共 通 利 益 概 念 の 登 場

仮に人間がその本姓において︑利己的で攻撃的でないと言えども︑人間史の麓過程で形成された多様な環境・制度と組織は人間の行動を経済的で肇的な行動に指向するようにした︒紀元前芳年頃までは人間は富と権力の不平等︑あるいは支配者のない互恵性を土ムロに響される群(σ罠)社会︑すなわち群集社会を形成していた・人間社会は"群〃の社会から群長社会に発展し︑また多様な形態の統治構造を通じてエハ世紀にいたり・独圭権国家の形態に発達するようになったのである︒

独立毒国家はその体制を維持し強化するために︑国家程の概念を創りだして発展させたのであり・この概念はさらに国家利益概念の譲になったのである.国家利益の概念は︑エハ世紀以後︑主権によって武装した国家の対外政策上の核︑心的な概念になったのであり︑特に国家存亡の利益が最高の優先順位を占めるようになったのである・ところで︑国家︑王権論長つく偏侠で利己的な国家利益観に国家嚢と民族主蒙加えられることによって・攻撃的な国家と国家第一主義を主張する国民が誕生するようになったのである︒

独立主笛家の登場は︑領土塞盤とする絶対的権威体制への移行を意味する・人間は主権国家に至喬に・食糧覆と領土拡張とい・つ晶を達成するために︑戦争が便利で有用な手段であることに気がついた・したがって・紀元並則数世起則か暑臨してきた多くの政治単位(蒔は五・万に推定される)は︑主に戦争と言う方式を通じた統合の過程を経ながら︑国家という政治単位の数が次第に減少される推勢が現れたのである・人間は数少ない統治者のための権力を見つけ出したのであり︑また︑その権力は主に人間の犠牲を強要するために用いられる傾向を持つよ・つになった︒統治者は自らを国家と一体化することによって・戦争の誘惑に陥るようになっ

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たようにも見える・ある天︑あるいは数人の権カ所有者を生かすために︑多くの人々が死と犠牲を強いられるよ︑つ

になった・統治者として登場した王は︑絶対権力に基づく統治に酔うようになり︑それを正当化するために︑はじめ

には神の名の下で︑その後には自らのために人民の服従と犠牲を強要したのである︒

エハ世紀以後主権国家の登場は国家を戦時体制に転讐せる契機になった︒特に︑国家理性︑国家利益︑民族主

義の概念が国家政策の手段として用いられ登﹂とによって︑国家が国内資源の動員体制へ変貌する様相が現れたばか

りではなく︑最高の権威と法になったのである︒

漠然として現れ始めた国家利益の概念は︑それが体系的に発展する以前から︑既に統治者たちの統治術を提供する

のに大きく貢献したのである・特に︑西欧文明が生み出した主権論は国内政治を平定させるのに大きな力を発揮した

だけではなー・対外関係においても国家利益の概念を徹底的に発展させる手段になったのである︒たとえ競争的で攻

撃的な文化・文明が西ヨ占ッパに固有なものとして見る視角はあるが︑国家主権論が未開発状態にあった他の文化

圏においても・国家の発展過程は類似した形態で展開されていた︒異なる占{があるとしたら︑統治方法と政治権力を

正当化する基盤であった・より大きな相違点は対外関係を見る視角の相違と︑それを運営する方法論の問題であった.

西〒︒ッパでは・〃力で定義される国家利益"観が著しく発達した反面︑中国の文化がその核心を成している東洋

文化圏の文化・文明では前者とは多くの差異を示している︒

西洋の文化や国家観の観点から見れば︑中国と東洋圏の文化には国家観が存在しないとい︑乏だろ︑つ︒中国は国家

を大きな家族単位で見る傾向があり︑個人対個人︑そして家族の頁としての任務と責任︑および礼儀が強調されて

きた・したがって・対外関係を調整し維持する際にも︑個人対個人の関係︑および家族の頁としての関係維持に必

須的な概念(仁・義︑禮︑智︑信)と︑これらを反映した義理と報因お概念が投射されたのである︒

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機 能 主 義 理 論 と太 陽 政 策 X45

しかし︑︑﹂れらの視角と方法論の糞にもかかわらず︑その他の国家発展過程は類似した経路を踏襲して来た点を見過ごしてはならない︒充世紀末頃と二・世紀はじめにいたり︑西欧の文物が世界を圧倒し・民衆主権に基づく国家が登場してからは国家主権論と国家利益が普遍化するようになったのである・

すでに指摘したよ・つに︑国家の数は大小の国家が主に撃を通じて合併したり統合されることによって減少してき

た.このよ︑つな推勢は主権論以前︑あるいはその以後とそれほど変わってない・これは・特にヨ占ッパの場合に・︑王権論が登場する直前に五・・余り存在していた国家が二・世紀はじめに二・個の国家に減少されていたことからも

容易に確認できる.ヨーロッパは撃が持続される中で︑小さい国家が大きを︑しかも強力な国家に統合される過程を経てきたのである︒世界史的に見ると︑国家の統遍程はこのような無秩序で惨酷な戦争を通じて数多くの国家群が引き続き少数の国家に減少するようになった︒

約五︑五︒︒年の人類の歴史のなかで︑確認されている戦争の数だけでも函︑五=二回に至っており・三億四千万名の人名霧牲になっているものと推定されている︒この資料によれば︑このながい期間において・比較的に平和であった時期はわずか二九二年に過ぎなかったのであり︑相対的に平和な時期と思われてい至九六︒年から死八二年までの期間においても︑六五件の武力衝突(死傷者数が︑一︑⁝名を超えるものだけを含む)にご千言万名が犠牲になり︑四九ケ国が被害を受けている︒ここで叢しなければならないことは・今から五︒︒年前に遡るだけでも︑世界の至るところで発生した撃の数値を正確に把握することは容易ではなく・時間的にもつと遡れ些層難し姦るとい・つ.﹂とである︒特に︑アジアの片隅やアフリカなどで発生した大小の武力衝突が正確に記録されていると田心われないことを懸に入れれば︑ヨーロッパ中心の統計で見られる数値より︑はるかに多くの戦争と武力衝突があったことが予測される︒その上︑充八二年以後に発生したイラクーゴフン戦争カルフ戦争ソマリァとア

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フガニスタンの内戦・ボスニアとルアンダの内戦だけでも︑追加して比較して見ても︑比較的最近に戦争で犠牲にな

った人数はかなり増加するようになる︒

人間が見つけた最も恐ろしい発見はだぶん私欲であろう︒私欲は個人の権力欲を立.喋するだけではなく︑さらには︑

国家理性と国家利益という概念の根源で︑かつ源泉でもある︒権力というのは個人が生き残り︑国家が生き残るため

の手段として用いられてきたのである︒またその名分の下で︑その集団あるいは国家に所属されていた数多くの人間

の犠牲が強要されてきた・独立主権国家が生まれてから相当の時間が流れた後で︑国際法や国際機構が登場したとい

う事実は逆説的に・それ以前の世界政治が極めて混乱であったことを思わせる︒国際法や国際馨の登場は戦争の残

虐性を緩和したり・その頻度を減少することを目標としていた︒これは︑当時の撃が現代戦とは異なり︑民間人が

戦争に露出されて大量殺傷されるような場合は稀であったにもかかわらず︑戦争が人間に対し恐怖の対象になってい

ることを明らかに示している︒

しかし・人間はまた漠然とではあるが︑共同生活を通じて︑"我々"という共同体意識を持つようになった︒自らを

防衛し・自分が所属している共同体を保存防衛するために︑人間は権力が必要であったのであり︑またその誇燦

に増加しなければ不安から抜け出ることが出来なかった︒個人の安定と国家の安保は不可分の関係にあるのである︒

権力の座に上ったものは自分の権力を維持したり拡張し︑かつ強固にすることによって︑心理的な安定をはかり︑

国土と国力を増加させることによって︑国家の安寧と平和を求めようとする信念を持った時があった︒

内政においては・権力者が自分の支持基盤を拡大するために集団を結集するのに熱中し︑外政においては侵略を通

じ国家が拡張しかつ強力になる過程に興味を感じ︑これに酔う傾向があった︒また戦争は侵略を防止するために︑あ

るいは奪われた国土と財貨を回復するために︑あるいは畠の市民に加︑尺られた犯罪に報いるためにも行われた︒

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機能主義理論と太陽政策

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古代の中国の賢人はどんな国家であろうとも︑最初に得た勝利は国を富裕︑かつ強力にさせ・二度目の戦争において勝利を導いた時には帝国を築き︑三度目の撃では勝利を得ても国力蛙投退することになり・四度目の勝利では国家が滅びる契機を招≦い・つ諺を残している.問題の核心は人間あるいは人間を統治する努者は篁と第二の諺だけを受け入れ︑第三と第四の諺は忘れていたことである︒

頻繁に行われてきた戦争は︑権力者に対して︑自分自身と自国を保護するために︑その答えをグルプによる政治と同盟関係から得よ︑つとしたのである.軍事同盟の轄と登場は︑侵略とこれに対抗するための防御的軍事同盟がお互いに牽制する形態に発展したのであり︑このような作用と反作用の悪循環は単純な力の均衡(..量§霧①︒貼

℃︒≦..)を形成するよ・つになった︒極‑原始的な力の均衡も︑それは単純な均衡の;の難であった・力の均衡とい︑つのは;の国家が力を増強しよ︑つとしたり︑相対的により強い力に対抗するために畠の弱い力を同盟によって補︑つ過程で生じるのである︒ヨーロッパで発展した古典的な力の均衡形態は派閥による力の均衡に加わってない力の均響(σ巴き8h﹀によって安定した力の均禦維持できるという信念に基づいている・歴史を振り返って見ると・ヨー︒ッパの大国のなかで︑均衡者(ぴ量︒9の役目を四〇・年にわたって演じた国家は英国であった・力の均衡体制が一六世紀や一七世紀にその黄金時代を迎えるようになったのは︑こうした古典的類型の力の均衡が作動した.﹂とによるところが大きい︒それにも拘らず︑力の均衡体制の成立は平和を保障したものではない・均衡体制は︑その体制が維持される間に︑その体制を破壊する者がなかったということを意味するだけであってゴー︒ッパ全体に撃が終わったとい・つことを意味するものではない.大小の戦争は世界の至るところで告ていたのであり・ヨーロッパの力の均衡自体を脅かす要因も常に存在していたのである︒

宗教撃以後︑独立主笛家の誕生の分水嶺であった=ハ四八年のウエストファリア条約の轄当時にしても・国

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際法の体系が確立されている状態ではなかった︒しかし︑戦争の残酷性と発生し姦度︑並びに国家間の関係を体系

化しようとする努力がなかったわけではなく︑そのような努力は撃の渦中においてもかなり長い期間において絶︑え

ず持続してきた・ヒユーゴ・グ・チゥ三ξ・H・量の"戦争と平和の法について〃(︒口9①ピ餌芝︒毫四H蝉口餌

勺Φ9.8・垂は・はじめて国際法を法典として集大成し鐘したものである︒彼が国際法の父として呼ばれ尊敬さ

れている理由も・それが国際法を体系化した初めての試みであったからである︒この時に体系化した努力が基礎にな

り 二 八 世 紀 以 後 に は 国 家 間 に 数 多 く の 条 約 と 行 政 協 定 の 締 結 が 普 遍 化 し ︑ 国 際 法 廷 の 決 定 と 国 内 法 廷 の 判 決 な ど が

国家間の関係を補完するようになったのである︒戦争を防止し︑国家間の関係をより柔軟にするために行われた人間

の努力は︑国際機構の設置においても見られる︒

特に・ヨ占ッパ協調体制(↓げΦOO昌OΦ国けOh国に同○℃Φ)とバグ体制(↓蓮聾‑‑¢Φ琢.けΦ邑は民間機構(NG︒)と

政府馨(‑G︒)の設置に寄与している︒このような戦争を抑制し国家関係を維持しよ・つとする主権国家の努力は︑

名分と意識の変化によって・段階的にそして同時多発的に行われたのである︒このよ・つな努力のなかで︑はじめて締

結されたジュネーブ協定(︒Φー︒・・書色・・$は︑主に局地撃地上戦に関する規定を中心に︑参戦兵士(の

規定)に関する合意点を見つけ出そうと努めたのである︒

協定そのものが国際赤+字竺H遷昌餌§巴力Φα︒H・ωωω・量とい︑喰間幡を受容したものではなかったが︑

国際赤+字社の基本的な役割について互いに合意するようになったのである︒戦争と直接的な関連のない他の国際機

構の発展も同様な脈絡のなかで見ることができる︒ヨ占ッパ・ダニュ与責会(国¢吋︒︒Φ蝉質∪聾目暮①︒︒艮ωω一︒ε

や国際電信犠(H幕曇塁↓藷§ぼ・d三︒εから今日の一般国際穫である国連(uN)に至るまでの数千

余りの‑G︒とNG︒の笙は︑人間の破壊的な習性とそれを克服しようとする努力が同居する現象と見なければな

明判闇r間r胴r帥.酬 「日L

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らない︒そして︑ム・日の国連が設置されるまでの人間の直接︑間接的な努力は戦争で汚れたホッブス的な国際社会を建設的な方向に導く上で大きく寄与したことも事実である︒

二.共通の利益のために

轟︑紛争および戦争の問題を解決するために行われた人間の努力は絶えず行われており・戦争に関連された国際法とこれを補って国家間の関係を体系化する関連法と慣習が発展した︒国際機構の誕生はこうした発展の副産物と 一︒える︒長期間にわたる国際専門機構の発展は歴史上はじめての一般国際機構である国際連盟を誕生させた︒もちろん︑第次世界大戦の勃発が国際連盟の設置のための触媒剤になったが︑重要なのは独立主権国家の誕生以後・国家関係

を調整する努力のなかで︑国際政治環境が国家間の戦争だけではなく︑交流を活性化するために必要な慣習と・これ

に関連する国際法と国際機構の発展という大きな潮流に乗っていたという点である・特に・国際連盟規約二三条から

二五条まではイギリスの影響の下で︑漠然とした形ではあるが︑機能主義領域の活動と役割につい工一笈されてい(疑・国際連盟の初代事務総長であったどフモンド(ω島誉U§暮巳)卿は一九冗年︑霧局内に経済部署を設けたのである︒この経済部署の研究と活動杢塵δ年に開催されたブリュッセル金融会議(ゆ毎ω磐コ鵠き邑︒︒曇①量を︑王催したのであり︑またこの会議に提出された経済金融臨時委員会(ぎくぎ琶国§婁︒価p量§︒巨︒§曇.︒)案が国際連盟理事会の承認を受けるよ・つになった︒これによって︑国際連盟は経済と金融部門に関心を

持つよ︑つになったが︑当時の連盟内では︑組織の設置と調整問題に没頭しただけで︑機能主義的活動としてはそれほ

ど目立つ業績はなかった︒一九三九年に至り︑ようやく深刻な世界経済と社会問題に直面して・理事会は連盟内のさ

まざまな委員会と非加盟国との協調を模索するためにブルス委臭三bd舞︒︒ヨ曇Φ①)を設置・懸案問題の研究を

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委嘱したのである︒

この委員会は・報告書を通じて︑機能主義の活動と驚を統括し︑監督・調整することのできる重心的な機関を恥収

けるよう提案している・残念ながら︑第二次世界大戦の勃発で︑同委員会の提案事項は実践されなかったが︑まさに

このような先例が第二次大戦後に設置された国連の重要な核心になる経済社会理事会(国︒︒コ︒自§αω︒︒一餌お︒¢⇒︒ε

の基盤になったものと見てよいだろう︒

機能という接点を通じて・国家間の協同・協助を導き︑国家間の行動を調整しよ・つとする努力はかなりの期間持続

されてきた・人間は・そのような方向での努力と蓄積なくしては戦争問題を決して統御する方法がないことを良く知

っていたのである︒

機能主義を活性化したもう;の契機と刺激剤は一九二九年の経莫恐慌による米国のニユLアィール(z.≦

U婁政策であった・ニユLアール政策は牛ズベルト(閃§再Pカ︒︒ωΦ<Φεが充三二年︑・ンカゴで開催さ

れた民主党全党大会の大統領候補受諾演説で明らかにした候補者個人の政綱か畠来した経済および社会に関する改

革案である・翌年に就任した牛ズベルト大統領は︑就任辞で大恐慌とい・つ危機状況を克服するために非常大権を自

らに与えられることを上下両院合同議会に求めた︒

当時の米議会は大統領の要求に積極的に応じて︑一・・日以内に︑"非常銀行救済法〃からはじめてテ︑不シー渓谷

開発公社(日Φ8.ωωΦ≦Φ玉§H眞略TVA)設立案まで︑危機に対処するために数多くの法案を採択した︒当

時の経済危機の深刻性は︑僅か四年間に約九・・個の銀行が倒産し︑一九三三年牛ズベルト大統領の就任当時の失

業率が二四・九%であった事実だけ見ても充分に知ることができる︒

ニユーディール政策と関連された多くの事業の中で︑TVAと呼ばれるテネシ浅谷開発計画は︑機能︑王義戦略を

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機能主義理論 と太陽政策

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国内政策に逆利用した側票かなり見られる︒この計画は︑テネシ←侠谷の広大な地域に喜一個の巨大なタムを建設する工事とこれに関連する工事などで構成されていたが︑雇用創出と水力発電によって地方の村落まで電気供給の拡大︑洪水予防︑水上交通︑安い電気供給などがその主な目的であった︒

その他に︑事業が拡張されて肥料の製造と供給︑そして軍需目的のための窒酸塩の生産までA己まれ・その他の肇基盤の造成と調和させながら︑計画.発展させて行ったのである︒この事業がもたらした効果は・失業率が減少されたことだけを見てもすぐ確認することができる︒この事業を通じてル支ベルト就任当時に一西.九%に達した失業率が死四一年には︑九.九%に減少された︒テネシ漢谷の大工事を含むニユーデール政策は・ケインス(喜

ζ餌団訂‑︒﹃象Φ︽p①ω)の呼び水(宴暑9§︒q)理醜からその根源を見出すことができる・特に・重要なことはミトラ

(二i(∪鋤くこ罫9曙6))教授の古典的な機能主義の理論か一ユ畜ール政策から大誉影響を受けたという点である︒

ニュヨディール政策が機能主義の発展に影響を及ぼした部分は︑憲法の制約の下で︑法的に接近する場合に与えられた政治的状況から解決が不可能な問題を︑機能的な手段を通じて︑憲法を迂回することによって・可能にするようにした点である︒その結果︑緩い連邦制を高度に中央集権化した政府に変えていく効果をもたらしたのである︒国家的危機状況とい・つ条件のなかで︑機能主義的な発想を通じて憲法上の限界を乗り越えることが出来た例は・当時の米国の与.野党が超党派的に採択した"国家産業復興法"(量︒邑ぎωけ量幻§<Φ呈.基ω︒・)に見いたすことが出来る︒

逆説的ではあるが︑二年後︑この法案がセク宇対米国事件(ω︒冨︒遷二巳芭ω籍ω§9ω・お・矯諒柳}の判決で︑無力化された点が機能義的発想の持つ緩性を示している︒当時の米国の最高裁判所は交易や商業領域で・

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議会が大統領に膨大な"立法権を委任するのは︑三権分立の基本原理に違反する〃︑とい・つ違憲判決を下した︒︑︑︑ト

三丁教授は・この判例から機能主義的接近方法が持つ優越性が立証された︑と指摘している︒これは︑当時の米国

の 政 治 状 況 で ︑ 法 的 政 治 的 な 伝 統 的 方 法 で 接 近 し た 場 合 に ︑ 憲 法 が 制 約 し て い る 大 統 領 の 嶺 謎 回 し て ︑ 大 統 領

に危機に対処できるようにする非常大権を与えることが出来ない︑というところに根拠を置いている︒

機能主義に関する歴史的な実験は︑伝統的で偏狭な国家利益の概念も︑長期的な国際関係の経験と社会過程におけ

る新しい概念と活動を通じて変化するということを示している︒国家は国家の境界を横断して網のよ・つに複雑に絡ま

る国家網のなかに置かれており︑このような国際舞台における経験のなかで︑国家の認識と役割がある程度形成され

るという事実は否定することが出来ない︒

以上のような観点から見ると︑国家は︑国際関係における社会過程と新しい文化受容過程で︑自らが望む新しいも

のを学び・かつ受容していると言える︒したがって︑国家が常に望む変化しないものが存在するとは言︑手︑人間と

同様に国家も・展性的(塁}①壁な特性を持っていると言えるだろう︒特に︑国家自身が何を望んでいるのかが︑

よく知らない場合があり︑このような場合には︑国際関係における社会過程と文化受容過程を通じて︑新しい視座と

内容を受容することが出来るのである︒

ニューディール政策で考察したように︑一つの国家内においても︑法的な修正過程あるいは他の接近方法によって

も乗り越えることの出来ない憲法の制約と国内政治的状況の限界も︑国家危機の克服とい・つ目的のために︑機能主義

を中心とした接近方法によって憲法上の制約を迂回したり︑新たな法の制定を通じて解決することによって︑国家の

役割と人民の認識およびイイジに変化をもたらす︾芝が出来るのである︒ニテディルの事例で確認されたこ︑つ

した経験は・国際関係においても新たな展望を開く可能性を含んでいる︒それは国家利益を共通の利益に転換するか︑

(13)

㎜あるいは共通利益とつなげることが出来る可能性を暗示するものである・

機 能 主義 理 論 と太 陽政 策 153

三.ミトラニーの機能主義

およそ一世紀にわたる国際機構を通じた国家間の協調・協力関係を新しい視角から整理し︑機能主義理論を体系的

に展開した︑︑︑ト三丁教授の董臼はこの分野において︑必読書であり︑基本モデルとして認められている・機能主義理論は既存の国際政治接近方法と全く異なる視角から国際関係を分析しようとする試みである・この新しい観点と試みは︑過去の偏狭な国家利益観に基づき展開されて来た国際関係と外交方式を否定するところから出発するものである︒国家中心主義的国家利益の概念で武装した高級外交官と将軍は︑根本的に世界政治に対する視角が極端的な政治的現実主義に陥っており︑したがって国際関係は︑ただ葛藤と紛争に貫かれているというのが彼らの世界観である・

このような観点で︑彼らは疑いもなく対外交渉を行うには不適合な観点の所有者である︒なぜならば・相手を不信の対象として前提し︑またそれを信念として受け入れた後に︑対外交渉や会談で良い結果を期待することは難しいからである︒交渉の相手は競争者であり︑時には協力者にもなる︑という近代的国際政治の基本モデルである非零和(昌︒p‑NΦ掴︒‑ωロ旦ゲームへの視角の転換に︑機能主義はその発想を置いている︒

機能主義は国際機構の発達過程と密接な連関性を持っている︒機能主義の領域における本格的な活動は国連の創設

と軌を一にすると見なしてもよい︒広い意味における機能主義は経済的・社会的・技術的偏理的入道的問題と関

連する国際的活動︑つまり協同.協調領域をA己む︒このような脈絡から見ると︑機能主義は〃相夫相助の国際倫理

をもたらしてきた二〇世紀の世界的な意識革命の一種であると言っても過言ではな(魍︒

機能主義理論は︑機能主義に基づく活動が短期的には間接的ではあっても国家間の葛藤を解消するのに寄与し・長

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期的には国家間の統合と平和維持に直接的に貢献することができるということを前提にしている︒たと︑尺︑この仮定

が間違っていたとしても︑機能主義に基づく国際的世界的活動は人間がより曲豆かに生きることに寄与するであうつ︒

つまり・国家間の葛藤を解消するのと無関係であった場合でも︑機能主義に基づく活動とその活動の結果は人間生活

の質を高めるのに貢献するようになろう︒

機能主義は葛藤︑紛争︑戦争の原因を究明するという次元でも︑伝統的な政治的現実主義の立場と異なる︒また︑

機能主義そのものは表面的には経済決定論的な側面もあるが︑マルクス主義者たちのような戦争原因の分析において

も︑その次元と結論を異にしている︒

また・現実主義者が戦争の結論を権力闘争的な茜から求めようとするのに反して︑マルクス主義は経済的な茜

から戦争が勃発するものと見なしているのである︒機能主義者たちは戦争の原因を人間の原罪や本能のなかで探し求

める観点を拒否し・それを貧困︑苦痛︑無知︑経済不安︑疾病︑差別待遇︑社会的歪義および叢などのなかに求

めており・このような要因が絶望︑無関心︑挫折︑恐怖︑貧欲︑増悪心などを持たせることによって︑戦争勃発と深

い因果関係をもつものであると把握して凌・戦争の原因も人間の生きる環境と密接な関連性があるとい・つのである.

したがって・機能主義者たちには︑戦争の原因は複雑なものであり︑多発的で多目的な処方によって対処することが

重要な問題として提起されるのである︒

ミトラニー教授は平和という概念を新しい視角で定義しているのである︒彼は︑警察力を通じて成される︑強制力

による暴力のない静態的な状態としての平和ではなく︑機能する平和︑つまり︑生きている動態的な平和体系を構築

しようとしたのである︒

機能する動態的な平和体系とは国内政治体制のような垂直的な関係設定から抜け出て︑水平的な国家対国家の関係

(15)

(791) 機能主義理論 と太陽政策

155

のなかで︑機能主義的な接近を通じて共同体の形成に力を注ぐ体系である︒平和は機能主義的な方式で共同体を建設することによって可能になるというのである︒ここでの共同体は︑その構成員が遂行する機能の総計として理解されるのであり︑共同体を形成する過程は多様な共通の機能を遂行するところから求められる︒機能というのは︑人間のための指標であるが︑それまた︑共同体を構築する個々の煉瓦のようなものでもあ(解

葛藤と紛争の頻度を減少させようとする従来の多様な方法はあったが︑そのような方法は効果的ではなかった・それは︑頻繁な戦争とその残酷性が持続していたことからも余すところなく証明できる︒〃機能する平和体制"というのは︑共通の利益のために機能するということである︒これは︑言葉つまり・で叫ぶことではなく・行動を起すというところに︑その力点をおいているのである︒機能主義理論では︑共同体の構築のための統合の努力は国家を横断する協同網の有機的な成長によってはじめて可能になると見なす︒

国家間で行っている共同プ・ジェクトは︑それに参加する全ての資源と知恵︑および参加者などが混合され・共に働くことによって︑共通の利益を見つけると共に促進することが出来るとい・つ発想である・この仮説には・人間が共

に生きることによって社会が発展し︑警察力に依存するだけでは平和な社会が維持し発展するのは難しいという△叩題が横たわっている︒それは︑平和な社会は人々を切り離して可能になるのではなく︑集まって共に働き・活力に満ち

て生きることによって可能になる皇口︑つことを意味する︒国内で実行されるこのようなモデルは・国家間にも該当するものであり︑また活性化することが出来るということである︒

このような認識の上で︑機能主義理論は経済領域の協力網以外にも︑福祉と人道主義的な分野(領域)においても︑協同を基盤にして共通の利益を追求する国家間の協力網を構築するという構想を提示している・

機能主義者たちは︑彼らの理論変︒理主義あるいは合理性に根ざしていると信じている・外面だけで見ると・機能

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神 奈 川法 学 第34巻 第3号2001年 156

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主義者たちが経済決定論と功利主義(G﹁け一一一酢鋤﹁一節口帥ω日)を信奉するように見︑える︒しかし︑機能︑王義理論が︑競争より

も・特に奉仕という側面を強調しているという点︑そしてまた︑社会集団間の葛藤が避けられないものとして見なし

ていない点で互いに異なるものである︒葛藤は経済資源の欠乏から生じるものであると見る観点もあるが︑経済的に

豊かな社会においても葛藤は存在する︒ミト三丁教授は︑人間と国家間の葛藤が国家の非生産的な枠のなかで︑人

間の生活が強要される不自然な状態から起きるものとして理解している︒したがって︑人間と国家間の葛藤は社会的

活動と奉仕の領域で︑自然な状態を見つけることによって解消できるものとして見ている︒

機能主義者たちは︑政治は利益の致や調整によって葛藤を解消するものであると見なし︑それを克服する方法は

人間と国家が共に共通の目標に向かって︑利益の統合を行うところから求めなければならない︑と主張するのである︒

機能主義的観点は︑国際政治において︑さまざまな可能性を提示するとい・つ長所も魂が︑そこには︑それらを国際

政治の実際と調和させ実行させるための︑より精巧な理論を組み立てていく必要がある︒

機能主義者たちは︑平和な世界共同体は外交官や高位官僚たちが大使館あるいは会議で条約や協定を締結したり︑

署名することによって可能になるものではなく︑諸国家やその構成員が作業場や市場で︑共に混じり合い働くことに

よってより容易に成し遂げられると見なしている︒それでは︑そのような作業はいったいどのようなものであろか?

初期段階における機能主義の鉄則は︑国家中心主義時代における独立主権国家が最も重視して保存しようとし︑か

つ国家存亡の利益と同一視していた主権と関連する問題を正面から攻撃することを避けるのはいうまでもなく︑国家

間の葛藤を引き起こす国家の核心的利益の領域も避けることである︒つまり︑葛肇紛争を引き起こしかねない刺激

的で重大な問題は棚上げし︑些細なもので易しく︑国家が互いに譲歩できる枝葉的でありながら核︑心から離れないプ

ロジェから着手し(取りかかり)︑これを中心に共通の利益を追求する素朴な原則から始めなければならないのであ

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(7931 機能主義理論 と太陽政策

15?

る︒

例えば︑利益を互いに共有することのできる教育︑文化交流︑すなわち教授と学生の相互交換︑単位の相互認定・

鉄道網の連結と拡張︑旅客機の共同制作︑特定商品の専門化と共同制作および相互購買︑技術の共同研究と開発など・

参加国相互間の国家利益に一致しながら︑平和で豊かな人間生活に貢献できる仕事から出発することである・このな

かで行われる長期間にわたる共同参与と共同作業︑そして共同の生活が共通の利益をもたらす出発点になるということである︒

機能主義者は︑共通の利益を主軸とする協調はさらなる他の利益に連なり︑そうした連鎖反応は・まるで池のなか

で石を投げつけて惹起した波紋が数多くの同心円を作り出す原理と類似している︑とその論理を展開する・

同心円原理の概念は︑世界の至るところに分散している問題のなかで︑選択された問題に対して︑多国的な接近方

法で攻撃を試みる場合に︑それが連鎖反応の波長を惹起して︑さらに他の領域に伝播されるというものである︒すな

わち︑人道主義的事業から経済へ︑経済から軍事と政治へ︑と浸透と拡散の(呂≡o<9効果をもたらすということである︒

機能主義を信じる人々は︑極めて重要で鋭敏な軍事や政治分野を真正面から攻撃したり︑連関させようとしない︒

より刺激的でなく長期間にわたって追求し得る領域での蓄積された活動が拡散効果(﹃鋤bP一h一〇凶叶凶Odr)︑すなわち・前述のような浸透.拡散効果を生み︑かつそのような効果が累積された時に︑滑らかに政治領域に移って行く過程を共同

体建設の要諦と見なしている︒

仮に︑平和な共同体建設の目標が遠いとしても︑そうした努力の進行が︑交渉能力︑共助の頻度︑共同利益の促進・

意識の変化などによって︑平和の保存と人間生活における質の向上に寄与できるものと期待するのであ(魏・

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伝統主義者の観点からすると︑平和維持に最も大きな障害要因は国家主権であった︒国家主権の核心は独立であり︑

したがって︑独立国家主権は伝統的に国家内において︑外勢や外部の干渉なしに︑自由に政治権力を行使できること

を意味するのである︒最高権威と権力としての国家主権は国際政治においても大きな影響を及ぼしてきた︒国際政治

の領域において︑主権国家は自由に国家利益を追求してきたのであり︑互いに重要な国家利益が相克した場合には暴

力の使用も回避しなかった︒特に︑国家存亡の利益や核心的な利益が損なわれたと認識した場合に︑その結果に拘わ

らず︑武力に訴える時が頻繁であった︒強大国の場合は︑そのような独立主権国家の攻撃的な行為がより頻繁なもの

で・一層拡大されて行く傾向があった︒国際法と国連が存在する今日においても︑民族的葛藤と宗教的な紛争︑そし

て戦争が至る所で勃発しており︑超強大国である米国はもちろん︑英国のような強大国も自国の利益と国際社会の安

定のためという名分の下で︑暴力の使用を当然視している実状である︒独立国家主権とそれに基づく偏狭な国家利益

観は︑歴史的に数多くの葛藤と紛争︑および戦争の重要な原因にもなってきたのである︒

ところで︑機能主義はこうした国家主権を弱体化する役割も果たす︒機能主義は国家あるいは国家が主導する機構

や機関よりも︑私的な関係形成や民間機構および機関の設置により大きな比重を置くことによって︑むしろ国家主権

を背後や側面から切り崩す結果をもたらすこともする︒機能主義者たちは︑国家主権がなんらかの公式や法的な制度

によって他の権威体に移転するのは不可能であると見なしている︒そうした移転は︑機能網を通じて個別国家の主権

が他の権威体に転化するか︑あるいは共有される時にのみ︑すなわち主権の一部が伝統的な権威体から新しい権威体

へ移って行ったり︑主権の部分的移転が蓄積されることによって可能になるのである︒

機熊王義は︑当該国家間の分業と国際的な活動網が拡大し︑国際機構がそれを支える時に︑当該国家たちの利益と

協同が次鯛に統合されていくものと見なしている︒国際協力をを通じて構築される経済と社会領域における成果は客

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機 能 主 義 理 論 と太 陽 政 策 ユ59

謬 鋼 難 纏 叢 雛 ︑と 議 で餐 ち 主 観 的 与 件 の 変 化 を も た ら し ︑ 最 終 的 に は 国 覆

ま 講 鞭 難 い 縫 鍵 聾 蜷 雛 秘 へ 移 転 さ れ ︑ 民 寒 王 権 瓠︑ 時 代 に 入 り . つ   ︑

四 . 機 能 主 義 と 国 際 地 域 機 構

機能主義理論塑般国際欝に本格的に導入されるようになったのは︑国連の経済社会理事会(国§︒自9嵩恥ω︒︒一‑︒8︒¢⇔︒ε傘下の専門震︑あるいは"機能的"機構からであると言える・国連の機能的欝は互いに異なる機能を持つ一三の専門馨と;の機能的な関羅構によって蔑されている・例︑えば︑世界保健馨(♂<oユα記Φ巴叶ぴ○憎αq山艮N田鉱oPぐ樗¢○)は伝染病の発生および拡散と関連した分野を・世界食料曲箋馨(菊83昌言誉鼻¢邑9ぬ慧鼻δp軍○)は食料増産に関連する分野を・そして国際原子力馨(H暴ー口島︒江︒口.}ぎヨ一︒国鵠.・題誌︒謬︒︽缶とは原子力の統制と管理に関芒た分野を担当しながら・それぞれの分野に固有な役割を遂行している︒

このよ︑つな馨は︑機能嚢的な活動を通じて︑世界平和の促進に寄与するという発想に基づいている・例えば・wH︒がスイトゥ(みずぽつそ︑つ)とか︑コレラのような伝染病の拡散によって苦しんでいるバングラデシュに援助を提供した場△.に︑これは︑すなわちその国家の主権を間接的にではあるが︑侵害し弱化させる結果をもたらすことによって︑平和の堕口要因としての︑王権を攻略する効果を持つようになるのである・また・援助を受ける国家内において︑国際馨の活動を支持する勢力を形成するようになり︑場合によっては︑その国の厚生省大臣と関連官僚らが

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神 奈 川法 学 第34巻 第3号2001年 X60

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類似した国際活動と協力の応磐に変身することもあるのである.つまり︑援助を通じて形成された受恵国内の既得

権層が国際的な協力と活動の支持者と参加者に発展することもあり得るとい・つ発想である︒

FA︒の場合・食矯産のための技術指導並びに穀物収獲量を増大させる新しい種子の研究と並.及に努めている︒

これは・飢餓状態から苦痛を受けている貧しい国の人民を悲惨な状態から救済しよ・つとする努力の療である.そし

て・飢餓から人類を救いたいというそうした努力は︑人間が置かれている絶望的な立場から戦争の根源の一部を探す

ことが出来るという︑機能主義的仮定と一脈相通するものがある︒

機能主義者たちは・こうした機能主義的な活動のなかで︑他の国の国民たちと直接的に接触し︑共に働くことによ

って︑お互いに既存のイメージに変化を惹起すことができると考えている︒

〃外国人"と籍に生活し・考え︑また互いに︑協同・協調しながら共通の問題を解決するために努力するならば︑

お互いの歪曲したイメージに変化をもたらし︑これを通じて相互理解と平和を促進する上で︑多少とも寄与することが出来ると言う仮説である︒

もちろん・機能義平和論に対する批判がないわけではない︒最終的な結論は結論部分で考察することにして︑ま

ず国連専門馨の活動と関連する部分だけを指摘するならば︑経済状態の促進と経済の簗が混乱状態を静め︑平和

の促進に大きな役割を果たすことが出来ない︑という批判がある.むしろ経済的与件の上昇︑すなわち繁栄が騒擾と

葛藤および紛争を作り出すという反論である.このような観点から機能主義を批判する人々は︑しばしばドイツの場

合をそのよい例として取り上げる︒

ドイツは経済状態が絶望的であった充二一二年に戦争を行ったのではなく︑逆に経護長率が最も山︑同く︑ドイッ国

民が歴史上・最も高い生活水準を享受した充西年に戦争を行ったのである.同様な脈絡から︑批判家たちはドイ

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(797) 機能主義理論 と太陽政策

161

畿 簗 響 議 轄 籍 就納 鯵 雛 艇 舞 籍 征乾馨 薪 秘

経済的な繁栄への道に進む過程で発生する;の例外的な現象であり得る・と再反論を提起するであろう・たとえ平和の促進に対して︑国際馨が寄与する程度と相関関係を持つものではないがご九世紀と二︒世紀において︑国際地域馨を含む展国際欝は急速に増加する傾向を見せている︒天五年から含に至るまで・三︒︒余りの国際馨が誕生したのであり︑その数は︑特に充三・年代以後︑幾何級数的に増えている・WT︒の記録によれば︑GATTの創聲後︑地域統合協定を含む農経済ブ・ックの事例が;・個に至っておりそのなかで 九九︒年から充九四年までの短い期間の問に設置されている.このような地域経済ブ・ックや地馨済機構の急

謄 鍵 難 灘 謙 鰹 腋 麺 騒 国 に 比 ︑ て ︑ 地 域 経 済 統 ︑︑ の 深 化 と 拡 大 に ‑ . て ︑

国際地域経済ブロックや国際経霧△・運動の原動力は︑第二次世界大戦後のヨ占ッパで始まった・といっても過量口ではない︒当時︑ヨーロッパは戦後の経済再緒題に直面していたばかりではな‑・政治的には力の均衡が崩壊された状態において︑安保問題の深刻性に対して無関心でいられない立場にあった・その上ゴー︒ッパ各国が長期間にわたって難した大帝国は急速に崩壊していった.ヨ占ッパはそれを復旧するか︑少なくとも復旧するために努力するか︑そのよ︑つにしなければ過去の植民地を穏やかに独立させなければならない讐邊択の時点に直面していたのである︒

大帝国が解体された以後︑残された個別国家は国家の規模や人・︑経済力などのよって・中小国家に転落するよ︑つになる場△.もあった︒個別国家としてのヨーロッパは経済力や軍芳の面で︑ソ連に対抗するにはあまりにもみずぼ

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らしいほど二・三等国家に衰退してしまったのである.当時︑西ヨーロッパ諸国が置貌た状況は"団結か︑でなけ

れば滅亡か"(d巳審霞勺卑冨プ)という分かれ道に立っていた︑と言っても過言ではない︒

ちなみに・当時・超強大国として登場した米国とソ連の軍事力と経済力の規模は︑西ヨーロッパのそれぞれの独立

国家とは比較にならないほどの強力な規模であった︒冷戦期の転換しつつあった世界政治環境のなかで︑ヨーロッパ

はこれに無関心ではいられない立場であったのである︒

西ヨ占ッパは国際政治舞台における生存という問題と彼らの鼻心と民族的霧持に相応しい防衛体制と経済体

制の肇に関心を持つべき時がきたのである︒第二次世界大戦以後︑約四年間の相互協力と調整段階を経て︑充五

・ノ(OσΦHωOG﹁白P)

パ統合犠である〒・ッパ石炭鉄鋼丘ハ同体(国§§︒§義けΦΦ§塁︒コ量霧︒)とい・つ超国家的共同体

が誕生した・この共同体の霧は政治的にはドイツとフランスの再和解を象徴するものであるが︑当時のヨーロッパ

の基幹産業であった石炭と鉄鋼の共里産と管理を担学る世界最初の超国家的(ωも鑓8江8巴)国際地域馨の創

設を意味するものでもあった︒当時のシュ←ン外相の懸は︑フ一フンス人を驚かした訴彼は︑平和の肇と保全

のための・ヨー︒ッパ連邦の基礎を築くものが必要である︑という論理を提示したのである︒石炭と鉄鋼の生産目薯

移動を監視し統制するということは︑笙︑二次世界大戦の時に︑国力と国防力の原動力になった重要な資源の生産

量と移動を監視することによって︑武力増強による戦争準備を阻止するところにも︑その目的があったのである︒特

に・ドイツを戦争の主犯として認識し︑これを牽制しようとするところに︑その意図があったと見る見解もあった︒

第二次世界大戦以後・世界政治において︑非常に注早べき二つの重要なできことがあったが︑それはニュル・ノベ

ルク(Z⊆§置と東京戦犯裁判︑そしてECSCの誕生である︒前者は国際法の新しい章を開く基礎になったの

潮 闇i目匪暗 而「

謝h岬  

}

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(799) 機能主義理論 と太陽政策

163

であり︑後者は超国家嚢を象徴する国際地域馨の意味ある胎動である.個人を国際法廷に起訴し処罰する先例を残すよ︑つになったのも︑国際法の大きな革命であったのであり︑国家馨が国家主権の部分的な移転や著を通じて・独立主権国家の主権に制約を加︑又たのも︑国際政治における;の革命的な事件であった・=ハ世紀の独立毒国家の登場以後︑主権の制限や共有はタブ視されてきたのである︒

それでは︑超国家主義とは何を意味しているのであろうか?超国家主義とは・ω馨内の政策決定が・さまざまな形態の多数決の投票によって決定されるのであり︑②その決定は反対投票を投じた国家に対しても拘束力を持つものであり︑③個別国家でない︑その馨の行政府に決定された政策を執行する権限を付与し・ω個人や法人も超国家馨の決定に服従し︑⑤その欝の政策決定者は︑彼らが所属している国家や︑その他の如何なる外部勢力にも隷属されず︑決定者個人の見解と性向にしたがって投票し︑⑥超国家的国際馨は必要と状況に従って・権限を制限的ではあるが︑拡大できる立場にあるの(誓り︑⑦︑覆に︑超国家的馨から脱退するのは難し丸その撰の構成員は半永久的なものとして認識されている︒

世界.取初の超国家的馨であるヨーロッパ石炭鉄鋼共同体は︑四つの傘下馨として・行政機関として・共同管理庁(一︒一降叶出尋﹀霞9︒﹃9︑閣僚理事会(穿︒舞ζ≦三ω豊︑共同議会(︒§§﹀の曇ξ・そして・ヨー

(obΦOOoh一〇)共同管理庁は︑行政馨として︑核心的な役割をするのであり︑護員は九名で︑その任期は六年である・この機構の決定事項が加盟国の企業にそのまま適用されるという点では︑国際馨の歴史上では・革命的な発想であるといえる︒これは︑国家主権が限定的な分野において︑移譲あるいは共有された状態を意味する︒ECSC条約は百灰.鋼鉄共同市場の供給と監視︑生産の現代化の支援︑生産資源に対する平等な接近の保障関

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(soo)

税製による交易促進︑労働条件と勤労者の生活向上などに対する領域を管轄することになっている︒

閣僚理事会は・加盟国の重要な業務の調整と管理庁の決定嘉を承認する.共同議会は男の比重にしたがって︑

各加盟国から任命された七八名の議員によって構成されており︑共同管理庁を監視.管理する.加盟国が独自に任命

する議員は・彼らの政治的な性向と繕を見る視角に従って︑超国家的議会を形成するのである.ヨーロ.(蝋)司法裁

判所は六年任期の裁判官七名がECSC条約の公正な適用と︑企業と加盟国間に発生する紛争を担当している︒

充五二年七月に発効されたECSC条約は︑ヨ占ッパ統合のはじめての始動を土.喋するものである︒翌年早々︑

加盟国間で石炭および鉄鋼の共同市場が形成されたのであり︑域内の原資材の交易に対する関税と交易.更の制限など

が撤廃された・また・加盟国間の交易量の増加による経済的利益ばかりではなく︑社会福祉制度にも大きな影響を及

ぼすことになった・ここでの重要な事実は︑ECSCが緩やかな連邦形態の超国家的国際経済地域樗とヨーロッパ

経済統合の可能性を立証したという点であ鉾﹀特に︑ECscはヨーロッパ統ム.運動に極めて大きな影響と活気を提

供したのであり︑その可能性も高めたのである︒

ECSCに委ねられた超国家的な性格が実際に適用されるためには︑多くの問題点と難しさを残しているが︑運用

の妙を生かしてこれを克服することによって︑超国家的機構の性格を満たし︑ヨーロッパ英︒に多くの寄与をするよ

うになったのである︒

西ヨ占ッパにおいては︑経済を忠とする機能主義的発想が流行したが︑ヨーロッパ防衛のための討論もまた活

発であった・第二次大戦以後のヨ占ッパの現実は経済の再建と防衛網の難︑そのどちらにも無関心ではいられな

い状態であった・既に指摘したように︑個別のヨ占ッパ国家の単位が小さくて萎縮している状態から抜け出るため

には・経済統合と軍事同盟からその進路を捜し求めなければならない立場であった︒つまり︑軍事同盟体制が時間的

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(sot) 機能主義理論 と太陽政策

165

余裕を提供することによって︑経済統△・も成功裡に成し遂げられる︑という論理であった・ヨー︒ッパ防衛の象徴的

必要性は︑当時のヨーロッパ防衛共同体(国﹃8§∪Φ雪︒Φ・§馨身魯ρ譲)構相心にも内在されていた・ED

cは︑フ冒フンスの反対で挫折したが︑ブリュッセル条約(じd毎ωωΦδ⇒§ざ6ミ)によって創設された西ヨ占ッパ

連△口(≦Φω§口穿﹁8Φき9忌)が拡張され︑ドイツとイタリアが加盟国として追加されて西ヨi︒ッパ防衛体制が設置されたのである︒

西ヨーロッパ連△︒の設置を契機に︑ドイツは完全に主権を回復しただけでなく︑他の加盟国と平等の霧と権利を

鑓 鱗 韓 翰 轄 辮 鯵 嫁 擁 西 ド イ ッ の 軍 隊 が N A T ︒ 軍 に 編 入 さ れ る こ と に ‑ ・ て ︑

既に指摘したよ︑つに︑西ヨーロッパの安保問題は深刻であった︒充四九年にNAT・が創設されたのは・旧ソ連とドイッ軍国主義の復活に対するヨーロッパ諸国の恐怖と直結されている︒米国が主導して・西ヨ占ッパ同盟国家の加盟を強制したとい・つ説は︑その根拠が希薄であり︑特に︑イギリスとカナダが米国の西〒︒ッパ防衛体制への参加を誘導したかのよ・つに田心われる︒ヘンリ・キシンジャ丈寓Φ舅霞ω居9は当時のヨ占ッパの安保状況を次のように記述している︒

北大西洋条約欝(NATO)は︑米国とヨ占ッパを連携させる制度的な大きな軸になってきた・NATOが創立された当時︑ソ連の軍隊は分断されたドイツのエルベ江辺に集結していた・彼らの在来式兵力を持ってしても︑西ヨーロッパを進攻することが出来る能力を保有していると見られていたソ連の軍事体系は・早い速度で核武器の増強を企てていたのである︒冷戦期における西ヨ占ッパの安保は米国に依存していたのであり・冷戦

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(802)

以後においても・NAT・樗はまだそのような状況を反映していた.米国はフ一フン莇独島なヨーロッパ防

衛構想に反対していたのであり︑米国の将軍による統合命令体系を掌握していたのである︒

一九五︒年六月に勃発した朝鮮戦争は︑地域集団防衛体制(・費幕∪ΦhΦコ︒.紹.け.旦としての北大西洋条約機

構(NAT︒)を強化するもう;の触媒剤の役割を果たした︒当時︑朝鮮戦争は共産側が西側に加︑える世界征服の

初めの企てとして認識されていたのである︒

したがって・アジアの火花が間もなく︑ヨ占ッパに移って行くものとして見る危機感が存在したのであり︑その

ような状況はNAT︒を・その規模や組織の面で世界の軍事史において前例のない超大型の超国家的軍事同盟体制に

なるようにしたのである︒

厳格な意味において・NAT・はECSCのよ・つな超国家的国際地域驚に分類するのは難しいが︑その膨大でか

つ複雑な懇と政策決定過程は︑内容面において超国家的国際地域集団防衛体制の性格を持つものである︒そればか

りではなく・NATOは西ヨ占ッパの経済的繁栄に必要な平和と安定する防衛網を長期間にわたって提供すること

によって︑平和と繁栄の両方を提供したのである︒NATO創設四〇余年が経た後︑事務総長であったケリントン

( [O﹁匹Opゆ同同帥P簡四けOb﹁)は・〃如何なる人でもNAT・が第三世界次大戦を防止したことを証明することは出来ないが︑

鱒 鰻 鰯 籠 舗 緯 矯 碩僻 繕 讃 論 篠 跨 漁 "蒜 辱 轍 都

合に牽引車の役割を果たした︑と言っても過言ではない︒

(27)

(803) 機能主義理論 と太陽政策

167

五.ヨーロッパ共同体の政治的な意味

ヨーロッパ経済共同体(国⊆憎︒bΦ卿昌切︒︒路o量oOo日ヨ=鼻メ国国0)は︑ECSCの外相らが一九五五年シシリ島のメシナで︑追加的な経済協力方法を論議するなかで︑その誕生の糸・を見つけるようになった・交渉は継続され充五七年三月︑ロ←条約(日触Φ‑︒蔓︒笏︒量の調印によって︑ヨ占ッパ共同市場とヨ占ッパ原子力共同体(響﹃8§﹀量︒国pΦN堕︒︒ーコ騨︽葛⊆N鋤辞︒日)が発足するようになった︒同じ年に︑ECSCと国垂§・および共同市場

が合併することによって︑ヨーロッパ共同体が形成されるようになったのである︒

この馨は︑充六五年までそれぞれ異なる運営体系を維持していたが︑一九六七年七月に発効された合併条約によって︑里の行政餐を形成するよ・つになった︒たとえ法的に独立の馨ではあるが︑ECSCが設けた運営組織はEECの方に統ムロされた︒管理庁(爵げ﹀§号︒︒量・・ω9︑閣僚理事会(9§︒凌≦量Φご・共同議会(︒.塁ωω一︒口﹀ωωΦ邊㌔ヨーロッパ議会(南ξ§℃§ヨ旦と命名され︑司法裁判所(国§§︒.藁.州﹄口ω鉱oεなどは統合された︒

EECは充五八年から運営されるよ・つになった︒この欝は︑単純な関税同盟から出発したのではなく・最初から労働と資本の畠な移動︑交易と投資制限の撤廃︑および社会保障制度と政治統合を含む政治的問題の調整などを

最終的な目的にしていた︒EECは加盟国の指名した九名の委員会(︒§巨ω.・亘委員が運営することになっているが︑彼らは︑所属する自国を袋するものではなく︑独自にEECを代表する・国家を袋する馨は九名の責会と平行線上にある閣僚理事会(9ロ︒︒養曇ω亘で︑共同体と国家の政策を調整する・理論上・閣僚理事会は多数決で決定することになっているが︑フランスの反対で︑充六六年のルクセンブルクの妥協案によって・すべて

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の重要決定案件(重要事項)は全会一致制によって運営することになった︒

ヨ占ッパ議会は︑各国の議会で人・比例で選ばれたが︑死読年以後︑直接塁によって︑選出されたのであ

り・司法裁判所はEECとECSCの共同の裁判所になったのである︒それだけではなく︑充六五年の条約によっ

て︑執行委員会と閣僚理事会は既に指摘した三つの機構を管轄するようになった︒

EEC加盟の六ヶ国が︒ーマ条約を履行していた初期の環境は41常に良いものであった︒加盟諸国の経済と財政的

不均衡問題も予想とは異なり︑大きな障害要因にはならなかった︒四・・余りの加盟諸国の職業団体がそれぞれの利

益を図るために︑共同体の重要機構が置かれていたブリュッセルに袋を派遣するか︑あるいは霧所を設置してロ

ビー活動を行うような機敏性を示すようになった︒労働組合も労働者の利益を代弁するために︑新しい組織を結成し︑

企業主やこれを擁護する圧力団体に対処するための対策も展開した︒また︑曲辰民を袋する団体も例外ではない︒一

九六二年七月には・農産物共同市場を肇するための共同農業政策(CAP)が導入された︒それにも拘わらず︑E

ECは深刻な問題を抱いていた・そのなかで︑EECを最も困らしたのは︑国粋主義者で︑かつ強固な個性の所宴

であるドコール・フランス大統領の牽制心理の発動であった︒

彼はEECの政策決定方式から加盟国の拡大に至るまでの諸問題に干渉したのであり︑こ・つした彼の態度は︑彼の

執権期間に変わることはなかった︒たとえば︑ド〒ルはイギリスの加盟申請に対し︑継続的に渠口権を行使した︒

ドコールの後任者であったジョルジ・ポンピド(O興oΦqΦ勺oヨ℃己o仁)大統領が就任した後で︑ようやくフランスのE

Ec政策に変化の兆しが見え始めたのである︒死六九年三月︑ポ・/ピドの要請で召集されたハーグ会議で︑六ケ

国共同宣言文が採択されて︑EECの新たな転機が生まれており︑充七三年百に︑イギリス︑アイランド︑およ

びデンマークがヨーロッパ共同体の加盟国になることによって︑加盟国の数は九力国へ増加したのである︒

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(805) 機能主義理論 と太陽政策

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ヨーロッパ共同体の工業産︒㎜および曲辰産物の共同市場は︑急速な成長を見せた︒わずか茜年間(充五八⊥九七二)に︑EECと第三国間の交易が三倍増加した反面︑域内貿易は六倍以上に増加したのであり・充五八年EEC設置当時に三・%に過ぎなかった域内貿易総量が西年後である充七二年には五二%に迫るようになった・GNpは死五二⊥九七・年の期間に七・%の増加を見せたのであり︑実質購買力は年平均約四〜五%の増加を見せた・たと︑凡この時期が世藁済の活況期であったとしても︑ヨ占ッパ共同体の共同市場形成と関わりのない推移であった︑と曇庸︑えないだうつ︒量口︑つまでもなく︑ヨ占ッパ共同体共同市場の貢献度は決して過小評価することはできな

こ︑つした驚くほどの発展を成し遂げたヨーロッパ共同体も加盟国間の対立によって︑三・年が経った後も・貿易障壁を撤廃できない状態で響されてきた.粛に︑呆︑そして米国との貿易競争力を奮返そうとする新たな交易戦略を構想することが緊急の課題になっていた︒

ヨーロッパ統△.の核︑心的な課題であったヨ占ッパ連合条約は(国霞8Φきぎ言⇒①簿ざ一⑩鐙)と市場単一化の問

題は︑一九八六年二月︑単一ヨーロッパ条約(ω毒国§§﹀・叶)が締結された後・準備手続きが終わった一九八七年七月に発効された︒この条約は︑死九二年三月末まで︑財貨︑労働力・資本とサービスの流通において・加盟諸国間の国境を撤廃する.﹂とによって︑死九三年百からヨ占ッパが;の市場として統合する契機を作り

出したのである︒

ヨーロッパ共同体は︑多くの難しい問題に直面していたにも拘わらず︑これを忍耐と調整で克服し・ヨー︒ッパ統

ム.に蓬している︒ヨーロッパ統ム︒の魅力は非加盟国の加盟国への参加の現況からも良く現れている・ギリシャ(一

九八一)︑スペインとポルトガル(充八六)︑オストリア︑ブインランド︑およびスゥエデン(充九五)が加入す

参照

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Simon, Herbert A., (997, Administrative Behavior: A Study of Decision-Making Processes in Administrative Organizations,Fourth Edition, New York :

ぼすことになった︒ これらいわゆる新自由主義理論は︑

の主として労働制的な分配の手段となった。それは資本における財産権を弱め,ほとん