数学における動詞「おさえる」の意味・用法
-「気づかない」専門日本語語彙(4)-
佐藤 宏孝・花薗 悟
【キーワード】 留学生教育、数学教育、専門用語、専門日本語、気づかない方言
1.はじめに
佐藤・花薗 2009、2010、2011 で考察したように、数学には実際には専門日本 語語彙というべきなのにもかかわらず、これまで見過ごされてきたものが存在する。
たとえば、通常は一般的日本語語彙としてあつかわれるが、数学特有の意味・用法 をもつ次のような動詞である。
(1) a. 以上のことより、次の公式が従う。
b. ε= Min { b, (a+b)/(3b) } と置けば、ε>0で b+ε< a となるから、
c. この式の両辺のlog をとると、(1)式が得られる。
d. Anの挙動を上から押える量として上極限の概念がある。
これまで「従う」「置く」「得る」について一般的日本語語彙としての意味・用法 と数学で用いられる場合での違いについて調べ、数学における意味・用法が一般的 日本語語彙のものと異なっており、これら「従う」「置く」「得る」が「気づかない」
専門日本語語彙1ではないかということを提起した。またそのような異なりの大き さはそれぞれの動詞によって差があることも指摘した。
今回は、(1.d)の動詞「おさえる」をとりあげる。これまでに考察した「置く」
「得る」とくらべて、この数学特有の「おさえる」(以下、数学の「おさえる」)は 中学・高校の教科書ではまず用いられることはなく、専ら大学の教科書で用いられ るものである。そのため大学の数学に親しみがないものには日本人でも意味がとり づらいのだが、3章でそれがどのような意味・用法をもっているのかを詳細に提示 したい(佐藤担当)。なお、その前の2章で一般的日本語語彙として用いられる「お
1 「気づかない」専門日本語語彙という概念、またこれらの語彙が日本語非母語話者が数学を学ぶ 際のつまづきになっているのではないかということについては佐藤・花薗2010の第1章を参照 されたい。
東京外国語大学
留学生日本語教育センター論集 38 : 57 ~ 72, 2012
さえる」(以下、日常語の「おさえる」)を実例に即して考察する(花薗担当)。最 後に、4章でそれらの議論をふりかえることとする。
2.日常語としての「おさえる」の意味・用法 2.1 モノを おさえる
多くの辞書では、具体物を物理的に動かないようにするというのが基本的、ある いは出発点的な意味とされている。ただし、今回調べた小説や新聞の用例には「を 格」の名詞であらわれる動作の対象が具体物(モノ)であるものは多くなかった。
(2)a. さっそく、投げてみると、仕掛けがうまく遠くへ飛ばない。人さし指で
糸を押さえ、さおを振る時の糸の放し方のタイミングが大切で、このコツを飲 み込むのが難しい。(毎日)
b. 「…上向こうとする機首を抑えるため副操縦士が片手で操縦かん、もう 一方の手で自動出力装置を引き戻そうとしていたため手間取った」(毎日)
c. かるた姫がそでを押さえ、手の指をそろえて札に伸ばす優雅さに、初も うで客も魅了されていた。(毎日)
上のように具体物が動作の対象になっている場合には「で格」のかたちで、「 お さえる」ための道具が あらわれることが多く見られた2。
なお、国立国語研究所1972では、多くの辞書が「ものが動かないように」する というように規定していることを指摘ながらも、次のような例をあげ、
(3)a. 船底は白粉でもふりかけたように、下の結晶でキラキラ光った。水夫や
漁夫は両頬を抑えながら、甲板を走った。(蟹工船)
b. 駒子が叫んで眼をおさへたのと、ほとんど同じ瞬間のやうだった(雪国)
c. わざと悲鳴をあげ、弁当の竹の皮をかたはらに置いて、乳を押へた。(潮 騒)[国立国語研究所1972:452~453による。原文にa,b,cはなし]
2 (2)(5)(6)の諸例を参照。また、「おさえる」は奥田靖雄1967~1972で「ふれあい」(=接触)のむ
すびつきとされているが、これらは(義務的ではないにせよ)「接触のための道具をしめすで格の 名詞でひろげられている」とされている(奥田靖雄1967~1972:38)。
a.は厳寒の冬の海で寒さをふせぐため、b はものごとを見ないため、c では人か ら見られないためになされた動作であると指摘しながら、以下のように結論づけて いる。
(4)このように、「おさえる」という動作の目的は、対象であるものの動きをと めることに限定されるものではない。したがって、「ものの動きをとめるため に、ほかのもの(手など)をあてる、または(他の目的で)これと同じような 動作をする」とでも説明しなければならない。
(国立国語研究所1972:453)
今回見られたものでも上に引用にしたように、あるものの動きをとめるといった 例は少なく ほかの目的で手などをあてるというような例の方が多い。
(5)a. 受話器を片手で押さえ、種一は世にもアワレ、というような顔をして我々
を見回した。(新橋烏森口青春篇)
b. 伸子は両手で顔を押さえた。「私がこんなことを言い出したばっかりに…
…」(女社長に乾杯!)
c. 蘆田川の鉄橋を渡るときは、真の闇だから猿の四つ這いになって、枕木 を一つ一つ手で抑えて行きながら身を運んだ。(黒い雨)
(5.a)は受話器から声が聞こえないように片手で覆う、(5.b)は顔を見せないよう
に手で隠す、(5.c)は手でつかんで落ちないように手元を確かめるというほどの意味 であろう。また、次のような例もある。
(6)a. 私はまた手術室の前へ戻った。少しも眠くはならなかった。ただ呼吸の
苦しくなるような不安が胸を締めつけ、それは嘔気を催させた。私は上半身を 屈め、顫える手で口許を抑えていた。
b. …。そして周二は相手から手を離し、そのままおよそだらしのない姿勢、
下腹部を抑えるような恰好でその場にずるずるとうずくまってしまったので ある。(楡家の人々)
(6.a)は「口許」を「おさえる」ことによって「嘔気」をとめようとする、(6.b)
は「下腹部」を「おさえる」ことで「痛み」を弱めるといった意味をあらわしてい る。そして実際、この部分にあらわれる名詞が「下腹部」などの具体名詞から「痛 み」などの抽象名詞となれば、次節(2.2)であつかう“「コト」をおさえる”もの に移行するということになる3。
(7)…、医師の多くはモルヒネ使用に強い抵抗感を持っているようだ。(1)モ ルヒネの管理規則が厳しすぎる…(3)痛みだけを抑える医療では医師のプラ イドが傷つく――などの理由が挙げられる。(毎日)
2.2 「コト」をおさえる
2.1 の冒頭で述べたように具体名詞が「を格」にあらわれることは少なく、(7) で示した「痛み」のような抽象名詞によって修飾され、それらの「拡大・拡散」(あ るいは「縮小」)を止めるという例の方が数多く見られる。
感情・感覚 感覚・感情(「痛み」、「可笑しさ」「感慨」「感謝の心」「感情」「感動」
「気持ち」など)が拡大しようとするのを止めるという用例が存在する。
(8)a. 「穴があったよ」と私は傷の痛みを抑えながら下に向ってどなった。
(世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド)
b. ギリシア人たちは、口許にわいてくる笑いを押さえながら、傍観してい
た。 (コンスタンティノープルの陥落)
c. 一見、リラックスムード。だが、実はそうでもなかった。必要以上に高 ぶる気持ちを抑えることができず、横綱が落とし穴にはまった。(毎日)
d. …二派は完全に反目しあうことになった。一度表に出ると今まで両者と も抑えに抑えてきただけに膿が一度に吹き出した。(花埋み)
抽象的なことがら 次に示すものは抽象的なことがらの程度を弱める、動きを止 めるといったものであろう。
3 (2)および注2で示したように具体的動作の場合には「おさえる」ための道具があらわれることが
多かったが、抽象名詞があらわれると道具ので格名詞はあらわれにくくなるのではないかと思わ れる(「?痛みを手で押さえる、」)。ただし、「私は腹の傷を手で抑えながら、ベッドの上に身を起 した。頭の芯がずきずきと痛んだ」(世界の終り)と道具相当ので格があらわれているものがあっ た。「傷」や「涙」などは中間的な例といえるだろうか。
(9)a. たっぷり詰まったつぶしあんは抑えた甘さで、さっぱりした仕上がり
(毎日)
b. 通信社電を中心にして批判色を抑えた保守系紙を除き、各紙とも公然と 大統領批判を始めている。(毎日)
c. ひとりは農水省の担当局長で「ちょっと筆を抑えてくれないか」。「あん まり農水省がたたかれると、優秀な東大生が入省しなくなる」というのだ。
(毎日)
d. 「減感作療法と投薬により、症状はほぼ抑えられる」と語る。(毎日)
e. ただし、今の時期に寒い日が続いたり、雪が降ったりすると、開花が抑 えられて飛散数は少なくなる。(毎日)
f. 新党準備会発足による与党勢力への影響を最小限に抑える狙いもある。
(毎日)
g. …、エアコンを太陽光発電で動かせば、最大電力の伸びを抑えられる。
(毎日)
社会的なことがら(「流出」「混乱」「騒動」「暴動」「騒乱」「高騰」「低下」など)
の拡大や縮小を食い止めるばあいにも「おさえる」が使用されることがある。
(10)a. いくら金を出しても、うわさは抑えられない。(毎日)
b. 中国などから国内への破壊的な流入を抑える繊維セーフガード…(毎日)
c. 「…」と、将来像を描くことで不満を抑えている。(毎日)
d. ただ、短期間で犠牲を最小限に抑えるとの前提があったが…。(毎日)
e. 雇用保険給付や手形の不渡り猶予措置でなんとか暴発を抑えている雇 用不安。(毎日)
(11)の例は「ウイルスや細菌をおさえる」「米産業をおさえる」と言い換えること が可能で、2.3の「人・組織」へとつながっていくものと見うる。
(11)a. …。唾液は、食物を消化する働きのほかにウイルスや細菌の繁殖を抑え
る役目も果たしてくれているんですよ。(毎日)
b. …。自由化が進んでいる米国産業は競争力で優位に立っているが、欧州 は米産業の進出を抑えようと懸命になっている。日本は明確な態度を示してい
ない。(毎日)
数量をあらわすもの なお、修飾する名詞が、値段、価格、料金、~量、~度、
消費、増加、減少、成長など量や程度をもつ名詞である場合があり、やはりこれら が拡大(あるいは縮小)しようとするのをできるだけ少なくするという意味で用い られている。なおこれらの場合、「おさえた」結果が“に格”あるいは“と格”の 名詞であらわされることがある。
(12)a. アルコール度数を八%未満と抑えた。(毎日)
b. 日本ポラロイドはビジネス用途向けのインスタントカメラ「スペクトラ E」=写真=を3月1日から発売する。機能は利用度の高いものに絞り、[価 格を]低価格(2万9800円)に抑えた。(毎日)
c. …、政府は教師の給与引き上げを二・七%と抑えながら、事務次官など の給与を二五%上げ、…(毎日)
d. 強い放射線を中性子しゃへい材、ガンマ線しゃへい材など3重のカバー でしゃへいし、表面から1メートル離れて1時間立っても、胸部エックス線撮 影の1回分にも満たない0・1ミリシーベルト以下に抑えている。(毎日)
e. 中国は一人っ子政策で、人口増加を一・四%に抑えても二〇三〇年には 十六億人に達するとされている。(毎日)
f. 減歩率について、市は「できれば一ケタ(一〇%未満)に抑えたい」と している。(毎日)
ただし、数量をあらわす名詞でなくても以下のように程度が付加的にあらわされ るもの(いずれも「最小限に」というものであったが)もある。
(13)a. 「今世紀最大の洪水」ともいわれるにもかかわらず、各国は被害は最小
限に抑えられたという。(毎日)
b. …軍隊への危険が最小限に抑えられるなどの条件下なら軍の使用も考 慮されていい。(毎日)
c. 実際には暴動や略奪はなく、混乱は最小限に抑えられたが、その理由に ついて、地域住民・被災者の助け合いや連帯感の自然発生を挙げた人が圧倒的 に多かったが、…(毎日)
2.3 「人・組織」を おさえる
対象に人や組織をあらわす名詞が用いられているものがある。これらの場合は人 や組織の動きや言動などを制止するという意味となる。
(14)a. 統一党はこれまで、大統領派と連携して首相派を抑えてきたが、最近、
和平をめぐる路線対立から内部分裂。大統領派はこれに乗じて、一挙に首都全 域の制圧をもくろんでいる。(毎日)
b. もっとも、「戦藻録」二巻に見られる宇垣は、思慮の深さという点では、
少しどうかと思われるところもあり、山本に較べて、いい意味でも悪い意味で も勇み屋で、それを山本に抑えられていたように感ぜられないことはない。(山 本五十六)
引用節をともなった「~とおさえる」の形で出てくるものがある。
(15)a. 経理課長の安藤が思わず声を上げた。/「いや、大丈夫。社長は後のこ
とを放っておいて、そんなことをなさりはしないよ」/と抑えたのは、総務部 長の柳である。(女社長に乾杯!)
b. …仲間は二月三日から自主練習を始めた。「僕も早く練習を」。はやる気 持ちを察した平松正宏監督(34)は「練習はいずれできる。今は家の手伝い をしろ」と抑えた。(毎日)
なお、次の例は「を格」に人があらわれているが、「離党者の数」を出来るだけ 少なくするという意味であり、2.2でみた数量を「おさえる」ものだろう。
(16)村山富市首相は九日、同党閣僚、久保亘書記長ら党三役と相次いで会談し、
党内情勢の把握を急ぐとともに、離党者を最小限に抑えるための善後策を検討 した。(毎日)
2.4 その他の「おさえる」
「要点」をおさえる 「ポイント」「急所」「点」などの場合は、「要点をはっ きりと認識する」という意味で用いられている。
(17)a ..シリーズ第一作が上映されたのは一九六九年。四半世紀を経て、テーマ は一見不変のようでありながら、微妙に変わりつつある女たちの意識、家族観 を、さりげなく押さえている。(毎日)
b. ただ(1)捜査手法としての嘱託尋問までを否定しているわけではない
(2)最高裁が出した宣明に言及がない――点は、大法廷判決の当否を含めた 論議のうえでは、押さえておくべきだろう。(毎日)
c. 行政統一コード(国民総背番号制)導入構想は野党、労働界の「個人情 報がボタン一つで行政側に押さえられる。国家による国民管理だ」との反対に あって挫折。(毎日)
「確保・獲得する」 「部屋をおさえる」「会議室をおさえる」のように何かを 確保するというという意味で用いられているものがある。
(18)a. 一九九一年のドゥダエフ政権登場以来、このルートを同政権に押さえら
れてしまった。(毎日)
b. 甲南大(神戸市東灘区)は、合格発表前に法人契約でマンション(約七 十室)を一棟丸ごと押さえた。今春で廃業予定だった近隣の下宿(約四十室)
にも頼み込み、受け入れが続行されることになったが、まだまだ数は足りない という。(毎日)
c. …同氏は、政権の座に就いてからもテレビ網支配の拡大を試みた。同国 の主要全国テレビ七局のうち三局を押さえたフィニンベストは、競争関係にあ る国営三局をも支配下に置こうとした。(毎日)
d. 東南アジアを日本企業に抑えられた米国はインド市場の獲得に懸命。今 年一月、ブラウン商務長官が財界人二十余人を伴って訪印し、経済関係を強化 することで合意した。(毎日)
ただし、上のような場所だけでなく、組織や具体物が現れている例も見られた。
(19)a. …。いずれも社共共闘が押さえていた自治体だ。ここを奪還することが
自民党の悲願で、自治省もこの作戦に協力していたのだ。(毎日)
b. 「彼の父を押さえれば五票にはなる」。県職員の招致委事務局員は、そ う言った。(毎日)
c. 今回の米仏スパイ事件騒ぎについても「スパイ活動の疑いがあっても証 拠を押さえるのは大変で、日本で仏のような摘発をすることはまずない」
(毎日)
d. さらに、神戸港には多量の空コンテナが残されたままで、他港のコンテ ナ不足が目立ってきた。せっかく船を押さえても、コンテナがないばかりに思 ったように積み込めないという不安が出てきた。(毎日)
以上、日常語の「おさえる」について概観した。次の章で述べられる数学におけ る「抑える」は上で述べたものとは全く異なった意味・用法で用いられている。
3.数学の「おさえる」の意味・用法 3.1 数学の「おさえる」の意味
数学の「おさえる(押える)」は、調べたい数学的対象の大きさを既知のものとの 比較によって表すときの表現である。たとえば、調べたいものXが3という数よ りも小さい場合、すなわち不等式によって、X < 3 と表されるとき4、
(20) Xは3で上から押さえられる
と表現される。一般に、Xが既知の対象(たとえば定数)Gを用いて、X < G の ように大きさが限定されるとき、
(21) XはGで上から押さえられる
という。同様に、X > G のときは、
(22) XはGで下から押さえられる
と表現される。
数学の「押さえる」の用例を、わが国の大学1、2年次微積分学の授業で教科書 としてよく使われる杉浦光夫1980,1985から挙げてみよう。
4 等号つき不等号でX ≦ 3 と表される場合も同様。
(23)従って任意のKに対して
となる。右辺第一項はKと無関係な定数、第二項は(1.18)により定数Cρで上から 押えられる(杉浦光夫1985 :73)。
これは、右辺第二項であるC
M 1x dx が定数Cρによって
のように表されるという意味である。
(24) { an }n∈N の挙動を上下から押える量として、上極限、下極限の概念がある
(杉浦光夫1980 :363)。
{ an }n∈N は数列a1, a2, a3, ・・・, an, ・・・を表している。この数列の「挙動」
とは、a1, a2, a3, ・・・, an, ・・・がどのような値をとって変化するか、その変化 の様子という意味である。それがどのような範囲に限定されるかを示すことを「上 下から押える」と表現している。つまり、「{ an }n∈N の挙動を上下から押える」と は、anをある既知のものL、Gによって、
L < an < G のように表すことである。
(25) これは各f によるKの像 f(K) が有界で、しかもその絶対値がすべての f
に共通な定数Mで上から押えられることを意味する(杉浦光夫1985 :370)。
この例も端的に不等式で表せば、|f(K)|<M が成立するということを表現して いる。
次の例は、調べたい対象の大きさを限定する既知のものが定数でなく、より複雑 なものとなる例である。
(26)二項定理により(1+x2)N は xt の形の項の有限一次結合となるから、p(f) はqt(f) の正係数有限一次結合で上から押えられる(杉浦光夫1985 :145)。
この場合、調べたい対象p(f) が「qt(f) の正係数有限一次結合」を用いて
p(f) < [qt(f) の正係数有限一次結合]
なる不等式によってその大きさが限定されることを意味している。
なお、杉浦光夫1980,1985にはなかったが、「下から押える」という表現もしば しば使われる。次にその例を示す5。
(27) この時、数列 bn は次のように下から押えられる
e-3αn < bn
このように数学の「押える」は、調べたい数学的対象の大きさを不等式によってあ る範囲に限定することを表すときに使用される表現である。
3.2 数学の「押える」の用法
3.1で見た5例の「押える」はすべて「上から」「下から」あるいは「上下から」
(「から格」の名詞)を伴っていた。通常この形で用いられるが、次の例のように
「押える」が単独で使われることもある。
(28) εが不等式 ε1/m < 1/ 9 を満たすならば、|ζ|は次式で押えられる
|ζ|< 2 e [ e 3 1
1
+ 3
) 3 1 (
16 e e
]
この例は、|ζ|の大きさを上から押えているのであるから、「|ζ|は次式で上 から押えられる」としてもよいのであるが、単に「押えられる」と表現されている。
上述のように、ある数学的対象 Xを「押える」とは、Xの大きさを不等式によ ってある範囲に限定することを意味するのであるが、何によって限定するかを示し たいとき、(23)(25)(26)のように
(29) AでXを上から(下から)押える
5 (27)はGoogle Scholar を検索して得られたものである。以下出典を示さぬ場合はGoogle Scholar
による。
と表現される。これは不等式で表せば、X < A ( X > A ) ということである。こ
のAは(23)(25)のように定数の場合もあるが、(26)のようにより複雑なものである
場合もあり得ることはすでに述べた通りである。
3.3 類語「評価する」
一般に不等式を用いてあるものの大きさの範囲を限定するとき、もっとも普通に 使われるのは、
(30) 命題1により次の不等式が成立つ
Jn ≦
KC z dz(杉浦光夫1985:245)
のような表現である。これは「押える」を用いれば、
(30′) 命題1により Jn を上から押えると、
Jn ≦
KC z dz となるとすることもできるのであるが、さらに、次のように「評価する」という語を使う こともできる。
(30″) 命題1により Jn を上から評価すると、
Jn ≦
KC z dz となるこの「評価する」は「押える」とほぼ同じ意味である。すなわち、X < G のとき、
(31) XはGで上から評価される
という。
次の例はこの二つの動詞がひとつの文中に現れる例である。
(32) この式の第3項は
ηα ≦ (M1 + M2)Tr(B1)
と押えられ、結局次のように評価される
Tr(B1) ≦ M1 + C Tr(B2)
この例において、「押えられ」と「評価され」とを交換して、
(32′)この式の第3項は
ηα ≦ (M1 + M2)Tr(B1)
と評価され、結局次のように押えられる
Tr(B1) ≦ M1 +C Tr(B2)
としても意味は変わらない。したがって、この文におけるこの 2 つの動詞の意味 は同じであることがわかる。
また、「評価する」は「上から」のみならず「下から」とも一緒に使われる点で
「押える」と同様である。たとえば次のような例がある。
(33)cosφ が次のように下から評価されることに注意する
cosφ≧C Tr(B)
3.4 「押える」と「評価する」の辞書の扱い
数学の「押える」と「評価する」は意味・用法においてほとんど同じであること は上に述べた。しかし、この二つの語の辞書の扱いには違いがある。
数学の「押える」の意味は国語辞典でも専門用語辞典でも調べることができない。
国語辞典には数学で使われる場合の意味は書かれていないし、専門用語辞典には
「押える」の項目はないからである。
一方、数学の「評価する」は、たとえば小松勇作1979にはでており、「evaluate,
estimate」となっている。しかし、文部省1954には載っていない。従って「評価
する」は狭義の専門用語ではないが、それに準ずる語として考えられているといえ よう。
4.まとめ
3で見たように、数学の「おさえる」は日常語の「おさえる」から遠いものであ ったが、構文的にも違いがある。すでに述べたことだが、(23)~(27)が示すよ うに、数学の「おさえる」の場合、「上から」「下から」「上下から」という「から 格」の名詞が必須補語としてあらわれる。
(34) { an }n∈N の挙動を上下から押える量として、上極限、下極限の概念がある。
(=(24))
ただし、これも先に言及したが、次の(35)のように「から格」の名詞が省略 される場合もある。
(35) εが不等式 ε1/m < 1/ 9 を満たすならば、|ζ|は次式で押えられる
|ζ|< 2 e [ e 3 1
1
+ 3
) 3 1 (
16 e e
](=(28))
一方、2でみたように、日常語の「おさえる」には「から格」の名詞が補語とし てあらわれてくることはない。これは、3で論じた数学の「おさえる」が日常語の
「おさえる」とは全く異なることを示すひとつの証拠といっていいだろう。
本稿の冒頭でも述べたように、「おさえる」という動詞は、数学に親しみのない
日本人にはやや理解に困難を伴うところがある。ただし、数学を勉強している外国 人留学生にとってこの表現が必ずしも理解困難かどうかは確かめていない。不等式 の示す内容を理解しながら「おさえる」を見るとき、上下に広がる可能性のあるも のを上あるいは下から動かないようにとどめるという意味の理解は、外国人学生に とってそれほど難しいものではないのかもしれない。今後もこのような数学におけ る「気づかない」専門日本語語彙についての記述を続けていくつもりであるが、学 生にとってどれほど理解が難しいか、あるいはそれほどではないかという観点を取 り入れていく必要があるだろう。
資料一覧
≪小説≫赤川次郎『女社長に乾杯!』新潮文庫/阿川弘之『山本五十六』新潮文庫/ 安部公房『砂の女』新潮文庫/有吉佐和子『華岡青洲の妻』新潮文庫/石川達三『青 春の蹉跌』新潮文庫/井上靖『あすなろ物語』新潮文庫/井上ひさし『ブンとフン』
新潮文庫/五木寛之『風に吹かれて』新潮文庫/池波正太郎『剣客商売』新潮文庫/ 遠藤周作『沈黙』新潮文庫/大岡昇平『野火』新潮文庫/川端康成『雪国』新潮文庫 /開高健『パニック・裸の王様』新潮文庫/沢木耕太郎『一瞬の夏』新潮文庫/塩野七 生『コンスタンティノープルの陥落』新潮文庫/椎名誠『新橋烏森口青春篇』新潮 文庫/曾野綾子『太郎物語』新潮文庫/田辺聖子『新源氏物語』新潮文庫/立原正秋『冬 の旅』新潮文庫/高野悦子『二十歳の原点』新潮文庫/福永武彦『草の花』新潮文庫 /藤原正彦『若き数学者のアメリカ』新潮文庫/星新一『人民は弱し官吏は強し』新 潮文庫/松本清張『点と線』新潮文庫/三島由紀夫『金閣寺』新潮文庫/水上勉『雁の 寺・越前竹人形』新潮文庫/三浦綾子『塩狩峠』新潮文庫/三浦 哲郎『忍ぶ川』新 潮文庫/村上春樹『世界の終りとハ-ドボイルド・ワンダ-ランド』新潮文庫
≪新聞≫『毎日新聞データ集 '95』日外アソシエーツ[花薗と毎日新聞社との契 約により使用]
≪数学教科書≫杉浦光夫 (1980)『 解析入門Ⅰ』/同 (1985)『解析入門Ⅱ』東京 大学出版会
参考文献
奥田靖雄(1960)「を格のかたちをとる名詞と動詞とのくみあわせ」
(言語学研究会編1983所収)
――――(1967~1972)「を格の名詞と動詞とのくみあわせ」
(言語学研究会編1983所収)
北原保雄編(2002)『明鏡国語辞典』大修館書店
言語学研究会編(1983)『日本語文法・連語論(資料編)』むぎ書房 小泉保ほか編(1989)『日本語基本動詞用法辞典』大修館書店
国立国語研究所(宮島達夫)(1972)『動詞の意味・用法の記述的研究』秀英出版 小松勇作編(1979)『数学英和和英辞典』共立出版
佐藤宏孝(2005)「数学における専門日本語語彙の分類」
『専門日本語研究』第7号 専門日本語教育学会 佐藤宏孝・花薗悟(2009)「数学における『従う』の意味・用法」
『留学生日本語教育センター論集』35東京外国語大学留学生日本語教育センター 佐藤宏孝・花薗悟(2010)「数学における『置く』の意味・用法」
『留学生日本語教育センター論集』36東京外国語大学留学生日本語教育センター 佐藤宏孝・花薗悟(2011)「数学における『得る』の意味・用法」
『留学生日本語教育センター論集』37東京外国語大学留学生日本語教育センター 文部省(1954)『学術用語集 数学編』 大日本図書