英語 と日本語 をめ ぐる認識 と借用語
金 谷 良 夫
西洋語 としての英語 と非西洋語 としての 日本語 とは、言 うまでもな くかな り異 なっているにもかかわ らずそれぞれ美 しく、すぼ らしい言語である。それは、話 し言葉 としても文章言葉 として見て もしか りである。だが、言葉は変化するもの である。今、 日本語のなかに外国か らの借用語が彩 しく入ってきている。所謂、
外来語である。 これは世界のグローバル化 にともなった時代の要請か らなのか、
また避けがたい社会現象 として見 られ る所以なのか、 日本語 のなかにさまざまな 国々の言葉‑ ことに国際語 もしくは 「普遍語」 と言 ってよい英語か らの借用語 が 日々絶えることな く使用 されているのが2010年の状況である。同時に、以 前にも増 して、 日本語のローマ字表記の表現同様、英語 を片仮名表記する表現が 著増 している。反面、 日本人は依然 として 日本は特別な国だ と考えている人が少 な くないことも否めない。本誌の第13号の拙稿 「英語、英語習得、そ して和製 英語 に見 る一視点」において、 日本語のなかで英語や和製英語の使い方 について 注意すべき点 を指摘 したが、本稿 においては、英語 と日本語 について どう認識す べきか、また一つの提言 として 日本語の美 しさを保つために、英語の誤 った発音 や語法に基づいた数多の借用語 を改めるべきであるということを述べたい。
まず、 日本 においては英語 も日本語 も重要な言語であ り、 日本人は 日本語 と英 語 とをきちんと学ぶ必要があるということを敢えて強調 したい。 日本人は相即不 離の関係 にあ り、アイデ ンティティの形成の役割 を果たす 日本語習得は不可欠で あ り、その上また英語は今唯一無二の世界語 と言 ってよいか らである。作家水村 美苗 は、そ の著書 『日本語 が滅び る とき‑ 英語 の世紀 の 中で』 (筑摩書房、
2008年)において 「イ ンターネ ッ トという技術の登場によって、英語はその
<普遍語> としての地位 をよ り不動にしただけでな く、 これか らもずっと英語の 世紀のなかに生き続ける。英語の世紀は、来世紀 も、来々世紀 も続 く。英語 と英 語以外の言葉を隔てる言葉の二重構造は、今世紀だけでな く、来世紀 も、来々世 紀 も、その先 も、多分ず っと続 くのである」 と述べ、英語の必要性 を強調 してい る。また、水村は、『日本経済新聞』(2009年10月15日付)において、「日
本譜の読み書 きが しっか りできない人の読み書 きす る英語はだめ」だ と述べ る。
さらに、 「世界史 における日本語の使命」 (『ユ リイカ』第4 1巻第2号、青土社、
2009年) において、 日本 における英語 と日本語 との重要性 を述べて いる。つ ま り、「日本語バ ンザイ」ではな く、日本人全てが英語ができる必要はない し、「英 語の世紀 に入 った」 とはいえ、 日本人はまず 日本語ができるべきだ という認識が 必要で、それ を踏 まえた うえで、少数ではあって も十分な数の優れた く二重言語 者) を育てなければな らない。 この二つは、 どち らも急務であ り、 しか も表裏一 体 の関係 にあるというのである。 これはまさに一面では的 を射ていると言わざる
を得ない。
だが、他面か ら見れば、優れた英語 の習得者
(
「二重言語者」)が必要なだけではな く、政治家、企業の トップ、知識人、芸術家、音楽家、俳優、あるいはスポー ツ選手な ども普通 の英語力‑ ことに会話力は習得す る必要があるだろう。 また、
大学で英語 を選択す る者 も英語 力をつける必要があるのは、草の根 の英語力も無 視できないか らである。二重言語者 とは ここでは 日本語 と英語 とを駆使できる者 を言 う。そ して、二重言語者 にな らな くとも、グローバル化が深化す るなかで生 きざるを得ない 日本人は、他の言語 を有す る国々の人々 とのコミュニケーシ ョン をとる場合、英語 という媒体 を避 けて通 ることはできない。加 えて、 日本は もは や孤立 した特別な国 としては存在 し得ない。それは、端的な例 を示せば、言 うま で もな く食料 自給率の極端な低 さであ り、天然資源 の乏 しさ所以である。
日本人は現在、世界のなかで コミュニケー シ ョンの手段 として英語 を使 うこと を余儀な くされているにもかかわ らず、そ うしたコミュニケー シ ョン能力をもっ ているとは言 い難 い。英語 に纏わ る英語教育 について、猪 口孝 (新潟県立大学学 長)は、『日本経済新聞』(2010年2月22日付) にお いて、 日本人の多 くは いまだに 「徳川モデル」で生きていると指摘す る。 「英語教育の鎖国」をす る 日本 は 「5年以内に脱却 を」すべきだ と提案 している。猪 口は、その論点のなかで、
国の内外 を問わず、通訳や翻訳 に頼 り切 った多国間交渉 の場裏 における 日本人が 世界の リーダー的存在 になれないのは 日本がそ うした 「通訳任せの組織上層部」
という構 図になっているか らであ り、そ うなれば結局世界か ら日本人は 「締め出 し」を招いて しまうと警鐘 を鳴 らしている。すなわち、「経済や金融や技術 の展開 は、地球規模でなされている度合 いが当然 になっているのに、その地球的展開の
媒体である英語 を、 こんなにまでいい加減 に扱 っている 日本人 に罰が当た らない か。必ず しっぺ返 しが来 るのではないか」 と、 日本 の前途 を憂慮 していると言 っ てよい。現 に、経済や金融 を例 に取れば、 この ところのアメ リカのプライム ロー ン問題 に端 を発 し、 リーマ ン ・ブ ラザーズ社破綻、 ドバイ シ ョック、ギ リシャの 財政不安、スペイ ンの経済力の弱体化 というよ うな問題は一瞬のうちに世界経済 に影響 を与えて しまっているのだ。 日本人特殊論 について言えば、エ ドウィン ・ ライ シャワーが四半世紀 も前 に指摘 した 日米関係の不均衡 に関 して言及 した米 日 財 団理事長 のジ ョー ジ ・パ ッカー ドは、 「日本人特殊論はやめよ」 (『朝 日新 聞』
2010年2月17日付) と提言 している。加 えて、その間題 の要因は、一貫 し た外交政策 の目標がない政治や有能な政治 リーダーが 日本 にいない という政治家 としての資質だけでな く、 日本人は 「日本語 の壁の中で暮 らしているか ら、他国 民は 日本人の考 えを聞 くことができな く、 「国際舞台で堂 々 と英語 による議論が できるリーダーが各界 にぞ ろぞ ろいる国にな らない と日本は危 うい」し、また 「米 国の公用語だか ら押 しつけているのではな く、世界言語たる英語 を駆使 しては し いか らだ」 と述べている。 ライ シャワーは、1988年 にすで に 『今 日の 日本人
‑ 変化 と継続性』 (ハーバー ド大学ベル クナ ップ出版局) において、 「日本は表 面上では驚 くほど国際的な国であるが、その世界的な輝 きも水面下では孤立 した 内向的な国だ」 と述べている。 こうした問題は国が無策だったか ら解決 していな いのか。かように、 ここで取 り上げたその英語 と特殊性は、まさに古 くて新 しい 問題その ものなのである。だか らこそ、敢えて再び ここで強調 しておきたいのだ。
日本人は、そ うした問題 を真剣 に受け止め克服す ることを強 く認識す る必要 に迫 られているのである。
次 に、 もう一つの トピ ックは、 日本語 における英語か らの借用語 の使 い方 に関 して考えることだ。先 に触れたよ うにもはやグローバル化が深化 している以上、
日本人は 日本語のなかに借用語が入 って くるのを食 い止めることはできないのは 自明の理である。た とえば、「イ ンターネ ッ ト」や 「コミュニケーシ ョン」という 単語は他 の言葉 に置 き換 え られないだろう。逆 に言えば、た とえばマ ンガ、アニ メ、 フ トン、 トー フな どは完全な英語 の語柔 として市民権 を得ていることも事実 である。 したがって、今、元来 日本 になかった語嚢 を外国か ら取 り入れざるを得 ないため、 ここでは借用語 を使 うべきではない ということを述べているのではな
く、使 うか らにはそ うした表現 を適切 に使 うべきだ と提言 しているのである。
これに関する問題点は、大別 して三つある。 こうした三つの点は、厳密に言え ば、美 しい日本語 を損なうことになるのではないか。 さて、第一は、発音による 問題、第二は語法 による問題、そ して第三は英語の発想か ら歪め られた問題であ る。 日本人にとって、英語の発音は 日本語のそれ とは極端 に異なるため、通 じる 発音をすることは容易ではない.発音は英語のネ‑ティブスピーカー と同じでな くてもよいが、言 いたいことが完壁 に相手に通 じな くてはな らない。その意味で は、早いうちか ら通 じる発音の練習 をしたほうがよいのは当然である。だが、現 状では依然 として 日本人の多 くの発音は良いとは言えないだろう。その影響か ら なのか、英語の発音が誤 って発音 された単語や フレーズがそのまま借用語 として 日本語のなかで政雇 していると言 うことができる。だだ し、埋っておきたいのは 日本語で表現する借用語の発音はむ しろ英語流の発音 にする必要はないことであ る。 日本でた とえば文章を読むとき借用語のみを元の言語の発音で表現するのは 違和感があるか らだ。話 を元 に戻せば、一旦誤 ったそ うした表現が定着 して しま うと、人はそれが誤っていようと何の蹟蹄 もな く当然のことと見徹 して使 うもの だ。それは一種の思い込み と言 ってよい。思い込みによって人は真理を見失って しまう。思い込みの強い人はどそれを捨て られないのだ。だか らこそ、今、そ う して間違 って使用されている表現を改めるべきなのである。
ここで誤った発音 (時には故意 に発音 を変 えたのかは不明) を基 にした英語か らの借用語である第一の問題の適例は、生涯、経歴、職業 を意味する 「キャリア」、
および許容 を意味する 「キ ャパ シティ」である。元の英語の発音 を実際の昔通 り にここで書 くのは難 しいが、それぞれ 「カ リア」、「カバシティ」である。別な例 を引けば、テ レビの 「ニュース」、料理用の 「オーブン」、滑 らかな という意味の 「ス ムース」、野球の 「チーム」や 「メジャー」リーグ、旅行 の 「ツアー」を、正 しく 順を追って言えば 「ニューズ」、「アブン」、「スムーズ」、「ティーム」、「メイジャー」、
「トウア‑」となる。 「メジャー」は巻尺 として も使 っているが、これは英語の元 の発音に極めて近い。撮影室の 「スタジオ」、フッ トボールの 「スタジアム」はそ れぞれ 「ステ ウ‑デ ィオウ」、「ステ ウ‑デ ィアム」のほうがよい。選考の結果が 与え られる賞は 「アワー ド」ではな く 「アウォー ド」であ り、「アワー ド」と聞 く と強い違和感 を覚える。専門家の 「エキスパー ト」は 「エクスパー ト」のほうが
よい。シャツに 「アイ ロン」をかけるのと、ゴル フの 「アイアン」は元々同じ綴 りで同じ発音である。最 も奇異な例は、アメ リカのノーベル賞受賞作家 トニー ・ モ リソンの作品Beloved(『ビラビッ ド』) を 『ビラブ ド』 と一時訳 していた (後 に 直 した)が、 これは明 らかに 「思い込み」 による誤った発音に由来する。『ブ リタ ニカ国際大百科事典』 (200 7年)の電子版ではいまだに 『ビラブ ド』となって いる。 もちろんその発音は間違 いとは言えないか もしれないが、普通、そ う発音 しない。『例文で読むカタカナ語の辞典』(小学館、1998年)に、ボタン、スナ ッ プなどで取 り外 しのできる襟の意味の 「アタッチ ド ・カラー」 という単語が出て いるが、正 しい発音は 「アタッチ ト ・カラー」である。 これ も間違った発音 に由 来する。確かに細かい表記では紛 らわ しいという問題が発生するか もしれないが、
正確な発音に近いほうがよいのである。因みに言えば、実際、 日本人は英語以外 の言葉を発音するさいその国の発音 を尊重する傾向にあるのではないか。本稿で は人名・地名等の固有名詞は中心に扱 っていないけれ ど、フランスの 「パ リ」を 「パ リ」、イタ リアの 「フィレンツェ」を 「フィレンツェ」というようにしてきたはず である。ただ、最近ではかつて 「アンチーク」だったのをよ り正 しい 「アンティー ク」 というよう.に発音 し、書 くという動きはあるにはある。第二の問題は、文法 の誤 りか らくる表現だ。誤 った語法 として、単数 ・複数を顧みないことである。
具体例 をみると、テニスやバ ドミン トンなどの試合 を 「シングルス」 と言 うが、
一方ではフイギ ア ・スケー トのそれ を 「シングルス」 と言わず、 「シングル」 (英 語 ではsingles「シングルズ」)と言 って いる矛盾がある。また、場所 の名称は
「
〜 ヒルズ」と複数で言 う場合が多いけれ ど、オ リンピックの試合を 「オ リンピッ クス」 とは言っていないという、有機的でない歯摘吾が発見できる.首尾一貫 した 表現 を使 うべきだろう。他 の問題 として、動詞 「エ ンジ ョイ」を名詞 のよ うに「エンジョイする」と表現する。 この類の例は、他 に、「アナウンスする」、「イ ン ス トールす る」、「エキサイ トする」、「得 る」の意味の 「ゲ ッ トす る」、「保つ」の 意味の「キープする」(確かに古 くは名詞 もあったが、発想は動詞だ)、あるいは「ギ ブアップする」というように理にかなっていない使い方 をしている。throughは前 置詞 ・副詞 ・形容詞だが 「スルーする」 というように使 う場合がある。 これでよ いのだろうか。最後 に、第三番 目は表現 自体が奇異な ものである。具体例 を見て みよう。パネルデ ィスカ ッションの 「パネ リス ト」を、英語では存在 しない 「パ
ネ ラー」と表現す る問題が適例である。土壇場でキ ャンセルす る ことを俗語で 「ド タキ ャン」 と表現す るが、 これは 日本語 と英語 とを組み合わせた短縮和製英語だ。
まさに拙稿 「英語、英語習得 、そ して和製英語 に見 る一視点」で述べた和製英語 の例だ。 「テ レビ」は 「テ レビジ ョン」の略で あ り、日本人が長 い言葉 を省略す る 傾 向にある ことの具現化だ。現在頻繁 に使われ るエ コロジー の 「エ コ」、ナ ビゲー ターの 「ナ ビ」 もそ の類だ。他 の例 として、 ドイツ語 と英語 とを組み合わせて作 られた 「フリーター」の語源 の例 を見れば 明 らかだが、そ うなるともう非常 に奇 怪 と言 うよ り、む しろ愉快 と言 える。上記 の三つの問題点 を含 む具体例は枚挙 に 蓮がない。固有名詞 についてはなお さ らだ。今 こそ、正 しい使 い方 をす る方 向へ 転換 しないと、人が忘れ物 をしてそれ を家 に取 りに戻 る ことが遅 くなれば な るほ ど、それ を取 りに戻 るのにそれだけます ます時間がかか るよ うに、正 しい使 い方 の原点 に戻 る ことにもそれだけ時間がかか る ことにな るので ある。過つは人の常 であるがゆえに、過 ちては則 ち改む るに憧 る こと勿れで ある。
美 しい英語 も 日本語 もそれぞれ時代 の流れ とともに変化 しているが、必ず しも 正 しい方 向へ向って いるとは限 らな い面がある。われわれは時代 によって、国際 語 としての英語習得 の必要性や 日本語 における言葉 の変化 の要請が あれば 、それ に従わざるを得 な くな るとい う認識 をもたねば な らないだろ う。 さ らに、 日本語 とはかな り異なる英語 を習得す るためには、われわれ 自身の考 え方や発想 を変 え なければないだろう。そ して、 日本語 をきちん と学ぶ とい う認識 をもたなければ な らない。換言すれば、グ ローバル化 の流れ に逆 らうことは難 しい し、多 くが、
借用語 として新 しい表現 を使 って いればその誘惑 に打 ち勝 つ ことも難 しいか もし れないが、その変化が誤 った方 向に変化 して いるとすれば、方 向を修正 し、整合 性 のある表現 にすべ きなので ある。