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「中間言語」という「国語」日本とエジプトにおける国語認識をめぐって

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(1)「中間言語」という「国語」 日本とエジプトにおける国語認識をめぐって ア-デルアミンサーレ. 【キーワード】中間言語・国語改革・アラビア語・言文一致運動・ ダイグロシア. はじめに;. 「中間言語」の仮説. 本稿は、拙著『エジプトの言語ナショナリズムと国語認識一日本の国語形 成を念頭において-』. (1)の中で、エジプトにおける国語近代化過程の分析. 研究から帰納した「中間言語(=言語の標準化). 」という概念を適応して、 「言文一致」の形をとった日本の言語改革を分析することを目的としたも. のである。まず、. 「中間言語」とは何か、について定義するならば、主と. して書き言葉として使用される伝統的言語である文語と民衆の日常生活で もっばら話し言葉として用いられる口語との中間に創案される言語のこと である。エジプトと日本の国語近代化においては、伝統的且つ上位言語で ある「文語」と下位言語である一般大衆の生活言語「口語」の両者の間に は大きな言語の隔たりがあり、この隔たりを接近させ、書き言葉としても、 また同時に話し言葉としても意思疎通が成り立たせることが出来る言語と して「中間言語」が創案された。これの「中間言語」は、従来の「文語」 よりも簡易化され、'. 「俗語」よりも洗練されたもので、語桑、語法におい. ても近代化を達成した西欧言語の翻訳調の表現を取り入れた点では、 洋文明」を取り入れる枠組みとして遥かに適し、. 「西. 西欧の近代思想概念を紹. 介するに当たって大きな貢献をなした。日本・エジプト両国における近代 的な「国語認識」においては、口語的な表現形式が主役となり-、伝統的な 文語、古典語は脇役に追いやられる結果となったが、しかしながら、 紀に入ってから、両国で試行された言語改革は、ヨーロッパに見られるよ うな「俗語改革」による国語の成立ではなく、単なる話し言葉を国語とし た「言文一致」形態でもない。この点が本稿において注目したい重要な論. -3-. 20世.

(2) 点である。両国の場合、短期間の内に-.般大衆を啓蒙、育成することを目 的に、読みやすい「言文一致体」に続き「中間言語」としての国語が創案 されたが、同時にそれと平行して公官庁で使用される公用語として従来の 「文語」が残存したのである。エジプトのことは勿論、日本の場合でも近 代化が進んだが、両国民の言語意識を支配してきたのは、このような「ダ イグロシア(二言語併用). 」的な言語状況であった。. (2)とりわけ、古び. 」 た変種としての伝統的な「文語-(古典アラビア語フスハ-と漢文訓読体等). と「口語(アンミ-ヤと俗語、後に言文一致体に変身-). 」の両者が併用. され、社会機能によって使い分けられたきた。この事実を前提として、日 本とエジプトでは起こった「言語改革」とは、如何なるものであったか、 を論考することとする。 この仮説「中間言語」は、国民国家を成立させた近代フランス語・・ドイ. ツ語・スペイン語などの西欧をはじやとして世界の多くの地域で起こった 話し言葉を基礎として確立した`national. languageーとは異なり、アラブ. 諸国、日本、ギリシア、トルコなどの言語近代化に現れた言語状況の中に 見出せるものを指す。多くの非ヨーロッパ諸国においてもこの「俗語改革」 19世紀後半. による国語の成立を目指し言語の近代化が進められてきたが、. に西洋文明との接触のもとで起こった日本の「言文一致運動」及びエジプ トの「アンミ-ヤ(口語)推進運動」は、両国で共にそれぞれ近代国語及 び文学に、そのままでは適していないと見なされた。言語改革論者や中央 政府が病として見なされた「ダイグロシア」状況を解消するため、後に論 ずるところの伝統文語と俗語とを折衷した「言語媒介」可能な変種を見出 すことに至った。その新たな変種は次第に「標準語」化された国語である。 筆者が提案してきた「中間言語」という仮定概念を用いて、日 本とエジプ ト両国の改革プロセスを比較研究するならば、両国の言語改革の本質的な 類似点と相違点を明らかにし、従来の研究とは異なった見解を見出すこと ができるだろう。 義と関係なく、. (尚、文脈上の「中間言語」用語を、日本語教育上の定 「言語の標準化」という意味でのみ使用し、. 言語理論を対象研究とする。. -4-. 20世紀前後の.

(3) 「言語改革」研究のプロセス 日本の言文一致運動に関する研究は、国語学・国文学の分野において、す でに蓄積がある(3)。一方、アラビア語圏において「言文一致」にあたる概 念は見あたらないが、日本の文語は正則アラビア語「フス--」に、話し ことばは俗語(大衆語)を意味する「アンミ-ヤ」に相当する言語変種、と 考えることが可能である。ここでは、エジプトの「アンミ-ヤ推進運動」 を、日本における「言文一致運動」に値する言語改革と位置づける。なお、 両国における言語意識の変遷にみる「言語改革」のプロセスは、時代的に 次の三つの時期に区分できる。最初の時期は1870年に始まる外国人の俗語 の文法書や辞書の刊行と、それに続く、革新家による印刷物での口語の使 開始p時期。次の時期は、 20世紀初期に 用を中心とした言文一致運動の 始まる「エジプト化」イデオロギー、日本では1890年代後半に芽生える「国 粋主義」の発生から、第二次世界大戦に至るまでの時期(この時期に両国 においても「中間言語」の成立に伴って「近代小説・近代ジャーナリズム」 も確立した。最後の時期は、戦後の両国における国語認識の確立である。 この時期に「中間言語」が「国語」として公認されるか否かが、国民国家 の成立にあたって決定的な条件となった。. 1.日本・エジプト型の俗語改革 1-1.話し言葉への目覚め 日本の幕末から明治初期にかけても、後に論ずる「フスハ-廃止論」に相 当する「漢語廃止論」. 、. 「日本語廃止論」を唱える人々が存在した。一部. の知識人は、西洋列強の圧倒的な国力に衝撃を受け、その国力の基にある 国民国家という政治体制を知った。同時に、西洋の近代的な言語観が「俗 語改革(-言文一致運動)であり、それが国民国家の成立・国力の増強の 要素として認識された。日本の言語改革の出発点と考えられるのが、慶応2 年12月、幕府開成所の役人の前島密が、将軍徳川慶喜にたてまつった建白 書「漢字御廃止之議」である。この時代が終わってからも、さらに明治2 年夏「漢字廃止案」を明治新政府の衆議院に提出し、当時の言語意識に多 大な刺激を与えた。. -5-.

(4) 国家の大体は国民の教育にして、其教育は士民を論ぜず国民に普からしめ、 之を普からしめんには成る可く簡易なる文字文章を用ひざる可らず-然る. に此教育に漢字を用ひるときは其字形と音訓を学習候為め長日月を費し、 成業の期を遅緩ならしめ、又其学び難く習ひ易からざるを以て、就学する. 者甚だ稀少の割合に相成候-恐多くも御国人の知識此の如くに下劣にして、 御国力の此の如くに不振に至りたるは、遠く其原由を推せば其素の毒を玄 に発したるなりと痛憤に不堪奉存候(4) つまり、漢字廃止の目的は日本の国力を高めて西洋諸国の国力に追いつく ことである。注目すべきは、漢字廃止論は、言文一致の思想と共に同時期 に芽生えていることである。 国文を定め文典を制するに於ても、必ず古文に復し「ハベル」 を用ふる儀には無御座、今日普通の「ツカマツル」. 「ケルカナ」. 「ゴザル」の言語を用. ひ、之に一定の法則を置くの謂ひに御座候、言語は時代に就て変転するは 中外皆然るか・t奉存候、但口舌にすれば談話となり、筆書にすれば文章と なり、口談筆記の両般の趣を異にせざる様には仕度尊に奉存候(5) ところで、前島が「文典」の制定を説いているように、明治以前において は、話しことばの文法の研究は、エジプトと同様に殆どなされなかった。 明治30年頃までは、日本人よりも西洋人の方が研究に熱心であった。ただ し、アストン(6)などの西洋人による文法書は、西洋語の文法論の日本語のあてはめにすぎない点があり、後の日本人の研究者は肯定的に評価して いない。日本人による最初の体系的な口語文法書として評価されているの は、明治5年の馬場辰猪の"Elementary. Grammar. of. Japanese. Language". (7)であるが、こ■の本は英語で善かれ、ロンドンで出版されている。これは、. その後の日本語の文法書、一般民衆に直接に影響があったとは思われない。 しかし、馬場が話しことばの文法書を書いた意味は考察するに値する。こ の本を出版した目的は、森有礼の「英語採用論」に反論するためであった。. 明治初期、森有礼は米国滞在中「日本における教育」を英語で発表した。 それによると、日本語が文明の進歩を妨げており、今まで不適当であるゆ え、将来国語は次第に英語に代えるべきだという。政府の高官でもあった. 森有礼がその案をアメリカの言語学ホエトニーに伝え、 を交換しました。. 1872年6月「書簡」. (8)英国に留学し法学を学んだ政治家でもある馬場が. 英領植民地であったインドの例を引き、日本-の英語の導入が、言語的な. -6-.

(5) 不統-を生じさせ、結局は国民間の階層的な分裂を生じさせる、と述べて いる。そして、日本の近代化にあたってむしろ必要なのは、日本固有の話 しことばの「書きことば化」であると述べている。馬場は、日本の話し言 葉に基づいた日本国民の団結を主張しているのである。彼が、文法書を書 かなければならかなったのは、話しことばが社会的承認を得るためには、 文法を備えていることが大きな意味を持っているからである。当時は、文 法は文章をもった言語のみにあり、話しことばには文法がないと考えられ ていた。馬場の日本語の話しことばの価値の尊重という思想は、まさに彼 自身の言語的実践において裏切られている。近代化初期の日本においては、 漢文の勢力は衰えつつあった。だが、漢文に対して「言文一致体」が取っ て代ゎ.ったわけではない。幕末になると、西洋文化の受け入れのため、西 洋の言語、とりわけ英語が学ばれた。したがって、馬場の英語による日本 語の口語の文法書の出版という事実は、この時代の日本の言語状況の複雑 さを象徴している。先に挙げた前島の建白も、候文で書かれている。確か 「不堪奉存候」といった文末. に、候文は、純粋な漢文ではない。しかし、. や「遅緩」といった語桑にみられるようにそれは話しことばの語法・語桑 とも、明確に異なっている。前島も、. 「言文不一致」な状態で、言文-敦. 論を説いていたことに変わりない。 近代化以前のエジプトにおいて、イスラム教と結びついたフスハ-は、圧 倒的な権威を持っていた。しかし、. 1882年以降、宗主国たるイギリスによ. って、英語が教育や官僚などの公用語として、エジプトに強制された。エ ジプトの知識人の一部は英語に対して、聖なる正則アラビア語をそのまま 武器として抵抗しようとしたのではなく、多様な障害を越えてフスハ一に 大改革を起こし始めた。革新家たちは話しことばを基にする言文一致体の 実現化を訴え、作家たちは言文一致体の形態を伴った民衆語としてのアン ミ-ヤを見出した。彼らはアンミ-ヤを上昇させ、文学や文化を担う言語 にすることを目指した。この時期には、エジプト社会の文明の遅滞の原因 として、フスハ-の固定性、複雑性、原始性がしばしば挙げられた。そう した考えを持つ人々は、アンミ-ヤをフスハ一に積極的に置き換えようと. した。そのために、啓蒙家はアンミ-ヤに規範性・.簡潔性・柔軟性を与え、 一般大衆や非識字者たちのための文学と教育の手段として採用しようとし た。. -7-. ・.

(6) 当時の「アンミ-ヤの推進運動」は、日本の言文一致運動と同様「話こと ばをそのまま写した書きことばの使用」を意味し、. 19世紀末まで全く同じ. 19半ばのアンミ-ヤは全くの俗語として コンセプトで認識されつづけた。 存在し、言語学的にも全く関心を持たれてこなかった故、エジプト人によ り書かれたアンミ-ヤの文法書は、わずかしかない。これらの文法書が編 まれた目的は、外国人のためのエジプトの日常会話の学習のためであった。 1880年代以降、エジプトに長いこと住み、イギリスの植民地時代の政府の 要職についた外国人によってアンミ-ヤに積極的な価値を認めた研究書が 出版され始めた。これらの書は、地域的なアラビア諸方言に対する真筆な 研究の初めての試みと考えられている。たとえば、. 1880年に、ドイツ人シ. ュピッタは、ドイツ語の『エジプトの俗語の文法規則』を出版した。彼は、 アンミ-ヤが自立した言語として教育・文化・文学などの分野で使用され ることによって、エジプトの政治的腐敗や社会的後進性に対する有益な対 策となると考えた。本書の序文で、彼はエジプトの「二言語併用状況では、 民衆文化というものは考えられない。初等教育において、人は、フスハのような難しい言語では、知識の半分も得ること.はできない-古くて複雑 な表記方法に責任がある。アラビア語の古典的な表記の義務づけのた.め、 真の文学は発展しない。なぜならば、数少ない教養階層のみ、自分の本を (9)と述べた。それ以来、アンミ-ヤ. 手に入れることができるだろうから」. の推進を支える数多くの文法書が発行された。イギリス人ウイルモアは、 『エジプトの口語アラビア語』を発行した。彼もアンミ-ヤを弁護し、書 きことばと'文学の言語として採用されることが重要であり、少なくとも宗 教性を持たない市民生活において、国の単一言語として受け入れること (10)であった。 これらの文法書は,フスハ-とアンミ「ヤの両変種の格差を認識させ、両 者の社会的な対立を刺激した。外国人によるアラビア語教材は、次の時代 に盛んに行われたアンミ-ヤ推進運動と、直接的にも間接的にも、深く結 びついていた。これらの書をきっかけに、 「ラテン文字化運動」. 「言文一致運動」. 「民衆文学」. 「フスハ-廃止論」などの社会的な認識及び言語学. 的な研究-のインパクトが発生したのである。. フスハ-廃止を訴え、言文一致化を熱心に推進した改革派の代表者として イギリス人ウイルコックスを紹介すべきであろう。彼は、. -8-. 1892年12月、イ.

(7) スラム教の代表雑誌『アル、アズ-ル』誌の編集を担当し始め、同誌を舞 台にして、アンミ-ヤの普及とフスハ-廃止を訴え続けた。彼は、正則ア ラビア語フスハ-で書き続ける人は、学問を一握りの人たちにのみのもの にしてしまうため、人々の間に無知を広めたがっているのだと明言し、保 守派を批判した。そして、書きことばとして、フスハ一に代わってアンミ 「私は科学を広め、エジプ -ヤを採用する議論を主張した。その理由は、 ト人たちを啓蒙したい。エジプト人、自らの思考で使用されている 生きた 言語で話すことを促す一文で、この雑誌をはじめ」. (ll)たのである。また、. ウイルコックスは、エジプトにおける俗語改革の第一推奨者と言えるほど、 アンミ-ヤを使い、レベルの高いテキストを書き残した。だが、アラビア 語純粋主義者の数多くの支持者は、ウイルコックスによるアンミ-ヤ体普 及に反発して、彼の編んだアンミ■-ヤ体採用は、実現されずに終わった。 1. -2.言文一致体の実現化へ. エジプト型の言文一致体 エジプトでは、シュピッタ らのアンミ-ヤの推奨運動が始まったのとほぼ 同時期の1880年頃には、アンミ-ヤによる著作物及び新聞の記事が、たく さんみられようになった。西洋人のアンミ-ヤ推奨運動を真剣に受けとめ たエジプト人の改革派は、啓蒙と文化的育成の手段として甲アンミ-ヤに よる大衆的T7スメディアを支持しはじめた.エジプト解放と社会改革をめ ざし、 1879年に始まったエジプトの「オラーピー運動」のリーダー達も、 大衆的な雑誌や新聞などで自分達の有力な手段であるアンミ-ヤを書きこ とばとして使い始めた。アンミ-ヤが「民衆」の言葉であることが認識さ れ始めた。. 1878年から発行された『眼鏡おじさん』誌に続き、当時の代表 的作家・社会改革家であり、オラーピー運動の1人のリーダーとして知られ るナディ-ムも、アンミ.-ヤを書き言葉として認め、それを発音のまま印. 刷物に書き始めた。. .. 『笑い話泣き話』誌を1881年に発行した。ナディ-ム. は民衆詩・劇曲・新聞記事をアンミ-ヤで書くことによって、口語の価値 観が高まった。彼はフスハ-支持の立場であったはずにもかかわらず、ア ンミ-ヤを書きことばとして利用したのは、植民地支配下にある一般庶民. の覚醒に必要たったからである。ナディ-ムの社会改革的な記事は、実際. -9-.

(8) に上エジプトから下エジプトの村落まで浸透した。当時、彼だけではなく、 後に述べるように革命派自身も一般庶民の覚醒や文化的育成、精神的統一 (12)しかし、ナディ-ムは、. に役立つと考え、この方向を強く支持した。. 「オラーピー運動」のスポークスマンに任命された時、アンミ-ヤで書く. のをやめ、再びフスハ-のみで書き始めT=。オラーピー運動家は、 10月23日の19号から、. 1881年. 『笑い話泣き話』誌にかえて、フスハ一による『ア. ッタ-イフ』紙をウンマ(民衆)の新聞とする、という公式の決定をした。. というのは、オラーピー運動家は、. 1880年代に実行された宗主国イギリス. による英語化政策に抵抗するため、アンミ-ヤを新聞の論述などに使うの をしばらく迷ったのである。. エジプトの口語の使用が一時的に、さらに認められ始めたのは、革一命家に よって大衆向けに発行された、 『ウスターズ』誌である。同紙は基本的に はフスハ一による雑誌であったが、アンミ-ヤの部門も設けられた。この 部門は、一般人向けにアラビア文字を用いて表記され、言文一致の実験現. 場であった。アンミ-ヤ部門は、号にもよるがだいたい雑誌全体の三割ほ どを占め、多いときには半分以上がアンミ-ヤ部門で占められたこともあ った。この雑誌の方針は、アンミ-ヤ部門によって、アンミ-ヤを話す庶 氏-読み書きのできない人達を団結させることであった。その目標を、ナ ディ-ムは次のように説明している。 「-我々は啓蒙的な雑誌を発行することにした。この雑誌には、非識字 者が、書物を読むのを、さらには聞くことさえいやがるのを、好きにさせ. るために、アンミ-ヤによる短い部門も含ませた。そこで、彼らは正しい ことばを聞くことにいたるであろう」. 0. (13). 啓蒙的政治的な記事に、アンミ-ヤを文字にして使うという試みは前例が. なかった。文体は簡素化されており、フスハ-とはかなり違った語嚢や英 語式の語順などの要素を使う。編集者の言語観は「完全な言語とは、民族 の知性の持ち主達によって、特殊と一般との間で使われている生きた言語 である。そして雑談言語(非知識人のアンミ-ヤ)とは、動物が言語なし にすませているような、どうでも良い用事にしか使われない死んだ言語で ある。. 」. (14)というものであった。. 『ウスターズ』誌の10月号に載せられた「アンミ-ヤ体」は、ナディ-ム の望んだように、社会の全ての階層が理解できる、簡略化したフヌハ-で. -10-.

(9) もあった。. 「アンミ-ヤ体」による記事たる"アクド・イッティファク(合. 意協定)■"の内容を簡約すると、ナディ-ムはアンミ-ヤ体の部門を『ウ スターズ』誌に書き続けることを、一般庶民の代表者と約束したのである。 (15)しかし、フスハ-の支持者の圧力、英語政策の実行、外国人たるウイ ルコックスの「アンミ-ヤ推奨」などの間で、ナディ-ムは『ウスターズ』 誌でのアンミ-ヤ部門の継続について悩んでいた。. 『ウスターズ』誌に執. 筆していた人々は、アンミ-ヤの重要性を認めつつも、教育言語としてア ンミ-ヤをフスハ一にかえて用いるならば、フスハ-を死語にすることに なると恐れていた。 『ウスターズ』誌では「アン 1892年11月10日号から、 ミ-ヤ部門」を一時取りやめようとしたことがあった。ところが、読者が アンミ-ヤの使用を強く要求したため、やめることができなかったo. 同誌. の「読者部門」には、大衆の読者たちから、アンミ-ヤ部門をやめてしま ったら、啓蒙思想家や改革派などが書く論述と記事から自分たちは切り離 されてしまう、と訴える多くの手紙が届いていた。例えば、同紙の1893年 の11月号では、以下の投書が載せられている。. 「我々読者は、男女間で異なるものの、どの階層も文盲が殆どを占めてい ます。. (略)知識人の著作家達しか残らず、彼らは、政治新聞や学術誌に参. 加できる人々でみんな自分だけ、或いは同じ階層の人達の間だけで新聞を 読んでしまいます。女達や庶民は、生活行動や理性を教えてくれる人を必 要としているのです。. (略)そしてあなた達の新聞『ウスターズ』誌が出. てその一部をアンミ-ヤで書いた時1彼らの内の多数が、あなた達の新聞 を手に入れるのです。庶民が、字も読めないのに、それを買うのです。. ・(略). そして老若男女の間で学者と無知な者との間で、利益が共通のものとなっ たのです」. この内容は、当時の大衆にとってアンミ-ヤが」いかに必要で不可欠であ ったかの重要な証言と見なされる。だが、一方で、投稿者らの言語観とは、 条件付きのアンミ-ヤの使用であった。社会改革派と同様に、アンミ-ヤ とフスハ-を同等の関係と見なさず、上下関係に基づく異なった機能を配 分すべきだとみなした。フスハ-は、宗教・哲学・道徳・公式文学や象徴. 的な内容・学問の言語であるに対し、アンミ-ヤは、感情的なも・軽いこ との表現手段・非識字者を啓蒙するための手段として使われるべきなので ある。彼らの結論は、. 「アンミ-ヤによる教育、学術的書物における使用. I-ll-.

(10) は、決して認められない」ということだった。. 19世紀末のエジプトの啓蒙作家たちの一部は、英語化政策に反廃してア ンミ-ヤを用いるかフスハ-を用いるかで迷い、教養人たちは、正則アラ. ビア語の女持者と口語アラビア語の支持者に分断された。このような、一 つめ言語であるアラビア語内の位言語であるフスハ-と下位言語であるア ンミ-ヤの対立は、著名なファーガソン(1959)によって20世紀の後半に 指摘される以前、 たのである。. 1880年代のエジプトで、初めて公的に大規模に論議され. 『ウスターズ』誌に代表されるようなアンミ-ヤの使用の目. 的は「各人がその人生で理解できる限り、吸収できる限りのものを得るた め、教育と思想を諸階層の間に浸透させる」. (16)ことであり、文明的な. レベルで、文化的な差の縮小と、教育と思考の上昇を目指して人々に直接 書く方法による社会的な無知層の撲滅とであった。しかし、. 『ウスターズ』. 誌に見られるアラビア語の様々な変種は、当時の教養人と半教養人と非識 字者との間の社会言語的な分裂があったことを証言している。. 日本型の言文一致休 日本においても、前島の漢字廃止論や馬場の文法書や福揮諭吉の「漢字節 減論(=漢字かな交じり文) 当時、. 」による論説が同時代に大きな刺激を与えた。 「話しことば」をそのまま書き写すという試みが多様な形で現れた。. 1775年頃、一般大衆に好まれた「小新聞」はこの例の1つであろう。市井. の出来事や花柳界の情事に関する噂などを中心とした新聞で、多くの談話 体の文章でつづられ、ルビ付きで刊行された。当時の『読売新聞』 『朝 ・. 日新聞』などの「小新聞」は「俗語新聞」と並んで、. 「言文一致」の一形. 態と言えよう。 1880年代になると、.現象として現れる「速記本」は明治以降の言文一致の 実用化にも大いに貢献している。 で筆録して刊行した本である。 はその一例であるが、. 「速記本」とは落語や講談の口演を記号. 1884年に発刊された円朝の『怪談牡丹灯龍』. 「1885年からは、続々と円朝の落語の口演が速記本. として出版されていくことになる。円朝の声を、. 記号で『そのままに謄写しとり』. 「速記法」によって速記. 、それを速記者が「漢字かな交じり文」. に翻訳することによって、大衆的娯楽読み物という新しい活字商品が生み. -12-.

(11) 出されていった」のである。. (17)速記記号が「漢字かな交じり文」に翻. 訳されることによって、当時のことを考えると、ある種の「言文一致」形 態が可能となったのである。この円朝の速記落語の文体が、同時代の二葉 亭四迷らに影響を与えたことはよく知られている。いずれにせよ、あの頃、 漢詩・物語などの古びた「文化」形態に代わる近代「文学制度」を導入す. るに当たって、作品を内容的にも言語的にもリアリズムに基づくべきこ いう認識が強まっていった。この新しい思想背景が「国語認識」にも反映 された。文学作品を、一般大衆の生活言語で本格的に書き出した先覚者の 内、尾崎紅葉と二葉亭四迷の名をあげなければならない。江戸生まれの四. 迷は、ロシア文学家ツルゲ-ネフの作品を翻訳することによって、日本語 ・四迷は、 1887年言文一致の最初の 「言文一致体」の文章を開き始めた。その以前、四. の「非現実」に早い時期から気づいた。 試み『浮雲』を書き、. 迷にとって欠かせない存在だった人物がいた.坪内冶遥は、日本の文学に 写実主義の道を開き、日本語の「口語化」を訴えた革新家の一人である。 「言は魂なり。文は形なり。俗言には七情ことごとく化粧をほどこさずし て、現はるれども文には七情も皆紅粉を施して現はる。幾分か実を失ふ所 あり、 り」. -おのれは今より頭を長うして新俗文の世にいづる日を待つものな (18)と述べた近遥は、口語に注目して作品の内容を平易な文章で著. すべき、という革新的な観念をもっていた。当時、作家たちが使うことの 出来る日本語は、. 「近代文学の用語としてきわめて不完全であった。古い. 時代のリズムと形式を引きずったその日本譜で、世界の「真相」を描くこ とは不可能であり、新しい『自由な散文』が必要である-この点で、、逓遥 (*18)■. と四迷の意見は完全に一致していた」. 上記のような革新文学家らの登場によって、世界の真相と日本の真相を描 くのに、まず「言文一致体」を確立させるべきであった。彼らの殆どは、 西洋文明の取り入れに熱心であり、オランダ語・英語・フランス語・ドイ ツ語など、欧米語を身に付けていた。全ての啓蒙思想家・社会改革派が漢 文にも習熟していたが、欧米語を身につけた多数は外国語意識を背景に、. 一般大衆のことばである「口語」の重要性を認識しはじめ、やがて「言耳 -敦体」が、彼らによる文学作品・ジャーナリズムの印刷物の中で実現化 された。. 一方、当時の文章の領域で主流だった文体は、. -13-. 「漢文訓読」の口調になら. と.

(12) った文体であった。漢字のみが使用され、従来の純粋な漢文に由来する文 法は、明治のごく初期には公的文書に用いられた。後に、それが急速に衰 えていった。それに対して、日本語の助詞を挿入し、語順を日本語化した 漢文訓読体が主流となってきた。その理由は、いまだ漢文の威信の高さが 存続していたという意識的な要因と、高度な内容を担い得る文体をほかに 見出し得ず、当時の知識人が受けた教育の言語は、漢文もしくは漢文訓読 体であったからである。啓蒙思想家の代表的人物として福揮諭吉は、言語 実践の面でも革新的であった。慶鷹2. (1866)年の『西洋事痛』では、文章. について、以下のように述べている。. 洋書ヲ詳スルニ唯華藻文雅二注意スルハ大二翻諾ノ趣意二戻レリ乃チ此編 文章ノ鰻裁ヲ飾ラス勉メテ俗語ヲ用ヒタルモ只達意ヲ以テ主トスルカ為メ ナリ然ルニ今之ヲ某先生二謀ルモ徒二難字ヲ用ヒ読者ヲシテ困却セシムル ノ外決シテ他事ナカル-シ加之漢儒者流力頑僻国師ノ都見ヲ以テ原書ノ情. 賓ヲ誤認ムルモ亦囲ル可ラス」. (19). 福揮はあるエピソードを紹介している。友人がある原語を指して、あては めるという意味の単語だが、どういう訳語をあてたら良いか因っている、 と相談したところ、福揮は、そのまま「あてはめる」と訳したら良い、と 教えたという。俗語が訳語として使われていなかった当時の状況と福揮が 俗語の使用-の積極性がわかる。. (20). 同じく啓蒙思想家である加藤弘之は、. 『交易問答』 『真政大意』で、文末. 辞として漢文訓読体の「なり」ではなく、話し言葉で用いられる「でござ る」体を使用しており、原理的に福津と共通している。また、前述した前 島も、明治1873年に、. 『まいにち ひらかな. しんぶんし』という、平仮. 名のみで書いた新聞を発行している。その文体は、語法は文語体であった が、語桑は日常的な語嚢に近いものを採用していた。当時の啓蒙思想家の. 共通のねらいは、エジプト人の革新家と同様に知識を身につけた大衆を育 成し啓蒙することにあった。そのために、できるだけ一般人が理解しやす い「言語変種」. をつくる必要があったのである。彼らにおいて、すでに漢. 文の節減・文体の簡略化・文末の統一、そして話しことばの語嚢の書きこ. とば-の採り入れが生じている。これは、明治初期に成立したある種? 文一致体」の基礎となったわけであり、それに続く日本型「言語ナショナ リズム」によって存続させられた「漢字かな交じり文」を基盤に新たな「標. -14-. 「言.

(13) 準語」が確立させられたのである。 とは言え、この時期の言語的な実践を、後の時期と比べてみると、明確な 言文一致とは言えない。彼らの話しことばの文体の採用は、その読者を限 定している。彼らは、大衆のためには話しことばを取り入れた文体を使用 しつつも、学術的な文章には、漢文訓読体を用いるという、ダイグロシア 的な言語状況かつ機能的な分化を承認していた。したがって、彼らの話し ことばの採用は、一貫したものとは見なすことはできない。この点から、 エジプトと日本の革新家に認識された言語観は等しい、両国ともヨ-ロγ パの「俗語改革」と異なった「言語観念」をもっていたことがわかる。日 本の場合でも、話しことばは卑しく下品である-と-いう批判が相次ぎ、言文 一致運動は一時的に停滞する。日本とエジプトのいずれにおいても、言文 一致の最初の段階では、心理的な抵抗感やイデオロギー的な理由で、話し ことばをそのまま、文学や教育の言語として用いることは不適当だと思わ. れた。未熟な言文一致体が、その後にさらに改良されるべき理由がそこに あった。. 2.. ■「中間言語」の確立. 2-1.エジプトの場合 1882年に始まったイ エジプトにおける西洋的なナショナリズム意識は、 ギリスによる植民地化政策-の反動によって生まれ始めた。ナショナリズ ムが最盛期を迎えたのは、第一次大戦後の「1919年革命」によって発生し た・「エジプト化」イデオロギーの時期であった。この運動は、エジプトの 地理的国境線の内側にエジプト人の特徴的な性格及び生活様式、そして未 来への夢とその実現に向けた努力を主張した。それを背景に、文学やすべ ての芸術を「エジプト化(at-tamsiir). 」. (22)するというスローガンがあ. った。それは国内の「言語認識」にも反映された。革新家らは、アラビア 語を「エジプト化」する形でエジプト人固有の、いわゆる`National Language'を考えたのであった。それ以前には、アラビア語世界では「国. 語」や「民族文学」や「国家語」に対応する世俗的な概念は,未だ誕生し てはいなかった。エジプトの「民衆文学」という考えに固執する文学家や 若手の評論家は、これを圧倒的に支持した。彼らは、. -15-. 「民衆文学」を形成.

(14) する前提として、第一にアンミ-ヤの「書きことば」化を成功させなけれ ばなら_なかった。彼らはその思想を普及するための方法とは、自らの著作. に簡略化されたフスハ-とアン享-ヤを混合させて使ったり、上昇させた アンミ-ヤそのものを使ったりすることでした。言語の「エジプト化」イ デオロギーの持ち主は、どんな言語改革を起したのであろうか?先ずこの 思想を代表する議論をいくつか考察し、その時期の言語意識の変遷を論ず る。. 「エジプト化」イデオロギーの実現化のために様々な理論が引き起こされ た。その中で、その運動の先頭に立ったのは、ルトフィーアッサイドとい. う啓蒙思想家であった。彼は、. 「エジプトナショナリズム」を初めて呼び. かけたことで良く知られ、後に論ずるアラビア語の「エジプト化」を押し 進めた革命家であった。彼の「言語理論」は、政治・社会・教育的「エジ プト化」という基本思想と並行して登場した。 ルトフィーは、. 1913年に『アッジャリーダ』紙に七つの論文を発表し、そ. の中で自ら呼びかけたアラビア語の「エジプト化」思想を弁護し、人々の 支持を求めた。この思想の基本は、二つの基盤のもとに成り立っている。 一つは、アンミ-ヤの語桑を昇格させる、つまり日常会話において使用さ れている外来語の名詞を書きことばとして承認すること。例えば、 otomibil. (車). 、bisklitta. (ズボン)など等。. (オートバイ). 、. jakltta. (ジャケット). 、bantalon. (23)もう一つは、フスハ一変種とアンミ-ヤ変種の両. 者を和合させることである。ルトフィーにとって、アラビア語の「エジプ ト化」とは、文語と口語との間の「和合」を意味した。彼の七つの論文に おける言語改革の要点は、日常会話の新しい名称を引き出して、できるだ けアラビア語のリズムに合敦させ、新しいものに名称のない場合、辞書や 学術書から単語を補充することであった。 近代文学を言語的かつ内容的に「エジプト化」するという運動に参加した アブデル、ハ-ク. アブデル、アジ-ズの名を特に挙げなければならない。. 彼は『民族文学』の中で、ここで文学作品は特殊な教養人だけでなく一般. 大衆にも理解できる言語を使わなければならぬことを主張した。彼は、 族語」という概念を、最も早い段階でアラビア語世界にも導入した思想家 であり、これを「エジプト語」と呼び、これの実現が国民国家の条件であ るとしたoアブデル、ハ-クによれば、アラビア語に最も欠けているのは、. -16-. 「民.

(15) 民主化と自由である。ヨーロッパでは、ラテン語から多くの言語が発生し、. ネの後詰しことばの多様な変種から「標準語」■を創り、近代「国家語」が 成立した。ところがアラビア語はその逆の方向に進んだ。彼によれば、そ の要因は「宗教」と「アラブ遺産」にある。また、彼は「二言語併用」を 病として捉え、エジプト社会が直面するこの言語間題が解決されるよう働 きかけた。. 「私たちが言語発展の決まりに従ってゆくとするならば、私たちが使用し ている二つの言語が一つの言語になるのである.しかし羊の夢は、実現し がたい。. (略)保守派は、一方で宗教的な熱狂、他方でアラビア語とアラブ. 文学の復活のため、自分のエジプト的な民族性を犠牲にしている。我々よ りも、アラブ人の方を優先し、アラブ人のために努力を払っている。これ. に私は驚き、疑問を持った。彼らは、アラブ人なのだろうか、エジプト人 なのだろうか?」■. (24)アブデル、ハ-クがいうエジプトの「民族語」は、. アラビア語の最も丁寧でやさしく生活と使用に対応できる言語変種である。 さらに、これは多数派の言語であるのに対しフスハ-は少数派のみに使用 されている、と強調した。 言語学者・文学家ムーサ■サラマ-は、. 「フス--廃止・アンミ-ヤ体採. 用」による社会改革を論じ、エジプト人の進歩に結び付けた。ムーサは、 言語が社会発展■と深く結びついているため、エジプト人の利益はアンミヤにあると決断した。生きた言語は社会の発展とともに発展していくとい. う観点から、一つの社会には「二言語併用」状況があってはいけないと警 告した。なぜならば、その結果「フスハ-は社会から孤立し、あたかも、 聖職者が、礼拝所で唱えるような言語となり、.社会と言語との間の哲学的 な断絶がおこり、言語の発展が妨げられる。. (25)ムーサによるアンミ-ヤ. の採用の理由は、以下のようである。. 「生きた言語は、社会の神経系統、あるいは、個人が相互に理解し合うた めの電話網である-例えば、演劇が発展しなかったのは、俳優達がフスハ -のシナリオで劇を行なわなければならないからであった。フスハ-のシ ナリオからは、観客がアンミ-ヤの会話に慣れてしまっているせいで、会 話の雰囲気が伝わってこないのである。さらに、アラビア語のフスハ-は、 語嚢の中に民主主義、自動車、テレビ等といった近代文明要素がなく、コ ーランとアラブの伝統のみが存在していた。封建時代の言語であるから、. -17一.

(16) その下では社会的平等も民主主義も女性の地位の向上も生まれるはずがな い」. (26). ムーサは、フスハ-と社会との間の均衡が取れていないことを強調した。 「今日、言語と社会との間の相互作用は健全的ではなく、両者の間には断. 絶があるため、病気が発生した。その病気とは、あまたの科学や芸術に対 する無知のことである」. (27)この病気の最良の治療は、フスハ-の放棄と. 社会の現代的要求に答えられる言語の採用である。ムーサは「民衆と文学 の断絶を超えるための『民衆語』 」を創り、ラテン文字を採用することを 論じた。彼にとって、新しい文学は、科学と文明の方向、すなわち西洋に 向かわなければならないのであった。 近代文学は、現実的人間的な問題を扱うため、文学家は民衆に向かって民 衆語で書いている。このため、ムーサのいう革新的文学は「可能な民衆語 で書き、そして民衆の課題やその文学の研究」と関連していなければなら ない。また、. S.ホサリーらの改革派が(28)目指した、伝統文法の近代言語-の. 接近は、近代文化と言語の内的論理との調和をもたらしたものである。し かし、彼は晩年の1955年、言語と文法を分けて考えた。簡略化を必要とし. たのは文法だけではなく、言語そのものも簡略化されなければならない。 これを実現するには、. 「フスハ一語」と「諸方言」とを接近させなければ」. ならないという。. 20世紀半ば、応用言語学の分野で二言語併用の研究が積極的なアプローチ を始め、研究者の注目を集めるようになった。. S.ホサリーなどの言語学. 者たちは、教養人の階層間での、完全に文学言語ではないが、完全なアン ミ-ヤでもない、共通の話しことばを発展させる必要があると呼びかけた0 この応用言語学的な試みを、初めて行ったのは、. 1955年のアニース・フェ. レハ-であった。彼は、実際に普及しつつあるこの「民衆語」を、文法的 音韻的に固定することを提案した。彼は特に、音声的な形式に重点を置き、 「ラテン字化」推進派の一員となった。 アンミ-ヤとフスハ-の最も重要な違いであり、また、フスハ-の最も困 難な問題は、. 「イラーブ(語尾の格変化). 」の文法学習であった。そのた. めアラビア語の教育は、特殊な階層や教養人でも茸全なマスターが出来な いほどであった。アホマド・アミンは「イラーブ」を省き、かつアンミ-. -18-.

(17) ヤの俗っぽさを除き、両変種を接近させたアラビア語を創造する必要があ ると説いた。そして、この中間的な言語観念は、アンミ-ヤとフス--の 間の橋渡しとなり、教育の普及に貢献し、文学者はすべての人に文学の魅 力を伝えることができる、と考えた。フスハ一に関しては、特殊な言語レ. ベルなので「専門家が書き、古代遺産を読み解くための、特殊な階層の言 語なのである。. 」. (29)と彼は述べた。. この「中間言語」は、その民主性と民衆性及び現代の日常生活レベルでの. 微妙な感情の表現力、人情の機微に触れる表現力、その安定してきた文法 的な簡易さなどと「フスハ一語」の格調の高さ、語嚢の豊かさ、音韻、形 態論と統語論というアラビア語規則を生かして、エジプトにおいて「言文. 一致」を超え、レベルの高い共嘩の「民衆語」となりうる可能性があると 19世紀前半考えられた。アンミ-ヤとフスハ-の両方の利点を生かして、 両者の間の中間的な言語変種が新しく生み出されてきた。.両者間の隔たり を接近させ、書き言葉としても、また同時に話し言葉としても意思疎通が 成り立たせることが出来る言語として「中間言語」が創案された。この新 たな言語は、文学作品において「言語手段」として使用されるにつれて、共 通の特徴や性質をもち、特定の形を固定化した言語法則を備えさせ、一つ の言語共同体での、共通語としての資格を持つにいたった。文学の世界で は1930年代以降、著名なアラブ文家タオフイ-ク. アル、. 'ハキームや1989年. ノーベル文学賞を受賞したエジプト人のナギ-ブマホフォーズなどは、こ の望ま■しい「国語」を半世紀余り実用的使い、小説を著し続けた。明白で 定義しやすい言語構造と安定した文体を持っように至ったこの中間言語に よって「近代エジプト文学史」が確立したことはいうまでもない。アル、 ハキームは1950年だ半ば、フスハ-でもなく、アンミ-ヤでもない、新し く誕生したエジプト固有の言語変種を「第三言語」と呼び、それを社会言 語学者サイ-ド. バダウイによるエジプトの言語分類で言うところの「教. 養人のアンミ-ヤ」レベルに当たる。 アラビア語の「エジプト化」の試みは、水の泡とはならなかった。これら の運動は、フスハ-を死語にするこ.とにはいたらなかったが、正則テラビ. ア語に多大な改変、そして革新をもたらした。実際には、革新家は、アン ミ-ヤとフスハ-を媒介する「言語変種」を確立したのである。この新し い言語変種とは、ム」サの文法分類に見られる西洋型の言語であり、後に. -19-.

(18) 成立するエジプトの「民衆文学」を担う中間言語である。その新しい文学 の中に、フスハ一による「公式文学」に見られなかった戯曲、小説、自由 詩などの近代文学が生まれた。言語の「エジプト化」の下で、それによっ 「民族文学」と呼ばれた。それを叶えた前. て書かれた文学が「民衆文学」 提は、彼らの言葉でいえば、. 「ナショナリステックな言語」の形成である。. 換言すれば、正当化され、エジプト化されたこの「中間言語」とは、古び. た複雑な言語を簡略化して、話しことばの中から使用可能な語嚢を大衆化 する、という革新家の言語改革および言語の方向性をもっていた。近代的 な「国語認識」においては、口語的な表現形式が主役となり、伝統的な文 語、古典語は脇役に追いやられる結果となった。次に日本の「中間言語」 を論ずることにする。. 2-2.日本の場合 エジプトのナショナリズムと平行線に進化した、定義上の「中間言語」と いう仮説は、戦前までのエジプトと共通した言語改革が行われた近代日本 にも適用できる。明治20年代後半から明治40年前半は、体制的な「国語」. 成立の画期と言える。. 1902年の文部省による国語調査会設置、初等教育で 「言文一致」に留意した教科書作成. の-教科としての「国語科」の設置、. などがその具体的な言語政策であった。この時期の特徴は、言文一致体の. 改良の必要性が認誠され、実態が変容していくことにある。別な観点から 考えると、日清戦争(1894-5年)以降芽生え始めた日本型のナショナリズ ムの高揚を背景に、. 「標準語」は国語問題と政治的に結びついていった。. 当時の「国語」.の制度化そのものは「単なる国粋を越えた日本の自覚にも とづく『国語』意識の形成は、やはり日朝戦争による国家意識の高揚にま たなければならなかった」. (30)ことにある。. (30)以下に、その標準語. が確立するまでの思想背景、並びにこの時期に見える国語認識の変遷を簡 略に触れておこう。 上田万年によれば、本来の国語とは言文一致体でなければならない。 「国語とは之を口に語り、之を耳に聞くときも、之を字に写し、之を目も て読むと.きも共に同一の意味を有するものにして、かの文章上には使用す れども、談話上には毒も実用をなさず、談話上には使用すれども、文章上. -20-.

(19) には未だ其の資格を公認せられざるが如き、国語の事にはあらざるなり。 更にいふかふれば、言文一途の精神を維持し居る国語の事をいふなり。. (31). 上田のねらいは、国語を成立させるにあたって、話しことばがその主役と なるべきだという点にあった。同時に、上田によれば、言文一致体のもと. になるのは、下層階級の下品なことばではなく、東京の中流社会の教育を 受けた人のことばであった。すなわち、言文一致体の成立は、話しことば を統一する規範となる標準語をともなうべきだと考えられたのであるo. 上田を中心として、国語の規範を議論する最初の国家の機関としての国語 調査委員会の設置や小学校教科書の言文一致体の採用などの施策がとられ、 言文一致体が国家の国語政策に結びつく。国語調査委員会の調査方針には 次の項目が含まれた。 「ニ」文章ハ言文一致髄ヲ採用スルコトヽシ是二閲スル調査ヲ鳥スコト 「匹l」方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト(32) 国語調査委員会の補助委員で上田万年の弟子であった保科孝一は、上記 「二」の言文一致体の調査は、. 「四」の標準語が定まれば自然に定まる、. (33). という見解を述べている。すなわち、諸方言の中から選び出され制定され た標準語によって話しことばを統一する。.その標準語を写したものが言文. 一致体であるoその言文一致体によって多様な文体を統一する。したがっ て、言文一致とは、国語の統一にほかならない。 しかし、この時期に確立された「言文一致体」は決して、話しことばを写 しただけのものではなかった。実際、従来の話すままに書くという発想と 「下降的言文一. 実践が反省され、言文一致体の改良が課題となってくる。 致《. (全く文語調を廃して口語調にせんとするもの》は失敗せるものゝ如. し。. (略)今後執るべき道は上昇的言文一致なるべし」. (34). 見下された俗語をそのまま「書きことば化」するのではなく、従来の「文 語」の要素もこの新しい「言語変種」に取■り入れた、いわゆる「上昇的言. 文一致体」である。これは、エジプトの革新家によって見出した「中間言 語」と原理的によく似ている。換言すれば、従来の文語を簡略化する一方. で、話しことばの要素を洗練させ上昇させた、両者の「中間」に位置する 変種こそが必要であることが明確に意識されていた。ここで、明治20年代、 30年代の文章の主流を占めていた文語文について見る必要がある。明治初 期に優勢だったのは、漢文訓読体であった。やがて、純粋な漢文訓読体は. -21-.

(20) 見られなくなり、和文的要素を混入させた和漢折衷体にとって代わられる ようになる。以降、和漢折衷体は、漢文・和文の要素に、欧文や日常談話. の要素を加えて、次第に洗練されていき、一般的な文章に普遍的に使える 「普通文」ができあがった。普通文は、語法は漢文訓読体に基づいている ものの、和文・欧文・話しことばの要素を、柔軟に取り入れた文体なので ある。. 一方、小説においては、言文一致体の確立以前に、大きな勢力をもってい たのは、 「雅俗折衷体」といわれる文体であった。雅俗折衷体は、会話文 は言文一致体、地の文は文語体である。ここで大事なことは、文語文の存 在こそが、初期の言文一致体の未熟さを乗り越えた、中間言語の成立する 前提であったということである。実際、文語文には語法の一部をおきかえ れば、言文-敦体として通用するものもあった。島村抱月の次の文章は、 このような指摘をうらづけるものと言えるだろう。 雅俗折衷とは、精しく言-ば雅文と俗言とを適宜に混用したるものなり、 言文一致とは、之亦た俗言と雅文とを合せんとせるものなり、故に雅俗と いひ言文七いふに於ては、名は異なるも実は-なり、. ・t・-は雅文を墓にし. て俗言を之に点じ、. -は俗言を墓にして雅文を之れに点ず-両者ともに言 文折衷といひて即ち足れり(35)しかし、抱月は両者の違いをも、指摘して いる。. 「なり」. 「ける」. (36)等の助動詞、. 「されど」. 「つれど」等の接績. 詞、是等は文にのみ之ありて、言には絶えてなく、修辞上に一種の歴史的 意味を有するものなり、. ・・・言も修苗字の刀整を加ふれば其の値文とならざる 「ける」 にあらず、文も飾りを消せば言となると得べし、ひとり「なり」. の類あるが為に、両者の障壁は長-に除かれざる、吾人は此の障壁を名づ けて、型といふ、日本の文章には賛に一種の型あるなり、 が雅俗折衷に思想の流露を阻擬すといふは、此の型を嫌-ばなり 摘は、文語を言文一致体から実質的に区分するものは、. -言文一致論者 抱月の指 「けり」. 「なり」. という歴史的意味をおびた型であり、この型が文章の自由を束縛している ということである。しかし、非言文一致論者が、. 「なり」. 「けり」を使用. せざるをえなかった理由も存在していた。言文一致体に対する批判として、 話しことばをそのまま写した場合には「です」. 「ございます」. 「だ」など. の文末辞が待遇関係を表示してしまい、客観的な自由な描写に不向きであ 「なり」. るという意見があった。逆に言えば、. -22-. 「けり」は、抱月が指摘す.

(21) るように、日常生活に使われないからこそ、文末辞に適していたのである。 しかし、. 「なり」. 「けり」は、歴史的な型によって、文章を束縛するとい 「歴史的. う欠点をもっていた.したがって、言文一致体を確立するには、 意味」を帯びず、かつ話しことばで使われていない文末辞が必要だったの である。それが、現代の日本語の書きことばで必ずといっていいほど用い られる「である」である。再び、島村抱月にきこう。 *である***. といふ言葉は. 確かに此派の先輩紅葉君が用ひ出した筈であ. る。これは「江戸言葉」ではない、外国語の翻訳言葉で、昔は「横潰言葉」 と云ったものである。. -それゆゑ初め美妙君などはです**と云ってゐた筈 である。けれども一方から考-て見ると、迂閥であるだけ、それだけ悠長 で、どんな烈しい場合にも、此言葉を用ゐてゐれば、緯々として徐裕のあ るやうに思はれる。つまり度量の宏大を示すものと云っても宜しい。それ にだ*と謂-ば、濁りで気焔を吐くやうに、つまり生意気に営り、あります ****とか、です**とか云-ば強き意味が含まれないゆゑ。其中間を求むれ ば である***が一番よいやうに思われる。 (37) 「である」が翻訳から生じたことは、言文一致体が、日本に存在した話し. ことばをそのまま写した文体ではなく、書きことば、そして外国語との関 係のもとに成立したことを象徴している。. 「である」は、話しことばに使. われないため待遇関係を表現せず、かつ「なり」. 「けり」のような歴史的. 意味を帯びた型をもっていなかったゆえに、中立的で自由な言文一致体の 文末辞に適していたのである。この「である」の普及が、言文一致体の確. 立と普及に大きな意味をもっており、後の小学校の国定教科書も「である」 「で. が採用されていた。むろん、言文一致体の非話しことば的な要素は、. ある」にとどまらない。従来の漢文・和文さらには、欧文の要素を取り込 んでいるのである。欧文の直訳から生じた新たな語法や漢語の訳語によっ て吸収された多くの語嚢も重要である。. (38). 小説における言文一致体も、先に述べた国語調査委員会の設置や小学校教 科書における言文一致体の採用と同時期に確立されるに至る。山本正秀の 調べでは、小説作品中に言文⊥致体採用作品の占める割合が、 78%だったが徐々に上昇し1908年には100%となっている。. 1905年には (39)ここから、. 日本の近代文学の言語的な方.向性は、準文でもなく俗語でもない「中間言 語」に向かっていることがわかる.小説における言文一致体の確立にあた. -23-.

(22) っての最大のポイントは、一般の文章同様に文末辞の確定であった。そし て、尾崎紅葉の「である体」の成功によって、一応の確立を見たのである。 それが本格的に受容されるのが、明治40年代の自然主義の作家たち、田山. 花袋や島崎藤村らによってであった。小説において、東京出身の山田美妙 の『二人女房(1891)』 輩は猫である(1905). 、イギリスに留学し英文学を学んだ夏目淑石の『吾 』 『坊ちやん(1906)』などの作品が、従来の言文一. 致体を大いに前進させ、国語認識に新たな変化をもたらした。. (40). 明治の文語文は、江戸時代の多様な文体の要素、そして欧文の文体を吸収・ 総合した文体である。. 「中間言語」は、ただの俗語を写した文体もしくは. 漢文訓読体ではなく、両者の媒介役を果たせる言語変種なのである。それ に話しことばの語法・語嚢を加えて、いわば伝統文語文からの「脱皮」に よって日本の「標準語」は成立したのであろう。. 3.まとめ:エジプトと日本の言語改革の類似点と相違点 本稿で考察したように、エジプトにおいても、日本の「標準語」に対応す る言語変種を成立させる運動は成功した。. 「民衆語(中間言語). 」,の規範. が形成されたに伴い、次第にエジプト固有の「近代文学史」が確立された。 同様のプロセスで、. 20世紀初期から「確立された『日本文学史』が西洋近. 代の『国文学史』史に習って、日本の文学史として、. 『発明』され」た(41)0. 一方、アラブの諸民族の統合を象徴した「アラブ・ナショナリズム」イデ オロギーは、この民衆語の存在とその進化を公認しなかった。. 「イスラム. 社会」主義に基づくナセル革命(1952年-)は、結局、自分のイデオロギ 「東洋言語」. ーを正当化するため、西洋的な言語モデルが選択されずに、 的なパターンとしての、フスハ一変種を復活することになった。この時点. で、エジプトの言語社会において国家レベルでは公用語とされたのは、伝 統文語フスハ一語そして、それに平行して「エジプト化」イデオロギーに よって確立されてきたのは「中間言語」であった。.後者は、日本の「標準 語」のようには、エジプトの「国語」として採用されなかったのであるQ その要因は、言語学的な問題ではなかった。言語を超えて、エジプト人の 思考を支配し、その文化の発展を妨げる政治的な要因である。その一つは、 いわゆるアラブの傘のもとでの「アラブの大義」という半世紀余り続いて. -24-.

(23) きた思想が働いていたからである。この言語の「標準化」の不在は現在エ ジプト及びアラブ世界の「複合アイデンティティ」の要因の一つであり、. 国家統合と経済発展の障害となっているとも言える。 日本においても、言文一致運動の成果として創り上げられた新たな「中 「言語. 間言語」が国語化され、社会に承認されるのは容易ではなかった。 スタンダード」という新しい変種の普及は、文体の未成熟という言語的な 要因に帰することはできない。むしろ、文体のもつ権威というイデオロギ ー的な作用及び社会・政治的な条件を考慮すべきであろう。さらに、日本 は「 『国語=national language』をペースとする西洋式をわざと無視して、 『漢文(-正則による中国語と日本化した). 』の著述を含むバイリンガル. の『文学史』となったことを『伝統の二重の発明』と理論化してきた」。 (42) 戦前までは、日本の言語社会においても、エジプトと同様に文語と、それ と平行してその下位に存在する俗語の関係が、依然として残っていたので ある。さらに、それに加えて新しい言語型としての「中間言語」がつくり. だされた。これは第二次大戦までの日本は、天皇制や貴族制の存在にみら れるように、社会の内部に階層性が制度的に温存されており、国家の成員 すべてが制度上は平等であるという厳密な意味での国民国家ではなかった ことと関係している。このような日本の戦前の言語状況にみられた言語的 な不安定性は、むろんエジプトにも見られた。だが、日本では1945年、日 本人の社会的・政治的意識を変える大きな変化が起こった。敗戦により「天 皇制国家」が崩壊し、. 「国家」と「国民」に関する考え方が根本的に変化. することになったのである。それにともない、社会一般における文語文の 使用に終止符がうたれた。戦後の日本国憲法の内容でも分かるように、史. 上初めて日本の民衆は、平等原理に基づく国民国家を形成する「国民」と して正式に宣言されたのである。そして、その憲法が、. 「中間言語」変種. で書かれていたことは、象徴的である。日本社会の民主化にともなって、 言文一致運動に続き、日本型の「言語ナショナリズム」の結果として確立 「共通語」として公用文に採用され. した「中間言語」が完全に承認され、. たのである。.これは現在、国民国家を運営し、国民を統一する有力な媒体 となっている。中間言語は、日本人の大部分をしめるようになった中間階 層によって発展させられ、現在のいわゆる「共通語」に至った。その確立. と普及は、共同体-の帰属意識を必要とする国民国家の成立の条件なので. -25-.

(24) ある。それゆえ、共通語と言文一致体の両者がともなった、規範性を過剰 に要求した国語教育が行なわれた。しかし、中間言語は、決して共通語以 外の多様な地域的・階層的な変種を消滅させるものではない。現在でもさ まざまな変種が生まれ、使用されている。ただ、中間言語という変種が、 学校・テレビ・新聞・マスメディアなど、といった社会的な言語要求に対 応し、社会の大部分の領域に普及している。また、それが「日本人」の一 体性の想像に大きく貢献していることは間違いない。 戦後のエジプトと日本の国語認識に依存する、中間言語の承認をめぐっ て、エジプトと日本において違いが生じた。日本の場合は、戦後はどちら かと言えば話しことばに近い、中間言語が公認された.日本は単なiる俗語 を書きことばに使用したのではなく、中国語に由来する古びた漢文を完全 とは言えないが見捨て、中間言語としての標準語を見出したことによって 文化的に「脱亜入欧」できたのである。言文一致運動の結果として変身し た「日本語」は、あらゆる言語要求に対応でき、古びた漢文と俗語との間. の媒介役であり、さらに、現代「同化思想主義」に成り立っている日本の 国民国家を成立させる大前提である。 エジプトにおいては、その「中間言語」に対応する言語変種は、勿論の こと存在し、エジプト型の言文-敦運動、それに続く「言語ナショナリズ ム」による、エジプトの「民衆語」. pと見なすべき言語規範の形成は、言語. 学的には成功した。だが、これは、政治的な要因により、国家運営のため の「国語」として採用されなかった。エジプトでは中間言語が公式に受け. 入れられなかったため、現在のエジプトを初めとするアラブ世界は、日本 のように公認された言語の「標準化」の不在、という現象に悩んでいる。. また、アラビア語圏におけ.る「複合アイデンティティ」と「文化の多元構 造」の要因はそこにあると思われる。この間題について、次の機会に考察 する。 《注》 :本論文は2005年6月18日で行われた第3回目本譜教育学会で発表さ れたのである。. -26-.

(25) 《参考文献;BIBLIOGRAPHY》 (1). Adel. Amin. S.. 『エジプトのナショナリズムと国語認識-日本の. 1999. 国語形成を念頭において-』三元社。 (2) 「ダイグロシア論」について、 Word(N.y) 15. AdelAmin. Ch.Fergson. S.. 2004. Faculty. the. 1959、. Diglossla、. P. 325-. 「ダイグロシア現象と文化多元構造一日本・ギリシア・ "aoraq. エジプトに見られる問題角群と-の試み-」 of. A.. Arts、. of. Uni.Vol.64. Cairo. kilasikiyah". Bulletin. 、. No.5.. (3)近代以降、国語国字問題に関する資料及び研究において、吉田澄夫と山本正. 秀の資料・研究を主に上げられる。最近の研究では森岡健二や平井昌夫や安 田敏明や土屋道雄などの下記の書が注目を集めている。 山本正秀編. 吉田澄夫編. 1965. 『近代文体発生の史的研究』岩波書店. 1971. 『言文一致の歴史論考』桜楓社. 1978. 『近代文体形成資料集成. 1979. 『近代文体形成資料集成 成立篇』桜楓社. 1950. 『国字問題論集』冨山房. 1964. 『明治以降. 森岡健二編1991 編1992. 発生篇』桜楓社. 国語問題論集』風間書房. 『改訂 近代語の成立 『近代語の成立. 語桑編』明治書院. 文体編』明治書院. 平井昌夫. 1998. 『囲語囲字間題の歴史』三元社. 安田敏明. 2000. 『近代日本言語史再考』三元社. 土屋道雄. 2005. 『国語問題論争史』埼玉大学出版部. (4)前島密1955、鴻爪痕、前島会、 (5)同書、. p.. 153-154;吉田澄夫、前掲書39-43頁。. 158頁。郵便制度を日本に導入した前島密は、次第に漢字を廃して平仮. 名を専用し、国文を興すべきであることを論じてきた。 (6). Aston、. W. G. 1871. Kelly&Walsh、. (7). Baba Truber:. Tatsui and. 、. Gram岨r. Hakubunsha、 、. 1873. Of. theJapaneseSpokerlLanguage. London:Truber. "Elernentary. Grarrmar. and of. 、. Yokohama、. Co.. Japanese. Language". London. Co.. (8)吉田澄夫1964、前掲書、. 44-55ページ。森有礼は明治時代において、啓蒙. 雑誌『明六雑誌』の設立者の一人で、文相となり、学校令の公布など教育制 度の基礎を固めた欧化主義者であった。明治帝国憲法発布の当日国粋主義者. -27-. ・.

(26) に暗殺される。 (1847-1889)同氏の語軌阻いついてイ・ヨンス1990 礼と馬場辰猪の日本語論」 『.酎鮎795 (9). spitta. "Arabischen. W. Bey 1880. Buchhandlung、. :. Vulgardi. 「森有. 49-64頁。 Aegypten". Yon. J. C. Hirlrichssche、. Lelpzlg.. (10). willmore. Selden. (ll). william. Willcoks. (12). Adel. "The. 1901. 、. spoken. Arabic. of. Egypt"、. London.. γol. 10 『アズハル誌』、. 1992. 「19世紀末におけるエジプトの『民衆語』認識-エジプト. A皿in S. 1998. における語ナショナリズムの前夜(1880-1900). 」. 『日本中東学会年幸Rj]. No.13.. (13). Nadim al、. Lugha. "Alーustadh". 1892. abdal-1ah、. Arabiya. al、. (14) Nadim占bdal11ah、. Dirasat. ibid、. (15)その内容の記録はAdel. Tarikhyy. 1983、. Am上n S.. (Reprint)1983、 al、. hal-a. Jamasi Menem. al、. 3ama. Majma3. l卜1Kitaab.. 6月号. 1998、前掲書;この記事自体が「アンミ-ヤ体」. で書かれている。原稿制限のため、ここで掲載しないがNadim. 1983、. 、. 10月. 号。 (16)(17)Nadim、. ibid. 1983、. 11月号。. (18)江戸生まれの二葉亭四迷が1887年『浮雲』を書き、言文一致体を実用化した。 ⊥坪内祐三偏、 (19)福滞諭吉1866、. 『明治の文学 第5巻. 2000. 二葉亭四迷』、筑摩書房。. 『西洋事情』、尚古堂2-3丁. 1866. (20) 「福揮諭吉と外国語」については、. 1989木坂. 基『近代文章成立の諸相』、和. 泉寄完、 398-361頁. (21). Adel. Amュn. S.. 2004、年前掲書。. (22)アラビア語でエジプトはMIsrといい、 (23). Lotfl. Said、. "ajrjarlda". 1913. 、. Misrllは、エジプト人をさす. Cairo、. Egypt.これらの論説は順に4月号.. 5月号に載っている。 (24). Abdel、. Mousa (25)■. Haq. Abdel、. Salamah.. ". 1945. At-taqadumPrint、. (26) (27) Mousa、. Aziz. Cairo、 ibid、. P.. 1925. "Al,Adab. Al, BALAGI肌. Al,Qotmi" AL,ARABIYA. cairo、 Wal,Lughah. P. 15. Al,Arabiya.. P. 43-44.. 47-50/P. 28-29. (28)改革派の内、アラビア語の伝統的な文法構造の見直しと基礎文法の再分類を新 しい科学的な論で強調したのはS.ホサリーであった。フスハ一に対抗する革 新的な世代を代表した彼は、 「中間言語」の創造を目標とした。彼は、 他の改. -28-.

(27) 革派と同様にエジプトの公立学校の当時の教科書『アラビア語文法基礎』を 全面的に批判した。この教科書の内容も方法も「知性と論理を否定している」 と主張した。また、彼は西洋の言語学の方法論とその論理がアラビア語文法 に応用されること望み、アラビア語の文法のための新構造を提案した。この 案は、 「伝統的文法による詞と動詞と小辞という、単語の古い分類を取り消し、 それに加えて、西洋古典的方式を採用しようとした。旧概念としての名称を 代名詞と動名詞と能動分詞と受動分詞から分離し、これらを独立的な品詞、 即ち形容詞と代名詞とに分けた。そして、それらを、広い意味での動詞の仲 間とした。動詞の3つの分類[過去形、現在形、命令形]に第四の類、即ち未 来形をつけ加える」 (29)Amin. Ahad. 1944、. Husari. 1958、. P. 11卜113.. Must?qbal Al, Adab Al, Arabi、. Majalit A-thaqafah. VoI No・ 280. P.6-7.. (30)福田こう存1962. 『国語問題論争史』新潮社、 123頁。. (31)上田万年1903. 「内地椎居後に於ける語学問題」 『国語のため 第二』、冨山房。. (32)文部省1902. 「図譜調査委員曾決議事項」『官幸田5699号7月4日。 『語学雑誌』三ノニ「国語調査委員合決議事項について」. (33)保科孝一1902. 山本正秀編1979年、前掲書。 (34)上田万1897. 「言文一致につきて」. 土山本正秀編1978年、前掲書、. 『帝国文学』三ノセ<雑報>P.8卜 783-4頁。. (35)島村抱月1898年「小説の文体に就いて」 (36)同書、. 『読売新聞』5月9. 10日. 5月9.10日。. (37)島村抱月1901. 「言文一致の現在、未来」. 『新文』-ノ六、. 3頁。. (38)欧米語の翻訳語に関して;森岡健二1991年、前掲書にご参照。 (39)山本正秀1965年前掲書、. 51曳この調査に対して、鈴木貞美が最近書いた論. 文の中で「言文一致論を、まるで漢字廃止論と並ぶ大きな変革の提言のよう に扱っている。さらに『もっとも先行したのが文学の分野』 も疑わしい」と指摘したo. 2005年「言文一致と写生再考-. ≫とある。これ 「た」の性1各-」 『国. 語と国文学』、東京大学国語国文学学会、 7月号。. (40)言文一致体が実践されたと言え、この時期以降でも、樋口一葉の『たけくら べ(1895年). 』や文化勲章でも受賞した幸田露伴のように、上品で美しいこ. とばとして思われた「雅文調(平安時代の仮名文) (41) (42)前掲書、鈴木貞美、. 2005年。. -29-. 」で書いた場合もあった。.

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