( i ) 巻 頭 言
齲蝕治療の歴史を振り返る
山 田 嘉 重
齲蝕は私たち人間にとって切っても切れない厄介な疾患です。かなり以前から齲蝕が 起こらなくするための薬の開発などが期待されていますが,今をもってその開発は夢の また夢というのが現状です。特に近代に入り様々な食生活がバリエーション豊かに展開 されてくるようになると齲蝕に罹患する人の割合が多くなり,齲蝕は現代病の一つであ ると考えられるようになっています。齲蝕に罹患する人が急激に増えたのは16世紀に 入り,砂糖の栽培が開始され,世界中に砂糖が広くいきわたったことが大きく関与して いると言われています。一方,齲蝕とその治療法に対する歴史は意外と古く,20万年 前にはすでに齲蝕らしきものがみられていたようです。約10万年前になると歯を抜い たり歯を削ったりする習慣が日本および海外で見られていたとの報告があります。もっ ともその時期の齲蝕の割合は非常に少なく,今のようにほとんどの人が齲蝕になるとい う状況とは違っていたようです。約1万年前あたりの縄文時代から弥生時代になると,
齲蝕に罹患する人の割合は増加してきたということが最近の研究で分かってきました。
さすがにその時代では現在のような治療を行うことは難しく,齲蝕に罹患した歯は抜き とるという原始的な方法しかありませんでした。
同様な時期において,興味深いことに海外では齲蝕が発症する原因は歯の中に虫歯の 原因となる虫が入り込むことが原因であると考えられるようになってきており,むし歯 を治すには歯からむし歯の原因虫を追い出せばよいという誤った考えの治療法が横行す るようになってきました。そのためこの時代には歯の虫を追い出すため『ヒヨスの実に よる薫蒸法 』という方法が考案され実際に行われていたそうです。ヒヨスとはナス科 の植物で強い毒性があり,動物に投与すると少量で死に至り,人間では嘔吐,痙攣,幻 覚,瞳孔拡散などの問題症状が出現するとされる危険な植物です。ヒヨスの実による薫 蒸法は,このような大変危険な植物の実を焙って直接口に煙を当てて,虫を歯から追い 出そうというなんとも奇天烈な方法です。当然人間に対して無害なわけではなく,多く の患者がその後大変なことになったことは想像に難くないことでしょう。同じようなナ ンセンスな治療法としては,祈祷による齲蝕治療が挙げられます。今の私たちからする と笑ってしまうようなことですが,紀元前2000年ぐらいではこの祈祷による齲蝕治療 は盛んに行われていたとの報告が数多く残っています。
齲蝕治療ではないですが,齲蝕予防のためのユニークな方法が日本独自に行われてい ました。それは多くの人がご存じかと思いますが,『お歯黒』というものです。弥生時 代(1500〜2000年前)に入ると,むし歯が蔓延するようになりました。そのためむし 歯にならないため,またはむし歯になってもむし歯が悪くならないようにお歯黒をする
( ii )
習慣が始まりました。お歯黒には口腔衛生習慣が十分に発達していなかった時代におい て,口腔内の悪臭・虫歯・歯周病の予防に大きく寄与しており,当時の口腔の美容と健 康の維持のため欠かせないたしなみであったそうです。その後お歯黒は平安時代に入る と,皇族や平安貴族のおしゃれとしても流行していき,戦国時代になると戦国武将も積 極的にお歯黒をしていたようです。ただしその際の目的は齲蝕予防などの口腔衛生が主 目的ではなく,上級武士のあかしを示すための化粧の意味合いが強かったようです。こ のお歯黒は日本では普通に行われていたものの,海外からは非常に奇妙に見られており,
『黒歯国』と揶揄されるようになりました(魏志倭人伝などに記載されているのが現在 に残っています)。もっとも江戸時代になると,悪臭や手間,見た目の問題などで,徐々 にその習慣は廃れていき,既婚女性や遊女,芸子等のみで行われており,最終的には明 治3年に政府からお歯黒禁止令が出ることでその習慣はなくなりました。
20世紀に入ると私たちになじみの深い高速回転切削器具であるエアタービンが開発 され,歯科治療の効率は多いに向上していきました。また歯冠修復材としてのコンポジッ トレジンの登場も現在の歯科治療の発展に大きく寄与していることについて異存のある 人はいないと思います。コンポジットレジンは1941年にドイツで販売されたアクリル
(
MMA
)系レジンを改良したものですが,コンポジットレジンの開発は名のある企業 が行ったのではなく,米国の開業医であるR.L. Bowen
によるものということは大変興 味深いことです。彼は趣味で自宅の裏庭に研究室を作り独自でMMA
系レジンの改良 の研究をしていたところ,米国標準局にその功績が認められて本格的に研究が始まった とのことでした。現在コンポジットレジンは日本を含む世界各国で開発・販売されてい ます。コンポジットレジンは年々硬さや色調などの性質が向上しており,近年の審美的 治療の要求の高まりと相まって部分被覆の歯冠修復材としては金属を使用した修復から 取って代わる材料となってきています。たった一人の開業医の研究が世界の歯科界の歴 史を変えることになるとはなんとも夢のある話だと思いませんか。このように我々が日々当たり前に行っている歯科治療についても,過去を振り返ると 意外と思われるような背景が数多くあり面白いものです。
(奥羽大学歯学部歯科保存学講座 教授)