跡見学園女子大学国文学科報第十三号(昭和六十年三月十八日)
﹃和 歌 之 切 字 可 心 得 事 ﹄ 二 種
川平ひとし
題に示した二種の書の性格を検討し︑これらの書の担っている問
題性あるいは位置について説き及んでみたい︒二種ある内︑便宜的
に一方をA本︑他方をB本と呼ぶことにする︒
1 A 本
A本として従来知られているのは浅野信氏蔵本﹃倭謌切字﹄(外
題)で︑これについては既に浅野茂による翻刻と切宇研究の立場か(1)らの考察がある︒周知のように︿切字﹀の説は中世以後︑連歌論・
俳諧論の領域において広く展開されて行くが︑浅野本は︑﹁和歌切
字﹂の名を伝えており︑和歌の領域において︿切字﹀の概念がどの
ように用いられていたかを窺いうる資料と目される︒その内容を確
認しておくと︑浅野本は︑ω内題﹁和歌切字可意得事﹂のもと︑②
切字一覧︑と仮りに呼ぶ語句の列挙が冒頭にあり︑その後に︑③三
七首の例歌を掲出︑一々に註を加えている︒その註文中に﹁切字﹂ の概念を用いつつ述べるところがあり注目されるのである︒巻末に
は︑④奥書が次の如くある︒
ω此一帖且者其恐且者辱耐至極之事者也穴賢々々
右に続いて更に︑⑤﹁一和歌詠スルヤウ稽古別ノ寞無之候﹂以下
の︑詠歌の﹁要意﹂を説いた一段が置かれている︒そして最末に︑
⑥次に掲げる二種の奥書を持っ︒
⑭右自烏丸資慶卿以片仮名書之伝細川丹州牧行孝云々余慨友人三
浦疑之本自写之以姑蔵于家□云
09于時元禄十六癸未天九月末六日於武江府下坊写字之可秘一巻而
已板橋氏定暴膕
さて以上のような書が何時成立したのかという問題は︑﹁和歌切
字﹂なる概念の形成を考える上で︑また︿切字史﹀の一齣を見届け
る上でも重要となろう︒いま︑浅野本に基づく同氏の所説を参照し
ながら︑本書の成立につき想定しうるところをとり纒めてみよう︒ 一21
︻
まず奥書に烏丸資慶(寛文九年(㎜)薨)の名の見えるのは注意され
る︒仮りに資慶作とすれば成立は江戸初期だが︑成立の下限として
は奥書09にある元禄十六年(3071)を考えておくべだろう︒但しそれ
以前に﹁和歌切字﹂の概念は存したはずであるが︑何時︑誰の唱え
出したものかは不明︒ともあれ本書は和歌における切字論の︑早い
時期の資料としては﹁唯一のもの﹂(浅野氏)と評価される︑という
ことになる︒
ところでA本の伝本は他にもう一本見出しうる︒同本を参照する
ことによって︑右で想定したところは再考を要するのではないかと
思われる︒一本乏は︑宮城県図書館蔵伊達文庫本(伊.㎝.矧.41)﹃和尸(2)歌之切字﹄(外題)である︒同本は次の書写奥書(先掲㈲のωの一文
のあとにあり)を持つ︒
明暦二年八月十一日従飛鳥井大納言
雅章公令借用即剋書写之者也
中山三柳法眼
右の記載は信じてよいものであろう︒注意すべきなのは浅野本・
伊達本の異同である︒本文の字句にもとより差は少ないが︑無視で
きないのは︑伊達本の本文は︑浅野本に見える先記ω②③ωで終
り︑⑤とそれ以下の部分を欠いていることである︒而して細かに見
ると︑この⑤の内容は︑実は﹃資慶卿口伝﹄(日本歌学大系6所収)に
他ならない︒従って直ちに次のような推測が導き出される︒浅野本
に見える⑤は後補であり︑本来はこの部分を持たなかったであろ
う︑というように︒この点は︑ω迄の歌註部分と伺とが形式・内容 ともに全く様相を異にしていることからも容易に認められよう︒ま
た伊達本奥書に見える雅章・三柳らの手で︑本来存していた⑤がこ
とさら切り除かれたというような不自然な想定をする必要もあるま
い︒浅野本において何故あるいは誰の手で﹃資慶卿口伝﹄が付加さ
れたのかの理由はなお問われるべきであるにしても︑A本の本文
は︑もと伊達本の如き形であったと積極的に推定してよいと思う︒
となるとA本の成立をめぐって次の二点を指摘しうるであろう︒
・作者
烏丸資慶作は存疑︒むしろ資慶を除外して考えるべきであろう︒
・成立時期
浅野本⑥・㈲に見える﹁元祿十六﹂年はもとより原著の成立時を
示すものではなく︑書写奥書の年次︑つまり享受の反映と見倣すべ
きである︒当の奥書から元禄十六年時点での流布を知りうるが︑伊
達本奥書によれば︑A本は更に五〇年程遡って明暦二年(656)時点
において既に行なわれていたことを確認しうる︒但し両本をもって
してもなお原著の作者・成立年次そのものは特定しえない︒
詳かではない点はやはり残るものの︑A本の成立ーひいては
﹁和歌切字﹂概念の成立iは従来考えられていたより︑少くとも
ヘへ約半世紀以前に遡らせうることは確実であろう︒では果してそれは
何時まで遡らせうるものなのか︒
ここに近世初期から更に中世へと遡源させうる一つの通路を見出
すことができる︒その通路をもたらすのは︑A本と密接な関係にあ
るB本である︒ ︻
22
一2
B 本 ‑ 伝 本 ・ 構 成 ・ 内 容
B本は多く﹃和歌当務抄﹄(外題)の名で伝わっている︒東常縁の
著作の一つとされ︑既知の資料に属する︒しかし著者についての理︑︑(3)解に一定の揺れのあることに現れている通り︑内容を初めとする本
書全体の吟味は︑従来必ずしも充分でなかったと思われる︒前節末
に記したように︑A・B両本は緊密な関連を有しているが︑当の関
連のあり様を尋ねる為にも︑まずB本の性格を明らかにしておきた
い︒
﹃和歌当務抄﹄の伝本として直接確認しえたのは次の三本︒いず(4)れも江戸期写の一冊本である︒ a静嘉堂文庫蔵本(皿・44・嬲)
b宮内庁書陵部蔵鷹司本(616■9022)アc三康文化研究所附属三康図書館蔵本(5・おー)
これらは全て同一の本から派生したと考えられる︒書写時期の最
も早いのはaで︑本文も比較的すぐれている︒構成を辿りながら本(5)文内容を大まかに見ておこう(aの本文に拠る)︒
ω外題﹁和歌当務抄﹂︒②内題は﹁和歌之切字可心得事﹂︒③﹁切字
一覧﹂(仮称)を冒頭に掲げる︒そののち︑ω歌を掲げて︑歌毎にあ
るいは数首まとめて註文を付す︒掲出歌は一一二首︒これらの後
に︑⑤一つ書き九項目の条々がある︒⑥再び元の形式に復して︑素
暹歌一首を掲出︑註文を付す︒本文は以上で一旦終る︒⑦以上の奥
に次の如くある︒ 蜥条ζを見認て︑てにはの様を納得/あるへし︑此一帖努ζ不
可有外見候/且者其憚且者耄昧之覚悟︑耐耐至極事共也︑穴賢﹀̀﹀ζ
永享元二月吉曜平常縁粧
右ののち︑⑧新たに﹁和歌秘説﹂と端書して︑一つ書きの七項目が
ある︒それらの末尾に﹁七月十一日﹂の日付と﹁氏成﹂の署名を持
つ︒⑨書写奥書の類が以下の如く続く︒
右之条ζ︑水無瀬中納言氏成卿︑九条道房/公︑松殿道基卿江
相伝之秘事也︑申/出シ書写之了/右他見不可有之者也
正保二年五月十一日/太田祝正四位下賀茂氏徳所持也
貞享四年七月昔五日令借用書写/之了/賀茂保助(墨印)
最初に付加的部分を除外しておこう︒⑧の部分は︑それ以前すな
わちいま問題にしたいB本部分に合写された別の書だと見做しう
る︒それは⑨の奥書や書写の体裁から察知されるところであるが︑
内容からもまた承認されるであろう︒すなわち︑これらの七項目は
三光院三条西実枝の説を継承した説を交えた水無瀬氏成編になるテ(6)ニヲハ論書であると判断される︒B本の鍵ともなる︿切字﹀の概念
は⑧の部分には見られない︒元来B本とは切り離して別の一書とし
て扱われるべきものである︒ちなみに⑧はB本と結びつくことなく
単独でも流布しており︑その種の伝本が幾つか伝存していること
も︑右の次第を裏づけている︒更に決定的なのは︑⑧の部分を持た
ず︑ω〜⑦のみを具備している伝本ー先掲aboに新たに纐とし
れ
て加えうるー東北大学附属図書館蔵狩野文庫本(狩.4.伽.1) 一23一
(8)﹃和歌秘書﹄(外題)の存在することである︒同本にょり︑B本の内
容はω〜⑦の部分に限定されるべきことが明らかとなる︒(9)後人により付加されたと考えられる水無瀬氏成伝書の部分を直接
の検討対象から除き︑言わば純化を施した上で︑改めてB本の性格
に注目してみょう︒
3東常縁著作説の可能性
最初に著者の問題を考えてみる︒以下の論点を先廻りして言え
ば︑B本は東常縁の著作である根拠を確かに持ち︑同時に疑わしい
点をも含んでいる︒
まず常縁作を裏づける諸点を挙げてみたい︒第一は︑何より奥書(前節に内容を一覧した内の⑦参照)に常縁の署名のあることであ
る︒徴証を更に本文の内部に求めてみよう︒第二として︑東家︑特に
東素暹を重視する意識が働いていることを指摘したい︒掲出歌二
二首の作者は広く平安朝歌人から中世歌人へ及び︑新古今歌人を比
較的多く採るが︑末は為氏・頓阿に至っている︒中にあって素暹(東胤行︒常縁はその末裔)の歌をご首採っているのは異色と言えよう︒
しかも排列の中で見ると︑右二首は︑うち一首が96番目に︑他の一
首は︑先記した⑥のように一一二首の最末に据えられている︒この
⑥の部分が本書の体制から見るとやや特異であることは先に示した
ところから知られる通りである︒また同歌の註文では︑素暹を﹁堪(10)能﹂として扱っており︑素暹歌ならびに素暹に特別の待遇を与えて いると言ってよい︒常縁じしんの素暹!自らの遠祖であり︑かつ
東家最初の勅撰歌人であるーに対する特別な意識は﹃東野州聞(11)書﹄に窺えるところであり︑B本における待遇も又そうした意識と
軌を一にするものと考えられる︒
第三に︑二条家の門流に連なる意識が色濃く現れていることも根
拠となろう︒掲出歌に為民・頓阿の見えることは先程触れたが︑一
層端的なのは︑歌註群の後に置かれた一つ書(先記㈲)のうち冒頭条
の末尾辺りに記されている︑
古今ノ哥いつれおろかハ侍らねとも︑常二見習ヘキ物ハ俊成︑
為家︑老師法印︑頓阿ノ哥ヲ見侍るへし︑是当流ノ手本也(12)という言説であろう︒そもそも右を含む九箇条は︑諸書の記載を引
用し︑併せて若干のコメソトを付した体のものであるが︑その多く
は﹃井蛙抄﹄雑談の抄出だと認められる︒これも頓阿の系譜︑ひい
ては二条派の門流に立つ意識の現れであり︑常縁の立場と矛盾しな
い︒
第四に︑今し方引いた一文中の﹁老師法印﹂とある名称に注意し
たい︒常縁と結びつけて考えると︑右に云う人物は﹃東野州聞書﹄
に繰り返し登場する﹁法印﹂堯孝その人と重ね合わせてよいのでは
なかろうか︒﹁法印﹂の名はB本九箇条の中に︑右の他に二箇所︑
﹁⁝⁝常二法印かたられし也﹂(第三条)︑﹁法印常に被語侍りし﹂(第八条)の如く見える︒これらは堯孝門常縁の筆録したものとして
適わしいであろう︒
右に挙げた第二から第四までの諸点は︑常縁の著作たることを直 一
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