経済学説史の方法−経済学の現状に ついての批判と展望のための(4)
川田俊昭
ケインズの批判‑ 「経済学の革新」,それは技術的・手続き的に言えば, 変数(既成の)の組合せの変更‑変数が常数に(或は,常数が変数に)変
るだけのことに過ぎない。
「創造とは,既存の素材を創造者個人に関する限り,新しく組み合せるこ とである。」 (E.K.v.ファンジェ)
シュムペーターの所謂「新結合の遂行」。
しかし,実際,それ(乃至そこに至る過程Dialektik)が如何に(卓抜 な)創意を必要とし,且つ(気長い−とも言える)内的・外的努力…数 多くの葛藤・「闘い」,そして挫折… (しかも試行踏誤と暗中模索として の,内的・無私の)…を要する困難極まる作業であるか(時に,肉体的に も如何に甚大な,激しい消耗を強いられるか) ‑それば,批判を真に体験 し得る(例外的な)特別の個人,即ち天才にのみ感得せられ得る特権(或 は,犠牲)と言うべきである。(一冊のタネ本を御生大事に持ち歩いていると いった−そんじょそこらの亜流・俗流の徒(「集団」所属の)には到底感知し 得ぬこと,勿論である。)
° e
事実,ケインズはそれに相応しい人間であった−と,シュムベータ‑は
「…ケインズと嘗て1時間でも話した人で,彼が人々の中で最も非政治 的な型の人であったということを発見出来なかった者は,一人もない。
政党は,彼にとっては殆ど或は全く無意味であった。…彼は,如何なる条
件でも他の条件では何人とも協力しようとはしなかった−他の何人かの指
揮に服するが如きことは言わずものがなのことであった。彼の忠誠は,法案
への忠誠であって,個人や集団への忠誠ではなかった。しかも,彼は,人物 に対するよりは遥かに低い尊敬を,主義やイデオロギーや旗印に対して払う 人であった
J,と。(lf'十大経済学者.11,
262‑3頁 , 訳
367‑8頁。)
それは実に,シュムベーターの彼自身への大いなる自己評価,底知れぬ自 負・自信でもあったのである。
『ジュリアンはどのサロンにも味方にならず,どの党派にも入ろ うとしてはいません。』
(スタンダーノレ『赤と黒』より)
或は,シュムベーターの言う
o「……『一般理論』は,我々の時代に関するそのヴィジョンを分析的に役 立つものたらしめようとする長い苦闘
along struggleの 最 後 の 結 果 で あ る 。
J( l f ' 前 掲 書 . 1 1 ,
268頁,訳
377頁。)
ケインズ自身,書いている
o(既述)
「本書を作り上げることは,著者にとっては,長い間の逃れようとする闘 い
along struggle‑一思惟と表現との習慣的な方式から逃れようとする闘 い一ーであった……。
J([1一般理論.11,序)
本稿における筆者と全く同様趣意で,我国の現状を批判しつつ,且つ個人 (個人的天才,その努力)に問題を集約せんとする一人に(これ又, 畑違い"
ではあるが),吉村貞司『中国水墨田の精髄ーーその逸格の系譜』がある。
同署「あとがき」に,言う。
「日本画はどうして面白くないか。私は,日本固に大天才が現れなかったか らだと考える。……公平に見て,日本画は洋画に比べて見劣りがする。……と んなことを言ったら,日本画壇あげての袋叩きに会うことを知っている。それ にも拘らず,不遜の誹を顧みずに発言するのは,日本画があまりに国内に己れ を制限して,日本のための日本画ときめこみ,世界性〔世界に通ずる普遍性,
客観性(としての民族性,個性))を失っているからである。〔所謂 夜郎自
大我国諸権威の・…・・ 盲蛇に怖じず"か。〉更に切言するならば,油彩さえ
も世界的な眼を見開いて仕事をしている人は殆どないと言ってもいい。〔明治
以降一一藤田嗣治はその唯一の例外であった,と筆者は考える。ノレノアーノレ
もどきの梅原竜三郎に至つては,もはや論外である。〕……その原因は加山又 造が繰返して言っているように,日本に紹介された文化が,嘗ての中国文化に しろ,明治以降の世界文化にしろ,余りにも完全であり,完成され尽されてい たからだと言える。絵画においても,与えられる手本が完成されたもの〔マル クスの所謂「完成品として……輸入された
j,……シュムベーターの所謂「高 度に持続的な構造がそっくり一国から他国へ移転される場合j)で,そこに至 る骨身を削る苦労を取除いたものであった。完成されたものを己れのものにす るためには,何よりも先ず技術〈筆者の所謂「認識論
J= r狭義の方法論
j, しかもその皮相な現象面としての一半,有用性〉の問題であった。〔広辞苑に 日く。「 技術的"……本質的・原理的な面は別として,実際の運用・運営の面 だけに関する……。
j)私達日本人は水墨,油の区別なく,絵画を技術として受 止め,それに些か美感覚の味付をすることに,努力のすべてを傾けて来た。
〔称して 和魂洋才"という。一一科学を支え得る和魂は果して在ったのか
?)だから,規範たるべき巨匠や名作を技術的に再現することに即ち,投写・
模倣〉を観照評価の根本とした。〔模写・模倣の次元では,既成のものだけし か価値を認めない。〕そうした次元には天才(?コもいたし,倖才(?)もい た。けれども,世界は彼等を尊敬することも,芸術家として評価するとともな しただ猿真似の国,美のメ'"セージを送り込むことの出来ない民族とするの である。……いうならば,私達は美の能力を欠如しているのではなく,能力を 発揮することにおいて怠惰であるというべきなのだ。それは, ( 精神"でな く〕技術によって,完全なもの,勝れたものを作ろうとする安易な態度によ る。〔亜流としての我国の径済理論なるものにも,単なる理屈……理屈になら ぬ理屈…・・・ナンセンス……似非の必然性しか感ぜられぬ一一ハートに響くよう な真の論理的必然性の欠落している,所以である。……その様なものの学習 は,我々を神経衰弱か思鈍に陥れるばかりである。学生諸君に同情を
1)…
…芸術は技術以前〔筆者の所謂「価値論
J,
r存在論
j,シュムベーターの所謂
「分析以前」或は 哲学以前")が特に貴重である。先ず,どうしても美で表 現しなければならない目的があり,精神があり,苦悩がある。目的に達するた めに厳しい戦い〔闘い〕を戦い,試行錯誤に絶望し,失敗に血まみれになり,
生命を賭けた仕事の,へトヘトになって漸くに目指した地点に辿りつく。技術
はそうした凄絶な戦いの中で,必然的に生み出されたものなのだ。こう考えて
くると,美術史は技術の歴史や様式の歴史を超えたところに,根源〔筆者の所 謂「存在の根拠と意味J)を見なければなるまい。〔一一「美術史」についてと 同様,我々の「経済学説史
Jについても全く同じことが言える。
)J「……世界が欲しがっているのは,民族的な個性だ。国際的な作品展で,民 族性のないのが日本のコーナーだとさえ言われる。個性がなかったら芸術では ない。どうして藤田岡治だけに名をなさしめるのだ。
J(吉村貞司「絵画を衰弱
から救えJ,羽田新聞 1980年12月5日号。)
「 天才・
H・..平均を遥かに越えて創造の先天的能力をもっ人。
J(広辞苑)マルクス,シュムベーター,ケインズ一一これら
3人 の 第 一 級 の 経 済 学 者・社会科学者(筆者はケインズに対して最も好意的でないが,
I手ごたえ あるもの」の)の学説の目指したところ・<科学批判>の結果は,等しく
歴史主義
Historismus"(古典派・新古典派の流れを介しての,その批判 としての……斯かる意味では彼等は等しく 反主流"であった)……即ち,
理論の歴史化(という形での批判,一般理論化)であった。(もっとも,マ ルクスの場合,分析が「資本
J(ケインズの場合,
r産出高」乃至「雇用呈
J)の単 なる量の問題として処理されたことは,遺憾であった。)
そして,このことは,或意味で一見偶然の様であるが(考えてみれば),
その実必然的なものであった。
たとえば, ジュムベーターの『本質J],更には『発展』における勤学(発 展理論)の志向が,
c.メンガ一対
G.シュモラーの方法論争を契機として い る こ と (‑一一今までに,その正鵠を得た指摘はないが)は,大いに説得力 がある
D方法論争一一ここにおいて,通常指摘されている歴史における理論の欠如 (たとえば,所謂 後期歴史学派"……ウェーパー,ソ、、ムパノレトの努力は,
その補完を目指した)以上に一一理論における歴史(性)の欠如(一一マル クスのはやく指摘していた)が,露呈された。(シュムベーターにとって,
この後の問題こそ,主なる関心事であった。)
B.S
ケアステッドはこの間の事情を,
r経済変動の理論』において一一 特 に シ ュ ム ベ ー タ ー ( マ ル ク ス ) に つ い て ( 筆 者 も そ の 様 に 考 え て き た が
…) ,次の如く要領よく説明している
D「……ウィーンに始まって以来体系的研究のヨリ大きな部分にしつこく食 い込んだ『理論的枯凋病
j(歴史的意識としての価値・問題回意識(価値論〉
の喪失が賀したと乙ろの〉は,分析分野の鋭い縮少をもたらした。我々が経 済変動と称する分野は,表面だけを引掻いている歴史学派の耕作以外には耕 やされずに放置されていた。……この疾患それ自体の中心から出て来たシュ ムペーター教授は,純粋均衡分析から静態研究と動態研究との明白な区別,
〈一一「本質c l l ),後者における内生的諸要因の定義……に基礎づけられる…
…発展理論([J発展c l l )へと移向した。…..ーマルクスも又,変動と発展は経済 社会の本質であると信じた。……だから……たとえ彼が一程の静態的均衡の 概念を利用したとしても,彼は彼の体系を資本家的社会の変動の諸原理……
の分析に向けたのである。
J(94頁,訳
117頁。)
事実,ジュムペーターの『発展』が書かれた当時の歴史的(・学説史的〉背 景・状況( 発展の理論"が自明となっている今,我々においては全く窓外 な)が如伺なるものであったかについて,シュムペーター自身の次の言葉(そ れが何を意味するか,通常全く理解されていないところの)が,何ものにも増
して,我々によく暗示する。
即ち,日く。
「この表題
(W経済発展の理論
Dが如何に不適当であるかということは,未 だに各国から続々と寄せられる私の『経済史に関する著書』への問合せによっ て明らかである。新たに附加された副題(1"企業者利潤・資本・信用・利子及 び景気の回転に関するー研究J
)はこの誤解に対抗するためのものであって,読者がここに見出すものはあらゆる他の経済理論
C理論経済学,純粋経済学〕
と同様に,経済史とは何の関係もないととを指示するものである。
Ja発展],
第2
版序文。〉
ジュムペーターの『本質』においては,斯かる説明が,殊更に明確である。
即ち,言う。
「……現在では尚一一おそらくやがてこの状態は消滅するであろうが一一勤
学においては経済史と経済記述とが殆ど排他的と言える程に支配的であり,乙 の領域における最も価値ある業績は,理論的労作にではなく寧ろこの性格(経 済史・経済記述的〉の著作一一ドイツの著作もこの点で他に劣るものではない 一ーに求むべきである,という見解を我々が抱いていること,これである。」
(617
頁,訳5
99頁。)
「経済記述
Wirtschafts beschreibung J……。
ケインズも(スミス以来の……リカアド,マノレサス……
J.S.ミノレ……と いったイギリス経済学の歴史に即して
λ書いている。
「…・・・使用可能な諸資源の量〔の変動〕に関する問題も,雇用可能な人口数 とか,天然富源の大きさとか,蓄積された資本設備とかという意味では,こ れまで民々記述的に
descriptively取扱われては来た。しかし,何が使用可 能な諸資源の現実の使用を規定するかについての純粋理論
puretheory Cケ
インズの所謂「動態的発展の理論J
)が,特に詳細に吟味されたことは殆どない 。
J([1一般理論~, 4頁,訳
5‑6頁。)
ヘーゲノレは,理性(理念の世界の)の自律的な自己運動の揚句(即ち,原 理) I こ, 純粋"を見る
oシュムベーター(マノレクス)も,然り
Dへーゲノレは彼の所謂 第 l法貝
J"C或は「構造法則
J, 持続")として一般 的法則(静学,形式論理としての)を見るが,それ以上に 第 2法則"
Cf発 展法則
J, 即 ち
Dialektik)に歴史法則(勤学)を見る
oシ ュ ム ベ ー タ ー
(マルクス)も又,然り
oシュムベーターの言う。
「……歴史的状態の不断の変化の事実……歴史的状態は,まさにこれによ って,歴史的時聞において歴史的個体となる
D……夫々の歴史的状態は,そ の先行状態から適当に理解せしめられ得る。
JCW発展J],
89頁 , 訳
147頁。)
その他,シュムベーター(マルクス)に如何ばかりにへーゲノレ(正確には へーゲノレ的なもの)との相似を見るか,計り知れぬ程である
oにも拘らず,こういった点を些かでも指摘した者はいない。ただ,硬化し た頭と狭小な視野をもって,シュムベーター(マノレクス)の言葉をそのまま
〈又は無器用に加工して),鶴鵡(の 集団¥ファッショ的階級制度の完備
した)よろしく,繰返すだけである
oたとえば(一派において),シュムベーターの(経済)学説史観が,一科 学における央雑物を排し純化していった過程を問題とするとしながらも,何 故そこに 純粋"が問題になり得るのか,といったその必然性,肝心につい ての考慮が完全に脱落している
O一一安易な平面的思考(へーゲノレ的思考を 外した)では,この問題(の本質)は捉え難い。
更に,シュムベーターの『本質』が<科学批判>における消極(限定)を 担っていたこと(むしろ,積極としての『発展』を予定した準備作業であっ たこと……その作業自体,彼以前の何人もなし得なかった劃期的な業績であ るが)も理解出来ずに,単に彼の「変化法
J(それは,亜流の世界, トーマ ス・クーンの所謂「パラダイム」を象徴している),或は利子ゼロ論の新規 さのみを評価するのも,同ーの類である。
況して 「発展』における「企業者」の概念が(経済〉社会学的なそれで ある(乃至 純粋経済学"と 経済社会学"との綜合である……マルクスの 場合,確かに我々は純粋経済・経済行為と経済社会・経済組織とを同時にもつ わけであるが)というおきまりの通説に至っては,シュムペーターを理解せ ざることこれ程甚しきはなく(一体,彼等はシュムベーターのどこを読んで いるのか),まさに噴飯物というしか言葉がない。〈乙の点に関しては,拙稿
「シュムベーターの勤学一ーその方法論的註解
J,長崎大学経済学部創立
60周年記念論文集,参。)
彼等
E流が,自分自身,些かでもシュムベーターと共に,或はシュムベー ターの学説に避追する以前に先立つて,同様思考をなした体験が毛頭ない故 の大いなる曲解,乃至誤解というべきである
o更に加えて,
~良事乍ら,シュムベーターがその『発展』の日本訳を何故我国の弟子達に辞めさせようとしたか,或は又,彼が自身の学説を何故そのサ ークノレである弟子達に説くのを遠慮したのか……何より彼は彼自身の人情味 の故に,その弟子達を皮相な亜流の徒に仕立てたくなかったことが指摘され
る
D弟子達が各自みずからの新しい問題を一路遇進,深く追求することによっ
て,むしろ彼自身を超えていって欲しかったことに由る。
而して乙そ,真の弟子ではあるまいか。
真の学問者に相応しい一一シュムベーターのそういった深慮の程を,我々 は改めてよく考えるべきであろう。(マルクスについても, 同じことが言え る。)
「経済学者の若い世代は,本書を単に射撃目標や出発点として一一一層の 研究のための誘導的な予定表として一一見てもらいたい。乙の乙と以上!C,
私を喜ばせることはない。
J(シュムベーター『景気循環論J],序。〉
『汝の道を歩め,そして人々の語るにまかせよ!
j(マルクス『資本論J],
第 l版序文より)
「亜流の徒というのは,師匠の思想を鶴鵡がえし的に繰返す人間や,それ を体系化したりする人聞のことで,師匠の痔えた手から武器を掴み取り,そ れで新しい道を切り聞こうとする人物の乙とをいうのではない。
J(シュムベ ーター「社会科学の過去と未来J
)第 2 次大戦を狭んでの我国の経済学文献〈所謂 近経'¥戦前・戦後の〉
が,そのままピッタリ接合し得たという乙と程,筆者(当時高校生の,経済 学を自修していた〉にとって,唖然・呆然としたことも珍しい。
戦争という一種の閉鎖状態下(或意味で願つでもない好条件下にも拘ら ず) ,この国の経済学者達はーっとして創造と称すべき何ものをも生み得な かったのである
o何たる不生産性!
斯かる始末では,彼等に大政翼賛の 構成体論的"経済学を噸笑する資格 は,全くないといって過言ではない。
もっとも,それは, (筆者の幾度も繰返す様に一一〉我国の文化,更には 文明全般に亘る通弊ではあるが……。(狂信, ドクゃマとして語られる マノレ 経"に至っては,もはや論外と言うより他ない。〉
斯かる 亜流社会"にあっては, (主命よく)人に先んじぞ詰
.5存Zの輸入に成功した者が,常 l 乙勝利者として讃えられる。
そこでは,時の経済学に対する反省・批評の風潮,仕方そのものすら一方 的に輸入され,大根役者よろしく一一深刻ぷって語られる(恰も,自説の如
く)という滑稽が演ぜられる
o(喜劇,或は悲喜劇?)
他方,兎と亀よろしく一一之しい乍らも自らの才能(……生活,生命)
~乙賭けて創造を試みる者……大いなるムダをなす者は,常l 乙口調弄されるのがオ チである
O我国の事情に似た同様事態について, (たとえば)シュムベーターの言及 がないわけではない。
即ち,彼の言う
o(再援用)
「……先ず何よりも第ーに,上記の社会的機構は驚くほど労力節約的なも のである乙とが看取されねばならぬ。これによって,初学者は与えられた忠 告に従い且つ自己に当てがわれた仕事をなす傍ら,自己の教師の力量の止ま る境界線を越える処女地の探究のために,自己の大部分の力量を解放する筈 のエネノレギーを節約しつつ,事実の知覚,問題の把握,方法の掌握をなし得 るのである
o斯くて,ここに瞥見した社会的機構
C<経済学の歴史>,更に はく科学批判>……文化一般は,いわばその函数の筈であるところの〉が,
概念的装備の発展や事実的知識の蓄積を促進するのみならず,更に普通に科 学的進歩となされているものの最有力な動力をも供する主要な要因であると いう点については,何等の道理ある疑念もあり得ないことになる。
J( l f ' 分 析 J ] , 46 頁,訳 89 頁 。 〉
しかしながら,ここに現われる個性は,我国におけるそれ(機械的な学習 によってスポイノレされた……)とは雲と泥,むしろマルクス,シュムベータ ー……或はせいぜいケインズ・クラスの,しかも生々たる個性について,漸
く適合する一一独特な才槌(即ち,天才)における(特別な)場合なのであ る 。
「戦後……今日まさに典型的な亜流主義が優勢を示している。
J(ボヘンス キー『現代のヨーロッパ哲学J],序)
我国で経済学(者)を志す者は(秀才
P. A.サミュエ
Jレソン程の才能さえ
持合せないにも拘らず),ごく僅かの年数で学会発表(或は論文発表)で高慢 の鼻を勤めかす程に上達する(?)のである。一一一つの奇談(或は珍談〉と 言うべきであろう。
その謎は,
r集団
J(既成の階級的・職業的秩序,教授を含めての)による 彼等の身分保障(誤ち,不明,不正を含むものについての)と同時に一一彼等 が積み重ねられた,既成の概念や知識( 道具 ・方法,筆者の所謂「完成さ れた・既成の論理J
)をもって,しかもそれらの及ぶ範囲内での問題(例題,応用問題)を処理しているに過ぎないからである。(所謂"技術至上主義'¥
デ グ ニ ツ ク
悪い意味での技術・小手先の。)
小学生の試験問題よろしく一一問題への解答は予知せられている(乃至自明 である,
n決まったやり方に従えば必ず解けるJ
)と共に,援用すべき参考(欧米の文献目録……その程類,数,更にはその序列も〉も,予め整備せられてい る。加えて,集団お墨付のトラの巻(但し,集団内部,我国内でのみ通用の . 群盲"象を撫でんが用意としての)さえ完備している。(マルクスの所 謂「文献史的博学J
)よく言ってムダは一つもない。代り一一(生々しい,人間としての)主体が ない。対象(としての現実〉がない。……(分析のための努力がないから)仮設 がない。……結果, 自明の理"のみがある。……全体としての新規・創造的 なもの( 研究"の名に値するもの)は,全く期待され得ない。(未知を志向 してこその,研究ではないか。……アメリカ,或はソヴィエト図の御用学派 に,現在同様傾向が出ていることも,又事実である。〉
「近頃の若い人達は,学問がまるで実験室か統計作成室で取扱う計算問題に なってしまったかの様に考える。丁度,
IF工場で』何かを製造する時のように,
学問というものは,最早『全心』を傾ける必要はなく,単 l 乙機械的に頭を働か すだけでやっていけるものになってしまったかのように,彼等は考えるのであ
る 。
J(ウェーパー『職業としての学問~)「今の若い連中は良いものを沢山見ているのに,直ぐその皮相的な部分だけ を模倣する。自分の発見がない……。発見があるかどうかで一流,ニ流が決ま る……。
J(沢田政広,読売新聞社「骨董J,第
5集より。〉
本稿脱稿後,筆者が読んだ最近号の某雑誌の某小説中 l 乙次のような言葉が
あった。
『大体暴力団に入るような奴は,頭の方が少し素人さんよりとろい。自分で 何かを作り出す能力はない。しかし一回人がやった乙とを真似して,それを様
々に応用するのには思いがけない才能を発揮する奴が出てくる。……』
我国の場合,笠,
r暴力団」のみならんやである。一一或は,暴力団(の智 能〉並に,落込んでいるのか。
一体,我国の経済学(者〉から,マルクス……ケインズ……新古典派……そ
もどき
の他諸程の擬を差引いたら,あとに何が残るであろうか……何人が 経済学 者"の名に価する者(人格,個性)として残り得るであろうか。
固有を欠く一一彼等の似非理論に生々たる有機的発展(確固たる地盤の上で の〉を期待し得ないこと,勿論である。(乙のことは,輸入技術に一寸した加工
・修正を施して再輸出し,得々たる一一我々の経済人についても,全く同様に 適当する。)
しかも,こういった事態は,我国の経済学についてのみならず,他の諸科 学,更にはこの国の文化(精神
‑w念,それが我国に在るとして)一般につい ても,広く敷街して見られる現象である。(もっとも,我国の場合,幸か不幸 か,目下,物
n似・模倣もタネ切れとなり,恐慌を来しつつある。一ーという のは,位界そのものが日本的状況に侵されつつあるためだが……。……新たな 段階へのウォーム・アップを試みつつあるためか。〉
のみならず,我国のそれば, (欧米への模倣に止まらず)泣くは,中国(シ ナ)への追従にも,同様事態があったのである。
単なる小手先の技術(技巧〉一一精神‑…・・人間生活の根本における芯味
Sinn ……その関聯・構造(たとえば, rイデア
J,
rブラフマン」……「タオ」
(中国の,但し況中国では包速に見失われつつある〉……など究極的なものに関わるもの〉の
不在。……その皮相 ~~lW ……拙速……。(中国は中国として,インド或は中近東より……而して,更にヨーロッパの文化・文明が,ギリシア(トロヤ戦 争)以来, 京方からの収否"を基礎としていたとしても……。〉
模倣は所詮,校倣である。
一例を示そう。
近世,我国水墨田において, 回型"とまで謡われた田能村竹田(笠者の評
価する唯一の日本人・文人田家)は,長崎 l と遊学の折,最愛の弟子,高橋主主坪
に宛てて,次の如き手紙をしたためている。
「唐人の画を見申シ侯ヘパ,善悪工拙ハ元より御座侯。且ツ十幅見候へパ,
あ し
七八幅ハ仕入れ悪敷ク御座侯。其ノ仕入の悪敷クと申シ候画ハ,何分ニモよろ
て
しく御座無ク侯へと、も,必ズ一程妙処ノ:御座侯而, 日本人ノ、及ノイ不候。」
など
「筆画ニ親切なる処,及ビ難ク候て,小生杯ハ最早絵をば止めようかと思ひ 申シ侯位也。とても日本画工の軽薄ニてハ及ビ難ク候。
J(佐々木剛三『竹田』
より〉
市して,竹田の斯かる感慨は又,不肖隼者の我国の経済学(者〉の現状につ いての, (率直な〉感慨でもある。
日本文化の模倣乃至偽臨(ペテン)性について一一
藤田嗣治(筆者の評価する唯一の日本人・洋画家,我国画壇 l と愛恕をつかし 日本(人〉を拾てた)の夫人(の一人),フランス女性・ユキの日本人評,日本 文化評ほど痛烈なのも珍しい。
たとえば,その一つ,二つを挙げれば,次の如くである。
「……ソンムリエが
rBORDOJと書いたレッテルを貼った葡萄酒の起を持 ってきて,フランスから直送されたものですと言った時には,もう肢が立って 我慢が出来なくなったことを白状する。『ことを荒立ててはいかんよ』と,フ ジタはわたしに言った。
WBORDOでも BORDEAUXでも,どっちだっていいじゃないか。毒になるのは同じことだ o~... ウイスキーでさえもインチキ
だった。彼等は空の
J去を買って,それに木材から作った恐るべきアノレコー
jレ を 詰めて,わたし達のあっけにとられた目の前で栓を抜くのである。彼等は奇術 師の国民であった。…・・・日本に初めて,プラック,マチス, ラウーノレ・デュフ
ィ
, ピカソ達の現代絵画, ロダンのブロンズ, )レワン,ストラスプーノレ,マノレ
セーユ,ムースチエなどの上質のフランスの民芸品や陶器の食器類を送ること
を思いついたのはベップ・デノレニッツであるが,彼はそれらをすべて整備する
のに非常に骨を折った。しかし,その最初の展示会が大成功を収めたので,彼
は当然なこととして,乙の仕事は何年も継続するであろうと考えた。そのため
に,あまり期待し過ぎてはならないというフジタの忠告にも拘らず,彼はこの
仕事に全力を捧げた。……フジタは,
3年後には,絵も家具も物品もみなそっ
くり模倣されるだろう,そして誰も君を必要としなくなり,君は平身低頭して
売り歩かなければならなくなるだろう,と言ったのであるが,果してその通り
になり,べップ・デノレニッツはきれいさっぱりと破産したのであった。……わ たし達は,とある画廊に入るとする。『おや, ラウーノレ・デュフィだ』と思 う。そして近寄ってみると,タナカと署名されている。同じことがピカソやマ チスやノレオーなどについても起るのである。…・・・
J(ユキ・デスノス『ユキの回
想11)「……戎る研究室では,生まれつきの盲人が,乙れ又同じような境遇 にある数人の弟子を指導していた。弟子達の仕事は,先生に教わった通 りに手触りと民党とで色を識別し,それらを画家のために混ぜ合わせる ことであった。しかし,私はよくよく運に恵まれない人間と見えて,こ の時私が見学した限りでは,彼等は教わったことを充分に身につけてい るとはいえなかった。それどころか,教授自身が大体間違ってばかりい た。それでもこの技術者は,すべての研究者仲間から戸援と尊敬を受け ていた。」
i ! ' l . l かなくせに鼻っばしばかり強い街学者……頭は空っぽで,自惚れ が強くて,絶えず悪口ばかり言う……。」
(スウィフト『ガリヴァー旅行記1
1)街学……「原書癖」なる奇妙な伝統が,更に加えて,我国の学究(若い学徒 を含む)を,創造(乃至創造的思考)より遥かに遠ざけていること……ひたす ら原書(原文)に煩っておニューを期待し,ために,単なる舶来模倣の亜流に 堕しているばかりか,更には真の意味での学問的な切瑳琢磨(批判)の場,所 謂 共通の広場"を持ち得ないでいることも,この際,指摘さるべきであろ
0
・
っ
ドイツ流の註釈,しかも文献目録……欧米の原著の数々(どの程度読み込ん でいるかも定かでない)をズラリと並べる曲芸(それもドイツ本来のやり方の
おは乙
基礎的入念,親切が目的でなく)は,乙の国の学究一般の十八番となり切って いる感さえある。(欧米の学究さえ,自国語訳,乃至それからの援用を便利とし ている今日においてでさえである。〉
加えて. (頭の内容を象徴しているかの如色将又日本語であるかどうか理 解に苦しむような〉悪文の経列……。
「……マルクス経済学と近代経済学との問に.
w共通の広場』を拓くことが出
来るかどうかということが問題になっているけれども, しかし,その前に,問 題があると思う。それは日本の経済学界が,日本としての『広場』をもつこと が出来るかという問題である。……日本の学界には,経済学の歴史を創り出す 条件が,まだ存在しないのではないか。……ということは,みんなが爪立ちを したり,背伸びをしたりして,海の向うばかり見ていて,自分の足元を見ると いうことがない。いくら学問上の植民地だといっても,輸入なら輸入の歴史が あるわけだが,それをじっくり回顧反省〔批判〕してみるということがない。
…
J(大熊信行
rli'日本の広場』をつくろう
J)「……我々は我々の書いたものを,互にもっと読むようにしたいと思う。私
は必ずしもそれを尊重せよというのではなし
1。正直に言って,日本の学界の水
準は,西洋の学界の水準よりも低いことを認めねばならぬ。……私の求めてい
るのは親切である。……我々は互に他の人のものをもっと率直に理解し,もっ
と適切に批評するようにしなければならぬ。そうしてこそ,我々の聞に文化の
共通な,広い地盤が作られ,その上に初めて我々の独自な文化が花を開くこと
も出来るのである。……日本の学者の多くは自分の国の言葉を愛しないという
ところにあるのは確かなように見える。言葉を愛することを知らない者によい
文章の書ける筈がない。悪文,拙文は我々の聞では学者にとって当然なことで
あると思われている。……しかるにもし言葉と思想とが離すことの出来ぬ内面
的関係をもっているとすれば,このようなm:実は,少くとも一面に於ては我国
の学者に自分自身の思想を求め,形作ろうとする街勤と熱意とが欠けていると
いうことの証左でなければならぬ。人は自分自身の思想を求め,形作る時,自
分自身の言葉を求め,形作る。……歴史がこの乙とを証明している。……支那
や日本における仏教の発達の場合を見よ。乙の独自な発達は原典ではなく,却
って翻訳書の基礎の上に行われたのである。或はボエチウスによるアリストテ
レスのラテン訳が中世のスコラ哲学の発展に与えた影響,或は聖書の
Jレッテノレ
訳がドイツ文化の発展に及ぼした影響などを想い起すがよい。何でも原告で読
まねばならぬと思い込んでいることが,如何に無意味であるかが分るであろ
う。……然るに,日本の学者の多くは何故かそのように思い込んでいるのであ
る。彼等は翻訳書を軽蔑することをもって,学者の誇であ否かのように考えて
いる。……原書癖にとらわれて翻訳物を軽蔑し,折角相当な翻訳が出ているの
に読まないで損をしている学徒も多い。……原書で読もうとしてい否ために,
自分で考える余裕を奪われている人もある。……我々はまだまだ外国思想を 移植する必要がある。
C?)けれども,乙のことと原書癖とは区別されねばな
らぬ。
J(三木清「軽蔑された翻訳
J)マルクス, シュムベーター,そしてケインズ,彼等
3人は, (結果的に言 えば一一)意識的であれ無意識的であれ,<経済学の歴史> (の全体)を彼 等一流のやり方で復習し遂げ,尚且つ余力を庇って<科学批判>をなし得た のである
O一一彼等には又,それだけの力(知力,精神力……批判精神)と,従って
てい
又,独創力(一切のものを自己の中に見出す体の)が備わっていたのであ る
O彼等は,何より,所謂 専門パカ" (既成の専門的知識・知識の断片を無 批判に習得しただけの小才)ではなかった。
常人の到底及ばぬ幅広い教養と抜きん出た人間性……更には実践家として の修練(その実,政治・金銭とは縁の遠い一一所謂 哲学者気質"である が ) ,
etc.……。
おそらく,そういったことのすべて一一(結果としての一一)大いなる才 能,学識,そして人間としての器量とが,彼等をして,現状(彼等の生活そ のものの根拠地を含めて)に満足せしめなかったのであろう
o然 り ! 彼等は何より偉大なる個性,自由なる魂(精神)の持主であっ
7こ。彼等の径済についての分析, その努力,……そして草新(草命), そこに 我々は,彼等における全人(全人格)としての発揮を見る
o従って又,御馳走にありつくハエよろしく既成の権威に寄生することによっ
めし
て自己の利益(集団保附っきの,日々の経済生活一一筆者の所謂「飯のタネ」
についての径済生活を中心とする)を保守・保全して来た亜流連が,ひたすら 限の故にし直ちに牙をむき出すのも,新しき倖なる才能(天才,新人)によっ
かたきて惹起される斯かる草新それ自体である。(広辞苑に日く。「 保守主義"・
現状維持を目的とし,伝統・歴史・慣習・社会組織を固守する主義。J
)我々の経済学においても, (それがマノレ経であれ近経であれ,その組織,
I集団」の性格自体一一等しく反動なるが故に)斯かる事例に枚挙の暇がない程で ある。
「パンのために研究する学者は,たとえ勤勉に励むとしても,自分がある官 職の能力がありその利益に与れるための諸条件を満すという,ただそのことだ けが彼には問題なのです。彼はひたすらそのためにのみ精神の全力を動員し,
自分の物質的状態をこれによって改善し,些かなる名誉欲を満足させようとし ます。このような学者が大学教師の経歴を歩み出すと,彼にとって最も大切な 業務となるのは,パンのための研究と自らが呼ぷ諸学問を,それ以外のすべて の諸学聞かち,つまり精神をただ精神として愉しませる学聞から念入りに選り 分けること以外にないでしょう。……パンのための学問の領域が拡大される乙 とは彼を不安にします。新しい仕事が送りつけられて来て,今までの仕事が無 駄になってしまうからです。あらゆる重要な改良は彼をこわがらせます。彼が やっと苦心して手に入れた!日い学校の形式が壊されてしまい,それまでの生活 で得た仕事の全量を失う危険に追い込まれるからです。パンのための学者ほど 改革者たちについて,金切声で騒ぐ連中が誰かいるでしょうか。知識の国土に おける有益な革命の継続を,誰が阻止しようとしているといって,パンのため の学者以外の知何なる者でもありますまい。如何なる学聞においてであれ,祝 福された天才が
1人出て光を灯せば,その何れの光でも,彼等の貧しさをあり ありと映し出してしまいます。で,彼等は憤怒と,好計と,絶望感をもって争 います。……それ故パンのための学者ほど,和解し難い敵はなく,嫉妬深い小 役人はなく,熱心な狂信家はないのです。
J(F. v.シラー「世界史とは何か,
いかなる目的のために人はこれを学ぶかJ
)「変化を恐れる者があるのか。しかし,変化なくして何が生じ得ょうぞ。」
(マルクス・アウレリウス『自省録~ )
シラーの言葉(イェナ大学就任演説)は尚,更に,次の如く続く。
「憐む可きかな,糊口学徒は一切の器具のうち最も高貴なるもの,即ち学問
芸術を以てして,尚 E つ日傭人が最も卑しき器具を以てする以上に高き何もの
をも意図し,成就するを得ず,完全なる自由の国にありながら奴隷の魂を懐い
て訪僅するのであります! 然し乍ら更に憐む可きは,若くして天才を懐きつ つも,有害なる教えと模範のために,その本然の美しき道程より乙の悲しむ可 き邪路に引入れられ,将来の職業のために,汲々として蓄積に欠くるところな きより説得さるる学徒であります。早晩彼の職業学問は断片として彼に嫌悪の 情を催さしめ,満たし得ざる願望が彼の胸に目覚め,天賦の才が彼の使命!こ反 抗するでありましょう。今や彼がなすところの一切は断片の如く思われ,自己 の活動の目標は見失われ,然も目標なき努力は彼の到底堪え得ざると乙ろと なり,その職能活動の平酸と無価値とば,必ずや彼をして意気温喪せしめるで ありましょう。……」
斯かる点, (たとえば)シュムベーターの
boxof toolsとか,
r道具化さ
れ た 知 識
tooledknowledgeJとかいう表現(一一一科学としての客観性を重 ん ず る 余 り の ) は , そ の 技 術 的 要 素 を 不 当 に 強 調 す る こ と に よ っ て , 一 般 的 l 乙極めて誤解され安い形容である
oその点,シユムベーターには,自己の専門的才能についての過剰評価があ ったとも言えよう
O一一或種の気取ったポーズともいえようか。
経済学説の本質を,纏まりのないガラクタの入った道具箱(その価値は,
単 l 乙ガラクタの集積の量的大さによって計られる)と混同する程,貧しく誤 解 多 き 発 想 は な い 。 ( し か も , 斯 か る 発 想 は , 技 術 化 し 非 人 間 化 し た 径 済 学"へと容易に媒介する。〉
シュムベーターの学説(の本質)それ自体,その様な形容で表される代替 的・小細工的な部分(部品)の構成であるどころか, (一貫した体系の全体 として一一ー)シュムベーター自身(の全人としての人間)を外しては語り得 ないと乙ろの(一一シュムベーター自身その様に自覚していると否とに拘ら ず),そして又, その理解には
f読めて高度の知的練度(そして,加うるに,
人 間 性 の 酒 器 ) を 要 す る と こ ろ の … … 一 義 的 ・ 決 定 的 ・ 必 然 的 , な も の で あ る
o斯かる志‑味では,経済学は, (自然科学より,むしろ)哲学や芸術に似て いる
o経 済 学 の 科 学 ( 学 問 ) と し て の 一 義 性 の 欠 如 ( 経 済 学 的 認 識 の 深 厄 に 達 し
得ないことに由る〉としての経済学の手段化一一それが賓すところの(たと えば 『経済学一般理論』なる表題の下での〉 シュムベーターとケインズ"
‑ ケインズとマルクス マノレクスとシュムベーター"……(或は端 的に一一ミクロとマクロとの綜合,所謂「新古典派綜合J
)といった安易な (むしろ,ヤンキ一好みの)綜合程,我国の経済学(経済学書,その一面) をよく象徴しているものはない。(それはまさしく,粗大ゴミの集積以外の 何ものでもない。)
マルクス,シュムベーター,ケインズーー乙れら
3人の人聞を,等しく特 徴づけるものは,彼等が,才能・性格その他色々な意味で例外的な人間(個 性),
O人中の l 人"といった人間でなく,
O人の外の l 人"であった,
という乙とである
O筆者の好きな言葉をもってすれば一一彼等の台詞は,こうである口
「私ほ法則のためではなく,例外のために作られたような人間の 1 人である。」
斯かる彼等の人間像は,彼等の自分自身の卓越した才能・学識への自負・
自信のみならず,彼等のもつ或程の宿命的な人間性・個性一一ー ユダヤ的性 格"とも称すべきものに拠るとも,言える
o(事実,彼等 3人の中 2人ま でがユダヤ人であった。)
たとえば,
r経済学者達
TheECOll0mistsjの著者, L.シノレクは,ユダ ヤ人サミュエノレソンの考えとして(日く)・
「すぐれた経済学者のかなり多くがユダヤ人である乙とを,偶然の一致だ とは思っていない。……『ユダヤ人は余所者であり,自分のいるところの文 化から疎外され勝ちであるため,益々批判的になる
j,と言うのである。
……学聞を追求するユダヤ人は,自分自身の枠を越えなくてはならない。し
かし,彼は自分が受継いで来たことを維持し得ない乙とに気付いても,だか
らといって新しい役割が彼に諒してくる仕来りや物の見方についての伝統を
譲り受けたり,吸収したりはしない。……知的な面では,彼は異邦人になっ
ていくようである
O精神的な面では,一層過去の自分〔その実,生れながら
の 異邦人"としての〕に止まろうとするようである。と言うのは,深い愛 着心は人生の初期に形成され,その後の生活に応じて簡単に再形成されるよ
うなものではないからである
o……」
「……ユダヤ民族の遺伝……忍耐強く一徹であり,身を守ることに慣れ,必 要やむを得ぬところから創意工夫に富み,執助であるというあのユダヤ民族 の遺伝……。
J(N.セギューノレ『アナトーノレ・フランスとの対話,知性の愁
し可JJ)
而して,斯かるユダヤ人のもつユニーク(特異)な性格,才能……優秀さ (プチな日本人などの到底及び得ないところの)が,反面,ユダヤ人につい て,一つの迷信(?)を生んだ乙とは,ある程度,周知の事実である。
ジュムペーターの言う。
「……迷信……
U[Jち,国際政治や恐らくは一切の政治を背後から支配してい る,比類なき賢明さと意地悪さをもっユダヤ人の委員会がどこかにあるとの仮 定の上で,現代史〔たとえば, ユダヤ人の世界支配" )を説明する迷信がそ れであって,それは多くの立派な, しかし単純な心をもっ人々
manyworthy and simple‑minded peopleの抱いているものである。J( r資木主義j,
55頁,訳1
00頁。)
と 言 っ て , 一 個 人 が ユ ダ ヤ 人 ( 生 れ な が ら の ) で あ る こ と が , < 科 学 批 判>をなし得る唯一の条件でないことは,勿論であろう口
むしろ,あり余る創造的才能,不屈・強烈きわまる意志……頑健な肉体,
その他種々のもの(それらは,確かにユダヤ的乃至脱ユダヤ的なものである が
H・
H・)が,一般的に指摘され得る。
たとえば,シュムベーターは「発展』において,企業者タイプの動機とし て,次の様なものを挙げている
O「……第 1に,私的帝国を,又必ずしも必然的ではないが多くの場合に自 己の王朝を建立せんとする夢想と芯志……第 2は,勝利者立志……一方に悶 争の怠欲,他方に成功そのもののための成功獲得意欲……最後に,創造の喜 び……新創造そのものに対する歓喜……。
J( 1
38‑9頁,訳
230‑32頁。)
「……上掲した
3系列の動機のうちで第
1のものに於てのみ,企業者活動
の成果に対する私有財産〔利益,物質的な〕が彼の活動のための本質的要因 となる
o他の二者にあって重要なのはこれよりも寧ろ他の特殊に精密であ り,且つ他人の判断から独立せるが如きもの〔精神的なもの,その充足それ 自体が目的の〉……その創造者を喜ばす仕事を成立せしめこれを継続せしむ るが如き種類のものである。
J( 1
39頁。訳232 頁。)
精神分析学者
C.G.ユング(の夢)によれば,人聞は意識
(2階),無意 識 ( 1 陪)一一‑そして更には「集合的無意識
J(地下)の家に住むという。
そのうちのどの階が,<科学批判>に,従って又 「創造」に中心的な役割 を演じているのであろうか。
その個人がこの世に産声をあげた時,既にこのことは決定していたのであ ろうか。或は,生きとし生けるものとしてのその個人の生活,殊にその時の 社会生活(の法則)が,全体としてその様な役割(義務)を特定のその個人 (その行為や動機)に集中・集約せしめていたのであろうか……。(へーゲ ノレの所謂「世界精神のを交智J
)単なる経験以上のもの(一一それが思弁的なものであるか否とに拘らず) がそこにあるのは,確かである。而して,非合理なもの,所謂 デモーニツ シュ"な部分が大なれば大なる程,合理的な部分の展開も大きいようであ る
D何れにせよ,斯かる問題の一層の追求は,たかだか,乙のー小篇の如きも のの扱い得る域を,はるかに超えるものである。
もっとも,斯かる場合,我々が人間(の行為の動機)乃至その理念を超え て,精神(観念〉の領域それ自体を問題にする時,我々は(科学でなく一一) 形而上学を問題にしていることを,明示すべきである。
そして,このことは我々の現実,物的現象(としての経済)を超えて,物質 そのものを問題とする所謂 唯物論"についても,同様に適用される。
シュムペーターの言う。
「倫理学と美学とは,その各々が記述(説明)しようとする一連の現象(行
動類型)の科学としてではなくて,超経験的な容認を担っている規範的準則と
して,……信印の体系に入り込むのである。……このことは,専門技術的な哲
学的意味における唯物論…...
w物質』こそ究極的実在であって経験からは独立 して存在すると考えている学説,に対しても当て恨まる。
J( W分析
j,
30頁 , 訳56 頁。)
同様に,ゾムパノレトの言う。
「原因,即ち推し進め作用する諸力は我々にとっては人間の行為の動機であ り,然して唯それのみである。我々は誤って因果日Ij
Kausalreiheを乙れらの 動機の背後にまで追究し入れるが如き事があってはならない。……我々は斯か る方法に対する特別の偏愛を大抵のマルクス主義者において見出すのであるが
……斯かる問題を古き唯物主義は決して提出していなかった。『蓋し
I唯物主義 は,そこにおいて(歴史において)活動する観念的な街動力を,乙れらのもの の背後に在るもの,即ち街動力の街動力は何であるかを吟味する乙となく,終 局的原因として受取るからである。.!I
J(~三つの径済学.!I, 223‑4頁,訳266‑7 頁。)
ともあれ,我々における「経済学説」が,そんじよそ乙らの
E流 の 徒 , 夜 郎自大には到底望み得ないものであることは,確実である
D「経済学説史」についても又,同じである。
シュムペーターはマルクスについて,次の様に書いている。
「……天才とか予言者とかいうものは,専門的な学識では余り卓越してい な い の が 普 通 で あ り , 彼 等 に 独 創 性 あ り と す れ ば , そ れ は ま さ に こ れ に 卓 越 していないというそのととに基因している場合が多い。しかしマルクスの経 済 学 の 中 に は , 学 識 の 貧 困 や 理 論 的 分 析 技 術 の 訓 練 の 欠 如 に よ っ て 説 明 さ れ るものは全くない。マルクスは飽く乙とを知らぬ読書家であり,倦まず弛ま ず 仕 事 を す る 人 で あ っ た 。 読 む に 倍 す る 文 献 で 彼 の 限 に 触 れ な い も の は 殆 ど な か っ た 。 し か も 読 め ば 必 ず こ れ を 消 化 し , 文 化 の 全 般 に 亘 り 長 期 的 な 歴 史 的視野で物事を考えるのを常とした学者にしては異例の熱意をもって,あら ゆ る 事 実 や 議 論 を 根 堀 り 葉 堀 り 詮 宗 し た 。 批 判 や 拒 否 〔 反 ) , 承 認 や 斉 合
C i
E,合〕を通じて,マルクスはあらゆる問題の底の底まで究めるのを常と
した。彼の労作「剰余価値学説史』はこのことを明かに証明しているが,こ
の書はまさしく彼の理論的熱意の記念塔である。
J(~資本主義 j , 21瓦 , 訳
35頁。)
まとと l 乙, 知る人ぞ知る九
シュムベーターにマルクス並みの才幹,しかも固有の体験
(RPち ,
r本
質~ r発展』……『学説・方法史の諸段階~,乃至は『景気循環J ……『経済分析の歴史』……といった著書に窺われる)があって乙その,彼のこの言 葉である。
無限一一ー「あらゆる問題の底の底まで究める」乙とによって,マルクス の「経済学説
J(殊に『資本論
J)は可能であった。「経済学説史」としての
『剰余価値学説史.] (所謂「資本論第 4巻J
)は,所詮,その副産物(比較的 容易な,白からなる)に過ぎない。
マルクス自身,
F.エンゲノレスへの手紙
0865年
7月3
1日)の中で,次の 様に書いている。
「さて僕の仕事の乙とだが,乙れについて本当の乙とを打明けよう
D理論 的な部分(始めの
3巻([1資本論』第
3巻まで))を完成するためにほ,まだ 三つの章を書かなければならない口それから更に第
4巻,歴史的・文献的な
巻〔即ち『剰余価値学説史~)を書かなければならないのだが,乙れは僕にとっては相対的に最も容易な部分だ。と言うのは,問題はすべて始めの
3巻 の中で解決されていて,この最後の巻は寧ろ歴史的な形での繰返しだから だ。……たとえどんな欠陥があるとも,僕の著書の長所は,それが一つの芸 術的全体をなしているということなのだ。〔筆者の所謂「一義性
J)J即ち,そこにおいては,経済学説=経済学説史(或は,経済学説史=経済 学説)の論理が(理念として), 既 に 予 定 ( 先 験 的 に ?)されていた,の である。( 哲学の哲学"の問題としての一一経済学説と経済学説史との関 聯)
換言すれば,過去を現在に(その未来にかけて)結び、つけるもの一一それ 乙そ(そのモチーフが一体何であれ),一個人の創造的努力……一個人・一 個性の(内面,意識の〉底に深く打込んで沈潜し,そ乙から媒介される分析 的努力(即ち効果あるく科学批判>そのもの)に他ならない。
斯くて,く経済学の歴史>と<科学批判>との止場( 矛盾的自己同一"
としての……時……歴史……<経済学の歴史>の新紀元への参加)としての
「経済学説
j,そして「経済学説史
j,が在る。
「・・・・・‑原因・・・…明白で決定的な人間の機能一一・・・・・・一個人の要望 を越えて創造を求める精神一一これこそ人聞に他ならぬ。……一一 学説が変化し壊滅する場合でも,学派・哲学,国民的,宗教的,経 済的思想の狭く暗い裏通りが成長し分解する場合でも,人間は,時 には過ちをし,苦しみながらも,到達への努力を怠らず,よろめ きながら前進するものである口
j ( T.スタインペック『怒りの葡 萄 J ] )
我々は,内なる意識の芦・街勤に導かれ一一自ら「経済学説
j(所謂「経 済学
j)を創造・確立する。(乃至,創造・確立し得る。)我々は,そのこと によってのみ,
I経済学説史
J(そのもの,乃至その伝承)に参加し得る
o一一従って又, 聖者の行進"を把
f毘 し 得 , 且 つ 又 真 に 理 解 し 得 る の で あ る
D而してこそ,
J.ヴァイナーの次の言葉が生きる一一「経済学とは経済学 者が行っていることである
j,と
oシュムベーターも言う
o(但し,柄になく常識的,且つ穏健に……。)
「日く
D科学とは,普通に研究従事者とか科学者とか学者とか呼ばれてい る人々が,現在までに積み重ねられてきた事実や方法を改善せんとする仕事 に従事して居り,所くすることによって『素人』や,結果においては又単な る『実際家』とも具るところの,事実や方法の掌握に達しているような一切 の知識分野を言う,と。
j(W分 析 J ] ,
7頁,訳
12頁。)
逆に言えば一一科学の現状を改善しようと志さない人々,或は改苦‑し得な い人々……換言すれば<科学批判>.創造をなし得ない人々(亜流,乃至亜 流の亜流の類)一一これらを,我々は 「研究従事者とか科学者とか学者と か」呼び得ないのである。(筆者など,自らを 学者"でなく 研究者"で あると,時に俗称するが……口)
一一シュムベーターの「企業者」概念との相似
D事実,シュムベーターは, 1"企業者」と「研究家」との場合を,次の稔l 乙 相対照せしめている。
「……何人であれ,荷も,彼が『新結合を遂行する』限りにおいてのみ,
原則的には企業者なること一一従って,もしも,彼にして一度創造せられた 企業をただ循環的に経営していくものとすれば,その際には彼は企業者たる 性格を喪失するものである乙と一一一更に又,それ故 l と,各人がその数十年間 の努力を通じて常に企業者として存続する乙との稀なるは,恰も,極めて僅 かなものとは言え,何等の企業者的要因をも有しない実業家の存在が稀なる と相等しく一一一それは又,恰も如何なる研究家もただ一つの新たなる精神的 活動から他の新たなる精神的活動にのみ終始することが殆どなく,更に各人 が,その学徒として全生涯中にたとえ極めて僅少であろうとも何らかの自己 特有の創造物を成就しないと言う乙との殆ど無いのと相等しい,と言うこ と,乙れである。
J( [ J 発 展 2 ] ,
116頁,訳1
92ー 3頁。但し,我国の場合の如く,
単なる物真似業者(学者〉の充満,横溢している現状においては,シュムベ ーターの乙の援用は,かなり割引きして読む必要があろう。)
改善,改良(或は改革,改新……革新)されてこその「科学」であり,又 その様な機能を営む者としてこその「科学者」である
o再援用しよう。
「即ち,科学とは,常に改良せんとする意識的な努力の対象となっている ような種類の一切の知識を言う,と。」
更に,言う
o「我々が,
[J近代的 1,もしくは『経験的~,もしくは『実証的』科学を言う時に……批判的に制約された領域だけを意味しているのである」,と。
([J分析~, 8