長崎華商「泰益號」関係文書簡介 71
長崎華商「泰益號」関係文書簡介
昭和57〜58年度科研成果報告の一部
市 川 信 愛
目
第1節 第2節
次 導 言
長崎華商「泰益號」
(1)はじめに
(2)長崎華商泰益號の略史
(3)泰阜號の帳簿資料 ア 帳簿の外形 イ 帳簿の組織 おわりに
図1
一∫. 甲
桟 ト
ジンらロのロロ 噂{ル・♂} @!ら!・② こ・」ぐ 広西省 ・
広東省③ ④
香港
(4)
第3節 泰益號文書と長崎時中小学校 (1)創立一清朝餐の時中学堂一 (2)転機 民国下の時中小学校一 (3)苦難の時代一昭和期の時中小学校一 第4節 福建会所関係記録
(1)記録の体系 (2)福幣関係諸規定 ① 八閲会所規條(抄訳)
②聯合会定章,会所章程 第5節 結 語
泰益號の出身地と泉津永需地域略図 (金門) 毒 ,
/ 1, へ 一r 、、 ノ v も ♂ ! ㍉ , もロ づ ロマ ほ ノゆ
訊 !江西省 、 1 湖南省 三
⑤
泉潭永幣地域
繍 灘
凡 例
福州
①
① 福建人
② 客家人
③ 満州人
④ 広東人
鱒麟
第1節 導 言
本稿は,最近その所在が確認された長崎華僑の巨商「泰益號」にかかわる彪大な資料の (注1)
概括的紹介である。所管は,長崎市立博物館に,陳東栄氏ら親族のご厚意で,1983年2月 寄贈されたばかりである。同年8月〜9月にかけ,筆者は市教育委員会の諒承の下に,市
立博物館長杉村邦夫氏,大阪大学文学部東洋史学専攻博士課程許紫募さんほか,宮崎大 学教育学部学生等の協力をえて,概略の整理と分類を,関係主要帳簿類を中心に行なった。
しかし現在では,泰益號帳簿類のフレームがほぼ明らかになったにとどまり,叩網関係 の信書類,各種印刷物(雑誌,新聞,書籍等)や書画等の文物の整理は,目下市立博物館
と,市立歴史民俗資料館の手で進行中である。従って,本稿は,あくまで中間報告ないし 予告的意味にとどまる。ここに敢えて,簡介を行なう意図は,次の動因にもとづいている。
第1は,極めて貴重かつ数少い華商に関する研究素材を提供していることである。
いうまでもなく,19世紀後半から20世紀初頭にかけての数十年間は,東アジアとりわけ 中国にとっては激動の時代であった。古き清王朝の崩壊,列強の侵略,浸透,孫文革命に よる中華民国の誕生から毛沢東を中心とする中華人民共和国の成立というめまぐるしい変 革がなされた。このことは,海外に僑居する華僑の社会経済的環境の上にも,極めて重大 な影響を与えずにはおかなかった。
在日華僑の場合は,事情はより複雑であったといってよい。母国における2つの変革
(1911年辰亥革命と1949年毛沢東革命)の上に,僑居国日本と中国との絶えざる緊張と対 立関係(日清戦争1894年,山東出兵1914年,満州事変1931年,上海事件1932年,日中戦争 1937年,日本の敗戦1945年)の展開が重なり,極めて大きな振幅と起伏を余儀なくされて きた。同時に,日本資本主義の成立,発展,崩壊,再生過程で,華僑をめぐる社会経済環 境も激しい変貌をくりかえしてきた。
このほぼ一世紀にわたる激動の時代に,在日華僑社会がいかなる対応を余儀なくされて きたかを,個別経営の立場から,ミクロの視点で系統的に分析ないし追究したものは,未 だなかったといってよい。それは,素材となる資料そのものが消滅散逸して,も早存在
しえないと考えられていたからでもあった。換言すれば,この資料は,日本華僑研究の空 白をうめる好個の豊富な素材を提供しているのである。
第2は,本資料の調査研究の機会を与えられた機関や人びとへの厚意に報いる義務から である。まず初めに1982〜83年度,文部省科学研究「戦後在日華僑系資本の常派別変容構 造に関する比較研究一長崎・神戸,横浜を中心として一」の一環として行なったことを特 記しなければならない。(課題Nα57530040)
既に多くの研究者たちが述懐しているように,在日華僑調査には,アンケート・インタ ビュー等の方法にかかわらず,極めて協力の得難い問題に直面す6讐2播回国の環境条件や 営業上の事情から起因するものといえようが,泰四病を通してえた華僑の方々の協力はあ
りがたかった。むしろ,大陸,台湾の壁さえ感じられないほどであった。
これより先,大阪大学文学部斯波義信教授(東洋史,商業史)は,函館中華会館の彪大 (庄3)
な資料の調査と分析を手がけられたが,他方,華僑関係文書の探索を精力的・組織的に行 ない,長崎「生泰號」関係帳簿類約100点の寄贈をえられた。これは,同研究室,大学院博 (注4)
士課程,許紫券さんの分析するところとなり,学会へ成果の一部が発表せられている。
長崎華商「泰益號」関係文書簡介 73 また,華魁號関係文書についても,教授を中心とするグループでは既に所在が察知られ
ていた模様である。去年6月中旬,研究室をお訪ねした際,長崎県か市などの公的機関が 保管,整理し,地方の研究者の利用を優先すべきことを主張された。
たまたま,同年7月23日には,未曽有の長崎豪雨災害が発生,新地,出島一帯は,中島川と銅 座川の氾濫に見まわれた。筆者は当時,中国福建省を旅行中で,資料の水難を案じていた が,幸い出島の石蔵に移管されていたため,同文書はほとんど被害をうけることがなかっ た。思えば,原爆で半壊した泰益號の新地倉庫の中でかろうじて難をまぬがれ,営業を停 止してから,ほぼ半世紀余の間,彪大な資料がほとんど原型のまま保存されたことは,奇 蹟といってよいであろう。
整理が進むにつれ,貴重な文書と記録に魅了され,猛暑も忘れるほどであった。在長 崎華僑研究家を8月20日招いて,中間報告をかねた研究会をもったが,この文書の価値が G主5)
出席された各専問の分野からも再認再評価されたことは有意義であった。
次に,泰益號関係資料のフレームについてふれておこう。大別して次の4つのセクター に区分することができる。(附表3参照)
第1は,いうまでもなく大宗をなす泰益號の記録,文書類であり,現在,簿冊の形をな すものの整理と分類をほぼ終了したが,冊数にして1,053を数える。このほかに,往復書簡類,
新聞,雑誌,書籍類が,大型ダンボールに18箇,未整理のままである。
第2は,泰益號以外の諸翼翼で,9號を数える。即ち,泰昌和記(1863〜1874)6冊,
泰昌永記(1875〜1885)18冊,泰昌振掛(1887〜1891)14冊,泰鍋震記((1891〜1906)
94冊,泰錫(1891〜1906)26冊,豊泰(1883〜1888)5冊,乾元公司(1888〜1900)14冊,
振成(1907〜1908)12冊,鼎大(1908〜?)63冊,合計252冊にのぼる。
なお,これらの各號については,雑益號とは異なり,信書類や関連記帳,書籍等は見当 らない。恐らく何らかの事情で帳簿のみを泰益號が保管することになったものであろう。
因みに,上記重囲のうち,至大のみが広東甜に属する以外は,すべて福建幣に属すること,
および,閾南系(泉潭息継)であることから,19世紀末から,20世紀初頭にかけての,長 (d二6)
崎華僑の主流は,閲南で占められていたことが推察される。
第3には,冊数こそ少ないものの(38点),福建会所関係の記録がある。それは,泰益號 初代の陳世望が,長崎華僑集団の中で,枢要な地位を占めていたことから同號が保管した
ものと思われる。戦時下,華僑団体に対する日本官憲の弾圧は激しく,止むなく記録類を 焼却,破棄したと伝えられるなかで,少数ながら福建蓄に限られるとはいえ,これらの資 料の存在は貴重である。ただし,明治,大正期に主流を占めた,広東誓や三江耕の記録が 皆無なのは,惜しまれる。
第4に,より数少ないながら,華僑学校「時中小学校」関係の資料と,若干の宗教関係
(春夢寺など)が存在することである。帳簿,印刷物,絵図,パンフレット,信書類,地 図等約50点を数える。
以上のほか,信書類の中には,群肝號親族間の私信や,私的な写真,書籍類も少なくない が,寄贈の希望条件として,整理が終わり次第返却されることになっている。なお,帳簿類 の中には,表紙の欠落,解読不詳等があって,未整理のものも少なくないカ㍉これは整理が 進むにつれて,追加分類されるから,上記の冊,点数の変更はさけられないであろう。
ともあれ泰益號関係文書の特質は,19世紀末から20世紀初頭にかけ,約30年間系統的に,
その全貌を傭畷しうることにある。さらに「厘門式」といわれる記帳形式をほぼ正確に準 守(1907年以降)していることである。そこでまず,次節で帳簿資料を中必に,若干の解 説をとりあげることにした。執筆は,許紫券さんに担当してもらった。
第3節では,上記第4セクターのうち,時中小学校関係資料について,若干の考証を行 なった。長崎華僑研究卑官文秀氏より寄せられた手記を,氏の諒解をえて,かなり大幅に 加筆させていただいた。従って文責は筆者にある。
第4節は,第3セクターの福建会所関係資料を中心として,概要を紹介した。特に,長 崎に結成された各種華僑団体の性格と機能を知るため満干の抄訳と主要な章程(規約)を 原文のまま掲載し,若干のコメントをつけた。
なお,第2節は許紫券さんからの寄稿をほぼ原文のまま掲載した。
第2節 長崎華商「泰益號」
(1)はじめに
最近中国経済史では,個別の経営体の帳簿や資料の活用による具体的経済活動,経営内 容の分析の作業が重視され,さかんに行なわれている。筆者は,かって長崎華商「生泰號」
の帳簿一セット,95冊に関して,「生泰西」の商業活動を解明し廷荏7)この度,宮崎大学市 川信愛教授が主催されている華僑研究のグループに参加させて頂き,長崎華商「泰益 號」の内部資料を閲覧することができた。保蔵されている「泰益號」の経営資料は,
1901年(明治34)から1938年(昭和13)まで,即ち当店創立初期から終期まで,約40年間 の帳簿類,文書類,平帯類(愚証書式),住所総噸,電文,電報暗號などである。帳簿類 は約1040冊(原始簿が÷,元帳が÷を占め),住所総録は13冊,電文は約90冊,文書,手紙 は約190冊である。営業資料の外に「歴年祭祀礼文抄稿」(泰益號自己) 1冊,祭墓応用 簿(光緒20年,福済寺について)1冊,福建會館の三軍記録,議事記録,會館総簿,會館 草簿など約40冊,商業尺順も若干ある。これらの資料の数は彪大であるので,さしあたっ て,中間報告として,「泰益號」の帳簿資料の大略について紹介し,本格的研究は,今後 の課題にしたい。
(2)長崎華商泰野饗の略史
「泰益號」と言う商社は福建省金門出身の陳世望氏により,1890年代長崎の新地町25番 地で,海陸物産,及び各種雑貨の輸出入貿易商として成立した。彼は明治初期,父国標に伴
長崎華商「泰益號」関係文書簡介 75 われて来崎し38才の壮年でまたたく間に,福建幣海産物輸出入商のリーダーの地位に登り,第 二次世界大戦中に没するまで,長崎華僑の間では,彪大な資産と人望を博する人物であった。
工事華氏の経歴:今日までわかったところでは次のとおりである。
1868年(清同治7):中国福建省泉州府金門に生まれる。
1890年8月 :長崎で泰益號を設けた。
1902年8月30日 :長崎県扱い「肥料販売免税証」を受く。
1904年6月20日 :日本赤十字社の正社員になる。
(明治37年)
1905年3月3日 :明治37・38年戦役の時,軍資金100元を寄付し,長崎縣知事荒川 義太郎より木杯一組を贈呈される。
1906年12月14日 =日本海員才器濟会の通常会員になる。
1907年1月12日 :日本海員液濟会の通常会員から終身会員になる。
1907年4月19日 :駐濯江南蘇州賑掲候滑道より「監生」と「同和」という職街(名
(明冶40年) (上海)
轡職)を得る。
1909年12月10日 :華僑選挙参議員法に依り,長崎地区の福建省諮議貝となる。
1910年11月16日 :長崎中華商協務総会の董事長に就任。
1911年8月17日 :長崎福建甜の骨董事に就任。
1912年6月6日 :長崎福建甜の正董事に就任。
1913年4月17日 :中国紅十字総会の名春賛助貝になる。
1915年5月18日 :五百大圓の寄付より,内国公債局総理,梁士言台と財政総長,周自 齊から褒奨を得る。
1923年9月から一1925年1月まで
:長崎時中小学校の董事に就任。
1924年4月10日 :中華学藝社第一届募損委員会,麗日華商阪神長特別隊名轡副隊長 になる。
1924年10月20日 :本国政府農商総長よりの委任状で長崎中華総商会会長就任。
泰平號は1950年代まで存在した。
「泰益號」商號の販売商品はつぎのものがある。米粉,高松緑豆,青糖,三下,桂皮,
丁香哺,上白米,晩白米(台北),海山口槌儒米,芝蕨,白糖,洋蕨,菜子油,棉花,侠苓,
黄柏,香嬉,蝿干(蛤干,蜻干),就魚,飽魚,木耳,海参,塩鯛,鰹干,蝦米,塩姻魚,
地瓜干など。
取引先の分布は,1915年の住所総録により,つぎの如くである。詳細の取引先店名は附 表1を参照。
日本人 福岡6軒,函館1軒,1その他56軒。
華人台溝129軒,
香 港 15軒 度 門 9軒
国力ロ‡皮 33車干
上 海 12軒
廣 東:1軒 大 連:2軒 朝 鮮:2軒 神 戸:22軒
その他の東南アジア 14軒
表1 泰益號の職員・雇員の給料支出表(年間) (単位:円)
1901年 218.00 1910年 1883.90 1919年 5963.04 1928年 6125.55 1902 415,397 1911 1407.00 1920 5885.69 1929 3920.00 1903 828.89 1912 1769.00 1921 6138.93 1930 5943.30 1904 1200.OO 1913・ 2414.00 1922 5600.86 1931 3436.00 1905 1400.00 1914 2824.50 1923 5302.19
1906 2000.00 1915 2914.00 1924 4773.00 1907 2034.98 1916 3581.00 1925 5879.35 1908 1994.00 1917 4416,433 1926 5833.00 1909 2053.13 1918 4886.69 1927 6355.00
(3)国益號の帳簿資料
当店帳簿の記帳は,明清時代に,中國の厘門に普及している固有商業簿記法にしたがっ て記帳したものである。しかも西洋の複式簿記の技術の影響を受けず,単式簿記に属して いる。帳簿は原始簿からはじまり,これを転記簿に転記し,さらに聖算:にいたる一セット をなし,几帳面に,かつ詳細に記帳されている。また沢山の補助簿をも設けており,取引 の全過程を知ることができる。
当店の帳簿は,40種類にも達していることは当店規模の大きさを表わしている。そして,
1906年以前の帳簿名称は,それ以後と若干異なっている。これは,1906年以前,会計体系 がまだ確立されていないためである。そこで,1906年以後の帳簿を中心に各帳簿の繋がり
を考察していきたいと思うが,帳簿の種類が大変多いので現在の段階ではとりあえず,骨 組みだけを紹介する。
ア 帳簿の外形
帳簿は,中国から買った帳簿を用い,和綴じで,一ページに十行,その中央を横線で上 下に分けている。帳簿の年代は干支で表示され,期日は太陽暦と陰暦の両方をも記入され,
数字は漢数字,略漢数字,蘇州漢字などを用い,金銭表示は,日本の圓を「元」とする。
イ 帳簿の組織
中国商業帳簿の組織について述べると,その帳簿の名称にしても,その組織にしても,
ともに営業の種類により ,一定しておらず,また同種の営業にしても資本の多少,規模の 大小により,また土地の習慣,あるいは,その店の習慣によって,決して一定しているも のではない。しかし総ての点を綜合してみて,帳簿の組織を大別して,二種類の帳簿に分 類することが出来る。一は主要簿で,一は補助簿である。この主要簿の組織は,また二種
長崎華商「泰益號」関係文書簡介 77 類から成っている。一は原始簿であって,一は転記簿である。
原始簿は財産上の全部の増減を記録計算して,営業の損益及資産,負債の状況を明らか にするものであり,転記簿は原始簿に基づき,原始簿内にある各種の分類事項の詳細帳目 を転記し,調査,計算に便利なようにしたものである。その記入方法について,言うなら ば,原始簿は日を以て,大綱となし,初項及帳目はこれにつぎ記入するのであるが,転記 簿は戸項を以て,大綱となし,期日及帳目はこれにつぎ記入するのである。補助簿とは,
特種の詳細事項を記入する帳簿であって,主要簿の足らない所を補うための帳簿である。
その種類は非常に多い。本論文では主要簿,補助簿,原始簿,転記簿と言う語を使用した が,これは説明の便宜上,複式簿記において,使用される語を使用したのであって,実際 に中国固有の商業簿記では,こういう名称は用いられていないのであ誓1)
次に泰益號の帳簿を便宜上の分類により,所謂原始簿,転記簿,補助簿に属する主なも のを列挙すれば,次のものがある。
原始簿に属するものには,「譲存」,「各郊来貨」,「台溝配貨」,「各郊配貨」,「上海配貨」,
「影回国貨」,「申江野馳」などがある。(申は上海)
転記簿に属するものには,「銀行総部」,「各費総部」,「写照朝宗」,「画商雲集」,「明珍,
海味上部」,「華商絡部」,「台湾総革」,「関門四部」,「崎商工登」,「現戸総登」などがある。
補助簿に属するものには,「銀行査存」,「配置査存」,「各貨韓口」,「電費葦登」,「士力雑 費」,「外櫃軽量」,「涯重留底」,「各項留底」,「田螺」,「卓出砺」,「進砺」,「耳癖礪」,「進 出草砺」,「進貨草砺」,「洋貨草砺」,「各貨改掴」,「金銭判取帳」,「各埠来懸場利」,「納税 簿」,「房租簿」,「永見倉庫進出櫛型部」,「商船出町留底」,「報関留底部」などがある。
ところで,戸田義郎氏が提示している中国固有商業簿記組織の基本型は,図2の如くで ある。これと比較しながら,泰益號の帳簿組織図を説明する。図3を参照。
原 始 簿
図2 中国固有商業簿記の基本型 流 錆 水現 貨売
金 出 三 三
上
進
貨仕入 些
韓 記 簿
開 絡支_ 謄_
謄経 清総
鱒 撃
手 張
錆
貨_謄得 心意 先 二
進
謄仕貨_
事入 缶 蜂
原 始 簿
図3 泰益號帳簿組織の骨組み
蓉現
\薦
墾
配 来 貨売 貨仕 上 入
墜 些
重專
記 簿
一 銀 一 萬萬各 行 山海華台関 二三費_総_ 珍味商三門_
雲 朝 総各 追回 総 総 総 総 総仕
集宗部経 勘 部部部部部入
費 憲 そ專
垂 垂 莞
亟
(註)仕入,得意先元帳は,地域別と品種別にて,五つに分けている。
各経費元帳は三つに分けている。
「譲存」:現金出納帳に該当する。現金出納帳は,毎日の金銭の往来記録である。「上欄」
に「来」,「下欄」に「去」と言う帳簿用語を用い,金銭の「収入」と「支出」を表わして いる。「吉」と言うのは,取引の記録がここで終りの意味である。帳簿の記入早暁2を参
照。
総勘定元帳に当るのは「銀行総論」である。その中に各銀行元帳,資本金の増減,貸借 金元帳に当る内容を記録されている。記入例表3,表4を参照。
諸雑費元帳に当るのは「各費総部」「萬宝朝宗」「萬商雲集」と言う三種類の帳簿である。
家用,福食,雑用,薪金,雇員支出,などの支出が「各費絡部」に記入されている。そし て,桟地,駁力,関税,火力,保安,鹸水,貼息,電音などの費用を「萬宝朝宗」と言う帳 簿に記入されている。現客,軍戸,外櫃,房租,會館などのつきあいによる金銭往来は
「萬商雲集」に記入されている。帳簿の記入例表5〜7を参照。
泰益號ぱ輸出入貿易商であり,取引先は,主に台灘,東南アジア各回の輸出入商である。
各地の特産品を輸入すると同時に日本の特産品をも輸出している。当店の仕入帳は,
「各郊来貨」,売上帳は「各郊配貨」と「台溝配貨」である。いずれも船の積荷の出入日 別に記入している。のちに仕入先元帳と売上先元帳に当る「関門総部」,「一三総部」「華 商総部」「山珍総部」「海味総部」に転記する。これらの元帳は取引先の地域別に分けてい る。台灘地区では「台溝絡部」に記入,下関,門司地区では,「関門総部」に記入,日本 商社の取引は,「山珍・海味総部」に記入,以上地区以外の華人商社の取引(例えば,上 海,神戸等)では,「華商総部」に記入されている。帳簿の記入例表8〜10を参照。
長崎華商「泰益號」関係文書簡介 79 これらの元帳は,会計年度,即ち旧暦の年末に,決算し,総額を「結彩豊盈」と言う決 算書類に記入する。
高抄正抄
田金六 行銀月
吉来来初 六
金 日 五金 拾四新 旧任二 元六月 戴伯十 角拾八
九封元号
封分 拝日
路 中抄 光緒
地元参租月一
長太四年対初参
寿昌日元永新春
月月
三二王金十吉 参六立拾号封元拝 ⊥ 十登商八記業抄二才
行銀 悪銀
去去去金金金 五壼四拾伯任妻琴等
角 九 兀 分封封封
外抄 櫃 吉対 尚 記 去 金 参 拾 兀
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向 業 萬 萬
井 記 泰 春
1 微累.、 記戒 望廿 望せ
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銀 行 八 専 の 見 出
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収収承
収九一月 店桟対午丙 房房十三年全八月除 年 タ 租 掲 486700260来金金金存
欠2151.965元元元金
去 金 壼 任 六
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八 税税金
分 金30
八 28.319元
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藻榛 礁購煮寸話寸長着
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長崎華商「泰益號」関係文書簡介 81
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長崎華商「泰益號」関係文書簡介
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早 金 661.91 元
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2610.22
元
380.528 439.522 1361.01 十四
一月 付 対 配 第恒 三喜 二二 早金
元
廿三 五月 付 対
配 第台 二北 幣三 雲 凶暴
元
初二 五月 付 対 配 第宜 元蘭 幣丸 正 早金
元
83
表 10 吾 灘 総 都 の 記 入 例
九
〇 七 皇
(3)おわりに
泰益號の帳簿資料は珍らしく今日まで保蔵されている。帳簿類以外に当時の華僑団体,
福建會館時中小学校,福濟寺等の文書資料も若干保存されている。これらの資料は,大 変まとまった貴重な史料であり,明治以後,長崎華僑の社会構造,教育,宗教,経営史が 反映されている。
泰益號の簿記組織は中国商業簿記の基本型より複雑化している。即ち,仕入・売上先元 帳が五つに分けてある。各経費元帳は三つに分けている。補助簿の増設は20種類以上もあ る。かなり大きい規模の組織を持っているように思われる。中国商業簿記形成の歴史的考 察に一つの良いパターンを提供している。そして,福州出身の「生泰號」商号と泉潭出身 の「泰益號」商号の帳簿を比較すると,帳簿組織はともに厘門系に類似している。けれど も,帳簿用語はかなりの違いが見られる。これは又「方言」の研究に役立つよい材料とな
る。
二二號の商業圏は,日本,二二,中国沿岸及び東南アジアの華商所在地であるが,泰益 號の経営資料で,この商業圏の地域経済,物価,運輸,金融の状態を分析することが可能 である。
表11泰益号関係帳簿一覧
分 類 項 目 A1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17
干 中 西 日 海 山 銀 各 萬 萬 華 台 関 台 各 譲 配 各 銀 各 電
本 味 珍 行 費 宝 商 商 湾 門 湾 郊 置 郊 行 貨 費
国 総 総 総 総 朝 雲 総 総 総 配 配 査 来 査 転 総
支 年 暦 年 部 部 部 部 宗 集 部 部 部 貨 貨 存 存 貨 存 口 登
辛丑
p寅
光緒 Q7 1901
@2
明治 R4
R5 △2 1 1
癸卯
b辰 ウ巳 ク午
3456 36
R7 R8
R9 △1
3233 1212 1111 2122
1
丁未 7 40 △1 1 1 1 1 1 1 2 3 1 2 1 1 1
戊申 8 41 △1 1 1 1 1 1 1 2 4 1 2 1 1 2 己酉 宣統
@1 9 42 1 1 1 1 1 1 1 2 1 4 2 1 1 1 1
庚戌 10 43 1 1 1 1 1 1 1 2・ 1 4 3 2 1 1 1
辛亥 11 44 1 1 1 1 1 1 1 1 1 4 3 2 1 1 1
壬子 民国 12 45
蜷ウP 1 1 1 1 1 1 1 2 1 5 4 3 1 1 1
癸丑:
1
13 2 1 1 1 1 1 1 2 2 1 6 4 3 2 1 1
甲寅 14 3 1 1 1 1 1 1 1 2 1 3 5 3 1 1 1 1
乙卯 15 4 1 1 1 1 1 1 1 2 1 6 4 3 2 1
丙辰 5 16 5 1 1 1 1 1 1 1 2 1 5 4 3 2 1 1
丁巳 17 6 1 1 1 1 1 1 1 1 1 5 4 3 2 1 1
戊午 18 7 ! 1 1 1 1 1 1 2 1 4 3 3 2 1 1
己未 19 8 1 1 1 1 1 1 1 2 1 6 3 3 2 △1 1 1 庚申 20 9 1 1 1 1 1 1 ! 2 1 5 2 3 2 △1 1 1 辛酉 10 21 10 1 1 1 1 1 1 1 2 5 2 3 2 1 1 1 壬戌 22 11 1 1 1 1 1 1 1 2 5 2 2 2 1 1 1 1
癸亥 23 12 1 1 1 1 1 1 1 2 4 2 2 2 1 △1 1 甲子 24 13 1 1 1 1 1 1 1 2 4 2 2 2 1 1 3 1
乙丑 25 14 1 1 1 1 1 1 2 7 3 1 2 1 3 1
丙寅 15 26 コ和115 1 1 ! 1 1 1 1 2 7 3 2 2 1 5 1
丁卯 27 2 1 1 1 1 1 1 1 2 10 2 2 1 1 7 1
戊辰 28 3 1 1 1 1 1 1 2 5 1 2 2 1 8 1
己巳 29 4 1 1 1 1 1 1 1 2 2 2 1 4 1
庚午 30 5 1 1 1 1 1 1 1 2 2 2 1 3 1
辛未 20 31 6 1 1 1 1 1 1 1 2 2 2 3 1
壬申 32 7 △1 1 1 ! 1 2 1 1 2
癸酉 33 8 △1 ! 1 1 2 1 1 1
甲戌 34 910 △2 1 1 1 1 1 1
乙亥
ク子 嚔N 闢ミ
25 35 R6 R7 R8
11 P2 P3
△1
2
!
1
そ の 他
合 計 冊 数 25 29 25 28 28 24 30 53 12 124 66 60 52 21 29 49 10
△ △ △ △ △ △ △ △
「 「 「 「 「 上 「 「
海 山 華 台 配 海 各 各
備 考 味 海 商 湾 育 、 貨 貨
総 珍 総 総 早 海 来 運
(異なる標題記述) 部 味 簿 登 底 威 源 転
L 総 L L L 、 L L
部 申江
長崎華商「泰益號」関係文書簡介 85 表11(つづき)
18 19 20 21 22 23 24 25 B1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 駁 外 各 現 崎 涯 結 街各 各 草 出 草 進 進 進 出 各 金
力雑 櫃暫 号総 戸総 商総 蕩田 髭丘 喜藷戸号 揚田
出 進 坐早
婁早 婁早 貨改 薪取
費 登 登 戸 登 底 盈 難 底 砺 砺 砺 砺 石馬 石馬 砺 梱 帳
「1 1 1 1
24 11 12
1
12
2
11 12
1 △3 2 2 1 2 1 1 2
1 2 1 1 1 2 2 1 1 2
1 1 3 2 △2 1 1 1 1 1
1
儀
1 1 2 1 1 1
111
11
1
111 11 12 1
1
11
に記入
1 1 1 1 1 2 △2 1
して
1 1 1 1 1 1 1 1 1 いる
1 1 1 1 1 1 2 3 2 1 o
1 1 1 1 2 1 2 2 3 1 作表
1 1 1 1 1 1 1 1 3 2 ■ 1 1
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1 1 1 1 1 1 3 2 1 1 は
1 1 1 1 1 1 1 4 2 2 1 杉
1 1 1 1 1 1 2 1 2 1 村邦
1 1 1 1 1 2 2 1 1
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1 1 1 1 1 2 2 2 氏
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111 111 12 322 122 2 に協力い
1 1 1 1
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1 111
1111 22112 1211
発
1
111
1111 312 33221 1121 111
闇 1 不詳
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不明 P
不明 P
不明 S
32 34 12 9 8 16 3 13 792 17 16 35 39 60 9 5 3 53 24 261
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(注)
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以上は泰益號帳簿資料を中心に,概略を紹介した。これから資料の整理や統計的分析に 加えて,泰早昼の経営実態,商号発展の史的研究を今後の課題として,進めて行きたいと
思う。
この報告は昭和58年8月20日,長崎の「天天有」料理店で催された長崎華僑研究会で中 間発表したものの一部に加筆修正したものである。出席された方々,重藤威夫,杉村邦夫 深潟久,神崎大輔,宮田安,嘉村国男,田中敏郎,官文秀の各氏から有益な指唆を頂いた。
ここに厚く感謝の意を表する次第である。さらにこの帳簿資料の提供については,陳梅坪氏 御遺族の御厚意に負っている。ここに記して,深甚の謝意を表するものである。
第3節 泰下下文書と長崎時中小学校
(1)創 立一清朝下の時中学堂一
今回,その所在が確認され,ほぼ整理と分類が完了した長崎の有力華商泰益號が残した 彪大なる書類にまじって,書簡類を含む約30点の長崎時中小学校関係の資料がある。
一瞥してわかることは,泰益號とりわけ陳世望が,明治38年(1908)の創立当時から,
昭和12年にいたる30余年の長期間,学校の運営と維持にたつさわったことである。
本稿でとりあげる主なものをあげると(□印は解読困難)
ア.長崎華僑時中小学校二十周年記念刊(中華民国14年3月25日),同記念会結界報告書 イ.創立二十五週年記念学芸会聖域順序及説明書
ウ.長崎領事館通告□□等議改良時中学堂意見各一掃
工.時中学校収支決算(民国9年,および民国24〜25年の各月)
オ.その他の公文書類
特に同文書のなかから「幻の書」ともいうべき前出『二十周年紀念刊』が見出されたこ とは喜ばしい。長崎県知事宛に提出された公式文書(昭和11年)の一項として「当校20周 年紀念刊附学則一冊添付す」の一文があり,時中小関係者の間で,久しい間その探査がな
されていたからである。また,「長崎領事館通告公□□等議改良時中学堂意見」には,昭 和の初期,既に運営上の問題が山積していたことを伺わせて興味がある。
同校は,日露戦争後の明治38年3月25日,清国在長崎第7代領事†緯昌(ベンポウツア ン揚州の人)によって提唱され,在留長崎華僑有志の協力で創立された。創立の経緯は,
孫文の指導で神戸同文学校(1900年創立),横浜中華学校(1899年)が,清朝と敵対する 三民主義の思想のもとに創立されたこととくらべ特徴的である。学校の場所は,中国本国 の学堂にならって孔子各局に設けられたが,これは明治26年(1893年),中国本土外では,
インドネシアの首都バタビアと長崎ニケ所のみといわれる。なお長崎には,別に中島聖堂 もあり,これは「清国初代余領事が聖堂重留の際寄進」という碑文のあることから,孔子 廟は明治19年発生した清国水兵事件1注薮後の長崎華僑の結束を促す意図と国家誇示のねら