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明治初年長崎の居留地外國商人と邦商との取引關係 (三)

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(1)

明治初年長崎の居留地外國商人と

邦商との取引關係 (三)

十︑ヲールト商会︵英国︶と遠山一也に係る件︵明治四−五年︶

熊本県士族遠山一也が英国商人オールトを欺いて三千両を詐取した事件である︒当時としては金額も相当多額に上.

わ︑又長崎・熊本両県に跨る事件であったために︑その当時において︑外国人と邦人との問の多数に上る訴訟事件の中では大事件として取扱われたようである︒しかも外人を相手とする邦人の詐欺事件であるために︑当時としては甚

だ異例の事件であった︒その事件に達座した者は主謀者たる遠山の他四名に上っている︒一件記録は大凡八百枚︑千

六百頁に上る浩珍なものであるが︑紙数の都合上︑金瓢を採録し得ないので︑その中の重要な記録のみを選び︑以下

由利に即し︑事件の全貌を明かにし︑その意味するところを考えて見たい︒

遠山は肥後藩士上りであるが︑士分としては地位高からず︑中級或は下級武士階級のものであったらしく︑当時の

いわゆる貧乏士族の一人であったと言い得る︒その熊本城下の御弓丁における所有地は五六坪であり︑達家は本家十

癖︑長屋三坪半にすぎなかったこと︵望︑その地所家屋を白川県︹熊本県︺が︑長崎県からの依頼で遠山から没収し

尭却した結果が十三両l分と永八丈にすぎなかったこと︵禦︑更にその他刀老木︵6︶以外には日ぽしい財産をもって

明治初年長崎の居露地外国商人と邦商との硯引関係︵三︶四九

(2)

いたかったとと等を考え合せると︑大凡右の推察は誤りがなρであろう︒慶応三年五月当時︑長崎で日本米二斗の価

格が式両一介(註とであったととから推量して右の金額は大した額ではなかったと言い得る︒

( 註 1)

拙縞朋治初年長崎における居尚一地外国貿易商へと邦商との取引関係(一)﹁経蛍と経済﹂(昭和泊・25発行)十二頁

或は旧藩時代は武士として相当の生話を営んでいたかも知れないが︑明治二年六月の版籍奉還以後︑士族として﹁現

石十介ノ一﹂の家誌を給せられるにすぎなかったから︑その当時生活はかたり窮迫していたようである︒

彼は明治三年(午)六月頃から長崎の今町に居住する原田喜一郎と一種の組合であるととるの﹁紡引い商法﹂で︑長

崎の大捕に居住するスエ1

γ

商人ウエストファールハスミツスパ

γ

)

する商法に従事していたロその取引方法は先づ反物の仕入値段とその支払期日を定めて訟き︑反物を譲受け︑熊本に

運び︑それを売上げ︑然る後反物の代金を支払うという形式であった︒ととろが反物の相場が下落したので︑仕入れ

た依段では売れなくなった︒止むを得予或ものは仕入依より安く売り︑或ものは質入して掃さ︑相場が上るのを待っ

て居った︒しかし︑益々下落するので如何ともなし難く窮地に陥った︒殊に質入した分は利息がかさむ次第である白

支払期日になっても仕入れた反物代金を支払えたくなったので︑ウエストファールから厳重に催促を受けた︒よって

その翌年(明治四年)一月中に︑かねて懇意にしている長崎県の役人(貫属卒)である品川藤十郎から千両を借受け

ウエストファールに一部返済したが︑同年四月中までに損失が凡そこ︑六

OO

両にも及んだ︒

右の金高をウエストファールと品川え返済する方法がつきかねたので︑程々苦慮した︒その方法としど外人え国産

の煙草を売込む乙とは利益があると思ったので︑その取引を計画し︑熊本の煙草の相場と外人え売込む相場を比較し

て見ると相応の利益が見込まれた︒そ乙で五月初旬頃再び出崎し︑紺屋町田中謹平方に止宿した︒その頃︑折よく出

崎していた数人の熊本県士践と共に﹁紡引い商法﹂で︑熊本産の煙草三

O

万斤を英商リYカ︹

P Y 1︺え売込む相談 をまとめ︑品川藤十郎を通弊としてリシカに同月下旬頃右の件を申入れた︒しかしりγカは甚だ慎重であって︑右の

取引の安全性について︑長崎県の外務局え相談したと乙ろ︑外務局では士校等が商法を取組む場合には︑彼等の所属

する藩庁から長崎県庁え確実であるととの証明が友い場合には﹁商法難関届﹂旨を答えた口又リγカは長崎の確かな

(3)

商人がその取引に加わらねば取引に応じ難いと答えた︒そ乙で︑遠山はかねて懇意にしている油屋町の大浦けい方に 行き︑右の取引に参加してくれる工うに頼んだが︑けいは︑これまでリγカと取引をした乙とがたいという理由で断

り︑官)結局︑乙の話は破談となった︒

大浦けいはこの事件の立役者の一人として登場するが︑油屋町に敷地三五四坪余を有する宏壮た屋敷(土蔵三戸前

附)に住み︑£)主として茶の輸出貿易左なし︑当時長崎における有力な商人の一人であった︒そのことはこの事件

に関して︑一八七二年六月十七日附(明治五年五月十二日)ヲ1

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右証人大浦けいハ当県に沿いて

相応之身代ニも有之)との文一一一一口によっても知り得る︒又︑六月十一日(壬申五月六日)附の英領事から県令宛の書簡

にも﹁右けいは相応の身上たる由伝承致し候﹂の文言がある︒

その間ウエストファール並に藤十郎から貸金返済の催促左受け︑又質入した反物の詰戻の期限も迫って来たので困

窮に陥った︒次いで六月初旬大浦居住の英商ヲ1ルトが煙草を買入れるとの話を聞いたので︑同人に煙草を売込の契

約をなし︑手附金を受取り諾万えの借財な支払或は質に入っている反物を詩戻し︑その反物を売払い︑その金で煙草

を見入れヲ1ルトえ渡そうと考えた︒しかもその心底は表面に出三十︑六月九日頃藤十郎を通排としてヲ1ルト方に

行き︑熊本産の煙草十五万斤を八︑九月中に売込み︑手附金三千両を受取る契約をなす用意ができた︒

しかしリシカ同様︑長崎県下の信頼できる商人が参加しなければ取組に応じたいというので大浦けい宅に行き契約

書に名前だけ貸して・くれるように頼んだ︒その際約定の煙草は期限内に相違なく売込むことを約束した︒更にけいの

信頼主深めんがために︑若し延滞した場合には国許の支配頭から少しも難渋はかけぬよう取計う旨を述べ︑又肥後軍

備方用遠洋崎庄次郎代人福田屋喜五郎を喜五郎本人には無断でその取引に参加せしめた口福田屋菩五郎︿熊本の新坪

井米屋町居住)は遠山が先に計画した

P Yカえの煙草売込の件にづいて一役買った男で︑熊本から出崎し︑その商談

が破談になったため︑むなしく滞崎した結果とな

D

︑旅費︑宿料も相当多額に上った︒遠山の考えの中心は︑自分一

個の名前だけではヲ1ルト並にけいの信用が薄いである

5

と思い︑肥後軍備方用達一式えという公儀の役職名在使うζ

(

)

(4)

;

とによって︑右両人えの信用を増さんとした乙とにあったのである口官尊民卑思想が現代では想像もできぬ位に強か

った当時としては︑かかるやり方は外人並に邦人から金を詐取する手段として甚だ有力であったであろう︒

更に遠山の述べるところによれば︑福田屋喜五郎が前回の破談になった取引のために少からね旅費を空費している

ので︑彼を今回の取引に参加させる乙とによって︑若し利益があった場合には﹁少分ニ一

m

も可呉遣﹂と考えたとして

いる︒笠間五郎本人には無断でやったにとであるので︑宿主の問中謹平の伴昇三に頼んで約定書を認めさせ︑昇三之印

形左諮平から借受けて喜五郎の名前の下に押し︑体よくごま化し︑自分の名前下には実印を押した︒

同月十一日頃︑ヲ1ルト方え右の約定書をハ1

( U V (

英文)持参し︑けいをヲlルト方に呼寄せ︑そこでけいに右

約定書に印形を押してもらい︑ヲ1ルトに渡した︒乙Lでけいは乙の取引にづいて︑いわば連帯保証人の地位に立っ

たわけである︒手附金はヲ1ルトから先づけいに渡し︑けいの千を経て遠山に渡す約束をした︒そ乙でその日は引取

翌日けい宅に行き︑手附金三千両介を洋銀で二︑九八五枚受取った︒その際︑けい宛の明治四年末六月十五日附の覚

書(受取証書﹀ハ

2v

﹁金三千両右は煙草拾五万斤之内無相違悩ニ話取申候仕向方之依は当未八月より九月迄之内無具

俵差送り申炉︑万え一延引ニも吉一候ハ︑熊本支配頭より取捌抑御難渋相掛申間敷為後証一札差入置候所の而如件﹂を軍

備方用達津崎庄次郎千代福田屋喜五郎︑肥後藩遠山一也の連名で渡している︒菩五郎の名前下には前同様昇三の印形

を押し︑遠山は実印を押しているe

右の洋銀一一︑九八五枚のうち一︑五五一枚三令四タ︹史料では一五五二枚三合四タと書いてあるのを一五五一枚三

合四タに訂正してあるが︑乙れでは一枚不足する勘定にたるが理由不明︺はウエストファールえ︑一︑一三二枚六合

六タは藤十郎え前借の元利の方に支払ったロ品川藤十郎から大浦けい宛六月十二日及十五日の日附で︑それぞれ洋銀

OO

枚︑同一︑一八五枚合計二︑六八五枚に上る受取説者

3 U 1 v

が出されているが︑乙れはウエストファー

ルえの支払を通訳である品川の手を経て支払ったから︑かかる受取一説書となったものであるう︒残の三

OO

枚は大浦

けいに渡しておき︑同人から熊本へ為替左取組んでもらい︑熊本で為替金を受取り︑先に熊本で質入していた反物志

受戻し︑それを売払えば千両位の金にたるので︑それで煙草を買入一アールトえ売込む心算にしていたと乙ろ︑最早質

(5)

物は期限がすぎて流れてしまい︑受戻しができたくなクた︒遠山の申立では︑その方法ができ︑なくなったので︑他に 金策の目途もないまL︑その金で一アールト並にけいえの気休として煙草を買付︑長崎え送ったが︑相憎煙草が腐った

ので売込がで包たくなったとしている︒しかし大浦けいの手続書

B )

に詳細に述べられているように︑遠山が長崎に

煙草を送った形跡は全くないのであって︑乙れは虚偽であろう︒乙の金の使途は不明であるが︑・おそらく生活費其他

に費消して了ったのであるう︒

遠山は六月十七日長崎を出立し帰熊した︒けいは未だ煙草納入の期限(納入期聞は定約書では八月中旬から九月末

までとなっている)には至らιなかったが︑三千両という大金の受渡にクれて連帯保証人同様の地位に立ったわけであ

ったから︑大いに不安を感じたらしく︑又﹁少唱え不都合之義承り込候問﹂ハ8vというわけで︑熊本落の支配頭え面会

のため︑その息子の一亥之こを同伴し︑同月廿五日長崎から江島丸に乗船︑熊本に向った︒同日夕刻熊本に若いた︒そ

れからけいは遠山に面会し︑更に支配頭村上久太郎に三千両の受取証書(覚)写を差出し︑事情を具申した︒

熊本落庁では役人三人列座の上︑遠山とけいとを召出し審問の場を開いたロ最初は蒋の役人達は相手が女である乙

とから侮り︑威嚇政策を以て事件を押潰そうとした︒との乙とは大浦けい手続書(口上香取﹀ハ8v中︑﹁御列座中座

之御方大音ニ市其方不均之者﹂と再三呼はクたとあることによって明かである口乙の事件は未だ期限が来ていたいの

に﹁熊本藩を何と相心得﹂落庁に願出たか︑期月に至らば︑落庁から﹁急度承り造し可申立﹂とて︑取引の進行と精

着にクいて︑一湿の保証左与えてやる︒誠に不均之者であるとけいを叱っている︒けいはそれに対して︑私は決して

落庁え願主てたのではない︒御支配属え﹁御釣合﹂(照会)する乙とのみが目的である︒しかし︑﹁期月ニ至候は

tA

落庁上り急度仰排え被成下候俵に候ハ︑難有可奉存﹂と答えているロ

熊本落ではけい宛の覚(三千両の受取訳書)書中︑﹁万え一延引ニも玉候ハ︑熊本支配頭より取捌御難渋相掛中間

致﹂とあって︑支配頭の役名が出ていることを落の体面上豆大但し︑色唱えた術策を弄して︑けいを嚇したり或はすか

したりして︑それを取除かせようと試みた︒その当時は︑明治四年七月の廃藩置県の直前であり︑未だかえる犬落で

は帯意識が極めて濃厚であったふめに︑落の体面︑名誉というととにクいては極めて敏感であったに相違たい︒

明治初年長崎の居V田地外国商人と邦商との取引関係会一)

(6)

史料中或る場合には溶庁或は県庁と役所名が混用されているのは︑廃藩置県が徹底したかった当時としては止むをm

得たかったであろう︒右の要求に対してけいが拒絶した乙とは当然である︒けいは六月廿五日から八月五日まで︑四

十数日にわたって熊本に滞尚し︑落庁といろいろ交渉したが︑結局何等埼が明かやノ︑空しく帰崎した︒その後︑けい

の息子の一亥之二及び手代を数回熊本に往復させたが︑遠山は種えたる一時逃れの虚言を弄して︑支払にクいて全く誠'

翌五年の一月にいたるも事件は何等解決の見込が立たない状態であった︒その間に・おける大浦けいの心痛は察する

に余りあ.る︒又︑交通不便の当時︑長崎・熊本間を本人︑その息子並に手代等が数回往復した旅費︑長期にわたる滞一

在費等の出費も莫大た額に上ったに相違ない︒﹁盗人に追銭﹂とは正に乙の事であろう︒その間の事情にクいては︑

前掲手続書中に詳細に述べられているが︑その内容を詳説する煩にたえないので︑以下箇条警に記し︑その一斑を知

(一)六月廿七日安井町岸上嘉助宅にて︑けいは遠山と面会︒支配頭村上久太郎方へ出頭︑三千両手形写差出︒

︿一)同廿八日六新町嶋川内へけい並亥之二出頭︑役人三人(宮田何某︑県清三郎︑島回半八)列座の上︑け

い︑遠山(手錠に被将﹀を訊問︒けい村上久太郎宅を訪問すロ

(一)同廿九日けいは平野宅に居った︒支配頭村上の従者来り︑村上宅に行く︒

(一)熊本監察役高階忠蔵︑けいの旅宿塩屋治三郎宅え来る︒事件の詳細を書取︒翌朝林寿三郎︑嶋田半八両人来

る︒その後︑後藤伐平︑赤星勉両人来る︒その翌朝高階忠蔵︑赤星勉︑内海一太の三人来る︒

(一)七月四日遠山一也出牢し︑けいの旅宿訪問︒

(一)同五日藩庁佼人一也を同伴し︑けいを訪問す︒支配頭え引合の儀を取除いてくれと頼みに来る︒けい拒

絶す︒同日午後古庄仙五郎けいを訪問し︑県清三郎が廃役になった旨を告ぐ︒藩庁役人度々一也同道の上︑け

いを訪問し︑支配頭の名義を除いてくれと頼九だ・けいは承引せ宇︒

(一)同十三日先祖の霊祭のためけい帰来の希望を申出る︒一也同道の上役人来訪︑長崎県え委細掛合に及ぶ

(7)

まで滞尚してくれと依頼した︒

︿こ同廿八︑廿九日頃にたって︑役人一人旅宿に来て︑長崎県えの掛合がすんだから︑帰来して工いと宿主に

伝えた︒よク八月五日出立︑七月に帰崎した︒

︿一)熊本藩庁より恵藤何某という役人をもって︑乙の事件にクき長崎県庁え持合があった

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︿一)九月廿一日英人ハ

Y T同道︑けい熊本へ向け出立︑廿二日熊本着︒新町沢屋へ英人と共に同宿︒はから十

も一也来訪︑九月中五百俵を長崎へ積送ったという︒長崎でけいと行違になったので︑田中金平︹謹平︺へ管

理を頼んで一也は帰熊︒︐

︿一)同廿八日英人とその部屋付松尾重助熊本へ行く︒一也に会い︑田中金平︹諜平︺への添状をもらった.

両人は廿九日長崎に帰着︑回中へ持合ったととろ︑同人は一也と同道熊本へ行き出守口問屋並に五島町の蔵え

探したが煙草一俵も見当ら歩︑その旨飛脚左以て︑熊本旅宿に居るけい宛英人から通知があった︒長崎に沿い

であると称する煙草を波してくれる工う︑手代を以て一也に交渉させたととろ今一日待ってくれとの返答であ

ハ一)けいは手代を残しゐき十月六日長崎に帰り︑遠山を待っておった︒十七日にたり︑昨夜出崎の旨一也から使

があった︒五百俵の煙草にクき数回交渉したが︑取凶めた返答が︑なかった︒今町原田喜一郎︑遠山の使者とし

てけい方に来るロ為替金を貸してくれねば︑茂木まで積送しである百俵の煙草は引渡されぬという口

(一)十月末頃︑代人両人を熊本へ遣し︑支配頭及び県庁へ内願せしむ︒

(一)大浦けいの千代と遠山の弟石原茶︑長崎へ遠山の迎として十一月廿一日に来るロ遠山は口実を設けて長崎に

(一)十一月廿五日亥之ごと遠山弟は長崎出立︑同廿八日熊本着︒支配頭と国会すロけい手代秋田滞熊中たりし

ため︑秋田も同席す︒支配頭はヲ1ルト本人工りは格別千強い催促もたいのに︑かえって受人︿けい)から厳

しく迫られるのは如何なる訳か︑甚だ不都合千万という︒

明治初年長崎の居川田地外国商人と邦商との取引関係

(8)

L

︿ ) 廿

︿一)同廿九日約束の日限につき︑オールト上りけいへ厳しく催促し来る︒煙草は日限切れとなったため不要

となし︑金子の返還を求めらる︒

︿一)秋田︑滞崎中の遠山と面会し交渉す︒

︿一)十二月二日けい︑遠山︑秋田の三人ヲ

1ルトを訪問︑同月廿日迄の猶予を頼む︒けいは遠山同道︑支配頭

へ面会のため熊本に行くことを約束す︒その後遺山行衛不明とたる︒

(一﹀秋田を熊本へ遣す︒同所にて遠山とはからやも出会う︒支配頭へ届出る︒遠山間道交問頭宅へ出頭す︒

支配頭宅に千代(秋田)は遠山を同道出頭し︑長崎での有様を委細陳述した︒遠山は︑一一一一口の申開も注し符友かっ

た︒支配頭から遠山を種々札問したが︑何等特明く乙とたく︑詐欺の罪状は明白となった︒ヲlルトへ約束した廿日

までの期限に解決を得る見込が全くないので︑取敢えや遠山の家稔五ヶ年令一を渡すととになった︒落の出張所に十二

月廿二・三日頃︑遠山一同出頭し︑国札七一貫九二

O

匁を︑当時まで滞熊していたけいの息子亥之ごに下渡された白

亥之二は後金を催促のために滞話していたが︑あまり日数がたつので︑翌五年一月初旬に︑国札左熊本の魚屋町問屋

塩屋作三郎方で正金に引換︑三五二両一円分二未左受取り︑同十一日に帰崎した︒

a v

さっそくヲ1ルト商社へ方の金

を持参したが︑その商社ではかかる少額の金は受取らねと拒絶した︒しかし熊木で隷難辛苦した事情を説いて︑その

金を受取らせた︒以上は明治四年六月初旬の事件の発端から五年一月十一日までの経過である︒

(

)

遠山一也がヲ1ルトから三千両を詐取した罪状は明白となり︑受取った三千両の手附金に対して︑七ヶ月後になっ てわやかに三五二両余を償還したにすぎ友かった︒五年一月にヲ1ルトは武山一也︑福田屋喜五郎(以上熊本県)及 びその保証人たる犬浦けいを︿也︑犬浦けいは遠山を相手取出訴に及んだととハ7Uは当然である︒その頃犬浦けいが 御役所宛に提出した口上覚ハ

3

に﹁浅智の私何之思慮も無之加印仕候処・:﹂更に﹁難渋差迫り殆当惑罷在女子之浅智

(9)

一時之卒忽ニ市憶成御身柄之御商法ト想符詰判仕身代減却之場ニ押移り歎ケ敷次第三卒存候ニ付﹂とあり︑﹁手附金

の行街相分り持出被呉候ハ︑:・﹂として︑三千両の償還を求めている︒勿論ヲ1ルトに対しては手附倍増の約定であ

ったが︑六千両の償還左求むるととはとの場合無理であって︑外人の方でも三千両の返還を受けるととで手左打つ乙

(

)

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(

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事件の審理はかなり長時日を要した︒長崎県からの要求で︑熊本県当局は遠山と福田屋の二人を逮捕し︑熊本県の

捕亡方︹刑事︺丸山運吉・成松市五郎・園田真吾・佐村為一郎の外三人合計七人附添って五月十九日に長崎へ護送し

た︒(叩)その際の熊本県から長崎県宛の護送する旨を書送った害状(己中︑再仲として︑福田屋喜五郎は遠山がたし

た乙とについては一切知らないようであり︑事実無根の罪であったならば︑﹁感諒之次第﹂であるから︑もし右の姉

亡方が滞崎中に吟味済になったならば︑身柄は引渡してもらいたいと書添えてある︒

右の事件

r

ついて判決が下されたのは︑明治五年の五月下旬から金銭関係の処八刀突が決定した七月初旬までの間で

あった筈であるロ判決書に日附がないので大凡のと乙ろを推察する他はない口

判決文の内容は次のように定められた︒︿却﹀

(一)遠山一也(白川県貫属︑士挨)

1γ商ウエストファール及び長崎県貫属卒品川藤十郎への借金があり度え催促され引延し得ないように

なり︑英商ヲ1ルトえ煙草を売込む契約をなし︑手附金三千両を受取った︒その際︑ヲ1ルトの要求により︑長

崎県の信用できる商人を加えんがために︑大浦けいに約定書に連印を求めた︒けいが危慌の念を抱かたいように

もし取引が延引した場合には︑熊本藩の支配頭に・おいて難渋をかけないように取計うととになっているとして︑

その役職名を利用したり︑叉肥後軍備方用達津崎庄次郎代人福田屋喜五郎もそのために出崎している等と巧みに

虚偽の事実左並べた︒約定書及びけいえの三千両の受取一証書には喜五郎の名前を書き︑有合判記押用い︑洋銀を

詐取した料により︑

﹁詐欺律一一依り除挨の上準流十年申付ル︒但身代限りヲ1ルトえ償却申付ル﹂

明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係会一)

(10)

準流十年とあるが︑準流とは明治三年十一月十七日の達を以て﹁北海道流所御規則追テ被相定候迄暫グ流刑ヲ

停メ役限ヲ︐五徒之上一一加へ準流法被相設候条流刑ヲ犯シ候者ハ右一一照準シ処置可致候事﹂とし︑新しく定められ

た刑罰であって︑従来の流刑に代えて︑徒刑(懲役刑)を以てする制度である.コ一年十月刑部省から太政官に出

した上申書は流刑は蝦夷地に限る乙とが﹁一昨辰年﹂(明治元年)の布告によって定められたが︑昨年(明治二

年)から囚徒が彩多になり牧容できないようになった乙とが述べてある︒それで十一月十七日に府藩県に達を以

て︑準流法が公布・施行されたロ乙の準流法は六年六月﹁改也律例﹂の公布によって廃止にいたるまで効力を有

した︒その内容は次の如し口

右のよう怠沿革を経てい悦流法は公布されたが︑乙の法の公布は我国刑罰史上︑流刑廃止にいたる前駆的現朱であ

って︑乙の法の公布によって︑その後流刑は事実上︑行われないようになった口(註

2)

{ 註

2)

(

i

)

合一)田中謹平(第二大区︑紺屋町︑商)

英商及び大浦けいに対して︑遠山が詐欺を働いたととについては与り知らないが︑同人の依頼によりヲ1

宛の約定書及びけい宛の証書を認めてやり︑その上︑その書類は急を要するし︑福田屋喜五郎の印形を取寄せる

のは手間取るから有合の判を借受けたいとの遠山の依頼を︑不正の事実と心付乍ら︑枠昇三の印形を貸渡した科

﹁詐欺律一一依り懲役六十日申付ル︒但遠山一也身代限りヲ1ルトえ償却申付候処不足ニ付猶身代限り償却申付

会一)品川藤十郎(長崎県︑貫属︑卒) ル ﹂

遠山一也から返済を受けた金は︑遠山が虚偽の証書をヲ1ルトに差入れ詐取した金であるから

(11)

遠山がヲ1ルトから詐取した洋銀二︑九八五枚の中︑一︑一.三二枚六ム口六タは遠山が品川からの借金えの返済と

して前年の六月十五日頃渡したが︑その金は不正の金であるから没牧されることになったわけである︒その金高

の内容については戸長田中為八郎が差出した﹁覚﹂

a v

によって明白である︒右金高のうち一︑

O

タは元金であり︑一二

O

枚は一月から六月まで六ヶ月の利息である︒

(四﹀大浦けい(第二犬区︑油屋町︑商)

遠山一也がヲ1ルトへ煙草を売込み︑手附金を詐取するにクいて︑巧みに欺いた乙とをそ引いとは知らやJ信用し

不正の証書である乙とは知らなかったが﹁連印﹂したから︑

﹁品川藤十郎より取上金之外一也外宅人ハ身代限り取上ゲ猶不足之分ヲ1ルトえ償却申付ル﹂

述印しただけの理由によって︑犬浦けいはヲ1ルトに対して︑最終の償還責任者となり︑結局︑一︑四九二両余

に上る金の支払を負担する結果と︑なった︒

遠山一也は五年五月廿一日に﹁揚り屋入﹂となった︒当時士族が入牢する乙とを揚り屋入と称していた︒士族から

除挨され︑十年の懲役刑に処せられた︒

田中詑平は遠山と同じく五月廿一日入牢となり︑判決文では六

O

日の懲役に処せられたが︑同月品川日に出牢となり

﹁町方預グ﹂になっている︒(臼)五月晦日の日附で戸長木下復七郎代西左陽こから御役所宛﹁差上申預り証文﹂

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差出されている︒その文面に﹁右之者御吟味中御預被為成怯ニ預り召置申候・::﹂の文一言がある︒

遠山と共に熊本から長崎に護送された福田屋喜五郎は︑大黒町旅人宿肥前屋寿吉方に五月廿一日から﹁宿預ケ﹂と

なった白宿主肥前屋寿吉から︑五月廿七日附で︑福田屋菩五郎をたしかに預った旨の書面白)が御役所宛に提出され

ている白伎は遠山が口上書

3 u

中に・おいて供述しているように︑乙の事件にクいては全く関係がたかった︒遠山が本

人には無断で勝手に福田屋の名を利用したにすぎなかった︒もっとも本人の五月舟日附の御役所宛の口上書

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では

それ以前の破談となった煙草の﹁紡い商法﹂には関係があるが︑それはこの詐欺事件とは直接関係がないのである︒

彼は無罪であるために︑舟日に﹁帰県申付ル﹂

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となって︑放免されている︒五月廿八日夜から舟日昼までの彼の

明治初苧長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係会一)

(12)

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旅籍料は︑金式歩である旨の書面白

vが肥前屋から御役所宛に出されているが︑乙れは役所の負担となったのである

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金銭関係の処分については次のように定められた︒

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品川藤十郎より取上

三五二両一分二朱:::::遠山一也より大浦けいえ前以相渡居候分

二二両:::::::;::遠山一也より白川県下津崎庄次郎え品々引合勘定残金可受取介取上之分

一三両一分と永八文::・遠山一也所持之地所建家とも売払代取上介

合計一︑五

O

七両二分二未と永八文引

残一︑四九二両一八刀と永一一七文

右のうち三五二一向一分二未は︑遠山の家稔五ヶ年介︑同札七一貫九二

O

匁を四年十二月下旬︑熊本で受取り︑翌五

年一月に岡崎で正金に引換て長崎に持帰り︑ウエストファールに支払済の介である︒

2 v

津峠庄次郎応対してもっていた売掛金の残額を取上げた介である︒一三両一八万と︑水八文は遠山所有の家屋敷を役所に

没収し︑売払った代金であるロ敷地五六坪︑本家一

O

坪半︑長屋三坪半の武家屋敷であったD)

両一八刀と永八文の合計三五両と一介と︑水八文にクいては︑五年十一月十日附を以て白川県格参事から長崎県令参事宛

で送金した旨の文書公)が発せられているロ

遠山は︐身代限処分を受けたのであるから︑右の家屋敷の外に︑家財にクいても没牧さるべきであるが﹁白川県ニ

間合候処身代限り可申付品無之官回答有之﹂五)とあって︑殆んど出家財らしいものがなかったのである︒いわゆる﹁

士挨の商法﹂で︑失敗し︑貧窮の状態に陥っていた乙とが推察される︒

(13)

田中詑平についても﹁・身代限﹂が申付けられ︑﹁身代限掲示笑﹂

2 v

が起草された︒沿そらく役所の掲示場に公示

されたであろうD文意は遠山の詐欺事件にクいて︑田中へ身代限を中付けたから︑﹁若同人え掛り貸金滞出入之義も

有之候者は五月廿七日迄ニ可申出右日限過去訴出候ニおいてハ一明取上無之間其旨可相心得者也﹂として︑回中に対

する債権者があった場合には︑五月廿七日限り申出べきで︑それ以後は無効である乙とを公示催告している︒

しかし︑同人は借家住い免)であり︑叉貧弱.の状態にあって︑少数の日常着用している衣類以外には目ぼしい家財

もなく︑(均)何等差押えらるべき物件がなかった︒体屋町の家主永野志をから︑田中定種宛三月廿四日附で差出した

﹁差上中詰一社文之事﹂お)によれば︑建具・畳一式も家主が貸付けたものであった白田中定震は当時の係役人である

λ

結局︑三千両にクいての前述の処介案(己に土り︑四種の道を通じて償還された一︑五

O

七両二分二朱と永八文左

差引いた残金一︑四九二両一分と永一一七文にクいては︑大浦けいが支払を負担することになった︒当時としては大

金勺あり︑けいにとっては迫岩したためにはからやノも大たる災難を招いた乙とにたる︒後述する工うに︑犬浦けいは

当時かなりの財産家であったために︑ヲールトから目をクけられて居り︑英領事を通じて県令宛に事件の早急解決を

依頼する手紙中に︑度え大浦の名があげられているロ五年九月に大浦はその息子亥之ごと迫暑で﹁月賦金一社文之事﹂

五﹀を戸長富田秀三宛に差出し︑三千両中一︑七五

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両を約めた残一︑二五

O

両にクいて︑ヲ1ルトへ月践にて償還

することを約束した︒

五年十月から廿ヶ月に︑毎月末に六二同二八万宛を支払う約京である︒との月賦金額は︑五年九月十日附で長崎県令

官川一同之から英領事宛に出した書翰中に書かれている︒

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﹁万一一ヶ月ニ而茂相滞りヲ1ルト工り訴出候ハ︑前書

引当之家屋制土蔵速ニ御引揚相成候市茂其節故障無之﹂として︑その敷地三五四坪余に及ぶ油屋町の宏壮た家屋敷(

土蔵三戸前附)を抵当として差出している︒同町内の神田政七なる者を話人(保証人)として立て︑﹁万一相滞候節

者私引詰約定家屋約土蔵共ニ差上可申侠﹂との文一一一日が︑右の﹁月賦金証文之事﹂の書面に連続じて苦かれ︑更に引ク

μが戸長官田秀三によって苦かれている︒そして最後の宛名

明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係

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(14)

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は外務御役所になっている︒

tAに注目すべきは遠山がウエストファールに支払った洋銀一︑五五一枚三合四タにクいてである︒支払ったとと にづいては遠山の自供

3

﹀と︑﹁覚﹂(五年八月)(均﹀とによって明白である︒﹁覚﹂によれば︑四年六月十五日か ら七月二日までの間に四回にわけで︑洋銀一︑ごニ七枚と金五三

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両を品川が遠山の代理としてスパγ部屋(ウエス

トファール)え持参したととを外人自身が認めている.遠山は六月十五日に三千両を受取ってから︑ウエストファー

ルと品川への借金払を済した後︑十七日には熊本へ帰ったから︑ウエストファールベの支払は品川に金を預けて支払

を依頼して帰ったのである︒£v

との金は品川に支払われた洋銀一︑ごニ二枚六合六タの金と同じく不正の金であるから︑県の外務役所は当然ウエ

ストファールから取上げて︑ヲ1ルトへ返還すべき筈である.そうすれば︑連署人たる大浦けいをして不明と不運と

に嘆かしむるととは注い筈である︒然るに外務役所は﹁白川県貫属士扶遠山一也外老人御仕置伺書﹂

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では︑﹁金

千五百五十宅枚三合四タは無相違ウエストファール方へ相渡居候得共外国人之手ニ渉り候而は我法律ニ照準し右洋銀

取上候義ニも至り兼候ニ付強而応援一一及ひ不申候﹂として︑外国人の手に渡った乙とは間違なしと認めて治きながら

外国人の手に渡っては︑我法律に照準し︑外人からその金を取上るわけにも行かねとして不問に附している︒

右の仕置伺書の原案には次のように書いてある︒右の金は不正の金に相違ないが︑外人の手に渡ったので︑我国の

法律で裁き難い︒スエ1

γの法律によって裁くべきであると考えられるので︑一也の罪状を詳しく述べ︑当の外人

が日本人であったならば︑我国の法律によって︑不正の金であるから︑たとえ︑事情を知ら守して受取ったとしても

没牧しヲlルトへ下渡す筈である︒スエ1デシでは右のような事件には如何様の取扱をなすかをその国の領事に問合

せたととる︑別紙のよう友返翰があったから取上げなかったと書いてある︒その返翰なるものは史料中に見当ら

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が︑何れにしても外人の手に渡った金というので不問に附している︒乙れは安政五年の五グ国条約による開国以来の

治外法権(開

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ω円︺日片山岳丘一︒ロ)に基くととは明かであるが︑あまりに事理明白な事件であるか

ら︑外交々渉によって︑合理的な解決ができなかったとは考えられない︒それが行われなかったのは当時先進国であb

(15)

る西洋諸国民に対して︑我国民が一般に抱いていた卑屈な劣等感のあらわれであろう.

治外法権は安政四年己五月廿六日(一八五七年六月十七日)︑下回で調印された我国と米国との間の下回条約の第

四条に始る︒(註

3)

第四条日本人亜米利加入に対し法を犯す時ハ日本の法度左以て日本司人罰し亜米利加入日本人へ対し法を犯す時

は亜米利加の法度を以てコシシュル・ゼネ一アール或はコシシュル(共に官名)罰すへし

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次いで翌五年(一八五八年)締結された我国と米・蘭・露・英・仏の五ヶ国との間の所詣﹁五ヶ国条約﹂にもそれ

ぞれ治外法権が規定されている︒その代表的例として︑安政五年戊午七月十八日(一八五八年第八月廿六日)に締結

された我国と英国との修好通商条約︒中の関係条文を次に掲ぐ

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英文略)(註

4)

第五条貌利太尼亜臣民に対し悪事を為せる日本人は日本司人にて札し日本法度に随て罪すベし日本人或は外国の

臣民に対し思事をなせる貌利太尼亜臣民はコシシュル或は英他の官人にて札し貌利太尼亜の法度に随て罪すへし

裁断は隻方に於て偏頗なかるへし

第六条貌利太尼亜人日本人に付て訴ふへき事あらハコシシュル館に赴き英国日を告へしコシシュル吟味の上実意に

処置すへし万一差捕り日本人より貌利太尼亜人に就てコシシュルへ訟を為す事ある共又コYシュル実意に処置す

へし若コシシュル是を処置し難き時ハ日本司人へ申立倶に吟味し当然の判断を為すへし

第七条貌利太尼亜人日本商人に述債ありて償左怠り又ハ好曲ある時はコシシュル之を裁断して厳重に償はしむへ

し日本商人の貌利太尼亜人に述債あるも日本司人之を処置するは同様たるべし

日本奉行所貌利太尼亜コシシュルは隻方の国人の沼債を償ふ事なし

明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係(三)

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(16)

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六回

同じく六月十九日締結の米国との条約は第六条︑七月十日の対オ一フゴグ条約は第五条︑七月十一日の対ロシア条約

は第十四条︑九月三日の対ブラシス条約は第五・六・七条に夫々同趣旨の規定がある口

( 註

3)

外務省編︑条約九民芸日嘉永七年五明治十七年1

( 註

4)

右向︑四二二五以下

. ( ) 以上によってとの事件は犬体の解決方法が決定したわけであるが︑との問英国領事冨旬︒ロω

J403と長崎県令

官川一同之との間に数通の書簡が往復され︑事件の解決に主要な役割を演じている口当時外国領事が如何なる活動をな

していたか?その国の居首民の保護並にその利益の擁護について︑その.国の国家権力を代表して︑開国当時の未だ

卑屈な封建的意識から完全に脱却していなかった我々の官去に対して如何なる成力を示していたか?その実態の一

斑を知り得るのであって注目に価する︒その中の数通を選んで次に紹介する︒

(一)一八七二年三月廿三目的(問屋)£)

一央領辛から宮川一回之に宛てたものである︒その内容は︑肥後藩役人遠山一也と肥後の商人福田屋菩五郎がヲ1

ルト商会え五︑六四七両余に上る肥後産煙草の供給契約をなし︑長崎商人大浦けいの推薦によって︑ヲ1ルトは

三千両の手附金を遠山に渡した︒然るに︑遠山は一向に契約を履行しない︒ヲ1ル今商会は乙の事件の解決にあらゆる努力を試みたが︑効果がない︒貴官に沿いて何卒なるべく早く事件の解決を取計らわれんととを御願する

との趣旨である円英文の契約書が添付されている︒

︿二)同六月十一日(明治五年壬申五月六日)附

英領事から長崎県令宛の書簡である口前の手択に主って事件の早急解決を依頼したが︑七十日余たっても未だ

解決しないので︑重ねて事件の早急解決を依頼した手紙である︒尚︑犬浦けいについても一言触れている︒

﹁::・肥後士官遠山一也並商人福田屋喜五郎を相手取同社中上りの訴訟一件は長平余程の時日を経旦同社中ニ於

て急速落着相成候様渇望罷在候問右は咋今如何の運相成居候哉拙者ニ御報知被下度拝願致侠一右けいは相応の身

(17)

上なる由伝承致し候右金子ハ全く同人の受合ニて前渡致候俵ニ付速一一同人より緋納いたし候様御促被下度懇願致

会一)同年六月十七日(壬申五月六日)附品

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英領事から県令宛の書簡口十一日附で領事から県令宛の依頼状に対し︑十三日附を以て︑県令から返事があっ

たロそれによれば︑急速に事件を解決するために熊本来へ掛合中であるとのととである︒そのととは﹁大慶之至

﹂であるとの謝意を述ベブ更に﹁大浦けい速に排金いたし候様御注意被下度﹂との依頼をしているロ命との書簡

には︑ヲ1ルトから英領事宛の手紙が同封しである︒乙の手紙中には大浦けいが詩合ったから手附金を渡したの

であり︑同人は﹁当来ニ・おいて相応之身代ニも有之候間﹂︑滞金五︑六四七枚六分と去年の十一月十二日(辛未

九月舟日)以来の月式分の割の利息の合計一両に相当するけいの家産左差押え且ク売却の処分をなされる工うに示

︿四)同年七月十日(壬申六月五日)附

英領事から県令宛の書簡︒更に事件の解決を依頼した書簡である︒

﹁去月十七日附之書簡を以申進置候遠山一也並請負人たる大浦けいえ対しヲ1ルト商社之一件如何相成候哉御報

相待居申候占んも右一条永らく相成居候へハ最早決定致し居候儀と存候間早え前配大浦けいえ迅速弊金.いたし候様

御厳達被下皮相願候謹言﹂

︿五)同年壬申九月十日附︒(西歴十月十四日)£﹀

県令から英領事宛の書簡‑事件の判決の内容を知らせた後︑大浦けいのために次のような情状酌量方依頼して

いる︒手附倍増の約定により︑手附金三千両の外︑更に過料三千両合計六千一向について︑けいに償方を申付けた

と乙ろ︑当時けいは諸方に莫大の負債があって困窮しているから︑一時に返済をなし得︑ない白手附金にクいては

先に一也から取立てヲ1ルトへ渡して沿いた三五二両四合の外︑今度一︑三九七両六合を差出し︑右の合計一︑

七五

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両を支払い︑残の不足額一︑二五

O

両にクいては︑来る十月以降廿ヶ月に月に六二両二分宛を相違なく返

明治初年長崎の居w()

ム ハ

(18)

済する旨をけいが申出た︒クいては約定書中の過料金三千両は前述のように詐欺に遇って難渋している事情を御

推察の上︑﹁棄憐﹂即ち支払免除の恩典に預りたいとけいが申立てたから︑右の事情をヲiルト商社へ御懇諭賜

度い︒若しけいの申出通り︑商社の方で承諾してくれる喝ならば︑手附金の分は至急取立て︑貴殿に贈達する白月

賦返金の俵は︑今後遺約不実のととがたいようにけいから証書を差入させ︑万一怠った場合には相当の取計をす

るから何卒宜しく御願する︒右にづき御返事を賜度き回目の書簡である︒

右の一︑三九七両六合の中には︑品川から取上げた一︑一二

O

岡︑一也の家屋敷売却分ごニ一同一分︑津崎庄次

郎から取上げたここ両(一也の津崎に対する売掛金)合計一︑一五五両が合まれているととは勿論である口一︑

三九七両六合から一︑一五五両左差引いたこ四二両余の金は︑けいが追加支払をたしたものであるう.

会ハ)同年十月廿三日附

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英領事から県令宛の書簡︒右の書簡に対する返事である︒貴下御申越の払入の約定をヲ1ルト社が承諾したか

ら︑大浦けいを領事館まで差向けて欲しい︒との事件の解決につき貴下の御尽力を謝する旨の書簡である︒

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︺︑夏拾五万斤其商社え売渡候俵約定相極則手附として金三千両請取茂代価並高之俵は則左之通

メ拾五万斤

]︑参着之十民共商社え相渡候高之代価三千両介迄は其時々参議明不残被相払三千両ヲ越候ハ︑高ニ応し其時え代価之半

高は手附金三千両之内え払入残り半高を請取可申最末之高ニ而惣差引勘定致候事 ︿

1 )

(19)

一︑頁渡方は当宋八月中旬より九月未迄全く拾五万斤之高無相違相渡候事

一︑商社え相渡置候三通之手本よりロ間柄相劣り候時は相応之値引致手本より品柄勝り候時は値増ヲ為すへし

て頁代価払入之折洋銀ニ而被相渡候折は時相場を以正金ニ受取候事

一︑此節前金として三千両受取候ニ付而は万一茂被詰取不申折は右三千両ヲ流し倫当方より良相渡不申折は一倍一一し

て焼金可致候右之通約定致候義相違無之候

明治四年未六月

津 肥 崎 後 庄 軍

次 備

大 福 郎 方

代 用

田 人 達

山 浦 屋 い 郎

1

1ルト氏商社え

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(

)

一金三千両

右は姻草拾五万斤之内無相違憶ニ詰取申候仕向方之俵は当未八月より九月迄之内無具儀差送り申候万え一延引一一も

室候ハ︑熊本支配頭より取捌柳御難渋相持申間数為後託一札差入置候処佑而如件 明治四年未六月十五日 明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係さ一v

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(20)

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( 3

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右之金遠山引ム口之内憶一一受取申候以上

未六月十二日

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( 4 )

右之金遠山引合之内憶ニ受取申候以上

未六月十五日

遠 後

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参照

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