︑文 芸 裁 判 と ﹁狼 褻 文 書 ﹂ の 概 念
(上)飛
田茂 雄
言論・出版の自由に関わるわが国の裁判史上︑現代の観点からして最大の重要性を持つチャタレイ事件裁判は︑一九五七年(昭
和三十二年)三月十三日の最高裁判所大法廷における上告棄却の判決によって法律的には終止符が打たれたが︑言論・出版界に重
大な問題を残すことになり︑その判決直後に本格化した議論は十年余を経た今日までつづけられている︒ところが︑本格的と称し
得る議論ないし研究は,ほとんどもっぱら憲法および刑法学者によるもので︑文学関係者による見解の表明は︑あまりにも性急に
判決への賛成反対の立場を訴えようとして︑道徳や芸術的価値に関する自己の意見を︑刑法という土俵の外で︑すなわち法律的価
値判断を抜きにしてぶつけたものが多く︑﹁文壇方面からの判決の批判には︑いささか見当がちがっているとおもわれる点が少な
(1)くなかった﹂と︑法学者からたしなめられるありさまだった︒もちろん︑チャタレイ事件の被告人であった伊藤整︑弁護側証人で
あった福田恒存︑この事件に触発されて検閲必要論を説いた石川達三︑それに真向から反対した中村光夫などをはじめとして︑法
律を充分わきまえての︑あるいは法律の基礎となるべき人権についての実のある議論がなかったわけではないが︑それもしだいに
下火になり︑その後のいわゆる﹁文芸裁判﹂に関係する作家︑評論家を除けば︑注目すべき発言は最近見当らない︒
法律にはまったくの門外漢である筆者が︑あえてこの時点で右の最高裁判決に批判を試み︑狽褻交書頒布販売の罪に関する現行
法と︑その解釈に関して不遜とも思われるであろう私見を述べるのは︑つぎのような動機による︒
第一に︑筆者はここ数年来︑D・H・ロレンスの作品のみならず︑性描写を含む他の外国作家の作品の翻訳が出版社自体によって
自己検閲され︑出版企画の中止や︑過度の削除がなされている事例を一再ならず見聞している︒それは出版社の道義的責任感︑使
命観から発した自主的な事前抑制ではなく︑もっぼら不安感にもとずく営業上の安全策にすぎない︒これに対して︑一方的に出版
文芸裁判と﹁狼褻文書﹂の概念(上)
人文研究第三十五輯
社の弱腰を責める声を聞くが︑最高裁判所の判決そのものが出版社にこのような自己規制を課する必然性を持っている以上︑経済
的基盤も弱く︑公権力の不当な干渉に対して抵抗する組織的な力も相互扶助の態勢も全然ないわが国の出版社に︑ある程度以上の
(2)決断を要求するのは酷かもしれない︒だから已むを得ない︑というのではもちろんなく︑弱い立場の出版社に先んじて︑表現と読
書の自由という法益を不当に侵害されたことを自覚する文学関係者(作家︑評論家︑翻訳家︑文学研究者等)が︑最高裁判決に縛
られた法律的な現状を可能なかぎり法律的な手続き︑および法律上の議論を通じて打破する必要があると痛感する︒
第二は時期に関するものである︒文学関係者による本格的な文芸裁判批判をはじめるのに︑今後の数年は時期として早すぎもせ
ず遅すぎもしない︒チャタレー事件以後︑牲に関する社会通念が急激に変化したことや︑諸外国における狽褻文書販売事件の裁判
で︑言論・出版の自由の擁護範囲が顕著に拡大されつつある最近の事実からして︑刑法学者のあいだにはこれまでの狽褻性の判断
の基準に対する批判がますます高まっていく傾向があると見受けられる︒この批判が直ちに最高裁判所の判断に全面的な影響を及
ぼすとは考えられないが︑さりとて︑これをいつまでも無視し得るものでもあるまい︒かりに伊藤整による﹁チャタレイ夫人の恋
人﹂の完訳がふたたび出版され︑これが起訴されたとしても︑最高裁判所は単に法的秩序の安定を維持するという目的だけで︑前
の判例に固執することは困難であろう︒その意味では︑年月とともに変化した社会通念を基礎としてのかかる批判は︑遅きに失す
るどころか益々強力なものとなるであろうが︑反面︑法益の侵害を確信する者の社会的な責任として︑この種の批判を加えること
が時期的に早すぎるということはあり得ない︒特に現在は政府の手によって刑法の全面改正が行なわれつつあり︑最終的な改正案
作成の時期も近づいている︒狼褻文書頒布販売罪について︑言論界︑出版界から直接法制審議会に有効な働きかけをすることは不
可能であるとしても︑立法の段階で︑充分百論・出版の自由が保償されるよう政治的工作を図ることは可能なはずで︑そのために
も︑刑法典の条文にわたって︑問題点と︑その対策とを明らかにしておく必要がある︒言論・出版の自由は政治家や法律家まかせ
にするのではなく︑まず言論界︑出版界がイニシアティヴをとって擁護すべきであり︑そのために法律改正が必要とあれば︑自ら
改正草案を作成するくらいの熱意がなくてはならない︒後に詳述するとおり︑イギリスの狽褻出版物取締法の改正(円プ︒○げ︒︒8器
℃信げぎ辞δロω︾90時一〇いO)が実現したのも︑当時フェイビアン協会々長であった労働党の下院議員ロイ・ハリス・ジェンキンス
(図o団国p良︒・甘口匿昌︒︒仏ONP)をはじめとする政治家の活躍もさることながら︑真の原動力となったのは著作家協会︑出版
社︑著者︑書店︑印刷業者から成る実行委員会で︑法律改正案も彼らの手によって起草されたのである︒
しかし︑筆者はこの場でそういう運動を提起するつもりはないし︑刑法改正草案にまで立ち入るつもりもない︒動機は動機とし
て︑できるかぎり法の論理に従って︑現行の刑法一七五条の解釈と適用について︑筆者独自の立場からその問題点を明らかにし︑
今後の在り方については︑専門外の者として当然のことながら︑示唆的な私見を述べるに止めたい︒参考にさせていただいた刑法
学者の学説はそのつど出典を註記するが︑特に近畿大学教授前田信二郎氏のー﹁文芸裁判の条理﹂(有光書房︑一九六四年)にま
とめられた1諸論文に負うところが大きい︒(文中の敬称は省略させていただいた︒)
一︑芸術と狸褻性
e最高裁判所の判断とその論理
D・H・ロレソス著﹃チャタレイ夫人の恋人﹄の訳者伊藤整と出版人小山久二郎とを被告人とする狼褻文書販売被告
事件の上告審において︑最高裁判所大法廷は(少数意見を附した真野毅︑小林俊三両裁判官をも含めて)全員一致で︑
右訳書を狽褻文書と判断した第二審判決を支持し︑ここに両被告人の有罪が確定した︒この上告審判決(昭32・2・13大法廷判決)
の判決理由のうち︑その後最も問題になったのは︑狽褻文書の定義︑社会通念に関する裁判所の見解︑およびここで
まずとりあげる芸術性と狼褻性との両立に関する裁判所の判断である︒
この問題についての最高裁判所の判断は︑第二審判決(昭訓・12・10︑東京高裁刑二部判決)と微妙に喰いちがっている︒第二審判決はこ
う述べているー
﹁⁝⁝その文学書の表現中極めて僅少な部分が﹃狽褻﹄に該当するものと認められる場合でも︑当該部分を削除す
る等の手段を講じない以上︑その文学書は右当該部分と不可分的に文学書の全部について﹃狼褻文書﹄の取扱を受
文芸裁判と﹁獲褻文書﹂の概念(上)
人文研究第三十五輯
けることも避け難いところである︒尤も文学書の芸術性がその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少また
は昇華せしめて︑狼褻性を解消せしめ︑あるいは︑その哲学または思想の説得力が性的刺戟を減少または昇華せし
めて狼褻性を解消せしめる場合があり得ることは考えられるのであって︑かかる場合には︑多少の性的描写があっ
(3)ても︑﹃狼褻文書﹄に該当しないこととなるのである︒L
この判決文はひとつの矛盾をはらんでいる︒右引用文の前半では︑文書の一小部分に狼褻な描写を含んでいても︑
刑法上の狼褻文書になるとして︑文学書の全体的評価を無用視しているのに対して︑後半(﹁尤も⁝⁝﹂以下)では︑
文学書全体の芸術性や思想性等の評価が部分の狼褻性を解消せしめる可能性ありとしている︒この矛盾はつぎの段に
いたって︑より明確にあらわれているー
﹁これを要するに︑文学書としての芸術的価値があることと︑当該文学書が狼褻性を持つこととは︑まったく別個
の問題であって︑前者は人生の探究の観点から︑後者は社会的秩序維持の観点からそれぞれ判断される結果の避け
難い結論であるといわなけれぽならず︑当該文学書の芸術性または説得力が狼褻性を解消するほど高いものか否か
も︑後者の立場から決定されなければならないことは︑いうまでもないところであろう︒﹂(傍点筆者)
人生の探究とまったく別の次元に社会的秩序維持の観点があるということ自体おかしなことであるが︑"人生の自
由な探究は社会秩序に抵触することがあり得る︒そしてそれは秩序維持のために防がねぽならないのだ"という立場
が現実にあることは(決して是認という意味ではなく)認めなければならない︒しかし︑文学書の芸術的価値と狼褻
性とを全く別個の問題だと断じた直後に︑芸術性が狽褻性を解消する可能性を認めるのみならず︑ことは狼褻性の程
度に関わるとはいえ︑文学書の芸術性の高さを(芸術とはまったく別の立場だと判断した)社会的秩序維持の観点か