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  勤労動員長崎生活雑記

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Academic year: 2021

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四、手記

  勤労動員長崎生活雑記

   勤労動員長崎生活雑記 阿武正童          (昭和二十年理甲二年修)  

○   出で征く友を偲びては      明日征く我身思ひては    永久のさとし求むてふ      ここ龍南の健男児    暫しが夢も殉国の      胸の炎

ほむら

ぞ燃ゆるなる ○   三年の旅は二年の      急ぎの旅となりぬれど    大御戦に玉砕の      勇士の胸を想ふ時    我等が血汐高鳴りて      革新の色いや増しぬ

  ここに借用した歌詞は、昭和十八年寮歌(七田氏作詞、十九年七 月下旬発表)の一部である。当時の龍南人の心情の一端をよく現わ している。昭和二十年三月、二年生は既に卒業し、一年生のみの龍 南 と な り、 一 年 生 全 員 寮 生 活 と い う 制 度 の 下 で は、 「 全 龍 南 人 が 習 学 寮 に 集 ふ 」( 高 森 先 生 の お 言 葉 ) と い う 状 況 に な っ て い た。 而 も、 新年度より一年間授業停止、全員勤労動員、新一年の入学延期を決 定された。米軍沖縄上陸、本土決戦近しという戦局の緊迫さを示す 非常措置の一端である。三月下旬、ある夜、寮の一室にて、玉砕を とる立場の者と生き延びて民族の再興を図るべきとの立場に立つ者 との間に明方近くまで討論がつづけられた。氏名の記憶はないが、 小生を加えて四・五名だった。健軍飛行場を中継地として特攻軍が 飛び立っているという噂が流れている熊本の状況、時局の切迫さが、 我々の心に深い影を映していた一面であろう。   春休兼動員前準備期間が設けられ、 三月下旬から四月上旬(七日) 迄、半数づつ、二期に分け帰郷、市内出身者は外泊。この間に、寮 の渡廊下屋根、二階各室の天井板除去作業が行なわれる。これは焼 夷弾による被害を最少に止めるためである。小生、惣代をしていた ので、稲富・藤井・宮島各惣代と共に、寮に残り、事に当る。いつ どこで生命を落とすかも分らないと考え、髪の一部を奉書に包んで、 家へ送ったのもこの頃であった。―先年、父がなくなり仏壇を調べ ていたら、その引出しからこれが出てき、―あっ、こういうことも あったと当時を思い出した。   四月十一日、新二年生の動員決定。動員先は健軍三菱工場と長崎 三菱造船所。長崎へは、理甲から身体強健な者百名を。残りは、習

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学寮在寮のまま健軍へとなった。習学寮という城に生活の根をおろ し、飢餓寸前の食糧事情に耐え、勉学と勤労奉仕、読書と思索、友 との語らい、廊勉、寮歌練習、送別会につぐ送別会、希望と不安、 自己沈潜等々若き旅人の集う意気と情熱の渦巻く生活に別れを告げ、 寮生誓詞に言う「報国の誠を至さん」を、文字通り実践する勤労動 員体制に入っていった。   前置きが、いささか冗長に過ぎたきらいはあるが、長崎へは小生 が派遣されることになったので、本題の長崎のことについて述べる。 五高本校の級友諸兄が、寮生活をつづけて、勤労にはげむのである から、長崎グループもまた同様に、習学寮の延長としての生活をす べきだとの生徒部長高橋先生のお考えにより、小生の惣代を解任す ることなく、そのまま惣代として、動員生活を支えるよう指示され た。 長崎三菱の小ヶ倉の学生寮うち一棟を敬楽寮 (高森先生の命名) と呼び、そこで百名動員生活をはじめることとなった。四月十五日 までに編成を終え、中隊長は小生、副長は竹下氏、第一、第二、第 三の小隊長として、高木、岩崎、古賀の各氏が任命された。十六日、 寮食堂にて、学校長より全二年への訓示、長崎グループへの送別会、 十七日出発となった。学校長よりの訓示に先立って、竹下氏と小生、 学 校 長 に よ ば れ、 校 長 室 に て、 「 学 校 か ら 長 崎 に 派 遣 す る の で あ る から、意に添わぬ事態になれば、全員引き上げてきてよろしい」と いったことを中心とする激励のお言葉をいただいた。戦局日増しに 苛烈さを増し、何時空爆を受けるか分らぬ遠く離れた工場に、百名 の生徒を送り出さねばならない学校長をはじめとする先生方の苦衷 をきく思いがし、更に我々の責任で引き上げてよいとの信頼に感激 し、上級生の動員先での輝かしい評判を汚すことのなく、負荷の大 任を全うするという意味の固苦しいことを述べた。寮へ向う途中、 配 属 将 校 に 呼 ば れ、 「 長 崎 へ 行 っ た ら 暇 を み て 銃 剣 術 を や れ。 そ の た め 木 銃 と 防 具 を 持 っ て ゆ け。 」 と 指 示 さ れ た。 全 く 予 想 し な か っ たことであった。竹下氏と急ぎ検討し、誰もやらないだろうし、強

文科生出動晩餐会で送辞を述べる阿武惣代  昭和20年1月 

松尾徹(昭和19年入学)アルバムより

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制的に実施することは不可能だし、形式的に持参するとしても、三菱から支給される寝具は使用に堪えないから、布団等を持って行こうとしているので、協力してもらえそうもないし、又、配属将校に対する級友諸氏の感情からも却ってよくないとの結論に達し、そこで「我々労働を以て国家の為につくすことを命ぜられてゆくのであるから、先づ、全心身を労働に投入しなくてはならない。従って、生活に慣れゆとりができたら、検討したい。後日、図書(寮の)をとりに帰る予定であるから、その時まで持ってゆくのも延ばしたい。」と返事し、事態を切り抜けた。六月はじめ、図書搬入打合わせの為、帰校した際、例の防具等のことを言われた。日曜の休日といえども、皆心身共に疲れ果てている状況で、休養第一で、唯一の休みを自由にしておかないと、病人が続発するかも知れない様な労働・食糧事情であることを説明し、納得してもらった。さて、造船所ではリベット打ち・熔接・木工の三部門で働くことになった。朝食前には、当時の習学寮で行なっていた如く、一斉に寮生誓詞の三綱領を唱え、五高生としての自覚の下に一日の行動を開始した。気品、礼儀正しさ、労働における真摯さ、厳格さ等しばしば、「流石は」と賞讃され、上級生の残された評判をそこなうこともなかった。小生は熔接班に属していたので、それにふれてみたい。熔接をはじめて、一週間位たち朝、目がさめると、開けられない位目が痛み涙が出、トイレでは臭気が目に沁みる。急性の結膜炎とかで、多くの人がかかるとか。医師にかかった記憶がないので、そのうち自然に治ったのであろう。熔接の際の火花の紫外線によるものである。四〜 五日の実習が終ると、現場での作業、炎天の下、敷きつめられた鉄板の上で、数万ボルトの電流絶縁のためにゴム底の靴をはき、右手に熔接棒のついた器具をもち、右手で紫外線防止のガラス窓のついた防具を顔に当てながらの作業、下向きの姿勢なら苦しいこともないが、しゃがんで上向きでの作業は辛いと感じた。こうした作業が朝八時半頃から昼食時を除き夕方五時迄つづき、全員、黙々と頑張った。時々、空襲警報も出、防空壕(といっても山腹をくり抜いた大きな横穴だった。)に飛び込んだ。この時だけは思わぬ休息の時間となった。海軍の軍艦は大半失なわれ、長崎の港を出ると敵の潜水艦が待ち受けて撃沈されてしまうという噂を耳にしたり、木工場で作られた快速艇がうなりを上げて走る、これは本土に上陸しようとする敵の艦艇に魚雷を積んでぶち当る為であるとか言われていた。我々が働いていた第二ドッグの奥に板の囲いがあってそこは秘密の兵器が作られており、一人か二人乗りの潜水艇で、これも敵の艦艇にぶち当るためのものであったようだ。空からの特攻だけでなく、本土上陸に備えての海上、海中での特攻も考えられていた様に思われる。  食糧状況は、軍需工場というので、民間の配給よりはよかったが、然しそれでもどんぶり一杯の飯に乾燥野菜の汁といった粗末なもの。栄養状況は悪く、造船所の病院に入院する者も出、体の不調を訴える者も出はじめた。そのため、小生も立場上、しばしば、現場を離れ、工場の学徒課や厚生課と交渉したり、造船所の病院を訪ねたりすることも多くなった。ビタミン剤千錠を病院(造船所の)の五高

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先輩医師から分けてもらい一日一錠宛各自の食卓においたがこれも十日程でなくなり、次は厚生課から米糠を多量にもらい、寮母に炒らせ、飯の上にふりかけておきいや応なしに食べるという窮余策をもとってみた。が何時迄続いたか覚えてはいない。一方、新鮮な野菜の不足を補い、休養をかねるいみで一日四・五名寮に残り茂木方面へ果物の買出しにゆくという自衛方法もとってみた。時には、夕方寮に帰ってみると、会社から茂木枇杷が籠詰めのまま各室に配られているということもあった。風呂は二十各位一度に入れる大きなもので、宿舎から離れた別棟で、毎日ではなかったが、三日に一回位であった様に思うが、そのうち燃料不足でなくなり、たまりかねて水風呂を暗い中で浴びて我慢していたが、遂に施錠されて使えなくなった様に思う。深夜、空襲警報が発令され、廊下に飛び出し、「空襲警報発令、起きろ!」とどなっても、昼間の疲れか、誰一人目ざめる者もない。こんなことが重なると諦めて、仕方がない、その時はその時と大騒ぎしなくなり、ああまた発令されたか位の気持になってしまった。このような生活の中にも、映画館での映画鑑賞を企画したり(結果、評判はよくなかったと記憶している)、酒、タバコの特別配給もあり、ほっとする暇もあった。熊本からは、先生方が、一・二名宛交替で来ておられた(常時ではなかったと思う)。この先生を囲んでの座談会や講話といったことを、竹下氏と考えてみたこともあったが、具体化せずに終った。ある日、永松先生と長崎特有の長い急な石の坂道を上り、山すその小道を辿り、宿舎に帰る途中であったか、「国中が授業を中断して、工場で働いている状 態をどう思うか」と尋ねられ、ありきたりの返事しか出来なかった。先生は既に次に来る敗戦を予測されておられたのか。それとも次代を背負う国民の学力低下を憂えておられたのであろうか。また「漱石は読む気がしなくなりました」と言ったら、「何故」ときかれ、充分に心境を述べることが出来なかったという思い出がある。  イタリア離脱し、ドイツ降伏し、連合国の軍事力は、我が国に集中し、本土は空爆により焦土と化し、森の都熊本も大半は失なわれたと言い、長崎でも、戦闘機(グラマン)による銃撃さえ起っている。工場からいつもの如く、定期の船で小ヶ倉の麓に着き、長い泥の坂道を上る途中、突然、山陰からグラマンが現われバチバチバチと銃撃し去った。一瞬の出来事であった。気がつくと四・五名いた級友達の姿はなく、或る者は溝に飛び込み、或る者は民家に飛び込んでいた。呆然とそのままつっ立っていたのは、小生だけだった。こういう状況の中で、負けるとは思わないが、勝つとも考えられない心境であった。八月に入り、新聞は、ポツダム宣言無視、広島への新型爆弾投下、小さくソ連の宣戦布告文を報じていた。重大局面を迎え、いよいよ本土決戦、玉砕かと考えていると、突如、原爆が投下され、長崎駅付近を中心として、火の海と化し、大半は焼けただれた瓦礫の荒野となった。間もなく、散布された宣伝ビラにより、原子爆弾であることを知った。幸いなことに百名のうち一名の死傷者もなかった。寮の窓硝子は、爆風により砕け散ってしまい、このまま冬を迎えたらどうなるだろうかと心配もした。後日はるか山の中腹まで、赤く焼け、緑一つない光景を眺め、ふと、「文化とは、

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人間の営みであり、庭の植木も文化である」と授業で教わった言葉を思い出し正にその通りとの実感を抱いた。一瞬のうちに全てを破壊しつくす原爆の威力の大きさは、後に、竹下氏をして放射線研究へ向わせる動機となった。(然し、彼は広島大学医学部教授として在職中、昭和五十六年九月第二次放射能障害により、公病死を遂げた。)

  この九日以後、とりあえず、全員無事であることを近くの郵便局から、公用として電報で学校に報告したが、届いたかどうか確認しなかった。また、竹下氏、状況連絡の為、急ぎ熊本に向った。工場の正常な機能は停止し、われわれは、工場では片づけ位しかなく、市街地に出ては、死体を運び、火葬にし、道路の片づけ等の作業に従事した。水を呑もうとして溝に頭を突込んだ死者を見ても、恐れる感情もなく処理できたのは、当時の異常な状況下の神経であろう。チンク油を顔をはじめ、上半身に塗り、うずくまっている人々の姿もみられた。造船所の医師達も、山腹の迷路のような地下道の奥に診療所を設け、治療に当られるという有様で、お世話になった先輩医師の仕事を中断させては悪いと思いそのまま引き返した。夜は、近くの山林の広場に蚊帳を持ち出し、ねる者、近くの横穴式の壕で過す者、いろいろであった。壕は、通気が全くなく、臭気にみち、とても眠るどころではなかった。二晩過ぎると、夜中に空襲があってもどうでもなれと、皆、寮で休むようになった。やがて竹下氏帰り、熊本大空襲の状況、高橋惣代の爆死など伝える。十四日には、連日続いていた敵機の爆音も全くとだえ、不思議な位の静かな青空 が広がる。妙だなと感じていると、明日重大放送があるから聞くようにと伝えられる。いよいよ、ソ連に対する宣戦、国民のより一層の奮起を促す放送だろうと話し合っていた。我々の寮には、ラジオがなかったので、小生、九大生の寮で、十五日正午この放送をきく。勅語は殆どききとれなかったが、阿南陸軍大臣、奥村情報局総裁の談話により戦は終ったと知った。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」……「今次聖戦はアジア民族に独立の気運を与え」……「大日本帝国万歳」と叫けばれたことが、断片的に心に残っている。一体何のために、という思いが一瞬脳裏をかすめると共に、やれやれ、やっと終ったとも感じる。何故か涙が流れる。然し、これからどう処してゆくか。級友諸氏の帰寮を唯一人寮にて待つ。昨日来、敵機は飛来していない。静けさの中の時間の長かったこと。工場に赴いた者は、戦争は終ったと言い、街で作業していた者は、軍は戦争継続、徹底抗戦と言っていると伝える。混乱が予想された。寮の付近に軍隊が移動して来た。先生方は、「絶対に軍と接触してはならぬ」と伝えるよう指示された。「口論しここで命を落したら犬死だぞ」とも言われた。(竹原先生であったろうか)。幸い事なく不安のうちに一夜はあけ、十六日夕刻までには、終戦は明白となる。動員の目的がなくなった以上、留る意味がない。熊本へ引き揚げようということになり協議をしていると、明日動員解除式を行うので、各校とも代表者は工場に集まってくれとの連絡が入る。十七日先生と共に解除式に臨む。十時から始まったと思うが、工場長であったか学徒課長であったか定かでないが、短いねぎらいの言葉で終る。式に臨

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む途中、中国の艦隊が明後日入港する。婦女子は市外に避難せよという指示が出たことを耳にする。真偽を確かめるため、工場の事務所から警察に電話し確めてもらう。どうも本当らしいということであった。寮へ帰る途中、昨夜の協議にもとづき、長崎駅に行き、持参した布団等を全部まとめて熊本へ送る為、貸車一台頼もうとしたが、それどころではない、不可能と断わられる。駅の広場は避難する人々でごったがえしていた。帰る途中、荷物を下げた級友諸氏に次々に会う。解散会を行う予定であったが、事態の切迫は一刻を争う状況(中国艦隊入港のこと、予想される軍の対抗など)であったので、止むをえない措置である。

  以上の様な経過を辿って、日々三綱領を唱え、力の限りをつくした四ヶ月に及ぶ動員の生活は終了したのである。

  寮では、病床に伏っている者が、一人あり、その室の友人達が、(長崎市出身の田中氏も加わり、)しばらく介抱するために留まるというので、寮に残る決意をし、五名程になったと思うが、先生方の交渉で工場側の了解をえ、食糧も材料だけは配給してもらうことにし、自炊生活に入った。数日して、様子を見にこられた竹原先生と、昼食の時だったと思うが、「日本の歴史は書き改められなければならない」と言われ、強烈な印象を受けた。皇国史観にもとづく中学での歴史教育の知識と五高入学後、古代に六百年の空白がある位の浅い知識しかもっていなかったため、大正デモクラシーをえて、学問の自由が次第に制約された時代の経験をもたれている先生の深い意味を当時理解することはできなかった。漸やく病友も帰郷できる体 となり、田中氏大八車をどこからか借用してき、これに乗ってもらい駅まで送り、級友諸氏の残された布団など二階の一室にまとめて、釘付けにし、工場に保管のための場所借用の了解を得て解散、夫々帰郷・帰宅した。八月二十三日頃のことである。

  思えば、苛酷な状況の下、「剛毅木訥の真精神を発揮すること」という綱領をかかげ、若人の純粋さと情熱とをもって貫らぬかれた精進努力、勤労動員の生活は、すべて夏宵一睡の夢であったと葬り去ることができようか。第一学年全員の習学寮生活、第二学年四ヶ月の勤労動員生活、これらを通じて鍛え抜かれた我々の五高魂こそは、そのごの人生を生き抜く力となり、日本再建につくした級友諸氏の魂となっていると信じている。

(後記)昨年春、関西寮歌祭で、岩村先輩から、佐世保の寮歌祭に行こうと誘われ、七月上旬、その寮歌祭に参加し、翌日、いつか一度訪ねたいと念願していた長崎に行くことができた。丘の上から一望する限り、原爆の跡は、全くなく、見事な復興・発展ぶりであった。ふと考えたことは、我々の長崎での体験は、続習学寮史には一頁に亘って述べてはあるが、具体的には述べられていない。終戦直前、五高生百名が長崎でどんなに、真摯に勤労に励んだか、而もそれらの者が残留放射能を浴びているという事実があったということを、先輩の方々或は後輩の諸氏に知っていただくのも無意味ではなかろう。戦争末期の五高にもこんな一面があったということを。竹下君も故人となっている現在、小生しか、

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述へる者はないだろうと思っていたところへ、編集委員会より原稿の依頼があったので、禿筆をもかえりみず、拙文を綴った次第です。(「全国五高会報」第五六号  一九八九(平成元)年三月  三四頁〜三七頁  所収)

長崎三菱造船所出動前理甲2年3組  昭和20年4月 

廣松敏生アルバムより

参照

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