長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第33巻 第1号 43‑55 (1992年7月)
沈黙と饒舌
清田幾生
An Approach to Much Ado About Nothing
Ikuo KIYOTA
『から騒ぎ』には二つの対照的な筋立てが含まれている。一つはベネディックと ベアトリスが織りなす恋の顛末であり、これはこの喜劇の笑いの中心となっている。
もう一つはクローディオとヒーローの演じる愛のいきさつであり、これはかなり深 刻な筋道をたどっている。そして特に後者の「問題劇」的な要素のために、二つの 筋立てが一つの作品の中で程よく調和していないという意見が以前からある。そこ には作者の意識的な作劇術があると思われるので、二つの筋立てを吟味しながらこ の問題に触れたい。
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さまざまな悶着や撲め事をへて、この喜劇の結末では二つの縁組が成立し、観客 はしあわせな大団円を見ることになる。ところでこの二組の男女に共通する特徴は、
実際にはもともと初めから彼らの恋路を邪魔立てする外的な障害はないことである。
確かに編しの仕掛けはあるが、身分の違いや親の反対、社会の按や金銭の問題、そ ういったものは若者たちの愛の障害としては何も設定されていない。それどころか 舞台となるシシリーのメッシーナでは、知事のレナ‑トにしてからが娘や姪の結婚
には積極的に応援する。彼らは、アラゴンの領主ドン・ペドロが軍人貴族たちをひ きつれてメッシーナに立寄ったとき大歓迎する。一方、客人となるドン・ペドロに
しても、根っからの世話好き振りを発揮して部下たちの恋愛と結婚には面倒見のよ い所を見せる。この作品はシェイクスピアの喜劇にはめずらしく一幕から陽気と歓 楽にあふれている。愛の成就のためにはまことに好都合な条件がそろっているのに、
クローディオと当地の知事の娘ヒーローの場合のように、それがうまくゆかないの は、男の方が隔されたとは言え、婚約者が不貞であると思い込んでしまうその軽信
ぶりにある。彼は謀られて貞淑そのものである相手の実像とはかけはなれた虚像を 信じてしまうのである。またベネディックと知事の姪ベアトリスの場合は両者とも 誇り高く、お互いが独身主義という表看板のため、素直になれない自意識の持主で ある。この二人を編して夫婦にしてしまおうというのがドン・ペドロの喜劇にふさ わしい策略であるが、いずれにしろ二つの組の男女の結びつきを妨げているのは彼
らの内面の問題である。
クローディオはおおかた観客や評家には好意の目で見られないが、それには作者 側の意図的な性格造型の問題がからむのでそこから論じていこう。以前出陣の折に
クローディオはこの土地でヒーローを見染めていたが、軍務に忙しくそのままにし●
ていた。再会して恋心がつのるものの、胸のうちを直接相手に伝える手立てを思い つかないでいる。戦場では輝かしい武勲を上げ、恩賞を授けられた彼も、こと恋と なると手練手管には全くうとく、うぶな青年である。独身主義者で「女嫌いの暴君」
と自称する親友ベネディックから早速からかわれる始末である。生まじめな青年の 悩みを聞きつけた主君ドン・ペドロは、性分柄これを黙って放ってはおけない。部 下の恋の代役を買って出るのである。今夜の仮面舞踏会のときに変装をしてヒー ローに近づき、クローディオの名前で愛情を告白し、あとで娘の父親に話をもって ゆき、うまくこの一件をまとめてやるというのが主君の考える段取りである。内気 な部下はこの提案を喜んで承諾する。この場面を理解するには当時は代理を立てて 結婚のお膳立てをしてもらうことが慣行の一つにあったことを知っておく必要があ ろう。ただドン・ペドロがヒーローに対するクローディオの愛情を確認する部分で、
二人の姿勢がよく出ている科白がある。
Claudio. That I love her, I feel.
Don Pedro. Thatshe is worthy, I know.
(I‑1.21ト2)彼女が申し分のない娘だと「知っている」と言う主君のちょっと無責任な確信も 面白いが、あの娘を愛していると「思う」と語るクローディオの愛憎に於ける自信 のなさ、腰の弱さも示されている。彼はまだ若く、経験が浅いのだから、これは「好 感のもてる控え目な態度」l)というより、信念における未熱さの方が目立っている。
クローディオは人任せの求婚という形式に頼ったのである。彼が悪党の編しの毘に おちいったとき、恋の情熱に欠けたこの姿勢が、代理による求愛という形式とあい まって、のちに深刻な事態を生むことになる。
幸せそのものに見える二人の人生の門出を妨害しようと肝計をめぐらす悪人が領 主の腹違いの弟ドン・ジョンである。兄のドン・ペドロに謀反を起し、この度の戦
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いで破れ、クローディオの栄達を嫉んでいる。編しの手始めに、舞踏会で仮面のク ローディオに人違いをしているふりをして近づき、ドン・/ペドロはと‑ローを口説 いているとささやく。それを聞いたクローディオは、自分ではない別の側近にドン・
ジョンがもらしている情報だからという理由で、主君は自分を裏切って本気でヒー ローに言い寄っていると信じこむ。そのすぐあとで彼の誤解をよそにドン・ペドロ の仲介は、その実、立派に功を奏しているのだから、勘違いしたクローディオの感 情表白はどことなく場ちがいな雰囲気がただよっている。彼は絶望をこう語る。色 恋の問題は当てにならない。他人に頼らず誰でも自分の口で恋を語るものだ。美女 は魔女だからその魔法で信義も情欲の血となる。よくあることだ。もうヒーローと
もおさらばだ。詩型で語られる彼の感情表現は旧式の芝居のようなお定まりの型を とっていて、作者はそれでクローディオの人物を物語っていると思われる。
ヒ‑ロ‑の父親レナ‑トは一人娘を財産ともどもクローディオにさし出すことを 快諾している。先程の絶望した劇の主人公のような物言いも忘れて彼は催促される がままと‑ローに対して型どおりの結婚申込の言葉をのべる。この二人の男女の冒 立った特徴はお互いに愛を語り合う場が設定されていないことである。少なくとも 観客に聞こえる形の科白はない。ベアトリスとベネディックのように舞台の上で二 人だけになる場面を観客は見ないのである。ヒーローは父親に対しては従順で、特 におとなしさが目立っている。侍女とのやりとりの中でクローディオへの気持をち
らりと洩らしたりはするものの、明確な言葉で自分の愛情を誰かに表明することは ない。しかし愚鈍な女性だというのではない。別の人物とは知恵ある人物であるこ とを示す会話を交わしているのである。たとえば仮面舞踏会でドン・ペドロの求愛 を軽く受け流す機知を見せる。従姉ベアトリスをベネディクトと結びつけるため一 芝居うつ編しの場面でも生き生きとした弁舌の才を示し、ユーモアと皮肉にみちた 従姉批判をやってのけ、またそれが見事に図に当る。それなのにまるで男の前で滅 多に口をきかないことが良家の子女のたしなみであるかのように、ヒーローは自分 の愛と結婚については寡黙であり、それは必然的に彼女の個性を希薄にしている。こ れは作者の意図的な作劇術であるといってよかろう。
ここまで確認してきて一つだけ気づくことがある。それは観客にとってこのク ローディオとヒーローの筋は何か劇中劇を見ているような感覚を誘うことである。
男はクローディオ役をそれ程楽しんでいないし、女の方も愛する男と結婚するヒー ローの役割にそれ程面白がってはいない、という錯覚である。この筋にはあちこち 辻複があわない部分があるところから、作者による改作説や、粉本の中からすでに 使った主題を避けたため起ったことだとか、作品を書くに当って作者が余儀なくさ れた拙速主義のせいだというような説がある。しかしこの錯覚に似たものはそれと
は関係がない。カードをシャッフルして新しいゲームが始まるような感覚は、あの 仮面舞踏会から起っている。そこでは仮象と実体が入り乱れる。しかし、ドン・ペ ドロは自分の正体が相手にわからないと思い込んで結局結婚の仲介役に成功し、ド ン・ジョンは相手に違った人間と患わせることでクローディオに動揺を与えた。作 者は二人の恋人をまるであやつり人形のように扱う。
(二)
ドン・ジョンは次はもっと巧妙な陰謀を準備し恋人たちを更に破局へおとし入れ ようとする。それは腹心ボラ‑チョの入れ知恵である。ヒーローの侍女とボラーチ ョが逢引している所をクローディオとドン・ペドロに目撃させてヒーローの密会の 場と思わせることに成功する。これが二人を襲った大きな編しの昆である。虚構を 事実と信じたクローディオは怒りと絶望から翌日の婚礼の場で、列席した立会人を 前にして結婚拒否を宣言する。ヒーローの不貞をなじり、罵倒するのである。仲介 人であるドン・ペドロもその難詰に同調し、ヒーローは驚きで我が身を守る抗弁も 出来ないままその場に失神する。クローディオの痛罵の論理は次のような形をとる。
There, Leonato, take her back again.
Give not this rotten orange to your friend ; She's but the sign arld semblance of her lonour.
Behold how like a maid she blushes here ! 0, what authority and show of truth Can cunning sin cover itself withal ! Comes not that blood as modest evidence To witness simple virtue? Would you not swear, All you that see her, that she were a maid, By these exteriorshows? Butshe is none : She knows the heat of a luxurious bed
Her blush is guiltiness, not modesty. (IV. i. 30‑41)
仮面舞踏会のときに仮象と実体の逆転がおき、ドン・ペドロの友情を疑ったのと 同じ論理がここでも使われ、ヒーローの慎み故の頬の赤らみも後ろめたい罪の意識
のせいだということになる。あの時は恋の代役に頼まず、自分の口を使うべきだと 反省したが、今その反省も自らの口で直接相手を罵ることで裏目に出ている。
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『かち騒ぎ』が楽しい雰囲気をもつ作品であることは間違いないが、クローディ オとヒーローのいきさつが、最後には無事解決されるとは言え、この場面のように 深刻になりすぎると、観客が少なからず居心地の悪い思いを味わうのも仕方がない。
観客はあらかじめ編しの毘を知識として与えられているので、編されているクロー ディオの愚かしさが長引きすぎて荷が重いのである。更に濡れ衣が誤解だとわかっ たあとの改俊の情の描き方も形式的であるという批判もあり、彼は役柄としては分 が悪い。批判の中にはたとえば、 「クローディオは一貫して金銭ずくである」2)とい
うのもあり、これは彼が主君に結婚話の代理を依頼するとき、娘の父親レナ‑トに 息子がいるかどうかと尋ね、跡取りの財産のことを確かめていることを指したもの である。
こうなってくるとクローディオに対する好悪の感情を抱く際、当時の社会の考え 方や風習も考慮に入れなければならないであろう。舞台がシシリアの町とはいって
も、作者が生きたエリザベス朝の慣習を色濃く反映していることは言うまでもない。
当時は、 「結婚とはまずビジネスの問題であり、愛憎は二次的な事柄にすぎなかっ た」3)のである。男性側からみて相手側の地位や家柄を含めた経済的状況が調べられ、
ついでに女性の美質についても確認が行われ、その後に取り決めという段取りであ る。当然逆の場合もあり、結婚が両者の思惑で動く商行為に近い形を取り、従って 代理が必要なことになるのは不思議なことではない。未婚の娘と姪をもつメッシー
ナの知事が戦勝した帰路の青年貴族たちの一行を歓迎するのも、そこらの思慮が働 いている筈である。娘や姪が貴族の若者たちに片付いてくれればそれに越したこと はない。これは政略結婚ということとは少し違う。クローディオがドン・ペドロに
さりげなく相手の持参金のことを問うても当時の観客には奇異なことには映らなか ったであろう。しかも彼はと‑ローを愛しているのだから申し分ない組合せではあ ったのである。このことは別の言い方をすれば、戦場で軍人としての美徳を発揮し た貴族たちの倫理基準が、メッシーナという場で、貴族ではないが上流階級に属す
る住人たちの基準の中にどのように吸収されるかということである。
クローディオは編されて婚約者が身持ちの悪い女だと信じ込み、苛酷な態度をと るが、ドン・ペドロも更にひどい言葉で相手を形容する。不貞を攻撃するのはこれ ら貴族にとって道徳上の問題というより、むしろ習俗に属する名誉や体面の問題で ある。社交の礼法といってもいいが、このことはヒーローが口数の少ないおとなし い性質に造型されていることにも関わっている。二幕三場で独身主義者のベネディ
ックが結婚相手の理想の女性の条件を述べる条りがある。
One woman is fair, yet I am well ; another is wise, yet I am well ; another
virtuous, yet I am well ; but till all graces be in grace. Rich she shall be, that's certain ; wise, or I'll none ; virtuous, or I'll never cheapen her ; fair, or I'll never look on her ; mild, or come not near me ; noble, or not I for an angel ; of good discourse, an excellent musician, and herhairshall be‑ ( II. iii. 26‑35)
ベネディックは虚勢をはって虫のいいことを言っている。ここに使われた形容を 凡て兼ね備えた女性がいる筈もないから彼は安心して結婚を忌避出来るというので
ある。これは当時の社会が女性に要求した徳目も含まれており、時代の習俗の理想 に対する訊刺にもなっている。ヒーローはこのうちいくつかの条件を満たすであろ う。彼女は父親に対しては従順である。クローディオは親友に向って彼女に惹かれ たのはまず「慎ましさ」であり、その次に「美しい」ためだと言っている。彼女が 口数が少ないのは女性の美質として讃えられた「慎ましさ」のせいである。当時は 品行の指導書、あるいは女性の暗みの手引き書の類が社会にも流布しており、英国 国教会も旧教の時代をそのまま引き継いで道徳教育には熱心だったのである。4)婚約 のお膳立てが調ったときクローディオは促されて簡単で形式的な申込の言葉を述べ た。ヒーローはベアトリスに「あなたも返事するのよ、でなかったら相手が物が言 えないようにキスで口を塞ぎなさい」と言われる。この場は舞台ではどういう演出 になるかわからないが、促されたヒ‑ローには科白はない。実際にキスするか、あ
るいは喜びのあまり物が言えなかったということも考えられる。ただ作者の意図の 一つに彼女がこのとき寡黙という極端な形での「慎ましさ」の徳目を実践している
ということもあるであろう。この場面は室内ではあるが周囲には人々がいて二人を 見ている。クローディオが述べた紋切型の申込の言葉は形式的ではあるが、という より形式的であるからこそ、社会性を帯びていると言える。ところが当時の観念で は徳目としての「慎ましさ」は社会的な広がりをもってはおらず、家庭内のことと して女性に要求されている美徳である。少なくとも上流階級では女性が家の外に出 て活躍するなどということは期待されないどころか、あってはならないことと思わ れていた時代である。作者のヒーローの描き方はかなり唆味であるが、ヒーローは そういう時代の「慎ましさ」を男の申込みに対して返事をしないという形で演じて いるという見方もできるであろう。
同じ事が教会の結婚式の場でも言えるであろう。婚約破棄の上悪し様に罵られて 彼女は身の潔白を証明するどころか何の反論も抗弁もできない。ここでも作者によ り沈黙という「慎ましさ」を演じさせられ、卒倒した後はどこかに匿われてじっと 耐えるという「忍従」の美徳を演じさせられている。 「慎ましさ」も「忍従」もあく
まで家庭内の私的な美徳である。
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同じように全く逆のことがクローディオにも当てはまる。彼は戦場での活躍で恩 賞を受けた青年貴族であって、 「勇気」と「名誉」という当時の若者が理想とする美 質を備えていて、この特質は家庭内では有効でないが、社会的には尊敬され讃えら
れるものである。その彼に愛と結婚の問題が起ったとき、代理を立てる結婚という 慣行の一つを選んだ。謀られて婚約者の背信と堕落を確信したとき、ヒーローに結 婚式の場で復讐することを決心する。重要なことは、このとき彼は女の不義の相手
と思われる男に何の嫉妬も感じていないことである。女の愛情そのものよりも、婚 約から結婚という過程で女に裏切られたという意識が彼にとって一番の問題となる。
彼も、仲介人で主君であるドン・ペドロも面目を失ったと信じて相手の女性を社会 的に(そして個人的にも)恥辱を与えて葬ろうとしている。女の不貞が事実ならこ れを破棄するのは貴族の世界では名誉と体面の問題であって、婚約破棄は当時の法 律でも合法的なのである。5)引用したクローディオの科白には失う者への個人的な愛 惜の念はひとかけらもないし、まして不当な非難で倒れた者への慈悲の心もない。作 者は若者の感情や発想が体面や復讐という社会的な方向にのみ行って、他人の心の 内側に届かないことを描いている。
クローディオもヒーローもあの仮面舞踏会以来ずっと徳目といった世の習わしで ある家庭的道徳規範、或いは礼節や礼法といった社会の慣行の世界から一歩も外へ 出ていかない。メッシーナではヒーローが婚約破棄されてから秘かに彼女の身を匿 い、世間には死んだと公表する。ところが彼女の死亡の報せを聞いてもクローディ オやドン・ペドロは平然として無関心のまま、メッシーナの客人となっている。や がて主君の弟、悪人のドン・ジョンが逐電し、その腹心が逮捕される。真実が明ら かにされて女は無実だったことがわかる。流石に二人は神妙になって後悔や謝罪の 科白を一応述べるが、それは儀礼の域を出ていない。作者は倫理やモラルの問題と して二人の心の深みまで追求しているのではない。クローディオとドン・ペドロは レナート家の墓所に行き、ヒーローへの弔辞を掲げ、彼女の鎮魂歌を楽師たちに歌 わせるだけなのである。二人が自分の倫理やモラルを墓参りという儀式や儀礼とい う習俗の形式で解消していくところを作者は観客に示している。もし作者に向って この二人の男の内面の倫理性を問うのなら、舞台に出てこずに死んだふりしてどこ かに隠れ、ひたすら沈黙という慎ましさと忍耐の修業に励んでいる女の社会性をも 尋ねなければならないのだろう。
道徳規範といい世間の慣習といい、これらをないがしろにしてはいけない。習俗 といってもそこには伝統を踏まえた豊かな知恵が伴っていることも多い。いっの時 代でも人間はそういう目に見える具体的な生き方を通してでなければ生存してゆけ
ない。しかしだからといってそれらに何の疑いも挟まず、ひたすらそれに頼って生
きて行こうとしたらどうなるか。勇気と名誉を具えた青年貴族と、いくつかの徳目 を実現している良家の娘がそれだけに則って結びつこうとしたのがクローディオと ヒーローの筋であろう。二人はかなりアレゴリカルの人物である.クローディオに ついてある観劇の専門家が「彼はエリザベス朝のかなり愚かな若者である」6)と評す
るが、これはみもふたもない言い方だとしても、方向としては、習俗にのみ依存す ることの限界を示した点でこの両者にあてはまる事のように思われる。愛よりは習 俗を先行させた一見立派な恋人同士が観客には平凡な人物像と映るように作者は意 識的に平板な人物造型を行っていると思われる。彼ら二人の恋のいきさつに関する 限り、ここにあるのは凡庸さの演劇化ということになろう。我々が彼らに感じる何 かぎこちなさのようなものにも注意しておきたい。道徳規範や慣行に埋没して個性 を失った人間たちは、言葉をもたない操り人形のような動きをしなければならない のである。これがクローディオとヒーローの間に科白が交わされない所以である.
(三)
習俗の形式に捉われた二人とは対照的に、ベネディックとベアトリスは世の習わ しを見下し、その束縛を越えようとしている。もっと正確に言うと、越えている所 を誇示しようとしている。前の二人と違って今度は生き生きとしている。結婚なぞ 凡俗のやること、と陽気な男はちょっと斜にかまえ、明るい女はお高くとまる。彼 らの恋の顛末こそ観客の笑いを独占し、 『から騒ぎ』の舞台を人気あるものにする中 心の筋ということになるであろう。ベネディックはたえず愛や結婚を小馬鹿にする 冗談を口にして、独身主義を公言するが、同様にベアトリスも世の男性を見下して 才気あふれる機知で男女の結びつきをからかう。この二人、お互いを敵と意識して いて一幕‑場再会したその瞬間から「会えば必ず起る機知合戦」を始め、皮肉と当 てこすりを投げつけ合い、言葉の戦いに火花を散らす。
Benedick. What, my dearLady Disdain ! Areyou yet living?
Beatrice. Is it possible disdain should die, while she hath such meet food to feed it as Signior Benedick? Courtesy itself must convert to disdain, if you come in her presence.
Benedick. Then is courtesy a turncoat. But it is certain I am loved of all ladies, only you excepted ; and I would I could find in my heart that I had not a hard heart, fortruly I love none.
Beatrice. A dear happiness to women, they would else have been troubled with a
pernicious suitor, I thank God and my cold blood, I am of your humour for that ; I had
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ratherhearmy dog bark ata crow than a man swearhe loves lle・
Benedick. God keep your ladyship still in that mind, so some gentleman or other shall scape a predestinate scratched face.
Beatrice. Scratching could not make it worse, and 'twere such a face as yours were.
( I.i.109‑127)
頭がよすぎて男が馬鹿に見えるといった風のベアトリスに向って、 「高慢の君、ま だ生きてらっしやったのですか」とベネディックは御挨拶な表現をする。ベアトリ スにしても、開幕冒頭ドン・ペドロの一行が凱旋してこのメッシーナにやってくる 報せを聞いたとき、ベネディックを剣使いに職えて、以前の彼の言葉をうけて、 「ど
のくらい殺して食べましたの、あの人」と強烈な物言いをしてからかっている。す でに彼女は再会する前から相手を騎士に見立てて抑輸している。二人にとって言葉 が武器であり、そして鏡舌なまでの言葉の遊戯を楽しみながら語る話語の内容はい つもきまって男と女の敵意であり対立である。
縁結びの神と賎い合いたい君主のドン・ペドロはこれを見ればもう黙っていられ ない。彼の趣向はこの女嫌いと男嫌いを互いに惚れ合う仲にして、夫婦にしてしま おうという企みである.そこで楽しい編しの昆が仕掛けられるO嵯み合っている二 人でも実際は秘かに相手に恋いこがれている、という偽りの噂をそれぞれ別に二人 に立ち聞きさせて、心を一つにしてしまおうというのである。このゲームにレナ‑
トやクローディオは喜んで参加し、ヒーローも従姉がいい夫に恵まれるのならと協 力を誓う。それにしてもそもそもこの二人の異性忌避はどこから来るのであろうか。
ベネディックについて言えば、前述した通り、彼は理想の女性の条件を数々挙げた。
しかしそのような女性が現実にはいる筈もないという前提であり、それが彼の独身 を続ける口実であった。確かに彼は自己中心的で女性に完堅さを求めすぎる所もあ
るであろう。しかし一方でこういうこともある。クローディオにじ‑ローへの恋心 を打ち明けられたとき、ベネディックはからかい半分に、 「そこまで来ているのか。
この世には女房の浮気で額に生えた角を帽子で隠さないで済む男はいないのか。六 十になっても独身を通す男はもうお目にかかれないのか」と言う。ここでの妻の不 貞の話はクローディオの婚約破棄の理由にそのまま繋がっている。亭主の額に角が 生えるという冗夏炎はベアトリスも口にする。この話題は繰り返され、彼がドン・ペ ドロに独身を通す男の意地について語る場面でも出てくる。 cuckoldry jestの伝統は 古く、ある評家は「ルネサンスと王政復古期の喜劇にはどこにでも出てくる」と述 べている7)が、既に15世紀のイギリス聖史劇の中でも降誕劇の場合、マリアを寝取 られたヨゼフの言動を観衆は噛りながら大笑いしていたのである。この種の冗談は
下世話な笑いの種となると同時に両性間の不信と敵意に根ざしていて、描かれるイ メージとしては殆どいつも、強い女房とそれに引き回される亭主の姿であり、女性 優位を物語っている。生真面目なクローディオがヒ‑ローを拒否したのは主として 欺塙に対する嫌悪感と共に信義と名誉に関わることであったが、ベネディックにと っては人の噸笑の的になるというような体面の問題であると同時に、女性に支配さ れる恐怖感もある。ベアトリスとの「機知合戦」では彼女の毒舌に押されて分が悪
いのである。
ベネディックはcuckoldryを種にして結婚という習俗の形がいかに愚劣で滑稽な行 為であるかを口にして軽蔑してみせる。しかし彼の想像の中には、それとは違った 結婚生活もあり得ることが考慮の対象として入ってこない。同じ事が恋愛に対する 彼の態度についても言えるであろう。冷酷な貴婦人の拒絶にあって、物想いに憶悼 している騎士の蒼い顔、いわゆる宮廷愛の「恋患い」の徴候を自らの身に引き受け ることはベネディックにとってはプライドが許さない。彼はドン・ペドロに、「怒っ た時か、病気の時か、腹へった時なら蒼い顔もするでしょうが、酒飲んで血の気を 取り戻せないくらい恋患いで蒼ざめる事はありません」と見得を切ってみせ、自分 が並の男とは違うことを強調する。しかし恋患いを咽ることは、 cuckoldryjestと同 様に既に演劇に現われる程ありふれた風潮であり、むしろ通俗的なことなのである。
作者がここに描いていることは、愛や結婚という習俗を噸笑う男の自尊心の根拠自 体がただの陳腐な風俗の一部にしか過ぎないという、その可笑しさでもある。
ベアトリスに機知合戦を挑んでもいっも罵倒されて尻尾をまいて逃げてしまうベ ネディックは、 「あの女とだけは結婚したくない」と悲鳴を挙げていたのに、立ち聞 きさせられて耳にしたのは、意外にも外見とは違って喧嘩相手の女の恋の話である。
その一途な恋の対象が他ならぬ自分だときかされて、この時の男の心の変貌ぶりは 見ものである。しかし観客にしてみれば、男と女が毒舌の対象としてお互いを好ん で選んできたその親密さが、既に結果を暗示している。従ってベネディックが直後 の長い独白の冒頭で、 「俺を愛しているだと、黙ってはおけん」という最初の結論は ほぼ分かっている。観客の興味の中心は、彼が自らの存在理由と自尊心をかけて標 模してきた独身主義の表看板が、どんな風に壊れてゆくかである。女嫌いの建前と 虚勢が崩れてゆくその往生際の悪さが面白いのである。彼は何よりも自分自身に弁 解しなければならない。まず女の気持を無視するほど「倣慢な男と思われたくない」
と世間体を気にしてみせる。 「悔い改める事の出来る者は幸福だ」、 「あの女は貞淑 だ」、 「人の趣味は変るもの」などと口走り、 「人口は増やさねばならん」などと勿体 ぶってみせる。更に「彼女の絵姿を手に入れよう」ともう中世ロマンスの恋する騎 士さながらになってしまう。
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彼には恋患いの症状は歴然とあらわれ、他人にからかわれて、いや憂い彦酎ま虫歯 のせいだと偽っても、編した側のドン・ペドロ、クローディオには底が割れている。
捉われない精神の証であったあの軽口たたく言葉の才も今は影が薄くなって、寡黙 さではクローディオを凌いでいる。それに加えて、異の仕掛人の郡稔の好餌となる のは彼の外観である。ベネディックは床屋を呼んで髭を剃り、化粧を施し、帽子や 衣裳はやたらに凝って、体中に香水ふりまいたその有様は、エリザベス朝の流行に
身をやつす唯の伊達男そのものである。通俗的な凡庸さは今や彼のものである。
ベアトリスの場合も似たような経過を辿るが、少し違う所もある。自尊心が強く 自分の頭の良さを買い被って何でも馬鹿に見え、軽蔑して見下してしまう。だから 男を愛せない、とヒーローは従姉を批評する。ベアトリスにしても、 「男から好きだ と言われるよりは犬が烏に吠えかかるのを聞いた方がまし」、 「嫌なこと、顔に髭の ある亭主なんか真っ平よ。それくらいなら毛布を抱いて寝た方がまし」などと警句 風に男嫌いを口にはする。しかしと‑ローが婚約したときには、 「街角で私言おうか しら、どこか貰い手ありませんかあ、皆さん、つて」とちょっと扮ねた冗談も言っ てみる。彼女はかって、男の求愛と結婚の過程を音楽とダンスに職えてヒーローに 対して次のように語ったことがある。
wooing, wedding, and repenting is as a Scotch jig, a measure, and a cinque‑pace : the first suit is hot and hasty like a Scotch jig, and full as fantastical ; the wedding mannerly‑modest as a measure, full of state and ancientry ; and then comes repentance and, with his bad legs, falls into the cinque‑pace faster and faster, till he sink into his grave. ( II. 1. 66‑73)
対象を客観的に突き放し、世の男女の営みをを皮肉に見通して、それでいて豊か なイメージの含みを失わない見事な表現力を見せている。これ程の女もあの愉快な 編Lに会うと一挙に変る。男の秘かな恋という偽りの情報を掴まされたとき、彼女
の第一声は、 「どんな炎があたしの耳に入ったのかしら、本当かしら」と我が事であ るから一層含みの距離感をなくしてしまう。男を見下す態度も反省し、 「軽蔑よ、さ ようなら」といい、相手の愛に報いることを誓うのである。ベネディックのそれに 比べて、男の虚勢がないだけ、落ち方も早く、正直ではある。
恋患いの徴候は男の場合と同じように、ベアトリスにもありありと現われるOヒー ローの部屋に呼ばれると溜息をついて、気分が悪いなどと言っている。早速ヒーロー の侍女にからかわれるのも無理もない。いっもならからかわれると倍にしてお返し するであろう当意即妙の弁舌の冴えもない。恋に束縛されて言葉の才は色槌せて、あ
の鏡舌の根源であった機知の能力は侍女の方がはるかに勝っている。こうなるとベ アトリスは唯の凡庸な恋する女にしか過ぎない。観客が見れば、側にいる口数の少 ないと‑ローの慎ましさの方が光って見えるのかも知れない。
(四)
ベネディックとベアトリスの二人について言うと、あの機知を閃めかした過剰な ばかりの言語能力も今や鳴りをひそめ、観客の笑いの裁きを受けている。異性、習 俗、凡俗を低く見て、自らの突出した自由な精神と自負の証でもあった噸笑、毒舌 も今や寡黙と無口に代っている。それはちょうど、あのクローディオとヒーローの 二人が、徳目と慣習と名誉にのみ依存して、自分の言語で互いの愛を確かめず、ひ たすら極度の沈黙を続けたため、作者の制裁を受け、二人の関係に破綻が来たのと 逆の立場になる。
この劇の構造を作劇術の点からみると、対照、対称の例が多すぎて、簡単に読め そうで、それがかえって危っかしい感じがする。問題は誰でも感じることではある が、二つの筋立てが何となく噛み合わない印象を受けることであろう。教会の場で と‑ローが結婚拒否をされた後、ベアトリスがベネディックに、 「クローディオを殺 して」というあの一言で、確かに二つの筋は鮮やかに結びつく。しかしそれも一瞬 のことであり、観客にとっては矢張り異和感は残ると思われる。その主な原因はベ ネディックとベアトリスの筋については二人にリアルな性格の肉付けがあるのに、
方の筋立てについては男女が語り合う科白がないところから、まるで黙劇のパント マイムのような印象を拭えないからであろう。ベアトリスとベネディックの科白は おおかた散文になっているのに反して、クローディオとと‑ローは多く韻文で語り、
その内容からも彼らがコンヴェンショナルな人物であることが強調されている。二 つの筋立ては、確かにお互いの意味を浮き立たせる補完の関係にはなっている。し かしと‑ローの沈黙について作者は積極的に是か非かの意味をこめて劇化している わけではない。彼女の「慎ましさ」に好感を抱く観客もいるであろう。しかし操り 人形のようなその態度は、筋立ての上から言えば観客がそこに一種の愚かしさを読 み取ることも作者は許容していると思われる。ある評家は、 「この劇は自らの価値観 を疑問視しようとしない社会の、その価値観を糾明したもの」という8)が、その社 会とは、貴族たちの世界や、メッシーナの知事の姿勢だけを指したものではないで あろう。
それを物語っているのは、この喜劇の二つの筋立てをかすめるように措かれるド グベリーたちの笑劇である。役人根性丸出しのこの警保官は言葉の言い間違いで観
沈黙と続舌
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客を笑わせる。寡黙という筋立てと、機知あふれる言葉の過剰という筋立ての間に、
ドグベリーの誤用語法の皮肉な話が加わってきて、二つの筋立ての内容を一層豊か にしている。クローディオを隔した犯人の一人を全く偶然に逮捕したものの、この 警保官は劇中に於ける自分の功績について全く意識がない。法廷の場で、捉えた犯 人に馬鹿呼ばわりされて彼はひどく憤慨する。書記がおれば「俺は馬鹿だと書き留 めてもらえるのに」と彼は言う。本人は無意識であるだけに、この滑稽な言葉が逆 に照らし出すのはこの劇に登場する恋人たち、またその周りの人物たちの愚かしさ ということになろう。ベネディックは最後の場面で、ベアトリスのあの機知と毒舌 の出所であった彼女の口を自分の口でふさいだ後、 「人間とは移り気なものです。こ れが私の結論です」という。見る側は舞台の上で演じられた人それぞれの愚かしさ を笑う。しかしにぎやかな幕切れの場で、同時に観客に期待されているのは人の愚 かな営み事に対する共感と同情の視線ということでもある。
註
テキストは、 A. R. Humphreys, ed., MuchAdoAbout Nothing (The Arden Shakespeare, 1989)使用。
1)A. R. Humphreys, Introduction in the Text, p. 54
2) Patrick Swinden, An Introduction to Shakespeare's Comedies (Macmillan, 1973), p. 25 3)J. D. Wilson, Shakespeare's Happy Comedies (Macmillan, 1973), p. 126
4) Magaret Loftus Ranald, Shakespeare & His Social Context (AMS Press, New York, 1987), p. xiv ff.
5)Ibid.,p.19
6)J. C. Trewin, Going toShakespeare (GeogeAllen & Unwin, London. 1978), p. 139
7) Paul and Miriam Mueschke, Illusion and Metamorphosis (Much Ado About Nothing andAs You Like It, Casebook, J. R. Brown, ed., 1986), p. 136
8) Elliot Krieger, Social Relations and the Social Order in 'MUCH ADO ABOUT NOTHING'(Shakespeare Survey 32),p.58
(1992年4月30日受理)