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国 家 の 職.能 (二。完)

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(1)

五 国家職能の定型  

国家は︑国家としてな軋をなすべきであるか︒これについての理想主義的な要請については︑′すでに前段におい  

て関説したように︑たとえば遠くギリシャの哲学思想︑わけてもプラトンにおける理想国家の所説にみられるが︑  

国家の職能   三︑国家と政府︵政治︶   四︑国家の職能に関する思想の推移   五︑国家職能の定型とその批判   六︑国家の職能に関する学説   七︑スミスとミル   八︑国家職能の発展と国家の変貿   九︑社会の動向  

一_−▲ ■■ 】■■  

国家職能論の基調  

国家の理念と職能   国 家 の 職.能 ︵二︒完︶  

ヽ・鵬−、   −ノ   」−「−←→  

本結こ八巻四号所磯  

本   

t二丁  

−■−■   

掲    載  

大  泉  

︵山一五︶   劇   

(2)

ニ二ハ︶  二   第二十九巷 第二サ  

アリスートテレス紅あっても︑その政治についての論議には︑国家がその当為として要請せられる職能を取りあげて  

︵1︶  

いることは︑さきにこれを指摘したとおりである︒けれどもアリストデレスの場合にはプラトンの思想とほいらじ  

るしく異なり︑後者が主として理想主義的な思索軋終始するのにたいして︑きわめて歴史的・現実的な国家認識の  

あることをみのがせない︒そのことは﹃アテナイ人の国家﹄として今日にいたるまで︑たえず研究者紅かえりみら      ︵2︶  

れている記述に︑とれをみることができる︒国家の職能についての︑弘通の理解を初めにまず明らかにしようとす  

るとき︑歴史的事実に基づいてなされたアリストテレスの論述に最初の辛がかりを求めることほ有益だと思われ  

る︒  

アリストテレスは﹃アテナイ人の国家﹄第二部第四十二章以下で︑当時のアテナイの国別を機能の上から解明し  

ているが︑そこ妃示された国家の藷職能をかえりみれば︑市民の登録・青年の訓練からはじまって︑\具体的な個々  

の制度と︑それが管掌すべき職務内容が列挙的に示されている︒いまこれらの職能をマッキィプアーの整理にした  

︵4︶   がって要約すれば︑つぎの諸項となる虻  

普遍的機能・− 裁判  

財政的処置−予算︑会計検査︑課税  

軍事的活動  

警察的活動  

造船の管理−造船・公共建造物の監督・諏査  

道路の維府︑公共契約の請負︑病弱者貧民の保護︑衛生その他の取締  

神殿の修築︑市場の監督︑度量衡の監督︑小麦およびパンの価格の規制   

(3)

祭杷の監督︑祝祭の監督︑演劇上演の準備︑宗教的行列の監督︑秘儀の監督︑犠牲の執行︑演技の管掌   

このよう紅列挙された国家の機能︵職能︶を︑もし東紅大きな範疇に統括するとすれば︑第一には︑国家といト  

共同体そのものの秩序維持に関する︑いわば内在的な職能であり︑舜二ほ山般的・公共的福祉厚生に関するもの・で  

ぁり︑第三紅ほ︑広く文化的性質をもつ職能と分けることができよう︒マッキィプアー自身はどの国家職能キ政  

府の機能と名づけて︑警察機能︑裁判︑軍事的機能︑文化的機能︑山般福祉的機能および経済統制的機能に分類す  

る〇.   

ここで一応心にとめておかなければならないひとつのことは︑マッキィグア一においても注意されているように  

このような国家職能の具体的な区分が︑必ずしもその境界を絶対視しえないことである︒つきつめてい・えば︑いか  

なる職能であれ︑それが純粋軋公共的ないしは文化的としてだけ紅はとどまりえないものであり︑多かれ少なかれ  

いずれの性格をも共におびることほ事実であって︑それゆえに分類ほ︑そのかぎり便宜の要素を含むことも否定で  

きないのである︒   

それはともかく︑われわれほ古代国家についてのアリストテレスの現実的な国家職能の分析のうちに︑すでにそ  

の後近代紅いたるまでの国家職能︵政府機能︶の思想に︑連綿として貫流しているものを認めうるのである︒それ  

ほ国家についての必然的な戦機と任意的な職能ともいいうるものが︑つとにそこで示されていることであり︑この  

思想の庶流は︑国家の現実髄としての共同体を取上げる場合︑今日においてもその生命を失ってほいないといえよ  

ちノ0  

今日︑一般に国家の職能ないし政府機能が取上げられるとき︑まず政治学の上から大綱的な解明があたえられる  

のが普通である︒通常いわれる立法︑司法︑行政の大きな分野ほ︑国家の職能を網蕗的に捕えて︑それぞれの特質  

国家 の・職能    丁七︶  三   

(4)

第二十九溶 解二号   ︵山 ﹁八︶  四   

を示そうとするものであるが︑それらを通じて国家の職能たるの性格をあたえるものほ︑共同生活・一般にたいする  

秩序の維持とみられよう︒そこから国家の職能が仙層細分されるとき︑たとえば国民の共同生活を内部的にも︑対  

外的紅も安全たらしめるための保護的職蘭︑国家内部に共存する諸集団にたいする統制と禁止つまり規制的な職能  

奨励や慈蕃等の形態として具体化される援助的職能︑学校・図書館・郵便事業一・都市の運輸奪のサーヴィス︑外交  

︵5︶   そノの他諸国との関係処理に関する国際関係的職能等が取上げられる︒   

国家が人間共同生活の一つの形態であることを認容せられ︑それが国家としての存在理由をあたえられるのは︑  

すなわち国家としての独自の職能をもち︑これを遂行してゆくからであるといわれる?そこに認められる国家職能   ︑  ■ が伝統的な理解払おいては右紅示すがどときものであり︑その全体がとりもなおさず政治二般の体系といいうる  

ものである︒いいかえれば︑国家の職能といわれるものは︑共同生活においての政治に具体化されるものであって  

統治関係を通じて︑国民生活の山般紅作用するものにはかならない︒   

いう計でもなく右に示されるような国家職能についての︑血統的ないしは伝統的な定型論の基調ほ︑国家という  

実体の肯定にあることほもとよりである︒国家の現実態が歴史的にその理想主義のどときものからいか巾にいちじる  

しく畢離するかは忘れえないとしても︑そのことから人間共同体にとって国家の存立ほ無用とほならず︑たとえ必 

要惑といわれてもなおその存在理由を肯定するところに︑国家職能の伝統的な認識があるといわな竹ればならな  

い︒これを蟄するに︑これまで国家の職能が政治的認識において︑あるいはあらゆる政策払おける主体的活動の体  

系として取上げられてきたのほ︑人間共同体紅おいで︑国家としての職能の必要と価値が是認されてきたからであ  

り︑写らに過去にお・いて︑ま︑た現在において︑その職能に不備欠陥ないし矛盾が認められるとすれば︑それは山層  

高い観点において醇化せられるという可能性の是認に立つものといいえよう︒   

(5)

これを他面からいえほ︑これまで国家の職能が論議せられ分析せられてきた伝統的認識は︑その根抵狂おいて人  

間共同生活の実体としての統治関係を肯定し︑この機構を作用させることによってのみ︑他の組織や手段をもって  

は実現するこ上のできない山般的・共通的なる目的を追求すそ﹂とのできることを前提とするものにはかならない︒  

しかるに︑このような国家職能のいわほ超越的・普遍的な認識にたいして︑これを国家の歴史的性格︑その現実的  

相対的な制約をするどくえぐりだしてきびしく批判するものが階級国家観の立場であり︑マルクス主義国家論の主  

.張で烏を︒   

階級国家観の立場からする国家職能の考察については︑本論のはじめで﹁国家の理念と職能﹂を概説したとき総  

括的な一瞥をあたえておいた︒国家が一つの階級軋よる他の階級の支配機関としてその泉質的性格を規定されると  

き︑そのような国家の職能は二つの方向に発現する︒国内的には被支配階級にたいする搾取と抑圧︑国外的には帝  

由主義戦争を通じての他民族と他国家の侵略これである︒それゆえに階級支配の機関たる国家においては︑伝統的  

な国家論あるいほ政治理論か.ら︑国家の普遍的な存在理由として︑たとえば二般公共的・福祉的職能や文化的職能  

を取上げるとしても︑そのような観念は︑これを内容制約的に具体化すればいずれもみな階級的利益の根源によら  

ないものほないのである︒教育制度・文化的諸施設と機関・保線衛生の設備・生活保護の施策等は︑一応観念とし  

て酬般的・公共的な国家の職能のどとくいわれるとしても︑その本質においてはすべて資本制生産の維持と擁護の  

必要かち由来するむのであり︑その方向へと国民をみちびいてゆくものにはかならないといわなければならない︒   

われわれが歴史的に国家の制度をかえりみ︑そこに具現されてきた諸政策を取上げて検討するとき︑階級国家観  

からする批判の多くがそのまま軋妥当するこせの事実は否定できないことである︒それは必ずしも過去の史実に求  

めるまでもなく︑今日経済的に対立する階級をもつ国家についても現実に実証されているといえる︒しかし国家職  

︵︸一九︶  五    国家の職能  

(6)

第二十九巻 第二号   ︵二6︶  六  

能の考察は︑そのような事実が事儲の全部をつくサかどうかにある︒人間生活蔽ついて︑あるいは人間の社会につ  

いて︑これを歴史の推移と変遷のうちに観察するとき︑いかなる場合にもそこには時代的制約の存在することほ否  

虚しうぺくもない︒いな︑人間の生活の現実態というものは︑そういう制約濾よってこそほじめてそれが現実化き  

れるのであって︑そうでなければそれは単に理念や観念そのものとしてとどまるにすぎないことである︒そしてそ  

のような制約が必然的であるかぎり︑その時︑その時の現実的な勢力の作用が強く存在することももとよりである︒  

そしてまたその点で経済的勢力たよる政治への干渉も否定することほできない︒しかし同時に︑人間社会の推移と  

変速を進化の流れにおいて静かに考察するとき︑共同社会のいとなみのうちに時代的制約警﹂えて人類の共同資産  

ともいわるべきものが成就せられ︑歴史の流れと共鱒完成へと運ばれつつある事実をも認めねばならないと思う︒  

科学の階級性といケ批判ほしばしばきびしく提出されることであり︑なんぴともこの事実の叫面の真実は認めなけ  

ればならないと思われるが︑しかし同時に科学はそのような階級性をこえるものを科学の本質としてつね紅内包す  

ること紅よって︑人間生活のためにその役割を果してきたことも否定できない他面の事実である︒自然科学の発達  

の跡.にかえりみれぼ︑近世における科学的精神の復活転際しての近代科学の開拓者達に︑このような意義がもっと  

もよくみられる︒宗教的権威紅対抗しての科学的精神の擁護にほ︑人類共同の資産としての科学の本質がカづよく  

その生命をたたえているー﹂とをみる︒国家の文化的職能が歴史性につよく制約されながら︑しかも文化自体のもつ  

太質的なものがその内部に呼吸していることの認識こそ︑実はきわめて重要な血点でほあるまいか︒なぜなら事実  

のこのような本質的なるものを明確監息識し︑これを大きく浮びあがらせることこそ︑実ほ人間共同生活紅おいて  

の典同の目的にほかならないのであり︑そのような本質の把握によって︑現実の国家の在り方がきびしく批判され  

ること鱒もなる︒それほまた階級国家のどとき現実の歪みから︑人間共同体の当為に向って国家を接近させる基調   

(7)

︵6︶   ともなるものといえよう︒   

T︶ 本稿前節︑四﹁国家の職能に関する思想の推移﹂ならびに同節の註︵3︶をみられよ︒   

︵2︶ アリストテレスデテナイ人の国家﹄ ︵岩波文膵︑原随園訳︶・︑訳者﹁解説﹂ ︵九頁︶参照︒  

︵3︶ アリストテ心ス︑前書︒讐一部﹁四世紀におけるアテナイの制度﹂︑八三頁以下︒   

︵4︶ マッキィプアー﹃政府論﹄ ︵秋永畢訳︶第十二事︑三六六−九頁︒  

︵5︶ 鈴木安蔵﹃政治学﹄二ハ頁?本文で例示した国家の諸機能Q細分は︑この賓に紹介されているディモック ︵DimOCk﹀  

の所論にょる︒  

︵6︶ 同上︑〟二八−二三七頁︒  

六 国家の職能打開する学説  

あれわれはさきに﹁国家の職能に関する思想の推移﹂についてその概観嘗﹂ころみたとき︑古来からの国家に関  

する理念をめぐっての思想の動向と変遷に一瞥をあたえておいた︒その場合にわれわれがふれた諸点ほ︑国家の理  

想像を定立しょうとする思想︑英雄的支配によって形成きれる国家︑国家の絶対性に立つ思想︑民主主義国家観の  

発展と近代国家の成立等であった︒そこではさら転歩をすすめて近代社会における国家職能をさしはさんでの対  

立する思想にもふれておいた︒問題の究極的に集約されるところほ︑全体と部分の関係︑人間生活における個人と  

社会の劇形態としての︑個人と国家との和合︒反招の関係であり︑これ軋ついての概括的な山般論は︑すで軋本論  

文の冒頭﹁国家激論の基調﹂において序説としての開陳をこころネたところである︒   

国家ほ人間共同生活に関しての︑もっとも強力な成型として︑〟つの紅会形態として︑いわゆる国家に特有なる  

︵仙二こ  七    国家の職能  

(8)

第二十九巻 第二号   ︵仙二二︶  八  

職能を実践してゆくことにその固有なる存在理由が認められると考えられるのであるが︑具体的に現実の生活関係  

のうちに︑種々なる分野における国家の職能として発動するとき︑そこにしばしば国家と個人の複雑な問題をひき  

起すこと紅なる︒それほ個人的自由が伸長してゆくとき︑国家行動との境界をいずこにもうけるかという問題で  

ぁる︒わたくしほ本研究のほじめに序論として私見の基調をあらかじめ示しておいた︒すなわち個人の自覚と個人  

的自由の伸長ほ︑国家にたいしてたえず個人としその活動領域を拡大してきたことを二画において認めうるのであ  

るが︑同阻にまた資本主義経済体制においてほ︑国家権力を経済的勢力と結合させることによって︑これをいちじ  

るしく強化したのであった︒問題の∵つほこのように拡大強化された国家権力への批判にあるのであり︑このこと  

は他面からいえば︑個人的自由の伸長を原則とする近代思想の発展紅はかならないといゝ竃︒ここで特完静なる  

思索を要求せられることは︑このような個人の自由と発言の伸長という事実が︑ある意味においてほ国家職能の拡  

充と醇化によって推進せられるという関係である︒いいかえれば︑伝統的な国家の職能が︑孟でほ個人的自由の  

伸長にともなって大きくその領域をゆずりながら︑しかも他面でほ︑国家の斬らしい職能が拡充強化せられること  

㌢って︑それが是個人活動の伸長を助成する作用力をもつという紛環七ある︒これは国家の職能の質的な変  

化であり︑国家の職能なるものは必ずしも絶対的のものでほなく︑その職能を内実的に変質することによっで︑そ  

こから国家の実質的な性格そのものが変質してゆくことの理解である︒われわれはここで︑右に述べるような国家  

職能紅関する思想史的序説の後をうけて︑ニ︑三の代表的な学説を紹述しっつ私見のための若干の用意を加えたい︒       ︵  1︶   その手がかりをポーモル︵W・J・BaumOこの紹述に借りたいと思う︒   

十九世紀の初頭紅国家の職能に関する学説として注目されたものほ︑ウィリアム・ぺティ︵SirWi−−iamPettyu  

ATreatis20叫Ta琵andCOn−ribu−iOn・︶によるものであった︒かれほ国家の主要職絶として︑1 軍備・国防   

(9)

2 正義・宗教・教育の施設 3 貧困者・無能力者・失業者にたいする措置 4 道路・橋梁・河川・水道・港  

湾・その伽二般碍祉に関する事項の建設と維持を指摘した︒アダム・ス︑\\スの所説はぺティと同様で︑そのことほ  

後に改めて取上げることになるが︑.国家の支出の上から軍事・正義・教育・公共事業等のための施設が考慮せられ  

ている︒   

国家職能についての体系的な論述は︑アンリ︒ストーチ︵HenriStOrCF COurSd︑竹cOnOmiePO−itique.︶にみい  

だされる︒その論ずるところに従えば︑国家の目的とするところは︑山切の市民に利益をもたらすことにある︒な  

ぜなら︑もしその反対であるとすれば︑それを維持する動機も道徳的責務ももたない﹁部のひと甘とにほ国家は無  

用のものとなるからである︒国家の目的は︑国家によってのみ達成されうるようなものでなければならない⁚とい  

ぅことほ︑最高の権威のもとで︑全市民の一致によってのみ達成されるものということである︒もしある市民とか  

特殊団体とかの個別的努力軋よって︑その目的が達成きれるものであれば︑およ々国家なるものの必要はない︒そ  

れでほそのような目的となりうるものほ何であるかといえほ︑それはただ二つ安全︵Security﹀ S音etか︶︑つまり  

市民の自然的ならびに後天的権利の保障ということであり︑これは万人に共通な権利として︑他人を侵害しないか  

ぎり︑みずから自己の財産を自由に処分することのできる権利である︒そしてこれを保全するための十分な権力が  

市民の結合体による力である︒   

1︒B・セイの所説もストーチと趣を同じうする︒そしてその国家職能論は︑しばしば個人利得と国家利益の矛  

盾に想到する︒公共的支出を知るためには︑まず社会の必要を知らねばならない︒個人や家族としての必要とほ別  

に︑社会人としてほ共同の要求があり︑これは社会を形成する全成員の協力によって充たされるものである︒そし  

てこの協力ほ︑政府という形態の内部にあるすべて秒ものを支配しうる制度によってのみ可能なことである︒政府  

国家の職能   ︵二二二︶  九   

(10)

第二十九巻 撃亨   ︵一二四︶一〇   ほ社会の成員からその自由と富の二軍を取りあげるが︑その結果としてすべての人々が獲得する厚生が︑政府によ  

って課せられる負担を承認させるのである︒直接︑個々人には即時に利益をあたえることがないとしても︑しかし  

同時に︑多数のひとびとに影響をあたえて︑全体として一般的利益に関することの多い施設についてほ︑その支出  

を社会が全体として負担すべきものである︒セイもその論旨の帰するところほぺティ︑ス︑︑\スと同じ方向を示して  

ぉり︑右に述べるような論拠から︑学校教育︑技術的な実験や研究につい′ても︑それが単に本人を利益するという  

よ.りも︑全社会を利益するという点で公共的な事業たるペきことを主張する︒   

フレデリック・バスチャへFrかd賢cBastiat︶Harm︒niesOfPO琵ca−EcOnOmy︶軋よれば︑欲求が山般的で仙  

律であるとき︑これを公共的欲求と名づけ︑その実現のため紅ほ協同行為によることが有利であるといわれる︒も  

し欲求の充足が公共的奉仕となることになれぼ︑それは個人の自由と責任からはなれてくる︒個人ほその点で︑み  

ずから選択したものを︑選択した時に自己の判断によって︑自己の欲するがままに購入することもできないことに  

なる︒個人としてほ緊急幣ハンを必要としても︑社会の立場からは︑個人として自己の欲しない教育とか演劇等の  

供給のためにむけられることになるかも知れない︒そこでバスチャはいう︑厳密に政府の合法的な行為の唯一のも  

のほ︑合法的な防衛の場合七みられると︒しかしなお︑市民が共同に利用する河川・森林・道路のどとき共同財産  

については︑これを政府の任務ど考えている︒  

1・S・㍗\ル紅ついては︑後紅特誉れを取上げてわれわれの論議の資としなけれほならないが︑ここでポーモ  

ルにしたがってのぺれば︑︑︑\ルはレッセ・フエールの基調に立ちながら︑その原則への例外として種々の国家職能  

を容認してかるとみる︒  

英国における古典学派のひとびと︑そしてまたフランス自由主義思想の経済学着たちは︑国家の職階について大   

(11)

体以上にのべたような思想と学説をいだいていたが︑ドイツの論者充ちは国家にたいして特に重要な任務をあたえ  

てきた︒フリー.ドりノッヒ・リストはその先駆者といえよう︒そもそも私経済と国民経済とのあいだに同質なるもの  

があるか︒個人ほ国家のよう紅次代のことを配慮するか︒個人ほその私的行為において︑国土・公共の安全・その  

他協同の力によって達成せられる凡盲のことを考慮にいれるか︒これらの点紅ついで国家ほ︑個人の自由を制限す  

ることの要求をもつことがないか︒個人がその能力を最大紅発現することは︑必ずしも社会の利益と一致するとは  

いわれない︒たとえばさまざまの悪徳者の跳梁のどとき場合である︒さら紅また世婦貿易において無害有用のこと   プライヴエー一γイリング   が︑国と国ヒの取引としては有害危険ぞ﹂とがある︒平時︑あるいはコスモポリタンの立場からほ私掠船は有  

害であるが︑戦時にほ国家はこれを必要として支持するであろう︒このようなドイツにおける国家思想への関心を  

つよく推進したものほA・ワグナーとみられる︒ドイツの論者たちほワグナーとともに国家行動の正当性をもとめ  

個人的欲求と社会的欲求とのあいだの相異の特質を明らかにしようとした︒その態度のやや不明確なものはエ︑︑︑−  

ル・ザックス︵Emi−Sa已のどときで︑かれほ情況によって︑時に個人が優位することがあり︑時に国家行動を有  

利とすると主張するが︑この場合︑厳密な規定をあたえるものとしてはグスクープ・コーン︵GustaくPFロ︶があ  

る︒その思想によれば︑国民としての欲求には︑その国民を形成する住民のもつ欲求とほまったく別異の︑時には  

劇層重要なものがあり︑これは国家によって配慮されねばならないものである︒私的企業は国民の必要に配慮する︑  

ととなく︑また国民としての欲求は︑私的報酬を出現させるともかぎらない︒欲求の点で︑個人の私経済にたいし  

てもつ国家の特性は︑そのすぐれたる合理性にみとめられ︑これは国家の属性から全体として取上げられ︑明確な  

道程をとり︑そしてまた理性的な配慮の結果である︒衣食住・娯楽・社交のどときほ主として私経済のための目的  

であるが︑平和・秩序・安全・文化・救済というごときは主として公経済によって担当される事項である︒  

国家の職能   二五︶    

(12)

第二十九巻 第二号   ︵三六︶ 三    さて汐㌧グォンス革命とともに︑英仏伊の論者は実証主義の支配監禁て︑倫理的な規範の論議からほ遠ざかっ  

ていった︒国家の責務に関する論議ほ︑国家の当為紅関する論者の主観を予定するものであり︑これほ新らしい学問  

傾向と矛盾するために財政学の論議からも影をひそめ︑わずかに国家職能の費用の調達という分野に局限されるこ  

とになった︒ただ新古典派のレジクイック︵H・Sidgwic打︶の所説に注目すべきものがある︒かれほレッセ・フエ  

ールの基本的命題を取上げるが︑それは個人が社会に提供しうる用役にたいし︑白由交艶によって十分な報酬のえ 

られるこ▼とを前提とする︒しかしこのことがつねに可能であるという一般的な理由ほまったくない︒むしろそうで  

ない多くの場合がある︒たとえばある種の効用は︑その性質上︑それの生産者ないし︑できたらそれを売却しよう  

と欲する人紅よって占有のできないものがある︒ある重要地点にある燈台は多くの船に便益をあたえるが︑その便  

益にたいして通行税を課することは困難であり︑また森林の保存は降雨の調節の上から国民に有用であるが︑なん  

びとも﹁気候の改登﹂というものを所有して売却するこじのできないために︑これほ私企業の供給するものとほな   りえない︒   

レククイックはさちに︑独占によって少なく提供して多くを利得しようとする社会的紅反経済的な事態の存在を  

述べ︑またミルにならって共同の危険の問題軋論嘉し︑完全な経済人の理想社会では任意的・自発的な協力による  

共同利益の擁護ほあろうが︑しからざるかぎり自発性にほ慮りえないことであり︑そこ軋強制にたいサる有力な根   拠の認めちれることを明らか犯する︒  

以上︑国家における職能についてのニ︑三の学説をポーモルの紹述紅借りてたどってきたが︑これを要するに右  

紅かえりみられた諸家の主張を通じて︑国家の職能に関する中心課題は︑個人の私的活動と国家の固有なる職能と 

が︑いかにそれぞれの存在理由をみとめられるかということであり︑それほまた多分に時代的︒社会的要因を反映   

(13)

七 ス ミ ス と ミ ル  

ス︑︑\スはよく知られるよう軋﹃国富論﹄第四篇を﹁経済学説の諸体系﹂ ︵Systems Of PO≡ica−EcOnOmy︶ にあ  

てたが︑その第九章で農業主義∴Agricu−晋ra−system︶を考察した︒ス︑︑\スはここでいわゆる重恩学派︵農業主議  

者︶の政策を対象として検討し︑そのいちいちについて吟味をこころみながら︑その説の誤謬にたいしてきびしく  

批判をあたえるのであるが︑他面その説が経済的主義に根基をもつところには︑多分の真野が存在することを認め  

ている︒結論として︑農業であれ︑はた商業︑工業であれ︑それらを一方的に制限抑制することによって他のもの・  

を奨励しょうとする政策が︑結局においては逆の効果をもたらすことになる点を強調して︑かれの自由主義政策を  

明らかにするのである︒そこで奨助ないし抑制を志向する主義が完全に排除されることになれば︑そこにはじめて  

明白にして単純な自然的自由の組織︵Syst−mOfNatura−Liberty︶が確立せられるという︒こうなれほ各人は正  

義の法せ侵害しないかぎり︑その経済滴動について完全な自由があたえられると主張する︒  

二七︶ ;山    国家の職能   しているのである︒われわれはここで特に︑国家職能に関する古典的な体系としてのス︑︑\スとミルを改めてかえり   み︑その対照考察のあいだからわれわれの主張への接近を求めたいと思う︒   

︵l︶ 声J.BaumO−︶We︼fareEc︒n︒mi訂a已th2T訂︒ryOft訂State﹀ト摂N﹀Cbap・芦p・ト8ff・この書で取扱われてい  

る﹁国家の理論﹂というのほ著者がみずからいうように︑国家が実際に何をなすか︑あるいは何をなすべきか︑というよ  

うな側面紅はふれること少く︑むしろ国家の行動の合理性に関する理論︑換言すれば︑ある場合に国家行動が被治者に有  

利である場合の条件分析が主題なのである︒しかし論議の最初の部分で︑ここに援用したような若干の論者についてその  

説を紹述しているのである︒  

(14)

る不正または圧迫にたいして︑能うかぎり保護する義務である︒これはいわば一般的に司法的職能といわれよう︒  

その三は︑公共的土木工事または公共的施設を建設し維持する義務である︒けだしこのような部門は︑私的利潤を  

︵1︶   もたらすことなく︑その上そのための経費に個人ほたええないからである︒さてスミスによる国家︵元首︶の職能  

として示された三者は︑今日といえども一般に国家によって遂行されつつある機能であるが︑ぞ︑長の趣旨は︑そ  

の本来の主張が個人の自由なる経済活動を拡大せしめること紅ある以上︑国家払おける職能の限界を示そうとする 〟  

ものとみることができようイもっともこのような叫般基準にたいして具体的な個々の場合が対照されるとき︑そこ  

紅ほきわめて困難な場合が発生することほ当然であり︑それゆえにこそス︑︑\スの論議においては︑しばしば原則へ  

の例外ともいわれるべきものが提出されること紅なる︒レッセ・フエールの先駆者として︑たとえばリストのごと  

き紅よってはコスモポリタンとして批評せられるス︑︑\スが︑時紅ほまた㌦個の国家主義者としての評価をうける消  

息も︑この山面を現わすものにはかならないぺしかし︑ス︑︑\スの学説・思想の歴史的地位が︑マーカソティリズム  

の国家万能主義への批判紅あるかぎり︑国家の職能にたいしてほ︑これをその最少限度に認容しようとするもので  

あることほもとよりである︒   

さてJ.S・︑\︑ルとス︑\︑スとのあいだには︑およそ八十年の時代的な間隔が介在する︒︑︑\ルほスミスの流れに沿  

ぅて国家の職能を問題とし︑しかもこれをはるかに体系的紅整備した︒  

︑︑︑ル紅よれほ︑国家の劇般的職能は大別して二種となる︒二ほ国家の必然的職能︵Necessary functiOn巴 であ  

り︑二はその任意的職能︵Opti︒na=uncti︒nS︶である︒これらの二者は︑いかなる基準によって分けられるか︒    第二十九巻 第二号   

さてその場合に︑元首︵国家︶ のなすべき義務は三種となる︒その一は︑  

ら防衛する義務である︒これほいわば国防的職能といわれよう︒その二ほ︑   ︵二二八︶  小四  

社会を他の独立の社会の暴力と侵害か  

社会の成員をその社会の他の成員によ  

(15)

それはその機能が政府︵国家︶という観念と不可分の関係にあるや否やの点に存するのであり︑前者は国家そのも  

の軋内在的のものであるが︑後者はそのような必然性をもたないものである︒国家の必然的職能を具体的に規定す  

ることは必ずしも容易でノはない︒ミルもこのことに論及し︑強いてこれを追求するときは結局においで二般的福祉  

︵Gene邑e眉ediency︶というような理念とならざるをえないことを明らかにしている︒そして具体的には主要な  

ものとして︑国家的独立の要請︑粗税・公債︑︑財産と契約に関する法律︑司法と啓察に関する国家の職能を論じて  

いる︒これにたいして国家の任意的なる職能は︑国家そのものの属性として内在するものとはいわれないものであ  

るが︑慣習的に遂行して一般的に認容されている諸職能である︒これらの職能についても︑これを具体的に網羅す  

ることは不可能のことであるが︑これはいわば︑\\ルのレッセ・フエールにたいする例外とも見られる′性質のもの  

で︑むしろここ紅ミルの自由主義着たる面目が存在するともいわれるのである︒ミルはその任意的職能の主要なる  

ものとして   

山︑個人がみずからのために︑判断またほ行為することのできない場合   

二︑契約自由の原則の濫用防止   

三︑事業の利害関係者が︑みずから指揮監督にあたりえない場合   

四︑個人の判断を二層有効にし︑これを助成する場合   

五︑個人が他人の利害のために行為するとき︑それが目的とほ逆の効果に陥ることのある危険の防止   

これらについてみれば︑︑︑\ルにおける国家の任意的職能とは︑まさにかれの自由放任主義にたいしての例外をな  

すものであって︑もしそれらの事項が︑個人において十分紅遂行可能であるならば︑それこそ最も望ましい状態な  

のである︒事実において﹂それははと‖んど不可能に近いのが現実であるゆえに︑それらほ自由放任主義への例外と  

︵一二九︶ 小五    国家の職能  

(16)

さて︑︑︑ルが︑スミスの自由放任主義の原則にのっとりながら︑国家の職能を必然的と任意的に分類したことは︑こ  

れをスミスの場合紅移すとき︑後者ほス︑︑\スの第三の国家職能紅あたる公共的なものに当るとみられよう︒ミルが  

具体的紅示した事項を通じて共通的に見いだされるものを求めれば︑それほ公共的福祉に関係をもつという七とに  

はかならない︒われわれはこの任意的なる職能が︑ス︑︑ニ予払おいても︑そしてまた\︑\ルにおいて二僧強く打ちださ  

れていること紅注意を払いたい︒ス︑\\スの時代的な役割ほ︑マーカソティリズムの国家干渉を極力排除することに  

ょって︑個人の経済的自由望見揚することが最大のものであった︒国家の職能ほ︑最少の限界に規定されることが  

必要であった︒︑︑\ルにおいてもその思想の正統的な動向にほ変りはない︒けれどもミルはスミスにおくれること八  

十年︑その時代はサでに産業革命の完了を経た資本主義経済の爛熟期であり︑それにたいするきびしい批判の提出  

された時代であった︒√社会主義思想にたいしてほ︑たとえその認識が不十分であったとほいっても︑︑\\ルもこれに  

強く関心をよせたことほ人の知る通りであり︑単純なレッセ・フエールにたいしてはもとより十分な批判をもち︑  

国家め任意的職能の進展軋よっでそこ紅かえって個人の真実なる展開があるべきことを考えたものと思われる︒  

これはいわばトマス・ヒル・グリーンの斬らしい自由思想につらなりゆく方向である︒つまり必要なる場合に︑国  

家の職能せむしろ拡充することによって︑それを抑制する場合よりも︑かえって真の胤人的自由を推進し︑個性を  

育成助長す・ることになることの認識である︒ミルが﹃自叙伝﹄のうちで︑みずから社会主義者であると称した消息  

は︑その社会主義の理解に問題を留保することはそのとおりであるとしても︑そこ紅ほ伝統のレッセ・フエールを  

こえて国家の帯極的な職能の展開により︑社会の劇層の発展を予期する希望が伏在するといわなければならない︒  

このよケに見れほ︑ひとしく伝統の自由放任主義をまもり︑国家の職能を可及的に最少限界にとどめようとする思    第二十九巻 第二号  

︵2︶  

して国家の職能とならざるをえない関係にあるといわなければならない︒    ︵仙三〇︶  叫六  

(17)

想においてなお︑スミスと︑\\ルとの時代的相異のうちにほおのずからその思想.の動向に比重の変遷があり︑そのこ  

とはまた国家の職能への理解の推移を示すものといいうるのである︒  

︵1︶ A・SmitFV 宅2a−thOf2atiOnS rBK:芦Ch﹂舛・  

なおス.ミスの﹃グラスゴク大学講義﹄.︵高島・水田二氏訳︶ ほ︑J宏tice﹀ PO−ice﹀ Re諾n完︸Arms について論じたもの  

であるが︑それほ政府の職能に関する見解を示すものである︒   

︵2︶−.S.M芦 Pユncip−es Of PO−i︷ica−EcOnO−ny● p・思Nff−  

八 国家職能の発展と国家の変質  

近世初顧の統一国家において︑国家の権限とその活動領域が極度の拡大伸長をとげ︑いわゆる国家万能の国家観  

とそれ軋結ばれる政策主義がその事実と叫体となって成熟した消息には︑人間社会の発達払おける歴史的条件をあ  

わせて考えなければならないことである︒それは中世の封建的な身分的抑制の社全体利から︑近代の個人的自由の  

世界へと進行する過渡的過程における媒介としての︑必要なる役割をはたしたという事実を認めなけれはならない  

ことである︒個人が個人性の自覚と成長の︑まだ熟していない社会において︑時代的条件が全体としての社会の防  

衛と拡大を要請するとき︑この目的にたいする国家の指導的・積極的な職能が発展をもとめられ︑これを強化して  

ゆくことは一つの必然ともみられる︒そのことは山面において︑個人の自由なる活動にたいする抑制干渉となった  

ことは事実であるが︑逆説的にいえほ︑そのような抑制干渉によって結実された国家の発展と強大が︑かえって個  

人の成長と確立を促進する発条であったともいわれるのである︒つまり個人の活動を抑制する国家の活動が︑実は  

個人の活動そのものを伸長育成することになったのである︒国家的・統制的政策によって︑もたらされた国富の増  

国家の職能   三ニ ー七   

(18)

第二十九巻 第二号   ︵山三二︶ 一八  

進が一般の社会的経済力を上昇させることになり︑そのことがまた個人生活へと反映してその物質的︑思想的生活  

側面の促進となったともいえよう︒このような個人の成長が︑近世自由主義の経済体制を生誕させる基調となった  

ことほいうまでもない︒そこでほ国家の職能ほ可及的に縮減せしめられ︑原則的にいわゆる必然的職能へと局限さ  

れ︑これをふみこえる国家の活動については︑これを例外的のものとみなす思想傾向を生んだのであった︒   

けれども経済社会の推移と︑それにともなう新らしい情況の出現ほ︑このような国家職能の考え方をそのままに  

維持することを長くは許さない︒社会生活のうちに発生する社会問題の圧力がそれについての動因となる︒資本主  

義体制に内在する社会的・経済的矛盾の発生と深刻化は︑ここに新らしく国家の職能軋ついての反省をよび起すこ  

と紅なる︒そしてそこからしばしぼ︑国家の積極的な新らしい職能の開発と︑その活動力の強化を要求する主張す  

ら生れてくる︒それほ現存の社会体制に立ちながらも︑単に自由競争の調整虹信頼を托しえず︑むしろそこ紅強力  

な山般的指導性を要求するものである︒   

ひろく社会政策と名づけられる政策活動の︑本質や性格についての論議ほいましばらくこれを措く︒ここでの問  

題は︑そのような国家の政策が比重を加えて要望されつつある現実の動向である︒いかなる過去の時代にも︑社会  

政策ないし社会政策類似の国家政策が多かれ少なかれ存在したことは事実である︒救済や慈善の公共的施策は︑大  

なり小なりいかなる国家でもこれをもってはいた︒しかしそのような国家の施設・方策が︑むしろ消極的・例外的  

な職能たる性格からすすんで︑国家の当然な任務として積極的に国家職能たることを要請されることになれば︑そ  

こには国家の職能について︑その舟実に変化が生じ発展の存在することをみとめなければならないのである︒現実  

において社会政策は︑その時における経済的支配階級の政治的支配という必要から︑階級利益を目標として実践さ  

れることはきわめてしぼしぼであろう︒その事芙を十分に認めながら︑同時にそこにほ国家の.職能が︑そめ内実を   

(19)

実際的に変質してゆく事実をまた見のがすことはできない︒   

もともと個人的自由の原理軋基づく社全体制にあってほ︑その自由原理と表裏の関係において︑個人生活の自己  

責任を予定している︒ひろく今月の自由民主主義の社会ないしは経済的紅資本主義の社会といわれる国家紅廉いて  

この痕則ほ依然として作用力をもつ︒そこでほ人の出生とともに︑その生活が社会的に︑ないし国家的砿保障せら  

れているものでほない︒生活経営は個人みずからの責任とみられねばならない︒現実の措置として救済や保護の法  

規があるとしても︑それが社会生活山般の生活原理であるのではない︒生活の劇般的原理は︑個人の生活経営にお  

ける自己黄任である︒しかるに社会政策にほ︑この自己責任健にたいする仙つの批判を予定している︒そしてこの  

批判的態度が拡充し発展して︑そこに㌦般的な社会保障制度へと上昇してゆくとき︑そこには生活の自己安任とは  

時に対立し︑時軋はこれ紅優位する原理の作用をみのがすことができないこと紅なる︒国家がそのような職能の担  

当者であるとき︑そこには伝統の国家職能のうちに︑いちじ渇しい変化と発展をみとめなければならないことにな  

る︒これは国家職能の蟹的な変化ともなり︑また飛躍的な成長でもあり︑そしでそのことは国家の性格そのものを  

おのずから変質させねほやみがたいであろう︒   

国家の職能紅ほ︑必賂的なるもの︑すなわち国家の属性とともに内在的に固有なるものがあり︑そのような職能  

をになうこと軋よって︑まさしく国家ほ国家として藷他の社会形態から区別きれた独自の存在理由をかちえたので  

あった︒そのような職能が認められなければ︑もほや国家の存立も︑またその意義も失われることになる︒これにた  

いして他面では︑国家の任意的な職能が必要に応じてある限度紅認容されてきた︒これほ本来︑個々人の自主自由  

なる活動にまつべき本質のものであるが︑現実に個人紅よって遂行されることの困難ないし不可能な事情が︑これ  

を国家の職能としたのであった︒たとえば国防すなわち二国の軍備は︑歴史的にも長く国家の第一の職能とせられ  

︵一三三︶ 仙九    国家の職能  

(20)

︵二三四︶ 土○   第二十九巻 第二号  

てきセ︒国防が国家の必然的な職能であることについてほ︑従来ほとんど疑問をもたれることなく︑国家の職能と  

しても最大最高のものとして認められてきたといわれよう︒もしこれ紅たいする批判があったとすれば︑それほむ  

しろユートピア思想にも近いものであったとみられる︒けれどもこれにたいして新らしい考え方が︑国際的に軍傭  

㊥縮小を提案し︑あるいは進んで廃止の思想まで課題となる動向は極めて重大な仙つの歴史的段階といわれよう︒  

しかもその思想が現実に一つの国家払おいて︑国家の最高法規のうちに如実笹示されたという事実は︑まさに画期  

的な国家職能への反省とみられよう︒あるいほ現在にいたるまでの自己責任の生活原則ほ︑国家の救済や保讃をい  

わば例外的のものとしてきたこ.とは︑さきに説き明かしたところであった︒1それゆえそのような目的のための財政  

支出はいわば必要悪であり︑可及的に縮少されることが理想であり︑その膨脹は国家としての国力の裳退をすら意  

味すると考えられた︒しかる紅この種の国家職能が︑むしろ国家のもっとも重要な分野として新らしく認識ざれ︑  

そのための国家支出が比重を加えている現実ほ︑ここにも国家職能における革命的ともいうべき大きな成長がみら  

れると思われる︒もとよりこのような国家職能の変化と成長が︑今日完成しているとほいわれない︒それどころか  

現実には︑それ紅たいする伝統的勢力の阻止的作用がしば⊥ぼ強力紅作用する事実を無視することも許されないこ  

とである︒軍備についても︑一方の否定的動向と相ならんで︑他方軋その拡充勢力の有力であることもみのがせな  

い事実である︒それゆえ国家の職能について︑伝統の必然的なものが単純に否定され止揚されて︑新らたなるもの  

の成長と︑その方向への発展が坦々たる道であるどとく楽観されないことはもとよりである︒けれども︑現実のこ  

のような矛盾を冷静に眺めつつ︑国家職能についての推移をかえりみるとき︑そこ紅は少なからぬ変化のあとを見  

出しうるのである︒この点でわれわれは︑マッキィグァーとともに﹁国家は権力手段の存在から︑国家の内部的任  

務鱒関するかぎりは︑大部分〟つの奉仕機関直なる﹂と主張することば︑山南の事実を示すものといいうるであろ   

(21)

︵1︶  

ちノ0   

このよう紅論じてくれば︑およそ国家の職能としての必然的なるものと任意的なるものとの伝統的区別は︑なん  

らの絶対性をももつものでほなく︑本来きわめて相対的なものたるにすぎないことを知る︒現実に存立する国家は  

具体的な歴史的条件に規定せられて︑その時の体制を形成することにな渇が︑その体制における国家職能の内実は  

けっして固定不変のものではなく︑国家の成員たるひとびとの思想と知性の成長と社会的・経済的構造の変遷と紅  

よって凍えず変化してゆくこ 

らそれと共に変質してゆくことを意味する︒  

わたくしは他の機会において︑人間生活における共同という事実がその属性とするところの山般的強制力につい  

︵2︶   て論じた︒およそ共同体であるかぎり︑その共同なる事態は必然的紅強制を内在的な要因とするものであり︑この  

車実がなければ︑もともと共同そのものが存立しえないという理解である︒問題は︑その強制力の性格︑それの基  

調がいかなるものであるかにかかわる︒国家が′一つの共同体であるかぎり︑そこにはつね紅強制力が塵調となるこ  

との事実ほこれを否定しうべくもないが︑そのような強制力に基礎をあたえる現実がいかなる関係をもつか︑また  

その強制力がなにに向って発動するか︑ここに歴史的な国家の性格規定がかかって存する︒このような論理は︑国  

家を形成する意志的・自覚的・行動的な成員が︑国家のありかたに食いして積極的に作用しうる可能性を予定して  

おり︑それは国家の職能に変化をあたえ︑そして国家の性格そのものを変質させてゆく推移を含むものである︒  

︵1︶ マッキィプアー︑前掲書︑三八七頁  

︵2︶ 拙稿﹁政策主体の問題﹂︑本誌常二七巻第二号  

〃 ﹁マルクス主義の国家論﹂︑本誌第二八巻第仙骨   

国家の職能   二三五︶ ニー   

(22)

件︑文化的所産などの対象を取上げ︑その変遷のあいだから時間的な関連を見いだそうとする方向もある︒   

社会生活の歴史的推移をいかに理解するにせよ︑その動向につらぬかれる事実として仙般的に理解せられる一つ  

のことは︑人間の生活がたえず計画性を推進し発展させてきたことである︒人間の生活が単に生物としての本能的  

な領域だけ紅局限されず︑特に人間の生活として経営されることの特質にほ︑経営が本来目的行動であり︑意識的  

︵1︶  

な計画性をもつことにあるといわれよう︒生活経営には︑つねに将来軋たいする予測が予定されておるゆえ︑そこ  

紅ほ必ずや現在から将来にむかっての時間的関連が考慮されていなければならず︑そのような時間的構造を前提と  

して現在における場所的な塵活の構造体系をもたなければならないのである︒人間生活の動向には︑この計画的配  

慮の発展拡充が質してみとめられる︒   

この事実は共同体としてもまたそのまま紅認められる︒国家が国民生活の共同体にむかって︑政策主体としてそ  

の職能を担当するとき︑そこにはつねに計画性が基礎紅なければならない︒けだし政策ほ︑いうまでもなく目的に  

た′いしての実践行為だからであるて国家が政策主体として釘画者であるということは︑いわゆる計画経済というよ  

ぅな特殊の経済体制についてだけこれをいうのでほない︒共同社会の経済体制がいかなるものであれ︑すべての政  

策の実践という事実が本来計画性にたつものであることを指すのである︒それゆえ国家職能の遂行ほ︑つねに仙定  

の計画にもとづくものであり︑共同体としての人間生活も︑そのような計画性をたえず発展拡大してきたものであ    人間の社会生活を長い歴史の動向に沿ってなが也るとき︑それぞれの視角から︑あるいはこれを発展として︑あ   るいはこれを進化として︑時にほまた反復としてなど︑種々に把握せられる︒さら軋また生活の様式︑態様︑藷泰∵   第二十九巻 第二骨  

九 社 会 の 動 向   ︵一三六︶ 二二  

(23)

ることが認められる︒現段階紅おいての国家の福祉的職能︑それは福祉国家をかかげるものにおいてさえ︑現実に  

ほほるかにその究極的目標から距離を保つものでほあるが︑それにもかかわらずそのような国家職能がしだいにそ  

の比重を加え︑関心を深めてゆくことの事実は︑要するに計画性の深北とみてよい︒社会保障の負担がしばしば国  

防費等との対立において問題となるとき︑このことは山面において社会公共的支出への抵抗を物語るものであると  

ともに︑他面においてほそのような抵抗をひき起すかぎり︑そこに財政的支出とし七の比重の増加を思わなければ  

ならないのである︒それゆえこのような国家職能についての計画性が過去の動向に見られるように︑将来紅おいて  

も同じ傾向をいよいよ強化拡充してゆくものと想定するならば︑それは究極紅おいて共同体としての国家の体制そ  

のものを全体としてこの計画的構造へと発展せしむべきことを思わなければなるまい︒その場合社会成員の生活保  

障についても︑伝統の個人の自己責任原則はいよいよその基礎を弱められ︑それに代って社会全体による生活保障  

が原則として国家職能のうちにその地位を拡大してゆくことが考えられよう︒それによって国家そのものの性格が 

変質されてゆくことを知るのである︒   

︵1︶ 人間生活の経営が計画性の発展拡充として山貫的に理解できるという考察については  

拙著﹃経済生活の本質﹄ 二七〇頁参照  

国家の職能   ︵小三七︶ 二三   

参照

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