慶安二年頃「弘前古御絵図」(弘前図書館蔵)
はじめに
一九八〇年代に入って'近世都市の研究が従来の城下町研究の枠
組みから離れた、所謂「近世都市研究」として発展を見たことは'
周知の事実である。そのなかでは、町自治、町民結合のありかたな
ど様々な視点からの問題提起がなされ、その点では今までにない研
究成果を多‑生み出してきた。しかしそれが主に幕藩体制下におけ
る江戸・大坂・京都など、所謂三都に重点を置いて蓄積されてきた
ことは否めない事実であり(症‑)'各地方における主要都市の研究
が'それに追い付かないという実情があることも認識してお‑必要
があろう。
それにはさまざまな原因が考えられるが'1つには絵図史料が巨
大であるため'それを閲覧することが容易でな‑'また閲覧する度
に当該史資料が破損したり'もし‑は付等が剥がれたりすることに
よって保存上の問題が生じてきたことがあげられる。そのため保管
者側が研究者に対して'当該史資料の公開を渋りがちになったので 若干の解説と復元
長谷川成一
ある。しかしこれは保管の任に当たる側にとっては当然のことであ
り'その点ではやむをえない事情があることを'筆者は十分に承知
しているつもりである(現に本稿で取り上げる「慶安絵図」も'破
損の進行を考慮して閲覧停止になっている)0
このような現状を克服する一つの手段として、我々がなし得るこ
とは'貴重を絵図史料を碗刺して学界に提供することであり、研究
者の共有財産とすることである。すなわち原史資料をその都度ひろ
げることな‑'絵図の閲覧ができるような状況を作り出すことなの
である。それによって史資料破損の進行を防止することが可能にな
り、ひいては文化財の保護に多少なりとも寄与することができるの
ではないかと思われる。なお北東北地方にあって'右の観点から初
めて近世初頭の絵図の復元を試みたのが'﹃本荘市史﹄史料編Ⅰ上(本
荘市一九八四年)に掲載した慶長末l花和初年にかけての「本荘
城下絵図」であった。
本稿にあって取り上げた慶安二年(一六四九)頃と推定される「弘
前古御絵図」(以後'「慶安絵図」と略称する)は、近世前期におけ
五三
378
る北奥地方の中核都市であった、「弘前」を考察するうえで欠‑こと
のできない史資料である。それのみならず、同絵図が城下の各町人、
職人の職業、稼業、屋号などを網羅していることを考慮すれば、こ
れは仝‑ほかに例を見ない'全国的にも極めて珍しい絵図であるこ
とが建築史を始めとする各方面の研究者より指摘されている。
本稿ではこのような歴史的にも重要な意義を有する当該町絵図を
復元し、若干の解題とデータを付すことにした。この作業を通じて
筆者は、近世都市研究の前進にいささかなりとも貢献できるのでは
ないかと考えている次第である。
注‑近年、近世都市図の重要性がとみに認識されてきており'その関係
の史料集も刊行されるようになった。例えば江戸に関しては、飯田龍
二・俵元昭﹃江戸図の歴史﹄(築地書館一九八八年)が最近刊のもので
あり、江戸図に関する詳細な論稿が掲載されているOただし絵図自体
は写真版であって'図に書き込まれている文言の解読は困難であった。
「「慶安絵図」についての簡単な解題と若干のデータ
①「慶安絵図」についての簡単な解題
「慶安絵図」は、弘前図書館に架蔵され、津軽家文書に入ってい
る(図書番号は、M55)。﹃弘前図書館蔵津軽家文書総目録﹄(弘前市
立弘前図書館一九八四年)によれば、「弘前古御絵図写一舗' 五四
二丁八×二1五誌=慶安二年二六四九)作成の絵図と推定家
中侍は氏名町家は職業と名前を記入している」(同書二八頁)
とある(なお二一八×二一五とは、絵図の南北が二一八cm'東西が
二一五cmという意味であり'南北に若干長い、ほぼ正方形の絵図で
ある)。このほか、絵図全体に着色が施されており、町名、川名、淵
名などが当該の箇所に記入されて、絵図閲覧の理解を助けるように
なっている。屋敷所持者名は、全て正面入り口及び道路に向けて頭
の文字が記されている(注‑)。
右の証には、同絵図を慶安二年と推定した根拠は示されていない
が、これは、慶安二年五月の寺町大火によって、現在の元寺町を中
心とする一帯が焼亡し、寺町にあった寺院が翌慶安三年に現在の新
寺町へ移転したことを背景としている(注2)。「慶安絵図」には、
元寺町の部分が空白であり、新寺町に新たな町割りが見えないので
(注3)、慶安二年の寺町大火直後の弘前城下を描写したものと推定
したのであろう。右の空白を如何に考慮すべきかという問題がある
が、正保年間の「津軽弘前城之絵図」(内閣文庫蔵)には、該当箇所
に「門徒寺」「天台寺」などの屋敷割がなされており、空白は、恐ら
‑、焼亡直後の状況を描写していると解釈されよう。なお筆者は右
の年代推定に賛成である。「慶安絵図」を元にした十七世紀前期、慶安二年の大火以前の弘
前城下については、長谷川成一編﹃津軽近世史料‑弘前城下史料﹄
上(北方新社一九八六年)に収録した拙稿「弘前城下について」
377
と題した論稿を参照されたい。また同書二五頁の「町絵図の作成」
の項目において、「慶安絵図」以後の弘前における町絵図作成の実態
を簡単に紹介しておいた。これも参考にされたい。
注‑「はじめに」の注Iに掲げた﹃江戸図の歴史﹄二〇‑三〇頁によれ
ば、この屋敷所持者の名前の文字表記で'頭の文字が道路に面Ltそ
こから背後に向かって文字が続き、正面入‑口の位置を示しているの
は'絵図から地図への移行を示すものであり'当時の地図作成技術は'
幕藩体制成立期からかなり正確なものであったと述べている。「慶安絵
図」にも同様のことがいえるのであり、当時津軽藩においても高度な
地図作成技術'測量技術を保持していたことが知られるのである。
注2「津軽編覧日記」(弘前図書館蔵)慶安二年五月三日の条によれ
ば、「弘前横町算盤屋久兵衛宅より出火'本寺町五ケ寺類焼、其外町屋
まて焼失」とある。
注3新寺町の新たな町割りが描かれているのは、万治二年二六五九)
の「津軽弘前古絵図」(弘前図書館蔵)である。万治年間の新寺町と南
溜池7帯の状況については、拙稿「It南溜池の歴史」(﹃弘前城跡南
溜池発掘調査報告書﹄弘前大学丁九八七年)一五・一六頁を参照さ
れたい。 ﹃北奥城下の研究‑「弘前古御絵図」の分析を中心として‑﹄に
あって掲げられている、同絵図に関するデータを一部紹介しておき
たい。なお当該絵図の破損箇所や数え方の違いによって、改めてカ
ウン‑した場合、多少の誤差の生じる可能性が高い。ここでは井上
君のカウン‑した結果を尊重して'例外的に一部手直しした箇所を
除き'殆んどそのまま掲げることとした。あ‑までも城下全体の傾
向を把捉するという観点から'同データを御覧いただきたい。
このたびの復元作業においても'同君の研究を参照したことを御
断りしてお‑とともに'同君に感謝する次第である。
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②「慶安絵図」に関する若干Glデータ
本稿では紙数の関係もあ‑、「慶安絵図」に基づいた分析を行うこ
とはしない。ただし、当該絵図を卒業論文のテーマとして研究に取
り組んだ、本学人文学部人文学科国史学専攻卒業生(一九八四年度
卒業現在室蘭工業高等学校教諭)である井上雅彦君の卒業論文、
表‑「‑みかしら」の城下分布表2屋号の地域分布 五六
茂 鍛 親 土 寺 下 横 八 歳 黒 大 亀 博 荒本 紺 町
森 冶 方 手 町 長 町 幡 主 石 浦 甲労 町 紺 屋
町 町 町 町 町 町 町 町 町 町 町 屋 町町 名
煙 煙 居 居 三 越 居 阿 山」豆 大 煙 布 近 村 志 博 塗 酒 紺 紺 職
草 草 鯖 鯖 国 後 鯖 波 田 腐 坂 草 施 江 田 の 労 師 屋 屋 屋 名
屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 作り 屋 ;屋 屋 田屋 壷号)
藤六 叉 孫 五次 庄 杢 仁 新 小 作 利 四 里 与 長 孫弥 市 長 長左 九 介 作添 七 孟 姓名
兵 蔵 兵 兵 郎 兵 司 兵 右 村 右 右 右 郎 右 左 二 四左 左三 三 太 右 兵 十 二 右郎
衛 衛 衛 兵 衛 太 衛 衛 浄 衛 衛 衛 右 衛 衛 郎 郎 衛 衛 郎 郎 郎 衛 衛 郎 郎 衛 壷
衛 兵 門 信 門 門 門 衛 門 門 門 門 門 門 盃門
近 畿 北 陸 東 北 也方
近 大 長 堺 大 山 伊 大江 津 浜 屋 和 科 勢 坂 屋 山 鳥 狭 前 後 賀 上 石 部 台 沢 田京 富 輪 若 越 越 加 最 黒 南 仙 米 秋 屋号
屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋
7 4 2 1 1 2 4163 1 1 3 5 5 61 1 1 2 2 8 数軒
関 東 九 州 四国 山陰東海 中 国 地方
甲水 川 常 江 長 官 唐 阿 石 尾 三 広 備 但 丹 傭 兵 播 屋。
州 戸 越 陸 戸 崎 崎 津 披 見 張 河 島 後 馬波 前 庫 磨
屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 屋 ち 41 1 1 5 11 2 1 1 31 1 11 2 2 3 4 軒数
表3屋号の地域別軒数二へ「慶安絵図」の復元
瀬 畿 大 日 也域
戸 内 平 本
内 五 洋 海
治 ケ 沿 沿
岸 国 岸 岸
「慶安絵図」復元に際しての凡例を、次に掲げることにしたい。
凡例
表4「寛永末年弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)と「慶安絵図」
屋敷数比較(「慶安絵図」には明家も含み'御小人町の明家三三
軒は小人の中に含んだ)
寺 鷹 歩 小 足 武 町 杜 匠 ノ 人 軽 家 屋
屋 者 侍
敷 衆
‑ 寛
永
五 二 四 二 三 三 四 末
三 四 七 八 〇 六 一 午
( ( (一 (l.( ( (l. 弘
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% . . 八 六 城之絵日リ図
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小 寡慶絵
一 語 讐 豊
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一'本稿では原則として、慶安二年頃「弘前古御絵図」(弘前図書館
蔵)の原本写真を元に復元作業をおこなった。そのほかに復元に
際して参考としたのは'﹃絵図に見る弘前の町のうつりかわり﹄(弘
前市立博物館一九八四年)の絵図写真である。
一、復元絵図は、全体を三三区分に分けて可能な限り忠実にその図
形を模写し、屋敷所持者などを転記した。各分割図は城下の西側
部分から始め北側部分1東側部分1南側部分1中央部分(郭内)
の順で並べ、その図に番号を付した。一部重複している箇所もあ
る。全体図に各図の番号を記入しておいたので、それと対照して
いただきたい。
l、分割図には、各図の番号と方向を示す記号‑十をいれた。
1、分割図は、おおむね同lの縮尺で復元したが、屋敷所持者名を
記入するのに不都合な分割図は、縮尺を替えてある。
一、全体図は、前掲﹃絵図に見る弘前の町のうつりかわり﹄一〇頁
の「木戸の配置し図を拡大して使用した。図中の■▲は、木戸の記
号である。
五七
374
二絵図中の漢字はおおむね常用漢字になおし、変体仮名並びに合
字も通用の仮名になおした〇
二絵図に張られている付篭で、解読可能のものは「」を付して
ほかと区別した。解読不可能のもの、もし‑は復元絵図に記載不
能のものは採録しなかった。
一、原本絵図に一部破損箇所があり、そのため復元作業のできなか
った箇所があったことをお断りしてお‑。破損の箇所は[]で
示した。
二重臣屋敷を始めとする部内(城内)の屋敷には、屋敷の間口と
奥行の間数が記されていたが、解読不能のものもあり、しかも与
えられた紙面のスペースの問題もあったため、このたびの復元図
にはそれらを記入しなかったQ後日を期したい。
373
「慶安絵m凶」△土体m凶
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l+ ( 1 ) Z . ■ 1 ( 7 ) ( 8 川班 ) (
9) (10)≡
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