商業教育における人間形成(二) : 社会的責任意 識を中心として
その他のタイトル "Menschenbildung" in the Business Education (II)
著者 冨山 忠三
雑誌名 關西大學商學論集
巻 5
号 5
ページ 349‑375
発行年 1960‑12‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00021710
ー
︵ 富 山 ︶
社 会 的 責 任 意 識 の 人 間 像 へ の 可 塑 性 経営者の社会的責任の内容
本稿の前段において﹃経営の理想的人間像を描くには︑現実の経営活動の中で︑経営者が共通に経験する矛盾や困難の克服過程 に即して着想し︑何よりも民主主義的経営者としての資格を具えた人物を目標に構想しなければならない︒﹄と述べた︒
ところで社会的視野において考えると︑経営者が共通に経験する現実の矛盾や困難の問題ほ︑経営の諸利害者集団との問題とし て形成され︑義務︑闘争の形で現出するのである︒そこで利害者集団の利害と経営の利害との不調を調整し︑発展的に解決するこ
とが︑現代の経営者に課せられた重要な社会的責任を構成することになる︒
この解決の十全を期するには︑商業の社会性および倫理性を自覚し︑複雑な利害関係を合理的に調整するのみでなく︑利害関係 者の資性︑知識︑技能を結集して社会的に有効に発輝させるような計画性並に統制力をもち︑これを遂行する能力と勇気をもつ経 営者を必要とする︒いわば経営知識︑技能を高い次元において人間の理想︑文化価値と結びつけた立場︑視野から判断しうる人物 でなければならない︒新しい経営の求める人間像は︑そのような形成要素を内包する経営者でなければならない︒これを統合的に
象徴的に言表したものが︑ここに所謂﹁社会的責任﹂の完遂者である︒
商業教育における人間形成口
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ー 社 会 的 責 任 意 識 を 中 心 と し て
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商 業 教 育 に お け る 人 間 形 成 口
富 山 忠
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り 上
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社 会
的 責
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内 容
は ︑
米 国
に お
い て
比 較
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進 歩
的 と
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経 営
者 達
が ︑
こ こ
数 年
来 ︑
講 演
・
論 文 ・ 会 社 の 年 次 報 告 ・ 公 式 声 明 な ど で 発 表 し た も の を 整 理 し 要 約 し た も の で あ る ︒ そ の 中 に は 宜 伝 的 な も の ︑ 現 実 に 経 済 政 策 や
る ︒ とから出発しなければならない︒ 商 業 教 育 に お け る 人 間 形 成 口
変貌しつつある産業社会の﹃新しい組織の出現によって︑われれの﹁理想社会﹂についての観念が変えられるに
至った︒この新しい組織は社会における理想的人間像のみならず︑社会秩序に新しい目標を付与するものであな︒﹄
とドラッカーはいう︒即ち新しい社会機構の下では︑新しい秩序原理︑人間の理想と価値観を規定する哲学的理念
そ れ は 必 ず し も ﹃ か の 忍 び よ る 社 会 主 義 の 結 果 で は な い ︒ 寧 ろ そ れ は 疾 駆 す る 資 本 主 義 の 直 接 の 結 果 で あ る ︒ 真 に 偉 大 な 経 営 者
達 は
︑ 意
識 的
に 哲
学 的
考 慮
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け れ
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︑ 歴
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こ と
が 事
実 で
あ る
よ う
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る ︒
﹄
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ロ ソ
ビ ヤ
大 学
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リ 教
授 著
﹁ 二
十 世
記 資
本 主
義 革
命 ﹂
︶
かかる社会情勢の下に︑経営の理念が新しく生成されたとしても決して不思義ではなかろう︒ただそれが単なる
空想的意識におわることなく︑社会的客観的現実を動かす活動的理念として存在するためには︑何らかの具体的内
容をもった意識形態として具現化されねばならない︒この意識形態を総括的に標識的に名辞したものが︑ここに所
謂﹁経営者の社会的責任意識﹂である︒そこで本稿の当面の課題は︑まずその社会的責任の内容を明らかにするこ
さきにも述べた如く︑社会的責任の意識内容は︑まだ素朴的形態もしくは形成途上のものが多く︑学問的にも統
一的見解に達しているものとは言えないのである︒いずれ時勢の進運に伴い︑次第に実践的に具体化され︑従って
意識形態も明確化されるであろうことは推察に難くないが︑現段階においては右の事情を認めざるを得ないのであ が要求されざるを得ないのである︒
︵ 冨
山 ︶
経営活動に織込み済のものなど玉石混滑であって︑その何れであるかは識別するに困難なものもあろう︒またそれを以て米国経営
者の抱懐する社会的責任意識の最大公約数的なものと断ずることもできない︒更に一般的総括的な責任から派生される細部の具体
的な責任については︑著しく明晰を欠いていることも見逃せない︒
しかしこれを全面的に無価値と貶すのは早計であって︑少くとも彼等のもつ責任意識を組成する内容の相当部分を示すものとみ
て差支えない︒殊に責任ある経営者の公表するものは︑多くの場合︑その経営政策および実行に具現化することを約束させられる
ので無責任な放言は比較的少ないのではなかろうか︒
なお︑ここに採り入れた資料は︑特別のものを除き︑一々その出所を明記しないが︑大部分は次の著書に依拠した︒しかしそれ
を摘取し整理組織するに当っては筆者自らの構想によったので︑その限りにおいて︑文責は筆者にあることはいうまでもない︒
S o c i a l R e s p o n s i b i l i t i e s o f t h e B u s i n e s s m a n b y H o w a r d . R B o w e n , P r o f e s s o r o f E c o n o m i c s , i W l l i a m s C o l l e g e F•Ernest
J o h n s o n o f t h e N a t i o n a l C o u n c i l o f C h u r c h e s , 1 9 5 3
社会的責任の内容を検討するに当って︑その方法が問題となるが︑これについてポーエン教授は﹃経営者の社会 的責任は︑経済的目標との関連においてのみ意味がある︒﹄という︒この見解に従えば︑責任内容を分析検討する には︑目的達成の指標となる諸項目を挙げ︑それとの関連において考察する方法がとられる︒
この方法は責任内容の網羅的摘出にすぐれ︑かつ責任遂行の成果測定にも便宜な方法である︒しかし責任の領域が経営経済的目
標のみならず︑社会経済的目標を志向する方面にも亘り︑余りに広汎に渉り過ぎることと︑よしんば両者の目標が原則的に矛盾な
く一致するとしても︑従って共に経営者に負荷しうるとしても︑その中には︑経営者にのみ負担させることの妥当性を欠くものも
あるので︑それでは却って経営者に対する責任の特有性と緊縛性を稀薄にする虞なしとしないのである︒
商業教育における人間形成口
︵ 富
山 ︶ w
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る ︒
商業教育における人間形成口
そこで私は︑この方法を採らず︑経営者の社会的責任の所在を現実の経営活動の中に求め︑その中で経営者が共 通に経験する矛盾や困難の克服過程に即して着想し︑利害者集団との不調︑調整の責任という視点から︑その内容 を考察せんと試みた次第である︒
しかし︑この方法にも欠点がないわけではない︒特に社会的責任の内容を﹁経営活動の中の矛盾︑困難の克服過程﹂の中にのみ
限定することは︑社会的責任の領域に対する甚大な極限である︒社会的責任行為の中には経営上の矛盾や困難を伴わずして遂行で
きる種類のものもある︒従ってこの方法を採ると領域局限の恣意性が問題になる︒それにも拘らず敢えてかく限定した理由は︑こ
の種の過程に発生する社会的責任が最も経営者に対し特有性と緊縛性をもち︑かつ解決要求の追求度が高いからであって︑諸他の
責任行為は︑よしんば広義の責任内容を形成するにしても︑それらは経営者にのみ負担さすべきものでなく︑社会連帯的な責務に
属する種類のものか︑あるいは特に﹁社会的責任﹂と規定しなくても経営者の常規的活動の中で経営者が当然負担する経営行為と
見倣される種類のものが包含されるからである︒勿論︑それらの領域における責任内容も開示し︑その間の責任の遠近を余すとこ
ろなく表出すれば一層判然となるであろうが︑そうすることは紙幅の限界は別としても︑根本的には本稿の目的によって制約され
るわけである︒ここでは掲題の目的に重点的に責任の所在を定着させることを第一義とするからである︒次に﹁利害者集団との不
調︑調整の責任﹂という視点から着目した理由は︑それが経営者にとって︑対社会的に最も解決を迫まられ︑解決に努力しなけれ
ばならない重責を構成するからである︒それは経営上常規的に発生することであるとしても︑単に企業の収益性原理から処理さる
べきでなく︑また処理しうるものではないのであって︑社会的責任という視点からの解決が要求される種類のものであるからであ
なお︑ここで断っておきたいのは︑社会的責任の内容を検討するといっても︑利害不調の諸現象を網羅的に採り上げるものでな
いこと︑並にその責任の解決方法には論及しないことである︒ここでは経営者の社会的責任の所在を位置づけるため︑いわば社会
的責任の所在を対象的に展開するという目的の限りにおいてのみその内容の検討を試みるのである︒
︵ 冨 山 ︶
四
︵ 富
山 ︶
五
ところで社会的責任という表現からは︑倫理的な印象を強く受け易い︒従って動もすれば企業の収益性原理が後
退して︑社会的公益性原理が圧倒的に表面化したような錯覚をおこし易い︒しかし内実は︑後述するように決して
経営の収益性を無視するのでも軽視するのでもない︒寧ろその発展的永続的利益を意図すればこそ︑短期的利益を
犠牲にし︑あるいほ社会的責任の費用を負担するのであるということを看過してはならない︒
﹃ 経
営 者
が 社
会 的
責 任
に 関
心 を
も つ
の は
︑ そ
れ が
社 会
の 利
益 と
な る
と 共
に ︑
長 期
的 に
は 私
的 利
益 に
影 響
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か ら
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事
実 は
︑ 驚
き で
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ば 遺
憾 な
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な い
︒ ﹄
と 割
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た 考
え を
も つ
経 営
者 も
い る
の で
あ る
︒ ︵
ボ ー
ニ ン
著 前
掲 書
六 八
頁 ︶
い わ
ば
そ れ
は 新
し く
組 み
か え
ら れ
た 私
益 追
求 に
ほ か
な ら
な い
の で
あ る
︒
このことは企業の本質からも考えうることであって︑経営が社会的責任の負担に堪えられるのは︑それ自体の存
命を前提としてである︒企業の生命は︑その収益性によって支えられる︒従って企業における経営諸活動の性格は︑
自らその収益性によって規制され︑経営者の行う社会的責任行為も決してその規制から逸脱することを許されない︒
実際において経営者の社会的責任の内容には︑経営自体の直接的利益増進項目と社会的利益増進項目︵間接的利益
そこで問題は企業の収益性と社会的公益性とが競合する場合に︑その間の利害不調を如何に調整するかというこ
とに帰着する︒敷術して言えば﹃経営者の社会的責任の自覚は結局社会的発展と経営的発展とを如何に調整し︑調 ③ 和せしむるかの問題に帰着する︒﹄とも言いうるのである︒
かような見地から社会的責任は︑経営の利害者集団との利害調整の過程において形成されるとして︑各種集団と
の利害関係は必ずしも同質的なものでも同価値のものでもなく︑また経営者に対する責任の追求性も同一ではない︒
商 業
教 育
に お
け る
人 間
形 成
口
増進項目︶とが関連的に絡み合っている場合が頗る多い︒
ら な
い ︒
生産性増強は︑企業にとっては経営の維持発展形式︑ 一般社会に対しては低価良質の商品提供•生活水準向上の その現象の第一に︑世上に喧伝される生産性増強の問題がある︒ め
る ︒
場合が少なくないのである︒
商業教育における人間形成口
そこで集団別の対応関係の検討が必要になる︒ここでは企業の利害者集団を大別して︑企業の内部的利害者集団︑
の各々について考察することにした︒勿論この区別は便宜的なものであって︑実際には各集団間に利害関係の交叉
または輻骸する場合が少なくないのは言うまでもない︒
企業の内部的利害者集団の中で︑集団凝集性の高いものは労務者集団である︒この集団との利害対立は諸種の原
因によって発生するが︑利害衝突の頻度の幣多性と不調の苛烈性とは︑諸他集団のそれと類比できぬほど高く︑し
かも利害認識の困難性と央雑物︵政治性やイデオロギーなど︶の介入が多く︑ために事態の解決が一層困難となる
労務者集団との利害認識の不一致は諸種の現象について現われるが︑ここでは顕著なもの二三を例示するにとど
方途︑労務者には高賃銀あるいは完全瓶用の可能性増大などと好評を以て迎える見解がある︒この見解をとる経営
者は︑生産方法の改善・技術革新・施設拡充︑あるいは天然資源開発などによって生産性増強に盛力することは︑
重要な社会的責任を構成するものであると考える︒
ところが生産性増強による経営者の利益概念は︑必ずしも労務者集団に全面的に劃一的に支持されるものとは限
﹃﹁大量生産原理﹂や﹁オートメーション原理﹂という技術原理は︑国民生活の安定︑生活水準の向上に 経営者集団︵他経営者ーその中には取引関係者を含む︶︑ 一般社会大衆ーその中には消費者を含むーに分類し︑そ
︵ 冨 山 ︶
. . . . . . . .
,
, ヽ
いう者さえある︒ あ
る ︒
︵ 冨
山 ︶
直接に結びつくように思われ易いが︑これは現代の資本主義体制を自動的︑改良的な社会と見倣し︑その社会秩序
の原理の下に構想される幻想である︒﹄と酷評するむきもないではない︒
七
このような見解の相違は賃上げ問題についても起る︒労働組合は賃上げを以て生産能率を高め︑経営活動を旺盛
ならしめるものと考える︒これに対し経営者は︑賃上げ抑制は資本蓄積に必要であって︑経営の合理化︑資本効率
化のため不可欠の要素とみなすという如く︑利益概念をめぐって認識上の差異が隋所に発生するのである︒
元来利益概念自体が難解な概念であって︑決して単純なものではない︒周知のように数値的利潤は会計処理︵資産評価︑減価償
却︑原価配分︑繰延勘定処理など︶によって左右され︑また評価や減価自体が統一的見解に達し難いほど厄介な概念である︒その
上利潤の認識は短期的・長期的・近視的・巨視的観点によっても相違する︒このように認識作業の困難性に加うるに認識主体の最
大 意 欲 が 作 用 す る の で
t U 益
概 念
の 確
定 は
至 難
を 極
め る
の で
あ る
︒
仮に利益の所在が明らかに認識され︑概念化され概念の内容に一致をみた場合でも︑それで以て問題がおわるわ
けでなく︑プロフィット・モーティプ︑最下限利潤の基準︑利潤の極大化︑適正配分等の問題が続出してくるので
経営者の収益動機に対しては︑プロテスクントの見解は別として︑米国の経営者にしてこれを全面的に拒否する
者は殆どない︒要は﹃利潤の処置について責任を自覚し︑その責任を果たせばよいのであって︑動機を問題にする
必要はない︒﹄と割切っている︒また﹃利己主義に基づく方が利他主義や政府の強制によるよりも頼りになる︒﹄と
一 般 的 に 言 え ば ︑ プ ロ テ ス ク ソ ト は 利 益 そ の も の を も 疑 問 視 す る が ︑ 収 益 動 機 に 対 し て は 強 い 反 感 を も っ て い る ︒ 彼 等 の 中 の 若
千の論者は﹁利益﹂と﹁収益動機﹂とを区別してコ笠血は貨幣経済の特質である︒その蓄積および分配に適切な方法が講じられる
商業教育における人間形成口
れ う
る ︒
るのではあるまいか︒ 分裂的思想であると言わねばならない︒
商 業
教 育
に お
け る
人 間
形 成
口
し か し ﹃ 収 益 動 機 に は ︑ 人 間 の 雑 多 な 動 機 や 欲 望 が 直 接 関 係 す る の で 問 題 が あ る ︒ キ リ ス ト 教 徒 は 収
益 動 機 に よ っ て で な く 社 会 奉 仕 的 動 機 に よ っ て 行 動 す べ き で あ る ︒ ﹄ と 言 う ︒ 更 に 慎 重 か つ 思 慮 深 い プ ロ テ ス ク ン ト は ︑ 収 益 動 機
を 全 面 的 に 拒 否 せ ず ︑ そ れ を 生 産 的 な 経 済 に と っ て 不 可 欠 の 刺 戟 と し て 許 容 し て い る ︒ 但 し そ の 場 合 で も ︑ そ れ が 一 般 社 会 の 利 益
と 調
和 を
保 つ
こ と
を 条
件 と
す る
︒ ︵
ボ ー
ニ ン
著 前
掲 書
一 ー
一 六
頁 ︶
右説の如く営利そのものほ否定しないが︑営利動機は否定するという見解はプロテスクソトにのみ特有のもので
はない︒それはフォーディズムにもみられる見解である︒しかし営利動機を否定しながら﹁企業法則﹂を踏みはず
言うまでもなく企業にとって利潤は不可欠なものであって︑それなしには自己の存立と発展ほ期せられない︒従
って﹁営利原則否定論﹂に見られる見解は︑形式的には成立するかにみえるが︑実質的には自己偽隔思想でなけれ
ば認識不足の見解である︒極言すれば企業の目的意識と生態に目をおうて︑理念だけで以てそれを否定するという
寧ろ社会奉仕的行為も諸他の経営活動の中に含めて︑
続的恒久的営利を念う故に︑却って社会奉仕的︑
また新しく衣がえしたネオ・フォーディズムにしても︑古い営利主義︑観念的奉仕主義的営利主義は否定するが︑
本質は持続的︑長期的利潤を狙うものにほかならない︒それは企業の固定化ー資本や労働の固定化などによるーと
いう現代の企業実態に適合するための新しい営利主義の形態︑ さないということは如何にして可能であろうか︒ か
ぎ り
余 り
批 難
さ れ
な い
︒ ﹄
︵ 富
山 ︶
一切を﹁企業の法則﹂ ﹁営利主義﹂の旗下に配属させ︑永
一時的︑短期的犠牲を忍ぶと言う方が︑その深層の思念を言表す
いわば﹁組み替えられた私益追求﹂の新形態とみら
八
定することは容易な業ではない︒
︵ 冨
山 ︶
次に収益動機に関連した﹁利潤極大化﹂の問題に視野を転じてみよう︒
営者の中に漸次増加の傾向があるということは注目に価しよう︒
利潤極大化の過程に生ずる犠牲者の処置との責任問題として把握することができる︒
九 そこで利潤の極大化の問題と打通し
その何れの場合にしても︑営利主義を全然否定した企業を前提とする社会的責任意識でないことは確である︒
収益動機を認め︑利潤の増大を是認するとしても︑利潤の極大化には反対するという見解の所持者が︑米国の経
そこで問題は︑彼等の反対する﹁利潤極大化﹂の意味︑内容である︒反対の対象となるそれを端的に言えば︑営利原則を放棄し
な い 限 り の ﹁ 個 々 の 期 間 的 利 潤 の 極 大 化 ﹂ を 意 味 す る ︒ 従 っ て ︑ も し そ の 対 象 を 多 数 期 間 の ﹁ 利 潤 の 極 大 化 ﹂ と い う こ と に す れ ば ︑
彼等はその反対の理由を失うのではなかろうか︒というのは営利原則の意味を﹃企業の存立を確保すること︑あるいは企業を維持
︵ 藻
利 重
隆 著
﹁ 新
し い
経 営
理 念
﹂ 一
橋 学
会 編
﹁ 新
し い
経 営
理 念
と 経
営 技
術 ﹂
︱ ︱
︱ 二
頁 ︶
と し
て 考
え る
な ら
ば︑この原則の下に意味される﹁利潤の極大化﹂は︑個々期間の利澗を企業の全期間的︑少なくとも多数期間的利潤の極大化の中
で考えるのが至当である︒そのような思考形式こそ現代の企業実態に最も適わしいものと言いうるからである︒
さて利潤の極大化に伴う経営者の社会的責任問題は如何様に把握するか︒それは経営の最下限利潤決定の基準と 第一の問題である利澗の最下限の基準は︑単なる過去計算的な尺度を以て規定するだけでは不充分であって︑現
行の経営慣行との関連において技術的に可能であり︑
かつ目的適合性の条件を備え︑将来必然的に営業に影響を与 えるであろうところの特定行動の利害をも計算に入れたものでなければならない︒そうした意味の十全な基準を設 更に利潤の下限の問題は︑﹁適正利潤﹂の問題として考えることもできる︒
て考えると︑利潤の極大化は否定するが︑適正利澗の獲得は営業原則として是認するという主張が生ずる︒この場
商業教育における人問形成口
す る
こ と
を 志
向 す
る 原
則 ﹄
商業教育における人間形成口
合︑適正利潤の内容が問題である︒もしドラッカーの主張する如き莫大な内容をもつ利潤が考えられるとすれば︑
利潤極大化否定論も実質的にはノミナルなものになってしまう︒即ち﹃利潤の極大化を否定して︑適正利潤の獲得 4 が営利原則だという主張も︑理論的には成立しない︒﹄
責任論も︑その存立の根拠に大きな空虚が生ずるのではなかろうか︒
第二の問題である利潤極大化の過程における犠牲者の問題であるが︑犠牲者の生起に二つの場合が考えられる︒
その一は製造過程の労働強化により発生するものであり︑その二は販売過程の過当競争により発生するものであ
る︒勿論その各利害者集団に対する責任内容は一律一様でないが︑その何れにしても経営者の社会的責任の内容を
この問題では利潤の帰属と配分率の基準が検討されねばならない︒もし利潤の帰属について利害者集団間に相反
する対立が生ずるとー多くの場合そうなる I 問題は複雑になる︒例えば高賃金と企業の資本蓄積ないし資本の効率
化との間に︑あるいは製品価格ーそれは消費者集団の利害に関係するーとの間に競合の生ずる場合の如きその一例
である︒かかる場合には経営者の公正妥当な判決が厳しく要求されるのである︒
なお利潤に関しては︑叙上のほかに法律上の問題がある︒法律上の問題は︑労資間に提起されることもあるが︑
ここでは出資者なる利害者集団︑即ち企業内部の第二利害者集団︵株主︶との法律問題に限定することにする︒
法律上の責任問題は︑株式組織でない経営︑会社組織であっても経営と資本とが分離していない場合には比較的
単 純
で あ
る ︒
次に利潤に関する責任問題として︑適正配分の問題を採り上げよう︒ 構成するものたるを失わない︒ ことになる︒従って利潤の極大化反対を内容とする社会的
︵ 冨 山 ︶
1 0
︵ 富
山 ︶
さきにも述べた如く︑利潤の認識は短期的︑長期的観点によって差異を生ずる︒実際において短期的観点からは︑
株主の利益にならないか︑あるいは利益の削減になるような経営決定を︑敢えて行う会社が最近決して少なくない︒
しかもその傾向は次第に増大する︒極言する者は﹃会社は株主の利益のために存在するという見解は︑もはや支持 し難くなり︑社会は従業員もしくは消費者の利益の保護を要求する権利がある
3
仮令それによって会社の財産権が
削減されることがあっても﹄と言い︑また﹃社会の経済的集団たる企業は︑限定した意味においてのみ私有財産で
⑥ ある︒﹄とも主張する︒
現実の問題に当面して経営者は︑通常合理的かつ必要と認められるもの以上の︑また一般に承認される以上のものに︑社会的責
商業教育における人間形成口
件 は
割 合
に 少
な か
っ た
﹄ ︵
ボ ー
ニ ン
著 ︑
前 掲
書 ︑
在来の法律では︑経営者は株主の利益の保護増進を委託されたものと解されている︒従ってこの委託に反する社 会的責任行為は︑信託の侵害であって︑違法行為としてその権利は認められない︒その種の行為の有効性は法的に
疑問視されるのである︒
右の見解は法文解釈としては正しい︒しかし従来経営者が任意に行った社会的責任行為は︑多くの場合︑黙認さ
れたような形で推移してきた︒
﹃五十年以前なら法的に疑問視され︑あるいは越権行為と見倣されることが︑今日では常規的な行為となり︑社会的好評をうる
ため︑あるいは従業員の士気を鼓舞し︑能率を上げるために必要とさえなってきている︒社会的責任行為のうちで︑経営内部の例
えば年金制度・厚生施設等については︑法律も世論も反対しない︒ところが社外への社会奉仕的行為に対しては︑法が承認するの は寄付行為の場合に限る。寄付行為に疑問があれば、法は企業の性質・事業の性質・所在地•寄付の種類·用途・営業との関係な
どを勘考して︑その正否を決定するが︑多くの場合法は黙認の形をとってきた︒そして米国では︑これに関して法廷で争われた事 固
ー ニ
五 頁
︶ フ
ォ ー
ド 会
社 対
ド ッ
ヂ ブ
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会 社
の 法
廷 論
争 の
如 き
は 稀
例 で
あ る
︒
当って良識的判定を下すことは至難な場合も生ずるであろう︒ の行為の公正性並に妥当性の判定に困惑することから生ずる︒
商業教育における人間形成口
そこには複雑な経済事情の分析︑
任 を
と ろ
う と
は し
な い
︒ そ
こ で
そ の
限 度
内 の
社 会
的 奉
仕 行
為 と
な る
わ け
で あ
る が
︑ そ
れ に
法 的
に 是
認 さ
れ る
行 為
と 否
認 さ
れ る
行 為
と が
生 ず
る ︒
しかし両者を区別する明確な基準を設定することは困難な場合が多い︒従ってその間に処して経営者は問題解決
企業に対する利害者集団の第二の︑そして企業外部に所在する集団は経営者集団である︒この集団に対する経営
者の社会的責任は︑通俗にいわゆる﹁商業道徳﹂の名の下に総括される性質のものである︒即ち広告および販売上
の誠実・契約の履行・競争の公正・詐欺横領の排除等がそれに該当する︒
経営活動における倫理遵守の重要性を否定するものは︑おそらくあるまい︒それにもかかわらず︑これが実行に
成果が期待するほど挙らないのは如何なる理由に基づくのであろうか︒
加うるに伝統的倫理学が 判断の困難があ ここではその実行の困難性を観念的面と経済的面との二面から考察しよう︒第一の観念的困難性は経営者が自己
る︒また終局的には経営者の知識経験を統一する意志的あるいは知識体系たる倫理観や価値観に︑更にその基底を
なす人世観•世界観にえんげんするイデオロギーに係る困難性がある。『倫理は正邪の判断を下す場合のみならず、 F 如何なる価値の観点から問題を考えるべきかを決定するに当っても必要である︒﹄から︒
進歩的今日の時代に︑適切かつ合理的指導性を失いつつあると言われるに至っては︑経営者がこの種の責任遂行に
第二の経済面における困難性は︑この種の社会的責任行為が︑経営者に諸種のハンディキャップを負荷させるこ に重大な責任を負担しなければならない︒
︵ 冨
山 ︶
︵ 冨 山 ︶
﹃そのような迂路をとらずに︑寵接に独占利潤を削除 とである︒例えば市場の競争場裡において︑各経営者が同一歩調で経営倫理を守らない限り︑これを遵守する者は
そこで︑もしその責任を遂行し︑なおかつ成功する業者がいるとすれば︑それは独占的企業の経営者だけである︒
しかしそれは独占市場における利益で以て社会奉仕的費用を賄うに過ぎないのであって︑その独占的利益は︑
ば公衆より搾取したものといえなくはない︒極言する者は︑
とさえ言う︒
い わ
する規則を設けるか︑更に競争を激化させて︑その搾取分を社会に返還させる方が︑はるかに社会の利益になる﹄
尤 も 右 の 見 解 に 対 し て は ︑ 次 の よ う な 反 論 も あ る ︒ ﹃ 現 代 の 市 場 は 多 少 の 差 こ そ あ れ ︑ 不 完 全 競 争 が 横 行 し て い る ︒ 表 面 的 に は
競 争 が 中 止 さ れ て い る か に み え る が 潜 在 的 に は ︑ 製 造 方 法 や 製 品 の 形 で 競 争 の 行 わ れ て い る の が 常 態 で あ っ て ︑ 完 全 競 争 の 形 成 は
社 会 的 に も 技 術 的 に も 困 難 で あ る ︒ 従 っ て 競 争 が あ る が た め に 社 会 的 責 任 の 遂 行 が 阻 止 さ れ る と い う 立 論 は 全 面 的 な 真 理 と は な り
得 な い ︒ ま た 独 占 利 潤 は 社 会 的 費 用 の 形 で な く 商 品 価 格 の 形 で 返 す よ う に 法 的 規 制 や ︑ 競 争 の 強 化 を 行 え と 主 張 す る が ︑ そ れ は 観
念 的
な ら
い ざ
知 ら
ず ︑
実 際
に は
行 い
難 い
︒ ﹄
と 反
駁 す
る の
で あ
る ︒
これを要するに︑経営者集団間の利害不調は企業内部のそれと異なり︑自己の統制力圏外の事象であり︑また多
くの場合冷戦の形で醸成されるので︑これが把握並に調整的処置は甚だ困難である︒
この種の不調に対しては︑各経営者が各別に事態に対する認識と解決への努力を傾注するのみでは如何とも進展
し難く︑経営者集団における多数員の共通の認識的努力と解決への熱意︑実行への執拗が特に要請されるのである︒
惟うに収益獲得に日夜奔走する経営者達が経営者集団間の利害調整にまで責任を自覚し︑その責任遂行に献身的努
力を傾注するには︑尋常一様の道義心を以ては不足であって︑事態の重大性と緊迫性とが充分に意識され︑これが
商 業 教 育 に お け る 人 間 形 成 口 苦しい立場に追込まれるのである︒
責任を自覚し︑これが増進にむかって努力すべきである︒
商業教育における人間形成口
解決への熱意が共通に盛上らねばならない︒これら一連の協力的体制の組成そのものが︑また容易な業ではない︒
その組成への尽力がまた経営者の社会的責任に追加さるべき内容となるのである︒
最後に︑経営に対する利害者集団の第三集団である一般社会大衆に対する経営者の社会的責任について考察しよ
経営と彼等との利害関係には︑直接的なものと間接的なものとがある︒その直接的なものは地域社会との利害関
係 で
あ る
︒
即ち経営活動は直接的に地域社会における環境の健康的︒美的かつ良好の形成に影響を与える︒例えば工場・店
舗の設置・煤煙︑塵埃︑汚水の処置・建物の景観︒看板の用法等は地域社会の環境形成上重大な作用力をもつので
ある︒従って経営者はそれらの事項に対して重大な社会的責任を負うべきである︒
そのほかに地域社会との人間関係にも留意し︑その良好な関係を常に維持するように努力しなければならない︒
即ち地域社会の教育・宗教・厚生等の社会事業に対してほ精神的並に物質的援助を惜んではならない︒ただそれを
どの程度に︑如何なる奉仕をなすかの選定は全く経営者の良識的判断に課せられる問題である︒
次に一般社会との間接的利害関係とは︑不特定多数の利害者を対象とするものであって︑いわば国民の経済生活
全般に関する利害関係を意味する︒
即ち社会の安寧秩序•国民生活の安定・経済的正義の確立等について、経済的槃団の筆頭者として経営者はその
国民生活の絶対的安定性は︑現代の経済社会の如くダイナミックなものには望めないが︑経済的激動を適当に統 う 。
︵ 冨 山 ︶
一 四
︵ 冨
山 ︶
暴力排除・経済的正義の実現等がそのために要請される︒
一 五
制することは可能である︒例えば商品市場の円滑な運営・需給の制度的調整・過当競争の排除︒経済闘争における
﹃今日の如く激しく変貌する産業社会にとって︑国家の安寧秩序は極めて重大な意味をもっている︒国家の安寧秩序は通常政治
体制と関係するが︑経済体制との関係もそれに劣らず重要である︒米国においては︑国民生活の安定性は経済の自由体制︵企業の
自由︑売買・所有・処分・所得の享受・職業および職場の選定・変更の自由︑団結の自由等︶に依存する︒従って経営者はそれを
維持発展させる責任を担うが︑それと同時に自由主義の魅力と信頼性を公衆に認識させる啓蒙運動ないし
P
R を
行 う
責 任
も あ
る ︒
この義務を怠ると官庁の社会的統制の強化あるいは経済体制の変革を惹起する憐なしとしない︒特に現代の如く社会主義・共産主
義的イデオロギーの横行している時代には一層慎重に計画して︑その責任の遂行に尽力しなければならない︒﹄と考えるのである︒
ここに経済的正義とは︑例えば所得分配の公正︑経済的機会の均等︑門閥・人種︒学閥等による差別の撤廃︑生 活環境の改善︑公共事業の充実等における正義を意味する︒
経営者は経済的正義の確立について︑その責任を自覚し︑これが実現遂行に任ずべきである︒
叙上諸項目に亘って社会的責任の所在を︑現実の経済社会の中で経営者が共通に経験する矛盾や困難の克服過程において観てき
たのであるが︑それらの内容は当初に述べた如く︑米国の進歩的経営者が意識的に構成している社会的責任の概念であって︑それ
が最大公約数的なものか︑典型的なものか︑また試案か実現性のあるものかなどの判定は保留したまま幣見したものにほかならな
い︒その意識の新規の故に︑また内容が複雑なために未だ充分に明確な行為計画にまで開化していないものも少なくないとおもう︒
しかし米国では︑それらの試案もしくは試行錯過ないし仮設検証の過程において︑着々経営者の社会的責任の内容に精度と明確
性を加えていくであろうことは推察にかたくない︒
ところで米国の社会的責任論は︑資本主義体制︑自由主義経済を前提とし︑それを基調として展開されたものであって︑アメリ
カの経済社会に代表される︱つの近代社会が選びえた﹁世界観﹂を基礎としていることを看過してはならない︒そこで︑それとは
商業教育における人間形成口
商業教育における人間形成口 前提や立場を異にするものは︑その責任論を如何に解するであろうか︒次にその批判的見解を要約して述べてみたい︒
山経営者を徹底的利潤追求者と見倣す立場ーこの立場からは︑少なくとも利潤に関する限り経営者の社会的責任
論に期待をかけることは︑現実性に乏しいと次のように批判する︒
﹃経営者の口にする社会的責任なるものは︑内実は資本の専制権を欺隔され易い大衆の眼からおおいかくし︑あ
るいは正当化せんがための偽善的︑欺職的洗練された宜伝に過ぎない︒﹄という︒
この批判に対して︑責任論者は次のように反論する︒
﹃その批判には︑若干の真実性は認めるが全面的に肯定はできない︒経営者の利潤追求性は否定しないが︑それを以て直ちに利 潤の極大化的欲求と解することはできない︒経営者は近来︑自己に加わる社会的圧力︵特に組織労働者︑公衆の意見および政府の 圧力︶を鋭敏に感得している︒また経営者は︑社会が自己に予期していることを遂行せんとする意欲も持っている︒現代に受入れ られる成功の標準に従って成功することをも念願している︒そこで長期的収益心から︑その経営政策の中に社会的責任を遂行する 計画を織込む必要を痛感し︑且これが実行に専念しつつあるのである︒決して利澗追求性のみに執らわれているのではない︒従っ てその批判は人間行動の大部分が非公式な社会的圧力によって規制されるという今日の社会現象に対する実証的認識を欠くところ
の 見
解 で
あ る
︒ ﹄
と い
う ︒
図社会的責任行為の困難性を経費の点から指摘する論者ーそれによると社会的責任を遂行するには︑高賃金︑労
働条件の改善︑年金制度︑厚生施設等の企業の内部的費用と対外的社会奉仕の費用とに相当巨額の支出を要する︒
その費用は製品代価の上昇もしくは賃金低下の形で消費者や労働者に転嫁される︒それを利潤の中から負担するこ
I l
経 営 者 の 社 会 的 責 任 論 に 対 す る 批 判
︵ 冨 山 ︶
一 六
︵ 富 山 ︶
とは︑独占事業でない限り一般的には望めない︒従って経費の点から社会的責任を実行することは事実上不可能で
これに対して反論は﹃社会の経済生活の福祉には︑財貨およびサービスによるものと︑生産条件によるものとがある︒生産条件
の改善や経営運行の優秀な機能は︑長期的巨視的観点からみれば︑仮令一時的に財貨およびサービスを犠牲にしても︑社会的には
是認される場合がある︒社会は必ずしも経営者に慈善的行為を要求するのではなく︑収支相償う経営を求めるのであるから︑経営
者 と し て は 両 者 の 均 衡 も し く は 調 整 の 問 題 を 採 り 上 ぐ れ ば よ い の で あ っ て ︑ そ の 解 決 が 経 営 者 の 社 会 的 責 任 を 形 成 す る ︒ ﹄
す る
の で
あ る
︒
③﹁社会的責任論﹂ほ労働運動に対する経営者の意図的攻勢手段であると断ずる立論ー﹃経営者の社会的奉仕主 義︑利害者集団との調整という一連の経営者イデオロギーは﹁社会的責任﹂という形で結晶した︒それは独占企業 に対する世論の反対を緩和し︑経営に対する積極的好意を醸成せんとする
P
R の意識的形態である︒しかも労働者
の心意を制禦する情感による最小の負担を狙う意図をかくしている︒
経営者は︑事毎に︑私企業の利益と公共の利益の一致を主張するが︑その事を洗練した形で表現したものが﹁社 会的責任﹂であるとも言える︒要するに﹁社会的責任論﹂は︑労働者階級との矛盾を緩和する思想的手段であるの みでなく︑労働組合を分裂させ︑労働者をして経営者の立場に立たせようとする積極的意図を持っているのであ
矧 る︒﹄と論断する︒
以 上
述 べ
た 論
述 を
以 っ
て ︑
一応社会的責任の内容に関する論義およびその論評を止めることにする︒勿論右の諸論のほかにまだ
多くの論義のあることは知らぬでもない︒また既述の論義の根拠についても︑必ずしも見解の一致をみるものとは期待できないだ
ろう︒しかしここでは残された商業教育の問題︑即ち新しい経営理念として登場した社会的責任意識が教育理念として昇華するこ
商業教育における人間形成口 あるという︒
一 七
と 主 張
c 特権階級の独占的権利でないことを認識してきた︒
B て諸種の社会改造案を発表した︒また文芸作家︑芸能人がそれを支持する活動を行い︑世論の動きに敏感な政治家 がこれに便乗して社会改革を提唱した︒それらの一連の運動が相重なって民衆の社会意識を革新したのである︒
民衆が集団的力によって個人の運命が決定されるという自覚をもち︑現実にその実力を体験してきた︒その 結果︑組織集団︵労働組合︑農業団体・消費者団体等︶が出現し︑着々勢力を得てきた︒
A
る ︒
う ゜
商 業 教 育 に お け る 人 間 形 成 口
と の
妥 当
性 の
問 題
が 残
っ て
い る
の で
︑ そ
れ に
専 念
し な
け れ
ば な
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い 関
係 上
︑ こ
の 程
度 の
論 述
に 止
め ざ
る を
得 な
い の
で あ
る ︒
社会的責任意識の生成事由 さて社会的責任意識を商業教育の教育理念として採択することの妥当性如何の問題を検討するに当り︑先ずそれ
パックグランド
が発生の動機ないし事由︑換言すればそれが生成された社会的背景について瞥見することは決して無駄ではなかろ 民衆の社会意識を覚醒させたものの︱つは︑社会研究家︑諸調査機関であって︑それらが社会改造を目ざし
科学・技術・教育の進歩によって新しい生活様式の採用が一般大衆に可能となり︑民衆は高度の生活水準が
山民衆の社会意識の革新 経営者の社会的責任意識の生成の事由について︑
I[
︵ 冨 山 ︶
ボーニン教授の指摘する事項を要約して述ぶれば次の如くな
一 八
︵ 冨 山 ︶
れらの思想の流れを方法転換させるか︑自由経済の魅力を民衆に徹底的に認識させるかしない限り︑自由経済体制
特に労働組合運動について言えば︑組合が強大になることは経営者にとっては直接的挑戦となった︒これに
対して経営者は当初は愚劣な抵抗を試みたが︑次第に認識を革めて労働組合と歩調を合せて進むことの賢明さを知
り︑団結権︑団体交渉権等を認める方向に進んできたのである︒
会社組織の巨大化に伴い︑会社の一挙手一投足が大衆の眼に触れ易くなり︑その経営活動が社会に多大の影
響を与えるようになった︒例えば大会社の労働契約・賃金制度等は多少の別はあっても必然的に他会社の団体交渉
等に影響を及ぼすようになった︒従って経営決定には社会的反響を顧慮して慎重な処理が必要になった︒
企業における経営と資本の分離︑経営者の性格的変化は経営者の選任方法︑経営意識︑収益動機などに著し
い変化をもたらした︒如何に変化したかについては見解の一致をみないが︑また変化の大小︑程度についても異説
はあるが︑何れにしても経営のあり方に変化の到来したことは否めない︒
まづ第一に︑経営に専門的有給管理者
P r o f e s s i o n a l s a l a r i e d m a
n a g e r
が出現し経営を実質的に掌握したこと
は︑経営管理の上に諸種な変化をもたらすことが予想され︑また期待もされているのである︒しかし果して彼が在
来の所有管理者
O w n e r m a n a g e r
よりも社会的関心や責任感が強いかどうかは必ずしも保証できず︑これに関す B
A
商業教育における人間形成口
②産業社会の変貌 E が崩壊する危険があると経営者が感知した︒ D
一 九
社会主義︑共産主義の思想並に運動が諸種の形態と方法を以て自由経済制度を脅すようになった︒そこでそ
て経営者の社会的責任意識が発展してきたのである︒ 現 代 の 経 営 者 は 会 社 の 象 徴 で あ る ︒ 従 っ て 彼 の 選 任 は ︑ 会 社 が 社 会 に 自 己 を 表 示 せ ん と す る 意 図 ︑ も し く は 表 現 し な け れ ば な ら
な い と 考 え る 配 慮 の 性 格 に よ っ て 規 制 さ れ る 傾 向 が あ る ︒ そ の 結 果 ︑ 経 営 者 に 選 任 さ れ る 人 物 は 会 社 の 利 害 者 集 団 に よ っ て 受 入 れ
ら れ る 者 に な る 傾 向 が 出 て き た ︒ そ の 意 味 で は ︑ 各 種 利 害 者 集 団 は 経 営 者 の 選 任 に 間 接 的 投 票 権 を も つ こ と に な る ︒ そ こ で 経 営 が
世 論 や 社 会 的 圧 力 に 従 わ ざ る を 得 な い 現 代 に お い て は ︑ 経 営 者 た る も の は 嘗 っ て の 所 有 管 理 者 よ り も ︑ 経 営 に つ い て 広 い 視 野 を も
ち ︑
経 営
行 為
の 社
会 的
連 累
に 諧
調 す
る よ
う な
人 物
に な
っ て
い く
よ う
で あ
る ︒
第二に︑企業主体論と企業恒久論が台頭したことである︒それから﹃経営者は自己を恒久的リレー・レースの一
﹃会社の公器性﹄の思想が展開してきたのであって︑旧来の株主本位の
換言すれば︑企業主体論的思想は︑株主に対する受託者責任性が新観念に移行する過程における階梯的思考形式
であったといえよう︒即ち会社はそれ自体の利益と生命をもつ主体であると考えた場合︑在来の株主本位の観念を
破壊し︑次の発展段階として会社の福祉と同時に利害者集団ー株主集団はその一部分に過ぎないーの利益に対する
責任意識をもつことが可能となったのである︒かくして結果的には︑利害者集団に対し︑ 思想とは相当にひらきのある企業観が形成されたのである︒ 回戦のバトンをもつ走駆者﹄という観念︑ るから︑要領よく行動しうるということである︒ 商 業 教 育 に お け る 人 間 形 成 口
る識者間の意見も一致していない︒彼の社会的責任意識の形態については︑未だ科学的実証的研究が充分に成果を
挙げていないのである︒ただ確言しうることは︑彼は会社との密着関係において所有管理者よりも稀簿な立場にあ
︵ 冨 山 ︶
ひいては一般社会に対し
1 ‑
0
元来︑米国の商科大学は︑
︵ 冨 山 ︶
アメリカ生活にその基盤をおき︑その社会の変化に応じて教育の内容や方法を研究し
一八八一年にペンシルベニア大学が創立されたのが商科系大学としては始めて ︐ であるが︑爾来八十年のオ月を経た今日に到っても今なお商業教育の原理は必ずしも分明でないと言われている︒
従って各大学間に教育の方針や方法を異にし︑例えば専門教育と一般教育との相対的比重とか︑
テ キ ス ー