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著者 河野 稔

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(1)

社会政策対象論(I)

その他のタイトル Object in Social Policy (I)

著者 河野 稔

雑誌名 關西大學經済論集

巻 3

号 1

ページ 1‑24

発行年 1953‑07‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/15843

(2)

社会科学の一部門をなす社会政策論において未解決の問題が極めて多いことは周知のところである︒この意味で 社会政策論を更に発展せしめることが必要であるが︑

社会政策に関する実証的︑

理論的研究を進めるとともに︑他方で一般的︑抽象的︑普遍的な社会政策の本質を究明 する研究が更に進められなければならぬ︒

本稿は社会政策の本質を明かにしようとする一研究であるが︑周知の如く社会政策の本質に関する研究は戦後の 諸論争を通じて発展せしめられてきたが︑未だすべての問題が一般に承認されているわけではない︒乱は社会政策 の本質を究明する一つのてがかりとして︑盗本制社会のみならず階級社会には社会政策が存在していると仮定し︑

階級社会一般を前提として︑そこに内在する社会政策の一般的論理を追求してみることも必要ではないかと思う︒

このような社会政策の一般的論理はそのままの形では歴史上のいかなる特定の階祓社会形態にも存在しえないが︑

同時にそれはいかなる階扱社会においてもその最も基底に内在するものであり︑従つてそれは資本制社会の最も基

社會政策対象論︵河野︶

は

し

が

き

祉 會 政 策 封 象 論

そのためには一方で現実の具体的︑個別的︑特殊的な各種の

(I

) 

河

野

稔

(3)

底的面に内在するものである︒こうレた社会政策の一般的論理を問顆にすることは歴史的た特定形態の社会におけ

る社会政策の特殊性を抹消するものではなく︑

社会における社会政策の特徴を明かにするに役立つのである︒従つて階級社会一般を前提とする社会政策の一般的 論理を究明することは資本制社会の社会政策の本質を把える一つの研究でもある︒

いわれているが︑

この種の規定は政治権力主体の行為や施設を強鯛し︑社会政策の実施過薔を明かにしているが︑

その成立過程にふれていないのみならず︑更に主体と対象との結合に言及していない︒われわれは︑主体と対象と が結合して成立と実施の両過程を有する社会政策を﹁狭義の社会政策﹂と呼ぶ︒このような社会政策が社会政策論 の研究対象であることは明かであろう︒ところで﹁狭義の社会政策﹂の両極に位置する主体と対象とは︑この場合 結合しているが︑これらは如何なるときにも一義的に結合するとは限らない︒或る時点では︑これらは結合してい たいこともある︒しかもそれらは他の時点では結合もする︒いいがえれば︑主体と対象には︑

いるものと結合しないで背景にあるものとがあるが︑結合の有無に拘らず主体として︑また︑対象として︑共通の

本質的特徴を有している︒かくて︑

を綜合して︑

対象的側面のみを考察して︑

さて

︑

社會政策対象論︵河野︶

むしろ一般的論理の特殊た︑歴史的な蝶れともいうべき特定形態の 通常﹁社会立法・行政など各種の方策・施設﹂の総称であると

それぞれ︑結合して

われわれは︑結合しているものと︑結合していたいものとを含めた主体と対象

﹁廣義の結合政策﹂と呼び︑これも社会政策論の研究対象にする︒本稿は﹁廣義の社会政策﹂のうち︑

その本質的特徴を把ぇ︑且つ︑主体と結合する﹁狭義の社会政策﹂における対象の特 徴をも明かにしようとするものである︒

上からの社会政策実施主体が登場していたいことを仮定し︑社会政策における対象的側面︑すなわち社会政

ところで社会政策論の研究対象たる社会政策は︑

(4)

策実施の対象とたるものを﹁社会問題﹂と呼んでぉべ︒したがつて︑社会政策の主体たき場合に︑社会問題が︑い かたる本質を有するものであるかという点を明かにすることが︑本稿の課題であるといわたければならぬ︒ところ も ︑

つね

に︑

で︑社会問題は社会の発展過程とともに現われるものであり︑社会は︑いかなる特定の形態をもつものであろうと

生成期と安定的発展期と浚落期の生涯をもつている︒かくて︑いかなる特定形態の社会問題の本質を

その安定的発展期における社会問題の本質をとりあげることによって︑その社会の社会問

求める場合にも︑

まず

︑ 題の一般的本質を明かにする必要がある︒しかし︑

生成期と浚落期︑いいかえれば転換期においては︑安定期を前 提として明かにされた社会問題の本質は︑そのままの形で現われるのではたい︒転換期の特殊性に対応して︑その

がいかなる特殊性をもつか︑ 社会問顆も特殊性を有するのである︒

かくて︑われわれは︑社会問題の本質を︑第一に︑安定的発展期において考察し︑第二に転換期において︑それ

ということを考察することによつて︑その発展過程の本質を明かにしたければならぬ︒

以下

︑ まず発展期を前提とする社会問題の本質をとりあげてみよう︒

通常︑社会問題と呼ばれるものは︑

﹁失

業問

題﹂

︵末

亡人

・売

淫婦

. . . . .  

︶問題﹂

育の機会不均等問題﹂

きわめて多種多様である

9

いま

︑

﹁医療・衛生問題﹂

社會

政策

封象

論︵

河野

︶

﹁農民・小作人問題﹂

﹁娯楽の差別待遇問顆﹂

﹁漁

民問

題﹂

﹁青少年問題﹂﹁宗教問題﹂

﹁犯

罪問

題﹂

﹁公権の不平等問題﹂

﹁都

市問

題﹂

1

経 清 祉 會 問 題

その一部を列挙してみれば︑

﹁貧

民問

題﹂

﹁特殊部落問顆﹂

﹁飲

酒問

題﹂

﹁性

問題

﹂

まこ ﹁教

﹁婦

人

﹁労

働問

題﹂

﹁人

口問

題﹂

﹁奢修問題﹂

﹁思想問題﹂等々︑

(5)

質は︑総体的・一般的文化の問題であるとされるのであるが︑ 社会問題を総体的・一般的な文化問題の特殊な現象と解して︑

それを経済生活・政治生活・精神生活の主要形態に分

社會

政策

封象

論︵

河野

︶ とに社会問題は︑枚挙にいとまないほど多種多捺であるといわねばならぬ︒

このような社会問顆が︑

定をもつてしては︑

けて考察している

人々の社会生活のあらゆる領域に現われ︑

かである︒けれども︑社会問顆が︑

あらゆる生活要素とともに現われることは明 あらゆる生活要素とともに親われるものであるとしても︑たんにこれだけの規 いかにも社会問題の複雑な雑然とした性格を知

b

うるだけであって︑決してその本質を統一的 に理解せしめるものではないのである︒社会問願の統一的把握のためには︑上にのべたごとき︑多種多様な社会問 願に共通して内在する一般的本質を規定しなければならぬ︒

︑ ︑ テソニースは﹁社会問題の穿達は総体的・一般的文化発逹の特殊た表白である﹂と述べている︒テソニースは︑

規定とたるものではなく︑ たるほど︑社会問題が︑ ︵テシニース・阿部訳・欧洲社会問題の発達二頁︶︒かくてテソニースの見解によれば︑社会問顔の本

いかたる形のものであろう とも︑すべて一般文化の一つの現象であることを何人も否定しえない

0けれども︑

こうした総体的・一般的文化の現象であるといえるのであって︑こうした規定は︑

いかなる社会現象といえども︑

とくに社会問題に対する特殊な また︑総体的・一般的文化という廣大な︑あまりにも漠然とした要因をもつてしては︑

社会問願の本質の内容を明確に規定しうるものではたく︑その内容の規定ができないとすれば︑社会問顆の本質は︑

たんに漠然としたものとなり︑たとい形式的には把握できても︑内容的には明らかにされたい︒

ギリン︑デイトマー︑コルベートによれば︑社会問題は︑万人に対する平等の機会と平等の正義という一般的福

祉

( ge n e ra l w el f a re ) が実現されない現象であるとされている

( J. L . 9i l l in , C .  G•

Di tt me r,   R. J . Co l

ぽ

r t , S oc i a l  P ro bl em s,  

四

(6)

らぬ

︒

p̀

4)

︒

五

︵ゾ

ンバ

ルト

・戸

田訳

・社

会政

策の

理想

一一

九頁

︶︒

ここでは︑社会問顆が一般的福祉を実現したいものと考えられているが︑

容をもつものであろうか︒逆にいえば︑社会問題とは︑

このよ 一般的福祉は万人に対する平等

の機会と平等の正義であるとのべられている︒けれども︑万人に対する平等の機会と平等の正義とは︑いかなる内

不平等の機会と不平等の正義であるということになるが︑

これはたにを意味するものであろうか︒こうした内容の規定を欠く抽象的規定をもつてしては︑社会問題の本質の

内容は明かにたるものではた<︑

決されることにたるが︑逆に︑

祉會

政策

封象

論︵

河野

︶

こと

に︑

幸そらく︑内容規定の問顆にすすむとすれば︑多くの主観的解釈の相違 を惹き起すであろう︒ーひとびとの世界観の相違にしたがつて︑平等の機会と平等の正義の内容は異るといわねばた ヘルトリソクやマイヤーなど多くの宗教的立場をとるひとびとによれば︑社会問題は︑神の批界計画に基づく自

然法や風習的・宗教的世界秩序に対する背反と解されている︒

うた見解は︑社会問題を宗教的視点からとらえるものであるが︑神の世界計画のごときは論証しえないものであっ て︑全く科学の世界から逸脱している︒これらのひとびとの信仰いかんは問題でたいが︑社会のひとびとのうちに は︑信仰する者もいるが︑信仰しないものもいるし︑信仰は元来︑主観的なものであり︑宗教は多数ある

0

宗教的世 界秩序や自然法からの逸脱が社会問題ではたい︒けだし︑もしそうだとすれば︑信仰や宗教によつて社会問題が解

それによつて社会問題は一層紛糾し︑宗教上の対立は︑社会を不和と闘争にみちび く恐るべき力をもつているのである︒

ということができよう︒ アソトソ・メンガー

(A

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en

ge

r,

 

18 41

  

19 06 )

は︑いわゆる私有財産法が全労働牧益権︑

権を保証しえたい点に社会問題の本質をみいだしている︑

生存権および労働

︵ア

ント

ン・

メン

ガー

・森

戸訳

・全

(7)

社會政策対象論︵河野︶

法の改正またわ変革によつて︑

一刻もはなれることのできない︑最も強い︑最も恒常的・基本的なも

労働牧益権史論ニー

1 1

頁︶︒この見解は︑事実︑社会問顔の本質の一面を鋭く指摘したものであり︑法律学者として は︑きわめてすぐれた洞察力を示しているが︑しかし︑かれがこうした財産法を規定する︑さらに冗要な経済生活 の要因を正しく考察していないことは明かである︒もし︑社会問題の本質として私有財産法をあげるならは︑財産

ただちに︑前に

l‑=

I t :  

及した三大権利が確立し︑社会問題が消滅ナるであろうか°極端 た例を用いるならば︑経済生活が不変のばあいに︑財産法だけが変革されたとしても︑その法は︑.とうてい変革の 目的を果しえないといわねばならぬ︒

社会問題には︑

無政府主義においては︑社会問題の本質を︑人が人を支配する政治権力の存在と作用に求めている︒なるほど︑

このような政治権力︑人間の人間に対する政治的支配の一面があることを否定できない︒しかし︑

この要因が最も基本的なものであるかどうかに炭問がある︒政治権力が排除されたとしても︑経済関係が変らなけ れば︑政治権力は再び登場せざるをえない︒つまり︑政治権力は常に経済関係を内容とし︑基底として現われる必 然性を有するからである︒したがつて︑この見解も社会問顆の一面をとらえるものであるが︑

質を看過しているといわねばならない︒

以上のべたごとき各棚の見解は︑

形式的な規定に終ったり︑

いずれも社会問題の本質を統一的に把描しようとしたものではあるが︑たんに あるいは主観的な世界観に基づく恣意的解釈論であったり︑すすんでは︑科学の批界を 全く逸脱するものであった︒また︑法律や政治によって社会問願の本質をとらえる見解も︑社会問題の一つの側面 をとらえてはいるが︑その最も基本的な要丙を看過している点で︑

がんらい︑

平凡な人間の社会生活において︑

その最も基本的な特 こうした見解を全面的に認めることはできない︒

...L.  / ¥  

(8)

のは径済生活である︒そして︑

的な要因である︑

れる

︑

といわなければならぬ︒

ば︑こうした経済的・物質的生活の要因を︑

一切の主観的世界観による解釈論をさけて︑率直に社会問顆を考察すれ 社会問題の本質における最も重要なものとしてとりあげることは許さ とみなければならない︒もちろん︑社会問題は多種多様な生活領域において︑

て現われるのであって︑

何人も否定しえない︒それにもかかわらず︑社会問題が︑

て︑最も基本的には︑経済的・物質的生活の矛盾が内在しているのである︒かくて社会問題は︑

蹟であると特徴づけることができるのである︒

経済社会問題の所在を︑やや詳しく考察してみよう︒びとは一刻といえども経済的生活をとめることはできない︒

そし

て︑

七 最も一般的・基本

これらの生活要素と結びつい この意味では︑社会問題が政治や法律やその他の各種の要因と結合するものであることは︑

いかなる要因と結合している場合でも︑

そこには共通し 第一に経済社会問 ひとは自然に働きかけ︑人々の一定の関係のもとに経済財を生産する︒経済財または労働生産物の生産は︑

生産手段︵労働対象と労働手段︶と労働との結合によって行われる︒

けれども︑社会は消費することを止めえないごとく︑生産することをも止めえたい︒しかも人類の生産は︑たん に一回をもつて終ることはできない︒

り︑死にいたるのみである︒かくて生産された労働生産物は︑

再生産過程には生産の規模があり︑

証會政策封象論︵河野︶ 一回の生産をもつて終るたらば︑

ひとびとの継続的な経済生活は不可能であ

一部は生産手段の更新のために︑

それが大きくなるものを拡大再生産過程︑

一部は最終消費の

ために費されることによって︑生産過程が不断に更新されている︒いいかえれば︑再生産過程が人間の経済生活を 保障するものであり︑また︑生産力がある握度発展した段階では︑それが人間の経済生活の姿である︒ところで︑

それが小さくなるものを縮少再生産

社会問題の本質のなかでも経済生活の矛盾・物質生活の矛盾が︑

(9)

過程

︑

祉會

政策

封象

論︵

河野

︶ それが不変のものを単純再生産過程と呼ぶことができるのであるが︑

も正常た再生産過程である︒けだし︑人類はがんらい種族の発展︑消費力の増大︑危険や災害に対する準備を配慮

するものだからである︒事実︑

人類の歴史の発展をみれば︑長期的には人類の生産力は不断に発展しつつあるから︑

この意味においても︑拡大再生産過程が最も重視されなければならないのである︒

このような拡大再生産過程は︑労働生産物のうち︑社会によ.つて最終消費される部分を超過する剰余生産物を︑

つぎの生産過程に投入することによって可能である︒かくて拡大再生産過程は剰余生産物を増殖する過薔であり︑

これを蓄積する過程である︑

も不利であるという︑

といえるのである︒また︑これが一般に生産物増殖の過福であることは︑

摘するまでもたい°経済社会問題は︑たによりもまず︑このようた拡大再生産過程において現われている︒

さてこの過程の一つである消費過程において︑

ある集団に属するひとびとは︑労働生産物の絶対的消費量におい ても︑また他の集団に属する人々のそれよりも相対的に有利であり︑.逆に︑他の集団の人々が絶対的にも相対的に

生産物の消費をめぐる経済的・物質的矛盾が︑

このようた消費過程における経済的・物質的矛盾は︑

矛盾に基いて現われるのである︒

よび労賃の間の利害の対立として︑

の分配︵または配分︶があり︑その過程において︑

これらのうち︑拡大再生産過極が︑最

いまさら指

きわめて複雑た消費生活を貫いて硯われる︒

分配︵または配分︶と交換の両過程における経済的・物質的 生産物の分配過程における矛盾は︑今日の資本制社会では︑

とりわけ利潤と労賃の対立として硯われている︒こうした分配過程の経済的矛 盾は︑たんに資本制社会においてのみ認められるのではなく︑

あらゆる社会形態において︑

にはたんら生産物を増殖するものではたいが︑それにもかかわらず︑

利潤・地代・利子お

それぞれの形態に固有 ひとしく見出すことができるのである︒交換においては︑社会的

一方の集団の人々が︑価値以上に︑

八

または有

(10)

利に販売すれば︑

えるのである︒

そのことは︑他方の集団の人々が︑価値以下に︑

うな不等た交換・の行われることは︑とりもたおさず︑

または不利に購買することを意味する︒このよ 交換過程における経済的・物質的矛盾と対立を示すものとい 上にのべたようた交換や分配過程の経済的矛盾を継続的に可能ならしめ︑

程に求められたければたらぬ︒ところで︑物質的生産を︑

あらゆる社会形態から独立し︑

在する︑最も簡単な︑抽象的な契機で考察すれば︑それは何よりも先ず︑︑労働過程として把えることができる°労 働過程は︑労働対象と労働手段と労働との結合した過極であって︑

そし

て︑

これらの統一的結合によって生産力を形成する︒

生産力を形成するこれら三つの要因は︑それぞれ菰立していては︑決して生産力を形成するものではなく︑

相互に緊密に結合されることによって︑はじめて生産力を形成するのである︒しかも︑この結合は︑たんなる結合 ではなく︑人間主体の労働が労働対象と労働手段とを︑いわば手段として結合している°換︱

l=

すれば︑労働は生産E

力を形成する積極的要因として︑他の二つは消極的要因として現われるのであって︑人間主体の労働という積極的

力を形成している︒けだし︑

祉會政策封象論︵河野︶ 労働は決して個々に行われるのではなく︑

九

かつ︑その基底をなすものは︑生産過

かつそれらに共通して内 要丙を軸として︑三つの要因が統一的に結合されているのである

0

労働過福は︑このようにして人間と自然との関 係として︑自然的︑技術的過程として生産力を形成するのみならず︑同時に社会関係をも不断に再生産しつつ生産

つねにたんらかの集団として︑社会関係を

結んで行われるからである︒かくて︑

労働過極は自然的︑技術的なものと社会的なものとの二つの契機を含んで生

産力を形成するのである︒

ところで︑歴史上現われる生産過程は単に労働過程の形をとるのではなく︑それは労働過程およびこれと対立す

(11)

社會政策対象論︵河野︶

る価値増殖過程叉は剰余生産物をもとめる過程を統一したものである

0人類の経済活動においては︑

産活動においても︑常になんらかの経済財に対する所有・管理がなくてはならぬ︒また︑

費の増大︑危険や災害に対する準備のために社会の消費以上の剰余生産物を求めている︒ことに︑競争を原則とす る資本制社会においては︑競争に勝っために剰余価値そのものの増殖を絶対的に強いられるのであるから︑剰余価 値の増殖に対する欲求は極めて大きいのである︒しかし︑盗本制社会のみならず︑

ても

︑

上にのべたごとき理由によって︑

生産過程は︑

たんなる労働過程としてではなく︑具体的には生産手段︵労働対象と労働手段︶がなんらかの社会集団 によって所有・管理され︑それと結合される労働力が手段として使われることによって︑

られる過程として現れるのである

0

労働過程においては︑労鋤力が生産手段を手段とするようた関係で︑両者の結

合がみられたのであるが︑

生産物を増殖する必然的傾向を内在していることは明かである︒かくて︑

生産過程という具体的な形になると︑逆に︑

両者を結合することによって︑

生産過程で生産力が形成されるのであるが︑ したがつて生

人類の経済活動は常に消

生産手段が労働を手段とするような関係で︑

しかも不断に剰余生産物を増殖する過程として現われるのである︒このようにして

この場合の︑生産関係は︑もはや労働過程においてみられたごとく︑

生産手段を手段として用いる労働力を所有するひとびとの労働活動における︑人間関係一般ではなく︑労働力を手 段として用いる生産手段の所有と管理をめぐる人と人との関係として現われるのである︒生産手段に対する所有形 態は︑歴史上︑原始共産制︑奴隷制︑封建的土地所有制︑資本制︑社会主義制として現われているじ︑さらに独立 小生産者や自己生産︑自己消費する小規模の封鎖的家族経済もある︒

ところで︑生産過極における社会問題は生産手段を所有する集団とこれを所有しない集団との間の︑

また

は︑

こ

剰余生産物の増殖が企て

一般にいかなる社会制度におい

‑0  

(12)

の一部分を所有してはいるが︑ 的・物質的利害の対立として現われる︒指導し︑管理し︑命令する集団となり︑後者は指導され︑管理され︑服従する集団となるがゆえに︑生産工程において︑必然的に︑両集団の間に経済的・物質的な利害の対立と矛盾をもつ︒さらにまた︑るがゆえに︑を基軸とし︑

経済 生産手段を所有する立場の相異を起点として︑進んで︑前者は生産過程を 生産を管理するのみならず︑生産物を︑剰余生産物を自己の所有のもとにおくか︑支配的に所有する︒

しかるに︑後者は︑生産手段を所有しないか︑支配的力でもつて所有しないがゆえに︑

するのみならず︑生産物を︑剰余生産物を全く所有しないか︑

生産工租で管碑され︑服従 ほとんど所有し得ない

0生産物に対する︑

な所有関係の利害の対立と矛盾は︑当然︑その処理と管理についても現われてくるのである︒このような生産手段

生産

工租

︑

生産物をめぐる、経済的・物質的た利害の対立と矛盾こそ‘•生産過程に幸ける社会問題の

本質なのである︒しかも︑このような社会問題は︑たとえば資本制経済にみられるごとく︑

を所有し︑他方の集団がこれを全く所有しないで︑もつばら労働力の提供者として現われる場合に︑最も典型的に︑

かつ最も明瞭に現われるものである

0反対に︑自己生産・串己消費する封鎖的家族経済においては︑

を所有し︑同時に自ら労働し︑かつ︑

いといつてよ兄0

奴隷制経済においては︑奴隷所有者は一方においていわゆる生産手段を所有するとともに他方︑

奴隷をも生産手段と同一視して所有し︑奴隷は生産手段を所有しないで労働力を提供するがゆえに︑姿本制社会と

は異った性格をもつてはいるが︑

社會政策対象論︵河野︶ 生産物を自ら消費するのであるから︑ このよう

一方の集団が生産手段

自ら生産手段

この場合には社会問題は全く現われな とにかくも両集団間に社会問顆が現われるのである︒中世の農民は自ら生産手段

封建的領主は最も重要な生産手段たる土地に対して︑決定的・支配的な所有者であ

れを決定的・支配的に所有する集団と︑

前者は生産手段を所有す

所有はしていても決定的・支配的な力をもたぬ程度の集団との間の︑

(13)

2  るといつてさレつかえない︒ 社會政策封象論︵河野︶.

り︑土地に対する限り農民の地位は全く隷属的であった︒つまり︑封建領主の生産手段に対する所有は決定的たも のであり︑農民は全く従属的た立場しか占めていたい︒そして領主が生産に対し︑生産物に対して決定的立場をし

め︑労働力を提供する農民は︑生産においても︑

生産物に対しても従属的立場をしめるにすぎたい︒この意味でも︑

中批封建制径済において社会問顆が現われているといわねばならぬ︒次に資本制社会の経済社会問題の所在につい ては何人も異論のたいところであるし︑社会主義社会のそれは︑階級社会を前提とする以上とりあげる必要はなか ろう︒ただ資本制社会から社会主義社会に転換する時期にほ︑社会主義所有形態および生産様式と資本主義的︑単 純商品生産的形態および様式との間に明かに経済的矛盾が認められるが故に︑この段階に特殊た経済社会問題があ 要するに︑経済的・物質的な利害の対立と矛盾は︑剰余生産物を求める拡大再生産過程のうち︑消費・分配・交換・

生産のそれぞれの過程に生起しているのである︒もちろん︑社会制度の異るにつれて︑そのようた経済社会問題の

現われかたは異るのであるが︑

それが他ならぬ社会問頸であり︑

一般に︑階級社会において︑上にのべたごとき経済的対立と矛盾が生起する時には︑

これは階級社会制度がいかなる特定の形態をとるものであろうとも︑共通して内 在するものである︒そして︑経済社会問題という矛盾と対立は︑絶対的にも相対的にも現われるのである︒

経涜祉會問題と努働・勢働力の矛盾

前にのべたごとく︑生産は生産手段と労働との結合によって行われる︒しかるに生産手段は人間の過去労働を体 化したものである︒ゆえに生産物には常にこのようた過去労働と︑

生ける労働とが体化している︒かくて生産物は

(14)

ているであろうか︒ 労働生産物と呼ばれるのである︑ゆえに︑生産および生産物の消費︑分配︑交換過程に現われる経済的矛盾と対立︑すなわち経済社会問題は労働社会問題であるということができる︒いいかえれば︑経済社会問顆は労働社会問題を実体とするものである︒ところで︑B d,

 1

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S 

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1 3

0)  

済社会問顆は︑

のである︒ の使用または消費であるがゆえに︑

のである︒さきに社会問瞑の第一の特徴として︑経済社会問題を指摘したが︑

働・労働力社会問題であり︑後者は前者の実体的規定である︒

経済社会問題の実体たる労働・労働力社会問題を生産過程において明かにしよう︒

なによりもまず︑

社會政策封象論︵河野︶ 労働とは︑

ついで︑生産工程において︑必然的に︑

こうした矛盾・対立の必然的結果と いまや︑社会問題の第二の特徴は労

生産手段の所有と非所有または支配的所有と従蜀的所有という矛盾・対立として︑

前者の指導・管理・命令と後者が単に生産の手段たる労働に従事し︑

カの提供者の立場におかれて︑指導され︑管理され︑服従すること︑最後に︑

して︑前者が生産物を所有し︑処理するに対して︑後者はこれを所有し得ず︑処坦し得ないという対立を指摘した

このような生産過程における経済社会問題の実体として労働・労働力社会問題はいかなる現われ方をし さて︑社会的生産物は社会的欲望をみたレ得る有用性をもっとともに社会的に一定の大いさをもつている

0商品

においては︑前者が使用価値︑後者が価値であって︑商品はこの対立する二つのものを統一的に内在せしめている︒

そして︑前者は具体的︑有用労働という社会的な︑質的な労働の体化であり︑後者は抽象的な︑社会的な︑

を体化したものである︒かくて︑われわれが労働と呼ぶときには︑このような具体的・質的・有用労働と抽象的・量

労働社会問題は︑

じつ

は︑

労働量 労働

さきに︑生産過程における経

労働力社会問題であるといってよい 人間の中にある物的・心的能力の総括たる労働力

(M

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x,

 

K a p i

t a l ,

 

(15)

社會政策対象論︵河野︶

的労働とを対克と統一とにおいて用いたければならぬが︑このばあい︑生産過程の社会問題を明かにするために最 も重要なものは抽象的・董的労働なるがゆえに︑その質的内容またはその担い手たる質的・具体的・有用労働は取り

あげたいことにする︒

生産物は一部分︑

る集

団は

︑

るためには︑

生産手段に含まれている過去労働量を体化している︒しかし︑

において︑そのまま生産工程を通じて︑生産物に移転する︒ところで︑生産手段を所有し︑

これを全く所有したいか︑従陽的にしか所有したい集団の労働力を獲得し︑これを自己の管理のもとに おいて︑生産手段と結合せしめ︑労働せしめるのである︒ところで︑前述のごとく︑労働は労働力の使用であり︑

それは労働力を提供する集団のひとびとから獲得され︑生産手段を所有し︑

て使用されるのである︒しかも︑

このような過去労働量は︑大体 労働力を使用すれば労働力は当然消耗するのであるから︑

または支配的に所有す 生産を管理する集団のひとびとによっ

\ 

これが継続的に行われ つねに労働力は生産され︑補充されなければならぬ°労働力を生産するためには生活資料が必要であ

る︒その大いさは︑

に相当するものであり︑これら生活資料の大いさは︑

労働力所有者および家族の必要とする生活資料と訓練・教育に必要な生活資料とを加えたもの

それを生産するに社会的・平均的に必要とされる労働量であ

さをもつている︒そこで︑ る︒しかもその大いさは変勤するものであるとはいえ︑大体において︑

生産の所有︑指導集団の人々は︑労働力を獲得して︑

使用されるとすれば︑

一定

の時

代︑

一定の社会では︑一定の大い

これを使用する代りに︑労働力提 供者に生活資料を与えるのであり︑後者はこれによっての生存を維持し︑労働力を再生産しうるのである︒かくて︑

もし労働力の大いさに等しいだけの生活資料が支払われ︑かつ︑それに相当するだけの労働量が生産工程において

しかも︑この労働は支払われたる労働なるがゆえに﹁支払労働﹂と呼び︑また︑この労働は︐

一四

(16)

労働力の順当た再生産のためには当然必要とされる労働なるがゆえに﹁必要労働﹂とも呼ぶのでぁる●︑

生産物に体化される労働量は生産手段に体化している過去労働量と︑

合計である︒しかるに︑

して

も︑

に︑前にのべたごとく︑剰余生産物を追求することが一般的傾向であり︑

支払労働以上に剰余の︑支払わない労働をさせたければならぬ︒この労働を﹁剰余労働﹂または﹁不払労働﹂と呼 べば︑剰余生産物を作り出すためには︑剰余・不払労働が必然的に必要とされるのである︒すたわち生産力が発展 して︑社会の消費以上の剰余生産物が作り出されることは︑じつは︑

労働が行われていることにたるのである︒しかも︑

るし

︑

労働力に対しても︑支払つているがゆえに︑

労働生産性の発展を前提としても︑

間が一定であり︑ る欲求が強いほと剰余・不払労働に対する欲求が強くたり︑かくて︑剰余労働時間を絶対的に延長したり︑

かつ労働力の大いさに等しいだけの支払がなされるとしても︑生産力の増進によって労働力の大

いさを小さくして︑必要労働部分を小さくし︑

に対する支払を︑ 生産手段を所有し︑

その大いさ以下に切り下げて︑それだけ支払わたい剰余生産物を大きくしようとしたり︑

はまた︑労働の強化によつて︑従来の必要労働を一層短時間に行わせて︑それだけ剰余部分を増加するといった各

種の.方策がとられるのである︒

このことは︑ と ︑

生産を管理する集団の人々が︑

社會政策封象論︵河野︶ がんらい︑

一五

そうする

それに結合された必要・支払労働量との

労働力を獲得して︑生産を管理・指導するひとびとは︑生産手段に対

生産物にはたんらの剰余をも見出しえないのである︒しかる

剰余生産物を生み出すためには︑必要・

生産工程において必要労働以上に剰余・不払 労働は労働力の大いさ以上にもたる特性を有してい こうしたことは可能且つ必然の論理である︒そして︑剰余生産物に対す

労働時

それによって剰余労働部分を相対的に大きくしたり︑

また︑労働力

あるい

労働力を提供して︑労働せしめられる集団の人々に対して︑労働を︑

(17)

3  社會政策封象論︵河野︶

したがつてまた︑

さらに︑

労働力を管理し︑強制し︑

か つ

︑ 搾 取 す る こ と を 意 味 す る の で あ る

︒ し か も

︑ 結 と し て

︑ 労 働 生 産 物 は 前 者 の 所 有 と 処 理 の も と に お か れ

︑ 後 者 は

︑ た だ 労 働 力 に 相 当 す る

︒ ま た は そ れ 以 下 の 生 活 資 料 を た ん ら か の 形 で 受 け 取 る に す ぎ な い の で あ っ て

︑ そ れ 以 外 の 生 産 物 は す べ て 前 者 の も の と な る

︒ 以 上 の べ た の が

︑ 生 産 過 程 に お け る

︑ 経 済 社 会 問 願 の 実 体 た る 労 働

・ 労 働 力 社 会 問 願 す な わ ち

︑ 労 働

・ 労 働 力 を

→) 

め ぐ る 絶 対 的 か つ 相 対 的 な 対 立 と 矛 盾 の 間 顔 で あ り

︑ 必 要 労 働 対 剌 余 労 働 の 問 題 た の で あ る

︒

註

(1 )

必要労働と剰余労働との対立と矛盾のあり方は資本制社会と封建制社会︑奴隷制社会等によって異るが︑こうした矛盾

が階級社会に一般に存在することは明かである︒この点については例えば

M K .

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s  Ka p

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B,   u.  

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S.  2 4 3 ‑

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ゲルス︑﹁資本綸﹂第一巻に関する批評︵マル・エン全集︑七巻三︑五二六ー七頁︶を参照︒尚︑価値法則の妥当する

社会においては︑とりわけ資本制社会においては︑生産物は商品として現れ︑商品は使用価値と価値を有し︑労働力も

商品として現れる︒したがつて︑労働力の大いさは︑ここでは労働力の価値を意味するものとなり︑剰余生産物を求め

る生壼とは瑚余価値生産のことであり︑剰余価値は具体的には利潤として現れる︒しかし本稿は︑単に資本制社会につ

いてのみならず︑階級社会一般を前提としてのべているのであって︑﹁労働﹂という場合も︑それは賃労働のみならず

いいうべくんば勤労といった意味をもつている︒J

﹁祉會的﹂経濤社會問題

歴 史 上 の い か な る 社 会 も 特 定 形 態 の 制 度 を も つ て い る

︒ た と え ば 古 代 共 産 制

︑ 奴 隷 制

︑ 封 建 制

︑ 資 本 制

︑ 社 会 主 義 制 等 が こ れ で あ る

︒ 社 会 制 度 は 生 産 手 段 の 所 有 を め ぐ り

︑

こ れ ら の 当 然 の 帰 生

産 過 薔

︑ 再 生 産 過 程 を め ぐ る 社 会 関 係 の 制 度 と し て

︑ こ う し た 経 済 関 係 を 基 底 と し て 各 棚 の 生 活 を め ぐ る 社 会 関 係 の 制 度 と し て 現 わ れ て い る

︒ そ し て

︑ い か な る 社 会 現 象 の 研 究 に お い て も

︑ こ の よ う た 社 会 制 度 の 運 動 法 則 が 対 象 と な る ご と く

︑ こ こ で 問 題 と な っ て い る 社 会

一六

(18)

一 七

われていく︒これすなわち︑生産物の外化である︒

( b )

かれの労働力はすでに生産を管理し︑指導する人々に所

問題も階扱社会制度一般を前提として︑その制度の疾患的現象として取りあげられていることはいうまでもたい︒

しかも社会制度は生長し、発展し、転化するものである。(G•

D .  H

.  C

ol e,   Es sa ys i n    S oe ia l  Th eo ry ,  P .  P . 

23) 

のJ J

ような社会制度の運動過程において︑

その疾患として現われ︑社会制度の運動過程上問題とたるのが社会問題であ る︒ゅえに経済社会問題は社会制度の運動過程において現われる社会制度上の疾息的問願である︒また︑前にもふ

れているごとく︑社会問題は決して個人的問顔ではなく︑

題は社会制度上の疾息問顔であるとともに︑社会的な︑人と人との関係の問題である︒かくていまや経済社会問題 は﹁社会的﹂経済社会問題である︒まず問題になるのは︑社会関係において登場する人間の集団の性質である︒生

産手段を全く所有しないか︑従賜的にしか所有しない人間集団は労働力を所有している︒したがつて︑ほんらい︑

人間と労働力は一体化しており︑人間の主体性がある筈である︒しかるに︑かれは生存を維持するためには︑必然 的に︑労働力を剰余生産物の生産過程に投入し労働しなければならたい︒しかるに︑かれはこのような労働におい

て︑じつは︑人間の主体性を喪失し︑疎外または外化に陥らざるをえない︒すなわち︑

( a )

かれの労働によって

作り出される生産物はかれに帰局しないで︑生産手段を所有し︑生産を管理し︑指導ずるひとびとに帰局する︒か れが労働すればする程ますます増加する生産物は︑かれの帰蜀するところとならず︑かれの生活手段はますます失 腸しているのであるから︑かれの労働とみえるものは︑じつは他人に従蜀するものであり︑その労働はすでにかれ

の外におかれた︑他人の管理による一種の強制労働であって︑たんらの自発的なものもたい︑苦しい外的労働とな

つて.いる︒これすなわち労働の外化である︒

祉會政策封象論︵河野︶

( C )

かくて︑その労働は意識的な創造や加工の活動をするという動

つねに社会的︑集団的な問題である︒すなわち︑社会問

(19)

社會政策対象論︵河野︶

物とは異る種族的実在が外化され︑

種族的生活はかれらの手段となってしまう︒これは種族の外化と呼ばれる︒

(d)そして、•これらの結果、人間からの人間の疎外、すなわち、人間の疎外が現われることはいうまでもないの

である︒︵マルクス・経済学に関する手稿・1

八四

四年

・マ

ル=

ど全

集二

七巻

︱︱

︱︱

一五

ーニ

五九

頁︶

︒

がくのごとく労働力を所有し︑労働する人間集団は︑労働することによって︑

かれの労働たるべきものが他人に従蜀する外的・強制的労働となり︑

のから︑種族的集在から疎外される︒かくて︑けつきよく︑

ることになる︒しかも注意したければならないことは︑労働する人間が︑自分自身からと︑

るときには︑じつはかれに対して他の人間集団が対立しているのである︒つまり︑かれと対立する他人との関係の なかでこうした疎外が行われるのであり︑かれに対立する他人の存在︑かれと対立する他人との関係のなかでのみ︑

こうした疎外が表現され︑実現されるのである

0

労働する人間はこの関係のたかで疎外され︑対立する他人に従圏

するのである︒

こうした対立的関係のなかで︑労働する人々に対して︑独立せる︑敵対的な︑強力な人間集団が現われている︒

すなわち︑疎外された労働は︑一方において︑

が労働者に帰局しないで非労働者に帰蜀し︑管理する かれの労働の生産物から疎外され︑

ほんらい意識的・創造的な活動であるべきも

労働するひとびとは︑

それによって︑人間から疎外す

このように対立してい

その直接の結果︑労働する人に生活資料をもたらしつつ︑

主体性を失った労働者を生産し︑他方において︑財産を︑私有財産を生産することとなる︒この場合︑労働生産物

労働が外的・強制労働であるのは︑じつは︑労働を強制し︑

非労働者があるからである

0

労働者をして種族的実在から疎外せしめ︑人間から疎外せしめるのは︑かれに対立し︑

かれから独立する関係にある非労働者たる人間集団の︑強力な敵対的関係があるからである︒

一 八

こうした

(20)

かる社会・集団において現われる人間は︑

このような労働者に対立する強力な人間は全く自由なものであろうか︒

働によって生み出される生活資料の人柊化または︑担い手としてのみ労働者という人間が存すると同様に︑非労働 者は絶対的自由な人間としてではなく︑疎外された労働によってのみ生み出される財産の担い手として︑その人格 化として存在しているのであり︑かくて︑かれは疎外された労働の産物によって︑財産によって規定される存在と ゞヽ

るカ

どのみち︑

たる︒自由なる人格が自由に財産を所有するのではなく︑疎外された労働によって作り出される労働生産物︑ある いは財産を担う人間としてのみ存在するのである︒かれはこのような疎外過程の中に根を下し︑満足を見出してい

かれはこのような関係の下に隷蜀することを余俸なくされざるを得ないのである︒この意味で︑

かれもまた一龍の自己疎外に陥つていることはたしかである︒

かく

て︑

生産過程における労働・労働力を実体とする経済社会問題は︑社会的・集団的な問題であり︑

産関係のもとに隷局し︑ 労働の疎外過程において現われる物的・経済的た︑

かれらはいかに意志し︑行為しようとも︑

存在として親われているのであり︑かかる疎外されたる人間は︑経済的範疇の人格化または担い手としてのみ問題

となるにすぎないのである︒

そして︑疎外された労働過程でみたごとく︑労働者と非労働者との︑社会的関係は敵対的関係であって︑前者は この過程で犠牲をうけ︑被害をうけるものとして現われ︑後者はこの過程の中に根を下し︑満足しつつ︑前者の対 極に位置しているのである

0財産を所有し︑生産手段を所有し︑

社會政策甜象論︵河野︶

一定の生産方法において︑疎外された労 こうした関係の中で︑人間からの疎外に陥った

生産を管理し︑

と満足の役割を演ずる存在であり︑労働者は被害をうける存在である︒

1九 しかも≫か

しかも︑社会的た生 生産物を所有するひとびとは加害

参照

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に帰すべきである︒彼等に偶々それが適したのである︒⁝⁝

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かねてより同感しているところである 1 ) 。そしてこの「人本主義企業システム」の会計的表現

また、上記 の規定 においては、支配会社 には、会社の取締役会 が他 の 会社 の指揮又 は指図に従 って行動 することを常 とす る場合 には、当該他 の会社 を含 む とすべ

       パ レ

公共図書館はもはや「優良顧客」ではなくなった

 日本の社会形態は戦後の経済発展や社会変動と