立脇和夫
目 次 はじめに
I 洋銀(外国銀貨)との対決 1.日米和親条約下の通貨取決め 2.安政の開国と通貨改革 3.万延元年の通貨改革 4.維新政府と新貨条例
5.洋銀と円銀(貿易銀)の対立 6.洋銀・円銀の消滅と条約改正
(以上前号)
Ⅱ 外国銀行洋銀券の排撃 1.横浜通用銀札の発行 2.横浜為替会社洋銀券 3.第二国立銀行の洋銀券継承 4.プラキストン社証券事件 5.外国銀行洋銀券の排除策 6.外国銀行連合のボイコット
Ⅲ 外国銀行宛小切手への対応 1.大坂・江戸の振出手形 2.外国銀行宛小切手 3.新東洋銀行の銀貨券
むすび
Ⅱ 外国銀行洋銀券の排撃
73)
安政5カ国条約は,外国銀行紙幣について 特に規定していなかったため,開港後日本に 進出した外国の商社,銀行などが紙幣(洋銀 券)やそれに類似した証券を発行するところ
となり,これらを排除するために,幕府及び 新政府はさまざまの措置を講じた。具体的措 置の第1弾は,1867年9月(慶応3年8月)
神奈川奉行による江戸・横浜通用銀札の発行 であり,第2弾は,1870年5月(明治3年4 月)横浜為替会社による洋銀券の発行であり,
そして,第3弾は,1874〜76年(明治7〜9 年)のわが国政府による,国立銀行条例をテ コとした外国商社・銀行発行紙幣の排除策で あった。
これらの措置は,必ずしも十分な成果をあ げたとはいえず,最終的な決着は改正条約の
実施 (1899年)まで待たねばならなかった が,わが国当局による施策は全くの徒労に終 わった訳ではない。本節では,安政条約下,
わが国国内で発行された外国の商社,銀行の 洋銀券等を排除するために,わが国政府当局 がどのような努力を払ってきたかを歴史的に 解明することとしたい。
1.横浜通用銀札の発行
安政条約は,外国通貨の国内通用を認めて いたため,貿易取引の決済には,開港当初メ キシコ・ドル銀貨(墨銀)などの洋銀が利用 されていた。しかし,洋銀は重くて運搬に不 便であるうえ,品位鑑定を必要とするため,
開港後間もなく横浜へ進出した外国銀行は,
香港や上海での経験を生かしてt 1864年 (元治元年〉頃から洋銀券の発行を開始し,
やがて香港上海銀行など外国銀行の洋銀券 (図版参照〉が開港場における主要な決済通 貨となった。
しかし,本邦商人は洋銀券に不慣れであり そのために不測の損失を被るおそれもあった ので,幕府や新政府は外国銀行洋銀券を歓迎 せず,これに代わる本邦側の洋銀券発行を企 てた。その最後の試みがt 1867年(慶応 3 年)の横浜通用鍬[の発行で、あった。横浜通 用銀札は,諸藩の発行した銀札と同じく,本 邦銀貨の代用証書であって,決して洋銀の免 換券ではなかった。横浜適用銀札は外国銀行 券を排除し,これに代位させることを目的と
して発行された点に大きな特色があった。
横浜通用銀札の発行を計画した神奈川奉行 がt 1867年 6月30日(慶応3年5月 28日) 幕府へ提出した伺には次のように記されている。
銀札施行仕法之儀に付相伺候書付
去る子年(1864年=引用者)頃より外国人方は 洋銀札を以て取引いたし,尤御役所にては断然
相断り取扱不申御国商人とても不好儀に候得共,
彼之方富商とは身代柄格外劣り居候者共に付,
銀札之請引可差締程之余力は素より無之損金見 居へ居取引いたし,右を強て相制し候得は通商 之道を妨候論に引付,意外之葛藤可差起勢ひ不 得止事場合に付種々勘弁仕候処,横浜地限り之 銀札施行仕候外取計も無御座候哉に付,札壱枚 に付,金五両,弐拾五両或は五拾両と三等丈け 金高拾万両程之引替へ元相備札数は元備高より 超過致候共掛合により三増倍之融通之道相聞け 土地人民救助之一端に相成候は勿論,追て之御 都合可然、御繰合において一廉之儀と被存候間,
早々銀札製造いたし固より御役所取扱にては品々 差支も可出来哉に付,御金用達三井八郎右衛門 申諭同人より内意承届候 ‑ (中略) ‑ 就て は税銀之門より可仕払積御沙汰相成居候。御普 請御入用も多分有之候間差向先御試之為め月々 取立候税銀之内御金繰都合次第 1ヶ月壱万両又 は弐万両ヅツ八郎右衛門へ下け預け其金高丈け 同人預り手形之姿を以て銀札製調致し御普請受 負人等へ下げ渡通用為致候様可仕と奉存候口依 之此段相伺候(句読点=引用者〉ロ
これによると,正貨準備としては月々の関 税収入のうちt 1'""'2万両づ、つ幕府為替所三 井八郎右衛門へ預け入れ,その金高だけ,同 人の預り手形の形で銀札を作成し,通用させ ようとするものであったO 同年7月 16日 (慶応3年6月15日)この伺いは許可された が,神奈川奉行はさらに検討した結果,幕府 扱として銀札を発行する方法は取止め,銀札 拾万両を三井八郎右衛門へ引き渡し,同人方 でその免換準備をそなえ,為替手形のかたち で適用させたい旨及び券種を弐拾両,拾両,
五両,一両の4種としたい旨を, 8月3日 (慶応3年7月4日)に上申した。
この結果, 1867年 9月 5日(慶応 3年 8月 8日),横浜通用銀札が発行されたO しかし
ながら,横浜通用銀札の発行後,日ならずし て幕府が瓦解するに至ったので,洞教授も指 摘しているように,この措置が,横浜商人の 貿易取引にどれほど役立ち,また外国銀行洋 銀券にどれほど影響を与えたかは,甚だ疑問 であるO
2.横浜為替会社洋銀券
幕末に外国銀行が発行した洋銀券は,開港 場における貿易決済手段として次第に重要性 を増してきた。洋銀は重いため運搬・携帯に 不便であるうえ,その授受にあたっては技術 的に難しい品位鑑定を必要としたからで、あるO
貿易の拡大に伴って本邦商人たちも,洋銀券 にかかわりをもっ機会が多くなってきたのは いうまでもない。しかしながら,その流通量 が増加するにつれて偽造券が現われるように なり,その判別は本邦商人にとって容易なこ
とではなかった。
こうした事態を憂慮した通商司(明治2年 2月設置)は横浜為替会社(同年7月設立) に独自の洋銀券を発行させる意向を固めた。
これをうけて横浜為替会社は, 1869年12月 (明治2年11月),下記の洋銀券発行願いを 新政府に提出し,翌70年5月(同3年4月) 認可されて洋銀券の発行を開始した。
為替会社ヨリ通商司へ願(抄) (明治2年11月,日付欠く)
今般外国「パンク」同様於当会社洋銀為替札 (洋銀券=引用者)発行取扱被仰付度,則種類 左ニ
一洋銀札,五弗札,十弗礼二十五弗札,
五十弗札,百弗札,五百弗札,千弗札 右ノ通御製造被成下置当会社へ御下ヶ渡相成候 へノ六市人商人トモ外国人ヨリ横文字手形(小 切手=引用者)受取当会社へ持参候へパ,右手 形当会社洋銀手形(洋銀券=引用者) ト引替相
渡,会社ニ於テハ横文字手形ヲ以テ外国「パン ク」へ持参正洋銀と引替,会社へ積置, 何時ニ テモ会社洋銀手形ヲ持参引替ヲ乞フ者へハ,正 洋銀ヲ以速ニ引替相渡シ可申候。左候へパ,外 国人ニ於テ何様不慮ノ儀有之候トモ,市中商人 トモニ於テ,安穏商業相営由候,右洋銀為替札 当会社へ御委任相成候上ノ、,自然御入用筋ニテ,
洋銀御買上ケニ相成候節ハ,市中相場ニ差響キ 不申様,会社ニ於テ御繰替上納可仕,J3.商人共 ニ於テモ輸出ノ物産少ク輸入品引取多分ノ節ハ,
洋銀逼迫致シ,詰リ,相場騰貴仕候ニ付,其際通 貨ヲ相預り,洋銀ヲ貸渡シ候様致シ候ヘパ, 自 然洋銀相場ノ高下モ無之儀ト奉存候間銘々共尽 力取扱方注意仕候へぺ到底御国益ノ一端トモ 相成,J3.は商人共患害ヲ除キ貿易上取引便理安 穏営業仕俣段,莫大ノ御仁伯ニモ相成難有奉存 候。何卒願ノ通御採用被下度奉懇願候。以上 (句読点=引用者)口
この願書は, 1870月5月13日(明治3年 4月13日)民部大蔵両省の決裁を得て,同 月通商司より次のような通達が発せられた。
通商司ヨリ神奈川県へ通牒 (明治3年4月日付欠く)
御園内商民共各国人ノ洋銀切手致所持候ニ付テ ハ,大ニ洋人ノ融通ヲ為ス市己ナラズ,相場ノ 権モ尽ク彼ノ掌中ニ帰シ,相場騰貴ノ時ハ一分 銀二分金等被持帰,御国ノ正金耗減、ン,御国損 不可計候口依之今般伺済ノ上御国商民便利ノ為,
於為替会社別紙雛形ノ通洋銀為替札来ノレ十三日 ヨリ振出シ施行為致候。尤正銀引換ノ儀ハ明無 差支為致{長。此段致御通達候。以上。
但洋銀為替キレ、千枚,百枚,拾枚三通リニ有 之候(句読点=引用者)口
この願書及び通達からうかがわれるように,
横浜為替会社の洋銀券発行の狙いは,外国銀
行の発行する洋銀券への文拍様というよりは,
むしろ,本邦商人が外国商人振出しの小切手 に不慣れなために蒙むる損害を未然に防止す るところにあったようである。当時,開港場 においては,外国商人は本邦商人から輸出商 品を買取るに当り, しばしば横浜の取引銀行 を支払場所とする小切手で支払っていたが,
本邦商人はこの小切手と銀行の発行する洋銀 券との識別が難しく,不測の損害を被ること が少なくなかったのであるO 例えば,残高不 足や支払呈示期日経過による不渡りや振出入 の帰国による取立不能などの被害がそれであ るO そこで横浜為替会社は,本邦商人の所有 に帰した外国銀行宛小切手を,自社の洋銀券 と交換し前者を外国銀行に呈示して銀貨を取 得し,横浜為替会社に保管することを企画し た。それによって本邦商人の利益を擁護する とともに,銀相場の変動を少しでも縮少しよ うと考えたので、あるO
洋銀券発行の決定に伴い,通商司は差し当 り,百弗札42万ドル,拾弗札8万ドル,合 計50万ドルを製造し, 1870年5月12日 (明治3年4月12日)横浜為替会社へ交付し たO 翌日日,横浜為替会社は洋銀券の発行 を開始したが,これに先立ち,同社は監督官 庁の意を体して,次のような洋銀券取扱規定 を定めた。
〔洋銀券取扱規定(抄)J
1.堅固ナJレ金庫取立候迄ハ正洋銀英十一番
「パンクJ(オリエンタノレ・パンクニ引用者)へ 預ケ置無高切手ヲ以入用次第可請取事
1.外国人ヨリ請取候横文字手形ヲ以引換外国
「パンク」ヨリ正洋銀ヲ請取置振出シ候手形持 参候ハ、速ニ引換可申事
1.洋銀別廉高十万弗備置候間御役所ニ於テ洋 銀急場御入用ノ節ハ一時繰換上納可仕候事
1.市中売込品少ク舶来品引取多分ノ節ハ正金
ヲ預リ置一時洋銀貸渡シ可申事
但利足ノ儀ハ其時宣ニ寄リ取計ヒ可申事 1.預リ洋銀ノ儀ハ月一分ノ利足相渡シ可申事 1.一時貸造シ候洋銀ハ月一分五厘ノ利足請取 可申事
洋銀券は, 1870年5月13日(明治3年4 月13日)より発行され,横浜為替会社が第 二国立銀行へ改組(明治7年7月)された後 も,その適用を停止されることなく, 1885 年(明治18年)5月まで 1日当り 20余万
ドルないし 80余万ドルの流通をみたので あるO
ところで,横浜為替会社にのみ発行が認め られた洋銀券は,各地為替会社発行の金券,
銀券,銭券等の紙幣に比較して,異なった性 格をもっ免換券であり,様式にもそれが現わ れている。すなわち,明治3年発行の洋銀券 (以下,旧洋銀券)では(10ドル券の場合) 表面に「洋銀拾枚」と表示し,左側に「横浜 為替会社において正洋銀引替可申也」と印刷 されている(図版参照)。券面額が「洋銀拾 枚」と表示されているのは, 10ドルを意味し ているO 当時,洋銀(主にMexicanDollar) はすべて1ドル銀貨だったからであるO しか
し横浜為替会社洋銀券はわが国の通貨であ るので,これを外貨建で表示することには抵 抗があったのであるO ただし,裏面に英文で
Promises to pay the bearer Ten Mex.
Dollars at the Bank in Y okohama."とあり,
持参入tMi‑貨手形の形式をふんでし、る。
!日洋銀券は急造りであったためか,紙質も印 刷も粗悪であったO しかも,裏面に Mex.
Dollars"と印刷されていたため,わが国の紙 幣としてふさわしくない,という批判もあった。
このため,旧洋銀券発行後間もない1870年 7月(明治3年6月),オリエンタル・パン クを通じて,ロンドンのボルキン・ベイコン
社 (Perkins,Bacon & Co.)へ,新たに洋銀 券150万ドルの製造を発注した。これが後に 新洋銀券と呼ばれるものである〉。
新洋銀券は,大きさ,様式とも旧洋銀券と は全く異なり,香港上海銀行洋銀券(1866 年発行)にきわめて類似した外観を装ってい
るO すなわち, (5ドル券の場合)表面には 券面額が漢字と数字で「銀銭五枚J$5と併 記され,中央には発行地名に続いて免換文言 が英文で TheY okohama Bank promise to pay the Bearer on demand the sum of FIVE DOLLARS local Currency f or value received."と印刷されているO そして右側余 白には「請取置銀銭五枚之高比手形持参之方 へ何時ニテモ当地之時相場ヲ以テ吃度相渡可 申侯」と記されているO裏面には,券面額及 び「官許大日本横浜為替会社」と大きな文字 で印刷されている(図版参照)。
洋銀券発行業務に対する政府の規制は厳し く,隔日に係官を横浜為替会社へ派遣し,帳 簿類を随時検査させたほか,毎月5日,前月 末の諸勘定報告書を提出させていた。また,
横浜為替会社は洋銀券発行高と同額の準備金 を積立てることとなっていたが,このなかに は,洋銀,本邦正貨のほか外国「パンク」手 形(外国銀行洋銀券)を含めることが認めら れていた。
3.第二国立銀行の洋銀券継承
新政府による,近代的金融制度の確立のた めの最初の試みが為替会社の設立であった。
すなわち新政府は維新後, i民間ノ融通ヲ便 ナラシムル為メ為替会社ニ金銀銭券及洋銀券 ノ箔子ヲ特許シ諸藩ニ於テ発行セシ藩キレ¥其 増発ヲ厳禁シ漸次消却ノ方法ヲ立テシメ」た のである。これに伴って, i明治2年5,6 月以来商業上ノ要地ニ開業スルモノ相継ケリ 市シテ其重ナルモノハ東京,横浜,新潟,西
京,大阪,神戸,大津,敦賀ノ8個所ニシテ 堺,雲伯2州、│其他諸所ニ本社或ハ出張所ヲ関 キシモノアリシモ事業ノ隆盛ヲ見スシテ廃滅 セシモノ多シ」となった。
しかし,当初好調に滑り出した各地為替会 社も,横浜為替会社を唯一の例外として,や がて衰運に向かい,数年ならずして閉鎖を余 儀なくされた。そこで,近代的金融制度確立 の第2弾として打ち出されたのが1872年12 月(明治5年11月),米国のナショナル・パ
ンク制度をモデルとして制定された「国立銀 行条例」であった。
1872年9月7日(明治5年8月5日)国立 銀行条例は太政官によって裁可され,その内 容が明らかになると,横浜為替会社は同条例 に基づく国立銀行への転換を企画し,早くも 10月には「国立銀行条例ニ照準致シ,従来 営業之為換会社改業之義ニ付奉願候書付」
(後述)を紙幣頭に提出した。国立銀行条例 は,国立銀行以外のものが紙幣金券手形類を 発行することを禁止していたため,為替会社 が業務を継続することは事実上困難となった のであるO すなわち,同条例は次のように規 定していた。
〔国立銀行条例第22条〕
此条例ノ外他ニ金券又ハ紙幣ノ類ヲ発行スル 銀行ヲ禁止スノレコトヲ明ニスD
第1節此条例ニ従テ国立銀行創立ノ事ヲ制定 シタル後ハ,何レノ人何レノ方法ヲ不論,他ノ 処置ヲ以テ紙幣金券及適用手形類ヲ行フコトハ 都テ之ヲ禁止スベシロ
第2節故従来官許ニテ金券通用手形類ヲ発行 シテ営業スル銀行又ハ商会ト云ドモ,速ニ其適 用ヲ止メ,之ヲ正金ニ引換ノレノ処置ヲナサシム
剖)
ベシ(句読点=引用者)。
横浜為替会社の国立銀行への転換の主な狙
いは,洋銀券発行の継続にあったが,洋銀券 は洋銀(外貨〉免換券であり,国立銀行に発 行が認められる紙幣すなわち,わが国正貨の 免換券とは性格を異にしていた。このため,
横浜為替会社は,これまでの経緯と洋銀券が 流通している横浜の特殊性を考慮して,当分 の間洋銀券の発行継続が認められることを希 望し,次のように願い出た。
〔国立銀行条例ニ照準致シ従来営業之為換会社 改業之義ニ付奉願候書付〕
当会社之儀ハ明治 2巳年 7月中通商司御建置 之際同司御指図モ有之,為換会社ト称シ社中取 扱規則等モ都テ御指揮ニ従ヒ営業致シ来候処,
今般国立銀行条例御制定相成近々全国一般御頒 布可相成ニ付テハ当社之儀モ是非右成規遵奉イ
タシ国立銀行ニ改業仕度奉存候。尤右改業致シ 候ニ付テ者是迄御免許ヲ以発行イタシ居候金券 ハ速ニ引揚株高其外トモ都テ条例ニ従ヒ更生可 仕者勿論之儀ト奉存候得トモ何分従来之株高モ 少ク殊ニ営業ノ時限モ短ク候間,此際一時等数 之増株イタシ候儀ハ無覚束奉存候ロ乍併横浜港 之儀者地方トモ異リ外国人取引等モ不少其上従 来之手続モ有之候間,此度改正ニ付唯些少之株 高市巳ニテ営業候様ニテハ世間之信用モ相離レ 是迄之丹精水泡ニ帰シ可申ト懸念仕候間,何卒出 格之御処分ヲ以左之条々ノ通御許被成下銀行改 業御聞届被下度此段奉願候(句読点=引用者)
このための具体案として,横浜為替会社は とくに次の3点を強く要望した。
1.名称は「第二国立銀行」とすること 2.資本金は当初40万円とし,追って 1∞万円まで増資すること
3.洋銀手形(洋銀券)は回収しなければ ならない筈であるが,外国人が各種の洋銀 札を発行しているので,ひとり当社洋銀券 のみを回収することは内地人民の不便を増
すので,外国人の札が差し止められるまで,
従来通りの扱いとされたいこと
この要請は, 1873年(明治6年)1月18 日に裁可されたが,景況の不振によって出資 金が思うように集まらず,このため資本金額 を減額して25万円とし,翌1874年8月15 日,漸く第二国立銀行は開業した。同行は,
新しい洋銀券は製造せず,横浜為替会社から 継承した洋銀券の裏面に「改第弐国立銀行」
と朱印を押捺し,発行した。
一方,政府は洋銀券発行制度を明確にする ため, 1874年(明治7年)9月24日, I洋銀 券発行規則J(明治7年太政官布告第100号) を公布した。従来,洋銀券の発行準備に関し ては,わずかに1871年9月(明治4年8月) の「為替会社見廻り心得方書取」に「為替
『パンク札』ハ百五拾万両施行免許有之其代 リ金ハ素ヨリ全備為致可申筈ニ付有金高ト
『パンクJ札施行高ト比較シ若シ施行札高有 金高ヨリ越候節ハ察当可致事」とあるにすぎ
なかった。
これに対して, 1874年の「洋銀券発行規 則」は次のように明確な規定を設けた。
〔洋銀券発行規則)(抄)
第2条其発行高ノ総数ハ百五十万弗ト定メ,
其種類ハ五弗,十弗,二十弗,五十弗,百弗,
五百弗,千弗ノ七種タノレ可シO
第4条 引換用意金ノ高ハ実地散布高ト同数ナ ノレ正弗或ハ通貨ヲ備フ可シD
但該銀行ノ発行紙幣ヲ以テ此用意金へ加フ可 カラズロ
第9条右洋銀券発行を允許スJレニ付,此銀行 ニ於テハ徴信ノ為メ其抵当トシテ実地散布高三 分ー丈ケノ真価アル公債証書又ハ不動産ヲ大蔵 省出納寮ニ預ケ置く可シD 尤モ此抵当物ハ決シ テ銀行本業ノ資本ニ関セズ,完ク株主家産ノ内 ヲ以テ別段差出ス可シロ
但三分ーノ算計ハ半ヶ年間実地散布ノ平均高 ヲ以テ之ヲ定ム可シ(句読点=引用者)口
このように発行制度は最高発行額制限制度 であり,全額準備制度であることを明らかに したので,銀行券発行のための抵当を大蔵省 に預託することも定めていた。
洋銀券発行制度を整備するため,その後,
政府は大蔵省紙幣寮御雇英国人A・A・シャ ンド (AlexanderAllan Shank〉の意見を参 考にして,わが国洋銀券の信認の基盤を強化 するため, 1875年(明治8年)7月27日付
(第5表)
紙幣頭通達によって,第二国立銀行の業務を,
銀行部と洋銀部に分離し,準備金制度を厳格 に監視する措置をとったのであるO
このように洋銀券発行は,国立銀行業務と しては,例外的性格をもつものと認識されて いたが, 1875年7月には,上の措置によっ て一段と厳格なものとなった。明治9年の国 立銀行条例改正後も,洋銀券のみは,正貨及 び外国銀行洋銀券を免換準備とし,さらに発 行抵当として,洋銀券発行残高の3の分1相 当の公債証書または地券を大蔵省へ寄託する
ことが必要とされたのであるO
新旧洋銀券製造及び引渡高
CI日洋銀券〕 (単位・ドノレ)
製 造 高 未 下 付 高 下 付 高 焼 棄 高 散 失 高 百 弗 券 1,440,000 20,000 1,420,000 1,419,700 300 拾 弗 券 80,000 80,000 79,840 160
l仁コ』 言十 1,520,000 20,000 1,500,000 1,499,540 460
〔新洋銀券〕 (単位・ドノレ)
製 造 高 見 本 高 下 付 高 千 弗 券 100,000 2,∞o 98,000 五 百 弗 券 150,0∞ 1,∞o 149,000 百 弗 誤 字 券 300,0∞ 200 299,800 五 拾 弗 券 200,0∞ 100 199,900 弐 拾 弗 券 150,000 40 149,960 拾 弗 券 300,0∞ 20 299,980 五 弗 券 300,0∞ 10 299,990 言十 1,500,000 '3.370 1,496,630 誤交字換券元百弗券 300,0∞ 300,000
ムEコ、 計 1,800,000 3,370 1,796,630
(出典)大蔵省『銀行使覧』明治23年 253‑‑254ページ。
(第6表)
洋銀券平均流通残高及ひ.抵当高 期 中 期 末
っち公債証券
平 均 流 通 高 抵 当 残 高 地 券
ドノレ 円 円 円
1874年下期 230,287 77,000 20,000 57,000 75年上 211,994 77,000 20,000 57,000 下 205,279 100,875 8,775 92,100 76年上 280,017 68,600 8,100 60,500 下 507,190 68,600 8,100 60,500 77年上 3∞,733 68,600 8,100 60,500 下 578,934 68,600 8,100 60,500 78年上 395,492 68,600 19,350 49,250 下 340,273 79,275 18,025 61,250 79年上 368,682 79,275 18,025 61,250 下 433,527 76,999 51,862 25,137 80年上 608,384 77,119 40,563 36,556 下 595.121 77,255 40.563 36,692 81年上 669,696 77,255 40,563 36,692 下 320,833 77,255 40,563 36,692 82年上 328,852 76,609 40,563 35,982 下 377,218 76,609 40,563 35,982 83年上 573,713 76,609 40,563 35,982 下 512,844 76,609 40,627 35,982 84年上 508,996 76,609 40,627 35,982 下 179,110 76,609 40,627 35,982 85年上 286,240 76,609 40,627 35,982
(注)1874年(明治7年)上期以前は不明Q なお,抵当は,洋銀券発行規則第5条に基づいて.第二国立銀行が,
各半期毎の洋銀券平均流通残高の3分のl相当の公債証書または地券を株主から受入れ,大蔵省へ納付したもの。
(典拠)大蔵省『銀行使覧』明治23年 257‑‑261ページから作成。
第三国立銀行は,洋銀券の流通を促進する ため,洋銀券発行規則第5条但書(引換用意 金運用の特例)に基づいて,オリエンタル・
パンク及び香港上海銀行と約定を結び,洋銀 を預託することとした。オリエンタル・パン クに対しては常時 5万ドルを無利息で預け,
日々の溜り合高(1日の間に相手方を支払場 所とする手形類の手元に集まったもの)が5 万ドル以内のときはその交換を要求しないこ
ととした。一方,香港上海銀行へは1872年 11月20日(明治5年10月20日)から日々 溜り合決算のうえ,第二国立銀行が貸になる
ときは年2分の利子を受取り,逆に借りとなっ たときには年5分の利子を支払うこととした。
この彼我の金利負担の格差はそれぞれの銀行 の信用力の差を反映したもので,当時として は止むをえない措置であっ定。
ところが,その後オリエンタル・パンク宛 手形類は次第に減少に向かい,香港上海銀行 との約定と比べて権衡を失していることが問 題となり, 1881年(明治14年)6月に至っ て,第二国立銀行はオリエンタル・パンクに
(第7表)
対して,同年7月以降5万ドルの預託金に年 5分の利息を支払うよう要求した。しかし,
交渉はまとまらず,結局第二国立銀行は約定 を解消し,同年9月14日, 5万ドルの預託 金を全額回収したのである。第二国立銀行が 遅ればせ乍ら,外国銀行に伍して,主体性を 打ち出した出来事として注目に値しようO い ま, 1873年(明治6年)以降の外国銀行預 け金及び,横文字手形保有高の推移を示せば 第7表の通りであるO
第二国立銀行の外国銀行預け金及び外国銀行横文字手形(小切手)保有高
年 月 オリエンタル 六十二番パン
横 文 字 手 形 日 ‑パンク預け ク預け(注)
円 円 円
1873.12.17 220,607 91,284 100,000 74. 6.15 50,000 84,020
12.30 50,α)0 64,135 75. 6.30 50,000 37,470 12.31 50,000 58,575 76. 6.30 78,000 4,425
12.31 50,000 108,063 77. 6.30 50.000 42,879
12.31 50,000 1.611
78. 6.30 50,000 55,994 12.31 50∞o 62,841 79. 6.30 50,∞o 56.011 12.31 50,∞o 50,500 80. 6.30 50,∞o 68,382 12.31 50,000 120,084 17.652 81. 6.30 50.000 51,688 2,585 12.31 25,070 7,042 82. 6.30 22,470 91,200
12.31 66,472
83. 6.30 164,760 14,310
年 月 オリエンタjレ 六十二番パン
横 文 字 手 形 日 ‑パンク預け ク預け(注)
83.12.31 118,695
84. 6.30 81,879 2,997 12.31 280,107
85. 6.30 50,000 12.31
(注)香港上海銀行の別名。同行支居が横浜居留地 62番にあったことに由来する。
(典拠)日本銀行調査局編『日本金融史資料』明治・大正編第3巻昭和32年。大蔵省編『銀行課第一次報告J明治 13 年。『銀行局第二次報告』明治 14 年""'~銀行局第八次報告』明治 19 年。
4.プラキストン社証券事件
1872年12月(明治5年11月)国立銀行 条例が制定されたのを契機として,外国の商 社・銀行が日本国内で発行する紙幣の処置が 問題となってきた。同条例第22条は,国立 銀行以外のものが銀行紙幣(銀行券〉を発行 することを禁止していたからであるO
国立銀行条例制定後間もない1874年(明 治 7年)秋,ブラキストン社証券事件が発生 した。ブラキストン社証券浴,函館在留英国 人ブラキストン (ThomasW Blakistobが 事業資金を調達するために発行した一種の出 資証券であって,洋銀券のような銀貨免換券 ではなく,また通貨として流通させることを 意図したものでもなかった。しかし,大蔵省 では, この証券は日本文字を以て金額を記載 し,かっ請求あり次第引き換えられる以上通 貨である, とみなした。しかも,この証券の 印刷を引き受けたドイツのドンドルフ・ナウ マン社 (Dondorf& Naumann)は, わが国 政府の注文(1870年11月25日)により新 紙幣を製造したことがあり, 1872年11月15
日(明治5年10月19日)付約定書第2条に おいて,同社はわが国紙幣と紛らわしい紙幣 を製造しないことを約していた。
事件は, 1874年(明治7年)夏, ドイツ
駐在外交宮本間清雄から,次のような報告が 大蔵卿へ届いたことによって発覚した。
箱館ニ於テ未詳プラクマトカ申仁(ブラキスト ンのこと=引用者),左ノ図(省略)之知キ銀 行証券之如キ物発行ノ為メ「ドンドルフナウマ ン」社へ押印注文相成候由,猶委敷ハ探索之上 可申上候得共不取敢申上候,右ハ我紙幣トハ異 リ候へ共詰リ人物ヲ害シ候。好商ノ所為ト存候ロ 勿論右社官許ヲ得候テ発行ナレパ子細無之存候 何レニモ怪異ナノレコトニ存候故先ツ右丈当便ニ 申上候以上(句読点=引用者)。
明治七年九月十七日
本間清雄 大隈大蔵卿殿
吉田大蔵少輔殿
これに続く第2信(日本暦9月21日付) によれば,ブラキストン社証券には「円ヨリ 銭」まで数種があり,原文はドイツ領事ベー
ル (Bair)の斡旋で,目下ウィーンのワーゲ ネル博士の下で医学修業中の日本人留学生に,
日本文字の校正を乞うため送付中であって,
未だ印刷には付されていなし」外観は「我紙 幣ニ努髭タル模様ニモ無之」ただちに製造禁 止を命じることもできないが,ブラキストン
ネ
土 CBlakiston,Marr & Co.)といえども,
「官許ナク如此証券ヲ出ス時ノ¥贋札ニ非ルモ 我人民ノ害トナルコト僅々ナラス」と考えら れる, と伝えてきた。
この報に接した大蔵卿は,ただちに本間清 雄宛返書を送り,再度の通報に深謝するとと
もに,なお慎重な調査が必要とみられるので,
「製造禁止等之義ハ追テ当省ヨリ申進迄御申 越ノ通御見合可然存候」と伝えているO しか し製造禁止措置を講ずる場合の根拠として,
日本政府は,かつて紙幣製造方を, ドンドル フ・ナウマン社へ注文した際,次のような取 決めが結ぼれていることを指摘しているO
記
ドンドノレフノーマン社中ニ於テ此約定ノ期日ヨ リ三十年ノ間ハ日本政府ノ為メニ既ニ納メシ紙 幣及ビ此後納ムヘキ紙幣ト商業取引ノ際誤認ス ベキ如ク模様外形等ニ於テ類似セル紙幣ヲ上梓 製造仕間敷,又タ他ノ社中ヲシテ上梓製造スノレ ニ到ラシメ間敷,万一此約定違背ノ事ヨリ日本 政府ノ御迷惑出来候節ハ右社中於必ラズ埼明可 申事ニ承諾仕候也(句読点=引用者)。
ド ン ド ル フ ・ ナ ウ マ ン 社 は1870年11月 (明治3年10月)日本政府の注文を受け,官
ゲ ル マ ン
省札と交換すべき新紙幣いわゆる日耳蔓紙幣 を 印 刷 製 造 し た 会 社 で あ り , そ の 新 紙 幣 は
1874年(明治7年)4月に完納された。また,
上記のように同社は日本政府との覚書により 類似品の製造は一切禁止されている関係にあっ たのであるO
このため,大蔵卿は,函館のブラキストン 社の職業身分等の詳細な調査を,外務省及び 開拓使へ依頼した。これを受けて,開拓使は ただちに調査を行い, 1875年(明治8年)1
月23日付で次のような報告を大蔵省へ送っ て来た。
ブラキストンは画館一横浜一上海聞を航路と する郵船会社を設立せんとする企てを興し, そ の資金として何人にでも正金100円を拠出すれ ば,証券120円を渡すというもので, 12ヶ月を 限り,之が交換を為すべき方法を立てるものと し,証券は何人に譲り渡すも敢て妨げないもの であるD この計画によって生じた利益は各株主 に配当すと雄も,之より生ずる損失はその責プ ラキストン一己にて引請くべし, との条件にて 函館の商人に勧誘せしも,応募者なき有様にて,
その企業成立の見込は之しく,従って証券は未 だ注文はされていない口
一方,外務省は,開拓使の報告から判断し て,プラキストン社証券は,紙幣でも銀行券 でもないが,かりにそうだとしても,横浜に おける外国パンクの洋銀券発行を黙認してい る以上,その発行差止めは困難であろう,と の消極的回答を送ってきた。すなわち,寺島 外務卿は, 1875年(明治8年)3月23日付 大隈大蔵卿宛て書簡で次のように述べている。
箱館在留英商フレツキストン社ニテ金券様ノモ ノ発行之企有之…・・・(中略)。然Jレニ開拓使ヨリ 貴省へ差越候報告書ニ拠レペ紙幣ニハ無之又 銀行ノ証券ニモ無之,郵船会社之資本ヲ興ス為 メ株切手之買者ヲ募ルノ証券ト相見候。抑外人 紙幣又ハ銀行券ニモセヨ日本紙幣又ハ日本銀行 (日本の銀行=引用者)証券ニ類似セザノレモノ ヲ製出スルハ日本政府ヨリ之ヲ差止ノレ特権無之 様被存候。則横浜ニ於テ上海香港パンク(香港 上海銀行のこと=引用者)ニテ洋銀ノ証券ヲ日 本内地ニテ発行候同類例ニ有之,若シ是ヲ禁止 スルノ特権アレパ先横浜パンク之方ヲ最初ニ着 手セザレパ「フレッキストン」ノ方ヲ差止候訳 ニハ難至。然ルニ横浜パンク之証券数年通用シ 来Jレヲ今日頓ニ差止候方策可有之欺,猶貴省ニ