〈隠岐・山陰沿岸の民俗〉近世の隠岐島海運
27
0
0
全文
(2) (9). 寛 永 十 五年 か ら 幕 末 ま で、 松 江 藩 預 か り 地 と し て いた 。 松 江 藩 は、 島 後 の西 郷 に郡 代 を 置 いて全 島 を 所 管 さ せ、 島. (10 ). 前 と 島 後 にそ れ ぞ れ 代 官 を 配 置 し て、 行 政 を 担 当 さ せ て い る。 幕 府 は、 松 江 藩 に全 権 を 任 せ な か った の で、 島 民 は 二重 支 配 を 受 け る こと と な った 。. (11). 派 遣 さ れ る役 人 の乗 船 は、 出 港 に は美 保 関 が 最 も 頻 繁 に使 わ れ 、 島 後 で は今 津 か加 茂 に入 港 す る こ とが 多 く 、 上. 陸 後 は 陸 路 で 西 郷 へ向 か った。 郡 代 ・代 官 の赴 任 や 巡 検 使 の 回. (12 ). 村 の 時 は 、 幕 末 ま で峰 が 使 わ れ た が 、 そ の位 置 が 明 瞭 な のは 島. 前 で 、 知 夫 村 郡 の峰 ・西 ノ 島 嘉 平 山 ・中 ノ 島 崎 の 大 岳 であ る 。. 郡 代 の家 は 上 殿 居 ま た は 上 の 陣 屋 と呼 ば れ 、 建 て ら れ た のは 承. (13 ). 応 二年 であ る と いう 。 代 官 の家 は 下 殿 居 ま た は 下 の陣 屋 と 呼 ぼ. (14 ). れ て いた 。 代 官 所 11 陣 屋 が 在 っ た の は 、 西 郷 の大 城 で、 今 は. シ ョ ツピ ング セ ン タ ー の敷 地 と な っ て い る。 村 数 は、 島 前 が. 十 三 ヵ 村 、 島 後 が 四六 ヵ 村 、 計 五 九 ヵ 村 であ った が 、 島 前 は 全. (15 ). 村 が 、 島 後 は 三 三 ヵ村 が 、 海 に 面 し て い て、 幕 府 か ら 隠 岐 は 俵. 物 の主 要 生 産 地 と 見 な さ れ た。 全 島 の 石 高 は、 寛 永 十 五 年 が. 一 一六 〇 八 石、 延 宝 八 年 が 一 一九 五 四 石 、 貞 享 四 年 が. (16 ). 一 二 〇 〇 九 石、 寛 政 七 年 が 一 二 五 五 三 石 、 明 治 二 年 が. = 一 五 六 三 石 と 、 二 三 〇 年 間 で 千 石 弱 の微 増 と な って い る。 人. (1 7). 口 は、 享 保 六 年 に は 一八 一三 三 人 で あ った も のが 、 明 治 五 年 に. は 二 八 五 三 一人 と 、 百 五 十 年 間 で 一万 人 増 加 し た 。 石 高 が さ し. 82.
(3) 近 世の 隠岐 島海 運. (18 ). て変 わ ら な いな か 、 近 世 中 期 以 降 、 人 口 は 五割 以上 増 え て い るわ け だ が 、 永 海 一正 は、 そ れを 可 能 に し た の は、 海. (19 ). 運 業 の興 隆 であ ると 、 指 摘 す る。 実 際 、 西 廻り 海 運 の寄 港 地 と し て栄 えた 西 郷 地 区 の人 口 は、 近 世 中 期 以降 増 加 し. て いる 。 石 高 は 微 増 と の状 況 のな か 、 身 分 上 、 増 え た のは 誰 か と いう こ と に な る が 、 隠 岐 に は 、 ﹁百 姓 ﹂ と 共 に. ﹁間 脇 ﹂ と 呼 ぼ れ る 零 細 農 が 存 在 し、 既 に貞 享 年 間 に お い て、 西 郷 地 区 に 在 った 矢 尾 ・目貫 両村 の家 数 は 間 脇 が 百. (20 ). 姓 を 上 回 って い る。 間 脇 は無 高 に近 いも のが 多 か った の は事 実 だ が 、 廻船 業 な ど を 営 み、 富 裕 な も のが 居 た と考 え. 鳥 取 ・米 子 と. ら れ て い る。 永 海 の指 摘 ど お り 、 人 口 の問 題 は、 海 運 と 密 接 に結 び つ いて いる と、 判 断 さ れ る の であ る。. (21 ). (22 ). 出 雲 と 石 見 銀 山 街 道 ﹄ の両 書 であ る。 これ に導 かれ な が ら 、 関 連 研 究 を 概 観 す る と、 永 海. 近 世 隠 岐 の海 運 に つき 、 近 年 の研 究 成 果 と し て指 針 と な ってく れ る の は、 前 掲 ﹃街 道 の 日本 史 37 隠 岐 ﹄﹃街 道 の 日本 史 38. (23 ). (24 ). (25 ). 一正 ・田中 豊 治 ・島 根 県 教 育 委 員 会 の前 掲 書 を は じめ 、 桜 田勝 徳 ・山 口和 雄 、 石 塚 尊 俊 氏 、 福 井 県 立 図書 館 ・福 井. 県 郷 土 誌 懇 談 会 、 関 西 大 学 島 根 大 学 共 同 隠 岐 調 査 会 、 北 見 俊 夫 等 々、 鈴 々た る研 究 者 ・機 関 が 言 及を し て いる。 主. な も のだ け でも 、 そ の蓄 積 は、 高 い質 と 量 に達 し て い る こ とが 判 るだ ろう 。 加 え て、 前 掲 ﹃西 郷 町誌 ﹄ を は じめ と. す る地 元 自 治 体 誌 も 、 海 運 の 記 述 に は多 く のペ ー ジ を 割 い て いる。 これ ら を 総 合 す れ ば 、 近 世 隠 岐 の 海 運 に つ い. (26 ). て、 詳 し く知 る こと が 出 来 る の で あ る 。 と り わ け 、 近 世 隠 岐 の海 上 交 通 を 把 握 す る 前 提 と し て は、 対 岸 と の 連 絡 、 西 廻 り 航 路 と の関 連 の、 二 つの要 素 が 有 った こと を 、 確 認 し てお き た い。. か か る状 況 のな か で、 新 た に課 題 を 設 定 し て成 果 を 生 み出 す の は、 非 常 に難 し い。 自 分 自 身 が 日和 見 を 誤 った船. 頭 に思 え るが 、 原 点 に立 ち 返 れ ば 、 そ も そ も 隠 岐 に注 目 した の は、 松 前 から 薩 南 諸 島 へと続 く 航 路 の重 要 地 点 に在. るか ら であ った 。 大 切 な の は、 僅 か な り と も 、 隠 岐 を 知 る こ とな の であ る。 これ を 目指 し、 以下 に お いて、 近 世 隠. 岐 の海 運 に関 わ る 作 業 報 告 を 行 って ゆ く 。 内 容 は 、 ﹁中 心 地 と し て の西 郷 ﹂﹁寄 港 地 と し て の今 津 ﹂﹁若 狭 と の交 流 ﹂ の 三項 目 であ る。. 83.
(4) 晦. 1. 中 心 地 と し て の西 郷. 前 述 の と お り 、 近 世 、 隠 岐 の 全 島 を 所 管 す る 郡 代 は 、 島 後 の西 郷 に 居 た が 、 寛 文 七 年 十 月 の ﹃隠 州 視 聴 合 紀 ﹄ こ の地 を 次 のよ う に紹 介 し て い る・ 史料 -. 八 尾 目貫 宇 屋 此 を 三 ヶ所 と 云 ふ 、 惣 て 此 邊 を 西 郷 と 云 ひ け り 、 ( 中 略 ) 西 國 東 國 の質 客 往 來 の 泊 と し 南 浦 北 浦 の. 商 泊 輻 較 す る の所 な り 、 (中 略 ) 此 内 に 五 百艘 を 納 れ て猶 鯨 あ り、 疾 風 高 波 あ る事 を 知 らず 、 北 海 第 一の津 口な り. (28 ). これ によ り 、 ﹁西 郷 ﹂ の地 名 が 八 尾 (矢 尾 )・目 貫 ・宇 屋 の 三 ヶ所 の総 称 であ る こ と、 お よび 隠 岐 を 代 表 す る湊 で. (30 ). 手 安 舟 五六 艘. 手 安 舟 三 一艘. 田畑 を 耕 シ、 漁 猟 、 廻船 を 乗 セ家 業 とす. あ った こと が 、 知 ら れ る の であ る。 貞 享 五年 の ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ は 三 ヶ所 を 各 村 ご と に記 し て いる の で、 そ れぞ れ海. (29 ). 内 大 船 二 一艘. 運 に関 わ る記 述 を 抽 出 し て みよ う 。 史料 2. ①矢尾村 舟 数 七 四艘. (31 ). 内大船十六艘. 此 内 二千 艘 之 大 舟 ヲ繋 と ても 心 易 キ 湊 也 ②目貫村 舟 数 四七 艘. (32 ). 耕 作 を 勤 、 漁 猟 を 専 二し て、 廻船 商 売 を 業 と す 、 諸 国 之 廻船 、 他 国 之 商 人 往 来 す. ③宇屋村. 84.
(5) 近 世の 隠岐 島海 運. 舟 数 二 四艘. 内 大 船 四艘. 手 安 二十 艘. 当 所 ハ田畑 な く 、 漁 猟 を 専 二し て 廻船 を 乗 り 、 但 、 商 売 を 成 ス家 業 とす. 内 容 は、 島 内 船 ・湊 ・来 島 船 ・船 商 売 で 、 ﹃隠 州視 聴 合 紀 ﹄ と 重 な る部 分 も 有 る。 項 目ご と に コメ ント し 、 近 世. 島内船. の ﹁西 郷 と 海 運 ﹂ を 概 観 し て みた い。. ω. 船 は 、 三 ヶ所 と も 大 船 と 手 安 舟 の 二種 が あ った わ け だ が 、 近 世 の隠 岐 で は、 これ ら や小 渡 海 船 な ど 、 大 体 七 種 に. (33 ). 区 分 さ れ て いた 。 大 船 と 小 渡 海 船 は近 海 航 路 の商 売 船 で、 大 船 は八 八 石 積 以上 、 小 渡 海 船 は六 二石 積 以下 のも の で. (34 ). (35 ). あ る。 手 安 舟 は 、 二、三挺 櫓 で漕 ぎ 、 帆 も あ った 。 大 船 は 、 島 後 に多 く 、 と り わ け 西 郷 湾 周 辺 に 島 後 全 体 の約 半 数. (36 ). が 集 結 し て い る。 八 十 石 、 七 反 帆 以 上 が 大 船 であ った と いう の は、 意 外 な 気 も す るが 、 山 陰 の 廻船 は北 国 のも の と. 比 べ小 型 であ った と いう か ら 、 隠 岐 で は こ のク ラ ス の船 が ﹁大 船 ﹂ と見 な さ れ て いた のを 認 識 す る こ とが 、 肝 要 だ. ろう 。 言 う ま でも な く 、 当 時 の船 は木 造 船 だ が 、 隠 岐 自 然 館 の展 示 解 説 に よれ ぼ 、 船 に は大 敵 が 存 在 し た。 フナ ク. イ ム シと 呼 ば れ る 二枚 貝 で、 船 底 に穴 を あ け 、 木 屑 を 食 べな が ら 成 長 す る の であ る。 船 底 を 損 傷 す れば 、 出 帆 す る. 湊 (37 ). こと は 出 来 な い。 当 時 の船 に は、 危 険 因 子が 、 外 洋 の風 波 に加 え、 湊 にも 潜 ん で いた の であ る。. ②. ﹃隠 州 視 聴 合 紀 ﹄ が 五 百 艘 、 ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ が 千 艘 、 さ ら に ﹃お き 濃 す さ ひ﹄ が ﹁目貫 の江 は 天下 の津 口 と古 老 の. 称 つる所 、 入 口中 にあ り て左 右 一里 はか り つ つ山 懐 を め く る、 底 又深 く 穏 な り、 数 千 の大 船 を 繋 く に更 に 風波 を し. ら す ﹂ と 、 記 す と お り 、 西 郷 湾 は多 数 の船 が 安 全 に碇 泊 出 来 る、 天然 の良 港 であ る。 湾 口 は南 向 き だ が 、 東 西 に内. 85.
(6) 86.
(7) 近世 の 隠岐 島海 運. ㈹. 島 外 船 の史 跡. (43 ). (42 ). 寛 文 十 二年 の河 村 瑞 賢 によ る西 廻り 航 路 の開 発 以来 、 廻船 の航 法 は地 乗 り から 沖 乗 り へと変 わ って い った。 明 治. 共. 十 二年 の兵 庫 県竹 野 濱 の ﹁針 筋 の図 ﹂( 海 図 ) によ れぼ 、 沖 乗 り で は 島 が 重 視 さ れ て い る と いう 。 ﹃隠 州 視 聴 合 紀 ﹄. ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ ー. に他 国 の船 で 西郷 は. 賑 わ った と 書 い て い. る が、 こ の 記 述 は、. 沖 乗 り 航 法 を採 る船. の、 隠 岐 寄 港 を 描 写. し た も の な のだ ろ う 。. か か る経 緯 に基 づ き 、. 西 郷 に は、 他 国 船 の. 来 島 を 今 に 伝 え る石. 造 物 が 残 さ れ て いる. が 、 ﹁松 前 か ら 薩 南 諸. 島 へと 続 く 航 路 の 重. 要 地 点 に在 る﹂ 視 点. か ら 注 目 す べ き は、. 87.
(8) ・. 儀. 二 -姦. !. ∼ 霧. .. 、'. ㌧. サ. ﹁ .ノ ー.. 一'. i ㌦ '-. .. ㍉ `避 °. 辞. 必. .沸. 剛 簿 雫ψ∴ ∵ ド ㌧ 藁. 尋 葭レ. 津. 鷲〆 亀 臨2 帆 ,職. 趣 3,. 瀕鐙. ー. 弟 3. ρρ ρ. げ. '. 。. .. ∼. ひ. 妾 ,. 噛. ζ. 一. . . .ユ ・. 蒸. ぜ 寅. 態澱 聯 灘 川 ;賑 " 福濯 姻 ・ 、° ㌧ ご 4 ダ 、. ", 舅∴ ド直. ∵、" 紘 、r ︽ 、 、 藤. ず. ・霊. 居 の断 片. 瞬 驚 ぺ 難 擦灘 撫 、 驚. hノ. (. 獺. 88. 長 嵜 御 用 昆 布 」 と刻 ま れ た 鳥. 写 真4「. 写 真5-2.
(9) 近 世の 隠岐 島海 運. 長 崎御用 昆布. 永寿丸久 米吉. 蔵屋. 奥 本屋権右 衛門. 現住恵 鐘代﹂ などと、. 目 貫 村 (現、 中 町 ) の金 比 羅 神 社 の 鳥 居 の断 片 であ る (写真 4)。 鳥 居 が 倒 壊 し て い る た め 、 刻 ま れ た 文 字 は、 判. (44 ). 読 が 難 し いが 、 ﹁弘 化 五 正 月 吉 日. 読 み取 れ ると いう 。 幸 い、 最 も 重 要 な ﹁長 嵜 御 用 昆 布 ﹂ は、 自 分 の カ メ ラ で解 像 す る こ とが 出 来 た。 こ こ は、 昆布. (45 ). が 松 前 か ら 九 州 方 面 へ送 ら れ て いた こと を 目 の当 た り に 出 来 る 、 ﹁ 史 跡 ﹂ な の であ る。 ただ 、 島 民 と 昆 布 の関 わ り に つい ては 、 民 俗 例 は確 認 出 来 た が 、 史 料 を 見 出 す こと は出 来 な か った 。. (46 ). 西 廻 り 航 路 の廻 船 の寄 港 を 示 す も のが 、 複 数 以上 現 存 し て い る の は、 宇 屋 村 ( 現 、 東 町) の地 蔵 院 で、 西 郷 湾 に 入 る船 の目 印 と な る山 に在 るた め 、 船 主 な ど の寄 進 が 多 か った の であ る。. 最 も 古 いも の は、 本 堂 に向 か って右 手 に在 る手 水 鉢 で、 ﹁宝 永 三 丙 戌 年 正 月 吉 日 ﹂ と 刻 ま れ て いる (写 真 5)。 寄. 宝 永 三年 は・ ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ が 著 さ れ た 貞 享 五 年 か ら は + 八 年 後 で ・ 共 に 綱 吉 が 将 軍 を 務 め て いる 時 であ った ・. 進 者 は ﹁泉 州 佐 野 浦 施 主 ﹂ ま で は 読 み 取 れ た も の の、 氏 名 が 判 ら な か ったが 、 これ は ﹁西 永 安 次 郎 ﹂ で あ る と い 蒲. 時 代 状 況 は 似 通 って いた と 考 え ら れ 、 手 水 鉢 は、 史 料 2 の② に記 さ れ る ﹁諸 国之 廻船 、 他 国之 商 人 往 来 す ﹂ を 、 旦ハ. 体 的 な 形 で示 し て い ると 言 え るだ ろう 。 泉 州 佐 野 浦 は泉 佐 野 と思 わ れ 、 泉 南 に位 置 し て いる から 、 距 離 的 に は堺 ・. 大 坂 よ り 紀 州 に近 い。 そ こ の船 が 、 寛 文 十 二年 か ら 三 五年 弱 後 に は、 沖 乗 り 航 法 に よ って西 廻 り航 路 を 航 行 し て い. 諸 国 廻舩 中 ﹂ と 刻 ま れ、 年 代 は ﹁寛 政 第 五 癸 丑何 月吉 祥 日 ﹂、 願主 は ﹁功 讐 徳 雲 ﹂ と、 読 め る 。 ﹁諸 国 廻 舩 中 ﹂. 地 蔵 院 の鐘 楼 の隣 に は、 参 道 を 挟 ん で 二基 の常 夜 燈 が 立 って い る ( 写 真 6 )。 ﹁常 夜 燈 ﹂ の文 字 の 下 に 、 ﹁海 上 安. た こと を 、 こ の手 水 鉢 は教 え てく れ る の であ る。. 全. が 関 わ って い る こと か ら 、 各 地 の西 廻り 航 路 の 廻船 関 係 者 が 、 協 力 し て寄 進 した も の と、 考 えら れ る。 諸 国 はど こ. (48 ). か と いう こと にな るが 、 柚 木 学 は ﹁日本 海 海 運 を 支 配 し て いた の は、 近 世 初 期 から 中 期 に かけ て は上 方 ・瀬 戸 内 船. だ ったが 、 化 政 期 を 画 期 に山 陰 ・北 陸 地 方 の廻 船 へと変 わ っ て い った 。﹂ と 述 べ て い る。 手 水 鉢 は 正 に 柚 木 の指 摘. 89.
(10) 写真6. 写真7. 常夜燈. 「薩 少卜 廻 舩 中」 と刻 まれ た石仏 90.
(11) 近 世の 隠岐 島海 運. に合 致 す るが 、 あ い にく 、 寛 政 五年 か ら 化 政 期 ま で は十 年 程 と、 丁度 移 行 期 とな って、 ど ち ら であ る の か可 能 性 を 探 る のは 難 し い。 ﹁海 上 安 全 ﹂ が 共 通 の願 いで あ った のを 、 知 る のみ で あ る 。. 薩州. 廻舩 中 ﹂ と刻 ま れ て いる。 台 座. (49 ). ﹁海 上 安 全 ﹂ を 託 さ れ た のは 、 常 夜 燈 か ら 参 道 を 少 し 下 った 所 に 在 る 石 仏 も 同 じ で あ った (写 真 7)。 手 前 に寳 銭 箱 が 置 か れ て いた た め 、 撮 影 出 来 な か った が 、 石 仏 の下 部 に は ﹁海 上 安 全. の文 字 は 、 磨 耗 の た め 判 読 しづ ら いが 、 年 代 は ﹁天 保 二 年 ﹂ と 思 わ れ る。 願 主 は 三 人 だ が 、 読 み 取 れ る のは 二人. で、 そ れ ぞ れ ﹁中 村 氏 源 太 郎 ﹂﹁矢 野 氏 利 右 衛 門 ﹂ と 見 え る。 世 話 人 も 三人 だ が 、 注 目 され る の は、 世 話 人 の向 か っ. て右 横 に ﹁富 山 九 世 滉 讐 上 人 ﹂ と 、 刻 ま れ て い る こと であ る。 海 上 安 全 を 願 う 一体 の石 仏 の台 座 に、 ﹁薩 州 ﹂﹁富 山 ﹂. (50 ). の両 地 名 が 併 記 さ れ て い る の は、 両 所 が 海 運 を 通 じ て深 い関 係 にあ った こ とを 示 し て いる。 こ れ に関 わ る近 年 の研. 究 に は 深 井 甚 三氏 の著 書 が 挙 げ ら れ る が 、 こ の石 仏 は 正 に 両 所 連 携 の証 の 一つと 位 置 づ け ら れ るだ ろ う 。 隠 岐 が. 船商売. ﹁松 前 か ら 薩 南 諸 島 へ続 く 航 路 の重 要 地 点 ﹂ だ った こと は 、 今 な お 実 見 出 来 る の であ る 。. ω. ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ は、 三 ヶ 所 と も に商 船 を 操 る の を 生 業 と す る者 が 居 る と 、 記 し て い る。 西郷 に は 近 世 前 期 か ら 船. 商 売 が 居 た こと が 分 か るが 、 彼 ら に対 す る法 規 は近 世 後 期 のも の し か見 出 し え て いな い。 そ れ は、 文 化 四年 の ﹁隠. (51 ). 州 島 後 船 手 諸 法 度 極 書 ﹂ で、 書 き 出 しが ﹁従 前 々被 仰 出 候 御 法 度 之 趣 ﹂ と始 ま る こ と から 、 法 規 自 体 は更 に 以前 か. ら 存 在 し た のが 伺 わ れ 、 実 際 末 尾 に ﹁元 は安 永 四年 に認 め ら れ た ﹂ と の 一文 が 添 えら れ て いる。 か か る法 規 が 必 要. にな る時 期 は 近 世 後 期 か と いう こと に な る が 、 ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ に書 き上 げ ら れ る ﹁島 後 二 郡﹂ の 村 で、 船 商 売 が 居. (52 ). た と 記 さ れ る の は 三 ヶ所 の み で あ る か ら、 近 世 前 期 に ﹁被 仰 出 ﹂ た と は考 え に く い。 実 態 と し て は 、 船 商 売 は 、. 十 八 世 紀 後 半 に は、 隠 岐 島 民 の重 要 な 生 業 の 一つと な って いた と いう から 、 これ に対 応 す る形 で法 度 が 出 さ れ た と. 91.
(12) 見 て良 いと 思 わ れ る。 ﹁ 隠 州 島 後 船 手 諸 法 度 極 書 ﹂ に ﹁船 手 之 通 商 者 、 当 島 二而 者 、 重 立 候 稼 筋 二候 ﹂ と 書 か れ て. い る こと は 、 船 商 売 が 多 く 居 る所 は 、 貞 享 期 には 西 郷 だ けだ った も のが 、 百 年 の 間 に 島 後 全 島 に拡 大 し た 経 緯 を 、 示 し て い る の であ る。. 右 記 を 踏 ま え ると 、 船 商 売 に つい て知 る に は、 西 郷 以外 の地 への 目配 り が 、 併 せ 必 要 にな ってく る。 事 例 を 二 つ 見 て みよ う 。. (3 5). 第 一だ が 、 閲 覧 し た 史 料 の な か で、 拡 大 を 物 語 る の は ﹁焼 火 山 銅 瓦 勧 進 趣 記 ﹂ で、 宛 先 に ﹁嶋 後 船 持 御 仲 間 衆. 中 ﹂ と 記 さ れ て い る。 こ の史 料 の年 代 は 、 記 載 は ﹁未 三 月﹂ だ が 、 対 にな る ﹁ 銅 瓦 奉 加 施 主 記 臆 ﹂ に ﹁寛 政 五 年 ﹂. (54 ). と 明 記 さ れ て い る こと か ら 、 直 前 の未 年 の天 明 七 年 と 判 断 さ れ 、 十 八 世 紀 後 半 に該 当 す る。 焼 火 神 社 は、 島 前 の 西. ノ島 に鎮 座 し 、 天 正 十 三年 の文 書 に 見 ら れ ると お り、 航 海 守 護 を 祈 願 す る神 で あ る 。 神 社 の性 格 か ら、 ﹁焼 火 山 銅. 瓦 勧 進 趣 記 ﹂ で船 舶 関 係 者 の寄 進 を 募 った わ け だ が 、 宛 先 が ﹁三 ヶ所 ﹂ で はな く ﹁島 後 ﹂ とな って いる こ とが 重 要. で、 こ の時 期 に は 、 全 島 規 模 で仲 間 の結 成 を 可 能 にす る ほ ど の数 の、 船 持 が 居 た と 読 み 取 れ る。 船 持 の な か に は 、 相 当 数 の船 商 売 が 居 た と 考 え て良 いだ ろう 。. (55 ). 第 二だ が 、 三 ヶ所 以 外 の特 定 の村 に、 拡 大 が 及 ん で いた のを 裏 付 け る の は、 次 の史 料 であ る。. 史料 3 奉願 一札之事. 一 越智 郡那久 村理右衛門儀、去 夏舩手 二付無調法之儀仕 、御吟味之上舩商費 御差留被仰付、恐入承知奉 畏候、. 然処右理右衛門儀兼 而商費方無御座、渡世難儀至極成仕合 二奉存候、何卒舩商費之儀御慈悲を 以御免被仰付 被為下候様偏 二奉願候、此段宜鋪被仰上可被下候様奉願候、 以上. 越智 郡那久村. 92.
(13) 近 世の 隠岐 島海 運. 寛政八年辰八月. 大庄屋幸右衛門殿. 年寄六助. 年寄喜 一郎. 庄屋武 一郎. 那 久 村 は 西 郷 の ほぼ 真 西 に位 置 す るが 、 注 目 す べき は ﹁無 調 法 ﹂ で、 これ は、 関 係 者 が 遵 守 す べき 法 規 の存 在 を. 前 提 と し て、 な さ れ る 表 現 で あ る 。 掟 の内 容 を 知 り た いと こ ろだ が 、 前 述 の と お り 、 ﹁ 隠 州島後船 手諸法度極 書﹂. の成 立 は文 化 四年 で、 寛 政 八年 か ら は 十 年 以 上 後 にな る。 ﹁隠 州 島 後 船 手 諸 法 度 極 書 ﹂ 以前 の条 文 が 見 出 さ れ な い. 限 り 、 何 が 違 反 行 為 と さ れ た のか 、 具 体 的 に は分 か ら な い。 無 い物 ね だ り を す る よ りも 、 今 む し ろ重 要 な の は、 こ. の史 料 の存 在 に よ り 、 十 八世 紀 末 に は 何 ら か の法 度 が 存 在 し た のを 、 確 認 出 来 る こと だ ろ う 。 ﹁隠 州 島 後 船 手 諸 法. (56 ). 度 極 書 ﹂ は 、 前 身 は 安 永 四年 に作 成 さ れ た と し て いる か ら 、 これ に背 い た 可能 性 も 浮 上 す る。 ち な み に 、 ﹁隠 州 島. 後 船 手 諸 法 度 極 書 ﹂ は 、 ﹁近年 締 方 等 閑 二相 成 ﹂ と し て い るが 、 寛 政 の改 革 の余 波 な の か、 寛 政 八 年 の段 階 で は 取. 締 り は 厳 し く 実 行 さ れ て いた の であ る。 そ の結 果 、 暮 ら し てゆ け な く な る者 が 居 た と いう のだ が 、 こ れ は、 裏 を 返. 内 大 船 十 六 艘 ﹂ と 比 べれ ば 少 な いが 、 宇 屋 村 の ﹁舟 数. 内 大 船 三艘 ﹂ と記 さ れ て いる。 舟 数 ・大 船 とも に、 矢 尾 村. (57 ). せ ぼ 、 船 商 売 を 専 業 と し て生 活 し て いた 者 が 存 在 した こ と にな る。 こ のタ イ プ が 、 那久 村 に は何 時 頃 から 居 た の か 気 にな るが 、 こ こ は ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ に は ﹁舟 数 二 四艘. 内 大 船 一= 艘 ﹂、 目 貫 村 の ﹁ 舟 数四七艘. 内 大 船 四艘 ﹂ と は、 ほぼ 同 数 であ る。 那 久 村 は、 船 商 売 を 行 う 前 提 条 件 は、 近 世 前 期 から 整 って いた と考. の ﹁舟 数 七 四 艘 二 四艘. え て良 い。 下 地 が 有 って、 や が て専 業 者 の出 現 に繋 が った と 、 見 ら れ る の であ る。. 93.
(14) 2. 寄 港 地 と し て の今 津. 前 述 のと お り 、 隠 岐 へ派 遣 さ れ る役 人 の乗 船 は、 島 後 で は今 津 か加 茂 に入 港 す る こ とが 多 く 、 上 陸 後 は陸 路 で 西. 郷 へと 向 か った 。 良 港 であ る西 郷 で はな く 、 両 所 が 選 択 さ れ て いた わ け だ が 、 こ こ で は、 今 津 に つ いて語 る史 料 か ら 、 注 目 箇 所 を 抽 出 し て みよ う 。. (58 ). 史料 4 ①. 今 津 湊 は 三 方 は 山 に し て南 は海 の入 庭 、 人 家 東 よ り 北 に 連 り 、 往 來 の旅 泊 績 を 繋 ぐ 時 は 商 女 の聲 客 船 に 至 る 。. (59 ). 内大船七艘. 手 安 三十 艘. 艦 戸 十 三艘. (中 略 ) 村 の北 に 社 あ り 、 鳥 宮 と 號 し て 鳥 祭 と いふ あ り 、 古 老 或 は 鵜 羽 葺 不 合 尊 と 云 ふ と な り 。 ②今津村 船 数 五十 艘. 鵜 羽 大 明 神 、 毎 年 霜 月 初 酉 ノ 日祭 リ 在 、 是 を 鳥 祭 リト 云或 説 二鵜 羽葺 不 合 尊 と 云 広 サ 壱 町 、 長 弐 丁 の湊 二し て、 巳 方 を 請 テ舟 を 繋 ク. 大船 七艘﹂は、目貫村 と比べると、船数は若 干. 共 に ﹁湊 ﹂ の文 字 が 見 え る の は、 役 人 の下 船 地 と さ れ て いた のだ から 、 当 然 と言 う べき かも し れな いが 、 既 に近 世 前 期 、 一定 の整 備 が な さ れ て いた のが 伺 わ れ る。 ﹁船 数 五 十 艘. 上 回 るも の の、 大 船 は半 数 以 下 と な る。 船 商 売 に従 う 者 も 居 た か も しれ な いが 、 こ の時 点 で は、 多 数 派 と いう わけ. では な か った ろう 。 む し ろ目 を 引 か れ る の は ﹁客 船 ﹂ で、 記 述 の言 い 回 し は、 これ を 相 手 に稼 ぐ 所 だ った のを 、 思 わ せ る の であ る。. ① ・② と も に、 社 と し て の ﹁ 鵜 羽 葺 不 合 尊 ﹂ を 記 し て い る。 ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ に は 、 これ に続 け て、 ﹁八 幡 宮 、 権. 現 、 天 王 、 山 神 ﹂ が 挙 げ ら れ て い る。 ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ よ り 百 五 十 年 近 く 後 11天 保 期 の ﹃隠 岐 古 記 集 ﹄ は 、 ﹁正 八幡 1. 94.
(15) 近世 の 隠岐 島海運. 95.
(16) (61 ). た め 、 形 を 判 定 す る こと は出 来 な いが 、 覆 いが か け ら れ て いな い時 の写 真 を 見 る と、 大 船 の類 と考 え て良 いと思 わ. (62 ). れ る。 奉 献 さ れ た も のだ が 、 数 回 行 わ れ た よ う で、 年 代 は 天 保 九 ・ 十 一・ 十 三 ・十 五 ・弘 化 二 の各 年 、 奉 献 者 は 計 七. (63 ). 名 であ る。 井 上 吉 次 郎 に よ れば 、 ﹁白 鳥 神 社 奉 納 千 石 船 模 型 は、 正 月 二 日 の ﹁松 な お し﹂ の際 、 人 々 に 引 か れ て拝. (64 ). 殿 の周 囲 を 三周 し、 海 上 安 全 を 祈 願 す る。﹂ と いう 。 これ が 千 石 船 模 型 で あ り 、 ﹁隠 岐 で は海 運 業 が 興 隆 し た化 政 期. (65 ). には 大 船 に代 わ って小 渡 海 船 が 目 立 つよ う にな った ﹂、 ﹁化 政 期 長 距 離 航 行 の大 型 船 は船 団を 形 成 し て隠 岐 へ入 港 し. た ﹂ と の 見 解 を 踏 ま え る と、 ﹁松 な お し﹂ の海 上 安 全 祈 願 は 、 地 元 の小 型 船 と 併 せ 、 大 型 の客 船 に 対 し ても 行 わ れ. る、 意 味 合 いが 有 る よ う に 思 わ れ る。 客 船 が 対 象 と な る のは 、 こ れ が 無 事 に 入 港 し てく る こと が 、 今 津 の経 済 に. と って重 要 だ った か ら だ ろう 。 こ こ は、 寄 港 地 と し て の性 格 が 、 前 面 に押 し出 さ れ た湊 だ った の であ る。. 西 廻 り 航 路 の開 発 以 来 、 廻船 の航 法 は地 乗 り か ら 沖 乗 り へと変 わ って い った のだ が 、 こ れ は、 効 率 的 であ る 一方. (66 ). で、 ﹁難 破 ﹂ と 背 中 合 わ せ に な って い る。 か か る 状 況 下 にお い て、 隠 岐 が 、 風 待 ち ・避 難 港 と し て 、 果 た し た 役 割. は 大 き か った 。 こ の構 図 は、 隠 岐 の 側 か ら 見 れ ぼ 、 客 船 は稼 ぎ 相 手 と いう こ と に な る 。 そ の無 事 来 港 を 願 う 湊 が 、. 3. 塩 鯖 の送 付. 若 狭 と の交 流. 島 内 には 多 く 在 り 、 今 津 は ﹁祈 願 ﹂ を 行 う 所 と し て、 代 表 例 と位 置 づ け ら れ る の であ る。. ω. ﹁は じ め に﹂ で、 近 世 隠 岐 の海 上 交 通 を 把 握 す る 前 提 と し て、 対 岸 と の連 絡 、 西 廻 り 航 路 と の 関 連 の、 二 つの要. 素 が 有 った こと を 確 認 した が 、 1 ・2 で 見 た も の のう ち 、 船 商 売 は 前 者 に 、 客 船 は 後 者 に 、 そ れぞ れ 対 応 し て いる 。. 先 行 研 究 の言 及 が 多 い の は後 者 だ が 、 ﹁隠 州島 後 船 手 諸 法 度 極 書 ﹂ に ﹁船 手 之 通 商 者 、 当 島 二而 者 、 重 立 候 稼 筋 二. 96.
(17) 近 世の 隠岐 島海 運. 候 ﹂ と 書 か れ ると お り 、 船 商 売 は重 要 な も のだ った 。 1 で は専 ら そ の ﹁島 内 で の存 在 ﹂ を 追 った の で、 こ こ で行 先. の旦ハ 体 例 を 見 て みた いが 、 と り わ け 注 目 す べき は、 隠 岐 は若 狭 と の交 流 が 深 か った、 と いう 史 実 であ る。 特 に 目を. 引 か れ た のは 、 桜 田勝 徳 ・山 口和 雄 が ﹁鯖 は、 地 曳 や 四 つ網 で とれ 、 各 地 とも 製 造 人 が 塩 鯖 に し て いた。 塩 鯖 は コ. (67 ). モ船 で若 狭 へ送 った 。 若 狭 行 き の コモ船 は、 ハ エの風 で出 し て、 ア ヲギ タ の風 で帰 ってき た。 塩 鯖 は若 狭 の名 物 で. (68 ). あ った 。﹂ と 述 べ て いる こと だ 。 そ の訳 は 、 ﹁塩 鯖 は若 狭 の名 物 ﹂ は、 若 狭 から 京 都 へ至 る鯖 街 道 と し て、 か つて取. り 上 げ た テ ー マだ か ら であ る。 立 場 上 、 ﹁名 物 ﹂ に 、 隠 岐 の船 商 売 が 関 わ っ て いた 可 能 性 が 有 る のを 、 見 逃 す こ と は 出 来 な い。. (69 ). 隠 岐 - 若 狭 間 の航 路 の歴 史 を 見 て み ると 、 隠 岐 か ら 小 浜 へは、 古 代 から 都 への貢 進 物 と し て海 産 物 が 送 付 さ れ て. (70 ). いた こと が 、 藤 原 宮 跡 ・平 城 宮 跡 よ り 出 土 した 木 簡 に よ って知 ら れ て いる。 小 浜 へ荷 物 を 送 り込 む こ と は、 中 世 に. も 引 き 継 が れ た が 、 当 時 は、 直 行 す る の で はな く 、 美 保 関 を 経 由 し て いた よう であ る。 早 い時 代 から 輸 送 路 が 開 か. (71 ). れ 、 近 世 に継 承 さ れ た と 見 ら れ る が 、 気 に な る鯖 は、 ﹃隠 州 視 聴 合 紀 ﹄ に 、 賦 課 さ れ る産 物 の 一つと し て書 き 上 げ. (72 ). ら れ て い る。 ま た 、 ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ に は 、 ﹁漁 ﹂ の項 目 が 設 け ら れ た 村 が 相 当 数 在 って、 そ の殆 ど に ﹁鯖 ﹂ が 見 え て. (73 ). い る。 ﹁漁 ﹂ で驚 い た の は島 後 の代 村 で、 漢 字 の 右 横 に ﹁スナ ト リ﹂ と仮 名 が 書 か れ て い る の で あ る 。 ﹁ス ナ ト リ ﹂. (74 ). は ﹁漁 を す る ﹂ の古 語 で、 ﹃万 葉 集 ﹄ に使 用例 が 存 在 す る 。 古 代 の言 葉 が 、 松 前 では 寛 政 年 間 に 生 き て いた 可 能 性. が あ り 、 壱 岐 で は現 在 も 伝 え ら れ て い る こと は、 既 述 のと お り であ る。 そ の言 葉 が 、 隠 岐 で は貞 享 年 間 に使 わ れ て. (75 ). いた のが 、 確 認 さ れ た こと と な る。 松 前 か ら 薩 南 諸 島 へと 続 く 航 路 上 で見 出 さ れ た こ とが 重 要 だ が 、 十 七 世 紀 後 期. (76 ). の隠 岐 では 、 全 島 規 模 で鯖 が ﹁スナ ト リ ﹂ の対 象 と さ れ て いた の であ る。 漁 期 は、 四 ・五 月 と 九 ∼ 十 一月 であ った 。. (77 ). 漁 獲 後 は、 鯖 は、 塩 干 物 で、 藁 縄 で刺 した も のが 取 引 さ れ た と推 定 さ れ て いる。 価 格 は、 天明 五年 の ﹁周吉 郡中 直. 段書上他﹂ によれば、 ﹁ 鯖 壱 刺 二付 、 直 段 六 七 文 位 ﹂ であ る。 塩 鯖 の、 小 浜 への出 荷 の様 子が 分 か る よ う にな る の. 97.
(18) (78 ). は 十 九 世 紀 で、 天 保 期 の記 録 によ れ ぼ 二六 六 五九 本 が 送 付 さ れ た が 、 そ の地 の消 費 よ り京 阪 方 面 へ送 ら れ るも のが. 送 付 者 と し て の船 商 売. 多 か った 。. ②. (79 ). 昭 和 初 期 に行 わ れ た 、 桜 田 ・山 口 の採 訪 に描 き 出 さ れ ると こ ろ は、 関 連 文 献 を 照 合 す る と、 前 近 代 にま で遡 りう. るも の と判 断 さ れ る。 塩 鯖 を 運 んだ コ モ船 営 業 は、 専 業 の 場 合 と 、 水 産 製 造 人が 自 ら 営 ん だ 場 合 が あ る と いう が 、. 専 業 者 は お そ ら く 船 商 売 の系 譜 に連 な る 者 だ ろう 。 ﹁船 商 売 の積 荷 は鯖 ﹂ と 書 か れ た 、 史 料 が 有 れ ぼ ベ ス トだ が 、. (80 ). あ い にく 今 は 見 出 さ れ て いな い。 そ れ でも 、 隠 岐 の商 船 が 若 狭 へ行 った こ とを 示す 史 料 は、 次 の と お り存 在 す る。 史料 5. 歳 当 辰六 十 四. 権右衛門. 享 保 二十 年 乙卯 七 月 二十 日朝 鮮 国 慶 尚 道 之 内 慶 州 へ漂 着 仕 候 船 頭 水 主 口上 之 覚. 船頭. 一、 米 百 参 拾 石 積 拾 端 帆 四人 乗 隠州周吉郡布施村直乗. (中 略 ). 私 共 儀 右 之 船 に薪 積 、 越 前 三国 湊 に商 売 罷 越 候 連 、 去 卯 六 月 十 四 日 に未 明 布 施 村 出 船 仕 、 同十 五 日若 州 常 神. の浦 へ入 津 、 不 順 に て滞 留 仕 、 同 二十 四 日夜 出 船 、 翌 二十 五 日昼 過 に越 前 三国 湊 に着 津 、 夫 よ り薪 売 仕 舞 帰. 船 仕 候 連 、 同 七 月 七 日朝 五 ツ時 三国 湊 出 船 ( 中 略 ) 船 中 根 米 三 国湊 出 船 仕 候 節 は白 米 二斗 黒 米 一斗 五升 御 座. 候 、 十 一日朝 迄 食 に焼 給 申 候 処 、 其 の日 難 風 に臆 の水 桶 波 に被 打 取 、 夫 よ り 水 無 御 座 、 食 に焼 候 儀 不 相 成 、. 米 を 噛 罷 在 候 、 ど う の間 に水 四五 升 程 小 桶 に入 置 候 分 捨 り 不 申 有 之 候 付 、 始 の程 は 是 を 少 宛 呑 罷 在 候 (後. 98.
(19) 近 世の 隠岐 島海 運. 略). こ の史 料 は 、 享 保 二十 年 に、 島 後 布 施 村 の船 が 、 三国 湊 を 目指 す 途 中 で、 小 浜 の東 の常 神 に入 港 し た のを 示 し て. (81 ). い る。 注 目 点 は幾 つか 有 るが 、 第 一は、 近 世 中 期 に、 西郷 以 外 の所 に 船 商 売 が 居 た のを 、 示 唆 し て い る こと であ. 十 反 帆 ﹂ と、 ﹁八 十 石. 内大船 五. 七 反帆 ﹂ 以 上 の大 船 で あ って 、 これ ほ ど の投 資. る。 布 施 村 は 、 ﹃増 補 隠 州 記﹄ に ﹁舟 懸 リ 之 湊 也 ﹂ と 記 さ れ 、 近 世 前 期 に湊 を 活 用 出 来 る環 境 に あ った こと が 分 か る。 直 乗 船 頭 権 右 衛 門 の船 は ﹁百 三 十 石. を し て いる のは 、 船 を 使 う 仕 事 が 家 業 であ った のを 、 伺 わ せ る 。 ﹃増 補 隠 州 記 ﹄ に よ れぼ ﹁ 舟 数二五艘. 艘 ﹂ と 、 こ こ は大 船 の割 合 も 高 い。 諸 々を 合 わ せ ると 、 西 郷 の よう に明 記 こ そさ れ て いな いが 、 布 施 に は 早 い時 期. (82 ). か ら 船 商 売 が 居 た と 判 断 さ れ る 。 ち な み に 、 権 右 衛 門 の船 の目 的 地 は 三 国だ が 、 布 施 の熊 屋 文 書 の ﹁賃 銭 定 ﹂ に 、. 三 国 と 共 に小 浜 ま で の賃 銭 が 記 さ れ て いる こと か ら、 布 施 の船 の若 狭 への往 来 は 常 態 であ った と 考 え て 良 いだ ろ う。. (83 ). 第 二は 、 隠 岐 を 出 発 し て か ら 若 狭 に 到 着 す る ま で 、 僅 か 一日 し か 要 し て いな い こと であ る 。 ﹃隠 岐 古 記 集 ﹄ に. ﹁卯 方 凡 百 里 に し て若 州 小 浜 に至 り ﹂ と 記 さ れ る と お り 、 隠 岐 から 若 狭 への道 程 は か な り 長 い。 布 施 を 出 港 し た の. は 六 月 十 四 日 で、 風 向 き は、 夏 だ か ら 季 節 風 の南 風 だ った のだ ろう が 、 そ う であ れ ぼ 、 桜 田 ・山 口が ﹁若 狭 行 き の. コモ船 は ハ エの風 で出 した ﹂ と 述 べ て い る の に、 符 合 す る。 順 風 に乗 れ ぼ 、 長 距 離 で はあ るが 、 短 時 間 で若 狭 へ到. 達 出 来 る のを 、 隠 岐 の船 商 売 は 知 って いた の であ る。 当 時 の陸 上 交 通 事 情 で は 、 た と え ば 対 岸 の米 子 か ら 小 浜 ま. で、 一日 で行 く の は不 可 能 に近 い。 前 近 代 にお い て は、 風 向 き さ え良 け れ ぼ 、 船 は最 も 速 い交 通 機 関 であ った。 そ. れ が 夏 な のは 、 塩 物 と は いえ 、 一定 の鮮 度 が 求 め ら れ る鯖 の輸 送 に は、 好 都 合 と言 え る。 漁 期 は前 述 の と お り春 と. 秋 だ が 、 春 漁 獲 した 鯖 を 塩 漬 に し て出 荷 す る に は、 タ イ ミ ング も 合 致 す る。 更 に は、 こ の時 期 は、 葵 祭 が 旧 暦 時 代. は 四月 中 酉 の 日 に行 わ れ 、 若 狭 か ら の送 付 先 であ る、 京 都 の鯖 の需 要 が 増 えた はず であ る。 近 世 前 期 から 、 島 の各. 99.
(20) 地 で鯖 を 水 揚 げ し て いた 隠 岐 は、 正 に絶 好 の供 給 地 と さ れ て いた の で はな か ろう か。 こ こ に、 船 商 売 が 関 わ って い た のは 、 ほぼ 確 実 と 思 わ れ る の であ る。. 第 三は 、 船 商 売 が 航 海 に出 る際 の、 食 料 事 情 が 分 か る こと であ る。 乗 組 員 一人 の 一食 の食 事 量 は記 さ れ て いな い. が 、 仮 に 三合 と す ると 、 四人 で 一升 二合 にな るか ら 、 一日 三食 の必 用 量 は 三升 六 合 とな る。 一斗 強 有 れば 三 日 は賄. え るわ け で、 白 米 ・黒 米 計 三斗 五升 は、 十 日前 後 を 凌 げ る積 載 量 な の であ る。 航 海 日数 が 、 最 短 の十 倍 にな る のを. 覚 悟 し て いた と 推 定 さ れ 、 ﹁風 任 せ ﹂ の航 海 に 臨 む 者 の不 安 の大 き さ を 表 し て い る。 結 果 と し て 、 周 到 な 準 備 が 身. を 助 け る こと にな る のだ が 、 痛 手 は ﹁水 桶 波 に被 打 取 ﹂ た こ と であ る。 水 桶 は艦 に置 か れ て いた のが 分 か るが 、 船. の バ ラ ン ス を 保 つた め の措 置 だ ろ う 。 容 量 は 不 明 だ が 、 四、五 升 入 を 小 桶 と 表 記 し て い る か ら 、 一斗 は 入 る も の. だ った と 思 わ れ る 。 小 桶 が 在 った ﹁ど う の 間 ﹂ が 、 船 体 の ど こ に該 当 す る の か は 分 か ら な い。 水 桶 を 失 った 七 月. 十 一日は 、 残 暑 の時 季 だ か ら 、 乗 組 員 に は厳 し い 日 々 の始 ま り とな った 。 船 商 売 は正 に ﹁板 子 一枚 下 は ⋮﹂ の世 界. な の を 見 て取 れ る が 、 隠 岐 か ら 送 ら れ た鯖 が 若 狭 へ到 着 す る と いう こと は、 そ れ を 免 れ た 証 と の側 面 を 持 つも の だ った の であ る。. おわり に. 隠 岐 に注 目 した の は、 松 前 か ら 薩 南 諸 島 へと 続 く 航 路 の重 要 地 点 に在 る から であ った 。 ただ 、 前 掲 の諸 先 学 の研. 究 に基 づ く な ら ば 、 こ こが 要 所 と さ れ た のは 、 廻 船 が 沖 乗 り 航 法 を 採 り、 島 が 風 待 ち ・避 難 先 と し て重 視 さ れ た 、. 近 世 前 期 か ら 近 代 初 期 に限 ら れ ると 、 言 え るだ ろう 。 中 世 に は、 隠 岐 の船 自 体 が 、 若 狭 へ行 く 際 、 直 航 は せず 、 美. 保 関 を 経 由 し て いた わ け だ か ら 、 廻 船 も 地 乗 り 航 法 を採 っ てお り 、 寄 港 は少 な か った と 、 考 え ら れ る。 この 点 は 、. 地 乗 り 航 法 が 不 可 能 で、 寄 港 が 必 然 と さ れ た 薩 南 諸 島 の島 々 と の、 相 違 と し て認 識 しな け れば な ら な い。 薩 南 諸 島. 100.
(21) 近 世の 隠岐 島海 運. は 、 中 世 以前 か ら 航 路 の要 所 と さ れ 、 ﹁離 島 ﹂ と な る のは 近 代 以降 で あ る 。 一方 、 隠 岐 は、 要 所 だ った のは 近 世 の. み で、 そ れ 以 外 は ﹁離 島 ﹂ であ った 。 近 世 は、 廻米 が 前 提 と さ れ 、 船 舶 が 前 近 代 的 な も の であ りな が ら 、 輸 送 効 率. が 求 め ら れ た 、 時 代 であ る。 これ が 、 従 来 地 乗 り 航 法 であ った 航 路 にお け る沖 乗 り航 法 の開 発 に繋 が って、 隠 岐 は. ﹁離 島 ﹂ か ら 解 放 さ れ た 。 幕 藩 体 制 は 、 か か る 類 の所 を 、 重 要 地 点 に 変 換 さ せ る 、 要 素 を 有 し て いた の であ る 。. 史 料 5 の存 在 は、 沖 乗 り 航 法 の開 発 が 、 島 内 船 の若 狭 直 航 能 力 獲 得 を 促 した のを 、 傍 証 す る。 鯖 の出 荷 も 、 この. 経 緯 によ って可 能 にな る はず だ が 、 史 料 5と 同 時 期 に は、 既 に送 付 さ れ る よう にな って いた の かも し れな い。 小 浜. (84 ). には 、 享 保 十 年 に は、 他 国 の魚 荷 を 買 い受 け る問 屋 が 六 軒 あ って、 隠 岐 な ど から 運 ぼ れ た塩 鯖 等 を 、 大 津 ・京 都 へ. (85 ). 送 った と いう の であ る。 幕 末 期 に は 塩 鯖 の需 要 が 増 え た のか 、 石 見 の浜 田 の事 例 だ が 、 ﹁ 秋葉 丸岩野弥右衛門様. 安 政 二卯 五月 八 日登 入 津 、 種 桐 油 ・そ ふ め ん御 売 、 楮 ・塩 鯖 ・干 あ ご 御 買 、 下 リ出 帆 被 成 ﹂ と、 若 狭 の船 が 山 陰 へ. 買 い付 け に出 向 いた のが 示 さ れ て い る 。 近 世 、 隠 岐 を 含 む 山 陰 が 、 若 狭 に と って 、 塩 鯖 の調 達 地 と な って いた の. は 、 紛 れ も な い。 鯖 街 道 上 を 運 ぼ れ た 塩 鯖 のな か に は、 若 狭 に、 水 揚 げ さ れ た も の の み でな く 、 海 上 輸 送 を 経 て荷. 揚 げ さ れ た も のも 含 ま れ て いた 。 鯖 の道 は、 陸 路 の み でな く 、 海 路 と し ても 在 った こ とが 、 確 認 さ れ る の であ る。. 隠 岐 は ﹁海 の鯖 街 道 ﹂ の始 点 と 言 え よ う が 、 こ の事 態 は、 沖 乗 り 航 法 の開 発 が 島 内 船 の若 狭 直 航 能 力 獲 得 を 促 し. た こと によ って、 も た ら さ れ た 。 幕 藩 体 制 下 にお け る、 全 国 規 模 で の海 運 体 系 の構 築 が 、 特 定 地 域 に如 何 な る影 響. を 与 え る か の、 且ハ 体 例 と 位 置 づ け ら れ る の であ る。 今 回 の成 果 と受 け 止 め た いが 、 問 題 は陸 路 が 絡 ん で いる こ と. だ 。 す な わ ち 、 塩 鯖 と いう 物 資 が 、 生 産 地 か ら 消 費 地 へ送 ら れ る の に際 し、 海 路 と陸 路 を トー タ ルな 形 で考 え て ゆ. (86 ). か な け れ ば な ら な い こと が 、 判 明 した の であ る。 交 通 史 専 攻 者 は、 筆 者 を 含 め 、 水 運 と陸 運 を 、 そ れぞ れ別 個 に研. 究 す る傾 向 が あ る。 そ の意 義 は承 知 し て い る つも り だ が 、 目 前 の課 題 の よう な 事 柄 に直 面 し た際 は、 話 が 前 に進 ま な い。 ど う 取 り 組 む のか 、 検 討 す べき であ る こと を 、 隠 岐 は教 え てく れ た の であ る。. 101.
(22) 註. 2永 海 一正 ﹃近 世 隠 岐 島 史 の研 究 ﹄ 一頁. 1錦 織 勤 ・池 内 敏 氏 編 ﹃街 道 の 日本 史 37 昭 和 四七 年 九 月. 鳥 取 ・米 子と 隠 岐 ﹄ 四八 頁. 昭 和 五 四年 二 月. 一九 九 八年 三 月. 二〇 〇 五年 十 月. 二〇 〇 五年 八 月. 出 雲 と 石 見 銀 山 街 道 ﹄ 一二六 頁. 3 田中 豊 治 ﹃隠 岐 島 の歴 史 地 理 学 的 研 究 ﹄ 一四 一頁 4 ﹃近 世 隠 岐 島 史 の研 究 ﹄ 一頁 5道 重 哲 男 ・相 良 英 輔 氏 編 ﹃街 道 の 日本 史 38. 出雲と石見銀山街道﹄ = 一 七頁. 6 ﹃隠 岐 島 の歴 史 地 理 学 的 研 究 ﹄ 一四 二頁 7 ﹃街 道 の 日本 史 38. 鳥 取 ・米 子と 隠 岐 ﹄ 一〇 九 頁 昭 和 五十 年 八 月. 8 ﹃街 道 の 日本 史 37 9 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 五六 〇 頁. 10 ﹃隠 岐 島 の歴 史 地 理 学 的 研 究 ﹄ 一四 三頁 11 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 八 八 六 ∼ 八 八 七 頁 12 ﹃隠 岐 島 の歴 史 地 理 学 的 研 究 ﹄ 八 十 頁 13 ﹃近 世 隠 岐 島 史 の研 究 ﹄ 六 一頁. 西 廻り 航 路 隠 岐 航 路 ﹄ 八十 頁. 日 本 海 に浮 か. 平 成 元 年 三 月 )、 明 治 末 か ら 大 正 期 頃 の賜 烏 賊. 鳥 取 ・米 子 と 隠 岐 ﹄ 一 一 一頁 。 俵 物 に つ い て は、 ﹃ふ る さ と ア ル バ ム 西 郷. 14島 根 県 教 育 委 員 会 編 ﹃島 根 県 歴 史 の道 調 査 報 告 書 第 七 集 15 ﹃街 道 の 日 本 史 37. ぶ ﹄ 六 十 頁 に (西 郷 町 合 併 三十 周年 記 念 写 真 集 編 纂 委 員 会 編 出 荷 風 景 の写 真 が 掲 載 さ れ てお り 、 往 時 を 偲 ぶ こと が 出 来 る。. 102.
(23) 近 世の 隠岐 島海 運. 16 田中 豊 治 ﹃隠 岐 17同 右 一九 八 頁. 島 経 済 の構 造 と 変 貌. 18 ﹃近 世 隠 岐 島 史 の研 究 ﹄ 九 五頁. ﹄ 一八 八 頁. 19 ﹃隠 岐 - 島 経 済 の構 造 と 変 貌 1 ﹄ 二〇 五頁 20同 右 三 三∼ 三六 頁. 昭 和 五 二年 九 月. 21 ﹃隠 岐 島 前 漁 村 採 訪 記 ﹄( 昭 和 十 年 十 二月 ) ﹃日本 常 民 生 活 資 料 叢 書 ﹄ 第 二十 巻 (一九 七 三年 四 月) 収 録. 近世上﹄ 昭和四十年三月. 大 正 三年 一月. 22 ﹃民 俗 資 料 によ る創 舟 の研 究 ー ソリ コ ・モ ロタ ・ト モド を 重 点 と し てー ﹄ 昭 和 三 五 年 十 二月 23 ﹃日本 海 海 運 史 の研 究 ﹄ 昭 和 四 二年 三 月 24 ﹃隠 岐 ﹄ 昭 和 四 三年 三 月 25 ﹃日本 海 上 交 通 史 の研 究 ﹄ 昭 和 四 八年 三 月 26 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 八 八 五頁. 史料篇 2. 27谷 口爲 次 編 纂 ﹃出 雲 文 庫 ﹄ 第 二編 一七 八 頁 28 ﹃新 修 島 根 県 史. 29同 右 二 五 五∼ 二 五七 頁. 近 世 上 ﹄ 二 五七 ∼ 二 五八 頁. 30大 船 と手 安 舟 の合 計 は七 七 艘 だ が 、 ﹁舟 数 七 四 艘 ﹂ と な って いる の は 、 史 料 自 体 の誤 記 な の か 、 史 料 集 の誤 植. 史料篇 2. な のか は 、 不 明 であ る。 31 ﹃新 修 島 根 県 史. 32同 右 二 五八 ∼ 二 五九 頁. 33 ﹃民 俗 資 料 によ る剖 舟 の研 究 ー ソリ コ ・モ ロタ ・ト モド を 重 点 と し てー ﹄ 七 四∼ 七 五頁. 103.
(24) ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 九 〇 五 頁. 34 ﹃近 世 隠 岐 島 史 の研 究 ﹄ 一 一六 頁 35同 右 一 一五頁. 近 世 編 下 ﹄( 昭 和 三八 年 六 月) 四六 頁. 出 雲 と 石 見 銀 山 街 道 ﹄ 一五六 頁. 隠 岐 郷 土 研 究 会 編 ﹃隠 岐 島 史 料. 36 ﹃街 道 の 日本 史 38 37宝 永 版 本. 西 廻り 航 路 隠 岐 航 路 ﹄ 七 九 頁. 平成十九年 三月. 38 田中 豊 治 ﹁ 近 世 日 本 海 の帆 船 交 通 ﹂(﹃日本 海 海 運 史 の研 究 ﹄ 一〇 一九 ∼ 一〇 二〇 頁 ) ﹃島 根 県 歴 史 の道 調 査 報 告書第七集. 39拙 稿 ﹁松 前 藩 の 五十 集 - 組 織 的 交 易 の下 の庶 民 交 易 1 ﹂﹃民 俗 文 化 ﹄ 十 九 号 一八九 頁. 近世編下﹄十三頁. ﹃定 本 柳 田国 男 集 ﹄ 第 二巻 ( 昭 和 三七 年 一月) 三 八 二頁. 40成 立 年 代 不 詳 だ が 、 記 述 内 容 か ら 天 保 年 間 頃 と 推 定 さ れ る。 ﹃隠 岐 島 史 料 41 ﹁隠 岐 よ り 還 り て﹂ 昭 和 八 年 十 一月. 昭 和 五 二年 三 月. 下巻﹄四九八∼四九九頁. 昭 和 五 一年 九 月. 42柚 木 学 ﹁解 説 ﹂ 同 編 ﹃諸 国 御 客 船 帳 43 ﹃日本 海 上 交 通 史 の研 究 ﹄ 三六 二頁 44 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 九 一 一頁 45 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 下 巻 七 八 一∼ 七 八 二頁. 下 巻 ﹄ 五 一九 頁. 46 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 九 一〇 頁 47同 右 九 一 一頁 48 ﹁解 説 ﹂﹃諸 国 御 客 船 帳. ﹄ 二〇 〇 九 年 一月 近 世 上 ﹄ 五七 五∼ 五七 七 頁. 北前船と抜荷. 49 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 九 一二頁 に は、 文 字 が 確 認 出 来 る写 真 が 掲 載 さ れ て いる。. 史料篇 2. 50 ﹃近 世 日本 海 海 運 史 の研 究 51 ﹃新 修 島 根 県 史. 104.
(25) 近 世の 隠岐 島海 運. 52 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 九 〇 八 頁. 頁. 平 成 十 一年 十 月. 近 世 上 ﹄ 五七 七 頁. 53 ( 財 ) 文 化 財 建 造 物 保 存 技 術 協 会 編 ﹃重 要 文 化 財. 史料篇 2. 隠岐郷土館所蔵. 54 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 三七 六 頁 55大 江 家 文 書 56 ﹃新 修 島 根 県 史 57同 右 二〇 一頁. 焼 火 神 社 本 殿 ・通 殿 ・拝 殿 ・保 存. 近 世 上 ﹄ 二 四九 ∼ 二 五 一頁. 58 ﹃隠 州 視 聴 合 紀 ﹄﹃出 雲 文 庫 ﹄ 第 二編 一九 九 頁 史料篇 2. 日本 海 に浮 か ぶ ﹄ 一二 三頁. 近 世 編 下 ﹄ 二 一頁. 59 ﹃増 補 隠 州 記 ﹄﹃新 修 島 根 県 史 60 ﹃隠 岐 島 史 料 61 ﹃ふ るさ と ア ル バ ム西 郷 62 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 九 三〇 頁. 63 ﹁隠 岐 の舟 考 - 日本 船 舶 史 観 点 にお い て の辺 地 所 見 1 ﹂﹃隠 岐 ﹄ 四 一 一頁 64 ﹃近 世 隠 岐 島 史 の研 究 ﹄ 二 三 一頁 65 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 八 九 八 頁 66 ﹃日本 海 上 交 通 史 の研 究 ﹄ 四九 〇 頁 67 ﹃隠 岐 島 前 漁 村 採 訪 記 ﹄﹃日本 常 民 生 活 資 料 叢 書 ﹄ 第 二十 巻 四 三〇 ・四 三 四∼ 四 三 五頁. 西 廻り 航 路 隠 岐 航 路 ﹄ 七 六 頁. 68拙 著 ﹃西 日本 庶 民 交 易 史 の研 究 ﹄ 平 成 十 二 年 十 二月 69 ﹃島 根 県 歴 史 の道 調 査 報 告 書 第 七 集. 修 理 工事 報 告 書 ﹄ 六 三. 105.
(26) ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 三 七 〇 頁. 一九 七 五年 四月. 近 世 上 ﹄ 二 一六 頁. 70 ﹃日本 海 海 運 史 の研 究 ﹄ 一〇 二 一頁 頁 71 ﹃出 雲 文 庫 ﹄ 第 二編 一七 一頁 史料篇 2. 古 語 辞 典 ﹄ 第 二刷. 72 ﹃新 修 島 根 県 史 73 ﹃岩 波. 昭 和 四八 年 三月. 鳥 取 ・米 子 と隠 岐 ﹄ 八七. 平 成 十 五年 三月. 二〇 〇 八年 十 二 月. ﹃街 道 の 日本 史 37. 74拙 稿 ﹁真 澄 に 三代 が つき あ って八 十 年 ﹂﹃真 澄 学 ﹄ 第 四号 一二〇 ∼ 一二 二頁. 近 世 上 ﹄ 四 五 二頁. 75島 根 県 教 育 委 員 会 編 ﹃隠 岐 島 の民 俗 ﹄ 一二 四頁 76 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 五 五 四頁 77 ﹃新 修 島 根 県 史 史 料 篇 2 78 ﹃西 郷 町 誌 ﹄ 上 巻 九 五 一・九 五 四 頁. 近 世 上 ﹄ 二 二⊥ハ頁 昭和四三年四月. 朝 鮮 漂 流 記 ﹄ に つ い て﹂ ﹃隠 岐 の文 化 財 ﹄ 二十 号 三∼ 十 四頁. 79 ﹃隠 岐 島 前 漁 村 採 訪 記 ﹄﹃日本 常 民 生 活 資 料 叢 書 ﹄ 第 二十 巻 四 三 三頁 80加 藤 健 氏 ﹁﹃ 碑齢彬艦畔 81 ﹃新 修 島 根 県 史 史 料 篇 2. 近 世 編 下 ﹄ 四頁 通史編﹄上巻九六七∼九六九頁 下 巻 ﹄ 二 一九 頁. 平 成 四年 三月. 82安 政 四年 ﹁船 手 寄 合 申 合 之 事 ﹂ 竹 谷 素 信 ﹃布 施 の廻 船 業 ﹄ 五 六 頁 83 ﹃隠 岐 島 史 料 84 ﹃小 浜 市 史. 85 ﹃諸 国 御 客 船 帳. 形 を 採 って い る の に、 象 徴 さ れ る。. 86 ﹃交 通 史 研 究 ﹄ 第 五六 号 (二〇 〇 五年 二月 ) の、 研 究 動 向 の整 理 の かな り の部 分 が 、 陸 運 と水 運 に分 け ら れ た. 106.
(27) 近 世の 隠岐 島海 運. 謝辞. 現 地 調 査 に際 し て は、 島 根 大 学 附 属 図 書 館 ・隠 岐 の島 町 立 図 書 館 ・隠 岐 郷 土 館 の皆 様 を は じめ とす る、関係各位 か ら 御 高 配 を 賜 った 。 銘 記 し て、 御 礼 申 し上 げ た い。. 107.
(28)
関連したドキュメント
儀礼の「型」については、古来から拠り所、手本とされてきた『儀礼」、『礼記』があり、さらに朱喜
±Z十12J)Ⅱ 左岸 三条市 諏訪(lH1渕) 117m 刈谷田川 左岸 に1コ尾島町 中之島(妙栄寺) 50m 刈谷田111 右岸 見附市 関屋MUJ 42m 刈谷田川 谷田川 左岸
ZoomのHP https://zoom.us にアクセスし、画面右上の「サインアップは無料です」をクリッ
Emmerich, BGB – Schuldrecht Besonderer Teil 1(... また、右近健男編・前掲書三八七頁以下(青野博之執筆)参照。
愛媛県 越智郡上島町 NPO 法人 サン・スマ 八幡浜市 NPO 法人 にこにこ日土 長崎県 西海市 NPO 法人
受付 受理
多核種除去設備等の サンプルタンク ALPS処理⽔等貯留タンク または ALPS
The entire preservation district is a cultural asset in which multiple buildings are used as