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今出川キャンパス前史に関する一考察 : 薩摩藩二 本松屋敷を中心に

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今出川キャンパス前史に関する一考察 : 薩摩藩二 本松屋敷を中心に

著者 小枝 弘和

雑誌名 同志社談叢

号 31

ページ 141‑192

発行年 2011‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013058

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今出川キャンパス前史に関する一考察一四一 〈資料紹介〉

 

今出川キャンパス前史に関する一考察   ─薩摩藩二本松屋敷を中心に─

小    枝    弘    和   はじめに

  同志社社史資料センターでは、本学歴史資料館と共催で、二〇一〇年十月一日より二〇一一年一月三十一日まで、Neesima Roomにおいて第三十八回企画展『幕末と同志社─薩摩藩邸址にあって─』を開催した。本企画展は主に三つのサブテーマからなり、それは「薩摩藩二本松屋敷」、「維新の雄と同志社」、「近世二條家邸」である。「維新の雄と同志社」では主に同志社社史資料センターが所蔵する明治維新に関連した著名人の資料を展示し、「近世二條家邸」では歴史資料館所蔵発掘資料に加え、二條家歴代当主の短冊もあわせて展示した。

  「薩摩藩二本松屋敷」では、歴史資料館はもちろんのこと、相国寺、玉里島津家、鹿児島県歴史資料センター黎明館、京都府総合資料館、早稲田大学図書館などの協力を得て、展示を構成した。展示のコンセプトは、

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今出川キャンパス前史に関する一考察一四二

坂本龍馬をはじめとする薩長関係者や、幕府の関係者などが幕末に出入りした二本松屋敷に関する資料を展示すること、そして、もうひとつは、従来同志社史で定説とされてきた、薩摩藩邸址を新島襄が入手するまでの経緯を資料的に裏付けることであった。とりわけ、後者に関して資料調査を進めると、この定説に検討の必要性を与える資料や、従来知られていなかった事実を追加する新資料の発見があった。そこで本論では、調査結果を踏まえ、資料の紹介と定説に対する考察、ならびに、薩摩藩邸と深くかかわる相国寺の資料を紹介する。なお、翻刻は筆者が行い、露口卓也文学部教授(同志社社史資料センター所長)に監修をお願いした。

先行研究史の整理

  新島襄は、一八七五(明治八)年六月J・D・デイヴィスと共に当時京都府の有力者であった山本覚馬に会い、覚馬の所有となっていた薩摩藩邸址五千八百五坪七合を購入した。これが、これまで定説とされてきた内容である。近年ではこれに対して開拓会社の介入及び関与を指摘する先行研究も存在する。まずは、代表的な先行研究を整理して、その問題点について触れる。

  薩摩藩邸址の購入に関して、新島永眠後の早い段階で文字化された書籍がある。新島のアメリカでの養父のような存在であるA・ハーディー(Alpheus Hardy )の子息A・S・ハーディー(Arthur Sherburne Hardy )が一八九二(明治二十五)年に新島の伝記を書いた。この伝記には次のような箇所がある。

 In June, 1875, Mr. Neesima visited Kyoto again with Dr. Davis, and bought of Mr. Yamamoto a lot of

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今出川キャンパス前史に関する一考察一四三 five and one half acres, the site of the future D 1

oshisha.

  一八七五年六月、新島がデイヴィスと共に山本覚馬を訪れて覚馬が所有する五.五エーカーの土地を購入したとある。これは坪換算すると約六千七百坪に相当する。ハーディーは右の記述となる根拠を明示していないため、どのような資料が用いられたかは不明である。このハーディーの伝記から二年後に、新島と共に覚馬を訪れたデイヴィスが新島の伝記を著した。このデイヴィスの伝記にも薩摩藩邸址購入に関する記述があり、それは次のようなものである。

 The writer made a hasty visit to Kyoto in June of 1875, and, with Mr. Neesima, looked at a lot of land containing five and a half acres, 6500 tsubo, situated in the northern part of the city, just above the old palace grounds, and with a large temple grove of one hundred acres on the north side of it. This land was the former site of the palace of the Satuma daimio, the last residenct being Shimazu Saburo. It was now in the possession of the blind Yamamoto, and he gladly sold it to us for the school for the sum of five hundred and fifty d

ollars.

  新島に同行した当事者であるデイヴィスは、覚馬が学校のために約六千五百坪を五百五十ドルで快よく売ったと伝記に著している。デイヴィスの言葉はその後しばらく信憑性を持つ情報として同志社史の中で受け継がれたと考えられる。その代表的な事例が『同志社五十年史』(一九三一年刊行)である。『同志社五十年史』の

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今出川キャンパス前史に関する一考察一四四 薩摩藩邸址購入に関する記述を見ると「明治八年六月には、新島、デヴィス両先生は相携へて再び京都に入り、當時山本氏の所有に属せる、京都御苑の北に沿うた、元は薩摩屋敷であつた桑畑六五〇〇餘坪を、代價五五〇弗を出して買求め、之を将来同志社の根據地と定めた」とある

。この内容は、先に紹介したデイヴィスの伝記をそのまま踏襲した内容である。そもそも『同志社五十年史』は同志社校友会の編集によるもので、つまりデイヴィスの教え子にあたる人物によって作成された、特殊な特徴を持つ年史である。ただし作成過程でどれほどの資料が検討されたのかについては、疑問を呈せざるを得ない。少なくとも『同志社五十年史』の時点では、過去の伝記が根拠にされていたわけである。

  その後、資料的根拠を元に正史が編まれる。その代表が『同志社九十年小史』である。いわば学校が編纂した最初の正史と言ってよいであろう。その内容は、購入の日付、購入した相手などに関する記述は変わらないが、「同志社最初の土地は正確には五八〇五坪七合」「購入価格は当時五〇〇円」と坪数が変化し、金額も円表示となった

。坪数に関しては、後に紹介するように、新島が書き残した一次資料がその根拠となっている。『同志社九十年史』で新たに登場する内容は、「異教徒が土地を購入することの非常に困難であった当時に、六〇〇〇坪近くの広い土地が易々と入手できたことは何といっても幸いなことであり、山本が盲目となり薩軍に捕えられてここに幽閉され、幽閉解除後更にその土地を入手し、これが遂に同志社最初の敷地となった」という箇所である 5

。覚馬が薩摩藩二本松屋敷にて捕えられていたことは、竹内力雄氏の先行研究などに見られるように、一八六八年一月三日に蹴上で捉えられて以降、薩摩藩邸に幽閉されているので、事実と考えられる。しかしながら、覚馬が薩摩藩邸址をその後入手したという資料は管見の限り発見できない。また青山霞村著『山本覚馬』などに代表される覚馬に関する研究にも薩摩藩邸址の所有並びに購入に関する資料の提示はない。

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今出川キャンパス前史に関する一考察一四五   このように『同志社九十年小史』で、それまでの先行研究がまとめられた。しかし、『同志社百年史』においては該当箇所の表現方法が変化する。薩摩藩邸が覚馬所有であったこと、坪数、金額などは以前と変わらない表記であるが、『同志社百年史』通史編一では「一八七五年六月七日、新島はデイヴィスとともに蒸気船で淀川をさかのぼり、伏見をへて京都に入った。二人は河原町御池下ルに住んでいた山本覚馬を訪ね、彼が所有していた旧薩摩屋敷あとの桑畑を校地として譲りうけることの承諾を得た」という表現になった。つまり、一八六五年六月七日に覚馬を訪れた時には購入ではなく、承諾を得たことになっている。この文章の根拠となる資料は、後ほど紹介する新島が父・民治に宛てて書いた書簡である。ここで初めて伝記以外の一次資料に依った表現となるが、結局のところ、購入日時に関しては明記されていない。  実際に購入を明記した書籍は、一九九二年に刊行された『新島襄全集』第八巻で、一八七五年六月十日の項目に「新島はデイヴィスと共に再び京都を訪れ、学校用地として京都御所北側にある旧薩摩藩邸跡(開拓者名義、山本覚馬所有地)五エーカーの土地を五百五十ドルで買い受ける 6

」とある。この根拠はアメリカン・ボードが発行する雑誌Missionary Herald やデイヴィスの息子J・M・デイヴィス(J. Merle Davis )によるデイヴィスの伝記Davis-Soldier Missionaryであるが、同じく『新島襄全集』第八巻にある六月七日は先に『同志社百年史』で触れた内容を記しているので、纏めれば六月七日に承諾を得て、十日には購入したということになる。しかし、十日に購入したと断言するには、やはり一次資料による裏付けが必要である。

  他にも、検討すべき資料の記述がある。かつて薩摩藩邸址が開拓会社の名義となったとする先行研究がある。その根拠は後に紹介する「私学校開業、外国人教師雇入につき許可願」と題された新島直筆の資料である。河野仁昭氏がこの資料を用いて「新島襄の挑戦」(『新島研究』第九十一号  二〇〇〇年)にて「薩摩藩邸跡約五

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今出川キャンパス前史に関する一考察一四六 千八百坪は開拓社の名義にして山本が所有していた 7

」と開拓会社の関与を指摘しているが、開拓会社名義の土地を覚馬が所有していたことを示す客観的な他の資料は明示されていない。

  以上の先行研究史をなぞらえれば、如何に同志社の土地購入日時について諸説があり、しかもその根拠の曖昧さがわかる。そもそもは、薩摩藩邸を購入した当時の地券が現存しないことが状況証拠を収集して書かねばならない要因である。しかしながら、少なくとも一九七五年までは同志社内で入手可能な資料をもとにして主に考察がすすめられ、結論付けられてきたことは事実である。しかし、明治維新政府の廃藩置県に代表される行政改革の真っただ中で、新島が土地を購入する権利、環境、資格が存在したのかも含めて、薩摩藩邸購入の問題を明治初期の行財政改革の中で位置付けて考える必要がある。

  この問題点を早くに意識して書かれた先行研究が竹内力雄氏による「山本覚馬覚書」(四)(『同志社談叢』第二十四号、二〇〇四年)である。竹内氏は法務局や京都府庁文書、島津家の忠義公資料などを用いて、山本覚馬と薩摩藩邸址をめぐる諸問題にアプローチし、先述の開拓会社の問題にも考察を進めた。結果として、覚馬と開拓会社の明確な関係にたどり着くことはできなかったが、同志社外部の資料調査の重要性を示唆した。そこで本論では竹内論文の成果を踏まえ、主に京都府庁文書を用いて今出川キャンパス前史を再構築する資料を紹介したい。その前に、次節にてまずは既に刊行されている資料から本節で問題とした薩摩藩邸址購入に関する考察を進める。

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今出川キャンパス前史に関する一考察一四七

既出資料の再検討

  最初に検討すべきは、「私学校開業、外国人教師雇入につき許可願」と題された草稿である。この草稿は「私義此度当御府内相国寺門前ニ有之候開拓会社所有之地所を買求め、英学校を可相立企て候得共、何分資金ニ乏しく未タ学校建築之義ハ難相叶候、依而同寺門前旧御付屋敷之地所建屋等相求め、之を以て仮之学校といたし英学教授仕度候 8

」という文章で始まる。この草稿は一八七五年八月に新島の手で書かれた文章であり、薩摩藩邸址を購入したとされる二ヶ月後にあたる。この文言を再解釈すれば、八月の時点では資金不足のために敷地を購入できず、学校の設立も難しかったという意味に受け取れる。そうとはいえ、やはり六月の時点で覚馬から薩摩藩邸址を譲り受ける話があったことはある程度間違いないと考えられる。これを示す資料が、新島が民治に送った一八七五年六月八日付の書簡である。そこには次のようにある。

  昨日蒸気船ニ而淀川ニ遡リ上京致し、京師ニ於而学校建築之義相計候処、豈料らんや何之差遣ひもなく京師中指屈り之人物相談ニ及ひ呉れ、匆々六千坪程の土地を買受へき談判ニ相成り、当秋より学校造営ニ相懸るべき企ニ御座候、右ニ付大阪より京師之間数々往還仕らねばならざる次第ニ而、とても当夏帰省之義ハ相叶難くとそんし、甚残念ニは候得共是亦止むを得さるの次第、何卒大人ニ於而御海容可被賜候、且当地ニ於而学校相建候ニ付私事も寄留人ニ而ハ万事意之如くならす、是非々々此地之籍ニ入不申候而は甚不都合ニも可相成候間、何卒安中之戸区長ニ御依頼、西京之籍ニ可入方之向御立被下候様奉願上候、然シ六千坪の地相

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今出川キャンパス前史に関する一考察一四八 求候様の事ハ余り大ゲザニも世間に相聞へ候間外様へは何卒御内分ニなし置き、区長殿へは唯々私の籍を西京ニ転し度よし御頼み可被下候、私事も未タ事のならざる前ハ決し而外へも此事ハ談し不申候間左様御心得、私の心願も近々ニ成就すべきと御楽み可被下候

  ここから六月七日の時点で新島、デイヴィス、覚馬の間で薩摩藩邸址を新島が買い受けることがまとまったことがわかる。注目すべきは、新島が父に対して戸籍の送籍を請願していることである。既にこの時点で新島の戸籍は少なくとも安中で復帰していた。新島はその戸籍移動の理由を「当地ニ於而学校相建候ニ付私事も寄留人ニ而ハ万事意之如くならす、是非々々此地之籍ニ入不申候而は甚不都合ニも可相成候」としているが、送籍の請願はこの一回限りではなく、加えて、あと三回行っている。そして、それぞれの理由が異なる。二回目は二十三日後の六月三十日、次のような内容である。

  私義送籍状之義願上候処、寄留ニ可被致よし承知仕候、然なから寄留ニ而は不都合の事も有之候間、是非ニ住所を変へ士族より平民に相成候共不苦、何卒送籍状を御送被下、私義京師之人別ニ入候様仕度候、扨当分之内中京三十一区百一番地山本覚馬と者の内ニ同居ニ相成候間、左様御心得、御書状之義来月中ならバ山本之宅迄御遣可被下候 10

  新島はこの手紙の前に父から寄留とするよう勧められたことがわかる。しかし、「寄留ニ而は不都合の事も有之候間、是非ニ住所を変へ士族より平民に相成候共不苦」として、頑なに送籍を願い出ている。この手紙に

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今出川キャンパス前史に関する一考察一四九 おいては単に不都合とだけ記し、送籍を催促する明確な理由は明かしていない。次はさらに三週間を経た七月二十一日である。次のような内容である。

  七月十五日一緒奉呈、送籍状之義御催促申上候間、何卒匆々御取扱少しも早く送籍之義相叶候様仕度、左なく候而は学校ニ而耶蘇教を教候事之御許も可相願候間、是非京都之籍ニ為らされば不都合之角も可有之候 11

  最初の手紙から一ヶ月半を経ても、父は送籍をしなかった。ただし、新島遺品庫に残る資料から翌二十二日に父が安中の戸長に対して送籍願を送っていることがわかる。最終的に、右にある七月十五日の書簡(現存せず)も含めると新島は四回もの催促を行っている。四回目の理由は「学校ニ而耶蘇教を教候事之御許も可相願候」ということであった。このように理由が不明確、もしくは転々と変化していった背景には、学校設立を目指す新島を取り巻く環境が好転していく中で、どうしても戸籍を京都府に移す必要があったからと考えられる。しかしながら、新島が八月二十三日に京都府に提出したとする「私学開業願」草稿での住所は、「京都府上京三十一区四百一番山本覚馬同居」となっている 1(

。この草稿の存在が一回目に新島が父に送籍を願い出た理由を否定していることになる。ただし、この時点で戸籍が京都府に送られていた可能性は否定できない。

  さらに言えば、新島は九月十五日から二十七日の間に、覚馬の家から京都第二十二区新烏丸頭町に移っているが 1(

、ここは借家であり、新島の所有地ではない。また周知のごとく、同志社英学校は同年十一月二十九日に丸太町通寺町上ルにあった高松保実邸の半分を借用して開校した。新島は先述の「私学校開業、外国人教師雇入につき許可願」にて、薩摩藩邸址での開校が難しいので「同寺門前旧御付屋敷之地所建屋等相求め、之を以

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五〇

て仮之学校といたし英学教授仕度候」と、やはり薩摩藩邸址近辺での家屋付きの土地購入を考えていた。にもかかわらず、開校は借家でとなってしまったのはなぜなのか、大きな疑問が残る。これは送籍の問題が大きく関与しているのではないであろうか。さらに言えば、このころ代理人として新島に力を貸す人物が存在しなかったことを暗に示しているとも受け取れる。

  残念ながら、一八七五年七月二十二日以降、京都府へ新島の戸籍が移籍されたことを実証する資料は未発見である。しかし、翌一八七六(明治九)年になると、周知のように、同志社は薩摩藩邸址に同志社英学校を移転することになる。

  同志社の薩摩藩邸址移転について明記した資料は、「同志社英学校記事」(明治八年八月~明治十六年十二月)、「同志社英学校沿革」(明治八年八月~明治十七年一月)、「同志社記事」社務第十八号(明治八年八月~明治二十一年五月)、「同志社記事」(明治八年十一月~明治十六年十二月)の計四点で、全て新島の筆による。とりわけ、最初の三点の資料に関してはその記述はほぼ同じ内容である。一例として「同志社英学校記事」の記述を挙げると「九年五月、地ヲ上京第十区相国寺門前町ニ占ム、其ノ坪数五千八百五十五坪」、「九年六月十五日、校舎 99建築ニ取懸ル」、「九月十八日、相国寺門前新築之校舎ニ於テ開業ス」とある 1(

。「同志社英学校沿革」には同様の記述に加えて「地代価五百円」とある 15

。ここで注目すべきは「占ム」という表現である。一八七六年五月になってわざわざこのような表現を同志社の歴史として新島が記した意味を考える必要がある。

  さらに、もう一点の資料「同志社記事」(明治八年十一月~明治十六年十二月)には、前の三点の資料とは異なる左のような表記が見られる 16

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五一    明治九年六月五日、西京府迄学校建築之届出す    同月同日、相国寺門前地所之地券引替之願書出す    ○同月十五日、同所ニ於而学校建築に取懸れり   (中略)

    一七月七日  相国寺門前地券請取ル        相国寺前百八拾番地外地    七百五十六坪        同        二千七百八十五坪四合        御所八幡町百七拾一番合地   千七百三十九坪三合        岡松町百八拾四番地      五百二十五坪   (中略)

   九月十二日  相国寺門前同志社英学校之建築已ニ成ル    同  十八日  同志社英学校之開業   ここにある坪数を計算すると五千八百五坪七合である。新島はこの資料の欄外で坪数を計算し、五千八百五十五坪と間違っている。そのため、これが前の三点の資料に反映されたと考えられる。ただし、この地がその坪数、住所等から判断して薩摩藩邸址であることはまず間違いない。

  ここで注目すべきは、一八七六年六年五日に「相国寺門前地所之地券引替之願書出す」と、覚馬から土地を買受ける約束をしてから一年もの時間を経て地券の交換を申請していることである。これは先ほどの「占ム」

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五二

という表現と合わせて考えるべきであろう。新島は七月七日には新しい地券を受け取り、そこに記された坪数を「同志社記事」に書き記した。そして、この地での学校運営が実現した。

  以上の資料を検討すれば次のような仮説が考えられる。一八七五年六月七日、新島はディヴィスとともに山本覚馬を訪れ、覚馬の所有となっていた薩摩藩邸址を買い受ける約束をした。しかしながら、購入のために力を貸してくれる地元の有力者はおらず、戸籍が安中にある新島にとっては、土地の所有権を自らのものとすることはできなかった故に、再三再四にわたって父に送籍を懇願した。父は七月二十二日に安中戸長に送籍願を提出するが、京都府に送籍された時期は、少なくとも新島が「私塾開業願」を同年八月二十三日に提出した時点か、もしく借家を借りた九月中旬、あるいはそれ以降であった。そして、少なくとも翌一八七六年五月には、移籍や資金の問題が解消され、土地を所有することができ、六月五日には学校建築と地券取替を申請し、七月七日には地券を受け取ることで、薩摩藩邸址を新島の所有とすることができた。そして、学校の移転が実施できた。

  この仮説には、京都における地券と戸籍の関係に関する事例研究などによって、地券の所有に関する考察を進める必要がある。この仮説を検証することを今後の課題としたい。

今出川キャンパス前史の構築

  新島襄の薩摩藩邸址購入経緯に関する考察は今後の課題として、ここでは今出川キャンパス前史を、その土地所有者の変遷に着目しながら、同志社のキャンパスとなるまでの経緯について資料紹介と考察を進める。

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五三   既に見てきたように、同志社では新島による薩摩藩邸址購入までしか語られてこなかった。しかし、二〇〇四年に竹内氏の先行研究「山本覚馬覚書」(四)にて、相国寺→薩摩藩→京都府→開拓会社→新島襄という所有者の流れが明らかにされた。この節では竹内氏の論文に依拠しながら、それを資料で裏付けるとともに、この度の資料調査で新たに発見された資料を加えて、今出川キャンパス前史を構築したい。論旨の展開上、既に竹内氏によって発表された資料も本論で使用する。  そもそも今出川キャンパス前史を資料で裏付けて構築することを可能としたのは、伊藤真昭著『相国寺研究3  近世の相国寺』(相国寺教化活動委員会、二〇〇八年)の刊行である。これによって初めて相国寺所蔵の薩摩藩関係資料が一般の目に触れることとなった。この意味で本著は今出川キャンパス前史を明らかにする手がかりを提供した。なお、同書にも今出川キャンパス前史に関する記述があり、そこには相国寺→薩摩藩→相国寺→同志社という解釈がなされている。本著は伊藤氏の講演を収録したもので、この解釈は伊藤氏の解釈であるが、既に竹内氏の先行研究でも示されている通り、京都府の土地政策と京都府庁文書を見れば、薩摩藩邸址所有者の変遷は明らかである。なお、藩邸上地の概要は、鈴木栄樹・牧知宏「明治初年における在京藩邸処分に関する京都府行政文書の概要」(京都府総合資料館歴史資料課編『京都府行政文書を中心とした近代行政文書についての史料学的研究』北斗プリント社、二〇〇八年)を参考にし、鈴木氏には京都府庁文書の調査に関して重要な示唆をいただいた。また、京都府庁文書には『京都府庁文書目録明治編』の目録番号を掲載した。  さて、現時点で判明している土地の最初の所有者である相国寺は、その開山を一三五一(正平六・観応二)年夢窓疎石によるものと定め、一三九二(明徳三)年室町幕府第三代足利義満の発令のもと、現在の土地に大伽藍を完成させた、京都五山第二位に列する寺院である。荘厳な大伽藍を構えた義満ゆかりの寺院であるが、

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五四

江戸中期にあたる一七八八(天明八)年の大火以降、寺院の再建に苦労する。一部は再建が行届かず荒れ地となり、その地に目を付けたのが薩摩藩ということになろう。

  相国寺と薩摩藩の間で土地借用の契約が交わされるのは、一八六二(文久二)年である。その内容は次のようなものである。

       借用地證状一、御塔頭鹿苑院瑞春庵兩籔地合貳千七百貳拾    五坪餘、此借地米壹箇年分五拾四斛一、御境内大門町鹿苑院門前東西兩町石橋町

   九軒町合五町之敷地四千貳百貳拾壹坪九分    此借地米壹箇年分六斛     地坪數合六千九百四拾六坪九分余      借地米合六拾斛者     例歳御寺領銀納之和市を以、十二月十九日限無相違可相納     候事   今般前文之地面江修理大夫屋敷致造立候付大橋   小兵衞鈴木祐次郎兩名代を以當壬戌年より行

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五五   辛巳年迄貳拾年限借地之儀御頼申候處御領承  忝存候然ル上者向後御寺門仕來條令之廉聊  無違背為相守可申就而者御門前町儀出錢公役  等都而於當方可相辨候尤年限中掛役名代之者  品替等有之節者跡役之者江屹度申傳證状面  彌無相違樣取計可申候為後念借地文劵仍而  如件        松平修理大夫内         屋敷造營掛役

   文久二壬戌年九月         内田仲之助  ㊞         橫田鹿一郎  ㊞         村山  下總         伊勢勘兵衞  ㊞        同借地名代         大橋小兵衞  ㊞         鈴木祐次郎  ㊞相國寺

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五六

御役者衆中

  この資料は相国寺所蔵の資料で、先述の『相国寺研究3  近世の相国寺』(グラビアページ)に掲載されている。一八六二年から一八八一年まで六千九百四拾六坪九分余を年六十石で借用するという内容である。この翌年、既に数々の先行研究で指摘されているように、薩摩藩二本松屋敷が建立された。

  この二本松屋敷は坂本龍馬、西郷隆盛、木戸孝允、小松帯刀らが出入りした地で、幕末における歴史的な要所であった。しかしその後、戊辰戦争、明治維新を迎えると、明治新政府および京都府の土地行政改革で整理対象とされる。

  明治政府は、これまで諸藩に属していた土地と人民を国家に属するよう改革を進めていく。つまり各藩邸が処分対象となっていくわけである。まず明治新政府から出された藩邸に対する処分は、一八七〇(明治三)年二月の太政官布告第八十六号にある最初の上地令である。京都府庁文書の中に、この布告の写しがあり、次のような内容である。

    冩   京都ニ有之候諸藩之邸   宅地所近来往々荒蕪ニ   相成候場所不少趣右ハ   全ク地力ヲ廃棄シ候儀ニ付

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五七   不用之向ハ桑茶等植付  地力ヲ尽候様可致不及其  儀分ハ賣拂候歟又ハ上地  致候歟孰レ取極早々   京都府江可申出事

   但拝借地之分ハ返上可致

   事

   二月        太政官   京都府庁文書『政典』(明三─一)に収録された文書である。但し書きに借地は返却せよとある。これを受けて、京都府は早々に各藩邸に対し布告内容を周知させたと考えられる。諸藩はこの布告に対応して京都府へ文書を提出した。その中に鹿児島藩が提出した次のような文書がある。

  諸藩邸宅地所近来往々荒蕪ニ相成候   場所不少以来不用之向ハ桑茶等植付   地力を盡候様可仕不及其儀分者以賣拂候歟   又ハ上地いたし候歟何れ共取極早々可申

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五八   上旨御布告之趣承知仕候然処当藩錦   小路東洞院屋敷之儀ハ可賣拂候儀ニ   御座候間御聞置可被下此段申上候以上         鹿児嶋藩   この文書は土木掛が作成した『庚午年諸藩邸上地件』(明三─十九)に収録されている。これによれば、鹿児島藩は錦小路にあった藩邸を売り払う旨を京都府に伝えた。当時、京都の薩摩藩邸は大きく三邸が存在した。『庚午年諸藩邸上地件』では、既に一八六六(慶応二)年禁門の変で焼失した錦小路の藩邸に触れたのみで、伏見呉服町と相国寺門前にあった薩摩藩邸に関する資料は含まれていない。おそらくこの時点で鹿児島藩は残り二邸の処分方針を明らかにしていなかったからと考えられる。しかし、太政官布告には従わねばならないはずである。

  鹿児島藩の事例にみたように、一八七〇年の上地令で成果を上げられなかったからであろうか、明治新政府は一八七二年一月にさらに強力な意図をもった太政官布告第二十五号で二回目の上地令を通達した。その内容は次のようなものである。

  正月廿九日  諸縣へ   舊藩ニ於テ京攝其外ニ出張所等有之候分早々引纒候様相達置候處縣々區々ノ取計有之候テハ不都合ニ付右出張所蔵屋敷等悉皆有形ノ儘上邸可致候就テハ差向キ京阪ハ京都大阪兩府ヘ引渡其外ハ取調可伺出候事 17

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今出川キャンパス前史に関する一考察一五九   この布告を見ると、各県(一八七四年に既に廃藩置県済み)の諸事情を聞いていては埒が明かないので、そのままの姿で上地することとしている。この布告を受けて、翌月京都府は次のように府令にて周知した。  當府下ニ有之候旧藩々  之邸宅拝領買得ニ不拘  有形之侭上邸可致旨  御布告有之候条賣渡  或ハ譲渡等之示談有之候  とも一切関係致間敷候  事  右為心得相達ラル者也   壬申二月  京都府   この文書は土木課がまとめた『旧藩々邸奉還並売却件』(明四─二十六、二十七)にある。太政官布告を受けて、無条件で強制的に藩邸を上地することを通達した。この府令を見れば、一八七〇年の第一回上地令以来、売り渡しや譲渡などの諸事情で上地がうまく実施されてこなかったことが窺える。これが、「縣々區々ノ取計」という内実であろう。この府令に続いて「上邸細目」という資料が含まれており、「旧藩邸之上邸濟之分」の

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六〇

項目に他藩邸とともに「鹿児島藩二邸」が掲載され、その最後に「右者故障無之分」と記されている。これは何等差し障りなく上地処分が終了したことを意味していると考えられる。ここに鹿児島藩二邸と書かれていることが、かつての所有者である相国寺に借地が返却されなかったことを意味するものであろう。

  さらに続けて、「京都府下故藩之邸宅處置之次第」とする文書があり、鹿児島藩邸二邸に関する処分が記されている。まず伏見呉服町の鹿児島藩邸であるが、「一伏水呉服町一邸元鹿児島藩」とあり、その処分は「右京都府御用邸」とある。一方、相国寺門前町の二本松屋敷は「一烏丸通東江入相国寺門前一邸元鹿児島藩」とあり、その処分は「右地面内住居之もの相当之代價ヲ以御拂下ケ願候ニ付聞届可申哉」とあり、この処分は二月の上地処分後早々に検討されたと考えられる。つまり二本松屋敷は上地された直後から、その敷地内に住んでいた人物からの払下げ願に対応する検討がなされていた。上地されたにも関わらずその地に人が住んでいたとはどういうことなのか。これに関しては今後の研究課題である。

  さらに詳しい二本松屋敷の処分内容が同じく『旧藩々邸奉還並売却件』所収の土木課がまとめた「扣  舊藩々上邸箇所附」(明治五年五月)にある。該当箇所を左に抜き出す。

  壬申四月上邸     烏丸通東へ入相国寺門前   一元鹿児嶋藩邸  表口四百六十五間三尺一寸余    地坪五千八百五坪七分九厘    建家九ケ所       千三百三十坪壱分八厘

   土蔵五ケ所     五十九坪二分八厘

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六一   右邸ハ元同藩人共従来居住致  候ニ付御不用ニ候ハヽ相当之代價ニ而  御拂下ケ願出候事  二本松屋敷の上地は一八七二年四月には終了していた。その坪数五千八百五坪七分九厘が新島が購入したとされる薩摩藩邸址の坪数と一致することは注目すべき点である。しかし、一八六二年に相国寺が薩摩藩に貸与した坪数は六千九百四十六坪九分余であり、約千百坪の差がある。なぜ差が生まれたのか、その理由は現時点では不明である。  それよりも注目すべきは一八七二年五月には二本松屋敷が京都府にとって不要であれば、相当の代価で従来から住んでいた鹿児島藩の住人へ売り払うことが京都府で決定されていたことである。先にみた内容が、五月には決定内容となっている。  いまひとつ確認しておくべきは、二本松屋敷に住んでいた住人は薩摩藩出身ということである。この地は薩摩藩が借用して以来、当然同藩出身者が住んでいたことはわかる。また、一八六八年一月に起こった鳥羽・伏見の戦い以後、山本覚馬が捕えられてこの藩邸に幽閉されていた。覚馬が釈放されるのは、いくら遅くとも一八七〇年四月に京都府に召抱えられる時であるから、明治維新後も薩摩藩出身者が同藩邸に住んでいたことは間違いないであろう。しかし、一八七〇年二月には第一回上地令、さらに二年後に第二回上地令が発せられ、藩邸址が上地されたにもかかわらず、その後もそのまま住んでいたことになる。  この住んでいたとされる人物が元薩摩藩士族で一八七二年には滋賀県に出仕していた池田春苗である。『旧

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六二

藩々邸奉還並売却件』には、池田が京都府に払下げを願い出た文書が残っている。全文を左に挙げる。

     奉追願候口上書   一       私共儀    元鹿児島縣貫属之者ニ御座候處當    御府貫属編入被仰付難有次第奉存候    然ル處先達而奉願候通従来旧御縣邸    長屋住居仕罷在候間右旧御縣邸之儀    自然御拂下可相成儀候ハヽ至当之代金    を以私共江申請被仰付被下度奉懇願候    左候得ハ旧主之住居向建物与私共住宅之    分与を相残シ其余ハ桑茶植付等仕候而    永く旧主之恩儀も忘却不致候様仕度    内情ニ御座候間御差支無御座候ハヽ私共江    願之通被仰付被下度此段奉追願候    己上         池田春苗滋賀縣出仕中ニ付留守引受

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六三        士族         池田重好  ㊞         菅井誠貫  ㊞       池田重好  ㊞

  壬申        卒    五月        長野照徳  ㊞         小林為記  ㊞

 

  この次に続く土地購入の領収書も続けて挙げる。

      覚   一金貮千貮拾貮円       三拾三銭七厘七毛   右ハ元鹿児島御縣邸拂下ケ申請   代金奉上納候以上   右の文書は、池田春苗の留守役である池田重好が提出した。タイトルに「追願」とあるように、この文書か

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六四

ら、これ以前に出された文書の内容がわかる。それは、滋賀県出仕であった鹿児島県士族の池田春苗が京都府貫属へ編入を願い出たこと、同時に以前から長屋に住んでいる自分たちに薩摩藩邸址の払下げを願い出たことである。わざわざ池田が京都府貫属を願い出て、認められた後に再度払下げを願い出ているということは、京都府に戸籍を移さねば、土地購入は出来なかったことを示すのではないか。そうであるとすれば、新島が父に送籍を何度も懇願したこと、地券申請が覚馬との話し合いから一年も経てから実施された説明がつく。

  先に紹介した「扣  舊藩々上邸箇所附」は、右の文書の内容が反映されたていたわけである。そして、池田は一八七二年五月になり、身分的にも保証され、再度払下げを願い出たのがここで紹介した文書である。池田は上地令を踏まえて、屋敷と長屋以外の土地には桑や茶を栽培するとも説明している。この時の払下げ坪数は、「扣  舊藩々上邸箇所附」と合わせて考えれば、五千八百五坪七分九厘であることはまず間違いない。そして、日付はないが添付された領収書によれば、買い取り金額は二千二十二円三十三銭七厘七毛である。坪数は、新島が購入したとされる五千八百五坪七合にほぼ一致するが、同じ場所と断定するにはまだ検討の余地がある。また、新島はほぼ同じ坪数を五百円で購入しており、池田はその約四倍の金額で購入している。この相異は建築物の有無によると考えられる。つまり池田が払い下げを願い出た時には御殿などが顕在で、その建築物も払い下げ価格に含まれていたからであろう。

  『旧藩々邸奉還並売却件』に所収されている池田の文書はこの一点だけであるが、京都府庁文書『相國寺妙法院知積院養源院日吉院上地ニ関スル書類』(明治五─四〇)の相国寺関連文書内に池田の文書が三点収められている。これらの文書は、先に紹介した池田の文書に深く関係する。以下、紹介する。

  まずは一八七二年五月から三ヶ月後の八月晦日に京都府に提出された文書である。

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六五      奉願口上書   一        私共儀   従来拝借仕罷有候當地相国寺門前元鹿児島   御縣邸御拂下ケ奉願候處今般願之通被仰   付難有仕合奉存候就而ハ旧主之住居向建   物并ニ私共居宅相残其余桑茶種栽仕度   素志ニ御座候處右建物之儀ハ都而元相国寺   藪地取開候地所ニ而兼而上地ニ相成居候趣ニ   御座候間何卒右地所邸内在来之侭相当之價   を以御拂下被仰付御聞済之上地券御下渡被成下   候ハヽ永々安穏住居可仕難有次第奉存候此段   宜御聞済之程偏ニ奉願候已上         士族  池田春苗  印    壬申八月晦日       菅井誠貫  ㊞        池田重好  ㊞         卒   長野昭徳  ㊞        小林為紀大阪在勤ニ付留守引受        巌本氏孟  ㊞

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六六   京都府     御廰

  この文書により、池田が五月時点で京都府へ願い出ていた払下げが八月末日までに実施されていたことがわかる。そしてもう一点、池田に払い下げられた土地が、先述のように、約五千八百五坪であったことを傍証する資料ともなろう。すなわち、本文書によれば、池田はもともと薩摩藩邸時代に相国寺より借用した約六千九百坪土地すべての払下げを願い出ていたが、実際は「扣  舊藩々上邸箇所附」に記された坪数だけが払い下げられた。よって池田は「何卒右地所邸内在来之侭相当之價を以御拂下被仰」と願い出たと考えられる。

  次に挙げるのは、右の文書から約七ヶ月後に池田春苗名義で京都府知事に提出した資料である。

    開拓之儀ニ付奉願口上書一  上京第十區相國寺門前旧鹿児島縣邸昨壬申年    八月願之通御拂下被仰付難有仕合奉存候然ル處    右邸地之内元相國寺上地拝借地之分同様御拂下    之儀昨年引續奉願候處追而御沙汰被成下候    趣被仰渡置難有奉存候就而ハ追々悪草萌出    候時節ニ差向候ニ付早々開発仕度奉存候尤桑    茶種栽之儀ハ一月之遅速ニ而繁殖之勝劣も

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六七    殊之外相違有之候儀ニ付不取敢開発取掛り    申度此段奉伺候彼是遅延致居候而ハ従前之通    悪草繁茂致シ開拓之手間等相嵩有益之    場所又壱ケ年等閑ニ相荒シ置候儀無益之事ニ    付何卒右取懸り之儀宜御聞済被成下置追而    御詮議之上御拂下被仰付候共此侭拝借被仰付候    共御沙汰ニ随ひ可申儀与存候間此段御聞済    被成下候様偏ニ奉懇願候以上        士族  池田春苗   印     明治六年第三月廿九日      戸長  鈴木裕次郎  ㊞    京都府知事長谷信篤殿   この文書から、昨年八月末に願い出た内容、すなわち、相国寺から借用した薩摩藩邸の敷地全ての払下げが実現したこと、さらには、池田がこの七ヶ月間の間に借用していた、京都府が相国寺から上地した土地の払下げをも願い出ていたことがわかる。池田は、借用地払下げについては京都府より沙汰があるとの連絡を受けていたが、一刻も早く開拓に着手したいと願い出た。「開拓之儀ニ付奉願上口上書」とはこの意味である。

  右のように池田が申し出た借地払下げの詳細は、右の文書の五ヶ月後に池田が京都府知事に提出した文書よりわかる。

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六八      拝借地御拂下願書一上京第十區相國寺門前町旧鹿児島縣邸   御拂下之儀奉願候處元沽券地之分凡   五千七百坪余先般申受被仰付難有   奉存候就而者右邸地江桑茶栽培仕度   候處素ゟ奉願候通元沽券地之儀ハ多ク   石地ニ付右地續邸内元相國寺上地藪地   開拓拝借地凡貮千七百坪余之分自然   御拂下可相成儀ニ候ハヽ何卒同様申請   被仰付被下度左候ハヽ御蔭を以種栽   培養方等も行届難有仕合奉存候此段   單ニ奉懇願候以上        上京第十區相國寺門前町         士族  池田春苗   印   明治六年八月       戸長  鈴木裕次郎  ㊞

 京都府知事

  長谷信篤殿

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今出川キャンパス前史に関する一考察一六九   右の文書には池田が最初に手にした薩摩藩邸址の坪数が約五千七百坪とあるが、これは「沽券地之分」とあるように、池田が手にした地券によって認められた坪数と考えられる。既に「扣  舊藩々上邸箇所附」で見た坪数とは約百坪の差があるが、それが意味するところは現時点ではわからない。  注目すべきは、池田が手に入れた薩摩藩邸址が「多ク石地」であるため、桑や茶の栽培に適さないと記していることである。そして、これを理由に地続きである相国寺からの借地を払下げるように願い出ている。これは、五ヶ月前に提出した請願書に対し、借用地の件で京都府からの連絡が無かったために申し出たものと推測される。  池田が購入した薩摩藩邸址の正確な位置が確定できないため断言することは難しいが、薩摩藩邸址を「多ク石地」と言うには少々疑問が残る。【図一】は二〇一〇年八月より実施されている本学歴史資料館の薩摩藩邸址の発掘作業現場で撮影した土地の断層面である。明治初期と考えられる地層部分に明らかに耕作した形跡もしくは耕作可能な地層が認められる。撮影地点は明らかに薩摩藩邸であることは間違いなく、しかもこの形跡は広範囲にわたる。明らかに耕作可能であるにもかかわらず、池田が京都府に申し出た「石地」という表現は何を意味するのか。確かに発掘場所には石が捨てられ堆積した場所が点在するが、それを「多ク石地」と表現する理由にはならない。  『相國寺妙法院知積院養源院日吉院上地ニ関スル書類』所収の池田春苗関係文書はここで終わっている。よって、借用地が払い下げられたのかはこの時点ではわからない。『相國寺妙法院知積院養源院日吉院上地ニ関スル書類』は一八七八年までの文書が収録されているはずなので、その後はやり取りが行われなかったのか、または改めて資料調査を進める必要がある。

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七〇

  以上をもって、今出川キャンパス前史をまとめると次のようになろう。相国寺は一三九二年室町幕府第三代足利義満の庇護のもと上京の地に開山して以来、その土地を守ってきた。しかし、一七八八年の大火以降、寺院の再建に苦労し、一部は藪地のままであった。その後、幕末になると薩摩藩が相国寺の藪地となっていた部分を一八六二年九月に借用し、翌年二本松屋敷を建設する。そして、戊辰戦争を経て明治新政府が樹立されると、地方の行政改革が断行される中、一八七〇年の第一回上地令、一八七二年の第二回上地令を経て、一八七二年四月に薩摩藩二本松屋敷は京都府に上地される。しかし、同年五月の時点で旧薩摩藩士の池田春苗の払下げ願に応じて薩摩藩邸址約五千八百坪が約二千二十二円で払い下げられることが決定され、少なくとも同年八月には池田春苗の所有地になった。ここまでは一次資料をもとに確認できた所有者の変遷である。この度、池田春苗という人物の介在が初めて確認できた。

  しかしながら、結局のところ池田から新島までの流れ、つまり一八七三年六月から一八七五年六月までの土地所有者を資料的に裏付けすることができなかった。代わりにいくつかの疑問点と今後の課題が見えてきた。まず、一八七三年六月の時点で池田の所有地は少なくとも約五千七百坪、借地は二千七百坪であった。合わせて約一万坪もの土地を所有しようとした意図は何であったのか。さらには、池田は薩摩藩邸址を「石地」とし

【図1】発掘調査地の断面((010年10月撮影)

    耕作可能な地層を確認できる。

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七一 ていたが、現在の発掘調査ではなぜ耕作もしくは耕作可能な形跡が認められたのか。これらの問いに対して、竹内氏の先行研究を合わせて考えれば、池田が開拓会社の関係者であったか、もしくは池田が開墾地に向かない土地を開拓会社へ売り、開拓会社が二年余り開墾に従事したという可能性が考えられる。従来の定説も考慮すれば、この二年間に山本覚馬が何らかの形で介在し、新島は土地を得ることができたと考えられよう。しかし、今回は覚馬の明確な介在を立証することはできなかった。これらの問題点を今後の課題としたい。

相国寺関連資料の紹介

  この度の調査では、相国寺が、薩摩藩、京都府、そして同志社へと土地の所有権が移るにあたり、何らかの形で関与したのか、ということも課題の一つであった。京都府総合資料館には相国寺関係の資料が多く所蔵されており、これは既刊の目録から知ることができる。ここでは、『相國寺妙法院知積院養源院日吉院上地ニ関スル書類』所収の一八七三年から一八七五年に該当する文書を紹介し、先ほどの課題の一つの答えを見出したい。

  まずは社寺に関する明治政府の政策を確認しておく。社寺に対して出された上地令としてよく知られる法令が社寺領上地令であろう。一八七一年正月五日に出された太政官布告第四号がこれに相当する。その内容を抜粋すると、「諸國社寺由緒ノ有無ニ不拘朱印地除地等従前之通被下置候處各藩版籍奉還之末社寺ノミ土地人民私有ノ姿ニ相成不相當ノ事ニ付今度社寺領現在ノ境内ヲ除ノ外一般上知被仰付追テ相當禄制被相定更ニ廩米ヲ以テ可下賜事 18

」とある。ここに明治新政府の社寺への土地政策の基本指針が明らかである。すなわち、藩の処

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七二

分と同様に、寺社においても土地と人間の私有を最低限の土地以外認めないとしている。

  周知のように、この社寺領上地令が出る以前に、既に仏教寺院には厳しい時代となっていた。一八六八(慶応四)年の「神仏分離令」一八七〇年の詔書「大教宣布」などによって、国家が神道を中心に据えるようになり、その反面、廃仏毀釈という世論を生みだした。求心力を失い、疲弊していた寺院に対して、社寺領上地令がもたらした影響は深刻であったと考えられる。こうした世の中の状況を、ふまえて、以下京都府庁文書に含まれる相国寺関連の文書をみていく。

  『相國寺妙法院知積院養源院日吉院上地ニ関スル書類』に所収されている最初の相国寺関連の文書は、一八七二年十一月に京都府に提出された次の文書である。

    請地奉願上口上書   一當寺境外上地之分藪地并荒蕪地    之地所従前於本寺并諸塔頭所持仕    候因縁を以何程ニ而茂御規則之御地代    金上納可仕候間御拂下ケ被仰付候様仕度    此段奉願上候就而者當節竹木伐取之    好時節ニも相成候ニ付御拂下ケ被仰付候    得者追々開拓仕地面相應之良木等    植付物産之一ニも相備御定則之税納ハ

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七三    勿論御國益ニ相成候様仕度奉存候    尤右場所之儀者天明戊申大火類焼    之寺跡ニ御坐候而荒蕪地ニ相成居候處    於一山中竹木植付養育追々繁茂    仕候折柄先年自然枯ニ而一圓ニ相枯候ニ付    又々世話仕漸々當今ニ至候間何卒    格別之御仁恵を以当寺一山中ヘ御拂下ケ    被為成下候得者永世相續難有仕合奉存候    右願之通御聞届被為成下候様偏ニ奉    願上候以上          相國寺           并一山總代    壬申十一月二日  普廣院  飯田道一  ㊞        瑞春庵  本郷巨渠  ㊞        慈照院  櫻井玉岫  ㊞    前条之通相違無御座候以上    壬申十一月二日    上京第十區相國寺門前町        戸長  鈴木祐次郎  ㊞

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七四     京都府知事

    長谷信篤殿   最初に断っておけば、上地された土地の払下げを京都府に申請した寺院は相国寺だけではない。どのような寺院も例外なく上地され、その後その地の払い下げを請願している。相国寺の場合も、正確な坪数は不明だが、かなりの土地が上地された。その中で、まずは普廣院、瑞春庵、慈照院の和尚が連名で払下げを願い出た。土地の買い取りに加え、租税の支払い、開拓の実施など国策に従う意図を示した歎願書とも言うべき内容である。そして、払下げを願った土地は三塔頭の和尚が管理する土地だけではなく、上地された全ての土地を対象としていが、次の文書にみられるように、京都府からの反応は無かった。

  相国寺は四ヶ月後に次のような文書を提出した。

      請地奉再願口上書   一先般御上地ニ相成候當寺境外藪林等之    地所御拂下ケ被為成下度段去ル壬申年十一月    奉願上置候得共猶又奉再願候本寺諸塔    頭共永年竹木植付養育仕来候場所    加之先代墳墓等も有之候ニ付何卒本寺并

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七五    諸塔頭へ御拂下ケ被為成下候様奉願上候    右御聞届被為成下候ハヽ追々開拓之上適宜    之植物栽培仕度奉存候尤御地代金并    税金等御定則之通上納可仕候間右願之通    御拂下ケ御聞届被為成下度偏ニ奉願上候以上         相國寺并一山總代        普廣院  飯田道一  ㊞    明治六年三月十七日  光源院  中嶋元徴  ㊞        常徳院  中原東岳  ㊞    京都府知事

    長谷信篤殿   今度は普廣院、光源院、常徳院の和尚の連名による請願書である。前年の請願書に対する京都府の反応が無かったことから相国寺は再び願い出た。京都府からの反応が無かった理由は、先の池田春苗の文書にみたように、既に売却、もしくは借地としていたからであろう。実際、池田は右の文書が提出されるときには相国寺からの上地した土地のうち二千七百坪を既に開拓用地として借用していた。当然、相国寺の諸塔頭の和尚はこれを認識していたであろうし、このままでは自分たちが管理していた先祖代々受け継がれてきた墓をも取り壊さ

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七六

れると危惧していたと考えられる。だからこそ、何としてでも取り戻したかったのではないだろうか。相国寺には京都五山第二位としての意地やプライドも当然存在したと考えられるが、文書中の「加之先代墳墓等も有之候」という文言は諸塔頭の和尚の焦りの表れとも受け取れる。当然、京都府にしてみれば国策に照らし合わせれば、聞けぬ要求である。

  さらに五ヶ月後、相国寺は京都府に対して次のような文書を提出した。

     上地御拂下ケ奉願口上書   一当寺境外上地之場所先達而御分間被成下候    ニ付当月七日御拂下ケ之儀奉願候處御調中ニ付    追而御沙汰之旨奉承知候得共猶又奉追願候    何卒上地場所一圓并竹木共当寺江御拂下ケ    之儀速ニ御聞届之程偏ニ奉歎願候尤竹    木并地代金之義ハ御規則之通何程ニ而も上納ハ    勿論追々開拓仕地面相應之良木植付税金    等モ御定則之通上納可仕候間格別之御仁憐    ヲ以右願之通御聞届被為成下候様幾重    ニモ奉懇願候以上       上京第十區  相國寺一山総代

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七七    明治六年八月廿五日  光源院  中島元徴  ㊞        冷香軒  藤邑文瑄  ㊞        慈照院  櫻井玉岫  ㊞         上京第十區相國寺門前         戸長  鈴木祐次郎  ㊞   前書之通申出候ニ付奥印仕候以上         區長  猪飼豊治郎  ㊞   京都府知事

   長谷信篤殿   光源院、冷香軒、慈照院の三塔頭の和尚らの連名の文書である。この文書はまるで池田の文書に呼応しているかのようである。先に見たように、池田がこの時に京都府に対し、相国寺からの上地分二千七百坪の払下げを願い出ている。相国寺がこの事実を知っていたかは不明であるが、先の文書に続けて池田と同時期に京都府へ相国寺が文書を提出しているのは偶然であろうか。何よりも池田が所有していた土地は「上京第十區」であり、相国寺の文書中に見られる各塔頭の所在地も「上京第十區」とある。この一致は見過ごせない。しかし、現在確認できる池田の文書は一八七三年六月までであるため、今後さらに資料調査を進める必要がある。

  ここからは現時点で把握している一八七五年十二月までの相国寺関連文書を紹介する。まず、相国寺は右の

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七八

文書の二ヶ月後に京都府の国重政文に次のような文書を提出した。この文書は京都府庁文書『明治六年七年社寺土地事件』(明六─二十七)所収の史料である。

     御請書   今般現在境内御除之外一般上地被   仰出候ニ付當寺現在境内外御定繪   圖面并御書付壱通御渡御達之趣   奉畏候依御請書奉差上候以上        上京十區    明治六年十月  相國寺住持    教道順國 不在中ニ付        荻野獨園  ㊞         同塔頭瑞春庵         高田宗黙  ㊞    京都府七等出仕

   国重政文殿   この文書は京都府の「御達」に従って提出された。絵図面と書付一通を提出したとあるが、簿冊には残され

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今出川キャンパス前史に関する一考察一七九 ていない。次の文書にあるように、絵図面と書付は後に相国寺に返却されたと考えられる。既にみてきたように、相国寺は上地された敷地の回復の為に国策に対応する形で要望書を作成してきた。本文書も、京都府の方針に従いつつ、当然失地回復を念頭に置いての対応と考えられる。  相国寺は絵図面と書付を提出した直後に次のような文書を京都府に提出している。以下に挙げる文書は『相國寺妙法院知積院養源院日吉院上地ニ関スル書類』所収の文書である。    上地場所御拂下ケ奉願口上書   一當寺境外上地之場所御拂下ケ之儀去ル

   八月七日同廿五日両度奉願置候處御調中ニ付    追而御沙汰之㫖奉承知候然ル處境内外    之繪圖面并御書付等御下ケ渡被成下難有    奉存候就而者兼而奉願置候通上地場所    一圓并竹木共御拂下ケ之儀御聞届之程    偏ニ奉懇願候尤竹木并地代金之儀者    御規則通上納ハ勿論追々開拓仕地面    相應之良木等植付税金等も御定則通    上納可仕候猶又右上地場所之儀者天明    戊申正月大火之節類焼塔中之寺跡ニ御

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今出川キャンパス前史に関する一考察一八〇    座候而荒蕪地ニ相成居候處於一山中竹木等    植付養育仕候処追々繁茂仕候折柄    先年自然枯ニ而藪一圓ニ相枯候ニ付又々世    話仕候処漸々當今之姿ニ相成候尤右様    場所ニ付塔中向先代之墓所等も處々ニ    散在罷在候ニ付何卒越格之御仁恵ヲ    以當時一山中江御拂下ケ被為成下候得者    寺門永世相續之基本トモ相成於当寺    并一山中難有仕合奉存候右願之通御聞    届被為成下候様幾重ニ茂奉懇願候以上          上京第十區           相國寺一山総代    明治六年十月十二日  瑞春菴  高田宗黙  ㊞        桂芳軒  奥浣谿   ㊞        慈照院  櫻井玉岫  ㊞    上京第十區相國寺門前町         戸長   鈴木裕次郎  ㊞    右之通申出候依而奥印仕候以上

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今出川キャンパス前史に関する一考察一八一         區長   猪飼豊治郎  ㊞         副區長  角新助    ㊞    京都府七等出仕

     國重正 ママ文殿   瑞春庵、桂芳軒、慈照院の三塔頭連名の文書である。毎回塔頭名が異なる理由は不明であるが、文書中に「一山中」の敷地払下げを願い出ていることから、その時々の代表者であろう。更に詳しい分析は相国寺所蔵の資料を調査する必要がある。

  右文書によれば、相国寺は、二度の請願書に加え、京都府の指導に基づき絵図面と書付を提出したにも関わらず、京都府から何も連絡がないため、再び願い出た。絵図面と書付は文書中にあるように、すぐに返却が認められたようであるが、上地分への対処は一向に認められなかった。先に池田の事例でみたように、池田が借用していた相国寺上地分二千七百坪以外も誰かが借用していた可能性もあろう。

  この四ヶ月後に相国寺は再び次のような請願書を提出した。

    上地場所御拂下ケ奉願口上書一當寺境外上地之場所一圓并竹木共   御拂下ケ之儀去ル明治五年十一月二日奉

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今出川キャンパス前史に関する一考察一八二   願候其後同六年三月十七日同八月七日同   廿五日同十月十二日都合五ケ度迠奉歎願   置候得共今以何等之御沙汰不被   為成下候ニ付而者實以當惑仕候向後   経濟之法方難相立一同痛心仕候何   卒格外之御仁恵ヲ以連印之者共   一同江御拂下ケ之儀速ニ御聞届之程   偏ニ奉懇願候尤モ竹木并地代金之   儀者勿論年々地税金等モ御定則之   通り上納可仕候而追々開拓仕り地面相   應之良木等植付聊御國益ニモ仕度   奉存候且又左之連印之者共先代之   墓所モ右藪地之内所々ニ御座候ニ付   何卒寛大之御所置ヲ以御拂下ケ被   為成下候得者重々難有仕合奉存候   右願之通り御聞届之段幾重ニモ奉   願上候以上        上京第十區

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今出川キャンパス前史に関する一考察一八三         相國寺門前町    明治七年二月十七日  同塔頭普廣院住職  牧野冝厚   ㊞        同   巣松軒住職  久米田義達  ㊞        同   諸法院住職  管元禎    ㊞        同   瑞春庵住職  高田宗黙   ㊞        〃   慈雲庵住職  肥田周猷   ㊞        〃   光源院住職  中島元徴   ㊞        〃   長得院住職  藤邑文瑄   印        〃   冨春軒住職  桑室温宗   ㊞        〃   豊光寺住職  中原東岳   ㊞        〃   桂芳院住職  奥浣谿    ㊞        〃   慈照院住職  櫻井玉岫   ㊞        〃   善應院住職  中村介岩   ㊞        〃   大智院住職  宮﨑憲道   ㊞    東上中ニ付闕印    〃   心華院住職  萩野獨園          上京第十區

       相國寺門前町        戸長   鈴木祐次郎  ㊞

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今出川キャンパス前史に関する一考察一八四    右之通申出候ニ付奥印仕候以上        副區長   南新助  ㊞        區長    猪飼豊次郎  印    京都府知事     長谷信篤   十四の塔頭が連名で提出した通算六度目になる文書である。これまでに紹介した文書と異なる点が二つある。一つは経済上の理由を挙げたことである。各塔頭がどれほど経済的に逼迫していたかが窺える。二つ目は連署に並ぶ塔頭の数が大幅に増加したことである。過去の請願に対する不満、相国寺が直面する深刻な状況など様々な要因があっての結果であろう。過去の文書とは込められた意図の違いをうかがえる。

  この後、相国寺に上地された土地が返却される可能性がでてきた。右の文書から九ヶ月後の一八七四年十一月二十九日内務省達乙第七十二号にて府県に対して次のように通知された。

  舊社寺領上地處分ノ儀ニ付テハ逐々布告ノ旨モ候處開墾ノ田畑買得ノ地所等ニ至テハ其社寺或ハ舊神官僧侶ニ可屬種類モ可有之處其區別判然不相立ヨリ舊神官僧侶トモ私有ノ産ヲ失ヒ候向モ有之哉ニ相聞憫然ノ儀ニ付今般社寺上地跡處分規則別紙ノ通相定候條從前ノ處分此規則ニ抵觸候分ハ改正可致積ヲ以原由詳細取調來明治八年二月ヲ限リ當省ヘ可伺出此旨相達候事 1(

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